ナイター中継と寂しさ
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ第1163回をお送りします。
4月8日火曜日、7時49分です。
最近ね、落としがちで申し訳なかったんですけど、一つには家族旅行に行ったというのがありまして
家族旅行中もやる気満々だったんですよ。だから事前に
予告をしておく、予告をしておくはずがないじゃないですか。行った先で作る気満々だったんで
非常にそれは簡単なことだと思い込んでいたんですけど、実はそれはほぼ不可能なことだったというのが
行ってみて、完全にした準備が無駄だったんで、一回も出せませんでしたからね。
まさか一回も出せないなんて、4回出すぐらいの気で言いましたから
いや休みだから休んだんですよっていうのを後からだったらいくらでも言えるんだけど、行く前は全くそういうつもりはなかったんですよね。
どう考えても撮れるだろうぐらい。なんなら時間余るでしょうって思ってたんですよ。
実際余るんだけど、余ったところに自分がホテルにいるとは限らない。
あと1回だけ撮ろうとしたんだけど、Wi-FiっていうのがホテルWi-Fiなんで
結構微妙だというか、ものすごく微妙だったわけですね。
そこそこのホテルだったからですね、まさかそんなWi-Fi微妙的な問題でハマるなどとは
もちろんその後よく考えてみれば、5Gがよく拾えるところでやれば全然
だから録音の先にやっといて、5Gが十分いけるところでアップするってそういうですね、
ちゃんと貴重面な技を使えば何ら問題はなかったはずなんですが、
普段私これ撮ってるときがすごく雑なんですよ。
はっきり言って先日もそうでしたけど、今しゃべります、終わりました、アップみたいな、
そういう感じで編集なんてかけらませるつもりがないですし、本当にもう今後一切するつもりはないですし、
撮ったやつを予約投稿とかもほとんどしないです。やり方は知ってますよ。
そんな難しくもないです。ただやろうと思ってないというのがはっきりあってですね、
やっぱり撮ったやつは出しちゃいたくなるんですよ。
撮ったやつを出したくはならないという性分の人がいるんですよ。
パーソナリティですけどね。
で、そういう人は出せなくなってしまうか、もしくはすごいきちっとしたものを出すかになるんですね。
僕のようなのは出せなくはならないんだけど、えらい雑に出すみたいなことになるんですよ。
一番いいところが撮れればいいんでしょうけど、
私はこれは1100回も続けてこられたのは基本この雑な性格なおかげだと思っているんで、
声を変えちゃおうとすると多分出すこと自体が変わり、
そのほうが残念だと思われる方が多分増えると思うんで、
ここがきちんとしてるほうが嬉しいっていう人は、
これを聞いてる人の中にはそう多数派じゃないと思うんですよね。
いらっしゃると思うんだけど、マジョリティじゃないと思ってるんで、
そこは申し訳ないけど諦めていただこうと思っています。
人間、すべての人が貴重面にはならない、全人類貴重面計画とかは無理なんで、
自己コントロールの難しさ
貴重面な人が聞いたければいっぱいありますからね、貴重面な人のスタイフとか、
ポッドキャストはいっぱいあるんで、ぜひその貴重面な方を聞いていただけば、
あるいは自分が貴重面にやるとかね、どっちかがいいと思うんですよね。
雑にやってる人間の貴重面にするとかが一番PSポジションなんで、
妄想分裂気味なんでそれは。
他者操作するっていうのは妄想分裂の世界ですから、
他者って操作できないから他者なんで。
これがもうこの番組でも一つのおなじみですからね、他者は操作できないんですよ。
操作できたらそれは事故なんで、定義がそもそもおかしいんですよね、他者操作っていうのはね。
他者操作したければもう一番確実なのは恐怖に落とし入れることなんだけど、
それ明らかに他者じゃなくなってるじゃないですか。
一種奴隷化みたいな話なんで、僕は他者ですからね。
やっぱり貴重面にしたいと思っても、僕は貴重面にはならないですよ。
これは私親子関係とか教育関係で、常にもっと人が意識すればいいのにと。
人は思った通りにコントロールできているようでいて、
それはコントロールできていない部分をただ見えないようにしているだけであって、
絶対そういうわけにはいかないんだなっていうのは、
どんなに圧倒的な支配関係にあるように見えても、他者は支配はできない。
そして支配できない部分が残ってこその他者なんですよね。
完全に支配できるんだったらそれは事故ですよね。
事故の部分も同じで、いきなり本題っぽいものに入っちゃうんですけど、
事故も完全に把握できている、コントロールできている部分だけで生きようとすると、
行き詰まるようになってるんですよね。
やっぱり事故の中には他者が必要で、それを無意識と言うべきだと僕は思うんですけど、
無意識ってのはコントロールが効かないから無意識なんで、
私は非常に原初的なというか素朴な行動主義が無視しようとしたのがまさに無意識だったと思うんですね。
だから私はやっぱり好きな主義ってのはアンチフロイトだったと思うんですよ。
アンチフロイトというのはどういうことかというと、
フロイトの言ったことって自分には分かっていない、コントロールもできない、
知ることもほとんどできない部分が自分にあるんですよっていう、
つまり事故の中に他者があるんですよって言ったわけじゃないですか。
それに対して言ってみればそんなものを相手にしててもしょうがないんだから見える部分だけ、
徹底的に見える部分だけ見ていこうぜって考えたのが行動主義ですよね。
行動を見ていくってわけですよ。
でも行動は見えるかもしれないけど意識は見えないじゃないですか。
まして無意識が見えるっていうのは全くそれはおかしな話なわけですから、
やっぱり無意識は他者なんだと思うんですよね。
事故の中に他者があるんですよ。
これをないものにしようとしたのが、ないものと見なそうとしたのが行動主義的、
素朴なですね、今はそこまで素朴な行動主義原理はないと思うんですけど、
一番最初はそういうところから出発した、やっぱりアンチフロイトだったと思うんですよね。
もう一つが、これはアンチフロイトとかではないんだけど脅迫症ってやつですよね。
自分の行動とか言うか、自分のコントロールできない部分は全部ないことにするんだと。
極度の恥ずかしがり屋みたいなところがあるわけですよね。
だから思わずつまらないというか恥ずかしい言動をしてしまわないように、
自分を厳しく戒めておこうと。
これは力動的にフロイトが言うところの、フロイトが言ったってべきなのかな、
拷問規適ですよね。
しまり屋って昔日本語では言ってたりするじゃないですか。
しまり屋っていうのはつまりケチで、つまり思わぬところの支出を避けると。
ケチで、あれですよ要するに、人の前でおじっこしちゃうのは格好悪いから、
絶対そこはしないように頑張るみたいな。
その極端な形が、つまりものすごくケチ、ものすごくSを攻撃してるわけですよね。
思わぬ食欲とかも恥ずかしい、思わぬ性欲とかとんでもないという感じで、
すごく社会的は良さそうなんだけど一歩間違うと、
あれ鍵閉めたっけ、ガスコンロの火消したっけで、
いつまで経っても家から出られない人みたいなことが起こるわけですよね。
これはこれで神経症気味なんで、そこはアンチフロイトでない限りは、
正規と万能性
フロイトが見てくれますよっていう話になってるんですよ。
いやあなたにはコントロールしきれない部分があるんです。
これ自己啓発でもお馴染みですよ。
やっぱり自分のコントロールできない部分を受け入れましょうと。
これがなかなか受け入れられないと。
現代でもですね、いつでもそうなんですけど、
社会というのはそこを突っついてくるもんだから、
あんたここコントロールできてないよと、
それを一歩間違うとなんとか腹だよとかって言われ始めるわけで、
それは嫌だなと思ってコントロールしよう、コントロールしようと頑張ってるうちに、
つまりそれは恐れと不安があるってことなんだけど、
コントロールしようと頑張ってるうちに、
コントロールできない部分が永遠に残るから、
攻めき合いが永遠に続いちゃうというような、
一種の、要するにそれは病なわけですよね。
心理の病ということになってくる。
病態という言い方をしたりもしますよね。
で、ここのところ私はその力度というのを、
いろいろ力度寄りにしましょうっていう感じになってて、
どっか残っちゃうんでそうは言っても、
どっかは認知行動みたいな部分って絶対、
そういうような活動の中に入ってるだろうなと。
何よりも一番やっぱり最初から、
いやそうなってないじゃんって言われるかもしれませんけど、
最初から意識してるのは病理アセスメントはしないと。
ここはもうですね、最近の一つの、
だから最近僕ようやくパーソナリティ障害しか言ってなかった時代を脱しつつあるじゃないですか。
要するにパーソナリティ障害というのも、
一つの病態から見ていく考え方だから、
それは僕はもう基本は避けようと。
意識はしますよ絶対にパーソナリティ障害は。
だけどパーソナリティ障害を見ていくみたいなのはやめようと。
結局それって見切れるもんじゃないし、
なかなかそれは正規の方だからっていって、
全部が全部見切れるとはさすがに思えないわけですよね。
やっぱりいろんな病態が重なってるはずなので、
この重層的ってフロイトが言ったんですけど、
まさに重なってるんですよね。
ここを見ていくように努力をしましょうということだと思うんですよ。
さすがに臨床やってるわけじゃないにしても、
ワンオンセッションでお悩みがあるわけですから、
そこがですね、僕にも悩みなんていうのはどうせあるんですけど、
結局、
重層的っていうのは、
ワンオンワンの中で重層的っていうものを見るっていうのはですね、
見れなくたって見るしかないだろうっていうのなんですよね。
これは結局放っておけないでしょって話に近いんですよ。
精神分析ができないからといって、
もうじゃったら何もしないほうがいいやというふうに、
一歩間違うと精神分析の人が書いている厳しめのストイックな部分を読むと、
そう思っちゃうんですけど、
そうはいかないからやっぱりCBTってものに、
結局勢力の上で圧倒されたわけですよね。
いつまでもそこだけを言っていても、
やっぱりみんなが精神分析様ってわけにはいかないんですよ。
私、やっぱりこれはアトピーの経験から思うことなんですよね。
アトピーは治んないんですって言われたからといって、
はいそうですかってわけにはいかないんですよ。
言われたことは僕はそれこそ正規の医者さんに何遍もあるんですよ。
治んないんだと。
でも治りましたからね。
これに対して治ってないという権利はないと思うんですよ。
いくら戦法が正規だろうとなんだろうと。
私はこれは正規不審で言ってるわけじゃないんですよ。
何度も同じような話してますから、
いいと思うんですけどね。
別に正規不審で言ってるわけじゃないんですよ。
しょうがないと思うんですよ。
ものには限度があると。
人間はやっぱり万能じゃないんで、
この万能じゃないってすごい大事なことなのでして、
万能じゃないからにはやっぱりその言い分を万能的に受け入れる必要もやっぱりないと思うんですよね。
正規様なんて、だから全部その通りに考えるのが正しいってことにはならないと思うんですよ。
ただ正規は正規なんですよ。
一人の観戦による孤独感
非正規より、非正規と正規は違うんですよ。
それはそうなんだけど、正規が神様のように万能ってことはないんで、
だからそこは限界があるはずで、
その限界をどういうふうに自分なりに工夫していくかということ、
自分が正規になれないっていうのもまた一つの事実だし、
私が万能でないっていうのも当然の事実なんで、
だからやっぱり非正規なりの工夫っていうのがここにはあってしかるべきでしょうと。
さすがにやっぱり正規じゃないから何もしませんってわけにはいかないでしょうということになるわけですよね。
まして今は力道が正規の中で主流派ですらないんで、
だから力道的なものにこだわりが私はあるわけですけども、
あるんだからやっぱりここはですね、創意工夫の世界だろうと。
創意工夫がいけないんだと言われたら、いけないなりの創意工夫の世界だろうと。
で、その時に必ず出てくる感じがするのはですね、
とはいえ何らかの方針を持たないわけにはいかないなと。
明快な方針は持たないんですよ。
ここをこうするとかまして直すとかは言わないわけだから、言えないわけですからね。
で、直すって言えないんならどうするんだろうというのを考えていくと、
おのずとではないんだけど僕の中に残ってくるのがですね、
重層的に見ていく。
で、その同時に見ていくべきものがあって、
一つの原因ではないわけだから、一つの結果を目指しても仕方がないと。
3つ、4つ、6つとかが作装した原因で何かを作り出しているんだから、
その6つとか3つとかを並行して動いているものがどう動いているのかを、
少なくとも補足していく努力をするみたいな。
できなくてもするみたいな。
そういう感じになってくるんではないかと、あんまり面白くない話になってますね。
えーとですね、例えば対抗という考え方がありますよね。
で、対抗という考え方があったときに、なんて言うんですかね、
なんでパーソナリティ障害みたいなものを意識するようになったかというと、
やっぱりそれはどこか対抗というものと関係があるわけだし、
どこかある種つまずいたゆえの戦略みたいなものがそこで平成されてしまったというところがあると思うんですよ。
パーソナリティ障害というものを見ていく上で、やっぱり一番説明はするんだけど、
説明はしたんですよね、私もね。
説明しながらも、これは細かくきちんと説明できていないからこういうことが起こるんですけれども、
パーソナリティ障害、今ではDSMではもうこれをあたかもパーソナリティの性格タイプ論みたいに読めるところがあるんですよ。
私この番組でも繰り返し紹介したグズの人には訳があるでも、
性格タイプについての考察
なんかそういう先送りのロクタイプみたいになっちゃってるんですけど、
タイプが、これはババレイコさんの精神分析の本読んでいただくとよくわかるんですけど、
タイプは並列的にあるわけではないんですよ。
だって神経症気味のタイプとは明らかに精神病気味のタイプってありますから、はっきり言って。
だからタイプを並列的に見ていっても、しょうがないんですよ。
あれは、なんていうんだろう、重層的な部分、レイヤーが違う部分があるんですよね。
で、そもそもそんなに綺麗に分かれるわけじゃないじゃないですか。
なんかね、曲線表みたいなわけにいかないんですよね。
縦の列と横の列みたいに、そういう二次元的になってるはずがないんですよ。
そんなに見えやすいシンプルな構造があるわけがないわけですよね。
エニアグラムみたいなものもあったし、
我々ライフハック界は言っていいですかね、にも流行ったストレングスファインダーとか、
ウェルスダイナミクスみたいなものもそうでしたけど、
何かとタイプは平面的に横に並べられるか、せいぜい円形状に並べられるか、
平面の上に置けるみたいになってるんですけど、そんなはずないんですよ。
どう考えたって。
だから第一のメインの性格と裏の性格みたいなことを、
昔、動物占いみたいにそんなことやってましたけどね、
コアラなんだけどコジカでもあるみたいなやつになるじゃないですか。
だからこう、なんていうのかな、生鮮術でもそうですけど、
星と誕生月とが並列してあったりするわけですよね。
並列っていうのは両方使うわけですよね。
それによって少しダイナミズムというものを半歩下がってるんですけど、
そもそもなんで6つなんだかとか、なんで9つなんだとエニアグラム9つあったんだけど、
そういうユングのタイプ論みたいな話です。
原型は4つですよね。
だからああいうふうになっちゃうんですよね、どうしても。
その4つの根拠は何なのって感じがするんですよ。
内向と外向みたいな。
でも内向と外向っていう話をするんだって、
対象関係論から見ればめちゃくちゃ微妙じゃないですか。
何をもってうちと言ってんだって話なんですよね。
我々は結構簡単に、最初に私しゃべりましたけど、
自己と他者みたいに言うけど、
自己ってのは僕はコントロールできると思ってる半径みたいな感じがするんですよ。
コントロールできないところが他者なんですよ。
このコントロールできないところをもう忘れちゃってるのをナルシシズムって言うんですよ。
なのにナルシシズムパーソナリティっていうパーソナリティがさもあるみたいな言い方するじゃないですか。
これがおかしいと思うんですよね。
自己愛っていうのは、
もしそれが病理として現れるなら、
もう他者は基本目に入ってないわけですから、根本的に。
すごい重篤ですよね、ある意味。
それがパーソナリティですって言うんだったら、
なかなか大変そうだなって感じがするんですよ。
一方で脅迫症というのは、
これも結局、
だからことになるんですよね。
ナルシシズムと無関係のパーソナリティ障害なんてないと思うんですよ、ある意味。
ナルシシズムはあるんですよね、パーソナリティ障害があるところには。
だからナルシシズムパーソナリティと自己愛パーソナリティ障害と脅迫性パーソナリティ障害が並列しておいてあるっていうのは、
そもそも非常におかしいわけで、
それは脅迫性の下には別のパーソナリティ障害があって、当然じゃないっていう。
だから松木邦博さんのパーソナリティ障害の本では、
排斥って書いてあるんだけど、
でも排斥って言ってもなっていう。
だって世の中ではそれは当たり前のように適用されてるっていうか、
ピックアップされている障害について、
排斥ってここで書いてあっても、
排斥は一案としては、
僕はもう排斥ってよく理解できる気が、一応気がするんで、
排斥でいいような気も、
てかパーソナリティ障害とか言う必要ないよねって。
でもそんなこと言ったったら、
ジゾイドパーソナリティ障害をいちいちそう言わなくても、
ジゾイドっていうものに近いのか、
それの濃淡として精神病水準のジゾイドなのか、
神経症水準のジゾイドなのか、
みたいなことを考えていかなきゃなんなくなるわけですから、
そこを性格分類みたいに、
一歩間違うと星座占いみたいにしてしまう必要は全然ないっていうか、
そんなことしても意味全くないですよねっていうのは分かるんですが、
分かるんですが、
ただああいうふうにしたくなっちゃうことはありますよね。
だって今みたいな話って分かりにくいじゃないですか。
重層的に酸素をあって、
健常神経症水準、精神病水準みたいなの、
さらにそれをコンテイン機能の機能水準みたいなのを見ていってみたり、
それこそ脅迫的な部分を見ていってみたり、
それは行動としてのパターンみたいなものなんだと思うんですよね。
こういうふうに喋っていくと、本当に授業みたいになってって、
でもじゃないけど、
非正規の人間からそんな話を聞きたくはないと思うんですよ。
で、私も人の話をワンオンで聞いてる最中に、
こんなことをグワーって頭の中で考えながらは、
人の話聞けないんですよね。
で、松木さんの書いてる通り、
一心不乱に聞こうみたいに、
一心不乱に聞いてたらこんなの、
頭の中にかけらも出てこれないじゃないですか。
だから出てこれないんですよ。
だからやめてみたわけですね。
やめようこんなことって思ったんですよ。
これで勝手に頭の中に浮かんできたことだけを意識しようと思ったら、
もう浮かんでくることってちょっとなんですよ。
本当に。
なんかもう浮かんでくることって、
なんか今の話はナルシシズムっぽかったよなーみたいな、
はしゃ無視されてるよなーみたいな。
あるいは今ここでなんか言い争っているような感じになっちゃってるのは、
お互いPSっぽくなってるからだよなーと、
つまりなんかこう原始的に転移してるような感じだよなーっていうのが、
少しでも浮かんだらもうそれでよしとするしかないなって感じなんですよ。
一歩間違うと意識の上に留めるのも難しいぐらいしか、
だって一心不乱に話聞いてるから、話がメインですから。
だからそこで、
じゃあそれはナルシシズムなのだろうか、
それとも持続のなのだろうかみたいなことをやってても、
だからインテークって大事なんでしょうけど、
私は心理臨床やってるわけじゃないから、
これをやったからと言って、
では治療に入りましょうとかって言えないわけだから、
意味ないじゃんって感じがしてきたんですよ。
だからもうこのタイプ論みたいなのは、
基本的には考えないようにしようと。
この人がなんかヒステリータイプなのか、
それとも回避性なタイプなのかを考えるのも、
原則やめようと。
どっちにしてもその性格がすごい主張が強ければですね、
演技性は演技性でちゃんと意識されるはずだから、
ここがだからやっぱり僕が、
無意識というものは無意識に任せようって思えるようになってきつつあるんだとは思うんですよ。
つまり私の中の無意識は私にとっては他者であって、
私のコントロールしきれる範囲の外にあるから。
だからこれを意識できないと、
やっぱりナルシシスティックになっちゃうと思うんですよね。
全部俺分かってなきゃダメだみたいな、
そういうふうに無意識の底の方まで認識できてないんだったら、
もうそこはないものとしようみたいに否認ですよね。
そういうふうになればなるほど、
自分が苦しむことになると思うんですよ。
だからライフハックやるっていう時もそうで、
ここに気をつけてさえいれば、
別にライフハックは文房具なんで、
文房具に批判をするとかって変じゃないですか。
鉛筆批判とかしないじゃないですか。
でも鉛筆マニアになっていることに対する違和感みたいなもんだと思うんですよね。
でも鉛筆っていうものがある以上、
基本主義の国である以上、鉛筆マニアも登場するはずなんですよ。
それはそれでしょうがないと思うんですよ。
だからといってみんながみんなノートマニアとかにならなくてもいいはずで、
なんでみんながノートマニアになりたくなっちゃうかっていうと、
ノートマニアで成功する人が出てくるからですよね。
それはそれで放っておくしかないっていうか、
だからこういうことを批判するみたいな話に近づいていきやすいんですけど、
そんなはずはないってことなんですよね。
ナイター中継の寂しさ
だって文具の世界に興味があるから、
ある意味手帳マニアみたいなものへの批判みたいなのも出てくるかもしれないけど、
我々そうは言ってもトラックマニアとかに興味持ってないですよね。
明らかにヘイトラーマニアとかいるんですから世の中には。
ヘイトラーマニアみたいな人だって全然気にならないじゃないですか。
自分から遠ければ気にならないわけですよ。
多分大概のライフハッカーの人はミリタリーオタクとかに対して批判的ではないと思うんですよね。
なぜならばその辺そういう人たちがいるってことを通常意識してないからなんですよね。
ミリタリーオタクで成功してる人だって絶対いると思うんだけど、
そういう人のことは気にならないわけですよね。
だったら気にしないことだなって思うんですよ。
話が盛大に逸れてきてますけど。
この辺もすごく脅迫的な話と似てくるんですよ。
やっぱり精神病水準っぽい方面の、何て言うんですかね。
精神病水準っぽくなる方面の、つまり他者が巻き込まれやすいパーソナリティと、
自分だけで完結しやすいパーソナリティみたいなのもあると思うんですよ。
精神病とパーソナリティ
間にあるから棒だって言うんだけれども。
やっぱりこのね、パラノイアチックなものって、
今ではすごく統合失調っていう反係が広がってきてるような気がするんだけど、
妄想分裂気味になると、精神病っぽさってものがやっぱりどうしても
他者が一切信じられないみたいになってくるから、
結構の反係が狭くて狭くてしょうがなくなってくるわけですよね。
だからある意味すごく引きこもりっぽくも見えてくるし、
閉塞的な雰囲気っていうのを帯びてく気もしますよね。
妄想性パーソナリティ障害とか言ったときに、
それとただ並列して依存性パーソナリティ障害って置くと、
変な感じになるんですよ、私の中ではね。
どう考えたってそれは、依存性が精神病水準になるっていうこともないわけじゃないだろうけど、
むしろ重度の神経症水準みたいに見られるんだろうし、
どっちみちそんなことを3ヶ月チャレンジで考えててもしょうがないしなって感じがするわけですよね。
だからエニアグラムみたいなものから離れなきゃいけないなって感じがやっぱりしますよね。
そのとき依存気味になってみたり、妄想分裂気味になってみたりするっていうことだと思うし、
ここにこの妄想分裂みたいな部分とか、ナルシシズムみたいな部分っていうのを
意識に入ってきたらラッキーぐらいに思っておくっていう、
ラッキーじゃないんだけど、そういうことがやっぱりあるんだろうなっていうのを意識しておくという感じなんだろうなと。
ついでにこれもすごい難しいんですけども、ケースによってはあんまり乳幼児水準のことって、
それは追っていく必要はあるんだろうけど、そこを議論しても始まらないんだなっていうのを、
こういうのってたぶん教科書に書いてあると思うんですよ。
ちゃんと臨床心理学べば出てくるはずだと思うんだけど、
果たして教科書読んだからって全部が全部臨床中意識できるとも思えないし、
結局ある意味では、最近出た、久しぶりに言及しますけど、
山崎孝明さんのオレンジの、山崎孝明さんと遠畑階人さんの共編のオレンジの本ですよね。
臨床心理学の雑誌のやつの、あそこにあった、いやいや足りねえんだよお前らみたいな感じの勢いのある、
日コード旅行の方だったと思うんですけどね。
とにかく臨床している回数が足りんっていう、そういうこと書かれてたのは、
あれもですね、ある種の学科からすると、そんなのナンセンスだってことになるのかもしれないけど、
僕はあれ、正しいなって思うようになったんですよね、すごく。
やっぱりこう、そっかやっぱり足りん、なんちゅんだろうな、
経験するしかないことって確かにありますよね。
この話をすると今度はやっぱり、精神分析やらなきゃ分かりません論に、
銀座の寿司は食べなきゃ分かりません論になっちゃうんですけど、
経験に基づく考察
それは正しいんでしょうね。
でもやっぱり回転寿司でやっていく、
回転寿司がんばる派は回転寿司で超がんばればいいんだよっていうノリも必要ですよね。
回転寿司を極めるみたいなね、回転寿司を極めたいとかそういうわけではないんですけれども、
しょうがないからねっていう、やっぱりものには限界があるし、
江戸前寿司が万能ってわけじゃないじゃないですか。
いくら美味しいからって、そんな全食江戸前寿司ってわけにいかないじゃないですか。
お金があればそれでいけるかっていうとそうでもないと思うんですよ、やっぱり。
だからしょうがないものはしょうがないっていう感じで、限界が何事にもありますから、
その中で今回の考えついた一つとして、
グループセッション2回というのは、これはありだろうなと。
週に1回の方でもグループセッション2回に参加されなくたって、
あることはあるわけですからね。
あることはあるってのも、前回ちょっと前々回ぐらいか、ちょっと忘れましたけど、
これに類することは喋ったような気がするんですよ。
あることはあるというふうに思えることがそもそもいくらか大事だみたいな、
そういう感じだと思うんですよね。
で、その延長戦に、僕はこれ全く実はそうなんですよ。
これはほとんど意識に入ってなかったから、だからノーノーと予行ごときで落としたわけですけど、
これ自体がその接触頻度を担保する一つになっている。
つまりこのポッドキャストがあってことですよね。
僕はこれあんまり意識してなかったんですよね。
どっちかっていうと僕が抱えられている感みたいなものと、
合わせてそれで3ヶ月チャレンジのCMもできていて、
これは便利だみたいなCMもできているのか本当にって言われると、
わかんないんですけども、できていると勝手に信じることにしているわけですよ。
で、これでも機能するのかと。
これが機能するんだったら、
これ週3ぐらいにして、週5聞ける人は3ヶ月チャレンジ入ってくださいにしてもいいんじゃないかなと思うんですけど、
こういう器用なっていうか、やろうと思えばできますよ。
そのぐらいのことは。
なんかね、僕多分それをやろうとしてちくじるタイプなんですよね。
途中でどうでもよくなっちゃって、
なんか週5全部取って出しやりますみたいになってしまうんですよ。
多分この辺は修正かけてもいいんでしょうけど、
パーソナリティに本当修正かけるっていうのは微妙な行動なんですよね。
それをやることによっていろんなものが少しずつ変わっていって、
気がつくと何かが大きく変わっていくという、
なんかポーの小金虫みたいな話になりますんですよ。
結構あるんですよね。
ちょっと最初の心を変えるとガラッとその後変わっていくっていうようなことを、
恐れてると言えば恐れてるのかな。
とにかくこれが続かなくなるのは嫌だっていうのがありますね。
これが続いているというのがある程度僕に何かを現在保証していると言いますか、
それが何だかわかんないんですけど、
多分永遠にわかる気がしないんですけどね。
でもこれがある種のこういう言い方をするならば、
コンテナーとして機能しているのであれば、
それはやっぱりやるしかないなって感じがしますね。
だからここにリズム作るならば、
これを週5やって土日休むと。
そうやってリズムを作るっていうのが幾百回でも何かの役に立つならば、
これはいいなと思うんですよね。
僕は別にこれをやるのにほぼ苦労ないんで、
旅行中とかができなくなる以外は、
それも政治分析でよくあるんですよ。
欧米人はバカンス取りますから、
もうこっから1ヶ月いきなり分析なくなるねみたいなそういうやつですよね。
これが資材の母親という効果をはっきり生むんですよね。
あれだけ抱えて、
徹底的にそれこそ寿司屋を辞任できるぐらい、
専門性を辞任できる人たちが抱えに抱えてパッと放り出せば、
それはそれはそういう意識になるでしょうね。
負罪の母親ですよね。
この負罪の母親はめちゃくちゃ確かに大事ですよ。
それは私がこの3ヶ月チャレンジでそこまでできているというつもりはないし、
10機で幾百回リニューアルしたぐらいではそうはならないと思うんですけど、
でも負罪の母親は確かに大事ですよね。
私もここに間違いなく脆弱性を持ってるんで、
そこは何か言われなくてもある程度はわかるねって感じはするんですよ。
だって私が大学時代にもう何か何でもいいんですけど、
ひらひらの服を着た女の子が横にいてくれれば、
天下とった木でいられるというのは全く100%万能空想、
もうほとんど万能妄想じゃないですか。
これは負罪の母親を明らかに対象によって、
意向対象によって埋めようとしていたんですよね。
いやー、うちの母はそんなにニグレクトだったかというと、
そんなことはないと思うんですよね。
でも他の人に言わせると、それこそ今のうちの妻に言わせても、
ちょっとこれをあれか、
でもね、お母さんは厳しい人だよねみたいな、厳しい人だったよねみたいな、
厳しいんだ、やっぱりみたいな。
よくわかってないんですよ、僕は多分。
うちの母に厳しくされたという認識が弱い。
これは否認かもしれないし、
まあ、強依存みたいなやつなのかも。
強依存な、やっぱり専門用語というか、
ちょっと雑な言葉ですよね、強依存ってのはね。
まあ、わからなくはないなって気もするんですけどね。
まあ、非認、東英ドイツ化の方がまだいいなって感じがするんですよね。
とにかくうちの母のこと結構いろいろ僕言ってますけど、
まあ、あると思うんですよ、普通に。
私はあれは普通、少なくともグッドイナフマザーの完全に範疇に入ると思ってるんで、
だってしょうがないじゃんっていう感じがする。
だけどうちの妹に寄せると全然意見が違うし、
難しいっすよね、本当にね。
まあ、その、なくはないんですよ。
なんかね、虐待されたというような記憶というよりは、
例えば、僕がこれは良くないなと思っていたことの一つに、
ヒント来ないかもしれませんけど、
私、金の折り紙ってやたら好きで、本当にやたら好きで、
まあ、明らかに黄金コンプレックスがあって、
まあ、黄金うんこなんですけどね。
えっと、で、金の折り紙で、なんかこう、
折り紙で兜折るってあるじゃないですか。
もうめっちゃくちゃ折ってたんですよね、兜ばっかりね。
この武闘派でない私が、
なぜあんなに兜なの、刀なのが大好きだったのかってのは、
良くないよな、やっぱりな、みたいなね。
よさの秋子の弟みたいだよな、みたいな感じがして、
こう、リリッシサというものに、
えっ、だい俺は弱いな、というね。
リリッシサコンプレックスの塊だよね、みたいな。
で、これ植え付けたのは間違いなくうちの母だよなと、
あの、思うんですよね。
うちの母だってテレビ、
まあうちの父に、ただ前習いしてただけですけど、
うちの母はテレビ禁止してるくせに、
中心裏だけ見せるっていう子を、本当にアホですよね。
あと大赤越前がやたら好きっていう、
これもまあ言っちゃ悪いけど、言わないようにしよう。
まあ要するに、ろくでもないですよね。
と思うんだ、私はね。
でもこれはな、それが罪かって、罪悪ですかって言うと、
母親の不在とその影響
罪悪とは言えないような素朴だとは思いますよね、過剰にね。
子供っぽいなとも思いますよね。
なんていうか、本当にもうなんかこうね、
お嬢様でもなんでもないんだけど、
あの、まあ、女の子だよね、はっきり言って。
っていう感じはしますね。
だいたいそんな鎧かぶとなんてね、
している男の子が好きになっちゃうなんていう、
そういう、なよなよしてるやつは嫌い、みたいなね。
まあいいんですよ、別にそんなのはね。
この人その人の思考なんで、好きにすればいいんだけど、
それを息子に投影してあげく、投影同一化に持ってっちゃうという。
でもね、まあ普通じゃないですか、はっきり言って。
私もその、うちの奥さんは息子がいないから分かんないですけど、
まあ運動会とかでね、もうね、
いやなんかもう本当に、うちの子リレーに出て、
あの、なんか、よくあるじゃないですか。
ママとも間でこう、謙遜してるんだけど自慢しまくるみたいな。
まあうちの子足が速いだけがトリエデさんみたいなノリで、
めちゃくちゃ嬉しそうなやつってやつですよね。
あれの、要するにブケ版なわけですよ。
でもなあ、そりゃあだって、いいじゃんって思うんですよね。
それを非難することないじゃんって感じね。
ただ自分がその投影同一化に思いっきりはめ込まれてみて、
しかもどう考えても、あのやってることは、
えっと四ツ谷大塚で勉強しろ、みたいなことしか言わないくせに、
5月5日になった時だけ、買ってもくれないのに、
あの、刀の世界に男の子が思いっきりはまり込んでることは、
私はくだらない上に若干有害だったとは思うんですよ。
だから結局そういう男の子として荒れない私っていうのがですね、
結局学校行くとどっちかっていうとナヨナヨしてる方なわけだから、
ここで僕がすごい分裂を抱えたまま行っちゃうわけですよね。
また行った学校が良くなくて早稲田なんて、
もっとナヨナヨしたところで良かったわけですよ、私なんかは。
だけど結構ね、ああいう私立のは元々、
要するに軍事教育をしていたのが名門校になってるだけあって、
やたらとこうですね、文部領土好きなんですよね。
で、実際そうじゃないんですよ、八木市って。
体育なんかできない人ばっかりだしね。
だけれどもそうなっちゃうんですよね。
だからそれがいいんだみたいに思っていて、で自分はそうじゃないと。
そうじゃない方をあったり受け入れても良かったはずなのに、
なんかこう刀持ちたがると。
刀で戦い合ったらすぐ死んじゃうせいに刀持ちたがると。
しかもすぐ死んじゃうってことはもう十二分に理解していたから、
非常にこうなんていうのかな、ある種の分裂が酷くなっていくわけですよ。
これでも自然に生きててモテるとかだったら良かったんだけど、
またえらいモテなかったわけですよね。
なんか生理的に受け付けないとか面と向かって普通に言われちゃうっていうタイプだったから、
なんかもうここの分裂が必要以上に、
こう二十歳前後でデカくなっていったっていう現実があったわけですよ。
これとアトピーが関係あるんですけどね。
これやっぱり不在の母親なんですよね。
不在の母親というものがいつまで経ってもこう私の中で、
一人の寂しさ
一人でいて二人ってのができなくて、
二人でいて一人は私はできていたわけですよ。
それはもう本当に秩父の方の温泉行って、
本当にもうなんかこういかにもな感じの畳でね、
温泉行った後にこうここでテレビ見ましょうねみたいな感じで、
おせんべんもありますよみたいな、
なんか誰も使っていないイゴセットとかも置いてあったりするようなところで、
みんなで一人になりましょうみたいな。
あれはあっさりできたんですよね、私はね。
だからその辺はすごいこうミニコット的に上手くいってたんだけど、
逆はダメなんですよね。
一人で二人が全然できなくなって、
なんかもう異常に静寂の中で、
もう一本間違うと死にたくなるぐらいな、
死にたくはならないんだけれども、
なんかうわ一人だみたいな。
なんで、なんでっていうのがね、
もう私もおかしいだろそれって思ってたんですよ。
普通にテレビとかつけて、
だってみんなで一人だろうと、
一人でみんなだろうと、
同じことじゃないですか。
同じじゃないんだけど。
温泉宿に、温泉宿ではないな。
温泉場に行って、
そこら辺の人とわきあいあいと喋るってこと、
僕は社交的だったわけじゃないですよ。
でもみんなで一人はあっさりできちゃうわけですよ。
なんなら私は野球行って、
もう4万人の中で一人、
なんだけど4万人が一人はできちゃうのに、
なんか一人で二人ごときができないという。
今でもそうですね。
奥さんがいるのといないのとでは全然違う。
その、喧嘩してても違う。
いたほうがいい。
で、この一人で二人ができないのは、
全く無理だみたいなことはないんですよね。
心をかきむしられるようだみたいではないんだけど、
多分私はでも、
それこそ別居とかして一人になったら、
ダメでしょうね。
キャバクラに行く人の気持ちが、
よくわかる人になってしまうと思うんですよ。
ここに間違いなく脆弱性があって、
二人で一人はできるけど、
一人で二人はできない。
二人で二人はもちろんできます。
なるべく引きこもらずに、
二人で二人っていうのはできます。
これができないようでは、
やっぱりワンワンセッションなんて無理だと思うんですよ。
引きこもっちゃダメじゃないですか。
私だから、やっぱりあれなんですよね。
ノートをガンガン取っていく、
いいんですよ。
参加者さんは全然いいんです。
ノートをガンガン取っていく、
林翔慶、野良さんでも同じですけどね。
僕はこれは、
なんかどっかで努力をする必要があると思うんですよね。
ノートを取らない努力みたいな。
多分最初はものすごく相手の話を忘れて、
しかもそれを指摘されるという形の変異が
登場すると思うんだけれども、
そこを頑張らないと、
やっぱり原稿系のマイルド版みたいになっちゃうと思うんですよね。
あなたノートとイチャイチャして、
私の話聞いてないでしょみたいな。
社会的つながりの重要性
一歩間違うと、
ノートで相手の顔を覆い隠すってこともできちゃうじゃないですか。
そういうことって僕は普通に、
絶対これは僕はですね、
意識できるはずだと思うんですよね。
昔そうでしたもん。
明らかにインタビューとかされるじゃないですか。
でも私は、いや俺ライファッカーだからみたいな。
なんならモレスキン持ってっちゃうからみたいな感じで、
明らかに話をするのが嫌なインタビュアーの時は、
必死にモレスキンにアイデア書き留めてるんですよ。
さすがっすねみたいなこと言われて、
いい気になってるわけですよ。
原稿系なんですよね。
いやお前ちょっと邪魔だから、
どっか外で遊んでて。
うちこれから奥さんとイチャイチャするからみたいな。
ひどいじゃないですかこの親は。
やっぱ親がこれやるのはまずいと思うんですよね。
子がこれをやるのは当然ありだと思うんですよ。
私たちは今ちょっとお友達と女子会だから、
お父さんちょっと邪魔だからって、
それはもう言われるまでもないじゃないですか。
ここでお父さんが、
いや女子会に入れてよっていうのは、
豪華と思うんですよ。
でもノートを取るという行為を、
臨床課の方がやっちゃうというのはですね、
後で取れよってやっぱ感じがしますよね。
ノートとイチャイチャするなみたいな感じがしますよね。
だからこの2人で2人っていうのも、
結構大事だと思うんですけど、
私やっぱり1人で2人だよな私の問題はと。
やっぱり私は結構自転車で後ろを支えてくれてるかどうかを、
気にする子だったんですよね。
本当にお母さん支えてくれてるだろうかみたいな。
当然って話してるんですけど、
乗れるようにはなったから、
不在の母親がわかんないわけではないんですよね。
不在の母親はおぼろげながらいるんで、
やっぱりここを強めていかないとだよなって感じが。
なぜ今私は不在の母親の話をこんなに一生懸命してるんでしょうね。
さすがに過ぎ道を追い切れてないですよね。
でもこの不在の母親というのは、
セルフネグレクトの問題を、
セルフネグレクトなどと、
私も昔言っちゃってましたけど、便利だから。
便利っていけないよね。
脅威ゾーンと似てますね。
わかりやすくなっちゃうからついやっちゃうんですよね。
お風呂に入れませんっていうのを、
あっさりセルフネグレクトとか言ってる場合ではないと思うんですよ。
一つはやっぱり不在の母親っていうのが、
明らかにあると思うんですよね。
そこに例のあれですよね、
この番組でもおなじみの、
大人のというべきなのか、
精神的な接触障害的な何か。
接触というよりは、
節S的な何かなんですけど、
Sを排除するってことだと思うんですよ。
結局問題なのは、
ミニマリズムとかってあるじゃないですか。
これも批判になるからやめよう。
とにかく食べるというのが癒やしい。
なんだか貪欲でダメだ、
なんか気持ち悪いみたいな感じになって、
清らかに削っていくみたいな。
だから女性に入りやすいと思うんですよね。
清らかっていうことと、
Sがないってことが、
ごっちゃにされていくんだと思うんですよ。
それをやることによって、
自分の長所をとんがらわせるのが、
非常に単純にできるので、
競争社会の中ではやりたくなっちゃうというのは、
わからないではないんですけど、
でもこれをとことんやるということは、
Sを排除しているわけですから、
食べもしないみたいな。
それはやっぱり生きていくことに対する否定ですよね。
どう考えたって。
このことと不在の母親が、
そういう関係がやっぱり、
だからこれをどっちかで見ていくというのは、
良くないというか、
やっぱり十分じゃなくて、
両方あるのは間違いないんで、
重層感というものが大事だと思うんですよね。
母親がいてくれないから、
一緒にご飯も食べる人もいないし、
一人で泣いた中継見てるのは寂しいし、
寂しいみたいになっているのは、
不在の母親なんですよ。
特にその人が、
4人の職場で1人になれるってことができているのに、
1人でいると2人にもなれないってのは、
なんかやっぱり、
どっか不在というものに対する、
十分でなかった。
あの、
ママごとしていれば、
お母さんが隣にいる感じがするっていうのは、
大抵の子供が、
やっぱりそうだな、
3歳ぐらいで身につけていくと思うんですけど、
それがなんか欠けている。
常に介入されてきていたとか、
そういうことがあったのかもしれないし、
だからその、
いい時はいいんですよね。
孤独と対人関係
お母さんと一緒にお勉強するとか、
やっぱこういうのちょっと不安だよね。
お母さんと一緒に3歳児がお勉強して、
なんかすっごいいい感じになっていくっていうのは、
すごく母親が対照的ですよね。
対照としての母親は、
がっちりいるんだけど、
その子は、
考えるときに、
苦しみを感じそうな気がしますよね。
中学ぐらいになって、
どうしたって考えないわけにいかなくなってくる。
苦しくなってくるから、
そのなんていうんだろうな、
いいことばっかりじゃないじゃないですか。
で、お母さんと隣にいないじゃないですか。
そういうときに、
つらいなっていう、
なんでつらいんだろうがなさそうですよね。
とにかくつらいから、
このつらい状態を排除しようってことになりそうな感じが、
ある気がするんですよ。
このときに、
なんか邪魔だとか。
S排除すると、
なんか私すごい人に慣れてるように、
みんなが言ってくれるとか。
あれですよね。
なんか良くないんですよね。
実は集団で浮くんだけど、
その人はリーダーやっているから、
すごく集団に馴染めている感じがするっていうのがあるじゃないですか。
その人、
常にリーダーやってなきゃならないってことになっちゃうじゃないですか。
リーダーじゃないのをやると、
実は孤独になってしまうみたいな。
そういう話とちょっとこれは似てるなと。
上手くいってるときは、
対象関係で上手く活かせられるんだけど、
孤独みたいになってしまったときに、
不在というものが、
不在の母親がいてくれないから、
その人本当に一人になっちゃうみたいな。
人間はつまり、
ある意味ユニコット流に言うと、
きっと僕はこれはそうなんじゃないかと思ってるんですけど、
本当は一人にならないっていう。
あの、あれですよ。
孤立みたいなのはまた別なんですよね。
人にはシークレットな部分がある。
人から見ると常に自分は他者であるっていうのはあると思うんですが、
そうじゃなくて、
本当の意味では、
人間は一人にならないんだと。
一人でいるってときは、
二人でいるんだって話になってる感じがするんですよね。