1. グッドモーニングボイス
  2. 【720】対話の必要性
2022-12-20 39:49

【720】対話の必要性

タスクシュート は定義できない
00:05
おはようございます。みんなのセラピー心理学、第720回かな。
12月20日の火曜日、7時48分ですね。これも取って出しです。
この方法がやっぱり正解だなって思えてきましたね。
週に3回はやると。週に3回できたらよしとして、あとはもうオプション。
これがやっぱりいいんだろうなと思いますね。
取っておいて水曜日に出すとかは、全然僕には向いてないんですね。
要するにやり方として。
何それによるメリットって、聞く方がスケジューリングできるって意味ではあるんでしょうけどね。
そこはもう諦めてもらおうと思うようにしました。
それに僕が価値を見出せないと、そういうことなんだろうなと思います。
今日は行き当たりばったりでやるっていうことなのかな。
タイトリングもテーマもめちゃくちゃですけれども、何しろ何も考えてませんからね。
さっき娘を駅まで送ってきて、その後可燃ごみのごみ出しをして、
そこら辺にある朝ごはんのやつを片付けて、そのまま収録に入っているというわけで、
何かを考えるような余地はどこにもなかったんで、
5時20分に起きてからは、なりゆき任せてここに座って喋っているという流れですね。
下にマイク置いときゃいいのかなと思うんだけど、
でも上で撮っちゃうこともありますからね。
上で撮った時は夜なんで、撮って出しはしないんですよ。
一応これ朝に出すっていうようなつもりでいるから。
そんな感じでですね、何もまだ考えていないわけですね。
昨日はね、タスクシュート協会の方の2日間にわたるトレーニングというですね、
壮大なネタがあったからよかったんですけど、
これは昨日で使い切った感がありますんで、
どっちにしても私はほぼ何の記録も残しておりませんから、
ほんのちょっとメモ書きをしたという程度で、残してないんでですね。
残していたとしてもそんなものはネタにはならないんでね。
それを3回に分けて話すとかは論外だと思うんで、
いいんですけれども、いいというか、当然そういうつもりはなかったんですけれども、
今日は何の話をするのかといったことはまだ決まっておりません。
まあでも決まっている回というのは700回あるうちの100回もないんでね。
7回に1回は絶対決めてないと思いますから。
700回のうち600回以上は気分で喋ってますからね。
03:00
今日なんかは多分、昨日言った通りですね。
これを覚えてたっていうのがいいな。
カオスなんですけれども、
そうそう、2023年を目処にですね。
だからもう明日から変えるかもしれないですけど、このタイトル変えます。
タイトルとかを一貫させる必要も別にないなということに気づいたんで、
タイトルももうどんどん変えていこうと思っております。
まだどう変えるかをですね、確定はしてないんですけど、
聞くセラピーか話すセラピーかトークセラピーか、
このあたりにちょっと今年あたりからセラピーまとめていこうかなという、
漠然とした思いがあってですね。
倉園さんのあれですよね、ラクザシリーズに結構インスパイアされていて、
あれ唐突にですね、倉園さんがなんか調子を崩されて、
そこから復帰してガラッと帰られたんですけど、
あれは絶対いいことだったってなんとなく感じていてですね。
私はそれを真似る理由は全くないんで、ガラッとは変えないんだけど、
自分だけで決められるものはポンポン変えていこうというふうに、
なんとなく思うようになって、
で、このタイトルにしたんだけど、
タイトルを喋るたびに長いっていう意識がね、
私の中に入ってくるので、もっと短くしようと思っています。
来年、ただね、もしかすると対話というタイトルは悪くなかったと思うんで、
つまりセッションの話なんですけども、
佐々木昌吾と60分対話するですね、
年末になってわーっと、あっという間に枠いっぱいになって、
1回目以来なんですよね、こんなに早い段階で枠いっぱいになったのは。
それでこれ対話の方がいいのかなと思いつつ、
もう先送りセラピーにしたいなという、結局短くしたいんですよね、私は。
できることならば。
自分が喋るとき楽だから。
なんか佐々木昌吾と60分対話するとかいうのは、
めんどくさいなっていう意識が必ず入ってきちゃうんで、
対話いいのかもしれないと思って、
対話括弧セラピーとかにしようかと思うんですけど、
なんかもう長いのにさらにくっつけて長くするっていうのもあれなんで、
どうしようかなというふうに思っておりますが、
どうしようかなというところで、
多分括弧セラピーかな、
括弧対話っていうのだと対応をつける意味がほぼ僕の中ではない気がするんですよね。
ちょっとこの辺を考えつつ、
来年からですね、
昨日、あ、昨日じゃないな、
一昨日、土日でやったこれを受けてですね、
やっぱりリアルやりたいなと、
単独リアルもやりたいなと思うように予約なったんで、
家族の人がですね、
すごく大半端でしょうみたいな感じで、
それ今はそこまで気にするかっていう感じもするんですけれども、
僕は別にタバコ吸うわけじゃないし、
糖尿病なわけじゃないし、
06:00
そんなことが本当に関係あるのかどうかは、
すごく疑問だと思うんですけどね。
基礎疾患もないし、
ババかいとはもはや言えないんですけれども、
でも別にね、
ワクチンも普通に何度も接種しているし、
全然なんてことないわけですよ。
これでそこまで気にしなきゃいけないんだろうかと、
思うんだけれども、
別に飲みに行くってわけじゃないですしね、
思うんですけれども、
心配するというのならば、
クラゾノさんの言う、
Good Vibesで言う、
怖い人に会わせるというのはあるんで、
あるんだけれども、
本当にめんどくさくなってきたなというのもありまして、
でも心配を押してやるということにしたとして、
そこまで収益上がるんですかと言われると、
リアルのセミナーというのは、
なんだかんだお金がかかるので、
私の場合は神奈川の外れに住んでいて、
交通費もかかるので、
大変微妙なところはあるんですよね。
ほとんど意味がないわけじゃないけど、
やりたいからやるんでしょうと言われれば、
そうでないとも言えないような話なのでね。
でもやったほうがいいんじゃないかなというのがあるので、
何かしらうまいことを見出してやってみよう、
みたいなのは今考えております。
それもですね、
先送りを軸にしたやつを一つと、
だから提供させていただくサービスとしては、
先送りという課題。
これはもう私は先送りというのは、
先送りというのは、
自分の心理、自分のためのセラピーというものを、
何らかの話でセラピーが必要だというものを
炙り出すためのシグナルだと思うべきだと思うようになったので、
その辺のことについて、
割と深く突っ込んで知りたいという人向けに、
これは講座を一つ作ろうというのが、
今の段階の若干の構想ですね。
この化学構想自体は極めてコンパクトなものなので、
そんなに大掛かりにあるようなものじゃないですしね。
会場もよくあるタイプの、
でもやっぱり葉っぱ心配されてるから、
人数に対しては入れ物をでかくしなきゃなというのは
ちょっとあるんですけど、
せいぜい十数人入れればいいところに、
人数に入っていただくというのがいいかなと思って考えております。
あともう一つですね、
これもずっと考えてたんですけど、
タスクシュートなりで、
タスクシュートだけじゃないんですけどね、
ログ撮るじゃないですか。
このログを使った、
こっちは緊急で自分の心理メンタル面を何とかしたいと。
グッドバイブスっていうものが、
私のすでに監柱というのかな、カテゴリーと、
09:02
倉園さんと一緒にやらせていただいているファクトリーもあるから、
グッドバイブスでいいんですけれども、
セッションでいいんですけれども、
それとはちょっとことにして、
悩みというものを、
悩みがあるっていうのではなくて、
自分はそういう性質でして、
例えばHSPですみたいなね、
人生そのものが苦ですみたいな、
これもセッション、
つまりグッドバイブスの方に持っていっていただければいいし、
そういうふうに言うこともあるんですよ。
グッドバイブスを倉園さんに聞いてみてくださいと、
直接言うこともあるんだけど、
いろんな、
それこそ先送りなんですよね。
先送りしたいということや、
自分を変えられたくないというのかな、
変わりたくないという気持ちもあったり、
様々なんですよね。
あるいはタスクシュートのような、
心に触れてはくるんだけど、
感じとしてはライフハックじゃないですか。
メンタルなんだけども、心ではないみたいな、
そういう非常にですね、
ご本人の中で、
これがいいとは思わないけど、
こうしているという状態を維持しても痛いんだみたいな、
それがまさにグッドバイブスのテーマだと思うんですけどね。
それで、例えばタスクシュートを使うことによって、
とにかく無視はいいかもしれないけど、
それだけで改善を持っていきたいという方には、
結局グッドバイブスをお勧めしたからといってですね、
勧め方にもあるんでしょうけど、
もはやそれは営業トーク能力みたいなものになってくるので、
勧めたからといって、
乗ってくるとは限らないというケースも、
僕は何度か体験するようになって、
何度かこのタスクシュートだけというのかな、
これを入り口にメンタル面の話に持って、
メンタル面の話じゃないな、
ケアに持っていける方法があるんじゃないかと思うようになってですね、
そして先日永田カビさんの水蔵を壊されたお話、
ちょっと体が痛くなってくるような話なんですけどね、
酒を体中に浴びせかけて痛めつけるみたいなね、
ここまではもちろん無理だしないとしてもですね、
何かいらない痛みをいつもくらっているという方に向けてですね、
タスクシュートのログがあるという方の場合は、
特に既にログがあるんだからできることがあるだろうと、
PDCAじゃなくてですね、
これはもうここをですね、
私は割と明瞭にさせておこうと思っているんですよ、
12:00
これもまたややこしいことがあって、
じゃあタスクシュートでPDCAしちゃダメなんですかっていう話になっちゃうんですよね、
この話に出すと、
ということは全く関係なく、
そもそもライフログってあるじゃないですか、
タスクシュートじゃなくてもログを取るという話はあるわけですよね、
例えば日記つけてますって人もいるわけじゃないですか、
日記療法って言葉もありますんでね、
セラピーの世界では、
とにかく日記療法をPDCAからいったら切り離すってことなんですよね、
日記をつけて改善するっていうメンタルでは、
多分絶対に良いことが起きないというタイプの人は、
かなりの数いるはずで、
その人たちに向けて言えることがあるなっていう風に、
私は最近、
これもやっぱりだから土日の影響がでかいんだな、
痛感したんですよ、
だからこのPDCAというものをまず切り離すと、
PDCAをやりたいという話とか、
これは別物だってことなんですね、
ログはPDCA的にしか役に立たないっていう風に考えないってことですよ、
ログをPDCA的に役立てようとも考えないと、
でも全く違う、
これが思い出したんだな、
100日チャレンジで指摘されたんですよ、
これをPDCAに使わないとするならば、
取らなくていいじゃないですかとか、
取らない方がいいとか、
タスクシュートをやる意味が全くないとか、
この観点がそうじゃないと思うんですよね、
PDCAをやるために使うというのは結構なんだけど、
やらないからこれが無価値になるということになると、
やっぱり他の価値の提供の仕方を
もうちょっと提示しないといけないんだと、
じゃあ代わりにGood Vibesに行ってくださいというのでは、
ちょっと突き放された感じがするだろうなという風に思ったんですね、
もちろん、
他のカウンセリングを受けるとかでもいいと思うんですけど、
そういうことなんですよ、
そういうことってどういうことなんだって感じなんだけど、
これを提供する何かを見出そうと、
見出そうというか、一応見出せているのでね、
その話をしようという風に思ったわけです、
これはもう座学じゃないなと、
ほとんどワークだなと思った、
ワークショップの世界だなと、
しかもこれを短期集結できるなと、
ログさえあれば特に、
長くかかるような話ではないんで、
割と1回きりのワークショップを、
渋谷なり、分からないですけどね、
今ちょっと考えているのは六本木なんだけど、
その辺りでやればいいんじゃないだろうかということを
ポンポンと思いついたので、
グラゾノさんが座学を急に始めて、
非常に縮小版みたいな感じになったなという感じのことを
2023年にやりたいと。
私はこういう計画を、
年の初めにとかをきっかけにやるという
発想を大して持っていないんで、
15:00
そうした方がなんとなく
みんなには理解されやすいぐらいに
思っているだけなんですけどね。
2.2、2.3、
始めるか、
いきなり12月中に始めちゃうかもしれませんけど、
12月中に始めると、
残り半月ぐらいしかないですからね。
しかも年末に挟む、かかるということで、
1月は年明けからやるのが妥当でしょうね、
と思っております。
今こうやってしゃべっているうちに、
ようやくテーマが見出せてきたわけなんですけれども、
要はですね、
対話ということがまず、
対話って言葉に僕が引っかかっているというか、
ちょっと未練があるのは、対話が必要だということを
意識しているからなんですね。
タスクシュートの良かったところはですね、
今思うとなんだけど、
そして大橋哲夫さんは、
開発者の方は同意されないかもしれませんが、
私はやっぱりですね、
いろんな意味で
突っかかってこられたというか、
誤解されたと言いますか、議論を読んだところに
大きな意味があったと思うんですよ。
これはですね、
どんなにすごい人でも、
全域を一人でもらできないと思うんですよね。
フロイトがやっぱり抜群に偉大だったのは、
あれを精神分析という
トレーニング、要するにあれは教会なんですよ。
認定講師制度を作り上げたことなんですよ。
それによってあれはフロイト心理学を脱して、
精神分析という名前になったわけですよ。
これがやっぱりユング心理学とか、
アドラー心理学か、モニタ両方との
差なんだと僕は思うんですよね。
ユングはフロイトより偉大だったかもしれないですよ。
そう思っている人は結構いると思うんですね。
でもユングはユング心理学になっちゃったわけですよね。
どうしてもほとんど認定講師制度は
フロイトの借り物になっていて、
結局精神分析を名乗ってしまうんですよね。
ユング派であったとしても、
ラカン派っていうのもあるんだけど、
それも同じような感じになると思うんですよ。
やっぱりその中で、
精神分析というのも
タスクシュートよりもはるかに非常識なんでね、
ずっかかってこられたわけですよ。
そうすると言い訳っつうのかな。
いやいやそうじゃないんだよって言い出さなきゃならないじゃないですか。
精神分析やってる人は。
その中でも抜群だったのがメラニー・クラインとか、
ウィニコット、この辺が巨人なんですよね。
この巨人がフロイトとの結局違うんですよね。
違う部分が少しはあって、
それはやっていくうちに出てくるところであって、
18:00
あるいは見る患者さんのタイプが違うというところから
出てくるところであってですね。
この絶対に正しいものっていうのを打ち立てておいて、
それと違うじゃないですかっていう話だけでは
進まないというところだと思うんですね。
そうじゃないと、
フロイトが一つも間違いなく
全てについて正しいことが言えないと
ダメになってしまいますよね。
そうだとフロイト心理学っていう話になっちゃうと
そういうことになってしまうんだけど、
そこで補正がかかるわけです。
結局は主観なんで、主観に対しては客観というものを
誰かが示すことは決してできませんから、
結局のところそれに対して示されるものは主観じゃないですか。
主観に対して主観を示すことになるでしょう。
そこで対話というものが起こるわけですよね。
その繰り返しなんだと思うんですよ。
フロイト有名なんですよ。
手紙をやたら書いている。
数万通という数字だったと思うんですよね、確か。
手紙ってそういうもんじゃないですか。
手紙というのは主観を提示したものなんだけど、
証拠が残る。これをですね、僕らやがるところがあるわけですよ。
僕なんかも本をいっぱい結局書いてきたわけですよね。
突っ込まれるわけですよ。今言っていることと違うじゃないかとか。
先日も認定講師の懇親会の方にね、
そういう話をそんなに厳しくじゃないですけど、
割と問われたわけですよね。
こういうことが起こるべきなんですよ。
そうすると僕は、いやいや、それは真意はこうでみたいなことを
言い訳がましく言うわけですよ。
これが大事だと思うんですよね。
こういうことをしないと客観には決して迫れないんじゃないかと思うんです。
最初から整合性の取れたものを作ろう、作ろうと。
そうやって作ろうと頑張るのも大事なんだけど、
結局そうはいかないんですよね。
その時、言い切りが足りないことがあったり、
僕の場合逆に言い過ぎてしまったり。
あとは、やっぱりそうは言っても商業本だから、
方々に対する配慮なり、
売れ行きを向上させるための何かを
やりたいと思うんですよね。
で、そこを突っ込まれるわけですよね。
それに対して言い訳をしなければならなくなると、
それに対してまた何かを言われるとか、
こういうのが大事だと思うんですよね。
こういうのがないと、どうしてもやっぱり
アドラー心理学になっちゃうんですよ。
あるいは、佐々木翔吾時間術になってしまうわけですよ。
それだと本人の気持ちは
ラッキーになっちゃうんですよ。
それだと本人の気持ちは楽かもしれないし、
一見したところスマートに
済むかもしれないんだけど、
やっぱりただただ強情的になっていく上にね、
その人死ぬんですよ、必ず、いずれね。
その後も生き残る者って立派だとは思うけど、
その後はやっぱりですね、
どうしたって認定行使制度を持っている者に比べれば、
21:00
影が薄くなっていきますよね。
やっぱり私は、
モニタ療法という言葉が残っているモニタ先生は
偉大だと思うんだけれども、
それに比べると、そんなものが残っていない
ドイタ教さんの精神分析の方が
はるかに浸透はしたと思うんですよね。
甘えというものが精神分析に使われるっていうのが、
精神分析の世界に組み込まれていると、
精神分析の世界に組み込まれていると、
こっちの方が結局のところはですね、
我々が使うものになっていく。
きっとですね、モニタ療法というのはですね、
年を減るごとにそれを伝授できる人というのが、
どんどん確実に減っていってしまうと思うんですよね。
なぜならば、そのモニタ療法というものを
自分が間違いなくやっていると思うために、
どこに問い合わせればいいのかという問い合わせが
モニタ先生になっちゃうと思うんですよ、究極的には。
精神分析だって最終的に、
これは精神分析と言えるんだろうかというのは、
フロイトに問い合わせなければいけないという感じもしなくはないんだけど、
でも精神分析協会に問い合わせれば
済むわけじゃないですか。
そしてそこには精神分析科ですって言えるという人が
いるわけですよ。
そこの攻めに合いっていつもあると思うんですよね。
客観的にそうだと言えるのかと。
あなたがただ主観的にそうだと思っているだけじゃないのかと。
今回タスクシュート強化になるものを
用意してみて、つくづくそのことを思ったんですよね。
タスクシュートをしてますというのは、客観的に
どういうことなんだろうと。
でもこれって客観的に保証される方法はないわけですよね、本質的に。
神様がそれはタスクシュートではないとか
言ってくれないわけだから。
タスクシュートなのかどうなのかというのは、
自分たちに問い合わせるしか最終的にはなくなる。
でも彼は永遠にこの世にいるわけじゃないわけですよ。
そうすると
これが大橋メソッドっていう名前だった場合は
死んだ人に問い合わせるしかなくなっちゃうわけですよね、いつかは。
こういう問題があるから
こういう制度があるんだなと。
家元制度ってそういうことなんですよね。
多分そういうふうにはしませんけど
Jさんなりが継ぐわけですよ。
2代目大橋哲夫とか、そういう意味なんですよ。
2代目とか3代目とかいつまで経っても
同じ名前が続いていくというのは。
これはもう私は自分の世界ではおなじみなんですよ。
宗教ってまさにそういうもので
この話を宗教的に説明しててもしょうがないんで
あんまりしませんけれども、要するに宗教のトップ
官庁と呼ばれたり芸家と呼ばれてる人っていうのは
創始者と同じ人ですよって言ってるんですよ。
宗教の世界では。
だから要するに第100代日蓮正人とか
そういう話になってくるわけですよ。
そうすると、あの人は日蓮正人と同じ人ですから
24:00
っていう主張ができなきゃいけないわけですよね。
そんなことは現代の社会ではなかなか
認めがたいもんだと思うんだけど、でもこういうふうにしないと
結局日蓮正人が言った
言葉とか手紙とかに
毎度毎度問い合わせをしなければならなくなる。
するんですよ、宗教の世界でそういうことを。
するんだけれども、それがブッダとかに
なってくると微妙じゃないですか。
本当に言ったの?みたいな話になりますよね。
しかもブッダはインドの人だからインド語のはずとか
なんかお経とか全部中国語で書いてあるじゃないですか。
しかも古代インド語だしね。
読める人だってほんまいないじゃないですか。
こういう話になりますよね。原点に当たるみたいな話をしたとき
つまりフロイトは英語で書いてくれてるから
まだいいんだけど、でも本当に英語ではそうなってるのかと
語訳じゃないのかみたいな、そういう宗教論争みたいな
神学論争みたいな話ってちゃんとあるわけですよね。
精神分析の世界にも。
でもあんまりそんなことばっかりやってると
広まらないわけですよ結局、全然。
こういうことがですね、タスクシュートですら
こういう今言ったような話からすると
急にしょぼい話に聞こえると思うんですけど
タスクシュートですらちゃんと出てくるんですね。
だからああいう制度っていうものがあるんだなと
広めたいと思えばね。
あと永続、同じことですけどね。
ある程度永続させたいと思えばですね
一台で終わりたくないと思うならば
構わないし、広まる人間の数も
最大でも数千というオーダーで
結構だと言うんならばいいんでしょうね。
いいんでしょうけれども
やっぱり万という単位を超えていきたいと思ったら
何かそういうものがいるんだろうと。
仮に死ぬ前だとしてもですね
変わっていくわけじゃないですか。
変わらざるを得ないですよね。
自分一人だけがタスクシュートでうまくいくという
メソッドでしたというのに対して
例えば性別が違う。
女性が使いますという話になってくると
少し違わないわけにはいかないんですよ。
しかも年も違いますとか職業も違いますとか
当然そういうことになっていくわけで
その中でも変形はさせたけどタスクシュートですと
それは明らかにタスクシュートではないんですと
言うべきなのか
そこのところって実はグラデーションなんだけど
それでも何らかの形ではっきりさせないわけに
ちょっといかないということがある。
そんなところがあるんだと思うんですよ。
それでさっき
PDCAの話を出したのは
これが一つのサンプルなんだけど
27:02
僕はタスクシュートであるかないかというものを
分けずに済むなと。
分けずに済む方がいいんですよ。
つまりタスクシュートでPDCAがやれるし
全くやらなくてもいいっていう方がいいわけですよ。
それでもタスクシュートというものが成立すると。
PDCAを絶対やらないとセットでないとダメなんですということになると
それはタスクシュートじゃなくて
PDCAになりかねないじゃないですか。
これをやりたい人は切り落としていかなければならないですよね。
ここに難しさというのが
広めたいという一方で
正当性みたいなものですよね。
その存在はどういうものなのかをはっきりさせたいということと
相互が起きる。
攻め被害が起こるわけですね。
私は
タスクシュートというのは
PDCAはどっちでもなんとかなる。
インボックスはかなり微妙なところにある。
と思っているんですよ。
インボックスというものを持たないというのが
一つの特徴かなみたいに思うんですね。
それはGTDと別に区別したいという話ではないんですけれども
インボックスというものを
持ってしまうと
少しタスクシュート的ではなくなる。
あえて無理やり
タスクシュートの外に用意することになる感じがするので
この辺で自然な区別が
一つつくかなというのがあります。
必ず
記録が残っていくというのも
タスクシュートというものを
他と分ける要素になり得るなと思います。
GTDだって残せるじゃないですかって
言われると思う人もいるかもしれないけど
僕はかなり微妙だと思いますね。
GTDはそういう概念を最初から持ってなかったので
それはもちろんチェックボックスにチェックかけただけのものに
そこにタイムスタンプを打てばですね
ログが残るんですよ。
ログが残るんだけれども
ここに残すというものが
あの概念の中にはないんですよ。
ここでやっぱりタスクシュートとタモトが自然と分かれる
このタモトが自然と分かれるっていうのが
大事だと思うんですよね。
あえて分けるんじゃなくて
このタモトが自然と分かれるところに
対話を持ってくればですね
多分割と実りのあるものが出てくるんだと思うんですよ。
GTDではログは意識しなくていいんですって
誰かがGTDの人が言ってくれたりすればね
そしたらなぜなのかって聞くことができて
考え方の違いというものが見えてくるじゃないですか。
PDCAの場合には
どっちでもいいんですっていうのが
30:00
私は今言えることなんだけれども
どっちでも良くないっていう人とは
対話の余地があるわけですよ。
そういうことが起こせるというのが
大事だと思うんですよ。
どっちでもいいのが正しいんですとかPDCAでなければいけないんです
ということになったら対話にはならないわけですよね。
対話にならなければいけないってわけじゃないんだけど
対話をしないということは
多分何かを切り捨てることになるんですよね。
それを受け入れられない人は
切り捨てるということになるでしょうし
そのことをはっきりさせられる時点以降のことは
切り捨てる。あるいは
そのことをはっきりさせられる人がいなくなった段階で
切り捨てられるみたいなそういう現象が
起きるんだと思うんです。
だからやっぱり人名プラスメソッドでない方が
いいんじゃないかなと最近思うようになったんですよ。
これを何らかの形で
引き継げる人がいると。
もとの人とは違うんで
その主観も必ず異なるので
必ず異なったメソッドになるんですよね。
今思い出したんですけど
サッカーって手を使っちゃダメじゃないですか。
手を使えるのはゴールキーパーだけですよね。
しかもエリアの中だけですよね。
昔マラボーナという伝説的な選手が手を使ったというような
証拠の写真が残っていて
どこかで読んだことがあるんですけど
ああいうことなんですよね。
手を使ってはいけないのは
ルール上の話であってですね。
手を絶対に使ってはいけないということでは
手を使ったからといって
手がもげるとかそんなことが起こるわけじゃないじゃないですか。
ただ使うとサッカーじゃなくなるんですよね。
そういうことですよね。
使うと何になるかというと
多分ラクビーフットボールみたいなものになっちゃうんですよ。
だから神の手じゃないといけないわけですよね。
タスクシュートもどこかで
例えばロゴをあそこから切り落としてしまうとか
別にいいんですよ。ログなんかもういらないんです。
削除しますとかね。
エクセルで取っていったログの部分全部削除します。
実は昔そういうユーザーさんがいらっしゃったんですよ。
タスクシュートではなくなる気がするんですね。
それをやるのは構わないんですよ。
でもそれをやると違うものになるんですよ。
例えばGTDとか。
そんなことを
私は今考えておりまして
考えるようになったということなんですね。
その中で
やるべくみんなが許容できる
ギリギリまで半径を広げていくというのが
多分今やるべき作業なのかなという感じ。
33:01
昔の整合性みたいなのは
つつかれるとチクチクはするんだけど
これはやっぱり気にしないのが大事だなと。
多分ですね。昔の佐々木翔吾の方がよかったって人は
大勢いらっしゃると思うんですよ。
それはそれでありなんですよね。
そういうようにみんなが変わる必要はないわけですよ。
でもここできっちり
昔のものを削除したりする必要は
ないと思うんですよね。
今の話と矛盾するのかもしれないんだけれども
どっちもタスクシュートは入れておくことができると。
佐々木翔吾には無理でも
タスクシュートにならできるっていう
こういうところが
この種のものはきっと
浸透もしやすいでしょうし
受け入れやすくもなるでしょうし
いろんな人に
いろんな人に扱うことのできるものになっていくんだろうと。
そんな風な気がしてます。
その一環で僕は
これはタスクシュートじゃないんだけど
一番最初に言ったような
ログを使った
ログを使って
セルフカウンセリングなのかな
そういったようなことをする
セルフケアではないな
セルフカウンセリングってこと自体が
微妙だなと思うんですけど
ある種の緊急
対応なんですよ。
なんかですね
これも思ったんですよね
タスクシュートによく寄せられる
百チャレとか教会の会合とか
でもそうだったし
最近私がそれこそ12月11月の
対話でも受けた内容でもそうだったし
精神分析用語で言う超自我
超自我って一言で言っちゃうけど
人によって全く違うわけじゃないですか
親って人によって全然違う人なんですから
親だけじゃなくて指導した厳しい人とか
読んできた漫画のキャラクターって
超自我にしばしばなってると思いますよ
力石徹が超自我みたいなね
そういうのに苦しんでいる人が
緊急事態を迎えてしまった場合
もう本当にお前はダメだみたいな声が
内側からするとか
今すごい簡単に話しましたけど
結構いろんな会社で期待されていることがあったのに
そういえば昨日そういう話を
大橋さんとしたんですけど
会社がこうしろってこうしてほしいと
当然そうするだろうということをしなかったとか
大橋さんはしなかったし
36:02
できなかったっていうケースの方が
ますます深刻ですよね
君には期待してたのにという声がするとかね
本当にそんなこと言われるかどうかは別としてね
その時に超自我なのかな
超自我的なものですよ
ラ王とかに言われるわけですよ
生きるには対戦とかね
そういうこれってギャグみたいな話だと思いません
そんなことで欲物的に
人がなっちゃうってね
本当におかしいと思うんだけれども
そういうふうになっちゃったと仮にしたとき
僕はタスクシュートのロゴを見て
PDCAでやっていこうっていうのは
うまくいかないケースも
間違いなくあると思うんですよね
うまくいくケースもあるでしょうけど
私はタスクシュートってそういうもんじゃないと思っているので
そんな無理をしなくても
やれることはまだいっぱいあって
手元にログがあるならば
つまりそれはログを取る習慣があるってことなんだけど
それを使って
この沼を
何とか渡る板みたいなものを
見出すことは十分できるはずだと
意外に難しいんですけどね
板そこら中にあっても
全部ふさがれてますという発泡ふさがり問題は
カウンセリングでは初歩中の初歩だと思うんですけど
ありますからね
でもやっぱり板が浮いていて
そこを渡れるんですよ
これをやっぱり人が指摘しなきゃ
どうにもならないかなって感じはするんだけど
何にしてもあるんですよそこに
しかもその手がかりもログにあるはずなんですよ
だったらそれを使って
改善じゃなくてですね
改善というものを促してくる存在そのものを
何とかするという方法も
きっとあるんですよ
それを探すというのを
やっていきましょうというものを作りたいなと
これは本当にタスクシュートのログじゃなくても
結構ですから日記でも構わないし
何なら記憶でもいいんですよ
記憶がこの問題をそもそも作り出しているわけですから
だってラオウって記憶でしょ
ラオウがあなたに向かって話しかけたことは
一度もない話ですよあれは
あくまでもアニメーションだったり漫画の中で喋ってるだけですよ
だから私に向かって喋ってきたりはしない
もし私に向かって喋ってくるって言うんだったら
それは記憶から何かを捏造した結果なんですよね
そういう捏造をするのが
いわゆる内的対象という
つまり親の
39:02
親の記憶とか
育てられた経験というものが作り出す
人の心が可能にする
何らかの力を持った
存在なんですよね
心とはそういうものを宿すそんな感じのことかな
それを何とかする手がかりもあるはずで
それを何とかすることこそ
会社で新しい結果を
成果を出すというよりも
はるかに緊急の課題にしているという人が
いらっしゃると思うんですよね
そういう話ができればいいんじゃないかなと
いうことを思っているわけです
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