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2023-06-28 43:20

想定と現実は常にズレている【GMV 807】

ギャップを当然とみなす他はない

サマリー

手帳編とタスクシュートについてのズレ、他人とのズレについての考察がありました。赤ちゃんと母親の関係性や自己形成についても触れられ、自己存在についての問題があることが指摘されました。

手帳編とタスクシュート
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
6月も終わりかけてますね。6月28日水曜日、7時29分です。
今週の土曜日に何度も告知して申し訳ないところもありますが、
もっと楽に仕事をするTasksheet Seminarというのをやります。
これが割と好評なので、もし好評だったらシリーズ化していくことも考えようかなと。
まだ1回もやってないからシリーズ化も何もないんですが、
ちょっと考え始めてはいます。
多分、今100日チャレンジでは先送りゼロをテーマにしていて、
手帳編でいろんな方の手帳を配読させていただいていて、
これが面白いんですよね。
私は手帳を使わなくなって本当に久しいので、
先日試してみたんですよ、Tasksheet手帳と。
でも続かないんですよね。
手で書こうという気になった途端に、何か気力が今のところしぼむんで、
イリュージョンなんですけど、本当にね。
でもしぼむんで、デジタルの楽に僕は非常によっかかってますから、
そんなに簡単に手書きなんかには戻れないなっていうね。
これ後で検索できないなとか、検索なんかほとんどしないんですけど、
ここ自動入力できないのかとかね。
いちいちそういうことを考えてはなえるっていう、文字通りなえるって感じなんですよね。
ちょっとこれは、もちろんやろうと思えばできますよ。
やろうと思えばできるんだけど、やろうと思ってないな俺っていうのがちょっとありましてね。
これは手帳編は人にのをとりあえずまず見るってところにしようっていうね。
しかも効果が上がっているっていうふうにおっしゃって、
大変ありがたいというか嬉しいことに効果が上がってるって方の数が妙に多いんですよね。
タスクシュートに全然引けを取らないじゃんっていう。
タスクシュートなんですけどあれは。
とはいえ今までデジタルでやるのが常識だったタスクシュートに全然引け取らないじゃんというね。
これはもう非常に僕からすると新しい発見としか言いようがなくて、
やってみたことがないものは分かんないですよね、はっきり言って。
予測してみたところ大して意味ないし。
だからやっぱりクラゾノさんのじゃないですけど、
現実を見ないと何かを予測するって意味のないことだなと予測してないんですけど、
実に想像できないことが現実には起きると。
最近のマグネルの乱とかも全然私とかの想像できる関係とかを大幅に乗り越えていってるんで、
現実って本当にすごいもんだなと関係ないですけど思っております。
だからその辺の知識も含めて今後そういったタスクシュートにまつわるお話をしながら、
先送りにまつわるお話をしながら、
それでさらに自分のメンタルハックみたいな話をする回っていうのが月に1回か、
1ヶ月半に1回ぐらいのペースでおいおいやっていくぐらいがいいのかなというふうに。
これをメインの活動にするとかは無理だと思うんですよ、現状。
このすごく好評だって私言いましたけど、それでやっと2桁乗るかなみたいな、その勢いなんで。
私の今の単独でいろんなことをやって、それをすぐにメインのお仕事にするぞっていうわけにはいかないっていうのはもう重々理解してきたんですね。
その流れの中で何かを模索していくというのが現状、いいのではないかと。
幸いですね、四方八方からの仕事をかき集めるようにして、
そんなにコロナ前に比べてもですね、一番売れてた頃に比べればもはやその頃は望むべくもないと思うんですけど、
でもこれはキンキンすぐに息も絶え絶えになるっていうレベルではおかげさまでですね、ならないなっていう感じで。
これも聞いてくださる方とかがいろいろ参画されたり読んだりしてくださってるおかげなんで、
本当に感謝の言葉もないほどなんですけど、
ジェームス・ザキさんにもですね、足を向けて寝られないところじゃなくて、
足を向けたら足切り落とすしかないなぐらいな感じでですね、
私はもう人に支えてもらわないと。
生きていくのも困難だっていう状況は続いているにもかかわらず、
そんなことを言いながら4,5年はこれでやってきているっていうところが、
現実ってやっぱり僕の想像とは関係ないとは言わないけど、
やっぱり僕の想像というのをする意味はあんまりないなと思うんです。
とりあえず1日ね、よろしければオンラインでご参加いただければ、
手帳の話なんかも、私手帳は多分この日は語れるほどの、
まだ何か経験を得、考えまとまらないと思うんですけれども、
それについてのお話も少しはできればいいかなと思っています。
合わせて17日、海の日、7月の17日の海の日に、
倉園圭祖さんと上田橋の駅からのところで、
オフラインですね、こちらはオンラインはないと思います。
トーク、あれぶっちゃけ相談のリアル版といったことになると思うんですけれども、
お菓子ついたりするのでですね、書きやすいなっているかと思いますので、
こちらもよろしければチェックして開けておいていただければ、
当日来ていただければですね、いろんなお話ができるのではないかと思います。
そうですね、ちょっと現実と想像の乖離みたいな話の延長線的なところで、
結局僕らって想定しちゃうじゃないですか。
人の顔色をうかがう
想定しないという心理的訓練みたいな、
禅もありますけど、瞑想法みたいなものはともかく、
ついつい現実というものはこうであってほしいというか、
こうであるだろうぐらいなんです。
僕それのやっぱり一番気づくのは、地震が来た時なんですよ。
地震が来た時にあって思うのは、来ないという想定をしちゃってるからだと思うんですね。
これを想定という必要はないんでしょうし厳密には。
意識的に想定は全くしてないにせよ。
でもびっくりするということはやはり、
現実というものは私の心にあるものではないよっていうね、
ギャップがそこにあるわけですよね。
このギャップが言うならば、グッドバイブス風に言うならば、
罪悪だという風になりやすいんですよ。
地震は罪悪だという人はあんまりいないかもしれませんけど、
何しろここにズレが起きると、人は怒りを覚えたり悲しみを感じたりすると。
聞いてないよっていう言葉が一時流行りましたけど、聞いてないわけですよ。
なぜなら事前に知らせるとは限らないですから。
地震ってまさにそうですよね。
だから早期警戒システムみたいなものが必要だって人は常に思ってるんだけど、
そうはいかないんですよね。
だって散々私もこの番組でも話しましたけど、
妻が怒り出す早期警戒システムとか、
私はそれを構築しようと努力して、
実に虚しい無謀な時間を長々と過ごしたわけですよ。
結局その挙句に私が陥ったのは、
たぶん乖離性のヒステリー的な何かね。
昔の言葉で言うと。
今で言うともっと単純な言葉に直されて、
心身傷的な、心身傷の美人魔神が全身に出るっていう、
そういう結末を迎えて、
僕はもうこの路線は二度とやらないぞっていう、
あれをもう一回やる奴は流石にアホだろうと思っちゃうんで。
早期警戒システムを作ろうとした挙句。
自分の体が早期警戒システムみたいになっちゃってですね。
本当に嫌なもんなんですよ、あれは。
だからこれとタスクシュートは実は関係ないですしね。
妻を怒らせないためのシステムがタスクシュートではないので、
全くそういうもんではありませんから。
どこにもそんなことは書いてないですし、
なぜあれができると思っちゃったのかがわからないんですけれども、
唱えてるわけじゃないんだな、あんなものは。
ってことですね。
とはいえズレはあり、
しかも僕らはズレからネガティブな気持ちを抱くこともある。
そしてこのズレなんだけど、
ズレのまずですね、
ズレとは何なんだろうっていうことを最近考えたんですよ。
昨日ちょうどですね、セッションがあったときも、
まさにこのズレの大きなタイプの人との関わりっていうところから、
ズレについて考えたんですね。
で、パッとやっぱり僕が考えつくのが、
自分の書いた本のタイトルなんですよ。
人の顔色をうかがうってですね。
なんで顔色をうかがうのか。
ズレが怖いからですよね。
その人の今の機嫌、機嫌ですよねあれ。
不機嫌度っていうのは。
不機嫌の程度はどのくらいなんだろうっていうのを、
それこそ早期警戒しておきたいわけですよ。
多分その人が怖いから、その人に怒り出されるとか、
その人が逆情する、その人がキレるっていうことが、
まずそういうふうに思ってるということはですね、
やっぱその人は何かしら、
それまでの人生で、
そういう影響を与えてきたというか、
与えられてきたんでしょうね。
こんなにクドクド言わなくても、
大体お母さんの顔色をうかがう子供って考えてみれば、
そこで何を警戒しているのかは一目瞭然。
お母さんの前でしでかして怒られないこと。
しでかさなくても怒るお母さんだった場合も、
これは予兆を全て見抜くみたいなことを、
子供はやり出すわけです。
このように育った子が、
最近よく使われる言葉で言うと、
ヤングケアラーみたいな子であったり、
もうだいぶ進んでしまうと統合失調っぽくなったり、
抑鬱的にはなるよねっていうところなんですね。
これはズレがあるわけですよ。
結局ズレを恐れている。
突き詰めて言うと何と何のズレだと思うと、
例えば最近読んだヤングケアラーさんの漫画で、
そうだなと思ったのは、
そういうシーンはなかったんですけど、
例えば今寒いからといって、
長袖の服を着るとお母さんが逆情するんじゃないだろうか、
ってことを気にしなければいけないような過程であるわけですね。
そういうご家庭においては、
長袖の服をなぜ着たいのかってまず考える必要があると思うんですね。
残念ながら子供には考えられないけれども、
もちろん考える必要はあると僕は思うんですよ。
自我と他人とのズレ
それは寒いからですね。
寒いからってどういうことかっていうと、私事情ですよね。
私の欲求ですよね。あったかい服を着たいと。
だけど母親は何らかの理由で、
もうほとんど理由わかんないけど、
例えば5月は長袖を着ちゃダメみたいなね、
そういう難しいお母さんの性格だった場合、
お母さんの欲求ってものが、
そこに非常に前面に出てくるわけですよね。
もう圧倒してくるわけですよ。
スターリンみたいなものですよね。
お家にスターリンがいるみたいなものなんですよ。
そうすると何が起きるかというと、
私の欲求、というか私という人間のありようと、
お母さんという人のありようが、
噛み合わないわけですね。
この種のズレがあって初めてでも、
私たちは自分ってものに気づけるはずなんですよ。
この話はニードとニーズみたいな話でもいいんですけれども、
もっと今日はズレってアプローチでいきたいわけですね、私は。
ニードとニーズでも同じような話になるんですよね。
万能空想って話をしてもいいんだけど。
つまり気づかないってことがナルシシズムであるならば、
気づかないってことがナルシシズムであるってことは、
ナルシシズムってあくまでも私の心の世界でしかないわけですね。
現実というものは非常に環境としての母親っていうんですかね。
まあ機能してれば何にも気づかないように済むんですけど、
では自我ってものは出てこないわけですね。
で、これでは生きていくのは無理なんですよ、人間社会。
だから自我ってものはどうしても出てこなきゃいけない。
で、自我ってものはどうして出てくるかというと、
実は他人とズレてるから現れるものなんですね。
他人というものは私というものではないんだってことに、
人は子供ですけど、どこかで気づくんですよね。
お母さんの望みと私の願望というのは異なってるんだということに気づくんですよ。
当たり前だと思われるかもしれませんが、
お母さんとの関係の発見
赤ちゃんが最初にそれに気づく理由は別にないわけですよ。
お母さんと自分はもともと一体だったんだ。
事実、物理的にも一体だった。
その後出てきたけど、
その子だってずっとお母さんと一体的に行動してるじゃないですか。
だから、お母さんと私は別の存在なんだなんて気づくべき理由はどこにもないんですが、
お母さんがそういう非常に厳しい人でなくても、
いずれは気づくよね。
やっぱり、私の望みとお母さんの望みはどうやら食い違ってるらしいと。
ウェリー・ゴッドが非常に鋭かったのは、
それはトラウマだって言ったところだと思うんですよ。
これをトラウマだというんだっていうような、
これを侵襲というんだと。
これがつまりトラウマになりうるんだって言ったのは、
僕は非常に、やっぱり彼はよくよくそこのところを考えてきたんだと思うんですね。
で、これが非常に厳しいさっきみたいなお母さんの場合は、
気づきまくりになってしまいますよね。
お母さんと私はずれてる、お母さんと私はずれてると。
これが顔色を伺うってことの原理だと思うんですよ。
で、こういうことがずっと繰り返されていた子供はいずれ何かを諦めますよね。
それは自分というものを諦めちゃうんですよ。
まず間違いなく、ヤングケアラーによく見られる一つの現象というのが、
たぶん、私がそのコミックを読んだ限り、
自分ってものをやっぱりいかに諦めるかの努力があまりにも早い。
事実上、小学校低学年より前から自分をもう諦める努力が始まってしまっていて、
その後の小学生、中学生でなっていくにつれて、
どんどんどんどん自分を諦めていくという過程が進行していく。
つまり、お母さんと自分の乖離ってものが、ずれってものが、
我々のいわば健全な自我には必須なんだけど、
自我の形成とギャップ
このずれがあまりにも絶え間ないために、
そして常にお母さんが優先されるだろう、得ないために、
お母さんの方が強いからね、お母さんが強い。
圧倒してくるので、これを圧倒と精神分析でよく書いてますが、
まさに圧倒という感じなんですよね。
お母さんはなんでそう言ってるのかさっぱりわかんないんだけど、
とにかく常にずれてるんですよ。
なかなかですね、あれを、
私、この年になってもあれを放送来たか放送来たかで、
ウェットワイブス流にやっていけるかというと、
かなりの修行になっちゃうなって感じがするんですね。
あれを幼い子にやれって言っても、それは無理ってものなんですよね。
放送来たかとか言ってる場合ではない感じがするので、
やっぱり自分がなくなってってしまう。
というか、その前に自分が気づかれないので、
自分を最終的には構築しきれないので、
自分を構築しきれないというのはどういうことかと言いますと、
自分のニードを自分でニーズに変えられるようにならないと言ってもいいと思うんですね。
この番組を聞いている方にはですね。
自分のニードを自分のニーズに変えられないというのは、
例えば寒いなと気づいて、
この寒いなと気づくっていうのがニーズなんですけど、
最初に感じるのはうんうんうんって感じなんだと思うんですよ。
これがニードですね。
なんか必要だぞ、自分に。
長袖を脱したやつを出してくるというのがニーズですね。
長袖を自分で着るようになるってことが、
自我の形成っていうのがかなり基本的な機能だと思うんですね。
これができなくなってしまう。
なぜならば、お母さんの要求が優先されてくるので、
いや6月だから長袖は着るなっていう。
それが優先されてしまうと、
私が長袖を着たいという欲求やそのような認識を抱くということの意味がなくなってしまうので、
自分ってものがなくなってしまいます。
自分ってものがなくなってしまいます。
そして自分ってものがないという状態は、
そうして大きくなると何が起きるかというとですね、
我々も怒るんですよ。
この番組では散々言ってますが、
我々も頻繁に自分の心の平安というか安定というものを崩れることが多いので、
そういう時は我々にも同じことが起きますが、
つまりイライラするんですよ。
自分がなくなるということが。
自分がなくなってしまうと、
今のようなニードがニーズに変換されなくなってしまう。
そうするとですね、
抑圧的になるというのも非常によくあることだと思うんですけど、
その前に多分、
多くのケースでしょっちゅうイライラしなければならなくなると思うんですね。
どうしてかというと、
なぜ寒いんだということになるからなんですよ。
なぜ寒いんだということになるからなんですよ。
なぜ寒いんだということになるからなんですよ。
なぜ寒いんだということになるからなんですよ。
寒ければ暖かくすればいいではないかっていうのは、
自我がある人の発想なんですよ。
つまり、自分のニードというものを認識し、
それを例えば暖房をつけるとか、
暖かい格好をするとか、
暖かいものを飲むといったものはすべて、
自我の機能なんですね、これは。
そうですよね。
この寒いという状態を引き取って、
自分の心の中に入れて、
そこでちょっと加工しないといけませんよね。
自分が不愉快だと直ちに暖房をつけるってのはおかしいですよね。
もしかして暑いのかもしれないじゃないですか。
我々はいちいちそんなことを考えていないと思ってますが、
それは自我がちゃんと機能しているから、
そういう言ってみれば、
現実と自分の間に発生してしまったズレに対して、
このズレを補正するまでの間の、
その状態を一旦認識して、
解釈をして、
自分に適切な答えを出すための、
時間と余裕みたいなものがいるわけですよ。
いろんな言い方があるんですよ、これについては。
心のキャパシティとか、
大体三次元的なものが出てくるんですよ、面白いことに。
以前、クラウドの経済学は、
これをスペースみたいな言い方をされていた気がするんですけど、
やっぱり空間が出てくるんですよね。
多分人はこれを空間的に認識するというふうに、
なんとなくそういう脳の働きがあるんでしょうね。
なんかこれは三次元的に出てくるんですよ。
心の要石と言ってみたり、
Beyondではコンテナと言ってみたり、
いずれも箱っぽいものが出てくるんですよね。
とにかくそこに引き、
何て言うんですかね、
引き取って何かしないといけないわけですよ。
ニード、ニーズに変えるなり。
とにかく何かしないといけないわけですよ。
そこに引き取るってことをまずしないと、
引き取る時間が全然ないと何が起きるか。
つまり引き取るスペースが全くそこにないとですね、
回避弾って終わってしまうんですよ。
自分の心の中にそれを取り込む要石がないと、
不快な原因は外にしかないくなっちゃうんですよ。
その外にというのは例えば、
なぜ寒いんだ、みたいなね。
なぜ6月なのに寒いんだ、みたいな。
腹が立つ。
そういうようなことが起こるわけですね。
僕らも余裕を失うとそうなるんだけど、
これがずっと起きるわけですよ。
だからよく人のせいにするって言われてしまうんだけど、
自己のニーズと不快感
そういうわけではないというか、
それはしょうがないんですね。
自分のせいにするための装置がないんですよ。
心の中に。
極めて極端な場合はですけどね。
それというのも、お母さんの優先、
お母さんの欲求を入れる、
お母さんの欲求を入れるってずっとやってきたから、
自分の欲求というものを形成する機能を
最終的には用えてないということになるわけです。
用いたんだけど途中で壊れちゃったというケースもあったりして、
様々なんだけど、いずれにしてもこの自我機能というものが
機能してくれないんですよ。
そうすると、不愉快になれば、
大概の場合、特に今の日本のような社会で生きている人は、
なんとかそれをする手段というものが出てくるはずなんだ。
そういう発想がないわけですね。
手段を出せば、
自分の欲求を自分で満たせるんだよという
その発想がないために、
なぜああいう不快なものがここにあるんだ。
なぜ夏は暑いんだろう。
どうして冬は寒いんだろうということになってしまって、
誰かが何かを言ってくるというのを聞いた時にも、
例えばそれを一旦引き取って、
この人は私に対して不愉快なことを言ってくるけれども、
もしかすると、例えばですね、
イライラしてやつ当たりしたいのかもしれないというためには、
そういう答えを出すためには、
ある程度ボックスに入れてですね、
ここで検討する、吟味するということをしなきゃいけないんだけど、
そういう箱がないので、
こいつは不愉快なことを言っている。
極めて不愉快な人間だという話になっちゃうんですよ。
だからここから直ちに退去するか、
そうでなければものすごく強く威嚇するかという、
どっちかぐらいな、
そういうような手段というのかな、
それはその人にからするともはや手段ではないですね。
ほぼ反応なんだと思う。
そういう反応的な行動が圧倒的に増えてくる。
どうしてもでも外のせいにできない時は、
自分の体のせいになるんですね。
自分の体はどこか悪いに違いないという、
そういう発想を抱く。
だからこの迫害妄想的な人というのは、
体調が常に著しく悪いんですよ。
そして大概よく出てくるのが、
どこのお医者さんに行っても体はどこも悪くないですとか言われて、
医者はみんなヤブだとか、
そういう話にだんだんなっていくと。
どうしても自分の心というものに収めておくスペースがないので、
原因はすべて外に置くしかなくなってしまうので、
外に原因を置くとこういう結論になるしかないんですね。
私の知っている人に、
今私にお金がないのは日本の財務省が悪だからだという論を
ずっと唱えている方がいらっしゃるんですが、
そういう話になるんですよね、どうしてもね。
そういう人に病院を勧めるというのは、
実に困難なんですよ。
その病院は財務省の手先ではないかみたいな話をされるんですよね。
大概の人は、
この人はもう正気じゃないんだなということになるんだけど、
その人の論議の中では、
決してそれは狂っているとは言えないんです。
私たちだって自分の自分がまるで機能しなくなると、
そういうふうに世界を解釈していくんですよ。
だからある意味そうなんだけど、
Good Vibes流に言うと、
解釈とか思考というのは役に立たないなと思うんですよ。
心の条件次第で解釈の機能というものは、
すぐあっちの方向を見たりこっちの方向につけられたりして、
このバイアスについて多少認識や自覚があったところで、
そうそう修正は効かないんですね。
あの人だって、
本当に財務省のせいなのかどうかは、
実はよく分かっていないというところに行き着くことはできるんだけど、
心の中では、というか心が、はっきり言って、
心がちゃんと機能してくれないので、
外に結論を持っていく以外に、
持って行きどころがどこにもないという状態に変わりはないんですね。
思考は働くんですよ、この状態でも。
だから決して頭が狂ってるわけではないんですね。
これが現実のギャップというものに対する、
私たちの人と、
つまり現実のギャップと我々が呼んでいるのは、
多くは他人の願望と自分の願望、
他人との関係とギャップの問題
他人が見たい現実と自分が見たい現実のギャップなんですね。
僕らはここまで極端ではないですよね、もちろんね。
ここまで極端ではないので、
他人との関係でギャップが発生したときは、
その関係性の中というものにまず意識を向けます。
これもこれで厄介な事態を害して引き起こすんですよ。
本当はですね、このギャップについては、
なんていうんですかね、ほぼ手放せばいいんですよ。
ギャップがあって当然だっていうスタンスを取るのが、
おそらく一番いいんだけど、
なかなか僕らはそうならないときがあるんですね。
ギャップがあって当然だっていうスタンスを取るのが、
なかなか僕らはそうならないときがあるんですね。
だから問題が起きるんですよ。
ギャップは問題があるって考えちゃうんですよね。
ギャップがあって当然だとはなかなか考えられなくて、
ギャップは何とか解消しなければならないって考えたときに、
僕らが普通の人が取り得る一番まずいやり方が、
関係性にその原因を持ってくるんですね。
これが多分ボーダー的な状態というものを生み出すんですよ。
だから私はボーダーラインって、
ひとつの描明になってますけど、
人の性格みたいなものを指しているような言い方になってますけど、
むしろボーダーっていうのはあの境界って言葉にはいい。
むしろボーダーっていうのはあの境界って言葉にはいい。
普通そういう意味はないと思うんですけど、
あの境界言ってる境界線はあくまでも精神病と献上者の境界言ってるんだと思うんだけど、
あの境界言ってる境界線はあくまでも精神病と献上者の境界言ってるんだと思うんだけど、
まるで人と自分の間の境界みたいに感じられることがありますよね。
まるで人と自分の間の境界みたいに感じられることがありますよね。
ですよね 特にそういう 両局に触れる ようなタイプの人と 私は職業から
少々関わることが人より多いかもしれない なと思うんですけど 最初は私の
ことが理想そのものみたいに感じ られてしまうんですよね ラスク
シュートを体現している理想の人 みたいに 近づいてみると割とそう
じゃなくて もう絶望したみたいな 佐々木は今すぐ腹を切れぐらい
な勢いになってしまう この極端な フレは何なのかというと 原因を
関係性に持ってきちゃう われわれ は 佐々木という人間をある人が
見たときに 最初イメージしている つまりこれが想定なんですよ 佐々木
に想定した理想的なライフハッカー みたいな想定が映ってたって
何が原因なの 佐々木が原因なんだけど この場合 全部私に原因を消すって
いうことになってくると さっきの 非常に妄想的になってしまうん
ですよ 前に見たその人 今見ている 佐々木は別人だと これやると妄想
になっちゃうじゃないですか 外に 完全に原因を送っているのはそういう
ことになるから あくまでも私にも 多少の原因があるって見たとき
には 見損なったって考え方を取り ますよね 私の想定が狂っていた
のは 私に見る目がなかったから これを全面的に引き受けちゃうと
今度は私が全部悪かったんです 私 腹切りますからみたいになって
非常によくずっぽくなっちゃうん ですよ これはこれでそんな極端
な人はまずいないんで 中間を取り ます 中間を取るというのは つまり
完璧主義と現実のギャップ
この2人の間柄に 関係性の中に原因 を見るんですよ 本当はそれもしない
ほうがいいんだけど これが今世の中 では 普通世の中で常識とされる
一つのライン 一つの選択肢なのかな オプションなんですよ 僕はこれ
やめたほうが本当はいいと思う 何がこれで生まれるかというと
あんなに立派だと思っていたのに 本当にひどい話だみたいになり
やすいじゃないですか 関係にそれを求める というのは 私とこの人の関係は最高
だと思っていたが最悪だったって ことにすぐなりますよね 恋愛関係
が一番分かりやすいと思うんですよ これを人は愛称と言ったりするん
ですけど 愛称抜群だと思ってたん だけど 実は保守占いの結果 愛称
は最低だったということが分かりました みたいな話をしたくなるんですよ
関係性というものに原因 つまり ズレはどこにでもというか ズレ
がないはずないんですね ズレは 絶対あるんですよ これは問題なんです
ズレは絶対あるんだから 最初の 想定が間違っていたとしても当たり
前だよなって思えば このような 話にはならないんだけど ズレが
あったってことになったときに 動機が動転してしまうと 相手の
せいに100%するのはかなり妄想的 自分のせいに全部するっていう
のは恐らく到底引き受けられない そうすると中間に持ってくるんですよ
ね この関係性というものに持って きて こいつには最高に期待した
けど絶望的な奴だったんだなっていう のはそういう話なんですよ 相手
のせいにしているようで そうではない ですね 最高だと思ったのは自分
だってことを知ってる これは発言 ですよね 思ったにもかかわらず
最低だったというのは 結局ある 程度は自分の判断力というもの
に罪を見てるんですよ 見なきゃ いいんだけどね 見てはいるんですよ
それは全く自分に何の責任も負わない というケースよりは ある意味では
正常なんだけど こっちのケース とのやり取りのほうが不良する
ことは多々あります 全部僕のせい にされたほうが実は楽だったり
するんですよね 二度と近寄らない ってことになりやすい もし関係性
の中に問題を見る人がもう少し 正常だったりするとストーカー
っぽくなってるんですよ 今度は こいつを理想のライフハッカー
に俺が変えてやろうみたいになる じゃないですか 関係性にこだわる
ことが起きますよね あくまでも 自分とこの相手の佐々木と自分の
関係は保ったままこのギャップ を埋めようとするから ちょっと
ダメになった佐々木がいけない のであって ちょっとGoodbiusとか
とは縁を切らせて もっとタスクシュート をきちんとやる佐々木に私が改造
してあげるから 大丈夫だからみたいな そういうことが起こるんですよ
そういうことは現に起こりますよ これがもう少しエキセントリック
になっていくと 例えば 倉園さん をはじめとしてGoodbius関係者の
全員にメールを送って ちょっと 佐々木さんと関わるのやめてくれ
ませんかみたいなことをメール で送ると こういうことって起こる
じゃないですか 世の中では そして やってる人は決して異常なことを
やってるつもりはないんですよ 自分の見た世界と実際にある世界
とのズレってものを認識して その 認識が多くの人にとって やっぱり
僕ら一般の人にとっても当然そう で 深いですからね 一般の状態
の心理にとっても深いですから ある意味 このギャップがないんだったら
全ての人は正常なんだと僕は思 うんですよ それはウィニコット
流のものの見方です いわゆる環境 としての母親が健全であるならば
赤ちゃんは静かにしているっていう のと全く同じなんですよ これが
相応しくなるということは やっぱり ギャップがあったということなんですよ
おっぱい吸ってるんですけど出ないん ですけどみたいな そういう話なんですよ
これはね 突き詰めていえば そこまでいかないにしても もう一つの
関係に問題を ギャップの問題を 関係で解消しようとしたときの
もう一つ非常によくあるのが 自分の その想定を常に現実にきっちり
合わせるっていう考え方 これが 完璧主義と呼ばれているもので
これは正常 現状の範囲内の 神経症気味ではあっても 正常と
見なされるんですよね 常に自分の 現実の想定と現実そのもののギャップ
がゼロになるように頑張ろうみたいな どう起こすと漂白神経症になりますよね
常にカギの状態を確認していなければ ダメだみたいな 気が済まないという
表現が出てくるやつですよね これは 例えば体の不具合みたいなものでも
よく出てきます 検査マニアみたい になっていくわけですね そして
その検査の数字も 私 そういう話 聞いたことが これは留学中あるんです
けれども 全部の自分の 例えば 血圧から血糖値から全てが 正常
の範囲内では許せなくて ベスト とされる数値に沿ってないと 何度も
自我意識とギャップの無い状態
何度も食生活を改めて すぐに検査 を受けるみたいな そしてその人
ちょっと検査しまくりすぎていて 借金が700万円ぐらいになっていた
っていう話を聞いたことがあるん ですけど そういうことですよね
これはつまり でもこれもそんなに そこから僕らはそこまで追求しない
ですけど 少しでも赤い数字が出たら ものすごい気にするって人はいっぱい
いらっしゃいますから まさに気にする で 気が済まなくなるっていう話
言葉で表現されているときの心理状態 だと思うんです これもつまり現実
自分の体の現実というものが想定 されている現実 この場合 数字で
示されちゃうんですけども 近似 とか健康値みたいなものが想定されている
現実 ギャップがあったとき このギャップ を埋めねばならないっていう意識
から生まれるものなんですよ ある 程度仕方がないじゃんっていう話
もあるかもしれないけど 僕はそう はもう思わないんですよ 自分の
過去の経験から ここを埋めよう とは 減速しないほうが絶対いい
と思うんですよ 僕は埋めようとして 病気になってたんですから そして
心の病は全部ある程度 これを埋めよう とするところから 今話した通り
来るんですよ 最初のがいわゆる パラノイア的なものでしたし 途中
の話はボーダー的な話 そこに抑鬱 的な話が組み合わさって脅迫症的な
話 全部かなり典型的な病気ですよ ね そして最後の私のがヒステリー
みたいな病気 今ではそうは言わない ので 乖離性ってんですかね そういう
病気 全然想定に現実を合わせよう としてうまくいかない病気ばっかり
なわけですよね どれもこれもそう なわけですよ それが身体に及んだり
心に波及することが一番多くて 借金の山のようになるとか そういう
いいことが全然起きてないのか これなんですよね 起きないですよ
なぜなら想定というのは現実じゃない から そして私はそれを100日チャレンジ
やタスクシュートのセミナーでも 繰り返し申し上げてますけれども
想定にしかし現実を合わせよう としなければ 結局現実に妥協する
ことになって 残念な人生を遅れ ということなのかというふうに
答えられるんですけど どうしても 想定が理想的だっていうその発想
次第に やっぱり再検討の余地は みんながみんな私のような目に
合ってるわけじゃないから みんなが みんな私と同じように検討
する必要はないと思うんですけれども どんな人生の中でも 想定に現実
を合わせようとするというのが いい結果を生むというふうな考え方
はできないんですよね 今回のは ズレというもの ギャップという
ものから来る ある程度病理っていう のを整理できるかなという話を
したつもりなんですよ 最後に途中 申し上げた 他人と ただこのギャップ
は必要なものであって 想定と自分 がズレてる あるいは他人と自分
がズレてる 同じことなんですけど ね 同じことになるんですけど そう
なったときに このズレが全くなくなる と 自我意識ってものがなくなるん
で これを禅的な方向 あるいは 瞑想的な方向 グッドバイブス
的な方向でもいいですが このズレ というものはもともとないもの
なんだっていうふうにいくのはいいん だけど このズレがないっていう
のかな このズレがありまくったり 全くなかったりすることによる
自我が機能しない苦しみという ものに対しては 何か手を振った
ほうがいいとは思うんですね それが 禅的な方法だったり カウンセリング
ギャップはダメだっていう発想から来たもの
だったり グッドバイブス的だったり ももちろんするんだけど 要する
に 例えば一人でずっといて寂しい みたいなのは ある意味 端的に言う
と人と会えばいいってところが あるんですよ これはつまり 全く
人と会わないというか 今度は他人 とのズレが生じないという問題
があるわけですね 他人とのズレ が全く生じないと今言ったように
自我ってものがなくなっていって しまうんですよ ズレによって
多分我々は自我ってものを認識 してるんですね そういう意味でも
一人では生きられないっていうこと になるんだけれども 鬱の特に対象
喪失みたいな鬱 つまり大事な人が なくなってしまいましたとか 非常
に自分が大好きだって恋人がなくなって しまいましたってときに 何が起きてる
かというと ズレがないんですよ その人にとって あるべきズレがないん
ですね どんなに恋愛して近くになって
いたとしても 自分と同じ欲求を持つ はずがないから 絶対に恋人と自分
の間でズレがあるんですよね このズレが恋愛中は心地よい場合
が多いんですよ これが不愉快な場合 その恋人と猛烈な喧嘩すること
になるんだけど いずれにしても 常に近しいところにいて 自分の
想定に近い人間だって思い込んだ 相手との間のズレってのは その
人の時間にとって重要な意味は当然 持ちますよね そんな人がいきなり
パッといなくなってしまうと 何のズレも生じなくなってしまう
んですよ そういう病なんですね 多分 打つってのは もっていうんですよね
これをね フロイトのこと フロイト はも 中のもですね 非常に正しい
表現のような気もするんだけれども つまり 代償であるというか その
恋愛している相手である 私の想定通りに なぜか生きてくれる現実っていう
ものがパッと失われてしまって 心の中に残っちゃうと ズレが全く
ないですよ この人は私が何をしていても 喜んでくれっていう存在なんですよ
ただ唯一 唯一の問題は そのような 現実はないっていう だから自分が
何をしても どんなことをしても ズレを認識することができない
ある意味 一番ズレてるというふうに 言ってもいいのかもしれないですね
これが多分 僕が思うのに やっぱ 鬱なんだろうと思うんですよね ある種の
ズレがどこにもないという 手応えがない みたいな言い方をするじゃないですか
心の中の恋人とずっと喋ってるような 感じの状態になると
恋人を失うことによる抑圧的な状態
さっきの何でも他人のせいにして 不快なことは全部そとったっていうのと
全く逆ですよね なんかこう すっごくいい状態なようなんだけど
ものすごく自由なんだけど 自分ってものがある意味 全く感じられない自由
みたいな感じ 顔色を伺うのは逆ですよね 完全に他人の監視下に置かれていて
自由が全くない 自分がやってることは 全て他人の欲求に従うことだっていうような
自分の無さなんだけど それとは全く逆の 他人というものとのズレが認識できないために
自分というものが認識できないという状態 それもあると思うんですよね
いずれにしてもこれはギャップはダメだっていう その発想から来るんですよ きっと
最後の恋愛対象というのも同じで 結局それはその恋愛対象の人だけが
私が一緒にいられる ある意味唯一の人だってことになったために それ以外の現実というものが現実感を失っていくんだと思うんですよね
最終的には よくあることじゃないですか 恋愛中ってそうですよね 恋人と一緒にいる時間だけがリアルで
他の時間はアンリアルになってしまう その恋人が突然いなくなると つまり生きてるってことがアンリアルみたいになっていくみたいな
そういう自我の機能のしなさ そういうのもあると思うんですね
でもこれもやっぱり私の想定と 実際の現実にあるギャップがダメだっていうところから来たものだと思うんですよ
だから恋人と二人っきりが最高って話になってしまって それが恋人を失うと いかにも抑圧的になっていくんだろうと思うんですね
ただこれは最初に述べたようなとまた違う形ではありますが 極めて極端なケースですし しかもある意味 滅多に起こらないかなとは思うんですけれども
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