00:05
おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
やーな天気ですね。
関東圏だけかもわからないんですけど、これが私の一番苦手な冬の天気ですね。
イリュージョンですけどね、意味づけかな。
とにかく、この種の天気がイメージとしてダメで、冬が好きになれないという。
もともと雪国に育ち…育ちではないな。でも雪国で暮らしていたこともあるし、雪景色そのものは好きなので、
必ずしも冬が苦手というのも当たらないんですけど、関東の冬はイマイチ厳しいですね。
空風ばっか吹いていたイメージも強かったです、小学校時代。
ぶっちゃけ相談は集まってまいりまして、大変ありがとうございます。
年内中に500いくかなと思ってたけど、多分年内中500は厳しいだろうと。
年度内中に500ならあるいはあるかなというのが今、現実的なラインかなと思ってます。
ぶっちゃけ相談は集まってまいりまして、大変ありがとうございます。
ぶっちゃけ相談で引き続きどんどん送っていただくと大変ありがたいです。
ある程度あっても1回で4回ずつ使っていくんですよね、お答えしていくと。
すぐあっという間に今のストックとか尽きるので、最近いただいているご質問は割とざっくりと送っていただくといいと思うんですね。
1つ、最近運動できません以上みたいなのがあったんですけど、ああいうの私悪くないかなと思ってます。
倉園さんがどうおっしゃるかわかんないですけど、私は個人的にいろいろズバッと聞かれると、それだけでいろいろ考えるところがあっていいかなと思いますので。
何とかしたいと思うことがあったらですね、これ気持ちの問題なんでやっぱり、何とかしたいと思うことがあったら、
ぜひこれはイリュージョンなんでしょうけどみたいなのは別にいいんですよ。
ある意味悩みって全部イリュージョンなんで、イリュージョンだということだけではイリュージョンだとわかっているってことはなくて、悩んでいる段階でイリュージョンだとわからなくなっていて、なぜわからなくなっているかがポイントです。
私もよく思うんですけれども、今日の話はそれこそイリュージョンですけど、私の中では難しくて、難しいというのは高度な話ではないんですが、話すのが難しい。
うまく考え抜けていないっていうんですね、こういうのはきっと。
03:02
自分の中ではこうであろうみたいなのがあるんだけど、考え抜けていないことがいろいろありまして、
最近タスクシュートクラウドを使っていて、使っていて思いついたというよりは、使うと宣言していろいろツイートをいただいて、いろんなことを考えるようになったんですけれども、
でも昔から考えていたようなことを改めて考え直させられているなという感じでもあります。
ぶっちゃけ相談を送っていただけるとありがたいということから、本題に移りますと、
昨日の話の続きみたいになりますけれども、タスクマではリピートを呼び出すという表現をしていたとツイートされたんですね。
私は呼び出すということ以外の表現が全く思いつかないくらい呼び出すのが自明だと思っちゃってたんで、
呼び出すというのはつまりこういうことなんですよ。
電話とかが良くて、さてこれから電話するかというときに、電話を取るときに事前に電話がこの時間にかかってくるということは絶対に予想できないじゃないですか。
こういうときに呼び出すんですよ。リピートタスクに電話というのがあるので、そいつをこれからやるぞということにすると。
こういうふうにある種の素材というのかな、素材じゃ伝わらないですかね、パーツ?
とにかくタスクリストがリピートというところにストックされているイメージなんですね。
そいつを呼び出してくるというのがタスクマの私の基本形なんですよ。
最初から置いてあるのもありますよ、今日のリストとして。
でもそれは最初から今日のリストにあるかないかの違いであって、私にとってはどっちにしても呼び出す感じなんですね。
というのはつまり、やる直前に何をするかはタスクマには従わないということなんですよ。
ここのところが私のタスクシュートユーザーとしてはユニークなところだと思うんだけれども、
従っちゃっているときもありますよ。そのまま選んでいるということはもちろんあります。
それがある意味、理想的だと思っているんだけど、
特に何がなくても先にあるリストが全部白紙であっても構わないから、私が決めると。
なければ呼び出せないから新しく作るし、でも大抵あるから呼び出すと。
呼び出すということはつまり、過去に似たようなことをやったんですよね。
電話っていうのは全く同じ電話をもう一回やるってことはないわけだから、
電話をするという形というのか柄というのか川というのか卵の殻みたいなのが伝わりにくいと思うんですよ。
06:08
そういう電話という殻があって中身は新しいんですよ。
でも外身は全く同じじゃないんだけど、それに外身なんてないんですけど、
そういう入れ物みたいなものを呼び出してきて新しい中身を詰めていくっていう、
あえて無理やり説明すればこういう感じなんですね。
それをするのがタスクシュートなんですね、僕の中では。
最もコアには終了予定時刻とかあるし、見積もり時間とかもあるんだけど、
それは相当外側の、最初はそういうのも大事でしたけれども、
やり込んでいくうちに今ピックアップするものを感覚的に出し、状況的に出し、
意思的に決めて、それを以前にやったことがあるならば、
似たようなことをやったことがあるならばピックアップし、ないならば作る。
これは厳密に言った場合の話で、当然そんなことを朝起きてから夜寝るまで
いちいち言ってる、やってるわけじゃないんですけど、
気が付けばそれをやるようにしているわけです。
どうしてなのかと、その前にですね、なぜ私がこれとタスクシュートクラウドの違いを見るかというと、
タスクシュートクラウドはピシッと事前にレールが決まってるんですよ。
僕はこのレールを基本的には見ないんですね。
見ちゃうけど、目に入っちゃいますけど、チラッと見るだけなんですよ。
決してこれに沿っていこうという気はないんですね。
これ沿っていくべきだというタスクシュートの言い方もあります。
それはそれで僕は、それはそれなんです。
タスクシュートはツールなんで、どういう使い方をしてもいいはずで、
私はあくまでも自分が一番新しいことをする最前線に立っていると思うので、
その前にレールがあるというのは認められない。
だからその前にあるレールというのは、あくまでもレールっぽく見えている何かであって、
レールであるはずはないので、その上を走る気はないんです。
たまたまその上にいるということは当然あります。
ただですね、どっちにしてもここも受け入れられていないというか納得されているとは思いませんが、
どっちやっても大して違いはないとも思っています。
これはグッドワイブス的に言ってもこの2つは違うし、
例えば青橋哲夫さんに寄せてもおそらく違うんだけど、
僕にとってはこの2つは大した違いはない。
結局レールを引こうと引くまいと、おそらく似たような結果になります。
ここに2つの意味があるんですよ。
ここが難しいとさっき言ったところなんだけど、
2つの意味があって、
どうせ私のような人間がやることはレールを引いても引かなくてもおそらく近いことをやるだろうと。
09:04
例えばどうせ私のような人間は、ここには最高の自分のようなグッドワイブスというところの
本当に本質的な私であるならば、朝6時には起きないかもしれないなと思っているところがあるんですよ。
それは最高の、価値マックスの自分だけど、また価値マックスの行動を、
これは原理上矛盾しているんですが、
でも本当に直感だけで決めたときにこれをするかなという疑問は微かに抱いています。
これをそう言うとまた誤解が生じるんですけど、
これを罪とみなすべきだと本当は思っています。
表現として罪とはつまりこういうことだと思っています。
ただこれはしょうがないんでね。
だから罪は許すしかないんですけど、
罰はこれについてあるのかないのかよくわからないです。
とにかく6時に起きるんですよ。
どうせ私のような人間がやることはレールを引いても引かなくてもおそらく近いことをやるだろうと。
レールが引いてあって6時に起きるべしと書いてあってもなくてもおそらく6時に起きるんですよ。
ということがどっちにしてもあまり違いはないでしょうという話なんですね。
レールがあると安心だという話は青橋さんをはじめとし、
富井さんですね、タスクマのいろんな方がおっしゃるんですが、
私はそこに安心感を見なくて大丈夫というのかな。
これがグッドバイブスなんですね。
私がグッドバイブスで学んだことであり、
タスクシュートに適応しようとある意味やっきになっている。
やっきにはなっていないけど必死になっている。
必死にもなっていないけどやっていることなんです。
つまりどっちだって同じならばレールがなくても安心できるはずなんですよ。
ここが大事なんですね。
レールがあると安心ですということは
踏み外した現実より乗っている現実のほうがベターですということになりますよね。
僕はそれは認められない。
現実に良し悪しはないからレールに乗っていても乗っていなくても良し悪しはない。
あるいは価値が高い低いも一切ない。
ということは乗っている方が安心だとする根拠がなくなるという話なんですよ。
でもどうせ私のような人間は大した違いはないだろうと。
6時55分に娘を起こす関係を考えれば
私のような人間であれば
6時に起きて散歩をして朝の準備をして
すっかり準備ができてから娘を起こす。
そうしたいからね。
これが価値マックスの自分ならそうするかというと
寝てるかもしれないなと思うんですよ。
私はこういうところはすごく偽りの自分だなって思います。
これはグッドワイルスという偽りの自分より
12:01
ちょっとウィニコットの方により厳密に近づいた
こういう言い方をしても誤解を招くだけだと思うんですけど
僕の中で正直なところはこうなんですね。
グッドワイルスという偽りの自分と
ウィニコットのフォルスセルフは
非常に似たところもあるんだけど
違うところもきっとあって
それは言ってる人が違いますからね。
フォルスというのは英語ですしね。
私はフォルスセルフだと思ってます。
これは社会適応上作り上げられたところが
多分にある私のやってることであって
グッドワイルスで倉園さんが言うところの
MEのそういう問い合わせとはあまり関係がない。
でもおそらく問い合わせたところで
そう違いはないだろうと
少なくとも私はこの行動に関しては
グッドワイルスより前から
おそらくタスクシュートがなくても
この行動だったと思うんですね。
それは本質じゃないかと言われるかもしれませんが
本質でないことは僕がよく知ってるんです。
これは非常に私が社会的かつ肉体的に
やっていることであって
あらゆる意味で妥協を背したりした場合
なんて言うんですかね。
妥協の産物的な感覚を中心にして
行動していることなんですね。
これはでもほとんどブレがない行動について
言っていることであって
もっと遥かにブレる行動であれば
もっと見えやすくなってくるでしょうけど
私はそこら辺については
例えばこの10時半ぐらいから
書斎に向かうんですけど
そこから先はレール打つ本が本当にないんですよ。
タスクシューブにレールをピチッと引いて
その通りにやるなどということは
その仕事を本格的にやるあたりから
一切やっていないんですね。
完全に出たたこ勝負にしているんです。
このほうがパフォーマンスが上がる。
この点についてはグッドバイブスが
僕は正しいと思っているんですね。
でもですね、グッドバイブスというのは
いきなりできる人もいると思うんだけど
私にはいきなりできるような感じのことではない。
やっぱり僕はすごくフォールスセルフが強いんですよ。
ちっちゃい頃からこれを意識的に育て上げてきたところがあるので
どうしてもフォールスセルフが強い。
フォールスセルフが強くていいと思っている分ではないですよ。
ただこれを手放すことについて
手放すことはないんだよね。
これを縮小させていくことに対する抵抗はかなり強いので
しかも何も問題が起きないときは
どっちにしても同じ結果になりやすいので
いざという時困るという面はあるんですよね。
この偽りの事故というものに
かなりまだよっかかって生きているところがあるわけですね。
そういう人間はですね、
仕事の時間だからといって
ここ逆に聞こえると思うんですけどね。
でも仕事の時間だからといって
フォールスセルフをいきなり手放せないんですよ。
15:02
仕事の時間の方が
6時55分のことよりも手放しやすいんです。
私はそう思っているんですね。
なぜならば仕事というのは抽象度が高いのでね。
これ以上の説明はちょっと難しいのでやめておきますが
朝起きて娘を起こすまでに食事の支度を整えるというのは
ものすごく物理的で具体的なので
ここは動かしにくいところなんですね。
ところが仕事というのは抽象度が
私のような仕事は特に抽象度がとても高いので
当然揺れが大きいんですね。
この揺れの大きいところに
レールを引く気には僕はならないんです。
もともとあんまりタスクシュートをやっているときでも
そうじゃなかったんですよ。
ここからがややこしいんですけれども
本当にややこしいなと自分も思うんですが
タスクシュートというのはですね
精神分析もグッドワイプスもこの場合も同じなんですが
ナルシシズムからいかに脱逆するかというのは
どういう方法論なんですね。
突き詰めて言いますと。
ナルシシズムというのはつまり主観の塊です。
母子一体とかマザーチャイルドのユニットとか
あれはすべてマザーインファントかな。
主観の塊です。
子供の目から見れば母親の子宮にいるときは
母親の存在は見えませんし分からないし意識もされません。
多分生まれて直後もそうでしょう。
つまり自分はいないし
なんですなら自分しかいないから
主観の中に自分しかいないということは自分はいないんです。
母親は世界だから。世界の一部だから。
当然母親もいません。
世界というのは自分のことだから
そこに何の亀裂もないかどうかわからないですけど
ほぼ一体だと思いますね。
少なくとも自己などという自分などという領域はないですよね。
この一体感の中で主観丸出しなわけです。
これがナルシシズムの原型で
甘えというほうがはるかに日本人には通りがいいよねということで
ドイタキオさんは甘えとこれを呼んだんですが
なぜか西洋にはそれに相当する言葉がないそうなんで
一時ナルシシズムという表現になっちゃったんですね。
一時ナルシシズムは病気じゃないんですよ。
誰だって最初はそうなんですし
これがないと困るんですよね。
結局私たちはナルシシズムゼロにはほぼできない。
ブッダが悟ったとかだとそうじゃなくなるのかもしれないんですが
普通の主観の世界では無理ですよね。
あれは確か暴力から逃れるための15章にあった。
タスクシュートから離れてるようなんですけど
僕タスクシュートは今意識できてるんですよ。
高速道路で自分を抜いていく車は
みんな頭が狂ってると思っていて
自分が抜いていく相手は
みんなバカだと思ってるっていう表現があるんですけど
あれがナルシシズムってものだし
私たちはだいたいそうじゃないですか。
18:04
走行レーンを80キロで走ってると
こいつらアホだなと思ってビューンて抜いていくじゃないですか。
でもその自分をビューンて抜いていく奴は
あいつはスピード強だなって思うじゃないですか。
すっごくこの観点は主観的ですよね。
俺は絶対正しく他はみんなバカっていう
そういうことですよね、これは。
これとよく似た現象としてコロナになると
コロナが今流行って
ちょっと前の状態だとですね
自分より家から出られない人は
みんな臆病者だと思ってるし
自分よりはっちゃけてる人たちは
みんな無神経で
警戒心が足りないと思って
要するに自分は正しいわけですよ。
自分が絶対的な基準なんですね。
これをナルシシズムと言わないなら
何をナルシシズムと言うんだろうっていうぐらい
これはナルシスティックだと思うし
全員そうだと思うんですね、私は。
こうじゃない人は世の中にいない気がするんですよ。
先日、あれは何かの記事でした。
もう忘れましたけど
これからは高齢化社会を迎えるにあたって
レジで長蛇の列ができてるけど
後ろに気づかずに
一生懸命何かこうやってるお年寄りがいると
こういうふうにみんなの迷惑というものを
帰り見るのも難しい時代になっていくんですよ。
みんなが迷惑してるって何でわかるんですかね。
これがナルシシズムってもんだと僕は思うんですよね。
まるで自分は歳を取らないみたいじゃないですか。
これもさっきのと同じだと思うんですよ。
自分が抜いていく車はみんなバカなんですよ。
自分を抜いていく車は発狂してるんですよ。
そういうふうになってるから
自分のようにコンビニを使うのが100%正しくて
それよりもたもたしてるやつは
要するに自分のコンビニで
迷惑をかけてるし
それより急ごうとしてるやつは
せっかちなんですよ。
いつも僕らはこうなんですね。
ここから少しでも脱逆したいと思ったら
カウンセリングの世界には
精神分析というのがあるし
ウッドバイブスもそうだし
タスクシュートはライフハックの界隈では
僕は一番これに近づけていると思っているんですよ。
そのために僕はタスクシュートを
ナルシシズムを脱するために使うので
ナルシシズムを脱することが少しかでもできると
時間の使い方は抜群にうまくなるぐらい
僕らはナルシシズムどっぷりなんですね。
ここを指摘すると角が立つから
タスクシュートというものを強調するときには
タスクシュートのツールとしての利便性だけを
強調する形に
今まではトカくなりやすかったんですよ。
私にとっても。
ここを言うということはつまり
お前らはナルシシズムの世界に生きているぞって
言っちゃっているのと同じになってしまうので
そう直接言わないにしても
ここをほのめかされるとカチンと来るはずなんですね。
だからそれはリスクがあるので
タスクシュートを広めるにあたってそんなことは言わないと。
なぜナルシシズムから逃れるかというと
21:00
僕らは時間の観念もさっき言ったみたいに
タスクシュートを広めるにあたって
抜いていく車と抜かれる車の関係で
常に自分が基準ですから
自分の感覚というものに対するある意味
絶対的な確信を抱いているわけですね。
ということは例えば
6ヶ月でこの本を書けるなと思ったら書けるんですよ。
それはナルシシズムの世界では書けるんですよ。
100%いけるわけです。
ここに計画というものの危うさがあるわけですね。
だから私はタスクシュートと計画はあってないと
常に思っているわけです。
自分の前にリストを置いちゃうから
計画っぽく見えちゃうし
あれをどうにかできないかなと
例えば薄く表示するとか
何かできないかなと時々思っていたりするんだけど
僕は見ないことにしているんです。原則的には。
つまりこの計画というものが目に見えている計画
タスクシュートではない場合は
特にガントチャードとかGTDでやるマインドマップとか
ああいうものは自分の主観から飛び出してきたものじゃないですか。
それを世界に押し付けようとすると
つまり高速道路の人になっちゃうわけですよ。
あるいはコロナで外に出ない奴はみんな超臆病者だし
外に出てる奴はみんなバカだみたいになっちゃうわけですよ。
なっちゃうというか
これ自体は非難の対象にはならないと思うんですよね。
全員同じなんで。
どんなに家から出ない人でも
多分感じていることは一緒なんですよ。
自分が世界で一番臆病だと思っているわけでは決してないと思うんですね。
自分は世界の中心なんです。
だって私たちの感覚でそうできてますからね。
これが一時ナルシシズムですし
つまり私とは世界であり、世界とは私なんですね。
これは多分私は病理じゃなくて
健全な状態なんだと思うんです。人にとっては。
ただこれを
なんていうんですかね。
塗ったバイオス流に言うと恐れや不安とセットにして
これを目いっぱい前面に出すと
病的な行動にはなっていきます。
おかしな行動ってやつですね。
これを例えば計画というものに投入していくと
これは6ヶ月で終わる。逆算すればこうなる。
全部自分が中心に作り上げた計画なのに
これを世界に押し付けていくわけですね。
その世界の中には自分が含まれるんですよ。
自分にも効率が押し付けられていく。
そうすると
知り滅裂なものが出来上がってるんだけど
これこそが正しくて正義で客観的表であって
この通りにやるのが正しくて
世界はこの通りにやれば素晴らしいものになる。
のに出来ないとどこかに罰を下すしかなくなるという
ここから逃れないと
時間の使い方って絶対うまくはならないはずなんですよ。
時間というのはもし時間というものがこの世のどこかにあるならば
客観的なものなので
自分の都合によって勝手に動かすことは許されていないと思うんですね。
それは地球の高転速度を自分の都合に合わせて変えましょうという話で
24:04
土台無理なわけじゃないですか。
つまりそれが計画というものなんです。
私たちが計画を立てている時というのは
ナルシシズムというものを自分の目に見えるようにして
この通りに行くと素晴らしいのにねっていうことは
つまり世界がみんな私と同じ速度で高速道路で運転したら
素晴らしくなるのにねって言ってるのと
何ら変わらないと思うんですね。
そうするとうまくいかないわけですよ。
現実はそうは絶対にならないから。
なんだけどなぜ現実はそうならないんだろうって
ここで頑張っちゃうというケースがあるんですけど
これほど無理な話はなくて
これをずっとやっていると多分何も仕上がらないまま
ずっと年数を経過させていくという結果になるはずなんですね。
現実と関係ない歩調で生きているので。
だから6ヶ月で終わるとかそういうのはナンセンスだよね。
だから6ヶ月で終わるというのがナルシシズムの世界であって
タスクシュートはそうは絶対言ってくれないはずなんですよね。
そこで無理やりそれをタスクシュートに言わせるということは
これについては意味のない使い方をしちゃうに違いないと思う。
だからそういうことは極力やらない。
極力やらないと僕の感じでは
タスクマのリピートを呼び出すという使い方が一番正しいだろうなと思うので
そうしていたんですよ。
でもツールの特性上それが難しくなったので
極力それに近い。
つまり計画についてはチラッと見るだけにして
計画じゃないんですね。
私の現在の時刻よりも前に描かれている絵については
これはもうほとんど無視することにして
基本的には使い方としてはタスクマの時にやっていたのと
ほぼ同じ使い方でやっていく。
ここでレールに乗っている安心感というものが
レールに乗っていなくても全く同じ安心感が100%常時得られている。
これは私には容易なことなんです。
踏み外すという観点が非常に重要で
そもそもないので。
ここでさっき言った
どうせ私のような人間はって言ったのと
いわゆるもう少し本質的な私に近づいた行動は
おそらく変わっていくんですけれども
そうだとしても結局タスクシュートにその記録を残した場合に
私がやるタスクシュートの使い方と
どうせじゃない私のやるタスクシュートの使い方は
ほぼ一致していくはずだというのが今の結論なんですね。
これはまだそうできたことがあまり多くはないので
結論がないんだけど
いわゆるグッドワイプスというところの意識に近い状態で
四六時中生きることができた時のタスクシュートの使い方は
きっとこうだろうという推定のことに今やっているわけです。
これは多分ですね
27:00
いっぱい誤解を招くような言い方をしたなと思っているんだけど
こういうしか今のところはないんですよ。
だからこういうふうに言っておきましたという感じなんですね。
この何点ですかね
まあもう基本これで結論なんだけれども
だから常に描かれているものに沿っていくっていうのは
つまりはタスクシュート以外のタスク管理で
延々と言われてきたことなんですね。
私がタスクシュートは
マシだと思っているのは
かなりマシだと思っているのは
これをしないからなんです。
このガントチャートを非逆算し
今日やることをリストアップするというのは
一番まずいと僕は
断言しちゃってますけどね
これはポッドキャストだから
一番まずいと僕は思っています。
これは私たちはナルシズムの中に閉じ込める結果になり
現実というものを極力無視しようという
これを人はなぜか意志力と呼ぶんですが
そうじゃないと思うんですね。
意志力というのは。
意志力というのはそういうものではなくて
現実をとことん無視して突っ走ることとは
言わないと思うんですよ。
それだと結局
私は世界の中心ですっていう宣言をするのと
変わらなくなってしまうので
これをやってもうまくいかないのは
自分を無視することになるからだと思うんです。
結局自分というのは
突っ走ろうとしている自分も自分なんだろうけれども
自分というのは現実の存在ですよね。
現実を無視して突っ走ろうとしているのは
自分の肉体ですらないんですよ。
何か自分だと思い込んでいるイリュージョンなんだと思うんです。
こいつの暴走を意志力と呼んで
自分の肉体他
雲も海も空も家もその他の人たちも全てですよ。
無視して最善の結果を得ようとすると
そこには何もなくなっちゃうじゃないですか。
全てが背景ですっていうことは
つまり行った先には何もありませんっていうことになるので
このようなことはできないと思うんですよね。
できるはずがないと思うんです。
これをするために
何を使っても
多分うまくはいかないだろうなと思います。
だからどれくらい自分が世界の中心であるのをやめるかと
でもそれは感覚的には無理なことなので
そうですよね。
私が見ているものは対象ですし
私は見ている主体になっちゃってますよね。
本当はそうじゃないじゃないですか。
例えばここに大橋泰三さんがいれば
彼は私にとっては対象でしかなくなっちゃいますが
彼から見れば私こそ対象でしかないですよね。
これが一応相対というものだと思うし
本当は相対なんだけど
私たちは主観の中にいるから
30:01
なおしても世界の中心にいちゃうんですよね。
それはしょうがないんですが
だからツールの力を借りて
少しここからずらすんだと思うんですよ。
ずれが見えるんですよ。
タスクシュートを使えば。
何かおかしいっていうのが見えてくるんですよ。
確かにこれは50分もあれば終わるはずなのに
気がつくと180分とかになっている。
これがずれなんですよね。
主観の世界ではそういうことは起こらないんですよ。
ちょっと長かったなとかは思いますけども
そういうことは起こらない。
逆もしょっちゅうありますよ。
これは20分はかかるだろうと思ったのに
読んでみると3分とか書いてあったりするのもあるんですよ。
ただ時間に関することだけですけれども
主観どっぷりからは逃れられるんですね。
あとこれは開発者の大橋哲夫さんがよく
大橋哲夫さんがよく言う
順番が違うっていうのも
これも私たちの主観どっぷりでは
気づくことすらないんですね。
こういう話になるとどうしても細かくなってしまうし
それがどうかしましたかって話になりやすいんですけど
私さっき歯を磨いて目高に餌をやって
雨戸を開けて部屋を片付けてからこれをやってるんだけど
この順番が私の頭の中では目高に餌をやってから
歯を磨いてる気になったりするんですね。
こういうことは山のように起こります。
使い始めは特に。
最後まで抜け切らない感じがします。
つまり外から見ている私の動きと
私の穴間の中に動きがあって
外から見ている私の動きと
私の穴間の中でイメージしている私の動きは
一致しないってことですね。
この二つ。
つまり使っている時間の長さがずれていることと
行動の順番に狂いがあること。
狂いというのは別に狂っててはいけないとか
正しい動きがあるって話ではないんです。
ここに正しい動きを持ち込むってのは
僕はまだイリュージョンを付け加えてるだけだと思って
正しい動きがあるというのではなく
私が知っている動きを私はしていないってことが大事なんですよ。
これを理解すれば
時間の使い方は絶対上手くなります。
何かに間に合うとか間に合わないとか
これがどのくらいでできるとかできないとか
あるいはそもそもできるできないという判断は
ことごとく間違っているということが分かるんですよ。
逆にそこにはグッドワイプスみたいですけど
すくいもあって
できないはずだ絶対にって思っていることが
簡単にできたりもするわけです。
これが多分タスクシュートの功用なんですね。
これだけで時間の使い方が上手くなるので
別にレビューとかする必要はないんですよ。私の感じでは。
レビューしないとそれ分からないだろうと思われるかもしれませんが
分かるんです。なぜならば
今からしようとしていることを間違いなく
前々からしようとしていた順番だなと思って見てみると
33:02
そうなっていないからね。
それだけでももう分かるんですよ。
要は
これはグッドワイプス流の言い方になるけど
私たちは夢見ているようなものなんです。
夢見ている人には罪はないんですが
夢見ているということは現実を歩んでいないということだから
現実の時間の使い方が狂っていくのは当然なんですね。
そして狂っていないものとみなしている限りは
絶対にそこは
マッチしていかないわけですよ。
ここをマッチさせようとしているのが時間管理なんだから
マッチさせるためにはつまり夢を見てちゃダメだということなんですね。
ただ完全に目覚めることはできないので
タスクシュートの力を借りて
いくらか目覚めてはまた眠るというのを繰り返すと
気がつけば上手くなっているはずなんです。
もし全然これによって時間の使い方が上手にならないとすると
こうであるべきだったのにこうならなかったという
怒りと自罰を繰り返すだけになっちゃっているだけで
それだったらタスクシュートをやってもやらなくても
全く同じになってしまうと
ただ本当は僕の感じでそんなことをやるのはつらすぎるから
本当はそんなことはいつか人はやめるはずだと思っているんですけど
これがなかなかやまないという方はいらっしゃるんですよね。
1年も2年も使っているのに
延々とこれを絶対計画表のプログラムみたいにしてしまうという
ケースの方はいらっしゃるんだけど
普通そうはならない。
なぜならこれをただ繰り返していると
うつっぽくなっていくはずなので
そうはならないと思うんですよ。
どこかで使うのをやめるか
そうなければマッチさせる方向に向かうと思うんですね。
現実と。
マッチさせることができたりすれば
それがつまり時間を使うのを
自分の思う通りにしていけるという
一つのゴールになるわけです。
もうちょっと僕は行きたいので
Good Vibesで今はやっていると。
つまり現実というものは
表提の対象ではないし
記録の対象でもないので
つまり対象ではないから
対象化しないように気をつけながら
使うということをしていたわけです。
それには残念ながら
タスクマの方が向いてはいます。
多分これは設計思想を反映するんでしょうね。
でもタスクシュートクラウドで
できないはずはないことなので
ちょっと難易度が上がってしまう面もあるんだけれども
でも下がる面もありますからね。
例えば
4,6時中iPhoneを見なくて済むというのは
ある意味下がるので
パソコンの方でもできちゃうというか
パソコンだとより一瞬しか見ないで済む。
一瞬が大事なんですよね。
一瞬だけ見る。
わかりませんけれども
36:01
レーサーとかタコメーターは一瞬で見るみたいな
そういう感じに近いかなと自分は思っています。
4,6時中ずっとタコメーターばっかり見てたら
多分事故ちゃうんで。
タコメーターは見るんですけれども
一瞬だけ見ると
この現在どうかというのが
タスクシュートで分かる部分があるんですよ。
私たちはこの現在どうかというのが
分かっていると思っているのがナンセンスで
現在どうかは分かっているはずないんですよね。
コンビニで長蛇のレスができて
迷惑をしているのに気づかないって言っているその人は
現在どういう状況かが分かっていないはずなんですよ。
全く迷惑だと考えていない人が
そこに何人いるのかってことは
無視しているじゃないですか。
迷惑ってのはその人が作り出した光景ですよね。
つまりその人は現実は無視したわけです。
そういうことは私たちは4,6時中
高速道路とかでもやるし
コロナを見てもやるし
何やっててもやるんですよ。
しょうがないんですよね。
構わないと思うんです。
ただどっぷりのめり込んでい続けては
何かまずいことが起きると
その何かまずいことが起きたときに
気がつければいいんだけど
主観の世界だから
まずいことが起きたときほどむしろ
気づきにくいんですね。
だからフロイトが言った通り
神経症の治療には他人が必要だって言ったし
グッドバイブスでもここで
他人の存在というのを強調するし
タスクシュートというのは
他人じゃないんですけれども
融通が効かないですから
過去の記録ですからね。
ある種のちょっと他人なんですね。
これが私の思うに
自分の思考の結果をそのまま反映したものだと
他人度が弱いと思うんです。
だから他人度の強いものの方が
他人度っておかしいですけどね。
より効果としては大きいんじゃないかなと。
ある意味では時間というものに
そんなに締め切り常に超過しますとか
待ち合わせ場所に絶対間に合いませんというのは
一種神経症的なものを感じるんですね。
そういうものに対する修正ポイントになり得ると
決してこれはですね
発達障害とかADDの人にとっての
そういう病理をケアするためのものでは
全然ないと思うんです。
スタンスシュートはごく普通のものであって
何かのケアのためのものではないと思うんですね。
だから神経症であることが必須なわけでは
全然ないと思うんだけれども
精神分析科の人が誰か言ってたんだよね。
精神分析というのは
普通の人がやっても何か必ずいいことがあるんだけど
どんないいことがあるかについては
何にも言うことができないのが弱いところだと。
まあまあそういうようなものだと思いますね。
ご視聴ありがとうございました。