寒さと精神分析の思索
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ第1131回をお送りします。
2月になりましたね。2月5日、水曜日、朝の7時46分です。
ここ2日お休みいただきまして、本日はめちゃくちゃ寒いです。
なんて言うんですか、冷化ですね、冷化。冷化になってしまいました。今もですね、あまりの寒さにぼんやりしていて、それで15分ぐらい遅れたわけですが、それぐらい今日は寒いですね。
しかも、普段でしたら、ここを閉めるんですが、後でちょっと閉めようと思ってるんだけど、あまりにも寒くて、洗面所の戸を仕切る気がしないぐらい寒いですね。
まあまあ、寒いのはでもしょうがないんで、温暖化なんで、たまには寒くなったほうがいいんでしょうから、
寒いのを息を取り直して、あまり寒くなると、私はやっぱりなんとなく元気がなくなる感じもありますが、これは大体においてなんとなくなんで、そのうち元気になってくると思うので、寒いんですけれども、まあまあ、ぼちぼちやっていこうかなというふうに思っておりまして、
今日はね、昨日一昨日とせっかく休みいただいたんで、言ってることがしりめずれすですが、元気にやっていきたいと思ってます。
そうですね、最近またちょっとした出来事がちょこちょこっとありまして、休みをもらったのもそうなんですけどね、
改めて、いつもこれやってますけどね、改めて3ヶ月チャレンジという、私が今回第9期が開始したばかりですが、2月、3月、4月の第9期の3ヶ月を始めましてですね、
いろいろまた改めて考え直しているところなわけですね。で、私がなんで精神分析が好きですよね、結局好きで、
そしてどうして今タスクシュートをやっているのかをつらつら考えて、見たというか考えてしまってたんですよ、さっきトイレの中で。
まあここのところちょこちょこいろんな出来事があって、私の人生ではそういうことに今はとにかくなっていて、
タスクシュートをやって精神分析の本を読むというのが、さっきトイレの中でもその精神分析の、あの久しぶりにね、藤山直樹さんの精神分析という営みを読み直していて、
まず一つの驚くべき発見はですね、こんなこと書いてあったんだっていうのがですね、毎行毎行出てくるんですね。
これはなんかいい本読んだ時の感触ですね、読み直した時。びっくりするんですよね。
初めて読んだ漢字はさすがにしませんけれども、こんなこと書いてあったっけっていうことが次から次へと出てきて、
前よりはやっぱりわかるようにはなったんだなと。わかんない本って結局、わかんない本とはいえ全く100%わかんないととても読んでられないので、
わかんない本でもいくらかはわかって読んでいくわけですけど、わかるのにいっぱいいっぱいになるんで、やっぱり細部まで読み込んでいる余裕はないわけですね。
今はあの本は、やっぱりよくわかってきているんでしょうね、相対的にはね。
だから一行ごとに発見がおびただしいわけですよ。それがお前わかってなかった証拠だっていうことになりますが、まあそうなんですね。
で、わかってくるとこれがまた面白いことに、物足りなくなってくる部分もあるんですよ。
あ、ここは何かこう端折られている。書いてる方は端折ってるわけじゃなくて、本筋があるからそこは細部に渡って細かく書き込んでいる場合ではないから、
あの、まあ適宜飛ばしているわけなんだけど、どうしてもやっぱりそこが気になるってところも出てくるわけですね。
その話、編の話を知ってるせいもあってね。だから、ああこういう現象が起きるわけね、というのをまあ感じますね、やっぱりね。
で、これを理解できているということは、まあやっぱり前よりは先へ進んだわけでして、精神分析に対する理解化ですね。
カウンセリングの形式
そうすると何が起きるかというと、何が起きるかというと、まあいろんな気を配るべき部分がやっぱり、読書においても気をつけて読んでいる部分が増えているように、
3ヶ月チャレンジでも気を配っていきたくなる部分が、まあまあいいことではあると思うんですが増えるわけですね。
で、増えてみて、これもまた改めて実感するんですけれども、増えてみるとですね、
以前はよくあれでやってたなと、よくありがちな感触も抱くわけですけれども、
同時にですね、これはやっぱり、
私の好みなんだなということがだんだんだんだんとわかってくるんですよ。 それがいいことなのかどうなのかはわかりませんけど。
で、私この番組でもノラカウンセリングと正気のカウンセリングという話をね、よくしますね。
私はそれはもうほぼどうでもいいことだと思いながらも、またしばしばXで燃えていたりいたしますもので、
それはまあついつい興味を惹かれて読んじゃうわけですが、あの千葉ロッテの今、ストーブリーグの話題がいろいろあるのに自然と、
大して意味もなくても惹かれてしまうように私はやっぱり惹かれてしまうんですよ。 正気とノラのカウンセラーの闘争みたいな闘争なのかなとわかりませんが、そういった話題に、
本来私はさほどの興味を今抱いているとも言えなくなってきつつあるのに、なおやっぱり読んじゃうわけですね。 まあどっか惹かれているわけですよね。
精神分析だって最初はノラだと言えなくはないと思うんですけどね、やっぱりね。 最初って1900年の頃ですよ。まあそりゃそうですよね。だって創始者一人しかいなかった時代がその頃だったわけですからね。
正気も何もあったもんではありませんよね。
一つというか私の中でですね、定まりつつある一つの定義として、ノラカウンセリングの問題というのはですね、まあ問題といったって問題のない、正気よりいいんじゃないかというのも本当にわずかであってもないわけではないんですが、問題があるなというふうに言えるのはですね、
融通が効かないってことに私は集約されつつあります。 融通の効かないカウンセリングって、まあカウンセリングに限らないと思いはしますけれども、カウンセリングというのはあんまりよろしくないなと。
3ヶ月チャレンジの参加者さんも時に訴えられる、一般ユーザーの方もしばしばここを指摘されるんですけど、やっぱり形式に当てはめようとするっていうのがカウンセリングで一番ことを荒立てるというのも変ですけれども、ことを難しくするように思います。
でもカウンセリングっていうものは、そもそも形式が全てみたいな、形式が全てではないんだけど、形式というものにどうやって乗っからせるかなんですよ。だからここには最初からある種の葛藤というようなもの、装刻と言ったらいいのかもしれませんが装刻だと難しいので闘争でもいいんですけどね、葛藤のようなものがあるんですよ。
葛藤があると言ってしまった方がいいかもしれませんね。私実際にほとんど見たことがないし、体験したこともないんですけど、しかもあれは野良カウンセリングっていうのはよほど抗議、抗議に野良カウンセリングを定義した場合だなと思うんですけど、水晶玉占いってあるじゃないですか。あれに形式を見ない人はいませんよね。
具体的にあれは何するのか私知らないんですけど、まさに絵の世界になってしまうんですが、水晶玉に未来が映るわけじゃないですか。水晶玉ってまさしく、私もあれを見るとすごく何かロマンを掻き立てられるんですけど、一体何のロマンなんだか、ファンタジーですよね、があそこにありますけれど、ある気がするんだけど、とにかくそれは形式ですよね。水晶玉という形式に引きずり込むわけじゃないですか、相談所。
この形式以外では私はやりませんよって言ってるわけですよ。
すべからくカウンセリングって実はそうなんだけど、いかにこれをですね、この敷地をニューカマーに、参入者に下げて入ってきてもらい、かつその形式を使ってとことんその形式の中でやれるかというのがカウンセリングの勝負どころだと言われているし、またそうなんだなっていう。
藤山直樹さんはここを非常に、特に上手に強調される精神分析家ではありますが、基本的には考えてみるとすべてのカウンセリングとはそうしたものですよね。
手相占いもまたしかりですよ。だって手相見るじゃないですか。手相以外基本見ませんよ。手相以外見ない。水晶玉を必ず使う。タロットカードを必ず使う。すべては形式なんですよ。形式に参入することを同意されていない限りあれはできないし、すんなり同意する気がある。
例えば、だからそこに道具の立て付けというものの魅力があるわけですよね。ないと嫌じゃないですか。なんかこう水晶玉とガラス玉とプラスチックは違うんですよ。あれは水晶玉であることに意義がある。多分あれはですね、ランクがあるんですよ。きっと絶対。高い水晶玉はいいんですよ。高いやつは崩壊な値段すると僕は思いますね。宗教的な装置って基本そうですから。
うち寺だったけど、寺そのものものが大変高いですよ。そして寺について、でも寺もランクがあるんですよ。全然違うんですよ。寺の値段って。で、かつ寺に置いてあるあの仏壇、仏具ってやつね。あれ高いっすよ。
ああいうものはね、しかも高ければ高いほどちゃんと感じがよく出ているようになっているんですよ。上のものは崩壊な値段しますよ。確かに。崩壊も何も一般の人を買うものじゃないから、あの相場ってものもあってないようなところもあるんですけど。まあいずれにしてもそんなに安い金額で手に入るものではないです。
あとお珠とかね、あれも高いですよ。なんか翡翠が入ってるとか何とか言い出すとめちゃくちゃするんですよ。どうかと思いますけどね、ある意味ね。とにかくそういうことなんですよ。そういうものなんです。これもまた形式ですよ。形式が大事じゃないっていう言い方をする人もいらっしゃるんだけど、形式が大事じゃないってことになってくると、もはや何でもありになっていくわけですよ。本当に。
形式と参加者の関係
人生相談ってそうじゃないですか。そこら辺の人捕まえて人生相談に乗る、乗らないっていう話になってくると、お金取るのも難しいけど、そもそもそれが何をやってくれるのかもさっぱりわかんない。一歩間違えた犯罪に巻き込まれかねないじゃないですか。だからある程度の形式は意識して言おうと言いまいと、そこにはあるわけですよ。この形式というものに引きずり込むにあたってですね、結局引っ張り込むんだけど。
融通が効くか効かないかはとっても大事ですね。融通が効かないほど多分効力も微妙です。絶対推奨玉じゃなきゃダメみたいな感じになっていて、推奨玉が全てみたいになっていて、参加者は推奨玉ちょっと気が乗らないなってたらもうダメじゃないですか。全然成立しないですよ。
タロットも同じで、タロットじゃない方がいいんですけどとかって言わないじゃないですか、タロット占いのお店に行ったら。タロット占いであることは必須なんですよ。この立て付けが正規の場合には立て付けというものがですね、そういったものとは違って印字記ではないんだって主張するところがその文化なんですよ。治療文化っていう言葉がありますが、まさにそういうものなんですよ。
タロットカードじゃなくてCBTになるわけですね。CBTになった途端に正規っていうことになるんですけども、これだってCBTしかしないんですよ。ただ私はですね、ここに至った時に、野良と正規は少し違う。何が違うかというとCBTにこだわらないよっていう態度を出そうとしている。
多分退化になればなるほどそうなっていくと思うんですけど、たとえやりたての方でも、これはCBT以外の何物でもないですっていうのを避けようとする。野良の方はそれをしない。しない傾向が強い。ここに差がある。
だから私は、もちろんそれが好きだって言うならばいいんですよ。水晶玉大好きだから水晶玉以外嫌っていう人はいいんですよ。融通が効かなくなって。でも人生相談というものに深刻になればなるほど、水晶玉やタロットカードそのものが大事ですとは言われたくないと思うんですね。
だから形式には全ての、実はリュウハは形式にこだわるんだけれども、にもかかわらずその形式というものが参入障壁にならなければならないほど優れているわけですね。
私はそういう意味でですね、これはちょっと引き目があるんですけど、身引きじゃないですよ、僕は別に。自分は精神分析が身内じゃないんで。精神分析が優れてると思うのは、参入障壁として低いんですね。自由に言いたいことを言っていいわけですから、あそこに行って。
時間を守る、場所を守る。これは社会人としての常識というのを範囲内でいいじゃないですか。料金もきっちり払うと。これもよく話題になるんだけど、そうは言ってもですね。やっぱり例えばセミナー会場だって1時間借りておいて使わなかったからお金払いませんって通らないじゃないですか。限りなくそれに近いことを思えばですね。
やっぱり時間と場所を固定させて上で、料金はキャンセル料というものを含めて100%というのはですね、ストイックではあるけれども非常識ではないと思うんですよ。だからあれは参入障壁が著しく低いですよ。そこに行って絶対トランプカード使わなきゃダメですとか言うことはないわけですよ。
とにかく好きなことを喋っていい。だから形式がすっごく固定的であるように見えて、実は相当自由度高いんですよ。この自由度は私が思うに高ければ高いほどいいと思うんですね。
で、私途中精神分析とタスクシュートって言ったのはですね、やっぱりタスクシュートのいいところっていうのは、タスクシュートを使うということ以外の縛りが何もないんですよ。で、タスクシュートというのはですね。
非常識ですけど、あの通りにやるとなると。でも行動の名称を書いて開始終了時刻を命名、列記していくというのはですね、これは社会常識の範囲内でほぼ全ての人に可能なんですよ。あらゆる人に可能だとは言いませんが、ほぼ全ての人に可能ですよね。
そこに魔力みたいなものは一切いらないんですよ。特別な何か能力とか特別な推奨玉を高い使うような金額とかはいらないんですよ。
例えタスクシュートクラウドがクラウドだからサブスクルで高いとは言われていたとしてもですね、せいぜい月間1000円の世界なんで、非常に安いんですね、これは。
だって毎日使ってて月1000円ですからね。1日あたり直したら30円ぐらいで済んじゃうわけですよ。
非常に安いですよね、これはね。こういう値段でできると。しかもやることも、やったことと極端に言うと一番削り取ればそうなる。やったことと開始と終了。
あとは何をしてもいい。そこで何をしてはいけないと言ったことはないんですよ。
これをタスクシュートに追加しようとする流れを私は基本的に好まなかったわけですね。今でも好んでないし、それは推奨はできないということはよく言いますよね。
だからマスタータスクリストから今日やるべきことを書き落とすんだとかはダメ、ダメではないけど、もちろんそれも自由だからいいんだけど、そのような形式をタスクシュートに私の方で指示するとか与えるというのには全然乗れない。
それはよく言って自由ですが悪く言えば真逆ですね。
だって最初にやるべきことを決めてそこに落としてそれをやるという話になってきたら、もうタスクシュート以外の制約がそこに追加されてるじゃないですか。
制約のない行動
ある方法論はそれに何かを追加しない方が優れていると当然私は思うんですよ。
推奨玉が優れてるなら推奨玉以上のものをそこに追加しちゃダメなんですよ。
推奨玉プラスタロットがいいです。いいとこ取りをしましょうとかってやんないじゃないですか。普通に。
推奨玉とタロットと液を合わせましょうみたいな。税蓄とタロットを掛け合わせましょうみたいな。
世の中にはそういうものもあるのかもしれませんけれども、基本的にそれぞれが優れているという流派はそういうことは従わないものなんですよ。
そうでなくても制約が一つ存在しているのに、推奨玉なら推奨玉を使わなきゃダメ、手相なら手相で売らなきゃダメっていう制約があるのに、
さらにそれに追加していくというのは自分の自由をわざわざ削り取っているようなもので、狭めるようなもので、
参入障壁は上がるし、いいことないんですよ。お金もかかるしね。
基本シンプルである方がいいに決まってるわけですよ、この種のことは。
そう考えてみると私はタスクシュートに余計なことを追加したり、マスタータスクリストとかを追加するとか、
タスクシュートを逆算でやるとかいうのは、いいものを全部壊しているようなものであって、
私からすると、やる意味がわざわざ減っている、その枠組みの中であれば、何をしてもいいという方がいいはずなんですよ。
精神分析だって、来て自由に連想したことをしゃべってください。
ただし、私の悪口じゃダメですとかっていうことをやりだしたら、いきなり効果は半減では済まないと思うんですよね。
1%ぐらいまで下がっちゃうと思うんですよ。制約は儲けない方がいいわけですよ。
そういうことはつまり、何を言いたいかというと、そこに行ってやるべきことが決められていない方が決められていなければないほどいいと思うんですね。
枠をカッチリ設定したらですね、カッチリと言ってもできるだけカッチリじゃない方がいいんだけど、
枠を設定したら、その枠以外の制約は少なければ少ない、ない方がいいと思うんですね。
野良と正規を比較した場合、一見したところそうは見えないかもしれませんが、野良カウンセリングの方が実は制約が大きいんですね。
時間とかお金とかにうるさくなさそうだから、正規の方がうるさそうに見えるかもしれませんが、
例えば精神分析というのは、精神分析とはこうであり、この道具を絶対つかなきゃダメであり、みたいなことはほとんどないんですよ。
くつろげる椅子に座って好きなこと喋っていいわけだから。
喋り続けてなければいけないという話はないし、沈黙しても構わないんで。
なんなら1時間50分か、ワンセッション50分沈黙指導してもいいわけです。
何しても自由なんですよ。
そこで危害加えるとかはダメだと思うし、火つけるとかもダメだと思うんですけど、それは社会の常識の範囲内じゃないですか。
人の血に入ってやっちゃいけないことはやっちゃいけないわけですよ。
ほぼそれに準ずるわけですね。
だから別にお好みならばですけど、分析家のことを罵ったって構わないわけですよ。
これはタスクシュートでしばしば言ってることと似ては聞こえないと思うんですが、私の中ではよく似てるんですね。
1日中ゲームやってても全然いいんですよ。1日中ファンザ見てても全然いいんですよ。
それはさすがにダメでしょうとかって言われるんだけど、なぜだって私は言いたいんですよ。
なぜそれはダメなのか。なぜそれはダメだと、タスクシュート的にダメだと言えるような理由は一個もないわけですね。
そして私は普段しばしば逆に思われるんだけど、そういう制約を設けないんだったらやる意味ないじゃん。
私は全く逆だと思うんですね。そういう制約を設けるんだったらタスクシュートでなくていいんですよ。
時間割りとか計画表とかに沿って行動することにした方がはるかにマシだと思うんですね。
そういう意味ではタスクシュートってほぼ役に立たない。
だって何時に開始するかというものを先に決めることがあれは基本できない、非常にそのためにはこなれてないツールですから。
それだったら時間割りみたいに枠がカチッと決まってて何時から何時までこれって書いてあるやつにやった方が分かりやすいじゃないですか。
それをやりたければですね。私はそれをタスクシュートでやることほど真逆な話はないと思うんですよ。
だから何やったっていい。何言ってもセラピー中何言っても構わないように。
あらゆるセラピーがそうかどうかは知りませんけど、少なくとも精神分析ではそうですね。
基本何を言ってもいいはず。そしてクライアントは何をやってもいいはずなんですよ、外ではね。
もちろんそれは常識の範囲内での話ですよ。
文化とタスクシュート
何をやってもいいって言っても、人殺してもいいとかいうことには当然ならないわけですが、それは当然なんで。
社会の方があるからね、その外側には。
でも精神分析の方というのはそれほど社会の方に比べて狭まってはいますよ。
ここに来なきゃいけないことになってるから、特定の時間。
でもそんだけなんですね。
私タスクシュートってタスクシュートを使いさえすればいい、そんだけなんですよ。
他は何にもないんですよ。
そこが僕は一番いいところだと思っているんですね。
これを使いさえすればいいという枠にはめてしまえば、大体のことはうまくいくはずだ。
少なくとも時間に関わることは。
大体の人ではないんだけど、そこに制約を追加しようとする方は、この枠組みでうまくいくというエイトスというべきなのかな。
文化的な営み、多くの人がそれでうまくやってきたという事実を軽視してると思うんですよね。
私はここを結構実は重く見てるんですよ。
理論上うまくいくはずだと信じてるだけではないってことなんですね。
相当数のユーザーさんがこれでうまくいきましたと言っているという事実があるんですよ。
そんなのは信じられん。
俺の頭の方が信じられるっていうわけで何かを追加するわけじゃないですか。
マスタータスクリストというのは僕はその最たるものだと思うんですけど。
あと例のアッガントチャートから逆算ね。
こっちを追加する、GTDと掛け合わせるとかでもいいんですけど、方が私の考えでは優れていると。
私は延べ1000人は絶対超えてると思うんですけど、1000人の人たちがそれなりの時間、もしかすると1年ぐらいかけてきて、
これはうまくいったっていうのに対する私はそれはある種軽視だと思うんですよね。
そういう文化に対する軽視っていうのかな。
やってはいけないとは思わないんですよ。
文化に対する軽視って人は知らず知らずのうちにやるものだから。
例えば、日本人どんなにうまいって言っても納豆ダメだねっていうアメリカ人がいるのはしゃーないじゃないですか。
あるいはお茶ってあんまりおいしいと思わないわとか、蕎麦ってあんまりおいしいと思わないわってしゃーないじゃないですか。
でもそれは、それこそですね、数億の人たちが1000年にわたってこれはいけるっていうふうに判断しているその判断に対する軽視ではあると思うんですよ。
それがたかだかこう1回食べてみただけでね、まずい、しょうがないとは思うんですよ。
癖強いからね。でも文化ってそういうもんだなって思うんですよね。
だから一定の文化に対する一定の経緯みたいなものっていうのは、わからなくても払っておくみたいなことってあるじゃないですか。
政治分析が要求していることって多分にそういうもんだ。
そういう意味では、そうだろうと星占いだろうとある意味同じようなところあるんですよ。
だから受け入れられないんだったら近づかないことだろうなっていう感じはするんですね。
で、そういう意味では私はタスクシュートっていうのは、まあまあそんな1000年とかないし、日本の食文化みたいなコンセンサスも得られてはいませんけれども、
相応のものにはなってきていると思うので、これに対して安易な追加は何にも言うつもりはないですけど、
でも到底やる気にはならないっていうか、人には勧められないっていうのはありますよね。
まあこういうことを言うとね、また小うるさくなるんでね。
だけれども、だからこそ余計なことをしないほうがいいと思うんですよ。
みんな自由にやるほうがいいと思うんですね。
自由度が高いほどいいわけですよ。
だからそこに来たら、来さえすればいいと。来て喋ればいいんだと、ある意味ではね。
来て話をするということさえ守っとけば、あとは基本的に自由ですと。
自由連想ですということを言ってるわけですね、あれは。
それで、そう思うとですね、私はこう、私はまあもちろん正規ではないんだけど、
正規というものに意味があるとすると、そっちに近づきたいと思うのであればですね、
やっぱりこう、自分の枠に、自分の形に、形式に、はめないようにすればいい、するほどいいだろうというのは思うんですよね。
ここにあるのはですね、方針に対する過剰な矯正なんですね。
方針を過度に矯正してしまう。
例えば行動を主義的であるとするならば、何かこう、先送りを訴えてこられた方に、
型にはまった行動の心理
じゃあ自分が先送りしなければ、その分自分に報酬を出しましょうというのを、
こういう形式に相手の話を引きずり込まない。
やっぱりどうしても正規でないカウンセリングは、これをやりがちであるし、やりすぎてしまう傾向があると思うんですよ。
だからロジャーズ的なノラカウンセリングってきっと計帳しすぎちゃうと思うんですよね。
とにかく計帳。ひたすら話を聞いて心に寄り添うという形に、ユーザーを引きずり込もうとしすぎると思うんですよね。
多分ロジャーズで対価の人ってそういうことをしないと思うんです。
なんかよくわかんないけど話をしてもらったみたいな形になりやすいと思うんです。
そうじゃないと、ひたすら話聞きます。私アドバイスしませんからみたいになると、変じゃないですか。
うまくいくことはあると思いますよ。タロットがカードが好きっていう人と同じように、とにかく話を聞いてもらいたいみたいな人にフィットする。
つまりマッチングが狭くなっていくと思うんですね。これをやってしまうと。
マッチングは広ければ広いほどいいと思うんですよ。なるべくならどんな人でもそれができる、それは使える。
だって人生相談やってるんだから、ある種の条件を持っていないけれども対応できますという方がいいに決まってるじゃないですか。
だから精神分析というのは一方でですね、私はすごいなと思うのは、統合失調まで射程に入れてるところがすごいと思うんですよ。
なかなかね、タスクシュートとなってくると、ボーダーの厳しい人とか、欲打つ状態が極めて重い方にタスクシュートいけるかっていうと無理かも。
現に私そういう話をタスクカフェで、タスクカフェという大橋裕都さんとやってる中でね、いやそれは最初から無理だろうって僕は思ったんだけど、
もうなんかこういうね、時間の羅列を見ているだけでも気が重くなってダメなんです。
いやいややめた方がいいっすからそれっていうことになるわけですよ。
これはだから時間の羅列がこの形式上必ず発生してしまうと。
そこでジェーン松崎さんもおっしゃるように、いいんです、3つでいいんですみたいな。
でも3つでも最低時間は6つは見なきゃならないしなみたいな。
普通の人はそういうことで悩まないじゃないですか。
普通の人って言っては申し訳ないけど、まあまあ悩まない人の方が多いじゃないですか。
だって時間の羅列を見るのが恐ろしいってことになると、運動会のプログラムだってダメじゃないですか。
ダメって人いるんですけどね、実際に。
つまり形式というものは参入障壁になるってことなんですよ、実際には。
いや私水晶玉見るのも嫌でっていう人はやっぱり水晶玉占いに行っちゃいけないと思うんですね。
場合のない話なんですけど、そういうことなんですよ。
参入障壁が少なければ少ないほどやっぱりその方法論は優れていると言えると思うんですね。
ここが逆のように語られるっていうのは変だと私は思うんですよ、やっぱり。
最初はボーダーラインより精神病水準が厳しい人にはタブーであるって精神分析も言ってたんだけど、
そこを言ってみれば対象関係論というところで拡張していってるわけですよね。
だからあれですよ、私の靴下には穴が開いていて、その穴からペニスが漏れるから履けないんですみたいな話を
ビオンの症例では今のは相当いい加減でしたけれども、でもそういう話も聞いていけるんですよ。
しかもそういう話に分析や解釈ができていく。
そしておそらくは理解が進んで治療が、普通の意味で治療とは言わないですけどこういうのを、
でも治療が進展していくと。やっぱり拡張できるレベルの広さですよね。
こういう人に自由じゃなく物を言うとか無理じゃないですか。こういう人に手相を出しなさいと言っても無理かもしれない。
推奨占いをしたとしても意味がはなさないと思うんですよ。
つまりこれは占いより優れているかどうかっていう話をですね、
スピかどうかとか科学的かどうかって言うだけじゃ物足りないということなんですよ。
そうじゃなくて参加できるかってこと。参加できる半径が広いかどうかってことが、やっぱり僕は正式というのは実は参加できる人を問わない。
つまりそこは究極差別的ではないという話につながってると僕は思うんです。
それは正規ほどそうであるべきだというふうに私はやっぱり思うんですよ。
精神分析というのは時間と金がかかりすぎると。
つまりそれはお金のない人を排除しているというふうに言って認知療法ってものを始めた人がいたんですよね。
認知療法の意義ってそこにあると思うんですよ。
同学で果たしてそれがいいのかって話はその辺から来るかなと。
ただ私は精神分析っていうのは包外に高いかっていうと微妙なところだと思うんですよ。
これに保険がかかったらもうそんなに包外な値段ではないって言え始めてしまうんで。
で私はその認知行動療法みたいなもの、特に認知療法かなと。
精神分析というものが療法なんか正規の中で普通に同居していますっていうのは実は結構謎が大きいなと思わなくはないんですよね。
早く安く治せるというのが認知療法のある意味良さだったはずではなかろうかと。
早く終われば安く済みますからね。
1回あたりの料金がかかっているわけだから。
精神分析が金持ちの増落みたいな話になってくるとそれはさすがに言い過ぎな感じがするんだけれども。
とはいえあの値段で5年やるとなると総額はかなりのものになりますよね。
ただ先日私思ったんですけど最近話題になってますが国立大学の授業料とか国立大学だって6年とか至り院とかまで行くとですね。
金額相当なもんですからねという感じもしなくはないんですよね。
だって精神分析ってあれですからね。
自由に何をしゃべってもいいというので人一人その時間ずっと拘束するわけですから。
ある意味大学の先生に個人授業をしてもらうそこまではいかないかもしれないけど家庭教師1時間つけそれも週に4回みたいな話なんでそんなに安く上がるわけがないんですよね。
そしてえっと割と10度の精神障害みたいなものをそれだけで目覚ましく改善させようと思ったら割とそれだけのヘマヒマは必要であってもそうおかしくはないんじゃないかっていう感じもしなくはないですよね。
私は3ヶ月チャレンジでそういうことはやってませんからね。
ただ私が思ったのは参入障壁を下げなきゃいけない。
どんな人でも来られるようであった方がいいに決まっているっていう線で考えていくとこれは野良も正規もないと思うんですよ本当はね。
タスクシュートの重要性
絶対その道具が必要っていうよりはその道具なくても済みますっていう方がベターだし優れていると言っていいと思うんですよ方法論としても。
GTDがねGTDってありますね。
仕事術ですね。
Getting Things Doneという。
あれが紙とペンでできますって強調したのは訳がそれなりにあるよねって思うんですよね。
やっぱりそれはいいよねいう言葉としては悪い言葉ではないと思うんですよ。
エヴァノートが絶対必須ですみたいに言うよりは紙とペンだけでいいんですって言った方が。
現実行動、現実的な常識的な行動の中でその枠組みの中でできるという意味において優れてるんですよ。
追加しないほどいいっていうのは私はそう思うんですよね。
ここには絶対オムニフォーカスがいるんですっていうよりは紙とペンだけで済むんですっていう方が優れてるとは思いますね。
そういう意味でなるべく3ヶ月チャレンジもそうでありたいと。
なるべくそうでありたいということの言葉の含みとしてはですね。
やっぱりその人がその状態のままでやれるってことが望ましいわけですよ。
ここまたさっきですね。
あるポッドキャストに逆張りに言うタイカの人がいてこれは面白い話をしてるなとは思うんですけど。
後で聞いとこうと思ってたんですけどね。
例えばロジャーズの継承にしても継承をハンセラーの人がやるにはやっぱりクライアントさんもそこそこ協力が必要なんですみたいな。
これは本当に逆張りなんですよ。
言ってることがすごい逆説的でもうまるで逆算をタスクシュートでするんだぐらいな話で。
タイカがこれを言うってことは何か絶対あるんですよねっていう感じはするんですよ。
面白い話なんですこれは。
普通はそうは絶対言わないです。
継承というのはセラピストが頑張るべきところであって聞く。
何を言おうと言うまいと協力的であろうと非協力的であろうと。
だってもう患者さんいっぱいいっぱいなんだから。
本当に来るだけでも精一杯なんですっていうのに継承に協力とんでもないですよっていうことになるじゃないですか。
とんでもないぐらいの心理状態の人が来ていらっしゃるわけだから。
私こういうことでタスクシュート考えるんですよ。
だから余計なもの追加したくないんですよ。
いやもう無理無理全然無理。
開始時刻書くのももう何か腕が鉛のように重いんですっていう人だってギリギリできるかもしれないって思うから考えるんですよ。
そういう人にマスタータスクリストを作るってことが土台無理じゃないですか。
何か体が地面と離れてくれませんと。
体は鉛のように重いんですと。
私はコロナの時にここで水を飲むとかここで薬を飲むっていうのはすっごい辛かったけど。
欠かさずつけたんですよタスクシュート2話で。
限界だなっていう日があったんですよ。
でも真っ白ではなかったんですよね。
こういう日にマスターもヘッダクレもないんですよ。
Googleカレンダーを見るのだって無理だったんですよ。
でもタスクシュートはつけたんですよ。
これは拡張しているつもりでいるんですよ私としては。
最大ユーザー数の拡張なんですよ。
ユーザーを多く取り込みたいって意味じゃないですよ。
もちろん多く取り込みたいけれどもそうではなくて。
参入障壁が低いって意味なんですよ。
精神状態がそうは言っても無理だってことあると思うんですよね。
タスクシュート開くってことを脳が受け付けないってことあると思うんですよ。
限界ギリギリってどういうことかってそういうことなんですよね。
やっぱりね。
もちろんこれは一般的な話ではないですよ。
あれはビジネスツールですし。
だから3ヶ月チャレンジでもそうです。
参入障壁いくら低いと言ったってものには限界があります。
簡単に思いつくところでは全部外しておきたいというのはあるんですよ。
ガントチャートから逆算で引くなどというのはよっぽど健康な状態でないと無理なんですよ。
そういうことを最初から想定してガントチャートが既にあるにも関わらず
タスクシュートとガントチャートを掛け合わせるなどというのはですね。
私からすると余計も余計なんですよ。
それは調子が非常に良い時にはできるかもしれないけど
調子がかなり落ちてくるととてもじゃないけどやれなくなってくる。
調子が良い時にしかできない方法っていうのは
調子が悪い時には役に立たない方法になってしまう。
私たちが果たして1年のうちに何日調子良く過ごせるのかって考えてみると
社会的障壁と参加
そうでない方が良いと思うんですよね。
ちょっとXで前にですね。
不登校のこれも結構ベテランの先生の方なんですけど
子供がゲームはずっとやっていて
なんならネットゲームやってると
親御さんとしては非常に気に食わないと
見ていてイライラする。
ゲームできるんだったら学校行って勉強しなさいと言いたくなる。
せめて学校行くだけでも行きなさいと。
だってゲームならできるんでしょうと。
そういうふうに親としては言いたくなるのは当然だと。
さすがにゲームをやっていて
調子とできることの選択
黙って見守っているっていうのは求めないけれども
イライラを止められるかどうかが
不登校時にとっては大きな影になりますよっていうのを書いていて
これはいい話だと思ったんですね。
ゲームじゃないとできないっていう状態ってあるんですよ。
それは調子が良くてゲームやってるわけじゃないんですよね。
とてもじゃないけど学校にはいけない。
ゲームならできるっていうそういう心理状態ってあるわけじゃないですか。
誰でも身に覚えがあると思うんですよ。
私もコロナからやや回復したとき
それに限りなく近かった日が時間帯だね。
1日そうだったとは思わないんで私回復早かったんで
でも時間帯としてはあるんですよね。
ゲームがやるのが精一杯だなと。
それぐらいしかできないなみたいなそういう時はあるわけです。
本が読めるっていうのはもう少し上で
本読むのがせいぜいだなっていう時間帯がある。
仕事するのができるっていうことになるのは
それらは当然できるわけですよ。
我々はあらゆることができて
その中で仕事を選んでるわけじゃないですよ。
あらゆることはできないですよね。
できないことはこの世にいっぱいあります。
私バンジージャンプは飛べない。
あとスキーですとジャンプ台は飛べない。
できることの中で調子が悪くてもできる方からやっていくんですよ。
大抵の場合はね。
そう考えてみると方法論というものは
調子がいい時に合わせちゃダメだと思うんですよね。
せいぜいアベレイジの調子に合わせておかないと。
できればアベレイジよりも不調でもできるっていうやつから
方法というものは選んでいったほうがいいはずなんですよ。
参入障壁と自由
100日チャレンジで僕はそこを非常に心がけてるんです。
100日間できるってことはそうはないと思うんですよね。
100日間間違いなくできるっていうのを選ぶと
大体においてゲイマズダキさんが言った通りなんですよ。
3つやることを選んで
その出来不出来をチェックするというのが
100日間通してできることとしては最大限
この程度が一杯一杯だろうと。
1日中の記録を全部つけるのを100日できるっていう人だったら
100日チャレンジとかいらなくなるんですよ。
それはもうマスクシュートユーザーでも
かなり年季の入った一握りの人に近くて
私は昔このレベルをあらゆる人に求めてたんですけど
そういうのはやっぱり若かったってことなんですよね。
もちろん精神分析もそういう意味では
一握りに近くなっちゃうんですよ。
本当にやろうと思ったら週に4回1日50分のセッションを
毎日毎日通うということになってくると
これは単に一握りの金持ちっていうよりは
やっぱり切実だってことですよね。
その人が他人から見てどう見えようとも切実なんですよね。
社会的な生活を営んでいくには
やはり限界ギリギリのところがあって
そういう限界ギリギリの人は
占いではちょっと物足りないんですよ。
占ってもらって未来を見せてもらって
アドバイスをもらうというのでは
ちょっとやっていけない。
ここに正規っていうものの意味があるんだろうなと。
調子が良ければ推奨談まで行けるんですよ。
略なんですよねあれはね。
調子が悪い時に行くっていう感じを持ってる人も
野良カウンセリングだとしてもね
いっぱいいらっしゃると思うんだけど
そうは言っても逆なんですよね。
本当厳しいわってなってくれば来るほど
実は参入障壁が正規が下がってるっていうこと
それがもし正規の人がやっていないんであればですね
いやいやここはCBTだから
こここうしてくれないと困るんですよ
っていう要求が
要求がましくあればあるほど
実は正規的ではないと。
そうやって考えていく流れの中で
自分は3ヶ月チャレンジというのをですね
どこまで障壁を
参入障壁を下げていけるだろうかと
参入障壁っていうね
ある意味こう企業の何かを
みたいなことを言ってるんですけど
そういうニュアンスがあるってことですよ。
だってですね
ちょっと考えてみてほしいんですよ。
例えば全然宗教に
どっちかっていうとね
宗教なんてあれだと思っていて
全然縁のない人生生きてきました。
ゼンデラ行くって考えると
抵抗あるでしょ。
行くかもしれないし
ちょっと体験座前会とかやるかもしれないけど
じゃあ仏門に入るって言ったら
全然抵抗あると思うんですよね。
お金いらないですし
自由ですよって言われたって
抵抗あるんじゃないですか。
例えばアメリカに行って留学して
教会に日曜日行ってみましょう
ちょっと抵抗ありません?
毎週毎週日曜日に
教会行きましょうってことになったら
画前ハードル上がると思うんですよね。
でもですよ
えーと
ちょっとなんかよくわかんないんだけど
最近きつい病気になって
と思ったら
なんか家族が離婚しようと言っていて
みたいになった時に
教会行くってなると
行くじゃないですか。
行きうるじゃないですか。
これが節実ってことですよね。
その時に参入障壁っていうようなものが
邪魔をしていたら
あれじゃないですか。
だから伝統的に続いてきたものというのは
ここが低く低く実はですね
設定されるようになってるはずなんですよ。
そうじゃないと来ない。
来れないっていうことが起こるからですよね。
だから行けるっていうことは
すでに意味があるってことなんだけれども
それのみならずですね
行ける以上は
ここで自由にどれだけできるかを
置いたいわけですよね。
これが多分
あの
私だったら私の方なんですけれども
精神分析だったら分析可能
実は力量なんだろうなと
喋るように促すとかじゃないですよ。
多分促したところで
喋りもしないっていう状態の人が
いらっしゃるわけだ。
ただマスクシュートもそうなんですよ。
僕はここをむしろ強調するんだけど
自由に振る舞えと
記録をつけさえすればって言うんだけど
記録をできればつけてほしいってことなんだけどね。
自由にやる。
とにかく自由にやる。
自分の幅を狭めないと
自分の行動の幅をですね
それは自分の可能性ってことに
最終的になると思うんですけど
いかに自由に言えるか
自由なことが言えるか
はばからずに喋れるかっていうところなんですよ。
やればわかるんですけど
カウンセリングって
必ずはばかるようになるんですよ。
これを言うとカウンセラー起こるんじゃないかとか
わけわかんないことを考えだすんですよ。
変異が起きるってことなんだけど
自分の親に見え始めるというのが
非常にわかりやすいところなんですけど
とにかく
これを言えないと
なんならもっと天位がひどい人になってくると
カウンセラピストに
思い込みと自由の制約
パワハラを受けたみたいな気持ちになってくる。
これがね
世の中には本当にそういうことが起こるらしいところが
話がややこしいんだけど
それが現実ってやつだなと思うんだけど
でもこれは
多分に多くの場合
天位逆天位の文明で出てくることだと思うんですね。
パワハラを受けた。
あのセラピストは上司のようになっている
みたいになってくるわけですよ。
もう行動範囲が異様に狭まるじゃないですか。
行くだけでも人仕事になっちゃうじゃないですか。
そこに意味があるわけじゃないですか。
これをどうやって取り扱えるかですよ。
本当にパワハラやってたら最低なんて。
でも本当にパワハラをやってないどころか
本当は何もしてないんだけど
パワハラをやっている
やられたっていう風に考えたってことは
そこには大きなチャンスがありますよね。
ここに自由を拡張する
一つのターニングポイントがあると思うんですよ。
だって自分で自分を狭めてしまってるわけじゃないですか。
それがまさに東映ってことになるわけですけれども
グッドワイブスで言うイリュージョンってやつなんですけど
最初の方にグラザノケイドさんがおっしゃってたイリュージョン
真相って彼は言うように途中になりましたけど
なんでもいいんですが
自分の行動を自分で狭めてしまう
空想を始めてしまうわけですよ。
これを取り扱えるようになるということは
ものすごくその人の人生を
自由度を拡大するっていう意味になりますよね。
だからこそ最初からハードルがあるようじゃダメだし
その人がこのように振る舞わなければいけないセラピー
っていうのは本来おかしいわけですよね。
その約束ごとは2点でいいわけですよ。
精神分析では。
ここに何時に来ることっていうそれだけ
それだけは制約がある。
でも来てさえしまえば
あとはもう何をやっても自由のはずなのにできなくなる。
ですよね。タスクシュートってそうじゃないですか。
何をやっても自由のはずなのに
いやいや今ここでは
確定申告のための整理以外は何もやっちゃダメなんだ
俺みたいに勝手に自分で
空想の中で勝手に自分で制約を作っちゃうわけですよ。
挙句の果てには
何日が確定申告の日だから逆算して
毎日の自分を縛るためのプランというのか
スケジュールというのか知りませんけれども
作る方がいいんだって考え始めるわけですよ。
知らないうちに自分をがんじがらめにしていくっていうのが
しかもそれがいいことだって思えてくるわけですよね。
ある種何かにそっくりじゃないですか。
我々は答えというものを先に置いたときに
この種の真理に落ち込むんだけど
この答えを先に置くっていうのは
背景に2つの真理が私はあると思うんですね。
一つはその命令をしている長時間の期限を損ねては
人生は成立しないという
ある強い虚勢不安と言ったらいいと思うんですけど
とにかく未来に対する不安、そういう思い込み。
もう一つは私はそういう人
お父さんなり先生なりに
徹底的に指導されなければ何もできない無力で
内的には何も持っていない自分なんだっていう
自分の空虚感に対する強い恐怖みたいなものですよね。
つまり自分のヘルプレスですよね。
自分というのは何者でもないし
何もできないし
誰も助けてくれないし
とにかくこの厳しいお父さんの従属していて
いいなりになってなければならないっていう
そういう幼な心が抱いたような
思い込み一つにはですよ。
これは単なる一例です。
そういう思い込みをさせられたところから
タスクシュートのようなものを使って
逆算していこうとするんですよ。
タスクシュートのようなもともと自由だったはずのものですら
そこに枠をはめていく。
そうしないと自分は動けるようにならない。
一方違うとこれを他人に進め始めると。
すべての人をそう見せてしまうわけですよ。
型にはまる生活
すべての人はヘルプレスですだと。
放っておいたらこいつらは何もしなくなる空虚な人間なんだ。
TSエリオットというイギリスの主人が
ワラ人形のような人々みたいな
そういう見方をしてしまうんですよね。
だからビッグボスみたいな人が
すべてを取り仕切らなければいけない。
いい行動というのはどういう行動で
毎日朝ランして筋トレしてみたいな
早く起きて朝活をして
片付けられた部屋の中できちんと過ごす
そういうロボットみたいな世界みたいなものが
ユートピアなんだって感じ始めるような
空虚さってものがあるわけですよ。
それが何かもともとそうであった
そうではなかったはずのものを
何か違ったものに変えていく。
という過程がしょっちゅうどこでも
賢でも起きるんですよ。
その時一番真っ端のところに何が見えてくるかというと
ニューズの効かない形式というものが
見えてくるんだろうと思うんですよね。