1. 佐々木正悟のライフハックからの精神分析
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2025-05-07 42:19

「灰色の人生」に平安な幸福がある【1179】

自分と他人は、他人が統合されてから分別される。
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サマリー

このエピソードでは、精神医療におけるリテラシーの重要性と医療を受ける際の知識の必要性について考察されます。精神分析や心理カウンセリングの知識を高めることが、心の健康をどのように促進するかが論じられています。 心のモデルやメタファーについての考察が行われ、心理療法が現代社会でどのように無視されているかが探究されています。また、シンデレラの物語を通じて、成長とアイデンティティの問題についても触れられています。 現実と夢の境界、特にシンデレラの物語を通じて、自己認識や自己成長の重要性について議論されます。魔法の世界における自由と現実の持つ制約を理解することで、人生の選択についての省察が深められています。 個人の行動の矛盾や周囲との関係性の複雑さが探求され、シンデレラの例を通して語られています。

忙しい日々の思索
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ、第1179回をお送りします。
5月7日水曜日、8時3分です。
明日は早々に出かけなければならないから、うまく工夫しないとこれ落とすなということを考慮しつつですね、
今日は何としても撮ろうと、どうだ、さっきそう思ったということを今思い出しました。どうでもいいような気もする話なんですが、何か知らないけど思い出して言いたくなりました。
えーっとですね、いよいよ5月が始まりまして、とても天気も良くてまさに札幌感満載で素晴らしいんですが、5月は忙しい。
忙しくない日はちっとも忙しくないんだけど、忙しい日はもう1日中でずっぱりになっちゃうということで、
別にそんなことは全くどうでもいいことなんですけれども、忙しくなるなぁということだけは念頭にありまして、この忙しくなる時に、
僕は別に何も感じないんですけれども、あの、何だろうな、えーっと、なんかこう、ある種の言い訳感が作り出せるじゃないですか。
ちょっと意味分かりにくいですけどね、ある種の言い訳感とともに、ある種のドキドキ感とそれをワクワク感と取り違えることもあるんだけど、
危機感とかになる人も確かにいらっしゃるようなんですけど、僕はまずそうは全然全くならないんですよね。
やることが明快にありまくるから忙しいので、なんかそういう時にはしゃーないじゃんって感じになるんで、ちょっと言い訳感が少し出るんですよね。
まあでもだからといって、多分に他の人は、納得してくださる人はみんな優しいんで大体一応納得はしてくれるんだけど、どっかでイラッとはされますよね、場合によってはね。
私がミスることが増えてくる降参が大きくなるんで、そこはもうちょっと、これもここでやっぱりしょうがないなと思えるかどうかってのも大事だと思うんですよね。
絶対イラッとされたくないみたいになると、途端に結構身動き取れなくなりますよね。
だから今日はそういう話に最後だったらいいなみたいになんとなく今漠然と想像しているわけなんですよ。だからこの話を出したのかもしれないと思います。
精神医療におけるリテラシー
で、何の話から入ってもいいんですけど、この3ヶ月チャレンジ、このじゃないね、私が
5月から第10期が始まった3ヶ月チャレンジの一つの裏テーマに近いんですけど、
心理カウンセリング等を受けるリテラシーを少し高くしましょうみたいな話があります。
でもこれはですね、別にメラニー・クラインの用語を理解するようにしましょうとかそんなことは全然全く目指していなくて、だってそれってなんかおかしいじゃないですか。
これから、例えばお医者さんに通うリテラシーって、私は、我々は普通に持ってると思うんですよね。
例えば歯は放置してても虫歯は放置してても自然中はしないって知ってるじゃないですか、我々は。
まあ知ってましょう。
同時に、例えば喉が腫れて痛いとかは、これはもしかすると放っておいても良くなると、その辺は自分の健康感と健康の程度との兼ね合いで決めてると思うんですよね。
あるいは腰痛みたいなものは、これは放っておいても良くならないかもしれないが、医者に行ったからと言って感知はしないってこれも知ってるわけですよね。
そして腰が痛くてって言ってジビカに行っても多分ダメだということも知ってるわけですよね。
これがリテラシーだと僕は思うんですよね。
で、私の理解している限り、精神医療は、利用者の方はですね、このレベルのことも僕もそうなったんだけど、
知らないんですよ。だから混乱が起きるんだろうと思うんですよね。
で、考えてみれば我々はでも、身体医療については多分、体系的なことを、例えばお医者さんから、名医者には、愛医者には、ジビカには、とかって習ってないと思うんですよね。
これはなんとなくそうやってきてる。
だからあの、すっごいでっかい病院行くと、めちゃくちゃ孫作ってことはありませんでした。
最近はすっごい親切になってるから、あんまないと思うんですけど、私が、私中学の頃とか平成ですけど、めちゃくちゃ不親切だったんですよ。
結構昭和平成の頃、長崎行きぐらいの時、昭和63年とか、最後の昭和の頃。
もうね、すごい不親切だったんですよね。ある種の大病院って。
だから迷子になっちゃうんですよ。どこに行けばいいのかさっぱりわかんないし、なんかそんなの常識だろうぐらいのノリになってるんだけど、
なんかここに件出せとか、そこで待てとか、そこが広すぎてさっぱりわかんないんですよね。
で、なんかこう、呼ばれたのはちゃんと答えろみたいなこと言うんだけど、どこで誰かの、なんかピンポンとか鳴ってるんだけど、
受付番号何百何十何番から何百何十何番のとかってのは、一体自分が何百何十何番なのかもよくわかんねえみたいな。
これもリテラシーですよね。
しかも教えてくれないってことは知ってることが前提になってますよね。
だから知らんのですよね。
だって学校でそんなこと教えようがないしね。
で、親ももろん知らないじゃないですか。
何回か病院に行って、なぜかよくわかんない怖そうな看護師さんに、まあだいたい当時は女性なんだけど、めっちゃ叱られて、
僕なんかめっちゃ叱られてましたからね。
しょっちゅう病院に行くんで。
そうしてなんとなく学んでいくという、そういうものだったんですよね。
あれ精神医療だったら厳しいですよね。
だってまず看護師にめっちゃ叱られるところからスタートするわけじゃないですか。
その段階で既に行かなくなる人が大量に発生しそうじゃないですか。
ということがリテラシーということと私は関係があると思うんですよ。
やっぱり。
それでも引きこもっちゃうっていう人が出かねない世界では、やっぱり知っておいたほうがいいだろう。
だってそれって明らかに医療と直接何の関係もないわけですよ。
ある意味ではね。
で、あのある種の僕はもうスローガンに近いものだと思ってるんですけど、
そうは言っても他純金コンプレックス強い人間ですから、ついそのスローガンを前に受けそうになるんですけどね。
心のことは専門家に任せるべきなんだって言うんだけど、専門家に任せるのはいいんですけど、それどうやればいいんでしょうかっていうのがあるわけなんですよ。
それがないと思ってるっていうところに、なんていうかこの話のポイントがある気がするんですよね。
そんなことを理解するために3ヶ月かけて7万円って高くないって思われるかもしれませんけど。
医療の受け方と専門家
僕は今やもうね高くはないと思うようになったんですよ。
これが身体医療なら絶対これは高いし無駄な時間です。
3日で700円でいいぐらいですよね。
それはちょっと大げさですけど、でもそんなことはだいたい普通に親が教えてくれてるというか、親もなんとなく推測で行動してるだけなんですけど、僕もそうだったから。
娘を内科医に、小児科医とかに連れて行くのもなんとなくの行動ですよね。
適切だったらその時修正すれば、いつかは適切なところに行き着けるであろうでいいわけですよ。
でもここであんまり持ち出したくないんだけど、持ち出しちゃいますけど、うつぱんさんという漫画の冒頭のところで、彼女だか彼だかすらわからないですよね、あの主人公さんはパンダだから。
なんかもう死にそうだってなっていて、で電話をしてなんか予約まで2週間ですって言って、電話叩き切って2週間終わってるかみたいになるんだけど、そしてそのまま放置すると。
僕はこれやっぱりリテラシーの問題だと思うんですよね。でこれは結構危機的な状況にあるなって感じがするんですよ。
どうしてそういう風になっちゃったのかよくわかんないんだけど、読んでも結局ついにわからなかったんだけど、あのやっぱり医療につながるってこと自体が非常に困難であるというケースが残念ながらあって。
それは一定の知識の、一定水準の知識があればなんとかできるはずだと思うんですよ。
ところがなんともできない状態ってのが現実に、今のところは我が国にはまだ残念ながら、だけど僕フランスとかイギリスだったらそうはならないというのは信じなくなりましたけど、アメリカだったらならない、アメリカだったら絶対になります。
アメリカは医療にかかるのがいろいろと難しいところがあるんですよ。でも留学とか行かれる方は全然大丈夫なんですよ。大学というところはすごいスーパーちゃんとしてるんで、大学の中に普通に病院あったりしますから、まあ大体大丈夫なんですけど、でも外とかにかかるってなると保険効かなかったら大変なことになるんで、国民会保険がない国ですから、非常に怖いところがあったんですけどね、僕もね。
あれで身体医療はまあ、我々普通に知ってるからいいけど、精神医療どうすんだよという、まして僕みたいにインチキ英語しかしゃべれない人間、精神医療にかかろうとしちゃったらもうアウトですよね。アウトだと思うとつまりかからないわけじゃないですか。ってことは普通に起きるんですよ。だってアメリカに日本の病院はないわけですからね。
こういう時に、心のことは専門家に任せましょうという、ただそれだけが言ってあっただけじゃダメだと思うんですよね。その専門家ってそもそもどこにいていくら払えばいいわけってことになるじゃないですか。アメリカに行くととんでもない金額になりますから、その保険も持たずに精神医療なんかにかかっちゃったら、あのバカ話みたいなのがしょっちゅうあるんですけど、
指先切ってバンドエード貼ってもらったら2万円取られましたみたいな、本当じゃない、嘘なんじゃないかって僕ずっとまだ疑ってるんですけど、嘘じゃないってみんな言うから、嘘なんじゃないのって思ってるんですけどね。まあでも、そんな話を聞かされていて、うつになりましたからって言って、カウンセリング刑においそれとなんかいけないじゃないですか。
バンソコで2万円ならいくらかかるんだよって感じがしちゃうじゃないですか。わかんないから、こういうのはこと細かに、訳知ってる人絶対いるんで聞いた方がいいと思うんですけど、お国柄って絶対あるんで、ましてアメリカは州によってやり方が若干にせよ違ってくるんでですね、本当にその地域に長らく住んでいる日本語が使える人に絶対聞いたらいいと思うんですよ。
これ英語で聞くと、あの伝言ゲームになっちゃって、僕とかもしょっちゅう伝言ゲームやってましたからね。あの交差点の名称をここにくればいいから、あなたでも絶対大丈夫だからみたいな、親切そうなアメリカ人の人たちと一緒にですね、ご飯食べに行ったりすると思ってるじゃないですか。そして僕だけ気がつくと全く関係のないカフェにいるわけですよ。
でもそのカフェは、近くの交差点のところに全く同じ名前のカフェがあったりはするんですよね。だから僕が言ってることが完璧に間違ってるわけじゃないんだけど、完璧に間違ってるわけですよ。これが起こるんですよ、絶対に。だから、訳知っている、できれば日本語が通じる人と話をするっていうのがいいんじゃないかなと思うんですよね。どこに行ったにせよですね。
特にアメリカは、僕が行った乏しい海外体験の中で一番日本人が行ってちゃんと行動できる国だった気がします。言われてるほどいい加減じゃないです。あの国はちゃんとしてます。明らかにもっと遥かにどうしようもなかったです、イギリス体験の方が。
なんかなんとなく僕は、今はわかりませんけど、なんとなく僕の時代って逆になったんですよ、イメージが。イギリスはちゃんとしてる。アメリカはすげえいい加減だみたいな。そんなことはなかったです、僕の体験ではね。どちらかというと時刻表通りに電車が来たのはアメリカだった。イギリスはもう時刻表とか発車盤線とかしりめずれずでした、僕の体験では。
でもイギリスはなんか、僕がですね、行ったチェコスロバキアとかハンガリーに比べると遥かにちゃんとしてました。だから日本に行って日本に慣れると危険だなとつくづく思いますね。話がすごいまた盛大にそれたんで元に戻しますけど、どこが元なのかわかりませんけどね。
僕が言うリテラシーと言っているのは、だから虫歯は放置しても治りませんけど、喉の痛みは自然治癒という言葉を僕らは使っちゃいますけどね。これがリテラシーだとやっぱ思うんですよ。
で、突然ここで良いおっぱい悪いおっぱいの話になっちゃうんだけど、だからこういうのは不自然なんですよ。ここまでなくていいんだけど、お前はじゃあ何のためにそれをせっせと仕入れているのかと。
毎朝のように、今朝も鈴木智美さんの本をKindleでジョロジョロ読んでたわけですけど、なんか汚い表現で申し訳ないですけどジョロジョロ読んでたわけですけどね。つまり精神力道、ちょっと3ヶ月チャレンジの参加者さんもノートに記事書いてくださいましたが、精神医療の中でも精神分析と精神力道の知識をせっせと仕入れておいているのは、
これ自体を使いたいからではないんです。まあ僕はこれ自体をある程度使っちゃってるんですけど、でも大事なのはこれ自体を使いたいからではないんですよ。心っていうのは目に見えないもんだから、人間が結局、人間がっていうか、想像する量がないわけですよね。
心のモデルの探求
例えばあの真相心理モデルとか言って、真相心理と表層心理がありますというのは、まあモデルなわけですよ。メタ波ですよね。深さ、浅さがあるんですという。なんか東方カイトさんが最近Xで、深さとは、深さとはって書いてますけど、深さっつったって別にプールじゃないんだから、推進みたいな、測れる何かがあるわけじゃないじゃないですか。
深さと言ってるのは多分昔の記憶みたいなことをなんとなく僕らは漠然とイメージしますよね。この漠然とイメージしているものの元でになっているものを探ってるっていうのが僕がやってることなんですけど、その元でになっているものを探ったらこんなものが見つかりました、あんなものが見つかりましたっていうのを一生懸命しゃべれば、ある意味3ヶ月チャレンジなんですよ。僕の中では。僕がやってることとしては。
こんなものがありました、こんなメタファー見つけました、こんなメタファー面白かったですみたいなのが、私が3ヶ月チャレンジで一生懸命やってることなんですよ。
なんでこんなことをやってるかというと、このメタファーの上に僕らのリテラシーが乗っかってるからだと思うんですよね。で、このメタファーの上に乗っかってるんだけど、このメタファーそのものを僕らはあんまり知らないというか全然知らないというかほとんど全く何にも知らないんですよ。
なぜならばここには理由があるんですよ。無知だからではないと思うんですよ。現代社会は真面目にこいつを相手にしてないからだって言ってるわけですよ。
なぜなら現代社会は写真に撮れるものこそ信用できるはずだっていう、ある種信念があるからなんですよね。
だから相当伝統があって、伝統仏教みたいなやつね。相当伝統があってコンセンサスがものすごく幅広く取られているものは、目に見えなくとも信じるようにしているけど、それだってものすごい疑わしい目で見られてるけど、でもやっぱり他の人はそれに対してどことなく敬意を払ってるからそっちは持ってるみたいな。
例えば聖書みたいな。例えば神様みたいなもの。神様見たことがあるっていう人、ヤバいじゃないですか。なんだっけ、プルートだったっけ?違うな。
あれだ、ビリーバッドだ。浦沢直樹さんのビリーバッドでなんかこうあるインチキ臭いやつが描いてましたよね。これが神の姿じゃみたいなことを言って絵に描いてましたけど、まあそういうわけにはいかないはずなんですよ。見たことあるはずないだろうと。
なんかおじいさんが髭をすっごい長い髭生やしてるおじいさんが頭の上に輪っかつけ作ってますけど、まあ普通に考えてそうじゃないだろうとは思いますよね。そもそもなんで男なんだよって思っちゃうじゃないですか。
僕なんかは特に神が男だっていうのは非常に嫌だと思ってるんで、是非女神様であってほしいって非常に強く思ってたんで、今は別になんとも思ってませんけど、思ってたんで、僕はやっぱり母親ですからね、マザーコンプレックスの人間ですからね。
なんだって神が髭面のおじいさんなんだよって強く思ってますからね。だからまあそれはいいんですけど、見えに見えないものを信じないという時代なので、心のモデルってほんの無視されてるわけですよね。
念地行動療法が今第3世代なのかもしれなくて、スキーマ、スキーマは目に見えませんよね。スキーマが目に見えたらやばいですよね。やばい人になっちゃうんで。だけどあれはそもそも何から始まったかというと行動療法から始まったんですよ。行動は目に見えますよね。だから心のと言いながらそれを行動に変えちゃうんですよね。
もうほとんどあの世界では、精神分析でいうところの行動化がむしろ推進されてるんじゃないかぐらいの勢いを感じるわけですよ。だけども、実は今の表現がすでにある種のリテラシーを僕が勝手に要求しちゃってるじゃないですか。目に見えない心というものを行動によって表す、そういう心理療法の世界では行動化というものを推進してしまってるみたいな言い方ってめっちゃリテラシー要求してるじゃないですか。
これをもう相当知ってる人じゃないとわかんない文脈で喋ってるんですよ。解説しませんか。解説はすみません。省かせていただきますが大変なんで。
だけど、だからこういう解説を省くということをするために精神力道に相当程度触れておく必要があるんだなという精神分析でいいですが、あるんですよ。そうしないと良いおっぱいと悪いおっぱいの分裂、スプリットオフしてスプリッティングしているから、だからそれが身分化な対象関係にあってとかって、もうすでに大量の解説を要求させられるじゃないですか。
で、3ヶ月チャレンジではこの大量の説明をさせていただくためには3ヶ月はいる。絶対必要だって思うんですよ。これを3日でやれと言ったら僕が寝込むみたいな世界になるんで、ほとんどずっと喋ってないと無理なんですよ。そのぐらいのことあるんです。ただしそれは現代社会では察して信用されてないんですよ。
あれほどの知見だと思うんですけど伝統もあるし120年あるしヨーロッパだったし、でも多分みんなはこれを信じる気はしないんですね。写真に撮れるわけでもない心のモデルを、さも見てきたかのようにフロイトとかいう人が言ってますみたいな。しかもなんか性愛にベースを置いてるらしいです。なんかもう訳わかんないから行動両方に行きましょうみたいになるわけですよ。
普通にね、なんかこうコンピューターモデルで認知と記憶とみたいな方が信頼が受けそうな気がするんですよ。あのコンピューターモデルだって古いと思うんですけどね。今更、滅多にパソコンに外付けのUSBのハードディスクとかつけないじゃないですか。そのうちそうはならなくなっていく気がするんで、あのコンピューターベースのモデルっていうのは自体がすでに現代のコンピューターとはあんまり関係ないモデルになっていく気がするんですけど、でもまあ人間は脳みそがストレージです。
意識はメモリーですとか言われると、なんかわかったような気がしてしまうんですよ。全然そういうものではないと僕は思うんだけれども、なんかわかったような気がしてしまうんですよ。だから今そっちが信用されている。その分、力動的な話は信用されなくなっている。
だけど、あの認知記憶モデルみたいな、ああいうベースの、私が一番大学に、さっきアメリカに行きましたが、さっき言った話ね、留学してきたわけですが、そこで僕が一番勉強してきたのはあれなんですよ。ハードディスクが、脳はハードディスクでみたいな、そういう機械論的に説明すれば納得いくような気がして、納得がいくってことはそういう宗教を信じてるってことですよ。
だって脳をストレージに立てるのっておかしいじゃないですか。コンピューターではしばしば逆閉域でやってますからね。ストレージってのは脳なんですみたいなことを説明している人がアメリカにもちゃんといましたからね。お互いがお互いのメタファー使ってるってことは、メタファーさえ使っておけばいいぜっていうことになっちゃうじゃないですか。どっちが先だと、まあ脳が先ですけど、なのかなんてわかんないじゃないですか。
で、僕はどっちにしてもそれにあまり意味はないなって思うというか、それによって説明されていない膨大な問題がある。例えば、このコンピューターベースの話の中で感情はどこにあるんだって話はおおむねスルーされているんですね。なんかこう、記憶と認知の部分だけなんですよ。要するに目と脳だけがあればいいぐらいな。でも脳が感情を作ってるのは変円形ですね。
変円形はその中ではどこなんだよっていうのがまるで全く説明される。かけらもないのに、なんかこう、コンピューターベースの認知モデルとか言って、それでなんか十分納得がいくような顔をしているわけですよ。例えば、コンピュータって絶対激怒とかしませんけど、人間は激怒しますよ。自己破壊的な行動出ますよね。コンピュータって自己を破壊しようという意図を持たないですよ。でも人間にとって自己破壊的行動ってものすごく大事じゃないですか。
現代社会における心理療法の誤解
で、極めて不合理な行動を取るじゃないですか。人というのは。掘らないと思っている人でもめちゃくちゃ実は不合理な行動を平気で取っていると思うんですよね。例えば、私3ヶ月チャレンジというのをやってますけど、別にこれをやるのに何ら特別な決意とかは特別にはいらなかったりですよ。
ところが、この種のサービスを始めるにあたっては、特別な決意がいることになってしまうという話が出たりするんですよね。例えば新しいサービスを始めるにあたって、その恐れをどうやって克服するかみたいな話が出てくるんですよ。しかもその話は大体、悩んでいてもしょうがないからやってから悩みましょうみたいな話をして、悩んでできない人にやってから悩みましょうっていうのって、僕は答えになってないと思うんですよね。全く全然。
だけれどもそういう答えがパッと出るんですよ。それは少しも合理的な判断じゃないと思うんですよね。それは単に、例えばコーチングしてる人がじれて、もういいからやってみろみたいなことをただ言ってるだけじゃないですか。単なるお説教おじさんになっちゃってるわけじゃないですか。僕はこのお説教おじさんになっているお説教したいという気持ちはどこから来ましたかっていう話をしたいんですよね。
で、これは僕は認知、コンピューターモデルからはどこからも出てこないですよ。
最近チャットGPTの話とかAIの話が出てきたときに、なんかこういう人をダメにするんじゃないか論とか出てきてるじゃないですか。これは何を言いたいかというと、コンピューターというのはお説教おじさんにはまずならないってことを言いたいですよ。もちろんできますよ。
私は今、そのプロンプトを一生懸命作り上げようと頑張っていて、非常に傲慢に、命令的に私にダメ出しをしてくるチャットGPT的なノリって作り出せないかなといろいろいじってんですけど、なかなか出ませんね。
なぜなら、これは簡単ですね。コンピューターには欲望がないから。古い言葉で言うとSがないからですね。フェアバーンに寄せればSはそもそもないんですけど、リビドは対象気球的ですからね、フェアバーンに寄せると。
これもうめちゃくちゃ高度なリデラシーを聞き手に要求しちゃってますけど、ここも解説しているとその話しかできなくなるんで、伸ばさせてもらいますが、でもSがないんですよ、コンピューターに。
コンピューターはマスターベーションとかしないじゃないですか。つまりコンピューターはSがないから別に人に対して怒りたいとは少しも思わないわけですね。
この辺のことを考えてみると、人というのはなぜコーチングまでしていてもなお他人に対して怒りたくなるのか。どうして人はいいおっぱい悪いおっぱいをスプリットしてしまった状態で物を言い出すのかということ。
いいものと悪いものを一人の人間に、例えばおっぱいが二つついていたとしてもですね、片方が良くて片方が悪くてもそれが別人のものだとは思わないじゃないですか。
思わないはずじゃないですか。でも思う時があったってことが、まあこの話は繰り返しになってしまいますけど説明は少し要すると思うので簡単に説明しますがシンデレラの世界ですよね。
あれ、ある種の岩波かな、サンドリオンと書いてあるやつ、灰かぶりですけどね。灰色は白でも黒でもありませんね。
やっぱりシンデレラはお母さんを殺したことになっている話ってあるんですよね。おっぱいを噛みちぎっちゃったんだと思うんですよね、シンデレラは。
いいお母さんが怒っちゃったと思うんですよ。だからいいお母さんは死んだことになって、で悪いママハハがやってくるわけですよ。なぜなら私が殺したから、復讐にやってきてるわけですよね。
だからいいおっぱいである、いいおっぱいを持っていたいいお母さんを自分はダメにしたから、で悪いお母さんがやってきてシンデレラお掃除をしとか言い出すわけですよね。
それはシンデレラが成長したってことなんだけどシンデレラはそのことがよくわからないんですよ。だから掃除をしろと言われる。お母さんはなんかとにかく優しくて私が何やっててもokで、
飲みたいと言えば飲み物くれておむつも取っ替えてくれたのに部屋も全部きれいにしてくれたのに急に掃除をしろとか言い出すと、悪いお母さんになってしまったと。
というか悪いお母さんがやってきたと。ここにスプリッティングがありますよね。2人になって、本当1人しかいないはずなのに2人になってしまって。
だからその2人目の悪いお母さんはシンデレラを置いてけぼりにして、自分はどっかの夜会に行ってお楽しみなわけですよ。
でもね、やっぱりお母さんに言わせれば、そりゃたまにはシンデレラの世話ばっかりしていて掃除をしろと言えば泣き出す子供をずっと抱えていてですね。
やっぱりそりゃたまには昔行っていたパーティーとかに行きたいんだけど、それはもう悪魔の所要ですよね。シンデレラ側からしてみればですね。
まさに子供を置いてけぼりにして、ネグレットはまっしぐらですよね。だからこのお互いの言い分には、どちらの言い分も妥当なんですよね。
でもこれはシンデレラ側から見た物語ですから、やっぱりそこでいいお母さんを復活させなきゃならないんですよ。これが万能感ですよね。
いいお母さんを復活、生き返らせなければならない。メニコットはそういう言い方を確かしてましたね。
シンデレラの夢
エラニークライムしてたと思うんですよね。お母さんを生き返らせようと。いいお母さんは私殺しちゃったけど、いやいや、世の中というのは私のためにできてるんだから、お母さんを生き返らせることぐらいできるでしょう。
で、生き返ってくれたお母さんが魔法使いですよね。まさに魔法の世界ですよね。カボチャは馬車にしてくれますよね。
で、ネズミを馬にしてくれる。何でもできますからね、いいお母さんは。何しろ私、お腹が空いたらすぐおっぱいくれて、
私のおむつが濡れていたらすぐ取り替えてくれて、というわけで何でもしてくれるわけですよ。
だからもちろんカボチャを馬車にするぐらい、もうひと手間ですよね。杖振ればできますよね。
で、そのカボチャの馬車に乗っていくと、もちろん王子様がいるに決まってますよね。だってシンデレラだから。
つまりスプリットされた世界、そして万能空想の世界というのは何でもできるんですよ。
ただしそれは、自分が0歳だから何でもできるんですよ。 自分が20歳であったり16歳であったりしちゃダメなんですよ。
このことに気づいたらさっさと家に帰らないと大変なことになるわけですね。 だから12時になったらさっさと家に帰らなければ。
そもそも12時になったということがわかるということは、もう魔法の世界ではないわけですよね。
魔法の世界は時間の流れとかないんで、別に。 いつでも夜だし、いつでも昼だし、いつでも朝なわけですよ。
好きな時間に好きなことをしていればいいわけですよね。 だけれども夜の12時になりましたってことがわかるってことは、もうヤバいわけですよ。
現実検討式がついてるってこと。現実とは何かを知ってるということになるわけですね。
お母さんは実は2人じゃなくて1人しかいなくて、自分に王子様が自動的に現れることはなくて、
和謝はかぼちゃからできたならかぼちゃになっちゃうし、非常に夢がすべて覚めてしまうわけですね。
自己認識の重要性
これを欲打つポジションというわけじゃないですか。言うんですよ。言うんだということが本に書いてあるんで言うんです。
こういうことを私たちは頭に叩き込むと、リテラシーが生まれてくるというのが、3カ月チャレンジで期待していることなんですよ。
このことそれ自体が自分に当てはまるでしょうかとか、これによって病気治せますでしょうか、ではないんですよね。
それは医者の仕事だと思うんです。でも僕らは医者を利用しなきゃいけない。
ウィニコットに言うと使用しなきゃいけない。お医者さんせっかくいて、何か後任心理師になる人たちも何万人といるんだから、これを使用しないとはないわけですよね。
これらの人たちは今のような話を何らかの形でご存知のはずと期待してもいいはずなんですよ。
分かんないけど、分かんないけど、でも寝てたかもしれないけど授業では喋られていたんではないかと。
だから彼らの無意識にはこういう話が入っているはずなんですよ。入っていてほしいと。
で、入っているという過程のもとでですね、だから私たちはこういうのをせっせとある程度自分の興味の赴くままにでいいんですよね。
せっせと叩き込んでおけば、もう少し我々もうまく心理師という方々を使用できると振り回すんではなくてですね。
転移逆転移でひたすら振り回す。まあいいんですけどね、それをやっていけば。でも振り回すだけじゃなくて使用できるようになるということをやっていけばですね。
やっていくまでには予約は取れてるでしょうし、やっていくまでにはセスメントにたどり着けてるでしょうし。
やっていくうちにはあれですよ、陰性治療反応を引き起こして勝手に撤退するということもせずにそこで持ちこたえるということがどういう問題、どういう心の苦しさに持ちこたえるにせよ持ちこたえられるようになっているのではなかろうかということを目指している。
目指しているというか目指しましょうと言ってるのが僕の、僕のじゃなくてもだからいいんです。3ヶ月チャレンジ。
他のところで同じようなことが、ただ僕はこういうことを他の何かえっと野の医者さんたちがやってるという話をなぜか聞かないんですよ。
私がやってることって要するに精神分析と精神力度の知見をとにかく自分の興味と自分の状況のに合わせて心の赴くままに仕入れて。
で、医療以外の部分でこれが使えるところがあったら使っていくという。医療のことをやるんだったら治療したいんだったらそれは専門家が、だけど専門家につながるっていうこと自体がどういうことなのか我々は知らないので、専門家につながるというのはどういうことで、どこにどんな専門家がいて、どこに行ったらどういう専門家とどうつながれるのかというのを知っていけばですね。
それ以外の部分にこれ以外でできることはいっぱいあるんでね。いっぱいやるじゃないですか。我々は歯を磨くじゃないですか。これは医療行為じゃないですよね。
で、喉が痛くなったら喉は目覚めたりするじゃないですか。効くか効かないか知らないけど。で、マスクをしたり安静にしたりするじゃないですか。全部、純医療行為かもしれませんけれども、別にこれをやるのにいや素人がそんなことやっちゃやばいでしょっていう人っているかもしれないけどかなり少ないと思うんですよ。
消化に良いものを食べるじゃないですか。消化に良いものを食べるんだって、消化に良いものを食べること自体は別に医療行為じゃないじゃないですか。しかし消化に良いものを風邪ひいた時は食べるじゃないですか。こういうことを心のになると至って僕ら何もしないんですよね。
なんかむしろ逆なことをするぐらいの勢いがあるわけですよ。いやもうちょっと風邪っぽいからステーキいっぱい食べようみたいになってる人が心理的にはいっぱいいるんですよ。普通に。
で、これはやめましょうという話が、いやそれは医療行為だから心の専門家に聞いてからやめるかやめないかを考えるべきだみたいな話が起きてるんですよ。
現実と自己の関係
と僕は思うんですよね。だからそれはすごいおかしな話だと思うし、全く必要のない
ある種の忖度だ。でもこれが心のことは全部専門家に任せた方がいいみたいな不可思議なスローガンの飛び替え方をするもんだから、我々はですね、あれじゃあ風邪をひいた時には外に裸で出ない方がいいのかなみたいな、でもそれ専門家に聞かなくて大丈夫みたいなことになってる気がするんですよ。
それは非常に変だし非常につまらないことなので、そんなことを考えるぐらいだったら、もう医療行為は一切僕らが一旦手放しておいて、医療じゃなくてもやりそうな、つまり常識的にできること、で常識的にできることを相談しなければならないのを常識相談と言いませんから人生相談と言うじゃないですかと僕は思うんですね。
だって人生相談するじゃないですか。実は医者に行くか行かないかって人生相談じゃないですか。
医者行った方がいいよって言ってもいつまで経っても行こうとしないすごく健康な人とか例えばいるわけですよ。私のおじいちゃん。そして急に脳溢血になってお亡くなりになって。私の義理のおばあちゃん。そちらも同じ。急に脳溢血になって。だって健康に自信持ってるからね。
で、それらの人たちはやっぱり人生相談なんですよ。人に相談しないという人生相談を持ってるわけですよね。僕はそう思うんですよ。だからその人生相談というのは常識相談。常識というのはですね。グッド・イナフでいいんだと僕は思うんですよね。
グッドとバッドをスパッと分けるのがつまりスプリットじゃないですか。いいお母さんと悪いママ・母。1人しかいなかったはずなのに2人いることにしてしまいましたと。だからシンデレラのタイルドもすっぱりと2つに分かれてしまいますよね。
悪いママ・母の前では当たり前ですけどめちゃくちゃしょんぼりしてはいお母様、はいお母様とか言って泣いてばっかりいるわけですよ。本当困った子ではありますよね。反対側から見ればね。いいお母さんの前では絶対にこにこしていて天真爛漫でナイーブなシンデレラだったはずですよね。自分も2つに、真っ2つに分かれますよね。
対象関係が融合しているときっていうのはそうなりますよね。つまりいいお母さんといい私がべったりくっついているから同じものになっちゃってるわけですよ。お母さんが優しいときは私もすごいにほにほ。お母さんがちょっときついこと言うと私はもうわんわん泣き出すみたいな。それ普通でしょって言われるかもしれんけどそれ普通じゃないじゃないですか。我々の態度としては、我々の態度としてそうであっていいはずだみたいなことがしばしば自己啓発とかXとかに書いてあったりするんだけど、
これをやって通る人っていうのはどうなるかというと、時々見かけるじゃないですか。駅とかで。俺はすごい万事大きな人間だからみたいな感じで、割と大きいわけですよ。いろんな意味で。大きいわけですよ。席も2人分取るぜみたいな感じで。電車の中でも酒をグイグイ飲むぜみたいな感じで。
ご機嫌なんですけど、そういうご機嫌な方というのはですね、つまりシンデレラがいいお母さんと一緒にいるときはとてもご機嫌なシンデレラなんだけど、ちょっと嫌なことが起きると、いいお母さんのおっぱいがぶって噛むようにですね、めちゃくちゃ怒るわけですよ。めちゃくちゃ駅員さんとか隣の乗客さんがうえんのみたいな感じでめちゃくちゃ怒るわけですよ。その人はスプリットしてるわけですよね。
いい状況と悪い状況は全く別個のものであって、自分はいい状況のときは最高の自分だし、悪い状況のときはめちゃくちゃ怒る自分だけど、それは当然なんですよ、その人に。だっていい状況と悪い状況はその人にとっては全く別の世界なんだから、いいときにはすごくいい、悪いときにはすごく悪い。だけどその人は状況と共にあるわけですよね。
状況が良いというときは自分は良いし、状況が悪いときは自分は悪いというよりは自分はもうめちゃくちゃ攻撃的になる。で、それがただひたすら入れ替わって入れ替わって入れ替わっていくというのが人生なんですよね、その方にとっては。だから状況と自分は全く同一であっていいわけですよ。
状況と自分というものの間の本来あるはずの自他の区別というものが別に全くないわけですよね。だからバウンダリーとかってよく言うわけじゃないですか。良い状況では良い自分、悪い状況では悪い自分ってことは状況と自分は一体となってるわけで、全然バウンダリーもヘッダクレもないわけですよ。これ合流すると灰色になるから灰かぶりなんですよ。
灰をかぶってばっかりの時はまだ灰色にならないわけですよ。白と黒にすっぱり分かれている。白と黒を混ぜるから灰色になるんですよね。灰色になると程よくなるわけですよ。この程よさがわかりませんという話をなさってるわけですよ。こういう厳しい大きな感じの方っていうのは、いや俺程よいとか知らんしみたいな感じなんですよ。ちょっと悪いものは我慢ならんでしょうみたいな。
これをなぜか所々自己啓発では良い人に会った時はすごく大事なんでしょう。でも嫌なことを言ってくる人に遠慮する必要はありませんみたいな。どうしてそうなるんだろうって感じがするんですけれども、それって完全に状況と自分が一体になっていて、どこにも自分ってものがないわけじゃないですか。
自分っていうものがそこにあるからには、良いことがあるか悪いことがあるかに関わらず、一定した自分っていうものがあるはずなんだけれども、ないんですよ。だから程よいっていうのはそういう意味ですよね。程よいというのは所々ミスるわけですよ。程よいんで、お母さんは程よくミスるわけですよね。まあ夜のパーティーに行っちゃうこともあるわけですよ。
だけれども、いやそんな子供を置き去りにしてその間子供が亡くなってしまったら大変だみたいなことになると、子供と常に一緒にべったりといっぱい顔をしていなければならないですよね。これが脅迫的に一緒にいるお母さんですよね。でもそういう脅迫っていっぱいあるじゃないですか。例えば自分の名前がインターネットのどこかに出ているとものすごく心配なので、我が子がどういうふうに言われてるかわかったものではない。自分の名前って我が子ですからね。
だから徹底的にエゴサーチして、徹底的に自分の子供というものを監視し続けなければ生きていけないという、この自他の一体感、他者の領域というものをゼロにしたいという気持ちがあるわけですよ。自分の領域が全域なんですよね。
自分の評判という自分の子供が勝手に野晒しになっていて、勝手に扱われていて、勝手に悪く言われているということに耐えられないわけですよ。
現代って割とでもそういう時代じゃないですか。自分の評判という自分のブランドといった意味もしますよね。だから自分の子供が外で笑い者になっていたりすると、自分が笑い者になっている気がするわけですよ。一体化してるんで。バウンダリーがないわけですよ。自分の行動と自分というものも一体化してしまう。
自分の行動と自分は全くイコールではないはずなんだけど、そうは思えないですよね。その時がすべてで、自分と自分の行動の間のバウンダリーはないので、自分の行動が笑われれば、自分が笑われてるんですよ。それがあまりにも恐ろしいから、そもそも人前に出られないとかいうことが起こるわけですよ。
行動の矛盾と周囲との関係性
こういうふうに一体化一体化一体化が起きているという時には、必ずスプリットが起きてるんですよ、やっぱり。そしてすべてがナルシシスティックな世界になっていくわけですよ。すべてが自分なわけですよね。自分の状況が自分。笑われていれば恥ずかしい私っていうのがセットになってしまうわけですね。
だから一貫性が実はあるようで全然ないわけですよ、その人の行動には。必ず強烈な矛盾がどこかで生じてくる。ずっと良いことだけが起きる人生なら良いんでしょうけれども、嫌なことって起きちゃうんで。そうするとガラッと逆転しなければならない。本人は気づいてないんですよ。
だってそうじゃないですか。あのいい状況だから俺は気分がいいんだし、いやー、駅員がもうなんか1秒でここに来なければ俺はもうブチ切れるみたいな人って自分一攫してるつもりでいるんですよね。やってることは真逆になるんだけれども、態度としては真逆になって、他の人から見ると評辺にするんですけれども、だから人に非常に強いショックを与えるんだけど、本人は自分は全くいつものいつもの私自身だみたいな調子でいるんです。
なので、この非常に不思議な一体感とスプリットとそして逆転現象っていうものをいつも周りの人は見て、どちらかというと散りぬぐいをさせられることになるわけです。
よーく考えてみるとシンデレラの周りの人ってめちゃくちゃシンデレラに振り回されてますよね。だからシンデレラは主人公なんですけどね。
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