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2022-10-21 18:07

【693GMV】罪悪感をもたない

ニードを封じ込めない

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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
ただいま、10月20日木曜日の20時12分ですね。
今日は何としても版には切り上げなければならないので、あまり長くはできないはずなんですけどね。
さっさといきたいと思うんですが、今回ちょっと落としちゃったというかですね、これ実はテイク3なんですよね。
割とこういうことがあって、なんて言えばいいんですかね。
何度も何度も撮りたくなるということがなぜかあるっていう感じですね。
それで、11月の13日の日曜日に書き上げ塾第7期第1回が、つまり7期の1回目がですね、13日から始まります。
何度も申し上げておりますけれども、ネジマキドリクロニクルを読み終えたんですよ。
私にああいう対策は、しかも小説はとても無理だと思うんだけれども、小説をでも書き上げたという方がいらっしゃるんですよ。
2人は、少なくとも2人は。
この流れでいくと、実は書き上げていくものの比率から言うとですね、小説の比率って書き上げ塾では高くなるかもなーって思ってたりもするんですよね。
それって結構すごいことなんじゃないかと、私小説ってそもそも一冊書き上げる方法とかよくわからないんですよ。
小説書いたことって本としてはないですから。
何をどうやったらどういう風になるんだろうというのがさっぱりわからなくて、今回村上春樹さんの読み終えてみてですね。
これはもう何て言うんだろう。
作るっていうのは無理だなって感じがちょっとしました。
それは作曲が無理だって僕にとって言うのと似ている無理さなんですよね。
なんかこうイメージができない。
そんな感じがしましたね。
そういうものができるっていうのだけでもすごいんじゃないかと。
村上春樹さんはあれを何かの自分の、一つは夫婦っていうものを中心に書いたっていう話だったんですけど、非常にそれも感じるものがありましたね。
そうか夫婦かと。
私も夫婦問題からある意味グッドバイブスに入ったようなところも多分にあるんで、夫婦ってのは大変だよなとつくづく思うんですよね。
ある意味では。
そんなに深刻に考えなくてもいいんじゃないかっていう考え方ももちろんあると思うんだけど、このねじ巻き鳥とかめちゃくちゃ深刻ですからね結局。
夫婦問題から入っていって、気がつけば満州事変の問題になっちゃってますから。
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モンハン事件か。とんでもないですよね。
そんなことを言われても困っちゃうと思うんですけれども。
そんなわけでいろんな切り口ってあるなと、久しぶりにそういうことを確認しました。
なので、何か思うところがあったりしたらですね、本を書いてみたいと。小説でもいいので。
七喜というのもありますんでね。
私はこう書き上げるという意味で、自分の納得のいくものを書き上げるという意味で、これが一番近道なんじゃないかと思うので、書き上げ自分がね。
よろしければご検討ください。
今日は短めにというのは何の話をしたいかというとですね。
罪悪感という話をしたいんですよ。
これをずっと考えていたんですね。
今100日チャレンジというのを小谷松崎さんとやっていて、11月の1日をもちまして100日が経過します。
大変お疲れ様な方がいらっしゃって、何人かね、最後の最後まで毎日毎日何かしらその日の広告なりを我々にアップしてくださっていて。
我々全部読んできているんですけど、さすがに100日近くなってきますと途中で消えていかれる方もいらっしゃるわけですが、最後の最後までお付き合いいただいている方もいらっしゃっていて。
この間私はすごくいろんなことが勉強になるなと思ったんですね。
中でも一つ大事なのがやっぱり罪悪感というですね。
大きいんだなって思うようになりました。
いろんな意味でね。
犯罪とかちょっと一旦置いとくとして、特にすぐ刑事罰を受けるような犯罪は一旦置いとくとしてですね。
我々に罪悪感ってこんなにいらないだろうと一度捨てることに決めた人間の目からは本当そう見えるものなんですよ。
倉園さんの言葉を借りるならば、人間がやってはいけないというようなことはないんだと。
まして罪悪感、罪の意識を持って罰を待ち受けるような心理に至らなければならないようなことってないんだというお話があるんですよね。
ここまで言い切るのはなかなか大変なところもあるんですけども。
とはいえですね、私たち別にそういうものを持たないからって、直ちにものすごいことをやり始めるというものでもないと思うんですよね。
仮にそれが刑事罰を負うのは一旦置いておくとしても、例えば罪悪感がなくなった途端に家庭内暴力に走り始めるとか、家を出ちゃうとか、そんなことはし始めないわけですよ。
罪悪感というのは何かの抑止、抑止力ってやつですけど、になってるとしてですね、何の抑止になってんだって思うんですよね。
一つは、これがまた非常に変なんですけど、私もすごく身に覚えがあったんですけど、罪悪感というのは恐怖症に対する何かの歯止めになるようなイメージがあるんですね。
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これ非常に不思議なんですけどね。
例えば、ごくごく単純なところで言って、私の言うところでですね、奥さんがちょっと怖かったと。
で、罪悪感ってものがないとなると、奥さんに対して何かをやらかしてしまったと。
意図的にじゃないですよ。ついやらかしてしまったと。
以前の言うので言うと、瓶を間違って割っちゃったと。
この時に罪悪感が私を守ってくれるような印象がどこかにあるんですよね。
罪悪感を持ってますから許してくださいってわけなんですよ。
すごいこれは変なんだけども、なぜなら相手は罪悪感を持ってるからって許してくれないですから。
ただ、罪悪感を持ってないとより罰が厳しくなるような印象っていうのがあったんですよね。
今はあんまないんですよ。
これがなくなったのがすっごい大きいんですよね、私にとっては。
これがなくなったのがグッドバイブスのおかげを持っているところも強くて。
これがなくなるのに、一役も二役も買ったのが対象関係論っていう、何度もこの番組では出てくる精神分析のイギリスを中心に展開した一派なんですよ。
一般的には、この話するとダメだね、30分には終わらないから今日は飛ばしますが、
一般的には対象関係論の考え方っていうのは必ずしも、
私みたいな、おおむね健常から神経症水準ではいらないみたいに言われていた時代もあったんだけど、あったらしいんですけどね。
そんなことはないんですよね、私の感じでは。
自我心理学っていうのは、私たちのような、いわゆる三相構造というやつ。
言葉が通じる人生相談に行って、言葉のやり取りである程度自分の心を持ち直せる人間には対象関係論までやらなくていいんじゃないのっていうのがあるんだけど、
僕はそうは思わないんですよ。
なぜならこの罪悪感というのは、なんか全然論理的じゃない感じが強いんですよね。
罪悪感は、もともとは多分発祥としては長寿がだと思う。長寿が以前があるんだよね、でもね。長寿が以前があるんですよ。
とにかく、やらかすということ。
見放されるということにも当てはまるんだけど、いろんな意味でのかなり原始的な不安、つまり分離不安にそこがあるんですよね。
分離不安っていうのは、最近YouTubeでも何度もやってるんですけど、いい悪いの分割からくる考え方だと思うんですよね。
例えば、家の中というものはいいところだ、家の外に悪いものが全部あるんだって考え方に染まったらですね、染まるんですよね、こういう考え方に。
例えば、小さな子供が夜を異常に怖がるとき、こういう感覚になってるんですよ、きっと。
これを上手に、上手にでもないけど、非常にシュールに描いた人の漫画家に、津芸義晴さんがいますね。
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夜が怖い、夜が襲ってくるっていうやつね。
あれ、よくイメージされてるなって思います。
なんてことない絵なんだけど、植物的なんですよね、夜が足を掴むとかね。
非常に植物的じゃないですか。
本当の恐怖ってそういうことじゃないんだけど、でもあれは雰囲気よく出てるなと思います。
で、夜が怖いっていうのは結局、夜に外に追っこり出される恐怖みたいなものだと思うんですね。
これが子供にとってはなんか切実ですよね。
パニックになっちゃったりする可能性がある。
ヨーロッパって結構すごいんで、内側から鍵かけてガッチャハンとかいって絶対この場所開けられないような、
日本の引き戸みたいなのとはわけが違うじゃないですか。
ああいうふうなことを子供が想像するとですね、家における父親とか母親でもその時はもちろんなんだけど、
絶対権力的な何か、それが長寿がをやっぱり象徴すると思うんですよ。
例えばお漏らしをすると外に出されるとかね、恐ろしいじゃないですか。
しかもヨーロッパ冬寒いですしね。
なんかそういうところから、つまり罪悪感を持ってますということを表明できることが、
子供にとっては結構切り札みたいになっちゃう感じってあると思うんですね。
これもまた良い関係、悪い関係の拠地なんですよ。
こういうところに私が何度もここでもお伝えしているヒステリーというものの、
このさらに原始的な、もっともっと我々をパニックに陥らせるようなものがあると思うんですね。
私、実を言うというかよく考えるまでもなく、
別に銀は奥さんが家から出て行けって言っても困らないんですよ。
なぜなら出て行かないから。
そしてこの家ははっきり言って、総額私が持ってるから私全然困らないんですよ。
なんでこれが怖いんだろうっていうことなんですよね。
私は一体自分を何から守ってるんだろうと思うと、
守ろうとしてるんだろうと思うと、
やっぱりですね、私は突き詰めて言うとこれっていうのが、
私をSから守ろうとしてるんだって思ったんですね。
前も思った。
最近ねじ巻き鳥読んでつくづく思いました。
やっぱり井戸から出てくるものから私を守ろうとするんですよね。
これが我々の自我の自分がSに直面したくないっていう、
Sからの飛び出してくるもの。
それはパニックなんだけど、
パニックに直面したくないっていう感情なんですよね。
切実なところがあって、
しかもそれに慣れちゃうとね、
自我がそれを防いすることに慣れちゃうと、
このパニックに一生向き合わずに生きていけないだろうかって思っちゃうんですよ。
これを防衛メカニズムから説明するんですけど、
僕はこれじゃ物足りないと思うんですよね。
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そもそもこの考え方をとってしまうとですね、
なぜ私をパニックに陥らせるんだと。
瓶を割って怒るのはしょうがないけど、
怒りすぎじゃないかとかね、
こういう話になってしまうじゃないですか。
つまりどっちがきっかけで、
どっちに原因があるのかというのを
時系列で追い始めますよね。
先に手を出したのはどっちだ問題になっちゃうんですよ。
この問題でずっと押していくと、
私先に手を出すことがとても少ないので、
無罪っぽい感じがするんですよ。
そこで僕はすごい悩んでたんだと思うんですよね。
罪悪感はあるんだけど、
でも自分は無罪だと。
これをどこに訴えたらいいんだろうっていう感じになっていくんですよ。
でもこれを訴える先はないんですよね。
なぜなら夫婦関係は二者関係だから。
第三者がいないから。
こういう時に子供が成長してくると、
一つのジャッジメントの役割を負ってくれるんだけど、
子供にジャッジを負わせまくるのは、
明らかにいいことじゃないなっていうのもあったわけです。
それで私が対象関係論の方が、
私にとって結局有益だったっていうのはですね、
ちょっと途中飛ばしてるんだけど、
妻の気持ちが、
銀を割られた時の妻の気持ちが、
私に問えどいつかですよ。
吹き込まれたって考えた方が、
こう考えることによって、
私と妻は今同じ気持ちになったっていう
捉え方ができるんですよ。
この時にどっちが先も後もないんですよね。
これが妻の気持ちなんだと思えばですね、
あまり妻に、
どっちが先に怖がらせたということを
言い始めてもしょうがないなと。
銀割ったの自分だしね。
これを言ってもしょうがないなと。
この気持ちになっちゃったら、
これを何とかしないことには始まらないよね
というところに持っていけるようになればですね、
今ここなんだけどもこれは。
この考え方になれれば、
この問題って解決するんですよね。
私これ何度も何度もやったんですよ。
妻と今私は同じ気持ちになったんだと。
この気持ちを何とか私ができるということは、
自分がこの苦しさを何とかできるならば、
妻もできるだろうと思えるし、
もし何ともできないからもう妻に
食ってかかるしかないんだということになれば、
相手が自分に食ってかかるのもしょうがないじゃないですか。
これ何回言ってもですね、
実に単純な話なんだけど、
妙に面倒くさいことを言ってるような気がするんですよね。
同じ気持ちになってるっていう風に
捉えるところがミソなんですよ。
ここに共感っていうのが生まれるじゃないですか。
ネガティブな共感だけど。
これ以来自分はタスクシュートでも
100日チャレンジでも
先送りの問題でも
記録ができない問題でも
全部同じだと思ったんですね。
自分がちょっとこの文章を読んで
何で記録ができないっていうことを
言うのかなと思ったら
これに近い気持ちに書いた人も
なってるんですよ。
ここに共感が生まれるんですよね。
こうやって考えていけば
自分が抱えられる、
だからやっぱり対照関係論っぽいんですよね。
抱えられるレベルであれば
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全部相手の人だってできるはずなんですよ。
何らかの形で。
私は抱えられるということは
苦しくなくていいはずなんですよ。
最初に苦しみの共有というものをしますよね。
でもこれは解決できるんだよなって
私が思っていれば
この苦しみは何とかできるんだよな
っていうふうに思えるわけじゃないですか。
あとは伝え方の問題だと思うんですよ。
相手の人が苦しくなってますと
相手と自分の苦しみが
全然違うレベルであって
私と相手の能力が全く違う。
私の方が例えば
特に能力が高いとかだとダメなんだけど
私はそうじゃないことが分かってるんですよ
タスクシュートにおいては。
これは象徴機能が使える
つまり言語が使える人なら
誰でも扱えるもので
もちろんだから二歳児とかじゃ無理ですよ。
だけれどもそうじゃないんだから
何とかなることは分かってるわけですよ。
だから相手の苦しみ
文章を読むとやっぱり
独特の書かれ方してるからね。
なんでこう思っちゃうのかな
と私が苦しんでるわけじゃないですか。
なんでこう思っちゃうのかな
っていうのがニードなんですよね。
ニーズじゃないですよね。
なんでこう思ってるのかなっていうのは
どこにも要求が存在していないから。
なんでこう思うんだろう
こう思わないでほしいなまで言って
少しニーズっぽくなるじゃないですか。
それは相手に投げちゃうからダメなんだけど
ニーズを抱えるべきなのは私の方ですからね。
こういう風に考えていくうちに
あらゆる問題の糸口ってのは結局
私の漢字では東映同一化で
苦しみを共有しましたと。
そしてこの苦しみに対して
私がニーズを
これをニーズに切り替えることができたら
なるほど解決の糸口は見えるはずだ
っていうこういう考え方なんだなと。
ある意味全部そうなんですよ。
ここで一番邪魔になるのが
罪悪感なんですよ。間違いなく。
なぜ俺が苦しまなければならない
っていう考え方。
あるいは私はこういう苦しみに
相手がこういう苦しみに至ってしまったのは
タスクシュートに何か問題があるんじゃないだろうか
という考え方。
こういう文化に迎合するような顔をしておいて
誰かを罰することで問題を片付けようとする。
誰かを罰することで問題を片付けようとする
ってのは結局Sがニードを発しちゃダメだ
ってことですよ。
Sは泣き始めた。泣いたらうるさいと言って
罰するわけですよね。
ニードを発しちゃSがダメだってことになったら
僕らは何もできなくなるんですよね。
糸口がなくなっちゃうんですよ。
でもSがニードを発するというところに
網をかけてこれを形のいい形に防衛して
自分の字が扱いやすい形に変える。
これが防衛メカニズムなんだけど
これはですね、長字がに対して
言語をしすぎだなという感じを今私は受けるんですよね。
文化に沿い過ぎている。
文化に沿ったやり方ばっかり考えていて
文化が先にありきになっちゃってるんですよね。
こうじゃない方がいいような気が
最近つくづくするというお話でした。
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