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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
10月25日火曜日の20時18分ですね。
一つお知らせがあるんですが、
今週あたりから、このグッドモーニングボイスを月水金の週3回にして配信しようと思っています。
さまざまな理由があるんですが、
一つには、倉園圭三さんのポッドキャストを拝聴しておりまして、
週3くらいが毎日聴くのにもちょうどいいなと。
週5ってはっきり言って、聴き込むのも全部は大変なんじゃないかなと思いまして、
そう思うと、自分も週5やるのは結構大変なんで、
不可能ではないんですけどね、今までやってきてる感じで。
でも週4くらいになってるケースも多々あるんで、
だったら週3にとりあえずしてみようと。
YouTubeは続くかどうかちょっとまだわかんないんですけど、
とりあえずこっちは週3にしてですね。
もう少し間を空けてもいいんじゃないかなと思うようになりました。
そんな感じで週3にさせていただこうと思います。
これもまた変えるかもわかんないですけどね。
とりあえず、ありがたいことにトータルで10万再生回数を超えて、
まもなく700回目を迎えることになっておりまして、
ずいぶんやってきたもんだなと。
まだそうは言っても2年分にはなってないんですけどね。
720日分にはなってないんですけど。
でも2年以上やってると思うので、
なんとかここまで来ていて、
じわじわとなんですけど、
視聴回数増えていて大変ありがたい限りなので、
ちょっとこの辺でですね、
いろんなことを喋ってきて、
今後も似たようなことを喋り続けていくはずなんですが、
そうは言っても、話の内容はどんどん一応展開しているじゃないですか。
最初の頃にはずっと話していたような話の
延長線に違いはないんですけれども、
やっぱこういうのが続けていく醍醐味の一つなんだろうなと思います。
まさか今ですね、
そもそもポッドキャストで私はこれで、
分析の話を、それも自我心理の話なんてするなんて、
想像もしていなかったんですよ。
一番最初の頃はね。
だからやっぱり何が起きるか分からないというのは、
こういうことを言うので、引き続きですね、
ぜひこう続けていくうちに、
どこか面白いところに行き着けたらいいなというふうに思っております。
本当にここ2年の展開はですね、大変ありがたいと言いますか、
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なぜこんなところにまで来られたのか、
自分でもさっぱり分からないというのが、
本当のところなんですよ。
全然分からないんですよね。
ここに来ようという意識は全くなかったような気がするんですよね。
でもこれを私の言葉で言えば、
Sの望みの一つなんだろうとは思うんですよ。
どっかでね。
井戸でもいいんだけれども。
だからそういうものってやっぱり、
私のあんまり得意としない分野ですけれども、
意識できない、全く意識できないところの、
希望に沿ってどっかに行くというのは、
考えたこともないことなんだけど、
やっぱり毎日は同じことをなぞることは決してないんですよね。
これも受け売りに近い内容ですが。
そんなこんなで、
とりあえず週3にしてみて、
また様子を見ようと思っています。
今日はこれがお知らせなので他はないんですけれども、
最近ですね、
久しぶりに、
こういうことをやるのが展開を生むんでしょうけどね。
フェアバーンを読み返しているんですね。
フェアバーンって面白い人で、
小二階だったと思うんですけど、
一匹狼的なところが多分にあって、
メラニー・クラインの、
ネタ元みたいな人、
ある意味パクられているんじゃない?
という感じがする人なんですよ。
メラニー・クラインというのは、
アンナ・フロイトと並んで、
フロイトの後継者の双壁の一人だと私は思っているんですけどね。
女性が二人なわけですよ。
私はこれがフロイトが最も望まなかった結末だと思うんだけど、
ある意味フロイトが最も恐れていた結末なんじゃないかと思うんですけどね。
後継者は彼は絶対ユダヤ人じゃない男性を一人立てたかった。
それはユングだったわけなんだけど、
気がつくと結果としてね、
ユダヤ人の女性二人になっているわけですよね。
これは大変面白いことですよね。
私はそう思うんですよ。
二人のお嬢さん。
メラニー・クラインはもちろんお嬢さんじゃないんだけど、
マナ弟子ですよね。
しかもメラニー・クラインに至っては、
大学も出てなかったと思うんですよ。
そういう人を後継者にしたいとは、
フロイトは最初絶対思ってなかったと思うんだけど、
気がつくとそうなっていた。
メラニー・クラインは偉大な人だったとも言えるんですけどね。
大論争をして、
アメリカ学派と結局ロンドン学派に
割れていくんですけれども、
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そのクラインがですね、
クラインはいろんな
ウィニコットとかビオンとか非常に優秀な人に
囲まれながら、アイディアをどんどん出していった。
また天才的な人だったと思うんだけど、
この天才的なアイディアの
少なくとも片棒ぐらいは
人が考えているところが
大きいと思うんですね。
例えば、かの有名な妄想分裂ポジション。
私の感じで言うと、あれはやっぱり
変動体モードなんだけど、
取り乱してしまった赤ちゃんみたいなもので、
今日のテーマなんですけど、
いいおっぱいと悪いおっぱいですよね。
そして、いいおっぱいの時はいいんだけど、
悪い、それが悪くなった途端に
大きく叫び始める。
同じものだということがまだ分かっていないわけですよね。
でも私たちも、大人になってもこの状態に入る。
精神病部分とかっていう名前も付けられているんだけど、
結局、そういう激しく取り乱した状態に
叩き込まれることが
現状者でも全然普通にあるという。
例えば、私運転なんかするんで、
最近はないですけど、経験は、
誰かと車をぶつけたみたいなことになると、
そういう心理状態に入りますよね。
全く普段の状態とは違った心境になってしまう。
あれもまた妄想分裂ポジションだと私は思うんですよ。
この世界が同じ世界だとはもはや思えなくなる。
でも同じ世界ですからね。間違いなく。
だから、いい世界と悪い世界の、
そういう世界観の悪い方に叩き込まれた時の
そういう心理状態。
これを、クラインは多分ですね、
妄想分裂ポジションというか、
いない赤ちゃんにとっての、
破滅的な心理状態というものを指したんだと思うんです。
これが精神症というものの、
大人になってもね、
そのポジションに入ってしまうんだよと。
だから、歴史的ポジションって言うんですけど、
普通の平成な状態にある人の、
つまり同じ人が連続して生きていると、
同じお母さんが連続して生きているんだという、
そういう、それって記憶を必要とするじゃないですか。
感覚的にその世界とか、
その同一の人の連続性というものを、
意識できるのを歴史的ポジションと言って、
そのポジションに正気の人がいるならば、
その正気の人がですね、
狂気の世界に入る時は、
妄想分裂ポジションという方向にステップしてしまうと。
この辺がですね、やっぱりこう、
アンナフロイトの発想とちょっと違うんですよね。
アンナフロイトの発想では、
徐々に進むものであって、ステップバイステップで、
最初、子供は狂気の世界にいるかもしれないが、
成長して徐々に正気に移っていくと。
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これ大変常識的な観点なんだけど、
そうすると、そうやってどんどんどんどんとですね、
人間というのは、年齢を重ねるに従って、
その年齢にふさわしい課題を克服しては、
ステップアップしていくということになると、
大人はどうして急に正気を失ったりするのかと、
それを対抗と呼んだんだけど、
だから似たような発想ではあるんですけれどもね、
なんかこう、ステップが離れていくみたいな、
どんどん正気に上がっていくっていうような感じがあるんだけど、
実際には違うような気がするんですよ。
それこそ、倉園さんの言う、一寸先は闇じゃないですけど、
さっきまで、もうどこからどう見ても、
真っ当な人が急に、
なんていうんですかね、
それこそ正気を失うような事態になると。
これっていうのは、絶えず私たちには、
正気の部分と狂気の部分が同居しているっていう感じの方が、
私は遥かにしっくりくるような気がするんですね。
そこには、アメリカの心理学的な考え方と、
メラニ・クラインの対照関係音って言うんですけど、
この二つの考え方の大きな差が、
いろんな意味で差があって、
そうは言っても同じ精神分析だし、
京荘さんはフロイトであることに違いはないので、
よく外から見ると分からないような小さな差なんだけど、
それが実は結構大きな差を持っていてですね、
そのメラニ・クラインが多分にいろんなアイディアを拝借しているのがフェアバーンなんです。
ちょっと話長くなりましたね。
例えば今言った妄想分裂ポジションにしても、
フェアバーンが元々のアイディアに分裂ポジションという観念を持ってたんですよ。
それを分裂ポジションではあるんだけど、
妄想性も非常に強いから、
クラインが妄想分裂ポジションという名前を与えて、
そこから出したときの名前を、
クラインらしく欲打つポジションという名前にしたんですね。
なぜなら妄想分裂で取り乱して、
世界に対してやつ当たりしたり破壊的なことをした後で、
そのことを後悔できるようになるのが正気というものだという考え方をクラインが取っていたからですね。
だから欲打つ的になっちゃう、反省するからね。
そういうところで人間は成長するっていうのが、
クラインの発想の中にあるわけですね。
このフェアバーンなんですよ。
その明らかにクラインに、
その点はクラインも書いてるんで、
フェアバーンって人がいいことを言ってて、
こういうフェアバーンの言う分裂ポジションというのが大事なんだみたいなことを書いてるんで、
拝借してるわけですよね。
そのフェアバーンの話っていうのはいろんな意味で面白いんですよね、
読み直してみると。
今日は一番お話ししたいのはその分裂ポジションというよりは、
例の内的対象なんですよ。
12:01
いいおっぱい悪いおっぱいの、
どっちも内的対象なんですよ。
いいお母さん悪いお母さんと言ってもいいんですよ。
それは内的対象って散々言ってるのはですね、
普通に我々がイメージするお母さんだって、
その辺は最近ベストセラーで話題の聞く技術だったというね、
聞いてもらう技術にもありますけれども、
私はですね、そういうでもごく自然なものというよりは、
内的対象というのはもっとですね、
刺激的なものだって言っているフェアバーンの言い分って、
非常に、それだけじゃないんだと思うんだけれども、
そこのところが一番大事なんじゃないかなっていう風に
今思っているんですね。
っていうのは、だいたい内的対象っていうのは
いいもんじゃないんですよ。
いいおっぱいとかいいお母さんとか、
いい世界とか言うんだけど、
良くないんじゃないかっていうのがまず何よりもあるんですね。
なぜなら、内的対象っていうのは部分対象なんですよ。
いいものっていうのは、
これも私はグッドバイブス的な発想から来てるんだけど、
全体的なもので外にあるんですよね。
私たちが内部に取り込むものは、
外してあんまりいいもんじゃないっていう感じがするんですよ。
部分になるっていうのは、部分的なものをわざわざ取り込むんですよ。
部分になるっていうのは、部分的なものをわざわざご承大事に
自分の中に取り込んでいくっていうのはですね、
大体何かしらあんまりいい結果を生まないことが多くて、
馬場玲子さんがはっきり書いてますけれども、
統合していくためにはいいものである必要があるっていうんですよね。
だから逆に言うと分裂しているものっていうのは
大体あんまりよろしくないわけですよ。
このヘアバーンはですね、
いい対象っていう表現を使わないようにしてるんですね。
若干修正かかってるんだけれども、
特に最初の頃には対象っていうのは何でも悪い対象なんだっていう風に書くわけですよ。
なぜならば、いい対象をことさら問題にする必要がないから、
私はですね、この生物というものは大体そういう風に
発想するようになってよく思うんです。
我々がまず考えるのは危険を回避すること、死なないこと、
痛い思いをしないようにすること。
基本的にはネガティブなものをまず意識するわけですよね。
もちろんポジティブなものは好きなんだけど、
そこをわざわざ問題視して記憶に留めておかなくても、
好きなもの、いいこと、いい体験は放っておけばいいじゃないですか。
何度も繰り返しても一個に構わないですよね。
嫌な体験だからこそ何度も体験したくないから
それを避けようとするわけで、
いい体験というものはいいんだから放っておけばいいわけですよ。
普通に考えるとそうなると思うんですね。
だからことさら対象化されやすいものというものは
だいたい意識化されるわけで、
意識化されるというのはだいたい嫌な思いを
ある意味そこに含んでいるからだろうと。
15:00
そうすると対象というものは全て悪い対象なんだっていうのは、
そういうふうにフェアバーンは書いているところがあるんだけども、
大変私には参考になるなって思ったんですね。
戸畑さんも書いてましたけど、
環境としての母親というのは損臭いと。
母親ならあまり意識されないから。
我々は電気が点くのを当たり前だと思っているし、
水が出てくるのも当たり前だと思っている。
こういうふうに当たり前だと思われやすい。
こういうものが何よりもいいものじゃないですか。
空気とかね、必須ですよね。
そして人間にとっては欠かせない上に良いものですよね、
根本的に。綺麗な水とかね。
お母さんが例えばタンスに服をしまっておいてくれるとかっていうのが
よくそういう話題になるんですけど、
これがまたジェンダーの問題に絡んできちゃうんですけど、
何であってもですね、
それをお父さんがやってくれにしても意識されにくいものですよね。
だからヘラパンは面白いことを書いてるんですね。
こういう良いものは図の中に書けないんだっていうふうに言うんですよ。
それを概念的に指摘したのが
ミニコットの環境としての母親だと思うんですけど、
環境としての母親っていうのは対象じゃないと思うんですよね。
イメージできないし、
対象として自分の中に取り込めるようなものでもないし、
つまりとても漠然としてるんですよね。
環境としての母親といっても
完全に自分の外にいるわけではないんですよね。
意識はできないわけじゃない。
頑張れば。
だけれども自分の中にいるとも言えない。
そういう言い方を、
そういう逆説的な表現をわざわざ取るんですけど、
その点とフェアワンの言う、
対象というのはどっちにしても悪いものだっていうのは、
私はとてもよくわかるような気がするんです。
そうすると一体、
いいおっぱいとか言われてるものは何なんだろうと言うと、
これを私、よぎったんですけどね。
これはいいギャンブル、悪いギャンブルって考えてみると、
結構いい感じで納得がいくんですよね。
ちょっとこれだと、
ややこう、
なんですかね、
きつすぎるような、
きつすぎる感じもするんですけどね。
でも、こういうイメージを持っておかないと、
この話はわかりにくいなという感じもします。
いいギャンブル、悪いギャンブルっていうのは、
こう言ってみて、
これこそ倉園さんに聞くべきなのかなと思うんだけど、
要するに僕らは、
いいと思ってなければ、
それに近づくことはしないはずなんですよ。
いいものと悪いものは同じものですよ。
いいおっぱいも悪いおっぱいも、
同じものに決まってるんで、
ここもすごく大事なんですよ。
あんまり概念的に言うと両極だから、
全く違うものに思えるかもしれないけど、
これは同じものなんですよ。
だから愛憎って言うんですね。
愛してるものを憎むんですよね。
また憎んでるものが好きになってもしまうと。
そういうもんですよね。
ギャンブルとかアルコールでもいいんですけどね。
甘いものがやめられないとか、
全部同じだと、異性もそういうところがありますよね。
18:01
つまり、
いい悪いが同一のものに対して、
両極の感じ方をするものというのは、
そのいいっていうのはですね、
要するに魅力あふれると言いますか、
魅惑的すぎて逆らいがたいものであって、
ついついそれに引っかかるんだけど、
それは必ず最終的な結末としては、
自分に悪い結果をもたらすと。
そういうものが多分、
いい〇〇、悪い〇〇なんだと思うんですね。
我々の平安というのは、
どっちでもないところと常にいたときに
訪れるものなんだけど、
そのどっちかに、
特に悪い方にわざわざ行く理由はないんで、
やっぱりいい方に行っちゃうんですけれども、
いい方に行くということによって、
平安を失うんですよね。
北山治虫さんがその例として、
アイドル、電化製品などを挙げてたんですけど、
そういうことなんですよ。
電化製品は、
アイフォンとかね、
具体的に言うとちょっと怒られますかね。
そういうことなんですよ。
何て言うんだろう、
魅惑的なものなんですね。
で、
それの良さというものを
私たちはよく知っているというか、
それの良くなさも、
ある意味、
よく知っているわけじゃないですか。
そこで結局、
イリュージョンが手伝っているんですよ。
イリュージョンが手伝って、
Sを惑わすんですね。
これに私たちは振り回されてしまう。
だから、
良いお母さんというのは、
非常に良くないものなんですよ。
ある意味、何て言うんだろう、
多分ドイ先生ならば、
子供を甘やかす母親というものを言うと思います。
子供の関心を引こうとするとかね、
そういうことをやるんですよ。
それは環境としての母親とは全然違うんですね。
大変侵入的なところがあって、
何て言うんだろう、
わざわざそういうことをやって誘惑、
誘惑という表現をよく使うんですよね、
精神分析ではしてくるんだけど、
自分が忙しくなると、
すぐにリジェクトする、
要するに拒絶する。
これをされると、子供は大変落ち着かない気分になって、
例によって例のごとくなんだけど、
いわゆる自己肯定感を失うわけですよ。
関心があるときとないときとで、
そういう関心があるときとないときとで、
差が大きいんで、
やっぱり分離不安をわざわざ掻き立てられるわけですよ。
この人の、何て言うんだろう、
誘惑してくる母親をつなぎ止めておかないと、
自分は振り捨てられるんだっていう、
そういう不安を抱くようになるんですよね。
この辺がすごくヒステリーを始め、
これ極めてひどくなると、
ボーダーという方向に近づいていく。
これは親の振る舞いとしてね。
そういうふうに、
死壁的な母親という表現が、
なんであんなに使われてたんだろうと思うと、
今思うとよく分かる気がするんですね。
母親に死壁になってしまう。
この番組でもお馴染みですが、
新井ピロヤさんの、
21:00
あれですよ、
お父さんというか、
男の人に、
あの人は要するに死壁的なんですよね。
お父さんというか、
男の人に、
あの人は要するに死壁的なんですよね。
そして、
本人のあの辛い境遇からは、
非常に難しい話なんだけれども、
やっぱりお父さんに死壁的になってしまうんですよ。
基本的に嫌いなんですよ。
生身のお父さんは。
ほとんど憎んでると言って、
この反対側に、
幻の素晴らしいっていうのかな、
普通のなんですけどね、
幻の素敵なお父さんっていうのが、
いちゃうんですよね。
この、
お父さんというものに死壁的になると、
現実に対応できなくなってしまう。
この話はですね、
また分かりにくいと思うんですけど、
依存症の人って大体そうじゃないですか。
現実に対応できない。
いわゆる、
現実を抜かすってやつなんですけれども、
現実がないんですよ。
ある意味では。
極端に良い幻と、
その反対側の極めて悪い結末を、
現実に持つっていうことの、
どっちかしかなくて、
中間というものが、
なくなってしまう。
両極って言うんだけど、
両極は同じものなので、
つまり、両極って幻ですから、
とても良いと思って、
それにのめり込むと、
ひどい現実に取り残されてしまう、
というこのパターンですよね。
で、前にちょこっとお話ししたことなんですけど、
北山先生が、
なるほどなと思ったんですけどね、
私読んでて、
マッチ売りの少女を言うんですよね。
なるほどと思うんですよ。
マッチ売りの少女のやってることっていうのは、
まさにそういうことなんですよ。
現実があまりにもひどいと、
彼女が行こうとしている、
そのマッチをする、
それによって得る幻というのはですね、
これがすなわち、
良い世界なんですよね。
ご馳走とか、優しい家族とか、
何もしないものを見せてくれる。
で、実際には、
寒空で雪が降っているのに、
靴もなく、
親は帰ってくるなとか言っている。
それが現実ですよね。
あまりにも現実が受け入れがたいものなので、
受け入れられる現実というのは、
心の中に持つわけです。
この対象が、つまり、
良い○○、悪い○○なわけです。
そうすると確かに、
この現実はないんですよね。
あれはまるでドラッグみたいな面が、
これを言うとまた怒られるかな。
マッチ売りの少女の、
吸っているマッチというのは、
まるでそういうものにも、
感じられてくるんですよ。
あの世界に行くことは、
絶対できないんですね。
で、マッチが消えてしまうと、
ひどい現実に取り残されるっていうのは、
まさにこう、
非常にヒストリーの重い世界とか、
ボーダーの世界ってものを、
連想させる、
そういうところがあるわけで、
24:00
で、最後の最後になると、
彼女は天国に行ってしまう。
というわけですね。
これを独特のキリスト教の見解では、
あの少女は幸福なのかもしれないんだけど、
いずれにしてもこの天国というのは、
この世のものではないんですよ。
で、地獄というのもまた、
この場合の地獄は現実ですけれども、
つまり天国と地獄が同じものであって、
おそらくどちらも存在しないもので、
ただ現実だけがあるんですね。
そういうふうに話は書かれていませんけれどもね。
こういうストーリーというのかな、
陽極の世界がありましてですね、
私たちが気をつけるべきことっていうのは、
E〇〇なんですよね。
つまり、悪いものには近づかないじゃないですか。
最初からそれが悪いということしかわからないんだ。
悪いだけならば全然脅威じゃないんですよ。
少なくとも。
問題ながら、いいことなんですよね。
マッチ売りの少女にとって一番恐ろしかったのは、
現実に生きることが大事だとすればね、
一番恐ろしいのは、
あの内的世界の甘美さってやつなんですよ。
あまりにもあの世界が良すぎるので、
彼女はマッチを擦り続けることになっちゃうんですよね。
あれが怖い。
私たちは現実に帰ってみるとですね、
タスク修道でもタスク管理でも仕事術でもいいんだけど、
要は仕事から脱線するときにおそらく、
私はあれだと思うんですね。
対抗という表現をとってみたり、
自我死にがくではするんだけど、
もっとその対抗の内実に迫ってみると、
脱線にはパターンがおそらくあると思うんですね。
重めのタスクだろうと、軽めのタスクだろうと、
これから現実にやろうとすること、
つまりそれは現実に対して、
私たちが現実に対してというのかな、
現実の役に立つというのか、
現実の仕事に対して、
現実に役に立つというのか、
現実の意味を持っているというか、
現実に意味のある行為をしようとするときに、
なぜかそれに立ち向かえなくなるときに、
決まって起きることがあると思いますね。
それが意義○○に誘惑されてしまうんです。
この心理状態に深く食い込んでいる人ほど、
ある種の脱線はひどくなるわけですよね。
新井ピロヨさんはまさにそうでした。
何かちょっと嫌なことがあると、
男の人のところに行っちゃうんですよ、
男の人のところに行っちゃうからね。
現実というものになかなか入っていけないんですね。
彼女はやっぱりマッチを吸っちゃうわけです。
このマッチ吸っている間、
マッチ吸っている間というのかな、
そのマッチを吸ってしまった最後、
必ず最後には嫌な思いをして、
現実に取り残されることになる。
なぜならば、
現実じゃないところに行っちゃっているからですよね。
意識が。
私たちが多分先送りをするとか、
27:02
タスクから逃げるとか、
逃げるんだけれども、
その時にやっていることというのは、
この内的な良い対象に向かっちゃっているんだと思うんですよ。
自我心理学の人たちが言う対抗とは、
これを指すんだと。
多くの場合、全部じゃないかもしれませんよ。
全部じゃないかもしれませんが、
多分これを指すんだと思う。
これがめちゃくちゃ分かりやすいのが、
ギャンブルとかアルコールなんだけど、
多分決してそれほど分かりやすくはないものの、
やっていることは何ら変わらない何かがあるんですよね。
それは、もしかすると、
本を読むとか言ったことであるのかもしれませんけど、
大事なのはですね、
それに近いことをいつも繰り返しているという事実があるはずなんですよ。
そこには。
良い内力対象って我々は数多く持っていないので、
いつも決まってそれに逃げるっていうかな。
いつも決まってそれに向かってしまう。
あがらいがたいものがあるんですよ。
赤ちゃんにとって私癖的なお母さんほど、
魅力的なものはないんですね。
あがらいがたいものがあるわけですよ。
赤ちゃんは畳んである服とかには、
さほどの興味がないですよね。
環境としての母親は、
私たちが生きる上で最も重要なものなんだけど、
残念ながら私たちは、
私癖的な母親の方が大好きだったりします。
そっちに行っちゃうんですよね。
そうして赤ちゃんは赤ちゃんなりに原型的に、
現実を見失うんですよ。
この後混乱が待ってます。
これと全く同じように、
仕事しなければこれからいけないという時になって、
ひたすらアルコールに走る。
これは極めて危険じゃないですか。
でもマッチュリの少女がやっていたのは、
寒空の中で幻のお婆ちゃんに抱かれている夢を見るんですから、
これよりなお一層危険ですよね。
こういうことを僕らは多分やるんですよね。
やっているんですよ。
で、先日お話ししたように、
ダスクシュートにはですね、
リアルの自分というのをそこに書き込んでいくんですよ。
これが大事なんですね。
この私癖的なものに逃げた時に、
記録も落ちるってよくおっしゃるんだけど、
そうじゃないんですよ。
この私癖的なものに逃げた時こそ、
記録をするんですよ。
酒何本飲んだのか。
酒じゃないと思うんだけどね。
パチンコに何時間いていくら使ったのか。
それを明瞭に、
これ以上ないくらい正確に書き込むってことが大事なんですよ。
何もそれを読み直さなくてもいいんです。
これを繰り返し繰り返し書いていればいいんですよ。
そうすると必ずリフレクションが起きるはずなんですね。
私とはどういう人間なのか。
ここでさらにこれに最悪感を持たないことなんですよ。
多くの人はこれを反省しないでどうするんだって言うんだけど、
一般にはね。
本当にここが理解に苦しむって言われるんですけど、
これを反省してむしろどうしようというのかと。
30:00
多くの人が言うじゃないですか。
言うんですよ。依存症の話には必ず出てきます。
酒を飲んでしまったことに深い罪悪感を抱くと。
だからもっと酒を飲むってこのパターンになるに決まってるじゃないですか。
子供を叩いてしまったと。
深く反省していても本当自分はダメな親だと。
だからもっと子供を虐待したくなるって必ず書いてあります。
いいこと何にもないですよね。
だってこれ私癖なんですから。
その後嫌な気持ちになりますよ。
必ず良い○○は悪い○○にいきなり暗転するんですけど、
同じものなんだから必ずその悪い○○がまた自分を誘惑してくるわけですよ。
こんな大変な現実から逃れるためには、
この良い○○に自分はしゃぶりつくしか他に手はないんだっていう風に感じるんですよね。
これを繰り返すだけになってしまうんですよ。
罪悪感というものをここで持つと。
罪悪感を持つってことは、
悪い○○の中で自分の状況は最悪だって思うという、
ただそれだけなんですよ。
やっぱりマッチ売りの症状なんですよね。
消えたときに、ああやっぱり現実はひどい。
これが幻と対比するとますますひどい感じがしますよね。
こんな風にマッチを吸っていたんでは、
もう家には絶対帰れない。
これがある種の罪悪感なんですよ。
このように思うことによって、
次にすることとしたらですね、
もう一歩マッチすることしかないですよね。
この状態にいる間は、
仕事って前には進む理由がないんですよね。
だって吸った後の方が、
より仕事に対して向かう気分がなくなってるわけですから。
こういう状態が、
つまり妄想分裂ポジションなんですよね。
同じ現実が全く違うように見えるような幻を何度も何度も見ることになる。
これを反省するということに意味は全くないんですよ。
大事なのは、このポジションの両極のどっちかにいることをやめるしかないんです。
良いと思っていたものが安定して悪くなったということを反省してみても、
この良いものが悪くならないことは決してない。
ここが非常に重要で、
だからフェアバーンはどっちも悪いんだって言ったんですよね。
これが大事なんだと思います。
こっちが良いものだと思っている限り、
良いものを損なったことを反省するっていう解釈になっちゃうんですよね。
良いものを損なったんじゃないんですよ。
最初からこの良いものは、
安定しては最悪のものになるという約束の下にあるようなものなんです。
仕事をする時っていうのは、
たぶんこういう良い○○に向かうワクワク感とかは一切なくて、
もっと遥かにニュートラルで平安な気持ちのまま進んでいくはずなんですね。
だって環境としての母親と共にあるって言ったらそういうことじゃないですか。
33:01
大変素晴らしいワクワク感っていうものは全く関係ないような気がするんですよ。
よく折りたたまれているシャツを着るとか、
我々はもっと無雑さにそれ着ちゃいますよね。
ここで感謝するっていうのは大事なんだと思うんだけど、
反省するっていう文脈では全くないような気がします。
何かもっと遥かにごく当たり前の何かっていう感じがすると思うんですよね。
ここを私はよく夢がなくてリアリストだっていう話にされるんだけど、
私にはそれが今となってはむしろ鼻肌違和感があります。
つまりこの悪いものをいいものだと思ってその誘惑に乗っかるのがワクワク感だとするならば、
かなりヤバいものだろうという気がするんですよ。
その幻みたいなものをリアルなものにするってことは土台無理なんですよ。
僕らにとって何と言ったって十分なものっていうのは、
あって当たり前のものじゃないですか。
ここのポジションからやっぱり絶対にっていうのは無理なんで、
極力踏み外さないことなんだろうという感じがします。
踏み外す可能性があるとすれば、それは悪い対象のせいではなくて、
良い対象のように見えるもののところが一番問題なんだろうという気がします。
それが分かりやすいものならいいんですよ。
それこそドラッグみたいなね。
多分そうじゃない。
多分これを聞いてくださっている皆さんにとっての
良い○○だったり、悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い。
っていうのは、なんかね、もっと遥かにまともなものなんだろうと思います。
だけれども、ものが何であるかが重要なんじゃないんですよね。
問題なのは、それに繰り返しハマってしまう何かなんだと思う。
だから私は記録っていうのはそういう意味で一つ役に立つと思うんですよね。
何か大事なことをしようとすると決まってそれじゃなくてこれをしちゃうっていうこれ。
それがつまり良い○○なんですよ。
良い○○とか何でもいいんです。
それはそのこと自体の良し悪しじゃなくて、自分はそれをどういうふうに扱ってるかってことですね。
紙壁的になっていて、それによって現実というものから必ず後退するような事態を引き起こしている対象なんです。