おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ第1131回をお送りします。
2月になりましたね。2月5日、水曜日、朝の7時46分です。
ここ2日お休みいただきまして、本日はめちゃくちゃ寒いです。
なんて言うんですか、冷化ですね、冷化。冷化になってしまいました。今もですね、あまりの寒さにぼんやりしていて、それで15分ぐらい遅れたわけですが、それぐらい今日は寒いですね。
しかも、普段でしたら、ここを閉めるんですが、後でちょっと閉めようと思ってるんだけど、あまりにも寒くて、洗面所の戸を仕切る気がしないぐらい寒いですね。
まあまあ、寒いのはでもしょうがないんで、温暖化なんで、たまには寒くなったほうがいいんでしょうから、
寒いのを息を取り直して、あまり寒くなると、私はやっぱりなんとなく元気がなくなる感じもありますが、これは大体においてなんとなくなんで、そのうち元気になってくると思うので、寒いんですけれども、まあまあ、ぼちぼちやっていこうかなというふうに思っておりまして、
今日はね、昨日一昨日とせっかく休みいただいたんで、言ってることがしりめずれすですが、元気にやっていきたいと思ってます。
そうですね、最近またちょっとした出来事がちょこちょこっとありまして、休みをもらったのもそうなんですけどね、
改めて、いつもこれやってますけどね、改めて3ヶ月チャレンジという、私が今回第9期が開始したばかりですが、2月、3月、4月の第9期の3ヶ月を始めましてですね、
いろいろまた改めて考え直しているところなわけですね。で、私がなんで精神分析が好きですよね、結局好きで、
そしてどうして今タスクシュートをやっているのかをつらつら考えて、見たというか考えてしまってたんですよ、さっきトイレの中で。
まあここのところちょこちょこいろんな出来事があって、私の人生ではそういうことに今はとにかくなっていて、
タスクシュートをやって精神分析の本を読むというのが、さっきトイレの中でもその精神分析の、あの久しぶりにね、藤山直樹さんの精神分析という営みを読み直していて、
まず一つの驚くべき発見はですね、こんなこと書いてあったんだっていうのがですね、毎行毎行出てくるんですね。
これはなんかいい本読んだ時の感触ですね、読み直した時。びっくりするんですよね。
初めて読んだ漢字はさすがにしませんけれども、こんなこと書いてあったっけっていうことが次から次へと出てきて、
前よりはやっぱりわかるようにはなったんだなと。わかんない本って結局、わかんない本とはいえ全く100%わかんないととても読んでられないので、
わかんない本でもいくらかはわかって読んでいくわけですけど、わかるのにいっぱいいっぱいになるんで、やっぱり細部まで読み込んでいる余裕はないわけですね。
今はあの本は、やっぱりよくわかってきているんでしょうね、相対的にはね。
だから一行ごとに発見がおびただしいわけですよ。それがお前わかってなかった証拠だっていうことになりますが、まあそうなんですね。
で、わかってくるとこれがまた面白いことに、物足りなくなってくる部分もあるんですよ。
あ、ここは何かこう端折られている。書いてる方は端折ってるわけじゃなくて、本筋があるからそこは細部に渡って細かく書き込んでいる場合ではないから、
あの、まあ適宜飛ばしているわけなんだけど、どうしてもやっぱりそこが気になるってところも出てくるわけですね。
その話、編の話を知ってるせいもあってね。だから、ああこういう現象が起きるわけね、というのをまあ感じますね、やっぱりね。
で、これを理解できているということは、まあやっぱり前よりは先へ進んだわけでして、精神分析に対する理解化ですね。
そうすると何が起きるかというと、何が起きるかというと、まあいろんな気を配るべき部分がやっぱり、読書においても気をつけて読んでいる部分が増えているように、
3ヶ月チャレンジでも気を配っていきたくなる部分が、まあまあいいことではあると思うんですが増えるわけですね。
で、増えてみて、これもまた改めて実感するんですけれども、増えてみるとですね、
以前はよくあれでやってたなと、よくありがちな感触も抱くわけですけれども、
同時にですね、これはやっぱり、
私の好みなんだなということがだんだんだんだんとわかってくるんですよ。 それがいいことなのかどうなのかはわかりませんけど。
で、私この番組でもノラカウンセリングと正気のカウンセリングという話をね、よくしますね。
私はそれはもうほぼどうでもいいことだと思いながらも、またしばしばXで燃えていたりいたしますもので、
それはまあついつい興味を惹かれて読んじゃうわけですが、あの千葉ロッテの今、ストーブリーグの話題がいろいろあるのに自然と、
大して意味もなくても惹かれてしまうように私はやっぱり惹かれてしまうんですよ。 正気とノラのカウンセラーの闘争みたいな闘争なのかなとわかりませんが、そういった話題に、
本来私はさほどの興味を今抱いているとも言えなくなってきつつあるのに、なおやっぱり読んじゃうわけですね。 まあどっか惹かれているわけですよね。
精神分析だって最初はノラだと言えなくはないと思うんですけどね、やっぱりね。 最初って1900年の頃ですよ。まあそりゃそうですよね。だって創始者一人しかいなかった時代がその頃だったわけですからね。
正気も何もあったもんではありませんよね。
一つというか私の中でですね、定まりつつある一つの定義として、ノラカウンセリングの問題というのはですね、まあ問題といったって問題のない、正気よりいいんじゃないかというのも本当にわずかであってもないわけではないんですが、問題があるなというふうに言えるのはですね、
融通が効かないってことに私は集約されつつあります。 融通の効かないカウンセリングって、まあカウンセリングに限らないと思いはしますけれども、カウンセリングというのはあんまりよろしくないなと。
3ヶ月チャレンジの参加者さんも時に訴えられる、一般ユーザーの方もしばしばここを指摘されるんですけど、やっぱり形式に当てはめようとするっていうのがカウンセリングで一番ことを荒立てるというのも変ですけれども、ことを難しくするように思います。
でもカウンセリングっていうものは、そもそも形式が全てみたいな、形式が全てではないんだけど、形式というものにどうやって乗っからせるかなんですよ。だからここには最初からある種の葛藤というようなもの、装刻と言ったらいいのかもしれませんが装刻だと難しいので闘争でもいいんですけどね、葛藤のようなものがあるんですよ。
葛藤があると言ってしまった方がいいかもしれませんね。私実際にほとんど見たことがないし、体験したこともないんですけど、しかもあれは野良カウンセリングっていうのはよほど抗議、抗議に野良カウンセリングを定義した場合だなと思うんですけど、水晶玉占いってあるじゃないですか。あれに形式を見ない人はいませんよね。
具体的にあれは何するのか私知らないんですけど、まさに絵の世界になってしまうんですが、水晶玉に未来が映るわけじゃないですか。水晶玉ってまさしく、私もあれを見るとすごく何かロマンを掻き立てられるんですけど、一体何のロマンなんだか、ファンタジーですよね、があそこにありますけれど、ある気がするんだけど、とにかくそれは形式ですよね。水晶玉という形式に引きずり込むわけじゃないですか、相談所。
この形式以外では私はやりませんよって言ってるわけですよ。
すべからくカウンセリングって実はそうなんだけど、いかにこれをですね、この敷地をニューカマーに、参入者に下げて入ってきてもらい、かつその形式を使ってとことんその形式の中でやれるかというのがカウンセリングの勝負どころだと言われているし、またそうなんだなっていう。
藤山直樹さんはここを非常に、特に上手に強調される精神分析家ではありますが、基本的には考えてみるとすべてのカウンセリングとはそうしたものですよね。
手相占いもまたしかりですよ。だって手相見るじゃないですか。手相以外基本見ませんよ。手相以外見ない。水晶玉を必ず使う。タロットカードを必ず使う。すべては形式なんですよ。形式に参入することを同意されていない限りあれはできないし、すんなり同意する気がある。
例えば、だからそこに道具の立て付けというものの魅力があるわけですよね。ないと嫌じゃないですか。なんかこう水晶玉とガラス玉とプラスチックは違うんですよ。あれは水晶玉であることに意義がある。多分あれはですね、ランクがあるんですよ。きっと絶対。高い水晶玉はいいんですよ。高いやつは崩壊な値段すると僕は思いますね。宗教的な装置って基本そうですから。
うち寺だったけど、寺そのものものが大変高いですよ。そして寺について、でも寺もランクがあるんですよ。全然違うんですよ。寺の値段って。で、かつ寺に置いてあるあの仏壇、仏具ってやつね。あれ高いっすよ。
ああいうものはね、しかも高ければ高いほどちゃんと感じがよく出ているようになっているんですよ。上のものは崩壊な値段しますよ。確かに。崩壊も何も一般の人を買うものじゃないから、あの相場ってものもあってないようなところもあるんですけど。まあいずれにしてもそんなに安い金額で手に入るものではないです。
あとお珠とかね、あれも高いですよ。なんか翡翠が入ってるとか何とか言い出すとめちゃくちゃするんですよ。どうかと思いますけどね、ある意味ね。とにかくそういうことなんですよ。そういうものなんです。これもまた形式ですよ。形式が大事じゃないっていう言い方をする人もいらっしゃるんだけど、形式が大事じゃないってことになってくると、もはや何でもありになっていくわけですよ。本当に。
ある方法論はそれに何かを追加しない方が優れていると当然私は思うんですよ。
推奨玉が優れてるなら推奨玉以上のものをそこに追加しちゃダメなんですよ。
推奨玉プラスタロットがいいです。いいとこ取りをしましょうとかってやんないじゃないですか。普通に。
推奨玉とタロットと液を合わせましょうみたいな。税蓄とタロットを掛け合わせましょうみたいな。
世の中にはそういうものもあるのかもしれませんけれども、基本的にそれぞれが優れているという流派はそういうことは従わないものなんですよ。
そうでなくても制約が一つ存在しているのに、推奨玉なら推奨玉を使わなきゃダメ、手相なら手相で売らなきゃダメっていう制約があるのに、
さらにそれに追加していくというのは自分の自由をわざわざ削り取っているようなもので、狭めるようなもので、
参入障壁は上がるし、いいことないんですよ。お金もかかるしね。
基本シンプルである方がいいに決まってるわけですよ、この種のことは。
そう考えてみると私はタスクシュートに余計なことを追加したり、マスタータスクリストとかを追加するとか、
タスクシュートを逆算でやるとかいうのは、いいものを全部壊しているようなものであって、
私からすると、やる意味がわざわざ減っている、その枠組みの中であれば、何をしてもいいという方がいいはずなんですよ。
精神分析だって、来て自由に連想したことをしゃべってください。
ただし、私の悪口じゃダメですとかっていうことをやりだしたら、いきなり効果は半減では済まないと思うんですよね。
1%ぐらいまで下がっちゃうと思うんですよ。制約は儲けない方がいいわけですよ。
そういうことはつまり、何を言いたいかというと、そこに行ってやるべきことが決められていない方が決められていなければないほどいいと思うんですね。
枠をカッチリ設定したらですね、カッチリと言ってもできるだけカッチリじゃない方がいいんだけど、
枠を設定したら、その枠以外の制約は少なければ少ない、ない方がいいと思うんですね。
野良と正規を比較した場合、一見したところそうは見えないかもしれませんが、野良カウンセリングの方が実は制約が大きいんですね。
時間とかお金とかにうるさくなさそうだから、正規の方がうるさそうに見えるかもしれませんが、
例えば精神分析というのは、精神分析とはこうであり、この道具を絶対つかなきゃダメであり、みたいなことはほとんどないんですよ。
くつろげる椅子に座って好きなこと喋っていいわけだから。
喋り続けてなければいけないという話はないし、沈黙しても構わないんで。
なんなら1時間50分か、ワンセッション50分沈黙指導してもいいわけです。
何しても自由なんですよ。
そこで危害加えるとかはダメだと思うし、火つけるとかもダメだと思うんですけど、それは社会の常識の範囲内じゃないですか。
人の血に入ってやっちゃいけないことはやっちゃいけないわけですよ。
ほぼそれに準ずるわけですね。
だから別にお好みならばですけど、分析家のことを罵ったって構わないわけですよ。
これはタスクシュートでしばしば言ってることと似ては聞こえないと思うんですが、私の中ではよく似てるんですね。
1日中ゲームやってても全然いいんですよ。1日中ファンザ見てても全然いいんですよ。
それはさすがにダメでしょうとかって言われるんだけど、なぜだって私は言いたいんですよ。
なぜそれはダメなのか。なぜそれはダメだと、タスクシュート的にダメだと言えるような理由は一個もないわけですね。
そして私は普段しばしば逆に思われるんだけど、そういう制約を設けないんだったらやる意味ないじゃん。
私は全く逆だと思うんですね。そういう制約を設けるんだったらタスクシュートでなくていいんですよ。
時間割りとか計画表とかに沿って行動することにした方がはるかにマシだと思うんですね。
そういう意味ではタスクシュートってほぼ役に立たない。
だって何時に開始するかというものを先に決めることがあれは基本できない、非常にそのためにはこなれてないツールですから。
それだったら時間割りみたいに枠がカチッと決まってて何時から何時までこれって書いてあるやつにやった方が分かりやすいじゃないですか。
それをやりたければですね。私はそれをタスクシュートでやることほど真逆な話はないと思うんですよ。
だから何やったっていい。何言ってもセラピー中何言っても構わないように。
あらゆるセラピーがそうかどうかは知りませんけど、少なくとも精神分析ではそうですね。
基本何を言ってもいいはず。そしてクライアントは何をやってもいいはずなんですよ、外ではね。
もちろんそれは常識の範囲内での話ですよ。
何をやってもいいって言っても、人殺してもいいとかいうことには当然ならないわけですが、それは当然なんで。
社会の方があるからね、その外側には。
でも精神分析の方というのはそれほど社会の方に比べて狭まってはいますよ。
ここに来なきゃいけないことになってるから、特定の時間。
でもそんだけなんですね。
私タスクシュートってタスクシュートを使いさえすればいい、そんだけなんですよ。
他は何にもないんですよ。
そこが僕は一番いいところだと思っているんですね。
これを使いさえすればいいという枠にはめてしまえば、大体のことはうまくいくはずだ。
少なくとも時間に関わることは。
大体の人ではないんだけど、そこに制約を追加しようとする方は、この枠組みでうまくいくというエイトスというべきなのかな。
文化的な営み、多くの人がそれでうまくやってきたという事実を軽視してると思うんですよね。
私はここを結構実は重く見てるんですよ。
理論上うまくいくはずだと信じてるだけではないってことなんですね。
相当数のユーザーさんがこれでうまくいきましたと言っているという事実があるんですよ。
そんなのは信じられん。
俺の頭の方が信じられるっていうわけで何かを追加するわけじゃないですか。
マスタータスクリストというのは僕はその最たるものだと思うんですけど。
あと例のアッガントチャートから逆算ね。
こっちを追加する、GTDと掛け合わせるとかでもいいんですけど、方が私の考えでは優れていると。
私は延べ1000人は絶対超えてると思うんですけど、1000人の人たちがそれなりの時間、もしかすると1年ぐらいかけてきて、
これはうまくいったっていうのに対する私はそれはある種軽視だと思うんですよね。
そういう文化に対する軽視っていうのかな。
やってはいけないとは思わないんですよ。
文化に対する軽視って人は知らず知らずのうちにやるものだから。
例えば、日本人どんなにうまいって言っても納豆ダメだねっていうアメリカ人がいるのはしゃーないじゃないですか。
あるいはお茶ってあんまりおいしいと思わないわとか、蕎麦ってあんまりおいしいと思わないわってしゃーないじゃないですか。
でもそれは、それこそですね、数億の人たちが1000年にわたってこれはいけるっていうふうに判断しているその判断に対する軽視ではあると思うんですよ。
それがたかだかこう1回食べてみただけでね、まずい、しょうがないとは思うんですよ。
癖強いからね。でも文化ってそういうもんだなって思うんですよね。
だから一定の文化に対する一定の経緯みたいなものっていうのは、わからなくても払っておくみたいなことってあるじゃないですか。
政治分析が要求していることって多分にそういうもんだ。
そういう意味では、そうだろうと星占いだろうとある意味同じようなところあるんですよ。
だから受け入れられないんだったら近づかないことだろうなっていう感じはするんですね。
で、そういう意味では私はタスクシュートっていうのは、まあまあそんな1000年とかないし、日本の食文化みたいなコンセンサスも得られてはいませんけれども、
相応のものにはなってきていると思うので、これに対して安易な追加は何にも言うつもりはないですけど、
でも到底やる気にはならないっていうか、人には勧められないっていうのはありますよね。
まあこういうことを言うとね、また小うるさくなるんでね。
だけれども、だからこそ余計なことをしないほうがいいと思うんですよ。
みんな自由にやるほうがいいと思うんですね。
自由度が高いほどいいわけですよ。
だからそこに来たら、来さえすればいいと。来て喋ればいいんだと、ある意味ではね。
来て話をするということさえ守っとけば、あとは基本的に自由ですと。
自由連想ですということを言ってるわけですね、あれは。
それで、そう思うとですね、私はこう、私はまあもちろん正規ではないんだけど、
正規というものに意味があるとすると、そっちに近づきたいと思うのであればですね、
やっぱりこう、自分の枠に、自分の形に、形式に、はめないようにすればいい、するほどいいだろうというのは思うんですよね。
ここにあるのはですね、方針に対する過剰な矯正なんですね。
方針を過度に矯正してしまう。
例えば行動を主義的であるとするならば、何かこう、先送りを訴えてこられた方に、
じゃあ自分が先送りしなければ、その分自分に報酬を出しましょうというのを、
こういう形式に相手の話を引きずり込まない。
やっぱりどうしても正規でないカウンセリングは、これをやりがちであるし、やりすぎてしまう傾向があると思うんですよ。
だからロジャーズ的なノラカウンセリングってきっと計帳しすぎちゃうと思うんですよね。
とにかく計帳。ひたすら話を聞いて心に寄り添うという形に、ユーザーを引きずり込もうとしすぎると思うんですよね。
多分ロジャーズで対価の人ってそういうことをしないと思うんです。
なんかよくわかんないけど話をしてもらったみたいな形になりやすいと思うんです。
そうじゃないと、ひたすら話聞きます。私アドバイスしませんからみたいになると、変じゃないですか。
うまくいくことはあると思いますよ。タロットがカードが好きっていう人と同じように、とにかく話を聞いてもらいたいみたいな人にフィットする。
つまりマッチングが狭くなっていくと思うんですね。これをやってしまうと。
マッチングは広ければ広いほどいいと思うんですよ。なるべくならどんな人でもそれができる、それは使える。
だって人生相談やってるんだから、ある種の条件を持っていないけれども対応できますという方がいいに決まってるじゃないですか。
だから精神分析というのは一方でですね、私はすごいなと思うのは、統合失調まで射程に入れてるところがすごいと思うんですよ。
なかなかね、タスクシュートとなってくると、ボーダーの厳しい人とか、欲打つ状態が極めて重い方にタスクシュートいけるかっていうと無理かも。
現に私そういう話をタスクカフェで、タスクカフェという大橋裕都さんとやってる中でね、いやそれは最初から無理だろうって僕は思ったんだけど、
もうなんかこういうね、時間の羅列を見ているだけでも気が重くなってダメなんです。
いやいややめた方がいいっすからそれっていうことになるわけですよ。
これはだから時間の羅列がこの形式上必ず発生してしまうと。
そこでジェーン松崎さんもおっしゃるように、いいんです、3つでいいんですみたいな。
でも3つでも最低時間は6つは見なきゃならないしなみたいな。
普通の人はそういうことで悩まないじゃないですか。
普通の人って言っては申し訳ないけど、まあまあ悩まない人の方が多いじゃないですか。
だって時間の羅列を見るのが恐ろしいってことになると、運動会のプログラムだってダメじゃないですか。
ダメって人いるんですけどね、実際に。
つまり形式というものは参入障壁になるってことなんですよ、実際には。
いや私水晶玉見るのも嫌でっていう人はやっぱり水晶玉占いに行っちゃいけないと思うんですね。
場合のない話なんですけど、そういうことなんですよ。
参入障壁が少なければ少ないほどやっぱりその方法論は優れていると言えると思うんですね。
ここが逆のように語られるっていうのは変だと私は思うんですよ、やっぱり。
最初はボーダーラインより精神病水準が厳しい人にはタブーであるって精神分析も言ってたんだけど、
そこを言ってみれば対象関係論というところで拡張していってるわけですよね。
だからあれですよ、私の靴下には穴が開いていて、その穴からペニスが漏れるから履けないんですみたいな話を
ビオンの症例では今のは相当いい加減でしたけれども、でもそういう話も聞いていけるんですよ。
しかもそういう話に分析や解釈ができていく。
そしておそらくは理解が進んで治療が、普通の意味で治療とは言わないですけどこういうのを、
でも治療が進展していくと。やっぱり拡張できるレベルの広さですよね。
こういう人に自由じゃなく物を言うとか無理じゃないですか。こういう人に手相を出しなさいと言っても無理かもしれない。
推奨占いをしたとしても意味がはなさないと思うんですよ。
つまりこれは占いより優れているかどうかっていう話をですね、
スピかどうかとか科学的かどうかって言うだけじゃ物足りないということなんですよ。
そうじゃなくて参加できるかってこと。参加できる半径が広いかどうかってことが、やっぱり僕は正式というのは実は参加できる人を問わない。
つまりそこは究極差別的ではないという話につながってると僕は思うんです。
それは正規ほどそうであるべきだというふうに私はやっぱり思うんですよ。
精神分析というのは時間と金がかかりすぎると。
つまりそれはお金のない人を排除しているというふうに言って認知療法ってものを始めた人がいたんですよね。
認知療法の意義ってそこにあると思うんですよ。
同学で果たしてそれがいいのかって話はその辺から来るかなと。
ただ私は精神分析っていうのは包外に高いかっていうと微妙なところだと思うんですよ。
これに保険がかかったらもうそんなに包外な値段ではないって言え始めてしまうんで。
で私はその認知行動療法みたいなもの、特に認知療法かなと。
精神分析というものが療法なんか正規の中で普通に同居していますっていうのは実は結構謎が大きいなと思わなくはないんですよね。
早く安く治せるというのが認知療法のある意味良さだったはずではなかろうかと。
早く終われば安く済みますからね。
1回あたりの料金がかかっているわけだから。
精神分析が金持ちの増落みたいな話になってくるとそれはさすがに言い過ぎな感じがするんだけれども。
とはいえあの値段で5年やるとなると総額はかなりのものになりますよね。
ただ先日私思ったんですけど最近話題になってますが国立大学の授業料とか国立大学だって6年とか至り院とかまで行くとですね。
金額相当なもんですからねという感じもしなくはないんですよね。
だって精神分析ってあれですからね。
自由に何をしゃべってもいいというので人一人その時間ずっと拘束するわけですから。
ある意味大学の先生に個人授業をしてもらうそこまではいかないかもしれないけど家庭教師1時間つけそれも週に4回みたいな話なんでそんなに安く上がるわけがないんですよね。
そしてえっと割と10度の精神障害みたいなものをそれだけで目覚ましく改善させようと思ったら割とそれだけのヘマヒマは必要であってもそうおかしくはないんじゃないかっていう感じもしなくはないですよね。
私は3ヶ月チャレンジでそういうことはやってませんからね。
ただ私が思ったのは参入障壁を下げなきゃいけない。
どんな人でも来られるようであった方がいいに決まっているっていう線で考えていくとこれは野良も正規もないと思うんですよ本当はね。
絶対その道具が必要っていうよりはその道具なくても済みますっていう方がベターだし優れていると言っていいと思うんですよ方法論としても。
GTDがねGTDってありますね。
仕事術ですね。
Getting Things Doneという。
あれが紙とペンでできますって強調したのは訳がそれなりにあるよねって思うんですよね。
やっぱりそれはいいよねいう言葉としては悪い言葉ではないと思うんですよ。
エヴァノートが絶対必須ですみたいに言うよりは紙とペンだけでいいんですって言った方が。
現実行動、現実的な常識的な行動の中でその枠組みの中でできるという意味において優れてるんですよ。
追加しないほどいいっていうのは私はそう思うんですよね。
ここには絶対オムニフォーカスがいるんですっていうよりは紙とペンだけで済むんですっていう方が優れてるとは思いますね。
そういう意味でなるべく3ヶ月チャレンジもそうでありたいと。
なるべくそうでありたいということの言葉の含みとしてはですね。
やっぱりその人がその状態のままでやれるってことが望ましいわけですよ。
ここまたさっきですね。
あるポッドキャストに逆張りに言うタイカの人がいてこれは面白い話をしてるなとは思うんですけど。
後で聞いとこうと思ってたんですけどね。
例えばロジャーズの継承にしても継承をハンセラーの人がやるにはやっぱりクライアントさんもそこそこ協力が必要なんですみたいな。
これは本当に逆張りなんですよ。
言ってることがすごい逆説的でもうまるで逆算をタスクシュートでするんだぐらいな話で。
タイカがこれを言うってことは何か絶対あるんですよねっていう感じはするんですよ。
面白い話なんですこれは。
普通はそうは絶対言わないです。
継承というのはセラピストが頑張るべきところであって聞く。
何を言おうと言うまいと協力的であろうと非協力的であろうと。
だってもう患者さんいっぱいいっぱいなんだから。
本当に来るだけでも精一杯なんですっていうのに継承に協力とんでもないですよっていうことになるじゃないですか。
とんでもないぐらいの心理状態の人が来ていらっしゃるわけだから。
私こういうことでタスクシュート考えるんですよ。
だから余計なもの追加したくないんですよ。
いやもう無理無理全然無理。
開始時刻書くのももう何か腕が鉛のように重いんですっていう人だってギリギリできるかもしれないって思うから考えるんですよ。
そういう人にマスタータスクリストを作るってことが土台無理じゃないですか。
何か体が地面と離れてくれませんと。
体は鉛のように重いんですと。
私はコロナの時にここで水を飲むとかここで薬を飲むっていうのはすっごい辛かったけど。
欠かさずつけたんですよタスクシュート2話で。
限界だなっていう日があったんですよ。
でも真っ白ではなかったんですよね。
こういう日にマスターもヘッダクレもないんですよ。
Googleカレンダーを見るのだって無理だったんですよ。
でもタスクシュートはつけたんですよ。
これは拡張しているつもりでいるんですよ私としては。
最大ユーザー数の拡張なんですよ。
ユーザーを多く取り込みたいって意味じゃないですよ。
もちろん多く取り込みたいけれどもそうではなくて。
参入障壁が低いって意味なんですよ。
精神状態がそうは言っても無理だってことあると思うんですよね。
タスクシュート開くってことを脳が受け付けないってことあると思うんですよ。
限界ギリギリってどういうことかってそういうことなんですよね。
やっぱりね。
もちろんこれは一般的な話ではないですよ。
あれはビジネスツールですし。
だから3ヶ月チャレンジでもそうです。
参入障壁いくら低いと言ったってものには限界があります。
簡単に思いつくところでは全部外しておきたいというのはあるんですよ。
ガントチャートから逆算で引くなどというのはよっぽど健康な状態でないと無理なんですよ。
そういうことを最初から想定してガントチャートが既にあるにも関わらず
タスクシュートとガントチャートを掛け合わせるなどというのはですね。
私からすると余計も余計なんですよ。
それは調子が非常に良い時にはできるかもしれないけど
調子がかなり落ちてくるととてもじゃないけどやれなくなってくる。
調子が良い時にしかできない方法っていうのは
調子が悪い時には役に立たない方法になってしまう。
私たちが果たして1年のうちに何日調子良く過ごせるのかって考えてみると