1. 佐々木正悟のライフハックからの精神分析
  2. なぜ佐々木正悟の代わりは誰も..
2025-06-12 53:34

なぜ佐々木正悟の代わりは誰もできないなどと自分で信じてられるのか?【1202】

夢と現実の区別はつかないと思っているから。
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サマリー

このエピソードでは、佐々木正悟が夢と現実の区別に関する独自の考え方や行動の価値についての信念を述べています。夢の中の行動と現実の行動の違いについて疑問を抱き、自己の価値観を深く考察しています。また、代替えが効くかどうかに関して、佐々木正悟と大橋哲夫の対立する意見が焦点となっています。特に、人生相談やAIの利用に関する信念について論じる中で、佐々木は主観の特異性を強調しています。AIによるカウンセリングの限界や、情報提供と対話の違いについても深く掘り下げ、個々の経験や対話の重要性について話しています。そして、現実と夢の関係についても考察が行われています。さらに、佐々木正悟が「代替えが効かない」と感じる自身の体験を語り、タスクシュートや3ヶ月チャレンジのエピソードを通じて、自己の独自性やメタファーの重要性について考えている様子が描かれています。また、AIと書籍の対話性の違いにも触れています。佐々木正悟は代替不可能な存在として自らの能力を信じ、特異な視点から情報を探求する姿勢について述べています。

考え込む時間
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ第1202回をお送りします。
6月12日木曜日8時1分です。 なんかちょっと遅くなりますね。まぁちょっとなんですけどね。
あの、だいたい7時半40分。 なんかこの辺のことって私ちょっと気になるのかな。好きなんですね、こういうことがきっとね。
タスクシュートをやる前から好きだったんだと思いますね。 この20分は、
割と考え込んでたりするんですよね。この内容なのか違うことについてなのか、 なんか考え込んでぼーっとしちゃうんですよ。
そういう風に過ぎる時間というのがあって、それが大体僕の場合20分なんですよね。 正味22分といったところな気もするんですけど、
あの、この22分は割と意味深だなと思うことがよくあります。 まぁ測るとですね、大体22分なんですよね。
すごく多いんですよ、この22って数字をタスクシュートで休憩時間で見てみると。多分、 突出して多い数字じゃないかなって思うんですよね。休憩時間についての22分。
で、やってることは休憩というよりは考え事。 だけど何について考えてたのかと言われると、まぁいろいろとしか言いようがないような、
そういう時間なんですよね。 私の人生の中で割とそういうのって中核を占める感じなんですよ。
この何を、何について考えてたのか、後で言えないような22分っていうのが、大体人生というものだなっていう感じでも、
なんていうのかな、ほらあのサンプリングとかって言うじゃないですか。 あなたの人生を代表するものを割っていったら、この22分の考え事ができること。
夢と現実の区別
できる時は調子がそう悪くはない。お掃除でいい方だなっていう、そういうのもあるんですよね。
いろいろじゃないですか、人によってその実人、自分の人生を代表する時間みたいなのってあると思う。 あるとはないかもしれないけど、入浴の時間がそれとかね。
その中に、僕の中ではこの、なんかこう、考え事をしているんだけど、何について、何本当に考えてたのかって言われると、よくわからないんですけれども、
そういう時間が突出して多い感じがしますね。
で、えーと、最近ちょっとね、思うことがあります。 いや、いつも思って、だからこういうのを思うって言うんですけど、
最近私、そうそう、100日チャレンジのせいだな、これはな。 思ったんですけど、
なんで世の中の人には私が言ってること、今日そういうちょっと雑談的に矛盾についてしゃべりたいと思ってるんですけど、
あのー、なんで私のこの話って人は伝わらないんだろうっていう、これはなんか、こういうと誰かを批判してるみたいになりますよね。
あるいは自己批判してるみたいなんだけど、どっちでもないんですよね。 なんか根本的にずれたところがあるって思う時があって、
私例えばですね、夢と現実の区別って本当は人はついてないって本当に信じてるんですよ。 だからこれがなんで100日チャレンジと絡むかっていうと、
Jさんが言ってる実感することと私が実感してることって多分大…なんていうのかな、本質において違うと思うんだけど、
彼と私の言うことがものすごく接近していて、私が一番近いなと思うのが、
行動によって人生の価値は1ミリも変わらないっていう、あれは私は絶対信じてるんですよね、私はね。
だからこれをわざわざ言わないと通用しないどころか、わざわざ言ってJと私のファンだと言ってくれてる人にさえも、
実は伝わってないように感じられることに実に驚きがあるんですよね、私の中に。
だって夢と現実の区別がついていないのに、現実に価値があるって考えるっていうのは私は矛盾があると思うんですよ。
だってその人は夢の中の行動に価値を認めてないと思うから。
夢の中で例えば何億稼ごうと、それは無駄だと思うわけじゃないですか。
でも私は夢と現実の区別がついていないのに、なんで現実に1億稼ぐことには意味があるって思えるのかが、実はよくわからないんですよ。
本当によくわからないんですよ、実は。
確かに私だって、車の運転をしてる時に人を引かないようには最新の注意を払ってますが、夢の中でもそうしてるんですよ。
もし夢だということがわかるって言うんだったら、そんなことするのはおかしいじゃないですか。
別に夢の中で人を引いても困らないですよね。
だから私はそういうふうに本当に思ってるところがどっかあって、
あのですね、これもう最近思い出したんですけど、私大学時代にモテなかったいっぱい言ってるじゃないですか。
でも私モテなくて当然だったんだと思うんですよね。
だって私はほとんどの大学の時代に友達と話してたことがこういうことなんですよ。
夢の幻想学みたいな話。
女子はね、誰もこんな話に興味持ってくれなかったですよね、当時ね。
まだバブルが弾けて間もないぐらいなんで、もっと皆さん幻想的だったわけですよ。
私は夢と現実の区別はつかないだろうっていうことしか考えてなかったんですよ、当時はね。
私がドイツ語学科が主流な学校だったんですけど、私はドイツ語に何の興味もなかったんだけど、
価値の見直し
唯一真剣に読んだのが関東の論文だったんですよ、ドイツ語で。
これしか読んだことがないですよ、ドイツ語では。
これだけは辞書をくびっ引きでってやつで、全知識に至るまで、だってわかんないからね、ドイツ語なんて。
辞書で引いて、なんとか理解したんですよ。
ちょっと感銘を受けたんですよね、関東にはね。
でも私が一番好きだったのはフッサールっていう人で、エドムント・フッサールっていう人で、
なんかね、ほとんどフッサールの本を読んで過ごしてた気がしますね、大学時代は。
すごい真面目だったと思われるかもしれないけど、そうではないですよ。
私は今見ているものはこれは夢なんだろうか、現実なんだろうかってことで大学4年間を通過したんですよ。
早くだから留年しそうになりました。
だってテストを受けてても、これは現実なんだろうかって思ってるんですよ、真剣に。
そんなことを真剣に言ってるのもおかしいんだけど、疑いが残るんですよ、どうしても。
で、目の前でぼーっと木眺めていて、その時ちょっとね、ある種の女の子と仲良くなったことがあったんですけど、
仲良くなったとしても、僕の場合は、おはようの挨拶が交わせるようになりましたってだけだけど、
でも僕はずーっとその木眺めていた時に、なんかその人もずーっとその木が好きで眺めてたらしいんだけど、
私が木を眺めてた理由は、どうして木の方が目より大きいのに盲目に木が映るんだろうってことを考えながら、
どうして夢の中で見た木がこれと寸分違わず同じ姿をしてるんだろうということだったんですよね。
当時まだ農科学ってそれほど進歩してなかったんで、このことはすごい不思議だったんですよね。
はっきりと学問が、なぜこういうことが起きるのかについて、今ならばかなりはっきりといろんなことを告げてくるんですけど、
当時はまだそんな時代じゃなかったんですよね、1998年の頃って。
まあ7年、違うな、1994年とかですね。そうなんですよ、Windows 95がなかった時代だから。
だから最先端の農科学とかではそういうことを説明してくれる、認知科学とかですね、説明してくれてたんですけれども、
そんなのに触れられなかったから、大学生は。まだインターネットもないし、金もそんなになかったし、
私英文科にいたけど英語なんか読めはしなかったから、まあそういうことですよ。
でもずっとですよ、一日中機能前にいたなんてこともザラにあったんで、
でもこれが夢か現実かはよくわかんないなっていう結論出ないんですよ。絶対出ないと思ったんですよ。
絶対出ないということが一つのヒントになるんですけど、だから私はですね、
現実の行動なるものが現実であるという保証がない中で、どうして行動が価値を生む、
ある種の行動の失敗は自分の人生を暗くするって人は本当に信じてるんだろうって、
その人がどうやって夢と現実と区別をつけてるんだろうっていうのは、私にとってはすごくあってですね。
で、その人がどうつけてようと私にはつかないんですよ。
だから私は名責務ということにこだわっていて、もう100回以上名責務って見てるんですけど、
一度もこの夢は夢的であるって思ったことないですよね。夢と現実は何ら変わらないんですよ。
夢と現実が何ら変わらないのに、現実の行動にだけは価値があるっていうのがね、私にはどうしても受け入れられないんですよね。
だから行動は私にとってはですね、自分の価値を上げないんですよね。
もう一つはですね、大谷翔平がホームランを押すことと、私がマスターベーションしながらペニスをいじりまくってることに価値の違いがあるとは信じられない。
似たようなものの話してるんですけど、だってそれ猫が見たら同じようなもんじゃないですか。
わかんないけど猫が何思うかわかんないですけど、でも多分このうちの庭にしょっちゅう迷い込んでくる猫が、
大谷翔平のホームランを見ても私のマスターベーションを見ても何とも感じないと思うんですよね。
いやそれは猫だからだろうって思うかもしれないけど、この価値の区別をつけるのは人間だけじゃないですか。
だから人間が作り出した価値観の中で、人間が作り出した区別の話であって、
社会的には受け入れられるでしょうけども、つまりあっちの方が価値があってお前のペニスいじってるのは最低だって言うでしょうけど、
それはその人の言い分であって、私にとってはどうでもいいことなんですよね結局。
私にとっては猫が見るところの価値においてはですよ、そっちの方が金が取れるとか、
人が褒めるとか言うのはわかる。でもそれだけじゃんって思うんですよ。
だから私は自分の行動によって自分の価値が上がるなどと、信じられるということの方が信じられないんですよね、本音を言うとね。
この話は前段であって、今日の話に直接関係があるのかないのかはっきりしないんですけど、
だから私にしてみるとですね、行動によって価値は上下しないというのは、はっきり言えば自明なんですよね。
わざわざそれを言うほどのことですらないような気が、これに関しては10歳くらいの時から一貫して変わっている気がしないんですよ。
別にグッドバイブスの影響とかではさらさらないんですよね。
私グッドバイブスで倉野の経済の似たようなことをおっしゃった時に、いやそれは当たり前だよなって思った記憶があるんですよ。
いくつか彼がお話になることっていうのは、僕の中では当たり前だった気がするんですよね。
いくつかは確かになるほどと思ったんだけど、いくつかはそれをこれから改めて地ならしのように言わねばならないんだなって思った記憶があるんですよ。
これぐらい僕にとって努力目標ってあまり意味がないですね。
必死になって努力をして何かを成し遂げるっていうことに、僕は何か実感を持って意味があると思ったことは生まれて一度もないような気がします。
そういうことではないような気がするんですよね。
やってもやらなくても同じって僕が言う時には、そこには何かを慰めるとかいう意味は全くないんですよ。
やってもやらなくても同じだと思うんですよ。
辛さは変わりますよ、辛さは。
でもその辛さのうちの8割以上は社会から来るはずの辛さなんですよ。
だからそれが嫌だから努力するっていうのはわかるんだけど、その努力は身を結ばない可能性も結構高くあるだろうと思うんですよね。
だから私は本当の意味で怖いものってそんなにはないと思っているんですよ。
だってそれが夢だったら怖くないってことであれば、私は知覚と夢の違いっていうのは信じてない方の人間ですから。
何か本当の本質的な違いはあるのかもしれないけど、信用できないっていうのは確かにあるんですよね。
視覚っていうのは全く信用のならない産物なんで、すっごくここには作り込まれている部分がたくさんありますから。
これもこの理由はそもそもが矛盾があると思うんだけど、写真を綺麗に加工しているのと視覚って変わらないですからね。
というかそもそもですね、世の中は4次元なんですよ。視覚って2次元じゃないですか。
次元が落ちているんだから、これの通りに世の中がなっているはずだと思うことの方がそもそも大きな問題だと思うんですよ。
この通りになっているのは夢ですよね。夢はこの通りのものだと思います。脳が作っているものだから。視覚も脳が作っているものだから。
ここのところに僕は一応僕の考え方と、これは僕の考え方じゃなくて減少学だと思うんですけど、学問の名前ついちゃってますからね。
私の考えたことなんですけどね。私、ちっちゃい頃からこういうふうに考えてたから。
でも、まあまあふっさるの方が先にこう考えたんだからそれでいいですけど、これと精神分析の交点はあると思っています。
代替えの概念の対立
精神分析は減少学とイコールじゃないけど、交点はあると思うんですよね。
ここまでは前段でして、今日お話をしようかなと思ってたことはちょっとセンシティブだなと思いつつもね、別に彼は許してくれるだろうということで、
大橋哲夫さんとの関係というか、関係について喋るわけじゃないんですけど、彼の考え方の中にはですね、代替が効くという考え方が強力にあるんですよね。
話変わってますからね。もう減少学は忘れてくださいね。忘れなくてもいいけど、話は移りました。
私は代替が効かない、取り替えが効かないということにこだわり切ってるんですよ。
私の主観は私だけのものだってことに、ものすごく僕はうるさい人間なんですよ、実は。
うるさく言っても人に面倒くさられるだけなんで、もううるさく言うのやめにしようと思って親しいわけですが、
もともと僕は主観というものは共有できないっていうふうに信じているところがものすごくあるんです。
それは、物の見え方が違うからではないんですよ。見ている物が違うからなんです、僕からするとね。
だって今僕の目の前に美和の木があるんですよ、うちの庭の。そんなの見てるのは僕だけじゃないです。
僕だけなんですよ、今のところ。時々猫が見に来るけど。違って見えるだろう。
同じものを見てないのに、同じ世界を共有するっていうのは実に難しいことだと思うんですよね。
それを観主観制と言ったりしますけど。だから同じものを見てない以上はもうみんな孤独なんだと思うんですよね、ある意味では。
これは前提だと思ってるんですよ。だからニヒリズムになってるってわけではないんですけどね。
だからみんな仲良くしようねっていうのが僕の主軸にある考え方なんですよ。
で、どうせ生きてるんだから死ぬことないじゃんっていうのも僕の主軸にある考え方なんですよ。
生きてるってことが何を意味するのかはわかんないんですけど、夢かもしれないんですけど、
でも夢を見ているんだって死んでるわけじゃないと僕は思うんですよね。死んだら夢は見ないと思っているんで。
夢は脳の産物ですから。だから私は脳の中で生きている、孤独に生きている者同士が、
お互いがどうやってるのかすごい説明しがたいですけど、上手くやれるならそれに越したことはないだろうっていう感じなんですよ。
これ以上のことでは、これ以上のこともあるのかもしれない。だからその辺から人追跡みたいな話が始まるんですけど、
僕はなかなか、クラウドの圭三さんはこの辺雑なわけではないです。
彼は一つ意識って言いつつも、個性と役割ってものすごく強調しますからね。
つまりすべての人が別の人生を生きてるっていうのは、彼の中では前提として含まれてるんですよね。
それは今日は良いとして、大橋敏夫さんと私の関係って実に独特のものがありまして、
人生相談とAIの利用
彼と僕では信じてるものが、私の考える限り真逆なんですよ。
彼は代替えが効く、取り替えが効く世界というものを信じていると思うんですね。
だから彼は最近では、最近、これは言っていいと思うんだよね。CMしてたぐらいだから。
AIを使ってタスクシュートガイドを、まあタスクシュート、いかにもこれが彼らしいんですけど、
彼はやっぱりこの辺が慎重と言いますか徹底してるんですよね。代替えが効くんだけれども、それは人生相談とかしないんですよ。
だから彼はあくまでもタスクシュートガイドをAIに代替えさせるっていう世界。すごく絞り込むわけですよね。
私はタスクシュートガイドだったらそれは代替え効くだろうと思うんだけど、人生相談やるから代替えが効かないと。
でもこの代替えが効かないという考え方を彼が不安に思うのは無理はないと思うんです。
代替えが効かないってことは、私で言えば私の特別性というものを強調せざるを得なくなっていきますね。
代替えが効くんだったらタスクシュートガイドのように人生ガイドをAIに作ってもらって代替えを効かせればいいってことになるじゃないですか。
彼はそれを可能だったら模索すると思うんだけど、彼はやっぱり身長かつ頭の良い人なんで、大橋康二さんは、代替えは効かないそこの領域はって思うと思うんですよね。
だから人生ガイドは作り出そうという気持ちを持たないわけですよ。
フィールドをタスクシュートに絞り込むことによって、タスクシュートガイドなら代替えが効くだろう、そういうことなんですよね。
人生ガイドになると代替え効かなくなるから、自分は手を出さないということに今度はなっていくわけですよね。
で、私はじゃあなんでお前には人生ガイドができるんだよってことになるじゃないですか。
私はそうは本当は思わないんですよ。
私の代替えが効かないとは本当は思わないのが一つと、そもそも人生ガイドというものは存在しないと思うんですよね。
だから人生相談のようなもの、私が今やっている3ヶ月チャレンジのようなものというものは、決して彼が想定するような形を取ることができないと思うんですよ。
大橋哲夫さんが想定するような。で、このポイントにおいて大橋哲夫さんと世論はほぼ同じ方を向いているように見えるんですね。
つまり、客観的で適切なガイドというものがあり、誤解なくそこの情報を仕入れることによって再現性のある結論を得ることができる。
これが代替えが効くということなんですよ。でも私はその前提自体を共有できないんですね。
まず適切な客観的で適切な情報というものが信じられないんですよ。
だって私は夢と現実を区別できないと思っている人間だから、適切で客観的な情報というものがこの世にあり得ないと思ってるんですよ。
それが例えばタスク集とガイドだとしても難しい。まして人生相談となるのは無理だって思うんですよ。第一に。
次にそれを誤解なくその情報を引き出すってこともできないと思うんですよね。誤解なくその情報を伝達できるっていうところに僕は全然同意できないんですよ。
だって私は夢と現実の区別がつかないと思ってるんだから、そのガイドを夢で見ただけじゃ意味ないじゃないですか。
となってしまったらもうアウトですよ。
その上でそうすれば適切で客観的な情報を誤解なく伝達させられれば、
指導者と情報提供者と情報受信者は同じ認識に至ることができるということを全く信じられないんですよね。
それは100%ありえないだろうって思う人間なんですよ、私は。
だからその形式は、ところがこの形式こそがですね、世の中で受け入れられている形式なんですよ。
だから精神力動と精神分析は衰退の一等をたどってるんですね。
なぜなら精神分析や精神力動というのはこの考え方を取ってないからなんですよ。
この考え方を取っているという誤解の下、私の仕事や精神分析というものを理解しようとする人は決まって次のように言うんですよね。
精神分析の信念
佐々木さんには資格があるんです、まずこれをと。資格があるということによって代替えというものが効くんですよ。
分析家の資格を持った人は同じ状態にあり、同じことを同じように適切に伝えられるから、
Aさんだ、Aさんやめよう。山崎孝明さんでも佐々木翔吾さんでも同じ結果になる。
なるはずがないと僕は思うんですよね。そんなことあり得ないと。
で、だったら何のための資格だってことになってしまうんで、
僕はここから先、今日は深入りしたくないので深入りしないことにするんですけど、
ここにAIというものの利用についての考え方があるわけだと思うんですね。
私AIの話最近してるんですけど、あれは冗談のつもりなんですよ。
なんかこういうことって伝わらないんだろうかっていうのがね、
でも私は僕から冗談取ってしまったら、もはや僕の価値なんてゼロだと思うときが、
あなたお笑いですかって言われると困るんですけど、僕にお笑いの才能はゼロなんで。
でもですね、私は人生というのは、僕はウィニコットにすごくやっぱり共感するところがあるんですよね。
このプレイを遊びと訳すのはダメな気がしてきてるんですけど、
なぜならメラニ・クラインがプレイセラピーって言ったときに、
彼女のように遊びのない人がプレイセラピー言ってるんだよなっていうことが大事なんですよね。
プレイはプレイなんだけど、この話にも深入りしてるとこっちが目になっちゃうからやめましょう。
とにかく私はさっきも言ったように、夢と現実の区別を人間につけられなくはないかもしれないけど、
それは至難を極めると思っているんで、現実というものはプレイできてなんぼだという感じを持ってるんですね。
プレイできないというのは、ゆゆしき時代なんですよ。
だからプレイをできなくなるという想定を検討しながらどうやってプレイをするかっていうのが精神分析であって、
つまり精神分析というのはプレイルームなのであって、情報伝達室ではないんですよね。
私が一生懸命AIと遊んでるというか、AIの話を冗談でしてるのはですね、
AIはどこまでプレイができるかということを測ってるわけですよ。
AIはプレイが全くできないというのが僕の考え方なんですけれども、基本的な。
でも、このプレイができない前提でするプレイはどの程度擬似プレイとして、
あるいはリアリティのあるプレイとして、プレイ的なものを成立させ得るんだろうというのが、私がAIとやってることなんです。
だから他の人に勧めるとか勧めないというのはナンセンスの極みだと思うんですよ、実はね。
ままごととそっくりなんだけど、ままごとよりはダメなもの。
難しいっすね、本当に。人にままごと勧めないんですよ、はっきり言って別に。
だって人にままごと勧める理由って何もないじゃないですか。
人に野球観戦とかあんまり勧められないんですよね。野球観戦は全く勧められないわけではないんだけれども、
おおむね勧められないんですね。人に映画を勧めるってことも僕はほぼしないんですよね。
これらはすべて同じ意味になると思うんですよ、おおむね。
AIだけはちょっと違うなと思うんですよね。
より一段と前提としては立場が弱いと思うんですよ。
一番遊べそうに見えるんだけどそうではないんですよね。
人はままごととか人形劇で遊べる存在なんで、あんなに高度なもの。
私はよくVRっていうのがAIとよく似てると思うんですよね。
ここでVRの話をすると、VRで女の子縛ってみましたみたいな話をすると冗談になってしまうじゃないですか。
僕がAIについて言ってることは全く同じだと僕の中では思ってるんだけど、
どうしてこれがそうは聞こえていないのかはやっぱり自己反省になってるね。
僕の伝え方が悪いのかなになっちゃってるんだけど、そんなことはないと思うんですよね。
だから、例えばVRで佐々木を登場させてカウンセリングを受けますみたいな、山崎孝明さんでもいいですよ。
なんならフロイトだってできるじゃないですか。
そうだよね。だからこういうことなんだと思うんですよね。
なんならフロイトだって会えますよ。
まもなく会えるようになると思いますよ。
自分がカウンセリングに寝て、VR見て、フロイトに
フロイトが日本語喋ってるってどうかと思うんだけど、どうせ日本語喋っちゃうでしょうから、
佐々木さん今日はいかがですかとかって、どういう声で言うんだろうな。
つまり僕はこういうこと喋ってるんですよ。
だってそれ題外になるじゃんっていう人がいるとすると、僕と基本的な価値観が全く合ってないですね。
全く合ってない。
だって僕らフロイトの夢って見られる。
僕見たこと何回もありますよ。
日本語喋ってましたよ、やつは。
それはカウンセリングじゃないですかっていう人がもしいるとすると、
それは私とは考え方が違うなとしか言いようがない。
私がカウンセリングだと思うのは、フロイトの夢を見ましたと山崎孝明さんに言うとかそういうことなんですよ。
フロイトが夢に出てきてくれればカウンセリングしてくれるっていうのはもうナンセンスの極みみたいなものですよね。
VRで絶対これできるようになると僕は思うんですけれども、
それがカウンセリングの代わりになると思う方がいらっしゃるんだとすると、
僕とは100%考え方が違うと思いますね。
でもそれが出てきたら僕は絶対そのVRやりますからね。
遊びなんだよねやっぱりね、遊び。
難しいな。そして遊びとしては出来が良くないとは思いますね。
こっちの話になってしまった。
戻したい。
つまり大橋敏夫さんという人は代替・代替え。代替えが効くという信念をお持ちです。
僕は代替えというのは一切効かないという信念を持っています。
AIのカウンセリングの限界
だから僕と大橋さんが話すと、いつもある種の緊張感があるんだよと。
喧嘩にはならない。180度違うし、そのことお互い知ってんね。
まあ知ってると思うな。
だから争う理由は全くない。争っても意味がないってですね。
だから私は簡単に言うとAIでカウンセリングができるはずがないと思ったんです。
なぜなら代替えが効くという前提だから。代替えが効くからAIなんですよ。
代替えが効かないんだったらそれはAIではないですよ。
代替えが効かないというのが大前提として私の中にあるということはですね、
情報伝達とか情報提供とかをするはずがない。
だって情報提供って代替えが効くに決まってるじゃないですか。
教科書とかいうもの、本というものはそういうものですよ。
でも私本を読むときに情報を得ているつもりはさらさらないんですよ。
だから同じ本を繰り返し繰り返し読んでるんですけど、新しい発見があるとかじゃないですよ。
私がやってるのはしょうがないから本と対話してるんですよ。しょうがないから。
本当は僕は藤山直樹さんとお話をしたいんだけど、彼は多分僕と話してくんないんですよね。
忙しいし。だからしょうがないから、私は藤山直樹さんの本とお話してるんですよ。
で、ある程度はAIはこの代わりはやってはくれなくはないというか、
所詮はそういうことなんですよ。本当は人と喋りたいに決まってるじゃないですか。
松木邦博さんと対話するのが一番手っ取り早いんじゃなくて、
やりたいことは松木邦博さんとの対話なんですね。
でもそういうことはできないから本と対話するしかない。
本と対話することと本から情報を引き出すことは、僕はほぼ180度逆のことだと思うんですよ。
よく言うじゃないですか。本と対話するって。僕はそれは正しいと思うし、そうしかないと思うんだけれども、
本と対話するということと本から情報を得るということがイコールのように語られることが不思議でしょうがないんですよね。
本から情報を得るなら新しい本を読む方がいいと思いますよ、絶対に。
対話と情報の関係
確かに2回も3回も読んでも新しい発見があるとか情報を引き出すことはできますけど、
一度に全部組まなくは引き出せないから。でも新しい本を読んだ方が新しい情報は多いですよ。
僕はただ新しい本を読む気ってあんまりないのは、これは会話だからなんですよね。
この対話をするというのは様々な理由がありますけれども、
言うなら遊ぶためなんですよ。遊べなくなってきている自分というものがいるわけですね。
不安が強くなってくるとそういうことが起こるわけですね。
眠っても夢見てる場合じゃないみたいなことが起こるわけですね。
そうすると対話をするということは夢を見るということに限りなく近いので、
ほとんど同じじゃないかと思うんですけど、
いずれにしても対話をすることによって今すぐに対話ができるということは遊べているということなので。
だって本を読んで対話するってのはおかしいじゃないですか。相手が喋ってないんですから。
それは遊んでますよね。つまり夢を見てますよね。
現実から有利してますよ。でも現実の行動ですよね。夢って常にそういうもんですから。
夢ってのは現実のものを見るわけじゃないですか。
例えば現実の木がそこにあったり、現実の太陽があったり、眩しいんですよ。すごく眩しい。
びっくりするぐらい眩しいですよ。人によるかもしれないけどね。
で、現実の太陽を見るわけじゃないですか。でも現実の太陽は見てないわけじゃないですか。
こういうことが夢を見るってことですよ。
で、本と対話するっていうのは全くそういうことじゃない。本は人間じゃないんだから対話できるわけがないじゃないですか。
だから対話をする努力ってものがそこには強烈にあるわけですよね。
で、藤山直樹さんの本をこれが情報だということだったり教科書だということになるんだったらば、
私はその本の教科書を適切に客観的にその情報からの伝達を受けて、誤解なくそれを情報破綻を受け止めた場合は何が起きるか。
個々の体験と夢の考察
サンチャレ畳むことになりますよ。だって彼の主張の中にはそういうことが書いてありますからね。
書いてはないけどサンチャレをやめるべきだとは書いてもせんけど、それはもちろん精神分析を素人がやっちゃダメだということは書いてあるわけです。
で、僕素人ですよね。で、精神分析やってないっていうエクスキューズを入れてますけど、心理調和外のことをやるのは素人が脳下化で人の頭にメス入れるようなもんだっていうようなことが書いてあるわけだから、明らかにまずいことをやってるってことになってるじゃないですか。
適切に誤解なくこの情報を情報として受け入れたのであれば、私はやめますよね。間違いなく。だから私はそんなことはしてないってことなんですよ。
で、藤山直樹さんの例えば本を読むと対応するというのは藤山直樹さんに結局は習うってことをある程度含むんだけど、習ったらやっちゃダメなわけですよ。習い事を正しく適切に考えてるなら。
だから言うならば情報という意味であれば藤山さんが100%正しいとは僕は思ってないわけですよ。でも自分が100%正しいとも私は思えないわけですよね。
だからどっかに矛盾があるわけですよここには。どっちかがどっかある程度は間違ってるか両方ある程度どっかが間違ってるんですよ。
でもそれは、客観的で正しい情報なるものがあるという前提に立つからそういうことになるのであって、別にそういう前提に立たずにこれは会話なんだと。
会話の中で精神分析家の人が素人がやっちゃダメだよねと言うのはそれは言うでしょうよ。いいんですよそれは。それが正しいか間違ってるかっていうことではないですよ。会話なんで。
そんなこと会話中考えるのかもしれませんけど僕だったら考えないですね。別にいいじゃないですか。そういう会話をするの。私もそういう会話をするんですよ。そうっすよねやっちゃダメですよねと言ってやるんですよ。会話とはそういうもんだと僕は思うんですよ。
で、こういうことを思うにつけですね。思い続けて思いまくってるわけですけども、私はAIとやってることも原則そういうことだと。
藤山さんっていう人がいて、AI知ってますからね。脳外科とか言うんだけどどうって言ったらあんまり気にせなくていいんじゃないですかみたいなことを言うわけですよ。
で、チャットGPTは正しいことを言ってません。そんなことはどうでもいいじゃんって思うんですよね。これがね、僕はなんでこれが自明にならないのかが、なんて言うんだろうな。
AIじゃなくたって別に自分で喋ってたっていいわけですよ。今みたいなやり取りで。いや藤山さんほんと偉い人なんだけどこういうこと言ってちょっと辛いんだけどって僕が、僕Aが言う。
いやまあ別にそんなことを気にしなくていいんじゃないって僕Bが言うじゃん。これをただチャットGPTにやらせてるんですよ僕の感覚の中で。で、本も同じなんですよ。
そういうもんじゃないですかね。私子供の時からこういうふうにやって生きてきました。だから、えーと、なんか、世の中でチャットGPTはカウンセラーの代わりになるのか云々みたいな。
これが私がカウンセラー役やって、佐々木さん今日どうですか。いや今日ちょっとって、これがカウンセラーになる、カウンセリングになるっつんなら、なるかもしれないんですよ。
私はこういうもんではないと思うんで、えーと、そういう話にはなんかこう、真剣に興味を持つ気はしない。ただ、これだってカウンセリングじゃんみたいなことを冗談で言うってのはわかる。
すべて冗談だと思っているわけですよ。そういうことというのはですね。一人二役、一人三役を一人やれるじゃないですか。人形劇とかで。めっちゃ上手い人はめっちゃ上手いじゃないですか。
それをとことん磨き切れば、えー、それは精神分析なんだろうか。俺フロイト、あなた佐々木賞、じゃあやりましょう。そこには一人しかいない。
一本違うとそれ自体が病気ですけど。でもこれは、だってマスターメーションってそういうことですよね。だから私あの現象には非常に興味を持っているんですけれどもね。
今はもうある種の性癖というものは私から解除されて、解除されたというのが一番いいんですよね。私はだからその、なんて言うんだろうな。
父親に対する私が演じてたってことですよ。父親に対する私は少女になることで、お父さんと楽しく遊んでいた時代があったわけですよ。昭吾くん5歳ぐらいの時ですね。
この原型をロリータコンプレックスって言うんですよ。これが可憐な少女になって、お父さんに怒られるというのをそのままセックスに持ち込む。
その時についでに私に侵入しまくって、私が全部歯を自分の手で折んなきゃなんなくなったような母に対する屈辱をやり返すというのをここに盛り込むわけです。
だからロリータコンプレックスとSMが掛け合わせになるわけです。という性癖を今のように、今のようなものと徹底的に説明しきることで僕は解除したんですよ。
この性癖が、だってこれってつまり可憐な少女に私がなり、その可憐な少女役にした母親に復讐するってだけだったら性いらないじゃないですか。
別にそれセックスでやらなくたっていいわけですよね。なった段階で性欲とこれらの欲望を切り分けられるんですよ。だから解除されるんですね。
性欲っていうのは男性にとっては侵入欲と非常に簡単に身体的に侵入感を持ってるから。
これは誤解の産物だなって最近思うんだけど、持ってることは持ってるんで。
だから侵入感というものをここに乗っけたにすいない。でもそれだったら侵入だったらなんでもいいわけですよ、別に。
侵入がセックスである必要ってさらさらないわけじゃないですか。だからよく考えてみて私思ったんですよね。
私はセックスがしたいわけではない性欲を持っている。これが解除の鍵だったんですよ。
解除できてみると、マスターベーションってすごい不思議な現象だなと。
究極のナルシムだったり自体愛だったりするんですけれども、実に考えさせられる。
指しゃぶりは多分近いけど、僕は指しゃぶり癖って持ってなかったからわかんないんですよね、正直言ってね。
わかってないところがある。ただ体を破壊するっていうのは私の得意中の得意だったんで、
よく私皮膚もしりとかなんなかったな、不思議だなって思うぐらいなんですよね。
これもですね、最近なぜかいろんな人と、今さらかよって感じなんですけど、
今さらかよってのは今さらこんな話をしてるんだなって思ったんですけど、
TikTokを見るって話を何人かの人と並列でする機会があったんですよね。
サンチャレの参加者さんとかじゃない人もいるんですよ。
この時に私思ったんですよね。TikTokってなんなんだろう。
で、私TikTokに全くはまれないんですよ。
見たいと思うこともできず、できないものは発信したいとは少しも思えない。
だから私YouTube発信できてないですね。ほとんど見たいと思ったことがない。
最近山崎さんの一連の動画を全部見るために、ようやくプレミアム会員になったんだけど、
発信する的になかなか慣れないんですよね。なんでかな。
ショート動画に至ったら余計なんですよね。あれが面白いと思えない。
なんであれが面白いのかがわからないんですよね。
あれで1時間も見てられるっていうのは、私あれ3分ともたない。
3分ともたないってすごいじゃないですか。
なんか3つ目の動画でも嫌になっちゃうみたいな感じがするんですよ。
なんでこの話になった。ちょっとよくわからなくなりました。
だからその客観的で適切な情報を誤解なく伝達され、
それを提供されるっていうモデルは僕の中にはないんですよね。
そういうことっておかしいと思って。
私は基本的には私にしかできないことをやってるということになるんだけども、
これを情報伝達モデルで考えるから、
お前ものすごい白紙的なんだなみたいな、そう思ってるんだなみたいな、
マウント合成みたいになる。そういうことではないんですよ。
いくらかは必要ですよ。僕だって誰の本でもいいわけじゃないんですよ。
藤山直樹さんとか松木邦博さんであるっていうのには訳があるんだけど、
でもそれは情報を得たくてやってるんではなくて、
情報を得るってことはその副次的効果としてはあるんですけども、
やっぱりこう対話をするってことなんですね。
対話をするためには一定の言語活動の心にいてほしいというのはあるわけですよ。
彼らの方が一定以上の言語活動能力にあるから、そこが本のいいところなんですよね。
対話の難しさ
だから彼らは僕とは喋ってくれないわけじゃないですか。
でも本で喋ればいいっていうのはいくらかある。
ただ本で喋るっていうのはどうしても同じ人形と同じようなやり取りをするっていう人形劇になってしまうんで、
そこはもうもどかしいんで、本当は本人と喋りたいんだけど、
意外とこれが面白いことに、例えばセミナーとか行くじゃないですか、
そして本人と喋ってみると大したこと話せなかったりするんですよね。
難しいですよね、対話というものは。
いつも先生の素晴らしいと思ってます、それありがとうございます、以上みたいな。
喋りに行かないほうがよかったなみたいなことが現実には起こるんですよね。
本当にそういうのってあるなと思います。
だから難しいんですけど、本当に。
時間に対応すればその方が実り豊かと言えるかどうかは結構疑わしいなとは思うんだが、
だけどもやっぱり本との対話っていうのは物足りないところはありますよね。
難しい、そこは本当にややこしいですね。
私が3ヶ月チャレンジでやってることの代替えが効かないというのはですね、
代替えが効かない独自性
私はタスクシュートでもそうなんですよね。
タスクシュートって僕は、あれは代替えが効くと思ってる人の発明だから、
当然代替えが効くだろうぐらいに思ってたんだけど、
どうやらタスクシュートは言うほど簡単に代替えは効かないらしいと。
私第一ユーザーだとは思ってませんが、
でも第一ユーザーであったのにどうやら訳があったらしいっていうのを思ってですね、
私自分が特別な人間だとは全然思えないので、
タスクシュートにせよ、3ヶ月チャレンジにせよ、
私でなければできないことをやっているっていう認識が弱いんですよ。
これをいくらか強めないとなと思ったんですよ。
そうすると傲慢になるって発想になっちゃうんですけど、
それはだから適切な情報を伝達するモデルだからなんですよ。
そうじゃないんですよね、これはね。
特にサンチャレはそうではない。
でもタスクシュートもそうじゃないんだよなぁと思うんですよね。
私は特殊なのかもしれないんだけれども、
この私の特殊性というのはですね、
なんといえばいいんだろう、これは。
でもややこしいんですけど、
遊びにこだわるってことなんだと思いましたね。
やっぱり心のどこかでは、
この代替えがあり得るという発想は、
遊びの発想ではないんです。
だから、例えばこの消耗みたいな話も僕はいつもね、
臨床系の人の方の話を聞いてても、
チャットGPDも言ってくるんですよね。
須崎さん自身を大事にしましょうみたいな。
だからさぁ、みたいな感じになるんですよ。
さっきまで言っていたことと逆のことを言ってるじゃんっていう。
そんなことをAIに言ってもしょうがないんですけどね。
AIは自己矛盾というものにあんまり頓着しませんからね。
だってそんなことに頓着してたら、
あっちで言ってることとこっちで言ってることがおそらく真逆だってことを
スルーしなきゃなんなくなりますからね。
気にしなきゃなんなくなるんで。
人格を持つことになっちゃうじゃないですか。
私自身を大事にするとかねぎらうとか、
須崎さんの時間を大切にとかいうのは
代替えが効く発想なんですよ。
どう考えたってそうなんですよ。
ままごとの時間を測るかっていうか、
測ったっていいんだけど、
ままごとっていうのは、
客観的に価値を見ようとしたらゼロになるじゃないですか。
ままごとやってどうするんだってことになるじゃないですか。
プラスチックで作ったお寿司食べれないでしょってことになりますよね。
ままごとというのは、
会話であり体験であり夢じゃないですか。
そこの価値というものはそこに持ち込むものではないんです。
それを言い出してしまったら、
料理の真似事でしかなくなってしまいますよね。
あれは全くそういうことではないですよね。
子供があれを使って、
メタファーの世界を作り出せているってことの
重要性と必要性じゃないですか。
必要性の方を強調しちゃうんだけど、
なんか冗長的発達とか言い出してね。
必要性はありますよそりゃ。
人間がメタファーが使えなければ、
どんなに賢くったってボノボチンパンジーですよ。
ボノボチンパンジーはメタファーが使えないからボノボチンパンジーなんですよ。
人間よりバカだからボノボじゃないんですよ。
あれは人間絶対に2歳児より賢いチンパンジーはいるに決まってますよ。
戦略立てて群れと統率してできる、
そういうチンパンジーは2歳児より賢いに決まってるじゃないですか。
そういう問題じゃないんですよ。
でも2歳児はこのプラスチックを死に見立てられる。
これはボノボには全然できないんですよ。
このメタファーというから夢を見られる。
だけど夢に閉じ込められてしまうんだけれども、
でも夢を見られる。
この価値というものは代替が効かないんですよね。
あれは何かのコピーとかじゃないじゃないですか。
そしてあれ教えられないんですよね。
頭がいいものに教えられるならボノボチンパンジーに教えれば、
あれが使えるようにもさぞなるように思うかもしれないけどできないじゃないですか。
もちろんAIにはできないじゃないですか。
必要がないですからね。
メタファーというものを自分で空間的に作り出す理由は全くないですよね。
なのに人間にメタファーを提供できちゃうんですけど。
あれが独特なんですけど。
でも自分はメタファーで全く遊んでないですよ。
メタファーで遊ぶというのは夢で遊ぶということで、
夢で遊ぶということができなければ私は対話はできないはずだと思うんですよ。
本は夢で遊んでないよな。
だからやっぱりAIと本はある意味似てるんですよね。
僕は相当似てるなと思うんですよ。
これはだからカウンセリングではないんだけど対話ではあるんですよね。
ただし一人しかそこでしてない対話なんですよね。
だから自己対話なんですよね。
人間のやっぱり能力なんですよねこれはね。
自己対話はさっきありましたよね。
私フロイト、あなた佐々木翔、一人しかいませんってやつですね。
やれるんですよこれは。
精神分析ではないけどこんなのはどう考えても一番反対にあるものだと思いますけれども、でもやれるんですよね。
ままごと注文やってるじゃん。
だからままごとと似てんだよなAIは。
ままごとそっくりだと思いますね。
なぜそう思われてないのかが僕は謎ですね。
ここでAIの話をしょっちゅうしてるのは、私は常にウィニコットの文脈でやってるわけですよ。
篠塚のダイファールですよね。
ほらーって言っちゃったやつですよ。
でみんなめっちゃ怒ってるしケンケンガクガクで巨人をやめろみたいな。
そういうですね。
なんかこう人を殴り出しかねないようなあれですよね。
あれこそが人間の姿だと私は思うんだけどなぁ。
そうではないんですかね。
すべて人間の営みってああいうふうに僕には。
だからトランプ大統領がですね、撃たれた時にこうガッツポーズして、
それを青空をバックにして写真に撮って、これ教科書に載るよねっていう。
これが人間の営みってもんだと言うと不謹慎だとか言われるんですよね。
僕わかんないんですよね。そこがね。
真剣に生きるっていうなら犬の方が絶対真剣に生きてますよね。
人よりも。
でも我々はウジ虫だらけの肉って食べられないじゃないですか。
夢見てるせいで。
お腹超すけば食べられるんですけどね。
だからこの、なんて言いますかね。
そしてウジ虫だらけの肉をホラー映画に出してくるじゃないですか。
まさに我々は夢の中で生きてますよね。
どんなに真剣になっても真剣になりきれないと言いますか。
実存からズレが出てしまう。
そのミリ単位かもしれないけども、そこにはフィルターが入ってくる。
だからオソシのセットでママゴト遊びができるんじゃないですか。
そしてそれは人間の能力としては絶対欠かせないと思ってるから
子供がママゴト遊びを始めると大人は喜ぶじゃないですか。
あれボノボチンパンジーだったら怒り出すと思いますよ。
やってることの意味が分かり始めればですね。
そんな何その食べられないバナナをバナナに見立てて
お前絶対そういうことやってると死んじゃうよって言うじゃないですか。
でも人間の子供がそれを言うとみんなが手を叩いて喜ぶじゃないですか。
人間の価値観っていうのは全く実存的じゃないと思うんですよ。
不礼儀なんだと思うんですよね。
これをどうしてそうではないという風に言いたがるのか
そこを含めて遊びなのかは僕がいつも悩まされるところでありますよね。
選挙とかってほんと人間らしいと思うんですよね。
あんなある意味馬鹿げたことを真剣にやれるから
人間はプレイができるって思うんですけどね。
ほんとあれ猿とかが見たらお笑いだと思うんですよね。
何をのち狂ったことやってんだろうとしか思わないと思いますよね。
どんなに説明がきっちりされて猿語で伝えても
いやーそれはダメでしょうって思うと思いますよ、猿だったら。
その架空感何なのって感じですよね。そのバーチャル感どうなのって感じですよね。
我々現実に生きてんだよみたいに言われそうな気がしますけどね。
だから私はサンチャレやってて
私に特殊性があるとするとどこか真剣にはなりきれないところ。
夢と現実の区別がつけられないと信じているところ。
夢を見るとき、だから私は名刺勤務を見ている回数が
どうやら人よりずっと多いらしい。
これが私のサンチャレができている一つの大きな理由だと思いますね。
タスクシュートもおおむね同じだと思います。
私にIT能力が特別高いわけでもなく
お菓子さんのような能力もさらさらなく事務能力も全然高くなくて
もちろん締め切りを守ったり約束を守ったり忘れ物をしないというような能力においては
むしろ平均を下回る私のような人間が
なぜタスクシュートというものがあんなに伝える側でうまくやれたのかというと
やっぱり私は現実をどこか真剣には受け止めることができなくて
夢と現実の区別がつかないと信じていて
しょっちゅう名刺勤務の中でタスクシュートをいじっているような人間だからこそ
つまり代替えが効かないんですよ。こればっかりはね。
だって今日から毎日名刺勤務を見てくれば、そんなこと僕だってできませんけど
今日から年間最低10回は名刺勤務を見てくださいと言っても
できない人にはできないじゃないですか。
その人がどんなに優秀でもできないじゃないですか。
なぜなら多分その人は夢と現実の区別がつくと思ってるからですね。
そしてそれが今のような主流ですよね。
そしてそれが間違ってると言いませんよ。本当はつくのかもしれないんですよ。
でもだからこそ客観的な事実というものがあり
それを誤解なく伝達するってことができると思われていて
だからプランAだ、プランBだ、プランCだとか
メタファーの価値
プラン断、チェック、アナリシス、プランってやれば
現実が改善すると信じられていたりPDCAサイクルですね。
そういうことが主流であるからこそ代替えが効くのであって
代替えが効くからこそ、いや俺様の言うことを聞けと言えなくなり
だからマーケットっていうのがすごくなんかこう
謙遜しているんだか自慢しているんだかわからないようなものになりがちで
いやー俺はものすごいことを知ってるからみんなに教えてあげるよ
再現性すごいバッチリだから
そしたらあなたの価値ゼロじゃんってことになってしまうから
そういうことに敏感な人はここでものすごく悩むだけなんですよ。
だから先行者利益、早物勝ちだよみたいな
みんながこれ知っちゃったらもう価値なくなるよみたいな
そういう独特の言い方を
なんでお前は一番最初に知ることができたんだよってことになるんだけど
代替不可能な存在
いや私はいつもいつも代替可能な情報を目を皿のようにして
超高速でくまなく探してるからさって言っても
いやそれだったらAIの方が早くないって言っても
このAIの情報をさらにもっと早く先取りできる能力が私にはあるんだよね
みたいなことをおっしゃるみたいなことになるわけですよ
代替が効く世界っていうのはそういう
まあでもうまくやれば儲かるんですけど
で、私は代替が効かないと思っていますから
それは自分が特別に優秀だからではなくて
なんだろうな
私の世界には私しか生きていないからなんですけどね
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