2022-10-24 34:57

【694GMV】「割り込み」をチャンスと考える

タスクシュートでPDCAしないなら何の役に立つのか?

00:05
おはようございます。10月22日土曜日の17時ちょうどぐらいです。
暗くなるのが早いですね。
先にお知らせからいきたいのですけれども、
あれです。
あれって…タスク…全然違う。
働く人の真相心理を…今がちょうど14時なんですね。これがなるんですね。
働く人のための真相心理第4回を11月26日土曜日にやります。
随分月末だなというふうに思われるかもしれませんけど、ようやく考えが及んできたんですね。
もし、ワンオンワンセッションですね、倉園さんのところの。
私とのShogo Sasakiと60分対話するを、この前に申し込んでいただければ、
これ無料で受けられるというわけだから、当然この前に申し込むためには、
働く人のための真相心理を月末にやらなきゃいけなかったんだなということを、
最近ようやく考えが及んだわけですよ。
中間で切って、その間に申し込んでいただいた方は次回行けますというふうにすれば、
済む話なんですけどね。
でも多分11月とか10月とかそういうふうに区切っている感じっていうのも、
僕ら持ちやすいから、このほうが分かりやすいかなと思いまして、
26日の土曜日に設定しました。
だから11月中にその60分対話を申し込みいただければ、
第4回の働く人のための真相心理は無料で受講いただけます。
もしこれは単独で受けたいという方は、3300円かなにしたと思います。
今日は何の話をしようかと思っていたのですが、
タスクシュートなんだけど、その前に技法の話をしたいんですよ。
技法ってつまり精神分析の技法なんですよ。
カウンセリングの技法でもいいんですけどね。
精神分析ってすごい面倒なんですよ。
カウチに寝せて顔が見えないようにして、週に4回1時間ずつやれとかっていう
すごい徹底的な決まりが実は形式的にあったりするらしいんですね。
僕はカウチに寝てみたことがないので分からないんですけど。
これを散々この話もしてますけれども、
これが大体精神分析の本格的な本では、この形式の重要性がやけに強調されているんですよ。
03:00
多分あそこはかなりごく一般の読者は読まないような本が多いんだけど、
あの一般の読者はここの技法の話から入られるというのが全然退屈でですね、
僕も最初そう思ったんですね。
なんでこんなそうでなくても不人気な精神分析がですね、
技法から話を始めちゃうのかなと思ってたんですけど、
これがですね、私タスクシュート以来ものすごく共感できるんですよね。
タスクシュートっていうのはまさに技法なんですよ。
あれの技法をきっちり守れば守るほどある意味効果は出るんですよ。
だけどここがまた面白いことに精神分析でもそうなんだけど、
フロイト自身よく言われてたようなんですけどね、
言った通りちっともやってないじゃんという話があるんですよ。
例えばウィニコットもなるべく介入やら解釈、
言葉を出すのは精神分析家のほうから口を出すのは控えるべきだって書いてるんですよね。
それは僕も読んだことがある気がするんですね。
なのにウィニコットはですね、結構分析中喋るんですよ。
それも分析の記録みたいなのを読んだことがあるんで、
この人結構喋るよなって思うんですよね。
昔、昔じゃないな、平気で嘘をつく人たちも結構私インパクトがあって、
多分ね、アメリカだってあれ精神分析なんですよ。
カウンセリングはやはりロジャーズじゃないですけど、話をよく聞いてですね、
やたら先生的にお説教をがましくしてはいけませんよっていうのは、
僕も習いましたからね、そういうのは。
絶対に習ってるはずですけれども、
スコットさんめちゃくちゃ支持的で、もう患者けなしてますよね。
読めばわかるんですけど、あなたは卑怯者ですか、平気で言ってて衝撃を受けるんですよね。
そんなこと言っちゃっていいんだって思うんですよ。
よくはないのかもしれないけどね。
こういうことって無数にあって、
例えばカワイハヤオさんなんかも、これは前に戸畑海人さんもその話されて、
笑い話のように扱ってたんですけど、
カワイハヤオさんの臨床の話の中に、
患者との関係は、クライアントさんとの関係は、
深くて、
なんていうのかな、要するに深くて突き放したような関係、
仲良くなっちゃいけないみたいなことが書いてあるんですよね。
必ず場所と時間を区切って、
相手の家とかに行ったり、時間だらだらやってはいけないって、
カワイハヤオさんも書いてます。
これが技法上のルールなんですね。
でもカワイハヤオさんの臨床の本の中には、
家行っちゃってますみたいな、家来いって言われたから行ってしまいました。
06:00
しかも相手の患者さんが来て、家に泊めてしまいましたみたいな、
そういう言ってることとやってることが全く違ってしまうという話が載ってて、
でもこういうのは悪い例なんですと、さすが彼はらしいなと思ったんですけど、
こういうことをやるほうがいいと思ってもらっては困るんですと、
そういう例として出したんだっていうことを書いているんですね。
多分それはそう思ってるのは嘘なわけじゃないと思うんですね。
でもケースによってはいつしか引きずり込まれるようにして、
自分が今占めている、自戒しているルールを気がつくと破っていくっていうことが起こるんですよね。
それも結構往々にして起きるんですよね。
フロイトはもう間違いなく言ってることとやってることが相当違うんだけど、
これはもう第一番目に始めちゃった人だからしょうがないんですよね。
ルールを自分で作りながらやってるから。
でもその後の人たちも結局はルールというものを知っていながら破っていくんですよね。
最近思い出したんですけど、トリー・ヘイデンって一時すっごい本が今も売れてるのかな、
シーラというコミュニティみたいな本が、
結構重度の難しい状態にあるアメリカの子供たちを非常に扱っていく、
腕利きのカウンセラーとして有名な本もすごい売れた人。
あの人もやってましたよね。
私のお母さんになってって言われるシーンが出てきて、
私のトリー・ヘイデンが書いてたのが、
私の中の全ての知識がノーとイエと大声で叫んでいるんだけれども、
なかなかノーと言えないみたいな、そういうことを書いてましたけど、
そういう話なんだと思うんですよね。
お母さんになるのは一番まずい感じがしますよね。
これでついでに思い出したんですけど、
以前私がアメリカ留学中に結構親しくしていたマリコさんという方がですね、
やっぱり学校の先生やってるときに同じ問題にぶち当たると。
例えば運動会とかでも、お弁当を作ってきてすらくれないような家の子のお弁当を作っちゃうと。
あらゆる先輩の先生とか同僚に、絶対それだけはやめとけと。
それをやるのは絶対ダメだと、タブーだと言われるんだけど、別にいいじゃないかと思って、
弁当を作って、その子だけのために弁当を作ってあげるというようなことをしていて、
後々大変なことになっていくという話を聞いてですね、
カウンセリングって本当そういうものだなという、
そういう金鉢先生を始めると大変なことになるというのは書いてあるんですけどね、
そういうものの本にはね。
で、そのルールっていうのはやっぱりこう、
なんていうのかな、破ってみないとわからないというのか、
それじゃ困るかもしれないんだけど、でもやっぱりそういうようなところがあるんだと思うんですよ。
で、北山正宗さんが久しぶりにこの方の名前を出しますけど、
09:03
やっぱりですね、精神分析の本の中にこの辺のことを結構詳しく書いていて、
要は2つで1つなんだと思わなきゃダメですみたいなことを書いてますね。
そのルールはルールとして読んで、
でも実際にユイニコットもフロイトも河合俳夫さんもそうですけど、
言ってることとやってることが違う、全然違うことをやってるということを
合わせて1本なんだと。
そうなんだなということですね。
私はタスクシュートで感じるんですよ。
戸肌さんが最近出した聞く技術、聞いてもらう技術のやつはすごい売れてるようですけど、
あの辺のジョークもよくあるんですよ。
話を聞きなさいと、形状が大事ですよと言ってるカウンセラーが奥さんにしばしば
あんたは全然私の話は聞かないじゃないかと言われると。
で、こういうことは北山さんも書いてるんですけど、
そういうことを言われたことのない臨床心理を知っていないんじゃないかみたいなことを書いていて、
しかもそういうことを言われるとムカッとくるんだということを書いていて、
やっぱそうだよなと思うんですよね。
この辺の東映ドイツコっぽい話になってきますけど。
で、タスクシュートがそうなんですよ。
あれ、こうね、1分単位で、
終了予定時刻は必ず見ましょうとか、
今そんなに厳密なルールを言わない方向に移ってきているんですけれども、
昔は結構カッチリ言ってたんですね。
カッチリ言うのには訳があるんですよ。
つまり、どこかに線を引かないと、
効果が現れないわけですね。
で、どんなユーザーさんでもそうだと思うんですけど、
効果が現れないのは自分の中で。
非常に良心的な方は必ずマイノリティーでして、
そういう方のお話はよく聞くから、
一見そういう人多そうなんだけど、そうでは本当はなくてですね、
やっぱりツールは悪いんだろうってことになるわけですよね。
だから勢いツールを広めたり、作ったりする人というのはですね、
ルールを固くしたくなるんですよ。
この辺はすごく関心を持っているんですよね。
つまり、そういう人たちが、
ツールを広めたり、作ったりする人というのはですね、
ルールを固くしたくなるんですよ。
これが、コンセリングの世界に、多分どんな世界でもそうなんですよね。
似てくると思う。
つまり、方法論について記述している方は、
勢い強情的な書き方をするんですよね。
教えるに条件の上の強情的ですね。
昔、共産主義で強情主義とかいう話がありましたけど、
まさにそういう感じで、
このルールを守らない奴は死刑だ!ぐらいの勢いで、
現にそういうことをやってましたもんね、昔の人たちっつのは。
まあ、そういう、そんな強圧的な、
無論我々がするところではないんだけど、
でもやっぱり、このツールで本当にね、
効果を獲得したければ、
こういう風に使わなきゃダメですよ、みたいなことは、
言いたくなるわけですよ。だって結局のところ、
買っただけだけども、効果出ませんとか言われても、
12:00
困るじゃないですか。どこかにやっぱり、
ミニマムな、最低限、こうはしないとダメだよね、
みたいなところってあって、
その最低限というのがですね、
やってるユーザーほど、あ、これも必要だ、
終了予定時刻も大事だし、セクションも大事だし、
ルーティン化もすごく厳密にやるほうがいいよね、
みたいな、そうでないほうがいいという理由は別にないから、
そういう風になっていくんですよ。
でも、気がつくとですね、
そんなことは、オリジナルの創作者の大橋栄総さんですら
守れないみたいなルールができちゃって、
こういうことが起こるんですよね。
それを真に受けてもらっても困るみたいな、
みんな書いてますよ。
フロイトなんかに言ってたような気がするんですよね、確かね。
私が書いたようにやってね、
私がやってるようにやっちゃダメだよ、
みたいなことを言ったって話があるんだけど、
でも一方で、彼がやったようにやるべきじゃないですか、
ある意味では。彼が書いたようにできないですよね。
できないことを彼は多分書いてると思うんです。
で、我々も、
ちょっと油断するとそういうことになりやすいんですよ。
つまり、ルールをやたら真に受けるもんじゃないんだけど、
無視していいもんではないですよね。
この塩梅を捉えるためには、やっぱりやってみるしかないんですよね。
だけど、ただタスクシュートはいいと思うんです。
カンセリングは、そのタブを破ると、
結構リスクを取ることになるんですよ、本当に。
ハイハイおさんなんかは、
一歩間違うと命に関わるからな、みたいなことを
懸念しながらやっぱりルールを言うと、
ルールを破っていくっていうところがあって、
こういうことになるよねっていうのがあります。
タスクシュートは、幸いなことにルールを破っても、
大した効果が得られないくらいで済んじゃうんで、
なんてことはないですよ。
たかが時間管理に少々うまくいかなかったです、
というくらいのところで済むんですよね。
ところが、カンセリングでルールを守らないというのは、
リスクがでかいので、やっぱり守ったほうがいいんだけど、
じゃあ全部のルールをきっちり守ったまま、
何ができるのかっていうと、
実はできないんじゃないでしょうかっていう話が、
最近立て続けに僕の読んだ本で書いて出てきたわけですよね。
それで思ったんですよ。
タスクシュートっていうのも結局そうだったなと思うんですね。
ルールは光ごもっともなんだけど、
このルールを全部守ってやらないとダメかっていうと、
別にそんなことはないんですよね。
ただ、このルール一つ一つが持つ方向性というのは
確かにあって、
全部無視していいかというと、
全部無視するくらいなら使わないほうがいいんじゃないか
っていうような話にもなるわけで、
そこのところを考えていく必要がやっぱりありますよねという、
面白くもない話かもしれない。
で、最近私はそのタスクシュートのミニマムって何だろうというのを
盛んに考えるようになっているんですよ。
15:00
しかもそれを精神分析を交えながら、
さらにグッドバイブスまで延用しながらですね、
考えるようになっているんですよ。
で、やっぱりですね、
最近も北山さんのところからヒントを得たんですけど、
素顔を残すっていうのが一番重要だなって思います。
精神分析っていうのはある意味、
これもいろんなアプローチの見方もありますけど、
もう本当にこの番組でも繰り返しお話ししているようにですね、
素顔をでも、
精神分析というのは、
素顔を晒せるようになるっていうのが一つのゴールにあるんだと思うんですね。
その話は北山さんがよく書かれることなんだけど、
ヒステリーっていうのは、
例えば演技過剰だと。
で、誰の目にももはや演技しているのは明らかなのに、
本人だけがその演技をやっていることに気づいていないか
やめることができずにいるっていう病気だっていう、
そういう見方があるんですね。
で、そのヒステリーっていうのは、
やめることができずにいるっていう病気だっていう、
そういう見方があるんですよね。
これ多分全くその通りだろうなと思うんですよ。
で、タスクシュートでも繰り返しこの話、
実は出てきて非常に不思議ですけどね、
タスクシュートと精神分析と何の関係があるのか、
非常に微妙なんだけど、
私は大いに関係があると今思ってはいるんですけど、
タスクシュートの中に演技を書いちゃダメなんですよね。
やっぱりこの中にあるものが、
素晴らしい業績を残すために、
今タスクを粛々と進めていくんですと、
この形にしたいというのはよくわかるんですよ。
見てくれから考えて。
でもあれは明らかにおかしいんですね。
つまり私も使ってれば使っているほどそうなるんだけど、
素顔をどれほどここに残せるかが、
もう全てみたいなもんなんですね。
素の自分がここにどれだけ現れているかと、
いったことが。
でも、数名の方に質問をしていただけるんだけど、
素顔を残すだけじゃ何の意味もないんじゃないか、
という話に当然なりますわね。
でも、素顔を僕らは知らないんですよ。
そもそも素顔を残すことに何の意味があるのか、
という問いは、もうすでにタスクシュート以前に、
100年にも渡り、
精神分析に何度も投げかけられる、
それこそ素顔を残すことに何の意味があるのか、
そう、何千回となく投げかけられた問いだと思うんですよね。
素顔に何の意味があるのかと。
でも、これに対してこういう反論があるんですよ。
あなた自分の素顔を知ってますか、
ということなんですよ。
これを僕らは知らないんですよね。
まだこれは程度問題で、
素顔を全く知らないという人と、
素顔がよくわかっていない、
これが多分一般的な人なんだと思うんですけど、
素顔がわかっていない人ほどやっぱり
神経症が進行していくわけですよ。
18:00
常に演技してるっていうことになりますから。
常に演技してるって明らかにおかしいじゃないですか。
だから、精神分析科のところに行って、
自分の素顔をさらけ出してですね、
素顔をさらけ出すというリラックスを得て、
そして素顔をさらけ出すということをしても、
人は引いていかないんだということを知り、
かつ、素顔をさらけ出すということが
学んでいく、みたいな。
そういう場面として、だから週に4回も
同じ人のところに通いまくるわけですよ。
その人以上にその素顔を知ってる人はいないし、
何どうやったって素顔がバレていくじゃないですか。
そこまでやれば。
黙っていても素顔がバレてしまうし、
演技してもし続けられるものではないし、
その限界まで行って、さらにその先まで行って、
ずっとその人の前で喋ったり黙ったり、
その人たちに素が完璧にバレていくっていうのが
ものすごく大事だと、これは北山さんが
特に強調している部分だと思うんです。
で、全く同じことを実はタスクシュートでもやるんですよ。
これに記録をして、正確に記録をして、
正確に記録をしていけば、
嫌でも大でもどんな人でもですね、
自分を作ろう、取り繕うことができなくなっていくんです。
私の経験では。
もうこれを1年、2年、3年、4年と
一気にやればね、
どんなに自分を理想化しようと頑張っても
限界ってものがありますからね、もう無理なんですよ。
明らかに自分とはこういう人間であって、
これ以外の何者でもないというものが
あからさまにならざるを得ないんですね。
これを見ろってことなんです。
だからレビューは好きな時に好きなようにしたらいいんですよ、
私の感じでは。タスクシュートはですね、
時間における自分の鏡なんですね。
もちろん、いわゆる姿見のように
パチッとした像がすぐに手に入るわけではないです。
時間に関する自分の像が
ぼろげに見えてくるだけですから。
でもこれが見えることでですね、
何になるのかというと、
自分の知っている自分の像というのは
幻想に過ぎなかったということが分かるんですよ。
明らかに素の自分なんてものを
人は知らないんですね、素の自分というもの。
だからかなり歪んだというか、
非常に偏りがある上に
部分的な像を自分自身だと
信じてしまっているんですね。
その自分であればこんなことはできるだろうし、
こんなことがしたいだろうし、
このぐらい休憩を取ればいいだろうし、
こういうふうにすれば自分は幸せになれるだろう、
そういう見込みの中で生きていて、
そいつは全部嘘ですよというのがタスクシュートなんですよ。
一つも当たってないですから、
そういう目論みの下で
21:00
タスクをしようとしてもできないし、
そういうタスクをすれば自分が喜ぶということも実はないし、
そういう自分がやりたいと思っているというのも
真実ではないし、このぐらい休めば十分だというのも
真実じゃない。この状態では
タスク管理なんてできないんですよ。
でも僕らはこの状態のまま突き進もうとするんですね。
だいたいできないと。
だいたい失望しちゃうんだけれども、
この失望自体が誤解の産物なんです。
ってことが分かればですよ。
方向修正のうちに人は自動的に切りますよね。
これを無意識のうちに切るんですよ。
これが無意識のうちに起こるから
PTCAとかをする必要はないんです。
定期的にレビューをしたり、
終時でレビューをするとか、年次で見るとか、
長期的な方向性を視野に入れるとか、
そういう意味ではタスクシュートってのは
実に合理的な、というか効率的なツールなんですよ。
正直につけてそれを眺めてればいいわけですよ。
できればそれを
好意的に眺める。
好意的に眺める必要があるのは
素の自分に対して好意的であった方が
物事が早く進むからです。
素の自分をバッシングしているというのは
これにも多分補正はかかっていくんで
結局はいいところに落ち着くんだけど
素の自分をバッシングするとその分余計な時間が
かかるし余計なエネルギーもいるので
できれば素の自分に好意的に
見てあげる必要があるんですよ。
これがですね、よく誤解されている面なんですね。
素の自分を好意的に見るのは当然じゃないですか。
素なんだから。ところが
これを妥協だと考えるんですよね。
これは非常におかしいわけですよ。
マックスだったら
こういう結果が残せた自分に対して
そこまで言っていないのにもかかわらず
自分を慰めるみたいなニュアンスがあるんだけど
素の自分と理想の自分とこの場合言っている理想の自分は
現実に現れたことはおそらく一度もない。
つまり、例えば100mが10秒で走れたという人が
11秒かかったという時に
それでよしとしたら妥協かもしれませんけど
10秒で走ったことが1回もない人が
自分を慰めることに落胆するのはおかしいんですよ。
10秒で走れるという保証を自分で勝手に
自分に与えちゃっているからこういうことが起こるわけで
この勝手に与えているというのが
私たちが素の自分を誤解しているという証拠なんです。
タスクシュートを見たからといって
素の自分が完全に理解できるわけではない。
その辺は精神分析のようにはいかないですけれども
少なくともタスクシュートを見ない
全くそれを見ていない
それについての記録がしょっちゅうこぼれ落ちている
という時に比べれば
24:00
ここでちゃんと使うという話が出てくるんだけど
ちゃんと使った方が姿絵は万全なものとして
万全に近いものが手に入るだろうと
というか手に入るんですね。
それを眺めると無意識が補正をかけてくれるんですよ。
今までのこういう路線で行こうとしてたけど
これじゃ全然ダメだなというのが分かってくるんですよ。
これが分かるのが自分の素を好意的に見て
見た方が早いんです。
この補正が早くかかると
十分現実的で
十分自分にとって
意味のある時間の使い方をしていつつ
大体いいところに
自分が運ばれていってくれるという
そういう感じを
体得できるはずなんですよね。
その辺まではタスクシュートでいけるんだろうと
思っています。自分の経験からいってね。
ここでもう一つすごく大事なのが
ちょっと一旦止まりますけども
ここで一旦
止めたんですけど重要なのが
セキュアなんですね。この辺を僕はちょっと
今まで強調したりなかったなと思っています。
今の言ったような素の自分というのは
人に見せたくないんですよね。
だから精神分析の空間というのは
まず対面じゃなくて本当はね
顔も合わせない。しかも
人がその話を決して聞いていない。
これが大事ですという風に
しょっちゅうこれも強調されています。
これは当然ですよね。
告白ですよね。
名前忘れてしまいましたけど
キリスト教でありますよね。神父さんにやるやつ。
あれですよ。
みんなが聞いている前ではできないですよね。
タスクシュートも素の自分というものを
出す必要があるから
このタスクシュートのリストはセキュアなもの
じゃないとダメですね。
私は職業上あるいは仕事上
これをほとんどマスキングせずに
公開しているということをやっていますけど
これも仕事だと割り切ってやっているのであって
やっぱりタスクシュートを有効活用しようと思ったら
タスクシュートにならなければダメだと思います。
人に絶対見せられないものを
ここになら書けるという内容を持っているから
それを見ることによって
自分自身の自己像というものが
絶え間なくリアルタイムに補正されていき
それによって自分の持っている
タスク遂行能力とか
どんなことを成し遂げられるのかといったことが
だんだんリアリティを持てるようになっていくんですよ。
27:01
夢という言い方をあえてしちゃいますけど
夢そのものがリアリティのあるものに変わっていくんですよ。
こういう変遷を遂げた後でないと
タスク管理というものは意味をなさないと思うんですよ。
さらにここに
もう一つ付け加えたいのが
グッドバイブスなんですよね。
精神分析でもいいんだけど
精神分析ってやっぱりカウンセリングなので
それはどういうことかというと
分析家ですね。
でもタスクシュートはそうじゃないですよね。
これ一番問題なのは
一人でやってしまうということなんです。
これカウンセリングでも時々落ちる罠なんだけれども
カウンセリングはそうはいってもすぐそこに聞いている人がいるから
やっぱり完全に一人にならずに済みます。
ところがタスクシュートは完全に一人になっちゃうんで
一歩間違うとですね
どうしてもやっぱり
その自分をそこに
残していくという使い方をする限り
本当はそうはならないと思うんだけれども
あまりにも自己計画完結的になっていくとですね
多分袋工事にはまっちゃうと思うんですよ。
だからグッドバイブスではそうは言わないんだけど
タスクシュートとしてはあえて言いたいのが
他者優先で行く必要があるんですよ。
ここでなぜ優先という言葉を使うかというと
他者を優先するという言い方をあえてしなくてもいいんだけど
タスク上に置いてしまったり
実行先にすると
タスク管理では優先されたような形をとってしまうんですね。
これをやらないと
全部自分のために
自分のタスクだけで
自己完結しているようなリストが
全部自分のために
自分のタスクだけで
自分のタスクができあがってしまって
それがいいというふうに思われている面もあると思うんだけど
これだと僕が思うに
どこにも行き着けないんですよね。
最近これも
北山さんの本で読んでいて思ったんですけど
演技をするといったことは
何かを作り上げるためですよね。
言ってみればこの場合は劇化なんですけれども
どこに連れて行かれるかはわからない。
筋書きがないところが精神分析なんで
これタスクシュートでも
僕は全く同じだとやっぱり思うんですよ。
人生なんで筋書きがあったらおかしいですよね。
筋書きがあるってことは
この通りにやっていけばどこかに行き着いて
しかし人って必ず最後は一応死ぬことになってるんで
死ぬってところまで筋書けることになってしまうじゃないですか。
明らかにそれはおかしいですよね。
実際にこんな議論をしなくても
やっていけばすぐ分かるんだけど
30:00
書いた通りにはなんないんですよ。全然全くなんないんですね。
それはとってもいいことなんですよ。
書いた通りになるということは
自分が想像した以上のことは絶対起きないということになって
おそらく僕らはそれだとすぐ死んじゃうような気がしますね。はっきり言って。
人が生きていけるのは私たちの想像を多分超えたところにあって
そういうことからしてもですね
計画を先に万全に立てておけば
最高の結果が得られるっていうのは全然本当じゃないんですよね。
そういうことを全部含み込んで考えると
そこに他人が出てきてくれたというのは大変いいことなんですよ。
この他人が出てきてくれて
何か依頼して優先的にそのタスクを実行するということもそうですし
あるいはここに書いてある通りには実行できませんという
いわゆる先送り問題というのもそうなんですけど
これも捉え方を逆にしなきゃいけないんですよ。
素の自分がそこに現れるのが必要なことであるならば
先送りとか他者の依頼といったものは
すべてピンチではなくて
一つのチャンスだと捉えないとおかしいんですよ、これも。
その通りにスイスイできるのであれば
筋書きと素の自分は一致していることになりますよね。
一致していないからこそ
今までうまくいってなかったはずなんですよね。
タスクシュートを使うことに意味があるとすると
筋書き通りにはできないというのはとても重要なことで
筋書き通りにできないタイミングこそ
僕らが求めているものなんですよ。
その時に筋書きじゃないことをやっていかないと
いつまで経っても自分の自体というのが改善されないですよね。
そうじゃないとおかしいじゃないですか。
そうじゃないとどんな意味があるのかということになりますよね。
素と筋書きが完全に一致しているならば
使う意味は全くなくなりますよ。
素の自分と筋書き通りなんだったら
別に使わなくても全然いいじゃないですか。
なぜ素では意味がないと思うのかというと
素というものが自分が知っていて
しかも素の自分というものの人生には価値がないと思うから
素では意味がないって話になるわけですよね。
ところが素を知らないんだから
筋書き通りにやろうとしてもできないはずなんですよ。
その筋書きというものが非常に自然で
妥当で合理的で正しいものであるならば
その筋書き通りに一日は進行するはずですよね。
それは素の自分がさほど頑張らなくても
そうなるはずなんですよ。
そうじゃなければ計画というものは
ただ自分に無理をさせるためだけのものになってしまうので
それだったら少なくともタスクシュートである必要はないんですよね。
何か自分に無理させる表を作っておけばいいってことになって
33:01
それはタスクシュートとは違うことを実行することに
必ずなるはずなんですよね。
そうじゃなくて素なんですよ。
しかも素の自分というものを僕らは知らないんですよね。
知らないってことが一番大事なところなんですよ。
だからこそ次に書いてあることができないとか
書いた通りにならないといったことが起こるので
まさにそれは素の自分というものを知るための
大きなチャンスなんですね。
素の自分はもちろん他人とも関係があってこその素の自分なんです。
素の自分というのが他人から完全に確実されたところで
生きているってことは多分絶対ないでしょうし
他人と完全に確実されたところで生きているなら
やっぱりタスクシュートって必要ないと思うんですよね。
これが自分が最近タスクシュートにおいて
焼き直しというのかな。巻き直しているルールで
要するに素の自分をそこに書き込んでおきましょうと
それに近い状態になっていればなっているほどいいですと
それを読みたいタイミングで読み直してみればいいわけですよ。
レビューをしたいタイミングですると
必ず自分は揺さぶりを受けるはずなんです。
それを好意的に読んでいって
次のタスクをやろうとしたときも
やっぱりそうはいかないとか
やっぱりそうはならないといったときに
素の自分を発見するチャンスというのが
次から次へと訪れるはずですよね。
そのうちに素の自分というものが分かってくれば
今までよりもはるかにタスクというか
生活というもの、仕事を含めて
スムーズに実行できる自分というものを手に入れることができます。
34:57

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