1. 佐々木正悟のライフハックからの精神分析
  2. 私なりの3ヶ月チャレンジ!【1..
2025-06-13 39:51

私なりの3ヶ月チャレンジ!【1203】

現実と知覚にはズレがあり、そのズレを使うことをナルシシズムという。
---
stand.fmでは、この放送にいいね・コメント・レター送信ができます。
https://stand.fm/channels/658790a07376b3f9361fc70f

サマリー

エピソードでは、ナルシシズムとその心理的理解について考察が行われており、特に個人の知覚と現実のずれがテーマとなっています。リスナーに向けて、精神分析の観点から現実受容の重要性や、それが自己評価に与える影響について深く掘り下げています。このエピソードでは、現実と妄想の関係を探求し、ナルシシズムの影響が心の知覚にどのように働きかけるかを考察します。また、心理カウンセリングや認知療法に関連する疑問を通じて、自己の認知の歪みとその解消方法についての考えが述べられています。さらに、認知行動療法や精神分析における認知の歪みについても探求し、3ヶ月チャレンジの文脈でお互いの認知がどのように影響し合うのかを論じています。ホープレスネスやヘルプレスネスに関連する認知の歪みについても言及され、全体としてメンタルヘルスの理解を深める内容となっています。3ヶ月チャレンジを通じて、現実の認識や認知の適応性について考察が行われ、自己認識の重要性が強調されています。

3ヶ月チャレンジの現状
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ第1203回をお送りします。
6月13日、金曜日。ホラー映画の日っぽいですね。10時30分です。
今日はやると、結局週6回になったなぁと思うんですが、週5回でいきたいという。
あと、できれば40分ぐらいにするのが一番ちょうどいい。
特に今日はですね、11時10分ぐらいには切り上げて、そこで飯を食いたいと、なんとなく思ってるんですけど、まあそんな風には行かなかったりしますけど。
まあまあですね、6月13日、そろそろ、これを聞いている方にどのくらい関係あるかわかんないですけど、
3ヶ月チャレンジ第10期のちょうど半ばに差し掛かろうとしております。
3ヶ月なので1.5ヶ月、1ヶ月と15日付近に満々な間があるんじゃないかと思うんですが、残り1ヶ月と15日ぐらいで、あと1ヶ月2週間ですね。
どこらへんから第11期の募集というものを始めさせていただくか考えているところで、
ここのところで10期を大きくブラッシュアップしたわけですが、週3回っていうのを投入しましたからね。
で、大変となく来期はもう少し構造、これを皆様が聞いて、それの何が構造なのかっておっしゃるぐらいの感じなんですけど、
構造的にしていくべく努力をしようと。僕こういうの苦手ですからね。
3ヶ月という構造は持っていて、週1回、週2回、週3回、グループセッション、週、平日、夜、休日、昼というふうにセットしていて、
おかげさまでこなれてきた感じなんですけど、あと人数としては、私が今考えているのは、人数としては10人前後にし、週24セッションが最大ぐらいかなと思っています。
まあまあ、そういう意味ではまだまだ余裕は実はありましてですね。週24セッションは、つまり1日4セッションを6日やることはできるなと。
私、休日が欲しくないタイプなんで、別に家族で旅行行くとかそういうことをやった時にはですね、お休みいただいているわけですよ。
週に6回、7回働いて週28セッションでもいいんですけど、さすがにですね、他のセミナーとか100日チャレンジのイベントとかもあることを考えると、
週1は1セッション、2セッションぐらいにしておいた方がいい日はあるわけですよね。そういう日が週に2日ある、土日のことですね。
そうすると、やっぱり24セッション、そうですね、24セッションがいいところかなっていう感じがしております。
18から24の間、だから10人で20セッション前後ってことになりますかね。
だから余裕はあります。今のところまだですね、最大で週に26セッションぐらい行くことはあるけど、最低で週になんでこの差が起こるんだ。
おかしいような気がする。いや、そんなことは、でもそういうことがあるんで。違う違う。
最大で21、22セッションで、最低で19、20セッションで、そのズレは少ないんですよ。
ほら、あれがあるから。そうそう、お試し3セッションを段続的にやっていたり、単独4セッションを段続的に。
これもこの辺ですね、構造化したいと言ってるのは。もう少し整理しなきゃなという、なんかすごいなあなあでやっちゃってるんで。
飛び込み1セッションを当日、余裕のある日に発行するかどうしようか今迷ったんですけど、1回だけで何かができるかなっていうのは本当あるんですよね。
1回体験していただきたいっていうのはちょっとあるんだけど、1回で何ができるかっていうのと、そういう時の空白を使って結構事務作業とかしてるしなあみたいな、
そういう野球を見たりしてるしなあっていうのもありますし、いろいろありますんで、ちょっとこれをどうするかは随時検討中。
ナルシシズムの考察
そんなこと言ってるし、構造化しないままズルズル10機来たわけですよね。
まあいいや。というわけで今日はですね、今日は全然違って、すごい抽象的?いやまあわかんないですけど、
少しこうね、理屈っぽい話を、いつもそうかもしれないですけど、私なりに、なんていうんだろうなあ、精神分析というものの、
今構造の話をしたのはきっとそういう意識があったせいなんですけど、
というもののですね、何をしてるんだよっていうのもね、もうちょっと抽象度高くっていうのかな、低いですけど、説明していきたいと思うようになりました。
最近ですね、急にまとまってきたんですよね。こういう方針でいくぞみたいな、それを言葉に直せるかっていうとめちゃくちゃ微妙なんですけど、
一般化できないんですよね。すごく難しいと。やってみようと思うんですけど、
要するにですね、ナルシシズムって言葉が鍵なんですね。私なりにナルシシズムの、これ佐々木定義なんで、テストとかにこういうの書いちゃダメですからね。
佐々木定義ってのはやっぱり臨床なんですよね、結局ね。だから心理臨床じゃないですよ。人生相談臨床。よくわかんないな。まあいいや。
つまりワンオンセッションを何度もやると、やっぱりその人その人で出来上がってくるモデルみたいなものがきっとあるんですよ。
お前は早すぎるだろって言われれば、それはもうちょっと申し訳ございませんとしか言いようがないんですけど、
僕の感じ、ナルシシズムというのは現実とずれなければならない、現実とずらすことをその人なりに良しとすることなんです。
で、もうそもそも知覚というのは現実とずれてますから、これも散々言ってますけど現象学的にそうだと思うんで、つまり知覚をするということはナルシシズムだってことなんですよ。
物を見るということはナルシシズムだし、音を聞くということはナルシシズムです。触ったら何かあふれた感じがする、これはナルシシズムなんですよ。
少なくともナルシシズムの発祥の元がそこにあると思うんですね。冷たいとか言うけど冷たくはないかもしれないじゃないですか。
同じものを触って暑い、例えば同じものを飲んでぬるいっていう人もいる。それはもっと暑くあってほしいというその人のエゴが現れているじゃないですか。ぬるい。
で、いやいや暑いよっていう、その人は猫舌かもしれないですよね。この暑いもやっぱりエゴがある。もっとぬるくあってほしいわけでしょ。だからずれがあるんですよ。
絶対的なぬるさとか絶対的な暑さってものはないわけだから、暑いだぬるいだ感じた瞬間にもうそこにはナルシシズムが入り込んでいると思うんですね。
で、これは誰もナルシシズムなどと言わないしOKだ。そんなのはないと困る。つまりナルシシズムというのはないと困るものなんですよ。ないとどうなるか。
現実そのものになっちゃいますよね。究極的に。現実そのものになってしまうということは、つまりめちゃくちゃ苦しいですよね。
この人は現実とずれはほとんど全く何もないのかもしれないけど、現実をまるごとそのまんま受け止めてしまっているだけなんですけど、だけなんですよ。
だからどんなに暑くてもうううってなるかもしれないけど飲んじゃう。どんなに冷たくてもうううってなるかもしれないけど触ったまんまでいる。
これが私は一番の極だと思うんですよね。全くずれがないという病理。ずれないと病理なんですよ。
現実がある程度私たちが自分の都合に合わせて知覚するところのものなんですよ。
だってあの光だってですね。光はこんなに幅が広いのに波長の幅ですね。
端光線ってめちゃくちゃ狭いんですよ。目に見える光の幅ってほとんどなんかごくごく狭いんですよ。
だから赤外線とか紫外線とかあのウルトラバイオレットの世界ですけど見えないわけですよ。
X線とか全く見えないわけですよね。あるけど。あるけど見えないわけですよ。だから無視してる。
ないもの同然と見なしてもいいから無視しているわけですね。見えないわけですね。見えない聞こえない。鳴るし沈むですよね。
基本的にそれはなくていいからないものと見なしている。
だからハチさんは赤外線見えるそうですが、人は赤外線は見えないですよね。見えなくていいから。
で、こういう風に現実というものをずらして自覚するということをやっている私。
あ、てか、知覚をするということはすでに現実からずれているわけで、ずれがないというのは一方の極にはですね、現実そのものに近い。どんどん近づいていく。
だから現実見当はその人は間違ってはいないんだけど、生きていくのはほぼ不可能みたいな。
なんでかっていうと、これはぬるいっていうのは自分にとって都合が悪いわけですよね。都合の悪い現実は修正しなきゃいけないんだけど、都合が悪いとかいいとかいうことを自分が差し挟む資格はないぐらいに思っていると、
ものすごく、これをマゾキスティックと呼ぶんだけど、別にそれはマゾキスティックではないとも言えるんですよ。
現実、現実様は絶対なんですよ。そういう人にしてみるとですね、現実絶対なわけです。
これはですね、なんて言うんだろうな、おそらく家庭環境があまりにも厳しくて、ご本人があまりにも自分に対する評価が低かったということが、要するに家族がそう評価してくるから、その評価をまんま受け入れなければならない。
だから、ヘルプレスネスの世界ですよね。自分はあまりにも全然現実というものに適応できない人間なんだということで、ひたすら現実の正しさを受け取るだけになっていくという世界に生きていて。
だから、お父さんお母さんが現実じゃないですか。そのお父さんお母さんが、あんたは無能なんだから私の言う通りにしなさいとしか言わなかった。
で、これは丸々現実ですからね。知覚を、いやいやお父さんは間違っているっていうのが知覚じゃないですか。
そういうのは、つまり知覚には解釈の余地があるわけなんですけれども、その解釈をどの程度自分にとって都合のいい解釈にしていけるかってことが追われていくわけですよ。
お父さんはそう言うが、私はそこまで無能じゃないっていうのは、知覚、現実に対する一つの解釈を与えているんですよね。
しかもそれは自分にとって都合のいい解釈ですよ。都合のいい解釈をすることはナルシシズムですよね。
これをどの程度自分に許容できるかということが一方の極みからは追われているわけですよ。
だから当然、この現実に対する私は解釈する余地は全く、そういう資格は全然ないという人は、賊に討つという方向に向かっていくわけですよね。
ひたすらひたすら現実が正しいということにして、ここにある苦しみというのは、自分は現実に対して何かを要求したり交渉したり解釈をしたり、解釈すらする権利も能力も何もないっていう感じなんですよ。
現実の受容と苦しみ
ひたすら自分は現実の通りに、ここには苦しみがありますから、必然的に。
ひたすら現実は苦しいもので、でもひたすらそれに耐えるという世界なんですね。
だからマゾキスティックと呼ばれたりもするわけですよ。もちろん幅ありますよ。
ものすごくこれが極端になっていくと、動きもしない、動くということすら自分には許されていないみたいな世界が起こってくるわけですね。
動くっていうのは自分の都合に合わせて動くわけじゃないですか。
自分が体を揺するというのは気持ちがいいから揺するわけですよね。貧乏揺すりとかもそうですよね。
ナルシシズムが入ってますよね。そんなこと言わないですけどね。
だからナルシシズムっていうのは僕は鍵だなと思うんですよ。
どこまで自分のナルシシズムを許せるかっていう鍵みたいなものが一方の極にある。
他方の極には現実を無視する方面がありますよ。
こっちは現実は全部丸ごと正しいものとして受け止めて、結局そこに行くと自分のナルシシズムは全否定することになるので、
めちゃくちゃ自分にとって都合の悪い人生だけが回ってるわけですよね。絶望が永遠に続く人生。
他方に現実を無視するという知覚があるわけですよ。知覚が現実を無視するということは究極にずれるわけですよ。
ここにないものを勝手に見る。ここにあるものは無視する。
ある種の現実を可能な限り自分にとってある程度都合のいい解釈を徹底的にすることによって、現実と知覚を分離させてしまう。
そうすると知覚というものは何かというと幻覚になりますよ。
こっちの極みには妄想性分裂病と昔呼ばれていたようなものがあるわけですよ。
妄想分裂ポジションの極みですよ。
現実と妄想の探求
そこで見るものは基本的に妄想なんで、現実ではない。現実からは大きくずれるわけです。
ただし自分のナルシシズムにとっては都合がいいわけですね。
さっきのような自分の都合のいい解釈は一切許されないんだからといって現実をただただ受け入れるだけになると、
究極的には写真のような知覚になっちゃうと思うんですよね。
単なる事実になってしまう。だから解釈とか意味付けができなくなるんですよ。
カレンダーを見てもカレンダーの数字は目におそらく入るんでしょうけれども、
今日が何日かもわかんなくはないのかもしれない。でも今日が何日って解釈じゃないですか。
しかも今日が仮に6月13日ですってことになってもただそれだけなんです。
冒頭で私ホラーっぽいと言う、今日は13日の金曜日。これはつまり解釈じゃないですか。
13日の金曜日だから何なんだって話じゃないですか。
こういうふうに全てが何の意味もない世界が出現するはずなんですよ。
意味をつけるというのは思いっきりナルシシスティックですから、ある意味。
自分にとってそれが便利だから、便利って自分の都合じゃないですか。その都合に合わせて意味をつけて。
一方で、いやもう今日は6月13日じゃないんだ。
明日の方が嬉しい日だから今日は6月14日なんだよっていう、これは幻覚の世界ですよね。
知覚なんだけど、現実を相当程度歪めてますよね。
いろんな解釈をここに徹底的に投入することによって、可能な限り現実から自分にとって都合の良い知覚へとずらしていく。
だから現実の知覚、この場合知覚というのはもはや現実との接点が本当にちょっとあればいいだけなので、
壁に白っぽいものがあったらもうそれは白い何かだってことにしてしまうとか、いろんなことができるわけです。
キャッシュディスペンサーみたいなものを見たら、そのキャッシュディスペンサーは中国のスパイ行為の一部がそこに反映されているとか、解釈の余地はいくらでもあるということなんですよ。
だから、幻覚と妄想の世界。
で、ここで大きな疑問が一つ浮かんでくるわけですよね。
ナルシシズムの影響
一方の極みは、とても辛い、ひたすら現実を受け入れる、自分は全く無能力で、何の資格もなく、何のエゴも許されない、というこっちはとても苦しい、これは確実ですよ。
他方で、なぜ妄想は苦しい妄想が多いのかという疑問が湧いてきますよね。
自覚と現実が完璧にずれていていいなら、自分にとって都合のいい妄想ばかりが展開するはずなのに、結構妄想分裂気味の人というのは、それは彼らは彼らでとても苦しんでいらっしゃるわけですよ。
これのキーワードになるのが分裂という言葉なんですよ。
妄想だけであれば、おそらくものすごく幸せな妄想というものもあり得ると思うんです。
そういう話も本の中には出てくるんですけれども、多くは決してそうじゃないですよ。
自分の悪口を近所の人が言っている妄想とか、確かにそれは妄想に違いはないんだけど、解釈ですよね。
はなはだ解釈が大量に付与されて、でもその妄想はちっとも自分にとって都合良くはないですよね。
なぜかというとですね、その人は自分にとって幸せな現実というものもあるんですけれども、
幸せでない現実があるからこそ、知覚を歪めてでも大量の解釈を投与しなければならないわけですよ。
だって本当に幸せだったら、ただ知覚しとけばいいだけじゃないですか。
朝から晩までひたすら幸せなことが起きるって言うんであれば、現実に対して知覚をずらす理由がどこにもないですよね。
本当にナルシシズムが生きてるだけで実現するんだったらば、解釈をしたり、知覚を歪めたりする理由はないわけですよ。
ひたすら知覚して現実を受け止めていけばいい。
いつも甘くしてくれる、優しくしてくれる人でいっぱいな世界に、ただ生きてればいいわけじゃないですか。
そうはいかないんですよね。
そうはいかないからこそ、知覚を現実から分離させてずらすとか、歪めてずらすとか、解釈を異常につけてずらすとか、いろんなことをするわけで、
この場合、2つの自分がいるはずなんですよ、そこに。
幸せな私と不幸せな私。
この幸せな私はいるんだけどどっかに、ちっちゃいんですよ。
だから現実を大幅に塗り替えなければならないわけですよ。
そしてその現実の大幅な塗り替えというのは、現実を完璧に無視するってことはできないので、
大きくいろんな解釈を与えるんだけれども、結局は苦しみってものはそこに反映されてはきてしまうわけです。
知覚というのは、完璧に自分の都合に合わせて100%夢の世界っていうわけにはいかない。
心理カウンセリングの疑問
だいだい自分の中の、例えば不安みたいなものって、自分の中にあるものを消し切ることはできないじゃないですか。
だからその不安に対しても解釈を与えていく。
どういう解釈を与えていくかというと、私はOKだ。
世の中が狂ってるっていう解釈が、一番この状態を分裂させた上で、
自分がそれなりに幸せに生きていくために一番都合がいいというか、やっぱり都合がいいんです。
世の中がとにかく狂っている。
例えば一番極端な場合、どうやら世の中は宇宙人に支配されてしまったようだ、みたいな話。
私はOKなんだ。地球人として普通に生きていて、正常で幸せなんだけれども、
世の中がもうみんな宇宙人になってしまっている、みたいなところまで極端な場合ですからね、今言ってるので。
知覚を変えていく。
そうでないという証拠は、一定的な証拠は見つからないじゃないですか。
宇宙人が地球人に化けて、私を、唯一の生き残りである私を探して、
なんかひそひそと喋りながら悪巧みをしようとしているのが、表面的にはそれが分からないように、
だから要するに地球人と宇宙人が混ざっちゃってるわけですよね。
そういう現実に何とか交互させる形で、しかし現実を大きく変えていくような解釈を与えているわけです。
そうすることによって、私はとにかく正常で健康で安全でいい人っていう状態を維持しつつ、
他の人たちのズレというものを徹底的に摘止していい状態というものを実現する。
これが妄想分裂的な世界だと思うんですよね。
だからここにも苦しみはあるんですが、あくまでも苦しみは外にある。
悪いものは全部外にあるのであって、自分の側にはないっていう世界を作り出しているわけですね。
これが要するにナルシシズムの領局なんだと思うんですよ。
ナルシシズムというのはいくらかは必要だけど、ここまでいってしまうとやっぱりこういろいろ問題なわけです。
ではどこからどこまでが正常の範囲なのかといったときに、
お互いが言葉で情報交換したときにお互いの世界は大体一致しているよねっていう感じがするところが正常の範囲。
ということはつまり文化によっても少し変わるし、状況によっても少し変わるし、人によっても当然変わるというものであって、
ここからここまでは正常ですっていうような範囲を具体的に示すことはできないんですね。
ここからこういう話は結局のところ何かの話をパクったような話でしかないんですけど、一応僕がまとめたんですよ頭の中で。
これをですね、これ要するに僕が今までやってきた3ヶ月チャレンジの経験をベースにこういう感覚が自分の中でまとまりつつあるなというのを今喋っているわけですけれども、
こういう中でじゃあお前は何をしているのかと言われたときに、まずいきなりそれに答える前にですね、
まずこういう現実があるとすればですよ、あるんですけれども、あるんですけれども、まず心理カウンセリングっていうものを考えたときに人々が何を考えるかというとですね、
私はそこに当然その人のナルシズムにおける知覚のずれを補正するという考え方が浮かんでくるであろうと思うわけですね。
少なくともそういうアイディアを持つ人はいますよね、絶対に。
いやそんな宇宙人が攻めてきていて地球人に化けているというほど知覚がずれているのを何とか補正してあげられないだろうかというふうに考えますよね。
考える人はいると思うんですね。
それが認知の歪みと呼ばれているものの補正をするという、つまり認知療法と呼ばれているもののベースだと思うんですよ。
で、基本的に私は現代の主流はここにベースをとりあえず置いたんです。
ただ私はこの考え方には重大な欠点があると思うんですよ。
パッと考えたその人にはいろんな方がいるんですけど、3、4人いるんですけど、その人たちは偉いと思うんですよ。
しかもこれを治療方法としてまとめたわけですから。
でもこの方法論の中にはやっぱり大事な欠陥があると思うんですよね。
なぜ治療者の認知は正常であると言えるのかということに対する答えがないような気がするんですね。
で、私はなぜそういうことにこだわるかというと、私の認知が歪んでると思ってるからなんですよ、はっきり言って。
私は社会適応度の低い人間ですし、これも3ヶ月チャレンジやっててつくづく思うんですけれども、
大抵の人は私よりも社会的に適応されてるんですよ。
私なんかもう本当危ういもはなはなしくて、もうちょっとでニートの引きこもり以外何もしない人だっただろうな、本当にもうちょっとだったなという。
簡単に言うと大橋哲夫さんにシゴタノでメッセージ送ってなかったら、今頃私はニートの引きこもりだなって感じが絶対するんですよ。
年齢的にニートの定義から外れるらしいんですけどね。
とにかくあの時、2000何年だったっけな、5年の7月7日付近にシゴタノにメッセージ送ったらしいんですよ。
詳しく知りたい人は大橋哲夫さんという人に連絡してみてください。連絡はしちゃダメだ。何か機会があったら聞いてみてください。
彼は時刻についても完璧に正しく教えてくれると思います。
私はそんなの記録してないんで。
そういう大橋哲夫さんという恩人がいて、社会的適応がしているフリができてますとしか言いようがないんですよ。
だから非常に3ヶ月チャレンジっていうのは、僕は皆さんの行為で綱を渡らせてもらっている感はあるんです。
すごい綱渡り感を持っているんですよね、僕は。
でも人生がそもそも僕は綱渡りじゃなかったことないなって後から考えてみると思うんで、
僕の認知は歪んでいる感じがする。
だから認知の歪みを補正してあげましょうということに乗り切らないんですよ、全然。
アメリカで僕は認知療法、認知コード療法ですけど厳密には2回は受けているんですけど、
一つは陰性、一つはプロなんですけど、
どっちもその初っ端からそういう反発が強すぎて、
だけど僕プラクティカムでAもらってるんですけど、
あの先生なんで僕にAくれたのかな、不思議だなと思うんですけどね。
僕はそういうラッキーさを持って生きてきてるんですよ。
絶対あれドロップしてるよねっていう感じがするんだけど、AはAだったんですよね。
アメリカは著録ないんで、すっげえ厳しいんで、
僕がAもらえる理由一つもないと思うんだけど、AはAだったんですよね。
だけどホームワークとか出るわけですよ。
あなたの認知を補正して、そのことをチャレンジして、
次の1週間でどうなるか、頑張ってみましょうみたいな感じで。
いや、お前はどうして認知正しいんだよっていう風にすぐなるわけですよね、僕は。
オリシモ当時イラク戦争開戦で、明らかにみんな世界中で、
特に日本人はニュースの内容が全然違うんで、アメリカのニュースと日本のニュースじゃ。
世界における認知は、アメリカ人は突出して微妙だった感じで、
もちろん私のCBTをやってくれた大学院生とかも、
バリバリFOXニュースとかしか見ないような感じで、
アメリカはとてもいい国で、戦争しても人は殺さないしみたいな、
認知の歪みとその影響
すごい独特の認知を抱いていらっしゃるわけだったんですね。
お前の認知がどうして正しいっていう、
そんなに現実的要度がいいっていうのはどっから来るんだよっていう、
そういうですね、私の認知をなぜ補正しなきゃならないんだっていうのはね、
学生の身分なんだから、当然お前の認知を補正するのが訓練なんだよと言われれば、
その通りなんですけどもね。
とにかくそういう、あっさり僕は乗ってなかったわけですね。
ですが、今はもちろんその認知行動療法変わってきてるんで、
でもそれ当時2005年の頃ですから、変わってきてるって言ったら、
なかなかまだ20年じゃんっていう気もしないでもないんですけども、
認知行動じゃないですか、認知療法だということで僕定義上喋ってますから、
しかもこれは別に批判したいわけじゃないんですよ。
この発想はアリだと思います。
どうしてかっていうと、認知の歪みが、
例えばキャッシュディスペンサーに宇宙人からの指令が飛んできて、
そこからスパイがっていう、この話は作り話じゃないですよ、
僕聞いたことがあるんです。
そういう人の認知は、確かに我々一般からするとズレは大きいと言わざるを得ませんから、
そっちが正しいのかどうかを論じる前に、いくらか補正してあげるのが現実的だと思います。
だから可能ならよ、それが可能かどうかわかんないじゃないですか。
でもまあそうして人間は絶対に正しいことができるわけじゃないんですよね。
そういう営みは当然あっていいと思うし、あって然るべきだと思うんですよ。
はっきり言って私も、特にアメリカに住む者としては認知の歪みの裸しい人間なんで、
ちゃんとホームワークとかやればよかったわけですよ。
やってないんだけど。
そのことに僕がブツクサ文句を言うのもおかしな話なんですが、
どうしてもやっぱり私はこのスタート地点が納得できてないというのはあるってことですね。
向こうがもう旨間違ってはいないんですよ。
正しいんだけど。
でも私は納得はしなかったということですね。
やっぱり3ヶ月チャレンジではではというか、
効動的な仮想というのはどういうことかというと、
両者とも認知は歪んでるよねっていう前提があると思うんですよね。
だからある意味ここの対話は少なくとも一方的に、
治療者は適応的にいい認知状態にあり、
クライアントはそうではないという前提のようなもの。
あの世界をどうしても強く感じさせられすぎる。
結局は力動だってそうなりやすいと思うんですよ。
だけど結構僕力動っていうのは精神分析っていうのはフロイト以来そうですけど、
いやフロイトおじさんだって結構やばくないみたいな、
当時のナチスドイツの前夜みたいなワイマールのドイツの世界で、
ああいう人って結構ドイツじゃないのかもしれないけど、
あそこはウィンだからオーストリアか。
どっちにしてもちょっとやばくないみたいな、
そういうドーラとフロイトがいて、
ドーラの認知が歪んでるから補正してあげましょうっていう感じでは、
力度は進まないよなって感じが、
私の勝手な印象もありますけれどもするわけですね。
やっぱりお互いがその場に行ったら、
もちろん心理カウンセリングが全てCBTなわけじゃないし、
今のCBTは第三世代か、違うのかもしれないですけど、
少なくとも私は3ヶ月チャレンジにおいては、
お互いがお互いの認知の歪みを、
その程度ならOKだよねっていうところからスタートするしかないと思うんですよね。
ここまではまず行く必要があると思うんですよ。
どっちかが適応していて、どっちかは非適応であるっていうような前提、
どういう前提でもいいですけど、
どっちかが補正を必要とするっていう前提に立たないほうがいいような気がするんですよ。
最初からその前提を持たないと。
ずれてるに決まってるんだから、
知覚というものは現実じゃないんで、
そして知覚にナルシズムが潜んでいくのは当たり前なんだから、
その前提から行くだろうっていうふうに思うわけですよ。
でも、CBTにもこれCBTっていうのは余計なことなんですけど、
認知力にもこれは組み込めますよね。
お互いがずれているという前提で行くと。
が、おそくは隙間というものを読んでもですね、
もう一つものすごく重要な隙間療法に関しては、
私は語れるほどは何もないんで、
ここはもうこの程度でするんですけど、
もう一つとても重大な問題が潜んでいて、
ここに精神力道というものの中心があると思うんですよ。
両方がずれているなどというだけなら、
ホープレスネスの認知
認知療法だけでも十分いけると思うんですけれども、
もう一つ、そのずれは現実をずれに合わせて動かし始めるという部分が、
少なくとも私は大前提としているって思うんですよ。
ここが私が現象学で追いついていけてなかったところですよ。
精神分析というものを読んで初めて、
ああと思わせられた部分なんですよ。
すごく感銘を受けた部分。
認知行動でも今そういうことをやってるんですと言われれば、
はい、そうですか、そうですねということで、
そのうち全てが統合されていくといいなと思うわけですけども、
少なくとも私はこれを精神力道によって学んだんですね。
現実というものを自分の認知の歪みに合わせて動かしていってしまうのが、
力道の力道たるところなんだと思うんですよ。
これは力道が発見したのではなくて、
力道がそれをするって話じゃないですよ。
東映ドイツ課によって、
現実を動かすのは力道の空間だけで起きますみたいな、
そういうことは決してないんです。
それで治療にならないんですよね。
だからお互いがお互いの認知の歪みずれに合わせて、
お互いがお互いを動かしていくわけですよ。
補正するなんて言うけども、
補正中に自分が補正されてしまうわけですよ。
動いてしまうわけですよ。
ここに難しさがあると思うんですよね。
これを発見したのが、
少なくともこれを最初に発見したのが、
多分に対象関係論と言われている人たちの一群がこれを発見し、
しかも治療の中心にこいつを置こうぜってことにしたんだと思うんですよね。
私もこれに近い立場のつもりでいるわけですね。
ただ私はこれを真正面から持っていくのは、
私3ヶ月という時間の短さと、
やっぱり自分の限界にあっさりぶちっこ当たってしまうと思うので、
この補正を小さくやっていきながら、
小さく小出しにやっていきながら、
やっては戻し、やってはヒット&アウェイ的な何かなんですよね。
やっては引いて、やっては引いてというのをやっていく。
やっては引くって多分みんなやってると思うんですけど、
この引いて、そしてなんて言えばいいんですかね。
体の生骨みたいな感じなんですよね。
生体みたいな感じ。
ガガってやって、しばらくそれで生活しながら様子を見ていくっていう。
そのガガもなるべく小さくやるみたいな。
ただ前提が大事ってことなんですよね。
この大きさについての話は、大きさなんて目に見えもしないんだから、
大きさの話よりも何よりも前提として、
お互いずれてるだけでなく、
自分の知覚の歪みに合わせて現実を変化させているということを意識するってことなんですよ。
ここをやりながらやるもの、それを僕は精神力道というやり方なんだと思うんですよ。
だから現実というものに対して、
宇宙人かっていう話をしているという方にしてみるとですね、
私も宇宙人の一派ではないのかというふうに見られるわけですよね。
そういうふうに見られると、私の宇宙人の一派だ的な感覚というものが少し揺り動かされて、
少し私が宇宙人にされるということなんですよ。
何を言ってるんだと思われるかもしれませんけど、私だって宇宙人じゃないですか。
そうだって言えることは言えるじゃないですか。
つまり、私とそのクライアントさんは縁もゆかりもなく、
お互い得体の知れない存在同士であるというのは嘘ではないですよねっていうことなんですよ。
このことを想定してかかるべきだと思うんですよ。
で、私の認知の歪みはどっちかというと、
いやいや、もうお互いすごく日本人ですし、すぐ仲良くなる。
僕はそういうところがちょっとあるんですよね。
ある種のナルシズムなんですよ、これ。
で、これを相手に明らかに私は力動としてかけていくわけですよね。
で、そうすると意見が衝突しますよね、いずれ。
この意見の衝突を僕は転移逆転移って言うんだと思うんですけれどもね。
で、全く反対に、だからこうやったときに意見が衝突したときに、
お互いの可能な解ですけど、お互いの解釈というものを解釈だという前提で、
そこをだから見失わなければ、どのようにずれていようと大した問題じゃない。
大した問題かもしれないけど、これぐらいずれてれば。
でも、大した問題じゃないんじゃないんだろうかと。
結局言葉のやり取りができるんであれば。
それも困難だってことになってくると確かに難しいと思うんですけど、
だからプレイセラピーみたいになるわけですけど、
だから私偶然なんですけど、あそこに入れておいた三チャレの一文、
未成年の方だけはご遠慮くださいわ。
確かったなって思うんですよね。
ある種のケースにおいてはプレイセラピーに訴えるしかなくなるのかもしれないけど、
オンラインでプレイセラピー無理なんで。
だからこれは良かったんだって、
つくづく無意識って偉いって勝手に思っちゃうんですけど、
未成年の方は受けられません、ご了承くださいなんですね。
私が言いたかったのは、実はこの40分の中でこれだけだったのかもしれないんだけど、
最初から念頭にあったのは未成年はダメにしたよな、なんでだっけっていうのを思ってたんですよ。
それが今ここで回収されたんですよ、私の頭の中ではね。
もう一つが、もう一つの極みですよね。
現実は正しく私はヘルプレスネスでホープレスネスですっていう場合の歪みの方。
これもナルシシズムが足りないんですね、こっちの方ある意味で。
それはそれでナルシスティックであるんですけど、
現実というものをまんま受け入れてしまっていると。
で、こちらの方に関しましてもやることは変わらないんですよね、結局。
私はホープレスネスでヘルプレスネスですっていう風に私が力度をかけられていきますよね。
そうすると私はだんだん過酷な現実化していくわけですよ。
いやあなたはヘルプあるんだから、ホープあるんだからって一生懸命言うでしょ、普通に常識的に。
これを言い続けることによって相手にとっては過酷な私は存在になっていくわけですよ。
もっと希望持て!みたいなことを言って、なんかしごいてる人みたいになっていくわけですよ。
つまり、相手の方の知覚の歪みに合わせた形で私という現実が動かされていくわけですよ。
一方で、私は相手の現実というもの、ヘルプレスネスでホープレスネスだっていう、私はヘルプレスネスでホープレスネスなんですっていう、
そういうのに対して私はヘルプを持とう、ホープを持とうと一生懸命頑張るんだけど、だんだんだんだん現実に近づけられていく。
あ、なんか私いくらやっても結果が出せていないな、みたいな。
現実の認識と自己認識
この人はホープレスなのかもしれない、みたいなことをどんどん信じる方向へ圧がかけられていくわけじゃないですか。
そういうことが起きていきますよね、やっぱり。
だって、向こうが堅く何より僕が過酷になれば、つまりその向こうの言ってることが事実になっていき、
そしてその事実に合わせて私はその事実認識をお前はしないのかって言われてることになるので、私の知覚は歪んでるってことにどんどんなっていきますよね。
思い知らされるというのかな。
つまり、現実を思い知らされて、だんだんだんだんその人のおっしゃる通りになっていくわけですよ。
巻き込まれていくというのはそういうことですよ。
つまり補正をすると言いながら、補正をしようとしている自分がそもそも安定してるわけじゃないという、揺らぐんですよね。
これを、なんて言うんですかね、そもそもの治療的観点とかっていう言い方をするんだけど、とにかく何でもいいんですが、
3ヶ月チャレンジでは3ヶ月チャレンジなりに、この事実にのっとってというか、この事実を応用すると言いますか、
実践するような形で、そんなことできないでしょって言われるかもしれないんだけど、できたんだろうなと思っているわけですよ。
証拠を見せろって言われても無理ですけどね、証拠は見せられません。
プライバシーの問題もありますが、そもそもこれの証拠が見せられるはずないじゃんっていう感じもしなくはないです。
ただ確実に言えるのは、最初にどこに行き着くかを示すことはできません。
できることとしては、結局は適応的な認知というものの幅っていうのは多分この辺りなんだろうねっていうことをお互いに了解して、
現実にそれを施行していっていただくということにおそらくなるだろうなと。
別にそれをしなければならないとか、そうした方がいいとか言えるような何者かでは私はないんですけれども、
このいわゆる現実の認知っていうのは、さっきも言いました通りナルシシズムの法がありますから、
それをいかに自分に認めるというのは二重の意味がありますよね。
法があって入ってるんだということを認識するという意味での認めるもありますし、
法があってもしょうがない、当然原理的に構わないんだという意味での許容という意味での認めるということもありますよね。
この幅が私はやっぱり広く取れるほど、世の中というのはいい世の中なんだろうなとも思いますね。
私はあんまり社会派じゃないけどそう思います。
39:51

コメント

スクロール