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おはようございます。キクセラピー第731回です。
1月22日日曜日の朝9時7分ですね。
これは多分早くて水曜日公開といった感じになると思います。
実に寒いです。
久しぶりに下で収録にしてますね。
そんなに音質変わらないんじゃないかと期待しているんですけどね。
後にならないと分かりませんが。
ここのところは、ギジッカに帰っていたエピソード。
エピソードというかね、その時僕が思ったことのタスクシュート解釈とグッドバイブス解釈で来たんですが。
最近ずっと少し間が空いたと言えますか。
たぶん自分自身が少し、最近芋たれって言葉が出てきていて面白かったんで。
芋たれしてるのかしてないな。
まあでもとにかくそんなことを考えました。
だから精神分析の話に少しまた戻ろうと思ってるんですけど。
まずですね。
お葬式だったんで、決まり文句であるところのね、
お悔やみ申し上げますと言われてハッとしたんですよ。
本当にハッとしたんですよ。
これが土井武雄さんが甘えの構造で言ってたお悔やみ申し上げますかと。
彼はこれを葬式で言うのはとても正しいんだっていう風に言ってたんですけど。
その意味がよく分かりました。
悔やむというのは、これはたぶん精神分析の人ですから土井武雄さんも、
もとメランコリーっていうのかな。
冷いとメランコリーっていうのかな。
つまり、ドロイト流に鬱というものを解釈するにあたっての論文があるんですよ。
だいぶもう昔の論文なんですけどね。
これをこの時に対象喪失っていうまた独特の用語が出てくるんですけど、
そこでもというですね、たぶんこういうことなんだと思うんですよね。
ただ悲しむのと違う、きりがない悲しみの底みたいなものと、
鬱みたいなもの、鬱の症状みたいなものをそこに紐付けて論じているんだけど。
土井さんはそういうものに和語があるんじゃないかって考える人なんですね。
例えばナルシシズムと甘えみたいなのとか、いろいろあるんですけどね。
そういうことなんですよ。
あるいは脅迫症と気が済まないみたいな。
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この気が済まないの延長線上に気が済まないと言ってもどうしようもないことに気が済まないみたいなのを
悔やみって言うんですね。
悔しいことに悔しがるみたいな表現があったと思うんですけど、
つまり、後悔しても追っつかないとかっていう表現もありますよね。
この心理の極限っていうようなものなんじゃないかなって思うんですよね、悔やみというのは。
つまり悔やみっていうのは単なる後悔というのとは違って、
やっぱり後悔することを後悔してしまう。
だから無限ループみたいになっていく。
人は後悔するという時には、それこそPDCAではないんですけれども、
今回はこういうことがあって残念だったから次回はもっとこうやろうって考える。
だけど人が亡くなってしまって、それがもし愛する人だったりすると、
そういうことを言うこと自体が無意味だって感じにとらわれますよね。
あの時こうしていれば、よし次回ってのがないわけですよね。
これが悔やみという心理に突き落とすというのかな、そんな感じがあるんだと思うんですよ。
そこで、そういう苦しみで悩んでいる人にかけられる言葉というのは何かというと、
私が代わりに悔やんであげましょうって言葉だと、こういう意味なんだと思うんですよね。
だからお悔やみ申し上げますと人は言ってあげる。
これを、つまり結局悔やむことしかできないから代わりに悔やんであげましょうという話だと思うんですよ。
つまり、こうする風な言葉をかけ続けられることによって、自分が悔やみから解放されるというのが目指すところなんだろうと思うんですね。
で、あのー、つくづくですね、こういう話を聞いていても、ある意味なんつうんですかね、主観の世界なんですよね。
観主観世って言うんですかね。
客観的な正しさというものが意味をなさない世界。
だって、客観的に正しいということだけが問題ならば、悔やんでもしょうがないじゃんってすぐと思うんですけど、
これを他人が言うことほど、この場に相応しくないこともないわけですよね。
だから、悔やんでもしょうがないというのは本人が一番よくわかっているというやつで、
そのわかってるは決して客観的な話じゃないんですよね。
でも悔やむっていう意味なんですよ。
あの、ついでに思い出したんですけど、ツイッター見ていてですね、
Jマスザキさんが、タスクシュートの一番いいところはインボックスがないところだって、
あれはなかなか面白いし、いい表現だったと思うんですけど、
これに対してですね、コメントがあって、でもインボックスを作ってしまうんだっていうのがあって、
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これが気が済まないってやつ。
気が済まないって表現、確かそこに出てきてた気がするんですよ。
インボックスを作らずには気が済まない。
まさにこれがですね、病名になっちゃうから問題があるんでしょうけれども、
病気ではないんですよね。
これが我々の変質的な、変質っていうのはおかしいっていう意味じゃないですよ。
こだわるっていう意味ですね。
変質的なあるいは脅迫的な真理なんですよ。
この種の言葉ってもともと精神分析では、もちろん症例名として、症状名として、病名としても出てるんだと思うんですけど、
モとかいう言葉って病名じゃないですよね。
モニフクスとかいうののあのモですよ。
英語ではウォーリングとかいうね、発音僕できないんですよね。
M-O-U-R、ちょっとなんか綴りも実に独特の変な言葉なんですが、
これは症状名じゃないと思うんですよね。
ナルシシズムもそうで、いつかそれが病理の名前みたいになってるんだけれども、
ナルシシズムって病理の名前じゃないと思うんですよ。
他の種の心理的傾向の強めのやつを指してると思うんです。
僕がだから最近ちょっと問題になったんですけど、
欲打つと言ったときには、それは打つに準ずるとか、欲打つ症とか言いたいわけではなくて、
欲打つ的な傾向の状態にある心理状態みたいなことが言いたいだけなんですね。
我々は脅迫的にもなるし、欲打つ的にもなるし、
どんな人でもね、明るい人とか暗い人とかでも、
なる頻度は人によって違うんでしょうけれども、そこが性格の違いなんですけど、
なるんですよね。脅迫的になるし、私もすぐなります。
欲打つ的にもなるし、一方で想的にもなる。
この2つだけ僕はほぼ逆に近いんじゃないかと思うんだけど、
想的というのは、想的防衛と言ってですね、理想に燃えてすぐ人を切り落とすんですよ。
これは欲打つの僕は反対なんじゃないかと思うんですけれども、
今日はちょっとその話をして終わりにしたいんですが、
要はですね、そういう想的な、想病って言うけど、想打つとかも言うけれどもですね、
もともとはこれはやっぱりそういう心理的な傾向の強めの傾向を指すんだと思うんですね。
強い心理的傾向、強い脅迫的傾向とか、強い想的傾向とかあると思うんですよ。
それはどうしてもそれは人間の欠点みたいに見えるんですけど、
ここにさっきちょっと申し上げた客観的正しさというものはない、
あるいはあんまり意味がないっていうことがあると思うんですね。
例えば今日なんかは確かに非常に寒いんですが、私は実はそんなに寒いと感じないんですね。
なぜかというとつい先日まで飽きたにいたからなんですよ。
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これって主観でしょ。
でも寒いって主観ですよね、寒いというのはそもそも。
温度計は寒いとかって言わないですよね。
寒いとか書いてある温度計もありますけど、温度計は寒がってないですよね。
0度であれマイナス20度であれね。
でもマイナス20度であるからどうとか、0度であるからこうとか本当は意味ないじゃないですか。
寒いってことが問題なんですよね。
いや寒いかもしれないけど10度あるから大丈夫だよとか言われてもダメな場合はあるわけですよね。
だから主観というものは非常に大事で、
なんかですね、話がちょっとずれましたが客観的に数値化すれば何でもよりよくわかるってもんではないと思うんですよ。
人が亡くなったりすると特にそう思いますね。
客観的数値だけで何かを判定するってのはほとんど無理が、かなり無理があるケースはある。
そこをだから精密検査とかって言い始めてどんどん細かく調べるって話になってっちゃうんですけどね。
そういうわけで私は自分を客観視するとか、それこそよく言う鳥の視点で眺めるとかを、
何か花瓶に反応してそんな嘘じゃんって即思うわけなんですよ。
一度も僕はその観点に立てた瞬間を経験した気がしないんで、
ましてそのガントチャートとか記録とかを見るだけでは全然無理だなっていう風に思うんですよ。
何しろ飽きたから戻ってくると今あったかいって感じちゃうのが人間だし、
この感じ大事だと思うんですよね。
身体状態が少し併用したからそう感じるはずなんですよ。
これは客観的推測なんですよね。客観的推測と客観そのものとは全然違うと思うんですよ。
客観が嘘だっていうのは全くマトリックスが僕らに教えてくれたことだと思うんですけどね。
マトリックスは至急って意味ですね。
あれに教わったというよりあれが受けたということはみんながそう思ってるってことだと思うんだけど、
話がずれてるんで戻しますが、
つまりですね、悔やむというのはあの時こうできたって話で、
これは後からだったら客観的に見られている気がするっていう意味なんだけれども、
ところが悔やみには欲打つ状態がつきもの、つまりすっごい深い憂鬱感っていうのが襲ってくるはずなんですよね。
あの時もっとこうできたんじゃないだろうかとかね、
特にやっぱり才の瓦ではないですけれども、
逆演っていうことが起こると人はこの心理に猛烈に囚われると思うんですよ。
もっとあの子にこうしてあげればよかったみたいな、そういうやつですね。
で、この時自分を責めているじゃないですか。
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つまりそれはある種の失敗が過去において行われて、当時は気づかないんだけど、
もっと自分の血統値に、その人の血統値に気をつけてあげればよかったとか、
もっと検査させればよかったとか、もっと早起きさせなければよかったとか、
私の祖父が亡くなった時にこの話が出たんですよ。
祖父は異様に早起きな人で、東北に住んでいるというのに朝4時とかに起きて、
全部冬でも窓中の窓を開けて太鼓叩き出すお坊さんなんですよ。
なかなかちょっと名物のお坊さんみたいになったんだけど、
そんなことをやっているから、早朝に雲の中で倒れても誰も気づかないまま放置しちゃうわけですよ。
起きてないからね、誰もそんな時間。真っ暗ですしね。
起こさなければよかったって言っていた人がいたんだけど、
誰かが起こしたわけじゃないしね、だから無理やり寝せておけって話なんだけど、
それはできる人いないわけですよね。だから悔やみになっちゃうんだけれども、
ここに罪悪感がありますよね。
自責の念と言ってもいいと思うんだけど、
この自責どこから来るのかということがフロイドの論文にあって、
この自責の念を引き起こすのが長時間で、
この自責の念を引き起こすのが長時間だろうって言うわけですよね。
そうだと思うんですよ。長時間はつまり、
長時間というのは正しさの塊みたいなもんだから、お前間違ったぞと。
何のためにこういうことをやるのかというと、さっきのあれなんですよ。
マトリックスの世界を攻撃しているんだと思うんですよ。
つまり私たちは主観的世界に生きている限り、ある種のことには気づかない。
精密検査だ、数値化だのをやりたがるというのは、
結局その外に出られる可能性を模索しているわけですよね。
私全然大丈夫、健康ですよ、太鼓叩きますよって言ってるんだけど、
いやいや、あなた血圧がこんなに高いんだよと。
あるいは脳の中をエコーで調べると、こういう状態ですでに危険なんだよと。
実感できない危険というものはそこにあり、現代ではここを言うんですよね。
さもそれに携わっている専門家は、自分がエコーの側にいるかのようなことを言うから、
僕はイラッとするわけですよ。
鳥の視点とか言ってるけど、それはエコーの視点だろうって思うわけですよね。
つまり客観的正しさというものが、何て言うんですかね、
ひどく攻撃的に見えるわけです、私の目には。
なぜならそれは超自我的になってしまうから人が使う。
単なる温度計は人を攻撃しませんし、単なる血圧計は人を攻撃しませんし、
単なる血糖値は人を攻撃しないんですが、
血糖値を持ち出す人はそれを使って人を攻撃するんですよ。
だから私は客観的視点に立つ機械は全然攻撃的ではないと思うんですが、
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客観的視点に立っているかのような人は実に攻撃的だと思うんです。
これは超自我的なんですよ。
超自我ってのはつまり他人のナルシズムを攻撃するんです。
私はこれはサリズムだと思うんです。
だから私はPDCAって苦手なんですよ。
つまりサリズムではないけどサリズムに結びつくと思うんですよね。
なんとなく攻撃している人は偉い人のような感じがする。
そういう専門家の人に出会うことってあるじゃないですか。
昔の歯医者さんとか本当すごかったですよ。
そんな歯の磨き方だったら歯全部抜くからねとか僕は言われたことがありますから。
9歳とかのときに。つまりそういうことなんですよ。
ここに客観的視点っていうもの。つまり人が怒るときってみんな同じなんですけども。
客観的に私は正しくてあなたは主観的に迂闊だったりミスしたりバカだったりするから攻撃されるんだよっていう
そういうポジションになっちゃうわけですね。
これを自分に向けると悔やみが始まる。極端な場合。
これを自分に向けるとあの時私が悔やみが始まる。
これを自分に向けるとあの時私がこうしていればあれですよ。
中間テストとか期末テストのときここで2×4を6って書かなければ赤点取らずに済んだのにって思うと人はこれをやるでしょ。
さもそのいうことができたかのような気になるわけですね。
自分が超自我的な観点に立って自我を攻撃し始めるわけです。
だからどんどんどんどん元気がなくなっていくわけですよ。
この状態が非常に抑鬱的な状態だと。
これは私は症状じゃないと思うんです。状態だと思うんです。
人の心の中には超自我っておそらくプロイトが言った通りみんなあるから。
そしてこの超自我っていうのはそもそもの発生の契機っていうのかな。
その出生の由来はナルシシズムの攻撃に単を発しているわけですよ。
このことを説明したのがエリプスコンプレックスってやつですからね。
多分プロイトが言ったのは母と子の私でいえば私とお母さんの一体感。
はっきりと自分ってものがまだない世界でここでおっぱい吸ってれば安泰じゃん。
素晴らしいじゃん。この世に生きていくのはこれで十分じゃんと思ったら
お父さんが横から出てきてお前それもういい加減にやめろみたいなことを言うとね。
これが虚勢恐怖ですよね。
もともとお前どうやって生まれたと思ってんだって話なんですよ。
だから第三者としての父親というのが登場し、これがお父さんじゃなくてもいいわけですよ。
近所の子供にからかわれるとか、近所の兄ちゃんにバカにされるとかそういうやつを全部含みますよね。
そして猿山のボスの世界とかに連れて行かれてお前もボス競争に参加しろみたいなことを言われて
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嫌な気持ちになるわけですよ。
わけのわからない変なボールを使った三角ベースの野球とかさせられて
お前が一番下手であることを思い知れみたいな、そういう世界ですよね。
これがエディプスコンプレックスの原型だと思うんですね。
要はナルシシズム的な世界でポヤーンと一生を終えることは許されませんよっていう
ここに端を発する。だから客観的現実ってものがあってそこはもっと過酷なんですよ。
ここが余計なんですよ。そこは別に過酷じゃないんですよ。
所詮三角ベースなんだけど、なんかここをお前の世界は余ったるいんだよっていう
メッセージを込めたいという気持ちが出てくるんですよね、こういう時に。
ここが多分動物としての霊長類的世界にはあるんだと思うんですよね。
どういう戦術をお話していないか、ブログには書いてある
立たれた絆なんて思いっきりそういう世界なんて、あれはアフリカの話なんだけど
どこの話にもそういうのがあるんでね。生ハゲなんてのもいい例だと思うんですけどね。
要はナルシシズムは破られるってことですね。
ナルシシズムは破られる。破るのが超自我で、超自我はさも客観的現実であるかのような顔をしてそれをやる。
やってる人間は人間だからどう考えても主観なんだけども、
強いから客観的な顔ができるわけですよ。
それでもってこのナルシシズム的な世界を破ることから始まったから
それが私たちの無意識の中にインストールされた時、
私たちは心の中に超自我というものを持つわけですね。
これが警察みたいな感じを帯びてくるとですね、
私のナルシシズムがいちいちこうですね、
人によるんだけどこの強さは、
親とか先生とかに恵まれている人はやんわりとナルシシズムが批判され、
親とかがちょっとこうね、やや乱暴だと、これが非常に粗暴に攻撃される。
でもやり方はともあれですね、目的は同じで、
ナルシシズムに対する攻撃なんですね。
だからお前がぼんやりとうっかりしていたから、
例えば私の祖父が朝の4時に起きちゃって倒れていた。
お前は主観の中では温かい布団の中でゆっくりしてたかもしれないけど、
現実にはそんな大変なことが起きていたんだから、
あの時それに気づくべきなんてこれ無理がありますけどね。
でもそういうことを平気で言うわけですよね、世の中で。
私は上司の人とか会社の上司の人とか無茶言う人は
だいたいこういうことを言っているような気がするんですよ。
この予兆に気づくべきだったとかね。
我々もよく政治家とかにそれ言うじゃないですか。
到底無理なことはわかっているんだけど、
そうやって攻撃しないと、なんていうんですかね、
政治的には強い側を攻撃するのって難しいから、
21:00
誰もが当然気づくことを首相は気づかなかった、
迂闊にもとか平気で言うわけですよ。
この迂闊っていう人の攻撃の仕方を見ると、
私は実に主観だなって思う。
めちゃくちゃ主観でめちゃくちゃ都合いいなって思うんですよ。
後から外からだったら簡単にわかるんですよ、そういうことって。
内側からわかんないようなことでもね。
それをわかってやってるんですよね、こういう時ってのはね。
私はわかってやってると思うんですよ。
つまりここにサディズム的なものがないと、
話が辻褄が合わない感じがするんですよ。
それは盗作的なものです。
それを自分に向けるわけだから、
ここにマゾヒスティックなものが出てきますよね。
これらも私は時々精神分析で出てくる
サドモ、マゾモ、ヨーゴなんですけども、
もちろん一般ヨーゴですね。
これも病理だとは思わないんですよね。
僕らはみんな持ってると思うんですよ。
つまりこのナルシシズムを攻撃したいと、
ナルシシズムを攻撃したいと、
ナルシシズムを攻撃したいと、
ナルシシズムを攻撃したいと、
ナルシシズムを攻撃したいと、
ナルシシズムを攻撃しないと、
例えば子供はひどい目に遭うんだと、
ナルシシズムがど真ん中で生きていると、
子供は車に轢かれちゃうと、
だからナルシシズムを破る。
その時に、いや俺いいこと言ってんなって思うから、
どうしてもサディスティックな気分で入ってきちゃうと。
で、その長寿がナルシシズムを批判する時には、
サド的な喜びがここに伴うと、
で、それを自分に向けた場合には、
マゾ的な苦しみというものがここに伴うと、
全部あるわけですよね。
その中でもお葬式の時には起こりやすいのが、
その極限のような感じ、極限のような後悔。
そういったものは、もちろんお葬式に限った話ではないですよね。
例えば会社に巨大な損失を被らせたミスとか、
そういう時に私たちはそういう心理状態になって、
不思議なことはない。
そしてこのマゾフィスティックといいますか、
自責の念に駆られる心理傾向というのは、
過去に目が強く向くはずです。
失敗するのは過去なので、
あの時うかつにものほほんとしていた自分がやらかしたこれによって、
今の私はこんなにひどい目に遭っている、
というわけで攻撃するわけですよね。
で、その原因の一端を他人が持っていれば、
その他人に対しても猛烈に怒りを迎え合わせますよね。
したがって抑鬱的で自己批判的で、
こういう話は前もしたと思うんですけど、
自己批判的でものすごく自分を反省し攻めるっていう人は、
同時に非常に他人に対しても批判的であるケースが少なくないです。
そしてこの種のことを繰り返していると、
どうしても元気がなくなっていくんで、
いっつも自分としては疲れを感じ、
何か悪いことがこれからもまた起きるんじゃないだろうかという不安に苛まれるし、
そしていろんなことがうまくいっているときでも疲労感が抜けない、
非常に抑鬱的な精神状態というものが、
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憂鬱って昔は不定周層みたいな言い方もしたんですけど、
これをみんなストレスって言ってるんじゃないのかなっていう感じがやっぱり、
自分は最近は特にしました。
根本的には長寿がど真ん中にあるんですよ。
そしてそいつが強いんですね。
その長寿が自分のナルシズムに対して攻撃的であるゆえに、
過去に目が向くんですね。
これが真逆になるとある意味ではね、
時間軸で見て真逆になると、
未来にこのナルシズムの長寿が、
批判できない未来世界を確立しようとするので、
この過程で他人を切り捨てられがちだということがよくあります。
他人というよりこれは自分の歴史的経緯なんですけどね。
こんな現実じゃダメだ。
今こういうふうになってるのは、
過去にこいつらと組んだからだ。
現在タスクシュート協会とかやってますけど、
こんな佐々木なんかを入れたから、
未来の素晴らしい世界の確立の邪魔になってるからこいつ切ろう。
そうするとすごく理想的な協会が
もっとキラキラしたものになるに違いないっていうふうに、
目が未来に向くとすごく想的になるんですよ。
ある種のこれはナルシズムを現実に実現させようという、
これはこれです、非常に無理があるんだけれども、
そういう感情にとらわれたときに、
この現象が起きるんですね。
そのときに非常に過去を切り捨てたくなるんです。
なんだかんだ言って、
メランコリックな心理状態、予測的な人ってのは
過去を決して切り捨てることができないので、
非常に過去の失敗にこだわるんです。
この過程で、
自己否定、自責的になるし、多責的にもなるんだけれども、
未来志向の人っていうのは、
そうはいいことはないんですけど、
そういった自責的な状態があって、
そういう妙にサバサバした心理状態になって、
ズバズバ切っていくと、
こういう感じになると思うんですよね。
これはちょうど、
途中私が言った欲打つ的な心理と、
相的な心理というのは、
多分逆なんじゃないかなって、
だから相打つって言うんじゃないかなって、
そういう状態になるんですね。
そういう状態になると、
そういった、
そういった、
そういった、
そういった、
そういった、
これを頻繁に入れ替えることによって、
急に相的になったり、
急に打つ的になったりするっていう、
そういう心理もあると思うんですけど、
これは、
今全て秒目になっちゃってますが、
それぞれの心理状態は、
僕らはみんな持ってると思うんですよ。
だって未来だけを見る人っていないし、
過去だけ見る人っていないから。
で、相変わらず、
どうすればいいんだ的な話は、
僕は薄い目になるんだけど、
それは僕の傾向だと思ってほしいんですが、
一言で言えるんですよ。
自分のなるシーズンを批判しなきゃいいんですよ。
なぜなら、
27:00
我々はみんな、
マトリックスの世界に生きているのであって、
夢見てる人に罪はないからですね。
これはクラゾノケイドさんの言葉ですね。
フロイトの言葉とかじゃなくてね。
もっとも非常に近いことは、
私よく言ってますが、
ビオンって人も言ってますね。
あんまり有名な人じゃないですけどね。
人間は夢を見ている夢見る人と、
夢を解釈する夢見る人、
要するに夢見る人しかいませんよ。
って言ってるわけですよね。
これだって。
自分の夢を見ているというのは、
ある意味、
今ここなんですよ。
現在の夢を見ている。
未来の夢を見ていたり、
過去の夢を見ていたりするけど、
見ている時世は現在ですよね。
ここを肯定してあげればいいと思うんですよ。
ここを否定しにかかるから、
未来になるシスティックな、
大遊園地を作る計画になっちゃってみたり、
過去のナルシスティックだった自分というものを批判する、
っていう観点から、
ひたすら自分攻撃走ってみたり、
どっちかになりがちなんだけど、
この2つを始めている、
そもそもの原因は、
ナルシスティックである自分を批判するっていうね、
この長寿が優先的に生きようとするから、
いけないわけじゃないですか。
長寿がっていうのは、
出生の秘密は言いましたよね。
親なんですよ。
お父さんというふうにとりあえず代入してますけど、
要は親なんですよ。
お前のそのナルシスティックな人生設計ではダメだぞと
お父さんが言った。
それは、その時において、
そういう事実はあるんですよ。
ナルシスティックだけでずっといくと、
現実とのズレが、ギャップが生じるから、
微調整はかける必要がある。
でも僕らは、
長寿側の観点というものは、
本質的に持ってないわけだから、
これ他人の視点ですからね。
これによって、
言われたら微調整をかける必要はあると思うんですけど、
根本的にナルシスそのものを、
否定しちゃダメだと思うんですよね。
否定したところで、
そこに何も残らないので、
空っぽになってしまうんですよ。
空っぽになってしまったところに、
長寿が的な正しさを置いて、
血糖値計と血圧計と温度計だけ持って、
それにただひたすら沿って生きていくという、
そういうことはできないじゃないですか。
土台、僕らはそういうふうにできていないわけですから、
そんなことを言ってきたら、
ずっとエコーの中に生きていなきゃならないわけですよね。
そういうのに近い、
検査マニアみたいになっちゃうという、
心理状態も一つあるんだと思うんですけど、
少なくともそうなりたいということは、
僕はないような気がするんですよね。