2022-05-24 27:23

【604GMV】自分自身に甘える方法

自己同一化
00:05
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
気がつくとですね、昨日の夜に撮ったやつを今朝アップするという大変素晴らしいやり方が崩壊して、
あっさり朝に撮ってはそのまま出すという形になっています。
これこうなるかなと思ってたし、どっちになるかわからんなと思って実験的にやってたんですけどね、
結局こうグッドモーニング言ってて夜に喋るっていうのは難しいってことですね、今のところは。
ただ朝相当早く起こされるので、どうしてもですね、仕事が終わってしまうのが早いんですよ。
早く娘寝かさなきゃ。娘を迎えに行くでしょ、迎えに行って、おやつ食べて、お風呂に入って、
どんどんどんどんここから先はもう寝るために真っ白なんですよ。
昼の3時ぐらいなのに仕事ならないんですね。
そういう中では、夜にやれる唯一のことって言ったらこれぐらいだろうっていうのがあって、
これがやっぱりネタなし、準備なし、計画なしでいける最大の強みなんですよね。
倉園さんのカットファイブスのメソッドの何がいいって何にもいらないところなんですよ。
これだけはもうビジネス処刑とか仕事術系で圧勝だなと。
私もGTDは本当はそうはいかないんじゃないかと思うんだけど、
でもGTDが紙と鉛筆があれば誰でもいつでもできるんだって言われてしまったのは
タスクシュートにとっては一つの重大なハンディキャップになったなとは思うんですね。
タスクシュートはさすがにこれは無理ですからね。それを言い切るのも嘘くさいしね。
GTDも本当はそうじゃないだろうと思うんだけど、あれを言ってしまうとやっぱり強いですよね。
ウッドファイブスでもいくつかワークがあるんですけど、どれを取っても何の準備もいらないなっていうのが大きいんですよ。
ここにタイマーなきゃダメとかそういうのすらない。タイマーぐらいはスマホ持ってるからみんなできますけどね。
僕らってついついツールだガジェットだがある方がありがたい感じがしちゃうじゃないですか。
でもああいうのはだいたいいざという時はダメで、例えばすごい高速道路を乗っててパークで疲れてるわっていう時もウッドファイブスのメソッドはすぐできるんだけど
ここに何かがなきゃダメだとかいうのは無理じゃないですか。VRゴーグルつけてないとできないメソッドですとかは結局できないんですよそういう場面では。
この差は大きいんですよね。残念ながらGTDはそういう点で強いなっていう。
車の中には紙も鉛筆もないなんてことはあるんでGTDといえどもそういう極極アナログでクラシカルなツールであっても必要だっていうところにはハンディがあるんですけど
何の話をしてるかというとグッドモーニングバイブスは非常に仕事としては小回りが効いていいと。
03:00
これが仕事であれば何の準備もせずにスタートできるからあっという間に取れてしまうわけですよ。
だからこれ続くわけですね。
今日はもう告知はやめて同一課の話に進みたいんですけど。
一昨日あたりから甘えと同一課の話をしております。甘えとは同一課であると書いてあったからそう思いながら見ていると
非常にこれ同一課で説明すると楽だなというのがよくわかります。
本当はおかしいんですけどね。甘えである方がもっと簡単な言葉だからいけるんだけど
どっちもやっぱり非常に日常でよく見かける現象なんですよ。
それで同一課というのはHSPの人が典型的だと思うんだけれどもついやってしまうんですね。
グッドバイブス流によるとこれは愛なんでしょうね。
人に同一課しちゃうんですよ私たちは。
通常それで別に問題は起こらないんだけれども
例えば目の前の人がひどく不機嫌だという時
同一課なんてしたくないじゃないですか。
同一課するということは自分も不機嫌になるってことですけどね。
でもつい僕らこれやるんですよね。
僕は最近ずっとこういう番組で喋ってるせいかようやくこれができるようになってきたんだけど
例えば誰それなりが不機嫌な時に大きなNが見える感じがするんですよ。
Nって感じでニードだっていうことですね。
つまり車のミラーが壊れちゃった。
これはニードですよ。車不機嫌になりませんけどね。
つまり車に僕らがいくらか同一課するわけじゃないですか。
だから直したいなと思うわけです。
車を直したいと思ってませんからね。
車を直してくれとも言ってませんから。
コンピューターは偉いからバグがあります。
ケアしてくださいって言うけど
結局あれはケアしてほしいとは全く思ってないじゃないですか。
ケアしたくなるのはこっちですよね。
コンピューターに同一課してしまう人間の方。
これが我々を人間関係においては面倒だとか
あの人はややこしい人で面倒くさい人だとかっていう話になるんですよ。
つまりNがドーンと出やすい人はいるわけですよね。
僕らみんなそうなんですけどね。
で、同一課するわけです。
愛があるから。
で、ついつい同一課しちゃうわけですよ。
その時に不機嫌な人のところに行くと
大きな僕にとってNだっていうのを見ると
自分もNになっちゃうわけですよ。
これじゃダメなわけですよね。
人が不機嫌になっていますと。
だから私も不機嫌になりました。
もうこれじゃどうしようもないわけですよね。
ただ同一課しただけじゃダメで
なぜ僕らが通常から他人に甘えているかというのは
これが一番適切ですね。
同一課って説明が一番わかりやすい。
06:00
機嫌がいい人のところに行きたいわけですよ。
なぜならば私はその人になってしまうから。
みんなそうなんですよ。
だから人は甘えずに生きることはできないんですね。
別の言い方をするならば
同一課せずに生きることは不可能なんだと思うんです。
もしそういう人がいるとすると
それは社会的には精神的な構造にやや問題ありと
見なされざるを得ないんです。
人間社会というのはそういう風な前提で成り立っているから
ドラマとか映画を見て面白いと思う人は
みんなこれをやってるわけですよ。
これを全くやらないんだったら
多分映画とかドラマを見ても何にも面白くないから
多分2時間見ることなんて絶対できずに
途中でぐっすり寝ちゃうと思いますね。
そういう人っているじゃないですか。
非常に同一化するのが苦手だという人は
本読んでもすぐ寝るし
ドラマとかも見ないわけですよ。
映画とかも。
逆の人もいますよね。
あまりにも、これがHSPのタイプだと思うんですけど
あまりにも同一化するのが止められないために
あまりにも辛くなるから見られないと。
ドラマとかを見ているとすぐに恥ずかしくなったり
すぐに腹立たしくなったりして
感情の波に取り込まれるわけですよ。
これを感受性が鋭いって言うんだけども
それも正しい言い方かもしれません。
感受性が鋭い。
別の言い方をすると自分が亡くなりやすいんですよね。
ということはつまり、
同一化というのは何かというと
自分が亡くなる瞬間なんですよ。
精神分析でよく
野井武夫さんがよく言っていることですが
多分他の方もよく言っているんだと思います。
今までずっと自分がなかった
これは感受性の塊だったという言い方もできるでしょうし
絶え間ない同一化というものを
止めることができなかったと。
普通の人はそういう人はいないんですよ。
絶え間なく同一化しているという人は
ほとんど常に他人の人生を生きるということになるので
大変ですよね。
感受性運動を言っている場合ではないんですよ。
どうすればいいのかというか
その前にですね
どうすればいいのかでいいのかな
例えば奥さんが不機嫌ですという時
私の場合は母親が不機嫌だということが多かった。
それについつい同一化してしまうと
そうすると
図式でしゃべっているから変に聞こえると思うんですけど
この話、世の中では腐ることがありますよ。
要するに不機嫌な上司がいると怖くなるって話をしているだけですよ。
私は今。
不機嫌な上司がいます。
その上司を見ると同一化しそうになるわけですよ。
そうすると自分も不機嫌になる。
だから不愉快になる。
怖くなる。
そういう話なんですよ。
たったそれだけのことなんです。
これは
だから僕らは常に他人に甘える傾向を
常時持っているわけです。
私はそんなことはなく
すごく自立している人間ですっていう人は
こういうことですよ。
人がどんなに不機嫌な人が周りにいても
09:00
その機嫌に全く左右されませんと言っているわけですよ。
そうなりますよね。
全く同一化せずに済むということは
周りの機嫌がいい人がいても
不機嫌な人がいても
全く変わらないんですよ。
私はって言うんですよ。
で、そういう人がですね
あの人めんどくさいからとか言ったら
もうその人は自己矛盾の塊ですよね。
人がめんどくさいはずないじゃないですか。
同一化しない人だったら。
甘えがゼロの人っていうのは
そんな人はいないんだけど
人がめんどくさいってことはあり得ないんですよ。
実際、例えば
車に全く興味ない人は
車が完全に
自分の車が完全に壊れてても
気にならないってことになりますが
だったらその人は車買わないですよね。
っていうことなんですよね。
これは結局
人っていうのはそういう風には作られていないから
同情してしまったり
感受性が発揮されてしまって
他者になってしまうわけですね。
他者になろうとする傾向を持っているわけです。
で、他者になろうとする傾向が
ゼロで本当にあるならば
めんどくさい人なんて
この世にいるわけがないんですよ。
これはグッドバイブスで
言うところの意味じゃないですよ。
たぶん倉殿さんが
めんどくさい人というのは
この世にいませんって言うと思うんだけど
そういう意味ではないです。これは。
完全に感受性がゼロの人にとって
めんどくさい人はいないんですよ。
なぜならば
相手にする必要度がゼロだからですよ。
その人から傷つけられる可能性もゼロです。
だってどんなに不健な人間に
人がいたって関係ないじゃないですか。
人は人、自分は自分なんだから。
ここに私たちの
同一感という問題に
はまりそうな時に
我々が一般的にする対処法というか
本来これはできなければ
まずいというか困ってしまうというのが
これなんですよ。
人は人、自分は自分なんですね。
ってことは自分があるってことですよね。
これをドイさんは盛んに言ってたわけです。
甘えられない人は
自分がなくなってしまうと。
甘えようとはいつもしてるんだけれども
甘えられないわけですね。
甘えられないという人は
どういうことが起こるかというと
甘えるという自覚がないんですよ。
自覚がないというのはどういうことかというと
甘えるということができてないんですね。
甘えるっていうのは
大人の場合は
甘えた上で
それを自覚しないとダメなんですね。
昨日面白い話をして
大和製造さんと
ポッドキャストの対談収録の方を
撮ったんですけど
その時に私がたまたま
目高の例っていうのを持ち出したんですよ。
目高は私に甘えてるんですよ。
水とっかえてるし
水温調節しているし
pH調整もなんならちょっとしてるし
餌をあげてますから。
でも目高はそんなことを知らんわけですよ。
私に甘えてることは一切知らないんですね。
これが
なんていうんですかね
赤ちゃんの甘えなんです。
自覚のない甘えってやつね。
甘えてはいるんですよ。
そうしないと死んでしまうんで。
12:01
だけどもそのことに一切気づいてない。
これが理想的な甘えなんですよね。
特に赤ちゃんとかにとっては。
でも我々大人は
そうはいかない人間の大人は
甘えているということをした上で
甘えているっていう
自覚をする必要があるんです。
で、主にですね
感受性が鋭すぎて
すぐに人に共感性周知とか
共感性恐怖とか
要するに他の人が怒られてるだけでも
怖くなってしまうんですという人が
足りないのは甘えてるにも関わらず
その自覚が全然ないんですね。
そうじゃなくて他人にただ
共感しているだけだと思ってしまうんだけど
他人に共感するってのは
昨日お話した通り甘えなんです。
他人が痛いことをしている。
痛たまれなくなりました。
それは甘えですよね。
なぜその人に自分が
勝手に共感し
その人の振る舞いを
その人に変えることを
幾百回にせよ期待しているのか
そんな期待をする
権利もなければ
必要もないわけですよ。
その人が痛たまれないことを
しているかどうかだって
本当は疑わしいわけですよ。
勝手にその人が痛たまれない行為をしている
痛い行為をしている、恥ずかしいことをやっているから
あいつ辞めるべきだって思うから
恥ずかしくなるわけじゃないですか。
自分も。これは甘えなんです。
同一化というのは常に甘えであり
途中何度も言った通り
我々は同一化せずにはいられない。
だから人間社会は成り立つんですよ。
コンピューターにすれば
私たちは同一化するんですよ。
あ、直さなきゃと思う。
車なんかを好きな人は
もう言いますもん。
痛々しい。いや、車は痛くないんですよ。
痛々しいと思っているのは
自分の方ですよね。勝手に同一化しているんだけど
これがあるから
物を直す、修理をするし
人とも仲良くできるし
人の痛みもわかるんですよね。
つまり共感なんですけど。
だから
それが愛だって言えば愛なんですけど
この時に
人に
私が勝手に
同一化しているんだという自覚ができれば
それで丸く治る。
甘えは成立しています。
私は甘えようとしているんだなと。
だけれども
この自覚の乏しい人は
ニードばっかり見つけちゃうんですね。
人の大文字のNというか
ニードばっかり見つけているから
つらいんですよ。甘えられないじゃないですか。
不機嫌な上司
ニコニコしている上司だから甘えてOKなんですよ。
ニコニコしている上司に
同一化しました。
私もニコニコしている人になりました。
OKですよね。
これでもう全ては解決するわけです。
だから世の中には機嫌のいい人ばっかりいたらいいのに
って話をしているんだけど
それはものすごい甘えてるってことになりますよね。
不機嫌な人が来る。
その人に甘えようとするわけですよ。
不機嫌な人になろうとしちゃう。
だけれども
自分は不機嫌な人になりたくないから
当たり前ですよね。
つまり自分が怖くなったり
つらくなったりするって話になりますから
15:00
そうすると甘えられなくなって
ここで甘えが
飛んだするわけですね。
でも甘えようとし続ける。
この自覚がないので
とってもつらいということになるわけです。
そして相対的に
これがつらくないという人は
自分は自分だというわけですよ。
あいつは不機嫌だけど
俺はそうじゃない。
これができるようになるためには
何をするかというと
自分に甘える必要があるわけですよね。
と何度も言ってたんだけれども
この話が伝わりにくいと
自分に甘えるってどうしたらいいんですか
って言われるんで
これはこういうことですよ。
自分に同一化すればいいんですよ。
自分なんだから。
自分は自分ってそういうことですよね。
自分に自分が
同一化しているから
私は私ですっていうことができる。
この感覚が
多分大人は甘えるときの感覚
自分が自分に甘えてるんですよ。
自分が自分に同一化している。
同一化と甘えは同じだから。
自分が自分に
同一化してしまえば
誰か不機嫌な人がいても
その人のNと
同じ自分がNにならなくていいんですよ。
もう一回繰り返し言うと
上司が不機嫌だからと言って
別に怖くなんなくてもいいわけですよ。
私も一緒に不機嫌になりました。
私も一緒に恐ろしくなりました。
これだと
子供同士の喧嘩になっちゃうわけです。
あいつが物取ったから
喧嘩になったんだっていう話なんですよ。
NとNが2人いて
誰も甘えさせることができない。
別の言い方をすると
誰も同一化する対象を
見つけ出すことができない。
自分自身に同一化することを忘れているし
他者に同一化することもできずに
そこで先生が登場するんですね。
先生って結局
何をやっているのかというと
いろいろ叱ったり
なだめたり、いろいろするんだけど
子供はこの先生になりゃいいんだ
ということに気づくんですね。
先生に同一化する。
つまり先生というのは
子供を同一化させられる
存在でなければ
子供を同一化させられるということですね。
大概それは
やっているうちにできるようになるんだけど
つまり大人と子供の関係というのは
大人というのは
自分に同一化できるし
他者も自分に同一化させられる。
子供というのは
他者に同一化することしか
基本的にはやれない。
お孫子といったものは
自分で他者に同一化する
ということを通じて
自分自身に同一化する
ということを学ぶトレーニングなんだと思うんです。
遊びって全部そうですけどね。
北斗の拳とかで
ラ王とかに同一化するわけじゃないですか。
そのラ王って実は自分じゃないですか。
そうでないとおかしいじゃないですか。
ラ王はこの世にいないからね。
つまりそういうことを通じて
自分の中に他者を作り
イメージとして
他者を作り、これが内的対象なんだと思うんですけど
その他者に同一化する
ということを通じて
自分自身に同一化するということが
18:00
実際にはできるようになっていく
わけですよ。
これが乏し
この経験が乏しかった人
残念ながらお父さんお母さんが
なんかこうちょっと問題を抱えていたとか
そういうケースが確かにあるんでしょうね。
HSPになった
っていう人がそういう話をされるのは
最もだと思うんですよ。
つまりこの形は
成立してるんですけれども
例えば不機嫌な
母親になろうと
その母親に同一化するじゃないですか
その母親に同一化するということは
どこかでその母親に頼っている
わけですよ。
不機嫌であってもなくても
不機嫌さも一緒にくっついてきちゃうんだけど
結局母親は何らかの形で
ニーズを提供している。
そもそも存在そのものがニーズですよね。
不機嫌だろうとなんだろうと
いなくなったらいなくなってまた大問題です。
だから我々はもっともっと
良好な人間関係の中では
これが分かりにくくなるわけです。
良好だと意識しなくなりますからね。
奥さんなりお父さんなりに
同一化して
生きていると。
一緒に暮らしているとそういう傾向が
今言った通り如実に出ます。
人は同一化するということを
無意識にやってしまうから
だから如実に出るので
お母さんなりがいなくなったり
亡くなったりすると
不意に同一化する対象を失うんですよ。
これがいわゆる
欲打つですね。
失うことによる
同一化する対象が
消失してしまうことによる
最初来るのが悲しみ。途中から怒りに変わる。
つまり
物欲化っていうやつは
それによって起こるわけですね。
取り込みというのを通じて
おそらく自分自身に
同一化するということを
ここでもまた
我々はこれを学び続けることしか
できないような気がするんですね。
何かしらの他者を通じて
他者に同一化するということを
通じて自分自身に
同一化するということを獲得していく。
だから
一番理想的なのは
人は人で
自分は自分なんだけど
人も自分なんですね。
ダンタグッドバイブスに近づいている感じなんですけど
多分そういうことで
力があるカムセラー
というものができるのは
我々は
まずめんどくさい人になるものが
カムセラーのところに行くのは
決まって普通はめんどくさい人ですからね。
めんどくさい人に直面した場合
最善でも人は人って
やってしまうことが
多いと思うんですね。
多くの、一番つらくなるのが
その人に自分がなろうとして
なる毎度頑張って
その葛藤で苦しむという
そのよくある
パワハラ上司とか
言われているやつですよ。
最近流行りので言うと
モラハラと言われているやつです。
同じですね。
その人がモラハラとかパワハラに見えていては
21:00
ダメというか
十分でなくて
やっぱり大文字のNでせめて見えるようでないと
泣いている子供に見えないと
泣いている子供に見て
我々は泣いている子供にならないじゃないですか。
これが本当に子供ならね。
赤ちゃんがグズっている
どうも虫の居所が悪そうだ
という時にも
あやすんですよね。
つまりある意味そこでは
人は人、自分は自分なんですよ。
一緒になって泣き出さないですよね。
普通大人というのは。
これが
Nを見たからといって
自分もNになっちゃわない
ということ。
同一化しようという流れはあるからこそ
赤ちゃんが何かで苦しんでいるのが
わかるから何とかしてやりたいと
思うんだけど
同時に自分はニーズを提供する
存在なんですよ。
相手が車なら自命なんですけど
ミラー直さなきゃなと
たとえお金がなくて
あるいは保険使いたくないから
しばらく放っておこうということはあるかもしれないけど
ケアしようとは思うじゃないですか。
これがニーズを出す側の
やることですよね。
ニードは目の前にあるけど
ニードは自力ではニーズを出せないと。
でも大人はニードを
自力でニーズが出せると。
そうですよね。
お腹が空いたり水が飲みたくて
喉が渇いたときに奥さんとかに向かって
泣き出さないですよね。
大概の人は喉が渇いたとか言って
泣き出さないじゃないですか。
つまり自分で自分の面倒を
見られるというのは端的に
そういうことだけれども
それはつまり
自分で自分に同一化していると。
自分で自分に甘えているし
自分イコール自分なんだということが
わかっていると。
わかっていないと多分できないですよ。
自分に水を飲ませるって
恋ができないですよ。
私たちはそれが当たり前すぎて
わかんなくなっているんだけど
でも大人になってもしばしば
つまずくのが
一つはその面倒くさい人間関係であって
もう一つはその面倒くさい人が
失われた時によって
時々訴えられる不眠とか
いうやつですよね。
眠れないと。
自分が自分でなくなっていきますからね。
そこに恐怖があるようじゃ
到底眠れないです。
昔、オグデン
これも今話したのと
大半はウィニコットの話でしたけれども
オグデンとか
オグデンが書いた本の中に
私あれが非常に好きなんですけど
彼女がそばにいてくれれば
眠れるんだが
いないと眠れなくなる。
めちゃくちゃ感覚的に甘えているんだけど
この人の病理って一体何なんだろう
って考えると分かりにくいですよね。
不眠かっていうと
でも彼女がいれば眠れるんだから
不眠とは言いがたい。
いわゆる寂しくて寝られないとか言うんだけど
もう一歩踏み込むと
どういうことなんだろうって思うじゃないですか。
甘えっていう言葉がここで出てくると
かなりいい線いきますよね。
この人は恋人に甘えている。
悪い話でもないですよね。
24:00
ただ実際のところ一人じゃ眠れないっていうのが
大人では困ってしまうじゃないですか。
大変心温まる話かもしれないけど
やっぱりそれじゃ不便でしょうがないと。
人は人、自分は自分がないわけですよ。
この人自分がないんだ。
自分がなくなってしまうんだけれども
恋人と一緒になら寝られるっていうことは
どういうことかというと
その人になるわけですよね。
眠る前に。
そうすると自分が空っぽになっていくので
眠れるわけですよ。
そしてその人になったという自覚が
一切ないので
ここが大事なんですよね。
目高の時と同じですよ。
安心できるというのはそういうことですよね。
その人になったという自覚が一切ない。
その人は自分が自分だと思い込んでいるんだけど
そうじゃないですよ。
自分の大半はもう恋人になっている。
そして恋人は大好きだから
恋人になるということは
いいことが起こっている。
いいことが起きているというのはどういうことかというと
自分がいいと思っている自分の部分を
恋人に向かって投影しているんですよ。
この話をすると
非常に埋めがないかもしれない。
恋人が綺麗だとか優しいとか
全部自分なんですよ。
自分がこういう人間だったらいいなと思っているものを
恋人に投影しておいて
つまりいい自分だから
いいに決まっているわけですよね。
で、いい自分になりましたと
安心して寝られるんですよ。
そういう対象を見失った時に
いないと
いい自分というのが
なくなるわけですよね。
非常に極端なことを言うならば
投影する対象がいない。
本当にいるんですよ。自分の中に。
ただそれを見失っているだけなんです。
そして同一化する対象が
なくなるわけです。
あるいは同一化したい対象がなくなるんです。
そうすると
自分は自分のままで
大きなNがここに残るわけですよ。
いい自分を見つけ出したいなと
そういう言い方はできませんからね。
通常いないなという言い方になっちゃいますから
寂しいという言い方になりますから
いい自分というものを
目にできる
相手が欲しいなと本当は言っているんだけど
そういう言い方はできないですから
そのために
ぽっかりとNだけが残って
ニーズが提供されないと
つまり
眠いんだけど眠れないという
変な現象が起こるわけです。
こういうことに人が悩むということは
我々は
通常は全然問題は
全くないんですけれども
ある程度問題が起きれば
水飲むことすら困難になると思うんですよ。
フロイトの最初の章例として出てくる
アンナ王さん
ヒステリーですけど
あの人は水飲めなくなったりもしてまして
ちょっと違う文脈だけれども
結局こういう基礎中の基礎みたいな
ほとんど意識もしていないようなことすら
できなくなるときというのは
事故同一化というものを
完全に見失った時ですよね。
同一化する事故
27:00
絶対に自分に
同一化しないといけないかというと
我々はそうだと思い込んでいるというのは
それはデタラメですから。
車に同一化できたりコンピュータに同一化できたり
人には簡単に同一化できるように
我々は別に
自分に同一化できるというのは
当たり前のことじゃないですからね。
これ学んだことなので。
27:23

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