野球とひらがな
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ、第1177回をお送りします。5月5日、月曜日、9時31分です。
はいはいはい、子供の日、ゴールデンウィーク、真っ只中で、
私にとって子供の日といえば、
野球場の選手の名前がひらがなで表示される。外国人はカタカナですけど、とても読みやすい世界。
ああしちゃったらいいのになっていう感じは、僕、漢字とか別にいなくてもいいんじゃないか人間なんで、
韓国とかではそうですね、ハングルだけになっていますが、別にあれで困ることないじゃんって感じがしなくはないんですけどね。
まあちょっと不便になるかとは思うんですけど、まあまあ、そういうことを考えていてもしょうがないんだけど、少なくとも野球の選手の名前をローマ字にする必要ってあるのかなって感じがしますね。
なんか最近日本ってすごいブームじゃないですか。昔だったら外国人が読めるようにってのはわかるんだよ。
でも今の方が外国人が読む必要があるのかもしれないんだけど、外国人ひらがな勉強しようよぐらいのノリになってきてないですかね。わかんないですけどね。
別にひらがなだったら難しくないじゃないですか。そしてひらがなを特にアメリカの人が理解することによって、なぜ日本人がああいう発音になっちゃうかというのが、多分わかってもらえるんじゃないかと思うんですよね。
正しい発音とか日本の人好きですけど、どう考えたって英語に正しさを求めるのってむなしいんで。
だって世界で一番英語喋ってる人間の数って言ったらインド人だと思うんですけどね、私は。知らないですけど。
で、インド人の英語が正しいならアメリカ人の英語は正しくないし、もちろんイギリス人の英語も正しくないとかいう狂ったことになってくるんで。
そんなこと言っててもしょうがないと思うんですよね。あと、僕2番目に多いのは中国人じゃないのかとアメリカに行って思ったんですけれども。
あとメキシカンの英語ですね。だから正しい英語とかっていうのはもちろんイギリス人のそれだってことになるんだろうけど、アメリカ人はイギリス人の英語は正しくないってみんな平然と言ってますから。
僕の聞いた判定ではですね、とにかくあいつらの英語はわかんないとか平気で言うんですよね。すごいこと言うなって感じがするんで。英語って言ってるんですよねしかもね。
アメリカイングリッシュとか言う人もいますけど、いましたけど、なんかブリティッシュイングリッシュとかって言っちゃうんですよね。すごい言葉だなそれもと思うんですけど。
本家争いってめんどくさいですよね。でもイギリス人は人口的にはやっぱり部が悪いと思うんですよ。
10億人とかいませんからねどう考えてもあの島の中には。しょうがないですよね。いても結構困りますしね。どうでもいい話が続くと良くないので、本題に入ろうと思います。
ディスコードとスッキリ感
3チャレ始まって5日目だとかいうことに興味はないんで。でもやっぱり最初のうちは慣れないってことがすごい問題だなと思いつつ、
ディスコードというサービスに切り替えてから、すべてがすっきりするという意味ではすごい良いなと。まず、フェイスブックって結局どこに出してるかを相当はっきりと意識しないと、SNS上なんでどこまでも出ちゃうっていう。
私1回しかやったことないんですけどそのミスをやっちゃったことがあって大したことじゃないんですけどね。本当にこう一般公開にしてしまうとか友達公開にしてしまうとわけわかんないことになっちゃうんで、もうこれがなくなっただけでも素晴らしいなっていう感じがするんですよね。
3ヶ月チャレンジに投稿してるかどうかの、鮮明ですけどね、フェイスブックだとしても。ちょっとやっぱり事故ることがあったので、それもちょっと前々から気にはしてた。でも一番気にしてるのはザッカーバーグさんがやる気を失ってるんじゃないか感を非常に感じさせられることが多いので、
なんかね、どっかに売り飛ばしたりされると、あとあと非常に途中でやられるとめんどくさいし、いろいろめんどくさいんで、あのさっさと移行したかったというのはもう実は7期ぐらいの以前から考えてたんで、それがずるずると伸びて結局10期になったんですけどようやく移管できて、実は本人としてはすごいスッキリしているというのがあったりします。
まあこれもほぼどうでもいいことですね。でもスッキリしたというのがもう何よりもこの話でですね。あとちょっとこう、これはですね、これからアンケート調査をしたりなんかしながらおいおいと思ってるんですけど、無料体験に近い何かを用意したいなというふうに最近じわじわと思うようになってきました。
ここから先はここまではですね、思いのほか上手くいって、一応ビジネスらしき形を整え始めたんですよね。ここまではなんかよくこれ、まあでもいいんですけどね、よくこれでっていうのはちょうどいいぐらいに思うんですけど、3ヶ月チャレンジの一つの特徴として、やっぱり現代のこの種のビジネスとしては徹底的に逆張りへ向かうという。
まず習慣化を歌わない、これがもう最大だなって思うんですよね、一つのね。習慣化を歌わない、目標を設定しない、ゴールも決めないというのが、まあ一つの態度だなってか、当然その進捗状況は検討に入れないと、これも一つの態度だなと思うんですよ。
なので、この種のサービスでこれらを一切歌わないと、目的もはっきりさせないと、ないわけじゃないんですけど、はっきりはしない。再現性を歌わないと。
で、これらのサービスでこれを歌うとですね、もしかしてゼロでもおかしくはないと思うんですね。でもおかげさまで2桁に達しつつあるので、毎回絶対2桁とは言いませんけど、2桁の皆さんにご参加いただいてるんで、これはすごい感じがするんですよね。
僕の限界点が多分20名、多分ですね、ありとあらゆるものを抑えに抑えて20名が多分いっぱいいっぱいだろうと思うんだけど、ここまでやると他の仕事に100%差し障るんで、それは良くないので、あとうちの家族にもね、差し障るんで、これも良くないので、今の段階では20名まではいけないだろうという感じだから、まあある意味もいいわけですよ。
ある意味では。で、同時に考えないといけないなぁと思うのがですね、さっきの逆張り、逆張りで言ってるつもりはないんですけれども、結果として逆張りになるというだけなんですけどね、未来志向でないというのも、未来志向でないとまでは言い切れませんけど、原則未来、未来というものには何もないわけじゃないですか。何しろまだ来てないわけですから。
だから未来志向という、未来を向いてるのは人間みんな未来を向いちゃってるから、志向してるのが過去だとかいうことはありえないんですけど、無理をしないっていうことの極端な形態と考えてもらってもいいのかなと思うんですよね。
将来に何かを達成するとかいうことを置かないということですね。
なんかね、やっぱりね、そういう意味で自分のに一番基質的に合ってるのが、枕園圭三さんのGood Vibesなんですが、それを僕が言葉で説明して、かつ人にも伝わりやすくないようにも思うんですけど、でも伝わりやすい形を取ると精神分析になるんですね。
精神分析と一般化
そういうことでもあるんですね。
精神分析というのはですね、いろんなメリットがあると思うんですが、今言った話で言うと一つには、あなたの不幸をありきたりの不幸にするっていうあれですよね。
つまり一般化の方向もまた逆なんですよね。
一般化というのは普通はですね、特にビジネスの世界における一般化は普通は、あなたが今どういう状況にあろうとも、この一般的に良しとされる目標に向かうんですっていうのがビジネスの世界における一般化だと思うんですよ。
例えば、あなたが今どういう借金まみれであろうとそこそこ資産があろうと、収入を毎月1億円にするのが一般的な目標ですみたいな、こういうことなんですよ。
これはこれで当然あるわけですよ。
なんだけど、私にはこれはどうしてもピンとこないですね。
現在の状況とか過去のいきさつを無視していきなり目標を置けないような気がするんですよね。
だから、大概の方法論としてカスタマイズする方法論は特にですね、マイナスを0に0をプラスにって言うんですけれども、そういう考え方をとるんですね。
過去のいきさつを検討に入れつつ、その人にあった未来の設定をしましょうと。
でも僕はこれも釈然としないわけですね。
過去のいきさつを検討に入れた途端に、僕自身がそう思うんですよね。
過去のいきさつを検討に入れた途端に、過去の問題が大筋片付けば、それ以上欲しいと全然思わなくなってしまう自分がいるんですね。
で、マイナスをプラス0にっていう言葉も、あたかも0以上のものがあるみたいじゃないですか。
だから僕の感覚には0以上のものってないんですよ。
0は最高なんですよ。
全集の坊さんが丸書くんですよね。
あれ0っていう意味も含めているんですけどね。
精神分析にはあるんですよね。
ビカミングオー、あれはビッグオーとの出会いのオーですよね。
あれも丸ですよ。つまりフーなんですよ。
これ以上ってないでしょうって感じがする。
マイナスを0にするのはまあよしとして、0をプラスにするっていうのが僕には全くじっくり来ないですよ。
だから0で良くなったのに、例えば今のある年収ですごい満足できるようになりました。
プラマイ0になりました。
感覚的にね、これでもう過不足ないんだとなった途端に、ここに年収を加えることはプラスじゃないと思うんですよね。
僕はマイナスに感じられるんですよ。
今より増える。金額は増えるかもしれないけど、日頃は絶対増えると思うんですよね。
だから僕には今で過不足ないのに、なんで年収を増やすことがプラスなんだって感じがどうしても抜けないと思うんで、
この0をプラスにというのが僕の中にはないので、0は最高なんで。
だから0をプラスにできるはずはないから、この中でやっぱりマイナスが0になるという、つまりあなたの痛ましい状況がありふれた不幸になるんです。
それはもうフロイト万歳って感じですね。さすがフロイトだって思うわけですよ。
ありふれた不幸になったらもうバッチリじゃんって感じがするんですよ。
僕なんかほら、自分に全くに使わしくないのに、大学では一生懸命彼女を作るという、それ以外何も頭になかったわけですよね。
で、4年間失敗し続けるというね、ことがあったわけですよ。
これって周りから聞くとありふれた馬鹿げた行為なんだけど、僕の中では切実だから、ものすごい痛ましい状況にあったわけですよ、後から振り返ってみると。
あの痛ましい状況が笑い話にできるというところに大きなポイントがあるわけですよ。
で、そうなればそれでいいんですよ、別に。
あ、彼女ができないというのは残念だけど、そんなの普通にあることだよねっていう風に自分で思えるようになったら、別にここから先プラスとかいらんのですよね。
その後彼女ができなきゃダメじゃんってことはないわけですよ。
そのできなきゃじゃめって思ってるところがマイナスなわけじゃないですか。
だからマイナスがゼロになることあってもゼロはプラスにはなんないですよね。
ようやくこの彼女なくていいやって思えました。
だからこれから彼女作りましょうっておかしいんですよ、僕からするとそれは。
またしてもゼロをプラスにしようとしてマイナスの沼にハマってるわけですから、外的な状況が自分の幸せを消するという風に、外的な状況を自分に合わせて良くしたいと思うのは結構だけど、
外的な条件が自分の幸せを消すると考えるってこれをやめなきゃいけないと思うんですよね。
で、やめるってところが僕からするとやっぱゼロ、究極的にはゼロなんですよ。
仏教と無我の理解
だって仏教では無我の教師ですからゼロなんですよ。
で、仏教って無我の教師以上のこと言わないじゃないですか。
ついに無我になったからこれからちょっと億万長者目透で、全然おかしいじゃないですか。
全然無我じゃないじゃんって感じがするじゃないですか。
だから僕はこういうことに悲しになると、今まではそうだったけどこれからはプラスも目指しましょうねみたいな話にしちゃうんですけど、
それはだからそういうのがつまり煩悩って言うんだよって感じなんですよね。
なんか急に勝手に自分で今までは仏教だったらここからは煩悩でいくみたいな話をするのが普通にそこら中にあるのがとても信じられないんですよね僕は。
だったら仏教じゃない考えでいけよって感じがするんですよ。
マインドフルディスとかでも全部そうですけど、ついに煩悩を取り払ったからいよいよ私は自己実現します。
その自己実現が煩悩だろうって感じが。
というか僕はもう100%そうだと思ってるんで、自己実現には手を貸しません。
自己実現は自己実現のところに行ってやったらいいんですよと思うんですよね。
仏教に自己実現とかないんで、精神分析にも自己実現ってないんですよ。
事故がないから。精神分析に事故って概念はないんですよね。
だからハイツコ・フートっていうアメリカの自我心理学の精神分析学会の会長の人が、自己心理学とか突然言い出したからクビになったはずなんですよ。
少なくともあれは精神分析ではないと。
藤原直樹さんなんかおっしゃってますけど、まあそうだろうと思うんですよね。
事故があったらもう精神分析じゃないじゃん。
事故ってのは精神分析的に言うとおそらくですけど、対象関係のディスカッションから生まれてくるものであって、
例えば私の中では内的な母親、あるいは内的な父親、内的なJさんとかね。
これらのディスカッションした上での佐々木賞吾らしきものがポンと現れるんで。
しかもこれは不安定なものですよね。
しょっちゅう揺れるんですよ。アイデンティティというものが確立されている何かではないんですよ。
だからこのディスカッション、これは脳科学の方でも大体こうなんですよね。
大脳変異型ではこういう、変動体ではここでアラートを鳴らすみたいな感じで、いろんな脳からのワーってやるのが割と議会性なんですよ。
で、独裁者いないんですよね、脳の中にはね。
いつもこの独裁者探しを始めるんだけど、いないんですよ。見つからないんですよ。
僕は脳に先端はないっていう言い方をするんだけど、絶対ないと思うんですよね。
脳にセンターは。脳皮質がセンターですとか、前頭前夜がセンターですとかって言ったって、
例えば、カエルとかに前頭前夜ないですけど、カエルに主体性がないかというと微妙な話になってくるし、
だからこの前頭前夜が主体であるっていう言い方をすると、人間以外主体はないって言ってるような感じになるんだけど、
それは嘘ですし、しかもその主体性はあっさり奪われるんで。
場合によってはですね、前頭前夜じゃない動きをしてる人って世の中にいっぱいいるけど、
彼らに主体性がないって言ったら多分大問題だと思うんですよね。
だからそういうような感じで、前頭前夜って嫌なんで、前頭前夜に主体性があるって言い方をした場合、
前頭前夜のどこにあるのっていうこのホームクルーズ問題みたいに必ずなっちゃうんですよ、これをやると。
これだから、不毛なことをやってる感じだとやっぱり思うんですよね。
なのでやっぱりこれは僕は、自己実現とかいうものは他でやりましょうって思います。
サンチャレとかで自己実現やるのやめましょうと。
自己実現と精神分析
あとはマインドフルネスみたいなものを、煩悩重則の道具みたいにするのをやめましょうと。
方向性逆なんで、あり得ないだろって感じがします。
私は一郎と禅みたいな話も個人的には全く乗る気がしないんですよ。
彼は全く偉人だと思うんだけど、あれは禅じゃないだろって思うんですよ。
別にあれが禅だっていうことにしてもいいんですけど、私はそうは思わないなって感じはします。
これは個人の見解なんでね。
これもここまで喋ったこともほぼほぼどうでもいいような話だったんですけど、
少し革新に、革新というか今日のテーマに近づいた。
今日のテーマがあるわけじゃないんですけど、気がしたんですよ。
つまり、精神分析のもう一つの、この線に沿った良さというのはですね、
痛ましい不幸をありふれた不幸にするとか、
基本的にはマイナスというものがゼロに近づいたらそれで良しとする。
完全感慨を目指さないみたいな言い方をしますね。
もちろん自己実現とかは一切ないし、私ここでコーチングやるつもりは一切ないので、
これとコーチングは何の関係もないと思っているんですね。
あくまでもメンタル、メンタル、メンタライゼーションという言葉はまたちょっと言っちゃうと違うところに行ってしまうので、
精神力道を参照してメンタルをサポートする。
もうここに尽きるなと。サポートし続けているみたいな感じなんですよね。
で、そこにどうしても入ってくるのがアセスメントって問題だと思うんですよね。診断みたいな。
で、私素人だからもろんできないし、診断できないし、素人診断になってしまうんだけどとはいえ、とはいえですね。
このように素人診断は付きものだし、素人診断がゼロで生きていけるかというとそんなことは絶対ありえないじゃないですか。
例えば私は娘の素人診断しないわけにいかないですよね。
あたりをつけて病院に行くってことはすでにやってるってことじゃないですか。
正しいと思っているわけじゃなくて、ある程度正しいと思ってやるに決まってますよね。
皮膚から発疹が出てるんだけど、名医者に連れて行くとかしないじゃないですか。
整形外科医に連れて行くとかも基本やらないですよね。
なんか特殊な病気でそういうことが起こるのかもしれないけど、基本やらないですよね。
だから素人診断ってするんですよ。
それが自家中毒みたいなわけわかんない名称だったとしてもやっぱりするわけですよ。
この中で避けて通れないものとして、私のような職業では避けて通れないものとして、
もうこれはビジネス用のサッカー全員避けて通れないと思うんですけど、
ほぼ避けて通れない。
自己啓発は絶対避けて通れないと思うんですけど、
発達障害と鬱病、これはもう絶対避けて通れないなと。
私はその多くは抑鬱症で説明つくと思うんですけれども、
でも問題なのは説明つけることではないんですよね。
ここも精神分析のいいところなんですよ。
精神分析ってそこが批判されなんだけど、
必ずしもアセスメントというものを、アセスメントしないわけじゃないですよ。
すると思います。
しかもその見立てはかなり正確だと思うんだけど、
でもアセスメントを別に売りにしてるわけじゃないと思うんですよね。
売りにしてるわけじゃないって言い方は非常にセンシティブなところがあるんで、
スルーしますけど、
基本的に僕はアセスメントを売りにしてるわけじゃないと思うんですよ。
ただ、精神分析の世界では、
アセスメントとコミュニケーション
僕はもう少しさらに巧妙に扱っていただきたいという要望みたいなものが、
精神分析に意向を出してもしょうがないんだけどね。
何の関係もないから。
でもあるんですが、
あれはコミュニケーションのツールとして使われてると思うんですよね。
症状というもの、症状とか症例診断みたいな。
症例診断主義、これも説明するとめちゃくちゃ長くなって、
それだけで終わっちゃうからしませんが、
DSMっていうのが有名なのがありますね。
IC、世界保健機構の方でやってるのと微妙に違うんですよね。
例えば最近の話題になっているというか、
話題になっているらしい、
僕は有名人の人って分かんないから、
名前間違いそうで怖いんですよね。
広瀬良子さんっていう人はいらっしゃったと思うんだけど、
僕知らないんで、
知らないですから本当に。
昔々、JFONっていう、
まだまだ昔の使ってたら、
のりかちゃんが使ってるから買ったのとかって、
からかわれたことがあるので、
のりかちゃんって誰ですかって感じだったんですよ。
今でもフルネーム出てこないし、
もちろん僕は顔は一切思い出せないんで、
ていうか、僕に顔が思い出せる人間はいませんけれども、
芸能人の顔は全員全く同じに見えますから。
これは何か言いたいわけじゃないんでね。
送局性感情障害って言葉がありますね。
言葉が出てきましたね。
でも私DSMの方には、
送局性障害しかまだないんじゃないかと思うんですね。
調べてないからわかんないですけど、
詳しい方は調べてたり批判したりしてください。
私としては正確な知識があるわけじゃないんで、
ただ、感情をここに入れるということは、
私は精神力の世界ではおそらくそれを
コミュニケーションとしてみなすって考えを取ると思うんですね。
例えば私はアトピー持ちだったわけですが、
私はアトピーですっておかしいですよね。
私はアトピー持ちですってのが正確です。
こういうもんだと思うんですね。精神症も。
精神症は私は鬱ですって言っちゃうんですよね。
そしてそれはあんまり、今はそうだったと思うんですけど、
そんなにおかしな感じがしないじゃないですか。
でも私は例えば骨折ですとか言ったら、
明らかにおかしいですよね。
症状というのは一過性であり得るはずなんですよね。
一過性であったとしても、
それは慢性化していて厳しいですっていうのも
一つの伝え方であって、つまり伝え方なんですよ。
だから私は発達障害という性向があり、
特性がありますっていうのはわかるんだけど、
私は発達障害ですっていうのは、
すごい独特のコミュニケーションだなって感じがするんですよね。
こういう番組でよく喋ってるから、
私はそういうのを認めてないように聞こえるかもしれないけど、
一つには私は素人だから素人診断はしたくないというのがあるんです。
もう一つは、これはコミュニケーションなんだって考えるんで、
別に指定するとか拒否するとかいうことではないつもりなんですよね。
つまり、ここでこういう言い方をすると、
案件の上に非常に突き放された感じがするっていうのはわかるんですが、
むしろ逆じゃないかなって僕なんか思うんですよね。
私がアトピーです、アトピー持ちでしたっていうのは一つのコミュニケーションじゃないですか。
別に言わずくったって今はアトピーじゃないんだから何でもないんですよ。
アトピー持ちでしたっていうことは何かを伝えようとしてるわけですよ。
で、私は発達障害ですっていうのも同じだと思うんですよ。
それによって何かを伝えようとなさっているっていうふうに捉えればいいと思うんですよ。
で、現実にそうなんじゃないかとも思うんですよね。
接触障害の理解
これを、つまりその切実さというものをどの程度切実に伝えたいかによって、
このニュアンスは微妙に変わっていくはずで。
聞いてみればコミュニケーションの、コミュニケーションの取っ掛かりみたいに言うと軽々しい感じに聞こえる。
だから炎上案件っぽくなるんだけど、僕は絶対そうじゃないと思うんですよね。
そこをむしろちゃんと受け止めるためにこういう観点の方がいいと思うんですよ。
一歩間違うと、あ、何々なんですね。
では、この何々という薬を出して、何々療法でいきましょうみたいになった方が厳しいと思うんですよ、扱われ方としては。
二大症状とはよく言ったもんでですね、鬱と統合失調ですけど、
僧侶と欲鬱っていうふうに見ていくっていうのはやっぱり僕はですね、重要なことだと思うんですよね。
つまり、具体例を出さないと分かりにくいんですけど、具体例を出すのがセンシティブすぎるっていう問題なんですよね。
こういう時は得意のあの、林翔霊が本に書いてあったやつを出しますが、
鈴木智美さんの本最近ずっと読んでるわけですけど、
接触障害という方がもうバーッと出てくるわけですよ。
あの方は接触障害見てきたから。
この説明がもう本当に繰り返し繰り返し全く同じ説明だなっていうぐらい繰り返されていて、
よほど強調したいのかなっていう感じがするぐらい強調されているわけですけれども、
そこに書いてあることって結局、接触障害の人というのは、
痩せることに万能空想を抱いているんだってことがまず一つなんですね。
それによって何を維持しようとしているのかというと、
私は素晴らしくて特別な人間なんだっていうことを維持しようとしていると。
つまり、痩せることにかけては誰にも負けないよと。
そして手段を選ばないよと。
寝剤50錠飲んで、食べてすぐ吐くぐらいのことをやるよっていうことが、
もうその人にとっての一つのアイデンティティになっているわけですよね。
で、それに対してその人の中では太る、
見にくくブヨブヨになるとかそういう表現をとるんだけど、
あと性的にだらしないみたいな感じ。
これはもうどう考えても父親か母親に対する嫌悪感なんだと思うんですけどね。
つまり、本能に負ける弱い自分というものに対する嫌悪感があるわけですよ。
ここにはだから、理想的な在り方に対する万能空想がありますよね。
勉強ができなくなりつつは、もともといい子だったことをまた強調されているわけですよ。
でも、小学校低学年におけるいい子っていうのは真面目にやってりゃ普通にいくじゃないですか。
残念ながらと言ったら変ですけど、
3個のさくらんぼと5個のさくらんぼを足すと何個になるでしょうの世界ですから、
これを真面目にやっている平均以上の知性の持ち主であれば、
これを真面目にガリガリやっていれば優等生になれるんですよね。
で、どうしてそれをやってきたかというと、
いろんなことがあるんだけど要するに人に好かれてないっていう思いがあるわけですよね。
人に好かれてないんだから先生とかお母さんが自分のことをいい子いい子言ってくれるという状態はものすごく大事なんですよね。
維持しなければいけない。
これを言ってくれるから友達にも一定以上の人気が集められていると。
ここから自分がさくらんぼ8個の世界を取っちゃったら何も残らないっていう恐怖があるわけですよ。
でも、だんだん勉強がXの事情がどうたらこうたらになってくると、
常に真面目にやってるだけで先生もお母さんもみんなが褒めてくれるっていう世界に居続けるのは難しくなってくるじゃないですか。
この難しくなってくるっていうのが普通の意味以上のものだからあなたの痛ましい不幸なんですよ。
ありふれだ不幸じゃないですか。
いやX事情になったあたりからさくらんぼより難しくなったよねって当たり前の話であって別になんてことはないんですよね。
いや勉強難しくなってきて中学になってきたから塾でも行こうかしらみたいな話って厳しいけど、でもちょっと厳しいっていう感じですよね。
世の中の人にはだいたいこなせる厳しさですよ。
でもこの人にとってはそうじゃないんですよ。
これになった瞬間にお母さんから捨てられ先生からも見捨てられ、実は友達は誰も私を相手にしてくれなくなるっていう難しさがここに追加されてるわけですよね。
だから何か見出さなきゃいけないわけですよね。
それが私は誰よりも痩せるのが得意であるという話。
で、BMIが10になるとかよくわからない世界に入っていって、あばら骨が全部見えるというのが素晴らしいわけですよ。
ついでに女性的になっていかないというのもすごく大変。
だからこれは女の子が多いってことになってるわけですよね。
女性的になっていかないと。何なら男性的であると。やっぱり独特ですからね、それ。
この独特さが大事だってこと。ここに万能感があるんだ。
愛情の表現
勉強が行き詰まってきたとしても、別にすごいできないってわけじゃなさそうなんですけど、行き詰まってきたとしても、すごく優等生だというわけではなさそうだということになったとしても、結構言葉使いが暴力的になったりするから。
でも痩せられるんだから。特別なんだよっていうことを、まず自分に納得させられる。そして見た目で納得させられるという話になってて、でも、まあ体はそれを受け入れませんよね。
このままいって死んでたまるかってことで、食べなきゃってことになるんで、食べますよね。
だからこの過食の方は問題じゃないんだと。
これは松木さんが書いてるし、問題なのは本人にとっては問題なんですけど、松木さんも鈴木太文さんって方も書いてらっしゃるんですけど、これは本の中に書いてあることね。
過食が問題なんじゃないんだと。過食は反動で当然来るものだから、そんないわけにいかないでしょうと、そこまでいっちゃったらっていう、単にそれだけのことなんだと。
これを納得できるように、納得できないですけど、当人にとっては。なぜならば、いい子でなければお母さんを相手にしてくれないからっていう。
で、ここにはしばしばあるんですけど、これは鈴木太文さんの方では特に取り上げられてましたけど、兄弟に対する問題っていうのがあるんです。
兄弟は例えば、お姉ちゃんは出来が悪かったです。弟はすげえ騒がしいです。なのにお母さんはそっちばっかり見てますと。
だからあなたは手がかからなくていい子ねっていう、ここにアイデンティティを持とうとしてるわけだけども、これはつまりどういうことかというと、こう見えるんですよね、その子からすると。
お姉ちゃんあんなに出来が悪くても、愛されてると。だからお姉ちゃんは生まれつき愛される資質を持って生まれてるんだ。
弟はあんなにやんちゃでバカなのに、やっぱり愛されてる。世の中、愛されるバカっているよなーっていうことで愛される。
私には何にもないって、これなんですよね。突然そういうことになっちゃうわけですよ。そういう事例があるってことですよね。
だから接触障害と一つ言ってもやっぱりすっごく千差万別で、なんでこの接触障害の話が僕が惹かれるかというと、僕が接触障害というものに直接携わっているからではサラサラなくて、そうではないですよ。
その次に出てきている、我々鈴木智一さんの論文ではしばしば目にするんですが、ねじれた愛情気球っていうのがあるんですけど、あれはボーダーラインパーソナリティなんですよね。
パーソナリティ障害の中でも、いわゆる境界性人格障害と漢字では言うやつで、ボーダーライン。そっくりなんですよ。ただ接触障害じゃないだけで。
言ってることは何も変わらんのですよね。やっぱり最初お母さんは愛情を深く接して、実は結構愛情かけてくれてるんだけど、お母さん多分相当不器用な人なので、
愛情をかけているということが示せないんですよね。で、ケアしまくるお母さんになっちゃうわけですよ。見ていると。
例えば、ちょっと調子が大学になって一人暮らしして調子が悪くなったとなると、大量に相材を作って持ってきて、何時間も夜に車で飛ばしてくれると書いてあるんですね。
めっちゃ愛情深いんですけど、でもわざわざ来て、来るなり部屋がしらかってるとか言って怒り出して、なんか寝込むと舌打ちをするみたいな。
そういう、うまく示せばもっと遥かに簡単な話なのに、最も下手を打つみたいな感じになっちゃうわけですよね。
お母さん愛情たっぷりなんだけど、示してくるものが愛情じゃないものになってるんですよ。
私、愛情を別のものに切り替えて表現しちゃうということには、人は少々気をつける必要があるだろうと思うんですよ。
愛情を示すべきなのは愛情であって、ケアじゃないんだと思うんですよね。
ケアケア最近よく言われてるからよく思うんですけど、ちょっと昔のアダルトチルドリンの世界でも、
あれはそのまんまを信田紗友子さんとかがおっしゃりたいわけじゃなかった気がするんだけど、
どこかでインナーチャイルドみたいなのと合流して、あなたのかわいそうな自分自身を抱きしめてあげましょうみたいに書いてあるんだけど、
私あれダメだとよく思うんですよ。抱きしめちゃダメだと思うんですよ。
大事なのは愛情を示すことであって、抱きしめることではないと思うんですよ。
それで示せる場合はそうすればいいんだけど、それで示せるかどうかはまた別の問題であって、
愛情っていうのはどこまで言っても気持ちの問題なんで、形式にはならないはずのものだから、
だからよく愛情をお金で示しちゃう人もいるわけじゃないですか。そうすると逆効果になるじゃないですか。
でも示してる方は精一杯のつもりなわけですよね。その人にとってお金すごい大事だから、ということがあると思うんですよ。
この接触障害もオーダーラインのパーソナリティ障害も、実はそっくりの精神構造を内部には宿しているということがあって、
だから途中言った通り発達障害なのですとか、私はアトピーなのですっていうのは、症状としてその人がそれが辛いというのはもちろんのことなのですけれども、
問題なのはそれが取っ掛かりとしてのコミュニケーションになっているんだというのを持っておかないと、
アセスメントをすることの方が重要だというのは、診療内科に行けばその通りだと思うんですけれども、
いわゆる耐心支援職をやっているようなサポートという話になってくるとですね、
アセスメントというのかな、症例診断の言葉はそれはそれとして受け止めて、
そういうふうに見えることがお医者さんの目にそういうふうに映るということがこの人においてはしょっちゅう起こるんだなということにしておいて、
同時にこれによってこれをこの人がここで言いたいというのにはどういう意味があるんだろうという話に持っていくほうがいいと思うんです。
それが接触なのかボーダーなのかというよりも、やっぱり万能感が必須なんだっていうまず訴えですよね。
そして私は特別じゃなきゃダメなんだと、これっていうのを自己愛性っていう、やっぱりこれだからボーダーラインと言いながらすごく自己愛を感じさせられるし、
接触障害でいても自己愛というものを感じさせられるんだけど、それを30とか20代後半の人が言うと傲慢だって話になりやすいんですよ。
特別扱いの心理
私特別だからっていうのをそんなにも強く言われていると、でもそうじゃないでしょうってことなんですよね。
この人の収穫にあるのは、これがなくなった時に欲打つに耐えられないという問題であって、
なんで欲打つに耐えられないのかっていうふうに正していく必要があると思うんですよね。
欲打つに耐えられないというのはつまり平凡に耐えられないってことじゃないですか。
で、この人の中では平凡というのは多分平凡じゃない意味があるんですよ。
だからさっきの弟さんはすごいやんちゃでおバカだったけど愛されているように見えるわけですよね。
ただ手がかかってるだけだと思うんだけど。
お姉ちゃんはすごく出来が悪そうなのに妙に愛されているように見えるわけですよ。
つまり生まれつきなんか持ってるみたいな、そういうオカルトがあるわけですよ、ある意味。
それに対して自分には何もないになるわけですよね。
オカルトだから。
だから自分は社会的に意味のあるとされているように見えることをすげー頑張らなきゃいけないってことになるわけです。
のうちの一つに例えば痩せるがあるんだってことになるわけですよ。
だって痩せてちやほやされてる女性はいるわけだから、現に。
だからこの痩せにおいては誰にも負けないというところに自分を持ってきて、
これはつまり自分にオカルトがないもんだから合理的に説明が何らかの形でつくような努力ってものが
自分に強いなければいけないってことですよね。
これがだから筋肉であろうと痩せであろうと大して違いはないと思うんですよ。
つまりそれはオカルトじゃない努力ってことなんですよ。
オカルトじゃない努力にオカルトを見るわけですよね。
オカルトじゃない努力に超自然的な効果を見出そうとしてるわけじゃないですか。
痩せれば頭が良くなくても言葉遣いが粗暴で、男性みたいな女性でも私は全ての人に愛される。
そういうものになり得るはずだっていうのって、どこか急に合理的でなくなりますよね。
これとそっくりそのものがボーダーラインという先生は私を誰よりも愛してくれなければいけないっていう話になるわけですよ。
この誰よりも愛してくれなければいけないっていうのは、さっきの痩せた私は誰よりも愛されるはずだっていうのとそっくりですよね。
これはつまりあるがままの自分は誰にも愛されないという気持ちの裏返しなんですよ。
理解されない要求
このあるがままの私は誰にも愛されないというのは、結構ありふれた主張のように見えるんだけれども、
切実になってくるとよくわからないことを場に聞こえてくるんですよ。
ここに僕は統合主張とかのある種のすごい分かりにくさ、総極性でもいいんですけれども、要するにバイポールですよね。
一見白黒思考とか完璧主義とかいうのは、いや完璧主義やめましょうとか、白黒思考やめましょうとか、100でなければゼロとかいう、
100点じゃなければ0点と同じでやめましょうっていうのは、一見極端な理想主義者なのねぐらいに思うかもしれないけど、
これがもう少し病理系に触れてくると、わからん主張に聞こえてくるわけですよ。
例えば心理カウンセリングの、それこそ鈴木智美さんが言われていた言葉なんですけれども、
先生が他の患者を見るのは我慢がなりません、みたいな言葉が出てくるわけですよ。
そうすると、この人何なの?みたいになっちゃうじゃないですか。
店員さんのところに行って、あの店員さん、私のお世話だけしてくださいとか言い出したら、結構微妙な感じがするじゃないですか。
でもこれは、私は母親に何ら特別な扱いを受けてこなかったんだっていうのの定義と考えれば、全然違和感はなくなるはずなんですよ。
母親なんだから私のことを100%見てくれて当然じゃないか。
これも当然じゃないのかもしれないし、当然じゃなかったわけだけれども、そう思う瞬間があってもおかしくはないですよね。
まして、気がついたら弟がお母さんの膝の上に寝ていて、私あんなことされたことがない、みたいなことになった場合、そういう傷つきを抱くことになるわけですよ。
で、これに脳の機質とかが絡んだ場合、ものすごくややこしいんだけど、絡まなくたって十分ややこしい話なんですよ。
絡まないケースも多々あるってことですよね。全部を脳に持っていかなくてもいいでしょうって言いたいわけですけれども、つまり症例診断というのは、
だけどこれを接触障害なんだって言ったり、だけどこれは送局なんだって言ってみたりするっていうのは、非常によく似た構造を奥底に見ることはできるんですと思うんですね。
それが精神力動とか精神分析ってことだと思うんだけど、でも表面に現れているものはそれとして、やっぱり接触と言ってるからには、接触という言葉を使ったことの意味を見ていった方がいいわけですよ。
この2つは両立するはずなんですよ、きっと。私は診断しないし、医療行為じゃないから、この2つを両立させる努力を医療的にするってことはしなくていいんだと思ってるんだけども、
でも無視しちゃいけないなとは思ってもいるんですよ。
さっきの極端なケースっていうやつ。
例えば先生は、鈴木さんのところに行ってですね、先生は私だけのことを患者にしなきゃいけないんです。
無理な要求じゃないですか。他の患者さんみんな断んなきゃならないからですね。
ここをさらに超えていくっていうか、これとよく似た、そしてほとんどの人には非常に分かりにくい、しばしばある種の炎上を招くんだけれども、
あなたは私が望んでる通りのものをくれないとは嫌なんですっていう要求があるわけですよ。
これも対人援助には僕はつきまとってる要求でありますが、対人援助のみならず、ラインハックとかビジネスショーには実はこれつきまとってる要求なんですよ。
境界性パーソナリティ障害の影響
だからビジネスショー何百冊も買うって方もいらっしゃるわけですよ。
すごい勉強家だとかあんなものばっかり読んでとかいろんなこと言われるんですけど、僕は全部的外れだと思うんですよ。
そうじゃないんですよ。
ピタリパーフェクトの私向けにカスタマイズされたものがこの世にないっていう、あれは痛ましい状態なんですよ、ある意味。
これをありふれた不幸にすればいいわけですよ。
ピッタリ来るビールとかピッタリ来るコーヒーとかピッタリ来るなんでもいいんですけどスイーツとか求めてるじゃないですか、人は。
私にピッタリの威勢とかね、求めてるじゃないですか。
これはつまりどういうことかというと、お母さんは私の望んだ通りのことをしてほしいという要求を私たちはみんなゼロ歳児付きの時にやってるってことなんですよ。
だから暑いという時にはウォーって言ってお腹空いてもウォーって言ってるんですよ。
だから赤ちゃんは怒ってるわけですよ。
暑いのになんかミルクとかやってきてますます暑くなるわけですよ。
だからウォーって言ってるわけですよ。
だけど赤ちゃんウォーしか言ってないから我々には分かんないわけですよね。
これを別れっていう要求を赤ちゃんしてるわけじゃないですか。
で、お母さんも分かんないんだけど頑張って分かろうとしようねってことなんですよね。
これをウィニコットは言ったんですよ。
一時的母性的没頭。
ジェンダー的に不評で。
僕はどうしてもそれはいるだろうと。
お母さんじゃなくてもいいかもしれないけどやっぱりお母さんに求められることが多いだろうと。
けど生後10日とか30日目ぐらいまでなんで、せいぜい。
一時的母性的没頭。
つまりほとんど3種類ぐらいしかないでしょ、そこでは。
体温調節とミルクとゲップを出すとおむつとかえるとそのどれかしか要求してないはずなんですよね。
だから努力をして分かろうとするっていうのが一時的母性的没頭なんですよ。
一時的母性的没頭って言葉はつまりお母さんは他の人のことを考えちゃいけません。
お母さんはお母さん自身のことを考えないでください。赤ちゃんの要求ね。
お母さん自身のこと以外のことをお母さん自身のことにかまけてもダメです。
そして私の要求を100%叶えてください。
土台無理ですよ。
でもそうしようとされたことがあるっていう経験がその子を支えるみたいなんです。
だからこれは現代では何か不評でしょ、これ。
なんでそれをお母さんやらなきゃいけないのって議論になるじゃないですか。
それ自体が私は非常にこう一時的母性的没頭を受けなかったという傷のようにも聞こえなくもないんですけれども。
ますますセンシティブなことを今言いましたけど。
でもまあ我々みんなそういうところがあると思うんですよ。
なんかだってほら、馬の王子様とかも結局そういうことだけど、私にぴったりの女性が欲しいって僕は明らかにそうやってうおーって言ってたわけですよ。
だから誰にも理解されなかったわけですよね。
誰にも理解されないですよ、これは。
で、ビジネスの世界ではこれはものすごく出てくるんですよ、と私は思うんですよね。
自己啓発とかでもそうですよね。
だから私もしばしばそういう方にぶつかって、たぶんボーダーっぽさってものを感じたと思うんですけど。
この人は何を言ってるのか全然わからんみたいなことを感じたことがあったわけね。
2010年付近。
永木さんはタスクシュートのことばっかりの記事に書いてるけど、本当タスクシュートのことばっかり書いててもさあみたいな感じで始まって。
だからタスクシュートのことばっかりじゃなくて、こうこうこうこうこうこうこうこうこうでとか言って。
だけど私エヴァノードのこと書いてると言ったりすると、いやそうじゃなくてさあみたいな感じでまたこうこうこうこうこうこうこうって話を聞くんだけど。
意味がほぼわかんないわけですよ。
申し訳ない失礼なんだけど、この人大丈夫かなみたいに思ってたんだけど、そうじゃないんですよね。
こういうわかりにくいコミュニケーションというものが境界性パーソナリティ障害の実例を読むとめちゃくちゃ多く出てくるわけですよ。
要求水準が高すぎて意味がよくわからなくなってきているっていうこと。
そしてその一番奥には、私は痩せることによって全問題を解決するんですと、実によく似た構造があるんですね。
だけどそれをこの人の言葉を使うとこういう表現になると。
そこに切実さがある。
切実すぎるからよくわからなくなってるわけですよ。
佐々木は私が狙って思ってる通り、読みたい通りの記事を書いてくれないとダメなんだっていう要求に答えようがないわけですよ。
その人の要求も僕は知らないわけだから。
ということが分かって良さそうな方なのに十分頭良さそうだったり十分年齢言ってたりしているから、分かって良さそうなのに分からないということが僕には分からなかったっていう話なんですね。
これをありふれた話に、いやあの私ファンなんだから私が喜ぶ記事書いて、これならみんなにわかるじゃないですか。
この水準が象徴水準であって、このさっきの分からない水準が具体水準なわけですよ。