1. 佐々木正悟のライフハックからの精神分析
  2. 見晴らしが良くなれば「終わり..
2025-05-06 52:30

見晴らしが良くなれば「終わり」が目に入る【1178】

白井和幸さんのメンタル・コーチングという本がありました。
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サマリー

今回のエピソードでは、白井和幸のメンタルコーチングに関する本が紹介され、何もしないことの重要性が自身の経験を通じて探られています。また、精神分析の場における無駄な忙しさや、それに伴う罪悪感についても考察されています。ノートを取ることや振り返りについての考察が行われ、特にチャットGPTの利用や参加者との関わり方がテーマとされています。無意識のうちに取り込まれる情報や知識の管理方法についても論じられています。自己愛、ノート、メンタルコーチング、ウィニコット、カウンセリングなどのテーマを通じて、心理的な成長や発展が考察されています。特に、サンチャレの概念を用いて、クライアントとカウンセラーの関係性についても分析されています。精神分析とその過程における依存の重要性について議論が展開され、フロイトの理論の変遷やクライアントとの関係性の持続的な影響についても考察されています。

白井和幸とメンタルコーチング
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ、第1178回をオープンします。 5月6日火曜日9時5分です。
ゴールデンウィークも今日で終わってしまうというのが、とてももう信じられませんが、まあしゃあないですね。
割とこの番組はあんまり関係なく、 普通に淡々とやれて良かったなぁと思ってます。
いきなり本題から言っちゃえばいいと思うんですが、 皆様はもう、もうっていうか、ご存知ないかと思うんですけどね。
日本ハムというチームに、今は北海道日本ハムになりましたけども、もともと日本ハムだけだったんですよね。
北海道に行く前に東京ドームが実は球場でホームグラウンドだったんですよ。
巨人だろって思われるかもしれませんけど、例ゲームは日本ハムがやるという時代があったんですよ。
あと土日は、巨人が青江行ってる時の、特に土日とかに日本ハムが主催試合やってたりした、結構入ってたんですよ。
それで、私は受験生だったにも関わらずガンガン見に行って、めっちゃ母とその頃奸悪になってたんですけれども、
あのガンガン見に行ってた時にですね、白井和幸っていう、この人を出したくてただ喋ってるんだけど、
白井和幸っていう、当時日本ハムではセカンドやってる人がいてですね、
この人がメンタルコーチングという本を書いているんですけど、めちゃくちゃいい本なんですよ。
コーチっていうのは基本何も教えないし何もしないんだっていうことを書いていて、
この白井和幸って選手はですね、私ロッテ応援してたから、言ってみれば敵だったんですけど、すごいいい選手だなといつも思ってたんですよね。
セカンドにボールが飛ぶともう結構全然希望がないみたいな、エラーしないっていうこともそうなんですけど、
とにかくこう、うまくやられてしまうって感じなんですよ。で、常に打ってるっていう印象なんですよね。本当に常に打ってるって印象なんですよ。
2番、セカンドとかが非常にしっくりくる。昔のね、今2番って強打者が打つみたいな。野球の法則ってすげーいい加減だなと思うんですけど。
2番ってのは基本的には、昔はですけど小技が効く、やや骨分な、すごくこう、何て言うのかな、
器用な選手のやることみたいな感じだったんですよ。190センチでホームランバカバカ打ってる大谷さんが2番打つとか、ありえない感じだったんですけど、
今はもう普通に2番ってのは一番打つやつがなるんだみたいな、なんかそういう常識が変わったみたいな感じになっちゃうんですよね。
それは4番だろうって感じなんだけど、今2番なんですよね。 まあそれはいいんですが、その白井和之さんのメンタル。
だいたいあの白井和之っていう人はその野球選手以外の何者でもないぐらい野球選手な人だったんで、コーチングの本を出すっていうこと自体がちょっと驚いたんですけど、
あそこに書かれていたことがですね、私結構あの、まあ僕はコーチングやってるわけじゃないですけど、
コーチやるならこれしかないなっていうふうに思ったぐらい、コーチの本じゃないんですけど、まあコーチもやってたんですけどね。
しかもメンタルコーチングですからね。すごい不思議な感じがしたんですよね。あの白井和之っていう人はもう誰が見てもその選手が好きで見てれば、
技術の人なんですよね。すべてがスキルの人なんですよ。 でそういう感じの人だったから、なんかこうメンタルコーチングなんだみたいに思って読んだらめちゃくちゃ面白かったんですよ。
だいぶ昔の話です。僕がメンタルコーチングの本読んだのはですね、今もあるとは思いますけどね。
今、白井和之っていう方の名前を知っている人が多分減ってきてしまってると思うんで、まあもともと日本ハムのセカンドですからね。
何もしないことの意味
あのそんなにみんながみんな知ってるって感じじゃないんですけど、野球好きなら知ってるって感じかなっていう僕の世代ぐらいで。
その話をちょっとなぜしているかというとですね、この何もしないっていうのがですね、何もしないというよりは、
まあそう書いてはいなかったんですけど、僕もこういう今のような仕事をするようになってですね、何もしないというよりは何もできないんですよ。
で、この何もできないというのがどういう意味を持ってるんだろうっていうふうに考えていくとですね、
突然の話になるように聞こえると思うんですけど、終結ってものが見えてくるんですよね。
で、何もしないということがどういう意味を持つかというのは、つまり何もできないわけなんです。
この何もできないということがどう考えてもいいことだとは感じられない間は絶対ではないんですけど、このセッションなりカウンセリングなり対人支援というものはですね、
常に危機的状況をはらんでいて、いつ中断になるか、中断と終結は違うんですよね。
だから中断になるか、あるいは見通しが見渡せないわけですよ。理屈はわかってるんですよ、これ。
つまり特に3ヶ月チャレンジのようなこの私がやってるようなサービスは、基本的には社会的適応がまあまあ概ね不可能ではない。
可能というのはもうある意味可能なわけですから、例えば拘束されているとかそういうことではない方、拘束されている方は多分このサービスに来られないと思うんですよね。
拘束されてなかったり、回線つなげる状況にないとかね、回線つなげる状況にない人はオンラインでアプローチできないじゃないですか。
だからそういうふうに、あと言葉が操れないってことになってくるとやっぱりですね、非常に難しくなるわけですよ。
例えば、分かる意思伝達ができないというケースもあるけれども、それよりは冠目とかね、言葉が出てこないみたいなそういう方もやっぱ難しいと思うんですよね。
一応、言葉を発するのに強い抵抗があるという方向けに、型向けにっていうつもりなんですよね。テキストが無限界のやり取りができるということにしてあるんですけれども、
まあ普通に考えるとテキストを打つより喋る方が簡単なんで、私が今これでやってるようにこれを全部ノートに書くぜってことになったらもうなんか1日これだけで終わっちゃうじゃないですか。
これが1時間弱で終われるということはそれも良いことなんですよ。
で、こういうそういう色々ありますからですね、テキストでのやり取りというオプションが必須になるだろうなと。
これはだから精神分析ではダメなんですよね。むしろ来て冠目しろぐらいの勢いなんだけど、来て冠目するっていうのも結構厳しいですよね。
冠目と沈黙と静寂とかはやっぱりいちいち違うと思うんですよ。
冠目は冠目として座ってくるって、黙っていますっていうことと話せませんということと、話す気ねえぞみたいなのとは違うんですよね。
これはもうインテンシブにっていうのかな、かなり親密に、親密っていうのもこの場合不思議なんだけど、そんなに攻撃的で親密っていうのもね、でもまあ何度も何度もいらっしゃるわけだから、そしてお金も払ってくださるわけだから親密なわけですよね、ある意味ね。
この矛盾をはらんだ状態の意味っていうのを、つまり完全に自由連想の中で完全にクライアントさんが沈黙されていたら、分析化にできることはなくなりますよね。
この場合の何もできないというのは常に緊張と攻撃感、攻撃性をはらんでいるわけだと思うんですよ。
何よりもしかしここで大事なのはですね、振り回されちゃうんですよね。ちゃんと、ちゃんとっていうのも変なんだけど、だからさっき親密と申し上げたんだけど、そうは言っても分析化は何とかしなきゃって思うわけですよ。
この何とかしなきゃって思うという時点で既にダメなわけじゃないですか。何にもしなくていいはずですよね。社会適用はされてるんだから、分析、精神分析の場合もお金は払ってるということは、
その人何らかの形で資産があるか仕事はされてるわけだから、別に何もしなくてもいいはずなんですよ。別に、その精神分析の場に来て、あるいは休日とか、今ゴルデンウィークですけど、別に何かしなきゃいけないわけじゃないわけですよ。
でもライフハックでもお馴染みですけど、この何もしないでいいというのが受け入れがたいと。だからさ、僕3ヶ月チャレンジっていう名前は最初適切でないかなと思ったんだけど、最近すごい適切だなと思うようになったんですよね。
忙しさと充実感
3ヶ月間何もしないチャレンジというものがチャレンジである限り、このサービスには意味がある気がするんですよ。3ヶ月間何もしないことができませんっていう、3ヶ月ってわずか3ヶ月ですから、まず3ヶ月という長さが過大評価されていて、しかも何もしないということに罪悪感を抱くっていう人には3ヶ月間何もしないでいるって、かなり無理があると思うんですよね。
で、この状況がまんまカウンセリングルームに持ち込まれると。そうすると、何かしなきゃいけないのに私はここで何もできていない。なんかこう、精神分析らしい夢の報告をするとかね、とにかく何かしなきゃいけないんだと思ってるんだけど、自分は何か言葉が出てこないみたいな感じになるわけじゃないですか。
これは、圧縮された3ヶ月チャレンジですよね。ある意味ではね。だから圧縮されたその人の内的状態というか心理状態の分裂があるわけですよ。本当は何もしなくていいはずだと。休日なんだから。別に1日寝て過ごしてもいいはずだと思うんだけど、何かこう充実感を必要とするんだみたいな。
うちの父もね、よくそういうことを言っていて、やっぱりあの人が仕事から、ある意味普通に解放されて、事実上はクビになったんだけど、なるとどういうことが起きるかというと、無駄にせっかちな人がそこに生まれちゃうんですよね。
父はやっぱり昭和の段階の世代であり、猛烈社員がよくいらっしゃった世代で、すっげー仕事ができるってわけじゃないんだけど、本人は仕事できると思ってるし、坊さんの仕事だけど、すごいこう、自分は生産的な人間だと思ってるわけですよ。ちょっと坊主には見つかわしくないんですけどね。
しかもあの人は実はネッカラの坊主で、生産的なこととかはできないんですよ、あんまり。本人はできると思ってるし、そういうふうになりたいと思ってるんですけど、ライフハック向きじゃないライフハッカーみたいな人なんですよね。
なんかすぐスケジュールとかを作るんだけど、すぐぐちゃぐちゃになっちゃうんですよ。で、そのぐちゃぐちゃなところがみんなに評価されてるんだけど、本人はよくわかってないんですよね。
すごい自分はきちんとやってると思ってぐちゃぐちゃになっちゃうという、ネッカラのそういうタイプなんですよ。で、それはいいんですよ。坊さんやってる回って言ってたら全然一番いいのかもしれない。
だけど坊さんじゃなくなると、ただのせっかしな人になっちゃう。しかも行動が素早いわけじゃない、ただのせっかちな人になっちゃうわけですよ。
変なところでせっかちさをただ発揮して、うちの娘とかも高校生になりましたけど、一緒に旅行とかまだ行ってくれるんだけど、無駄にせかすときがあるわけですよね。
なんかお土産コーナーに30分いると、もう帰ろよみたいになってくる急になるんですよね。なんかもう飽きちゃったよみたいなことを言って、
おじいちゃんもお前が今ここでどれほど飽きて急いで家に帰ろうと、やること何にもねえじゃんかっていう。いやおじいちゃん忙しくてさとか言ってんだけど、もう口癖なんですよ。
やること何にもないというか残念ながら、人に期待されてリクエストされてることって言ったら、まあうちの母ですよね。
母からのなんか暇だったら皿拭いてぐらいなことしかないのに、自分は忙しいというのが抜けなくなってしまってるわけですよ。
だからあれがまさに3ヶ月チャレンジですよね。ただずっとぼーっとしてると、もしかすると日曜とかにあれかもしれないからっていうことで、なんか意味もなく忙しくしていることは放置されてるんですけど、
本人だけは意味があると思っている活動の100%意味はないんですね。残念ながら。まあいいんですけどね、別に。
だからこういう状態が耐えがたいわけですよね。ただもちろん3ヶ月チャレンジに参加されている方はうちのおじいちゃんとは違うんで、もう少し本当に忙しいわけなんですけれども、
でもその人が心の中で急かされている状態ほどは、たぶん現実には急かされていないんですよね。私がすごくそうなんですよ。
私とか、もう昔はですね、本当に昔はつったって2017年ぐらい、せいぜい17年ぐらいですよね。
めちゃくちゃ時間、私は忙しいんだって思い込んでたわけですけれども、実は今すげー暇なんですよね。今の方があの時よりは忙しいと思うんですけど全然暇なんですよ。
大抵僕の場合、仕事してない時は2度寝してるんですよ。寝てるわけですよね。お仕事って言ったら3ヶ月チャレンジの人と話すだけなんで、ここに余計な仕事を昔だったら必ず追加してるんですよ。
ノートを取ることの難しさ
例えばこれがなぜ余計なのかっていうのは、これを聞いている方は少しご理解いただいてると思うんですけども、ノート取るとかやっちゃうわけですよね。
なんかチャットGPTとかにね、自分の仕事を、私はこういう仕事をしていますみたいなこと書いても、ノートなどを取りましょうみたいなことをあっさり書いてきやがるんだけど、あれほど、
チャットGPTすごいですよ。理解力すごい抜群だな。私より全然対象関係がわかってるんだけど、あれやっぱり対象関係論の海外の文献をデータとして食ってんだろうなって思うんですけど、すごいなっていう感じがするんですよ。
もうなんか、どんな標語を使って、ここちょっとわかりにくいわみたいな感じで、例えば良いちぶさと悪いちぶさに分裂しているのに、どうしてそれは部分対象の融合になっているのかみたいな、そういう論があるわけですけどね、メラニックラインの。
なんか大変鋭い質問ですとか言って、ガーッと説明してくれて、すげえ納得感が高い。びっくりします。素晴らしいなって思います。
だいぶあれで松木さんの本読んでてよくわかんなくなったり、お茶屋いあのあんまり彼女の鈴木智美さんの方はないか。何で今お茶屋いって言ったんだろう。お茶屋いは中西の元監督ね。お茶屋い広道ですね。
鈴木智美さんの読んでるとあんまりわかんない。彼女はすごい徹底的に説明してくれるんで、そんなにわからず置いてけぼり食らうことはないんですけど、これでも所々わかんないやつは全部チャットGPTに聞くということを最近してるんですけど、ほぼ完璧にわかるようになる。
すごい素晴らしいなって感じがします。特にスプリッティングしているのは、部分対象のスプリッティングは融合というものなんだっていうこの説明がですね、具体例も合わせて完璧だった。そういう論文があるんだろうなぁと思うんですけどね。
めっちゃいいなって感じがします。こういうのが本の中で見つかるのを頑張ってるというのだと、もしかして見つかるのは来年。ここがちょっと難しいんですよね。チャットGPTに聞いちゃうとその時わかっちゃうんですよね。
でも来年わかるとするじゃないですか。今みたいな。今今わかんなきゃならない理由はないんですよ。私には別に。だけど今わかっちゃうじゃないですか。そして来年に本当は本の中で見つけたタイミングで、オカルトですけど完全にユングみたいですけど、その時に三ヶ月チャレンジの参加者さんが持ち込んでる問題が大きなきっかけになるってことがしばしば現実に起きちゃってるんで。
なんかこういうセレンディピティを失うんだろうな。こういうことやってるとっていうのは気になるところではあります。だから僕はノート取らないわけですから。ノート取らない説明にこれでつながりましたね。いや意味不明だって思われるかもしれませんけど、ここはちょっとスルーしましょう。だからノート取らないわけですよ。
基本的には振り返りはしないわけですよ。基本的にはもう本を読むか話を伺うか寝るかの三択だと思ってるわけですよ。他のことは絶対やらないぐらいな勢いでやっちゃうんだけど、エヴァノートとかにもクリップとかするじゃないですか。基本見ないわけですよ。クリップするのはいいんですよ。見ないってことが大事なんだっていうね。
非常に難しいんですよね。だからちょっと前にタスクシュートクラウド2にノート取るぜみたいなのあったんだけど、ノート取ることありますけど、3ヶ月チャレンジの参加者さんについての情報はほぼほぼ入れない。というかほぼ真っ白っていう状態が一番理想的だと思ってます。
情報管理と無意識
やっぱり無意識に入れていかないとっていうのが、意識に残るっていうのがもうコンテインしていない証拠だなって思うんですよね。無意識に入れているっていうのは忘却してるっていう、なんていうのかな、捨ててるわけでは全くないんで、無意識に入れないとっていう、植物的に言うと根に入れないとって感じなんですよね。
土の上にあるものはノートに送ってるのはまさに土の上に送ってる感じなんですよね。土の上に入ってるものはあるだけなんですよね、そこにね。どんなに読み返してもダメだと思うんです。
てか、読み返すのは絶対良くないなって思う時があるんですよ。難しいんですよね。読み返すことが良いことになることもないわけじゃないんで。ただ、読み返してしまうと、絶対そこでなんつうんですかね、もう既にそれが天意だと思うんだけれども、読み返すということが何の意味もなくやってるんなら、ただなんとなくこう、詩集でも読むみたいな気持ちで読んでるんなら最高にいいんですよ。
でもだいたいそうじゃないじゃないですか。だいたい、あーなんかこの人との間には難しくなってきたからちょっと読んで予習しようみたいになるじゃないですか。これを僕がやるっていうのは行動家以外の何者でも、クライアントさんはいいんですよ、参加者さんは。そういう行動が反復されるということがそこで自覚されるはずだからいいんだけど、私がこれをやってしまうということは、なんと。
まあ、天意なんですよね、結局。逆天意なんですよ、結局は。どう考えても逆天意になってしまって。結局は相手に振り回されてる。いいんですけど振り回されるのも仕事なんだけど、でも振り回されているということは進展しないということであって、それを自分に許しちゃうということはやっぱり、この言葉は全くにつかわしくありませんが、作手なんだと僕は思うんですよね。
だって進展しなくていいと思ってるわけですからね。つまり、セッションの記録を読み返すというのは僕は作手に相当すると最近思うんですよ。しょうがない、どうしても辛くなってきたから読むっていうのはもう自分に許すみたいな、これはルール違反みたいなもんだと思うんですよね。
僕の場合スーパーバイザーいないんで、この場合、やっぱり鈴木智美さんの見てるとすっごいよくわかるようになったんですよね。スーパーバイザーって正規の人って言うのは、よくスーパーバイザーがいないからならダメなんですみたいなノリになっちゃってるんですけど、これは形式的にわかりやすいっていうのはよくわかるんですよ。
いやー誠にしっかりごもっともでございますってなるんだけど、でも鈴木智美さんはだいぶ辛くなってきたからスーパーバイザーに相談することにしてちょっとつけてみたみたいな、やっぱあれが正しいよなって思うんですよね、実際には。
いややっぱそうだよねって、これぐらいの人でも行き詰まることがあって、その時に臨時で用意する、なんか臨時コーチみたいなもんだよねっていう。だって絶対その臨時コーチより鈴木智美さんの方がわかってるはずなんだけど、わかんなくなってきたからちょっとこう鈴鳴らすみたいなノリでティリンティリンってやるぜって感じがするんです。
あれじゃないとダメだろうって思うんですよね。常時スーパーバイザーがいます、こっちの方が絶対いいんですっていうのは、なんかこういまひとつ説得力に欠けると言いますか、でさっきの白井和之の伏線回収ができてるんですけど、白井和之さんがですねメンタルコーチングの本の中で、プレー級のコーチっていうのは相手より上手いとは限らないし、もう現役しりといてる自分の方が相手より上手いことはないから、ずっと教えてる必要は全くないんだみたいなことを書いていて、
だいたい選手が調子が悪くなってくると自分を呼び出しにかかると、この時に付き合ってやればいいんだよっていうノリで、すごくこうですね、なんでこの人にはこういうことがわかるんだろうっていう感じがするんですよね、したんですよ。
でも多分きっと間違いなくそういうことになるんだろうなという感じがして、とにかくどうすればいいのかの課題も、どうしたら今何が必要かも全部選手が知っていて、自分はそれにただ付き合ってれば上手くいくっていうことを書いていたんですよね。
で、私は今やってることって完全にそういう感じなんですよ。これをバウソーっていう方もいらっしゃるんですけど、僕は別に走ってはいないなって感じがするし、なんか横を並走してるとかいうのともそれが違うとは思わないんですけど、なんか違う気もするんですよね。
壁打ちとかっていうじゃないですか。でもそういうことでも全くないような気がするんですよ。で、私チャットGPTに何かを聞いてる時に壁打ちしてるつもりはないんですよね。私がすでに知ってることが答えとして出てきてるわけでは全然なくて、知らないことが結構出てくるんですよ。
これは私が素人だからなのかもしれないんですけどね。とにかく自分と対話をしてるっていう感じだけじゃダメな気がするんですよね。ここに他者がいないといけないとは思うんですよ。だからここのところは難しいんだけれども、とにかく自分がノートを見返す、ノートを取るのはまだしも、ノートを見返してノートを取るのもすごい気はつけるんですよね。
時々どうしても我慢しきれなくて取っちゃう。体にするのと似てるんですよ。私、参加者さんに指摘されたんですけど、あさひさんめっちゃ揺れてますねって言って、揺れてるのは心が揺れてる証拠なんですよ。やっぱりこれは行動化なんですよね。アクティングアウトなんですよ。自分の中の緊張感を逃したくなって。
参加者との関係性
お母さん、幼児の時の母に揺さられるじゃないですか。よしよしみたいな感じで揺すってもらうじゃないですか。あれをやってもらうということはやっぱり僕の中のβ要素があって、排出してしまってるんですよね。
心に収納できれば、赤ちゃんは心はやっぱり泣くはないにしても小さいし脆弱なんで、すぐ出しちゃうわけですよ。うんこと一緒に出しちゃうわけですよ。そしたらお母さんがよしよしやってくれるっていうことは、揺すってくれるということは、そうやって下毒というか消化していく必要があるんだけど。
私がこのですね3ヶ月チャレンジで、参加者さんに向かって何か喋ってる時が多いんですよ。揺すっちゃうのは。聞いてて揺するっていうのは本当ダメで、揺すってる分聞いてないわけですから。自動車のエネルギー効率と同じ話で、音になってるってことはもうダメじゃないですか。
それは走るだけがベストなわけですよ。最近そのエネルギー効率度がどんどん良くなって危険になってきたんで音を出すぜみたいな。将来僕絶対そうなると思うんですけど、技術的に音を出すだろうなって気がするんです。
車が近づいてきたのは最近の車って静かすぎて気づかないですよね。特に高齢の方にはもう全然音がしないみたいになっちゃってるんで、エネルギー効率で良ければいいってことじゃないなと。ただ熱に変わるのはこの地球温暖化の時代ナンセンスじゃないですか。
動けばいいのに熱くなるとか、熱くなってる場合じゃないだろうって感じなんだけど、車めっちゃ熱くなるんで。熱くなるのはすごい無駄ですよね。それをエンジン使って冷やすんですからね。冷却、冷却水使って冷やさなきゃならないんで。もうエネルギーが二重に無駄になるというね。
だから非常に無駄なわけですけれども、熱くなったり動いたりしちゃダメなわけですよ。やっぱり心が受け止めないといけないわけだから、体が動いている場合ではないわけですよね。
そういうことはノートを取るとかダメだと思うんですよね。ノートを取るというのは体を揺する以上に行動化なんで、お名前をとか言って、名前が覚えられないことに備えてここでお名前を、人間関係をって聞いて、人間関係を覚えられるはずがないからここにノートに書いてとかやってるのはもう僕の不安の現れ以外の何者でもなくて、そんなものに何の意味もないじゃないですか。
参加者さんにしてみれば、せいぜい覚えておいてくれたみたいなちょっとした受け止められをそこで感じられるぐらいで、しかも僕がノートとイチャイチャしてると現行形的な話になってくるし、いいこと何もないと思うんですよね。
だから1行とかは自分に許してるんですけど、3行書いたらアウトだなって感じはちょっと持ってるんですよ。
ましてや、それを読み返すとなってくると、参加者さんはそっちのけで、私はノートと生きていきますみたいな人になってしまうんで、どう考えても子供と一緒にディズニーランドに行くべきこのゴールデンウィークに、
いやあの、俺は奥さんが大好きで結婚したんだから、お前家にいて留守番しろよっていう、すっごいひどいじゃないですかこれって。こうなってしまいかねないので、ノートはなるべく取らないし、ほぼ見返さないみたいな。
まあ置いてはありますけどね。白紙であればあるほど理想的な状態に近い。びっしり書いてあるっていうのはもう最悪だなって感じがしますね。もうびっしり書いちゃったら、なんちゅうのかな、裏切りまではいかないがその一歩手前。
逆転移としての憎しみを読みましょうみたいなノリになってきますよね。どっか憎んでると思うんですよ、ノートに取るということは。なんかこう手間かけさせやがってみたいなノリになっちゃっているってところを感じて、しかもノートぎっしり取ってる俺はちゃんと仕事しているんだみたいな。
自己愛とノートの重要性
すごい万能的な自己愛を感じさせますよね。だからそのノートとかを捨てられると多分傷つくと思うんですよ。これはいわゆる自己愛を傷つけているわけですよね。なんかこうね、分からずやってるのは許されると思うんですよ、こういうことは。
あるいは世の中で、昨日も塾の説明とかに娘に付き合って言ってきたんですけど、ノートノートノートみたいなこと言ってるんだけど、これはしょうがない。社会的圧力みたいなもんだし、不安の表れです。受験なんて不安そのものですからね。
ノートを取ってれば頭に入るという、紙のノートを取ると脳にいいんだみたいな、完全に呪術師みたいになっていくわけですよ。しょうがないんですよね。私の友達と言いますか、知り合いと言いますか、すごい頭のいい方で、あっさり東大に入って、あっさり東大の大学に行ってるんだが、
あのノート取れっていうの私ダメだわーみたいな。だって頭に入れなきゃいけないのにノートに入れてもみたいなことを言っていて、全然ノートを取らなかったんだけど東大生みたいなね。ああいう風じゃないとダメなんじゃないかなって時々思うんですよね。
頭がいいっていうことを目指すならですよね。私は分かんないですけど、私はノートを取りまくってたごくごく平凡な人間なんで、ノートに書いてあるから覚えるっていう、もうそういう神頼みみたいなものをやって、一生懸命ノートに書いては一回大学に落ちるっていう経験をしてるんで、ほぼほぼそういう極めて凡庸なところがあるんですけど、僕は凡庸だからこの仕事やってられるんだよなと思うんですけどね。
やっぱ頭に入れるべきだからノート取らないぐらい頭が良い人っていうのは、こんな仕事はしないだろうなという感じはしますよね。なんとなくですけどね。話がどうしてもあっちこっちに行くわけですけど相変わらず。
つまり、私が今考えているのは、3ヶ月チャレンジでなくてもいいんですけど、やっぱりメンタルコーチングみたいなものを、特に知的に高度な仕事に就いている専門職の人がつけたらいいと思いますよね。
スーパーバイズっていうのも、僕は心理職の人はスーパーバイズっていうことに、これはもうフロイド依頼の伝統だからそうなんだと思うんですよ。正規であれば必須みたいな。そしてつける方がいいっていうのはもう原則として本当だと思うんですけど、スーパーバイズばっかりつけるっていうのはサンチャリに入るって話じゃないですよ。
だけど、なんかこう、ちょっと違うところに、やっぱりこう、なんて言うんですかね、ウルトラマン呼ぶ…呼ばないか。呼ぶじゃないですか、子供がヒーロー、怪獣とかに襲われると。ああいうものであった方がいいと思うんですよね、心理的には。
あれだと万能的すぎて良くないかもしれないけど、あんな風に万能的なの飛んできてくれるわけじゃないけど、呼ばれて出てくるみたいな感じのニュアンスが欲しいなって思うんですよ。なんかスーパーバイズってあまりにも都定制度っぽさが強すぎて、なんかこうですね、鈴木智美さんはタイ科の方だから、なんかもうスーパーバイズをちょっと呼ぶ。なんかホテルのコンシェルジュ呼んだ、ボイ呼ぶみたいな感じで呼ぶんですよね。呼びつけるぐらいな勢いなんですよね。
ああである方が絶対いいだろうって感じが私はしました。そういうものとしてサンチャレがあると理想的な部分があるかなと思うんですよね。でもここまでできると今度は集結が見えてくるんですよ。
だから、何にもできないというのと何にもしないは違うじゃないですか。何にもできないから何にもしないにどうやって移行するのかっていうのが、サンチャレに目標はないと昨日言ったばかりなんですけど、ある意味目標だなと。
目標付近のことを考えるとウィニコットがバンバン出てくるんですよね。やっぱり彼は健常な小児科医だったんだなっていうのをすごく感じますよね。私がですね、やっぱり使用されるべきなんですよ。彼の言う言葉を使うと。
私が振り回されてる間はなかなかセッションの集結は見えてこないけど、私が使用されるようになれば、私を使用してくれるのがサンチャレでは一番いいわけですよね。でも私を使用できるようになってくるぐらいなら、もうある意味サンチャレって不要になってくるという気が最近してるんですよ。
カウンセリングだったらこれ完全に言える気がするんですよ。だから目標が達成できた頃には集結されるっていうのが望ましくて、ワークスルーってだから私最近すごい微妙なもの作業ってやつですよね。ワークスルーをワークスルーというフェーズがあるんですって言うんだけど、ワークスルーが順調になり始めたらもうカウンセリングしなくてよくないって感じがするんですよね。
だから臨床例にワークスルーそのものの技術って、技術というか省術されてないんですよね。物作業が大事だって書いてあった頃にはだいたいもうその臨床例は終わりに近づいてて、話がもうなんかスムーズになって、面白くもなんともなくなって、1ページぐらいで考察とかになっていくわけですよね。
だんだんわかってきたんですよ。ワークスルーをするぜっていう感じで、ワークスルーするためにカウンセリングしましたっていう感じなんだけど、ワークスルー自体はほぼ行われないんですよね。それを鈴木さんがよく書かれてるように無意識のワークスルーとか言えばいいんでしょうけど、それってだから書かれないですよね。無意識で行われてることだから。
時々、これも鈴木さんによく出てきて、ああいうふうであってほしいなと思うんですけど、臨床中に見た夢の話、あれが多分無意識のワークスルーなんですよね。臨床中に見たクライアントさんのではなく分析家の夢なんです。要するに逆転移としての夢ですよね。
あれがやっぱり再三に渡って言及されているのを見ると、この人はすごいというよりは親切だなって思いますね。書いてくれないんですよ。大抵の場合、自分が見た夢みたいなのってのある意味のある種の失敗みたいな失敗談みたいな話にもなるんで、でもそれをちゃんと成功例として書いてるところがすごいなと思うんですよね。
多分あれ、クライアントさんが見ても納得いかないと思うんですよ。いや、なんでその治療者が夢を見てそれが成功になるんだみたいな。私にとって何になるんだそれみたいなノリだと思うんですけど、私はやっぱり治療者が夢を見てるというのが、もうそのカウンセリングがほぼ成功に向かっている。成功というよりは成功に向かっている証拠になっていると思うんですね。
やっぱり、二者関係に入れないっていうのが最大の問題だと思うんですよ。依存できないってそういうことなので、二者関係に入れない。人との間に適度な母子関係が作り出せない。
グッドイナフマザーっていうのが、やっぱり社会問題とかジェンダー論みたいなところに行くのは僕はものすごく残念なことだと思うんですよね。グッドイナフマザーかどうか。あなたそれで子供を産むのにOKな状況かみたいな話だと、本当にグッドイナフマザー、本当の話になっちゃうんですか。
グッドイナフマザーっていうのはあくまでもカウンセラーのことだけを指すべきだとある意味、だけを指すべきだと言うとまたちょっと遊びすぎちゃってる感じなんですよね。確かにあれは母親のことを言ってるんだけど、ウィニコットは。
でもウィニコットって絶対二重の意味でしか言葉を喋らない人だから、世の中のお母さんは皆さんがグッドイナフマザーですって言ってるときにはすべてのカウンセラーグッドイナフなんだって言ってるのと同じだと僕は思うんですよね。
そういうのをお母さんの集まりの回とかで言っちゃうところがウィニコットの、ある意味お茶目すぎるところと言いますか、ふざけすぎなんじゃないかって言われても文句言えない気もするんだけど、すげーウィットに飛んでるような気もするよねっていうところなんですけど、要するに実母のことは言ってないって気がするんですよね。
あくまでもあれはグッドイナフカウンセラーなんですよ。グッドイナフカウンセラーというのはつまり、二者関係に入れりゃいいんだってことなんだと思うんですよね。
二者関係に入る入り口では絶対振り回さない。だから逆転意としての憎しみなんだけど、絶対振り回すしかないんですよね。利用できないんですよ。
この3ヶ月チャレンジでこういう話をしてるのは、私はこれも本当にルール違反なんですけど、やっぱり利用者は利用リテラシーをどうやってあげましょうかねって話もここに入ってるつもりなんですよね。
ウィニコットとカウンセリングの課題
私はそういう仕事を含めていこうと強く思ってるんで。我々はカウンセラーを使用できるんですよ。ユーズできるわけですよ。
だから公認審議士が増えるっていうのは良いことのはずなんですよ。なんかこれが良いのか悪いのかとか、GルートがBルートがとかいう話をしてるんだけど、でもやっぱり良いことだと思っておいた方がいいと思うんですよ。
せっかく制度を作ってせっかく人と予算をここに投入したんだから。で、使わなくてもいいから使用なんですよね。
ここのところに僕はリテラシーを要すると思うんですよ。だから何にも知らずに、それこそね、喉が痛いんです、はい見てみましょう、薬出しました、治りましたっていうのが理想的でベストなんだけど、残念ながら僕は精神的な分野においてはこの領域には達してないと思うんですよね。
やっぱりね、これは僕は失礼ではないと思うんですよ。敬意が払われてないとも思わないんですよね。まだ難しいと思うんですよ、この領域に入るには。なので、私たちは使用を目指して振り回しに行くっていうのが、そういう意識でいるってことが大事だと思うんですよね。
使用にいきなり慣れるなら、その人は行かないでいいんですよ、別にね。ここに矛盾があるんだけど、でもウィニコットの言う通りだと思うんですよ。だから失敗をせずに済むようなカウンセリングのやり方であれば、死に行かなくていいんですよ。ということは正規が絶対に失敗するってことになりますよね。
山崎孝明さんはその辺を微妙な言い回しを使われていて、失敗を私はしたんだが、まあ失敗をすればいいってものではないみたいな、そういうことですよね。でもね、心理カウンセラーにはするべき失敗があるってことなんですが、なんかこうしちゃいけない失敗もあるわけですよ。
まあそんなこと言ったってそれは失敗なんで、するべき失敗をわざわざしに行くのは戦略であって失敗じゃないってことになっちゃうんだけど、でもまあまあそういう区別はあるよなって感じもするんですよ。
で、この種のことはカウンセラーが知っていればいいだろうって話なんだけど、でも失敗だからカウンセラーが許せなくなって中断しますという中断が参加者さんにとって明らかに不利益になる場合もあるので、この辺のことを何らかの形で知識として仕入れていくというのを仕入れておくというのは、つまり逆転医としての憎しみというものが起こるんだけれども、
そのことに絶対クライアントさんが気づいたら傷つくに決まってるんだけども、そこで持ちこたえる価値があるのかないのかということについてやっぱり近味する能力というのを、能力というか知識というものを参加者さんは持っていた方がいいと思うんですよね。
その方が搾取問題というものに対して対応できるし、分析家が憎んでるのに尚行くっていうのはまさに搾取だろって感じがするじゃないですか。
でも搾取っていうのはつまり、だって分析家にとって結局金銭的に利益になって、しかも分析家相手のことを憎んでるなんてもう本当に手前が都合のいい話じゃないですか。
でもこういうフェーズがあるんだということを知っておいた方が後々得られるものが大きいと思うんですよね。
どうやって見分けるんだっていう話は、その人がどのくらい真剣にやってくれてるかどうかは、やっぱりそれもリテラシーに近いと思うんですよね。残念ながら。
これはもう人生経験みたいなもんですけれども、この人がお金のことだけを考え、それってすごく表層的になってるはずですから。
だけどそこは見抜けないんですって言われると本当になかなか大変難しい話になるんです。
でもお金のことだけ考えてこれを引っ張るっていうのは本当になんか冗談のように表面的な感じがします。
私の目から見てもですね、それを正規という人がやってるんだとすると本当に冗談だなって感じがするんですよ。
これは体感的にでも難しいところがあります。何しろ傷つくって嫌なことですからね。
傷つけられるぐらいなら傷つかないところにとにかく行きたくなるっていうこともあると思うんで、特にこう自我指示的なものをすごい必要としている場合にはですね。
だからといってなんかお石をガンガンかもしてきてすごいストリックなのがいいってことにはならないんで全然全く。
だから多分ちゃんとしてるところの人はやっぱりこう埋めくってのがあると思うんですよね。
なんか埋めている、埋めてても進歩しないじゃないですか。
依存の経験
でもやっぱ埋めてる人のところに行くのが悪くはないというのか一つの見抜き方かなって感じがするんですよ。
だから治療者が逆転移性の夢を見るっていうのは素晴らしいんですよ。
その人寝ながらうなされてるんでクライアントのことについて。
これがあるってことはいいってことだと僕は思うんですよね。
これやっぱり身体医療と全然違うんですよ。
相手が自分についてどれだけ真剣になってくれているかという体験を体感できるかどうか。
それを体感するためにやるっていうことになると嘘になってしまうんで。
それがいかに嘘でなくでも役に立っているとはとても思えないようなこの領域がしばらく続くと
ここを抜けられて相手を振り回すんじゃなくて相手を使用できるようになると。
じゃあそれいよいよ使用しましょうってなったら終わるっていう。
こういう感じだと思うんですよね。
使用できるようになったということは程よく依存できるということなんですよ。
程よく依存できるということはグッドイナフですよね。
程よく依存させられるってことになるわけですよ。
この程よさっていうのは体感的に使うしかなくて
フロイトの理論の変遷
ものすごく依存するか全く依存しないかこれが全く事実上依存できてない状態なんですけど
総極的になるってことですよね。
ものすごく依存気味になるときはあの圧倒的に欲打つ的に圧倒されるし
依存全くしない私はもう万能的に私のことは全部やれますってなると
超自我が圧倒的に優先になって総的になるしだから総極なんですよね。
で、この中間にいろんな省令が出てくるわけですよ。
あまりにも欲打つの方に触れたらもう総極はなくて
基本欲打つの側を見るし
総の時にはめちゃくちゃ多積的になって
打つの時にはめちゃくちゃ自責的になるっていうんであったら
どっちかちと迫害妄想気味っていう話になるでしょうし
総の時に食べないっていうのがもう全面的に出てくるなら
接触気味になるでしょうし
この話は全部ですね。症状を取っていくっていうのは
結果でしかなくてっていうのは精神分析的ですけど
症状を取るのを主体的な目的に置くのがどちらかというとやっぱり
まあわかんないですけどね僕はね。
わかんないですがCBT的かなとは思うんですけど
症状というものを無視するわけにはいきませんが
特に接触となると見えやすいんで
ここが見えやすくなるから症状に目が行くんですけど
やっぱり分析家っていうのは見ていると
症状のことはどっちかというとできれば他人に任せたいなっていう雰囲気は感じるんですよね
マネジメントの方ですよね行動的な
心理的な方に目をやると
あまりどっちかというとこの人を抱えようとしてきた人が
何かを怠ったんだと
でも分析のいいところって怠ってなくても
心的現実として怠られたんだと思うっていう方を重視するってことなんですよ
お母さんは実は怠ってなかったのかもしれないんだけど
赤ちゃんの目にはお母さんは全然仕事してないからだったのかもしれないですよ
私なんかうちの憎しの話を聞いているとそう聞こえるんですよね
いやいやうちの親は結構やってたと思うんだけどっていうのが
元として受け付けられないんですよね
心的現実の中ではでもいいんですよ
それでそこが分析のいいところなんですよね
フロイトは両方を検討していいところ天位ですよね
いいところの決着点を見つけられた人だと思うんですよね
最初は本当に外傷だったんですよ
親悪いみたいな親がそんななんか愛人ばっかり作るとか
娘とセックスしたがるとかやってるから病気になったんだよみたいなつまり
外傷説ですねトラウマ説から言ったんだけど
いやなんかでもいくら密室とはいえその親
私も実は知ってる親なんだけどそんな悪魔みたいなの本当なのっていうのは
次から次へとやってきてフロイトが傷ついたわけですよね
患者俺騙されてないみたいな感じになったわけですよね
ここから今度は逆になったんですよね
いわゆる内院説みたいな内院説じゃないね
心理説になったわけですよね
心理説になると何がいけないかって
社会正義が置き去りになるってことが起こるわけですよね
ジェンダーとかフェミニズムとかと精神分析が喧嘩してるように見えるのはここなんですよね
いや上司がセクハラだよって言ったらそれはあなたの思い込みですみたいな
思い込みを直しましょうみたいな
でも本当にセクハラなんですよみたいな話になっちゃうわけですよね
これわかんないことなので究極的には
お家でお父さんがあっての密室なんで
昔は貴族のお家だから密室がでかいし厳しいわけですよね
だからいよいよわけわかんなくなっていくわけで
心的現実というのは両方を取ったということもおかしいんですけどね
それはねどっちかだろう実はってことになるんだけど
とは言い切れないかもしれないですよね
例えば松木さんのに出てくるのがまさにいい例だと思うんですけど
お母さんが12時を過ぎるともう内職で
内職まっしぐらみたいな内職ですからお金にならないわけじゃないですか
だからもう娘の相手してられないから
ガンとして娘のことを無視するみたいな
これがそのお嬢さんにとって心的現実として
時が止まった世界を体験しちゃうわけですよね
お母さんもなんかいなくなるみたいな
だからそこにお母さんの姿は見えるんだけど
お母さんも私に反応してくれなくなったみたいな
これが完全に心的現実の中では外傷になっていって
不在の母親が存在するみたいな恐ろしいことが起きるわけですけれども
なんかもう幽霊見てるみたいな世界になっちゃいますよね
幼子にしてみると
でもそれは事実あったことでもあったんで
松木さんがその沈黙していると
不在の母親が存在しているっていうのを見ちゃうわけですよね
時計がコチコチってなってるんだけど
時間は一向に進んでないみたいな
そういう世界の話になって
松木さんを見ていても不在の母親を見てしまう
松木先生はそこにいるんだけど
私はここにいないんですねって
あんな解釈ができるんだっていうことに
感動させられるんですけれども
これをやってて何になるんだっていう話って
つまりそこまで真剣にやってくれるってことが一つあると思うんですよ
もう一つはやっぱりこの時の体験を幼児の心ではなくて
成人の心でやり直してみるっていうか
再現してみると違う捉え方が間違いなくできるんですよ
お母さんは私のために内職頑張ってたんだっていう解釈に
行き着くじゃないですか
頭は先にそこに行き着いてると思うんですけど
情緒がそこに行き着ければ
この時代は一気に進展しますよね
そうすると松木さんとこのことについて話し合うとか
使用ですよね
このことについて再検討加えてみるとか
いろんなことが象徴を使ってできるわけですよね
松木さんお母さんに見立ててましたみたいな
言い方もできるようになる
まさに象徴なんですよ
でもこれができるようになるってことは
もうそれをわざわざそこでしなくていいですよね
そういうことは他ともでもできますよね
つまり対象を使用できるようになった時には
もう忠潔が見えているわけですよ
対象を使用できるためには
相手を全体対象として見る必要がある
っていう言い方になるわけですよね
なんか部分として
姿が見えているお母さんの一部という姿だけを
捉えるっていうことをやるから
極端な場合幽霊になっちゃうわけですよ
でもそれって自分の世界なんですよね
自分の世界だってことは
お母さんを分割してるんだけど
不在のお母さんと存在してるお母さんに分けてるんだけど
今も不在になっちゃったんだと
だから幽霊ってのはまさにそうじゃないですか
本体のお母さんとは別個にあると
まさにスプリッティングが起きてるわけなんだけど
対象の使用と関係性
スプリッティングって結局
全部自分の世界なわけですよ
だから面白いんですよね
自分と対象が身分化だからこそ
対象そんなものが分化しちゃうんですよ
これが私がGPTに聞いたことなんですよ
身分化が分化ってよく分かんないんだけどって聞いたわけですよ
そしたら今のように今の説明よりも遥かにきちっとして
1こう2こうみたいな感じで
すげーなっていう感じがしたんですよね
だから今この話をしてるんだなと今思い当たったわけです
全体対象というのは
内職をして私に対して反応してくれないお母さんも
昼間私の相手をしてくれる優しいお母さんも
同一人物であると
そんなこと分かってるよっていうかもしれませんけど
分かってないんですよ
分かってないからこそ私たちは
急に表現して相手が怖くなるわけじゃないですか
職場でいつもやってる同僚が
いつも優しいのに
なんか私が遅刻してきた
あるいは私が書類に書き漏れしたとき
妙に恐ろしくなった
あたかも別人のように
その現実を受け止めてしまうから
つまりスプリットしてしまってるわけですよね
対象を
相手はミスに対して
何か耐えられない理由を持ってるのかもしれないとか
いろいろなこと考えられて初めて
相手を全体の一人の異なる2つの面として見る
つまり相手にその分かれた原因
つまり良い同僚と悪い同僚に分かれた原因は
相手にあるのであって
そこにコンサーンって考え方
つまり思いやりって発想が出てきますよね
相手にも事情があるんだということです
これがなかなかわからないわけですよ
情緒的に
だから相手の事情というのをすっ飛ばして
私にとって良い悪いが全てになってしまう
これが対象が私から身分化なので
相手の対象が分かれたときの分かれ方がきついという
良いと悪いの間がきついという
スプリッティングが激しいという
それは自分がスプリッティングを激しくやってるせいだということが
分かることによって
自責するんではなくて
相手の事情を汲み取るという方向に向かえば
OKですよねっていうのが
多分ミニコットが言った
対象が破壊された後に
現実が現れるみたいな言い方だったと思うんですよね
だからいつもいつも思うんですが
ミニコットの言うのは
集結付近の話をしているわけですよね
精神分析というのはどこに向かえばいいのか
みたいな話をしているんだと思うんですよ
だからある意味
ある種の人にとっては物足りないし
でもこれが一つの指針に使いやすいという
やっぱり分析がグッドイナフであればいいっていうのが
あの人の発想からよく見えてくるんですよね
グッドイナフを通り越してパーフェクトになってしまうと
クライアントさんはいつまで経っても
自分の自己愛的ワールドから抜け出せなくなりますよね
相手を振り回すに振り回して振り回して振り回していても
相手が切れないとかいうことになってくると
もう振り回してる相手でいいんだみたいな世界がそこに出現しちゃうんじゃないですか
そうは実際ならないんですけれども
なぜならパーフェクトな分析家なりカウンセラーなりというのは
存在しないからなんですよね
そういうことがまたもう1回回収してるわけですけど
白井和之さんのメンタルコーチングには
実は書いてあったっていうことなんですよ
読んだのは15年ぐらい前の話なんですけど
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