精神分析的アプローチの紹介
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ、第1152回をお送りします。
3月10日、月曜日、7時58分です。 また月曜日がやってまいりました。
3月15日の
山崎孝明さんとの、なんだっけ、タイトルはすぐ出てこなくなるんですが、
なぜ5分でできる自分のケアすら先送りにしてしまうかについて、心の専門家に尋ねる3時間のセミナーですが、
現地満席となりました。ありがとうございます。 渋谷のですね、ストリームサイドというところで、スポット渋谷ストリームサイドというところでやりますが、
こちらは現地は現在満席で、 あともうオンライン参加、当日ね、動画配信をご覧いただくということになります。
動画配信は、これは繰り返しお伝えしております通り、3月16日以降の販売は一応現段階ではしない予定ですので、
これをご覧になりたいといった方はですね、3月15日までにお申し込みいただけるとありがたいです。
またあと、オンライン参加の方もじわじわと増えていらっしゃっていますので、そちらもぜひですね、
お申し込みいただけますとありがたいです。こちらはですね、山崎隆明さんと新井さんという方と私とで、
まあ言うなら、山崎隆明さんは精神分析的な心理療法家で、個人心理師で臨床心理師という方なので、
専門家中の専門家で精神分析の歩き方という、今回フィーチャーした本も書かれている方で、
最近ではちょっと話題になったオレンジ色、真オレンジにして、
リニューアルに近いですよね。臨床心理学かなという雑誌を、戸畑海斗さんと共編で雑誌編集されていたりします。
まあ新井さんは私の3ヶ月チャレンジの長い間の参加者さんで、
やっぱりそのそういう精神分析は私のこのポッドキャストから学んだということでおっしゃっていて、
非常に申し訳ない気持ちにもなったりするんですが、申し訳なくはないんですけどね。それを目指しているわけだから、これを広めることを目指しているわけですが、
何しろこの専門家さんの、私専門家さんのポッドキャストとか結構片っ端から聞いているし、専門家が書かれているノートもめちゃくちゃ読んでるんですけど、
なんて言うんですかね、もう少し踏み込んでくれないとっていうのがすごいあるんで、まあ踏み込むと読まれないっていう風に思われているかもしれませんけど、
例えば心理オフィスKさんっていう割とものすごく、あの方はもしかしてウェブサイト作る人でもあるんじゃないかと思うぐらいブログががっちり作り込まれていて、
そこでは結構専門的なのを取り扱われていて、何向けに発信されていらっしゃるんだろうっていうのは割と分かりにくいんですけど、
多分結構開業されていていたりしてバリバリやっていらっしゃるんですよね、あの先日Xでそういう投稿を見たわけですよ私は、これを見ても思うのは結構ですね、その非専門的だからと言って、
なんかこう、まあそれが意味がないとは思わないんですけど、ふわっとした柔らかい感じの発信が続けられても、あのむしろ不安にならないかなっていうのがあります。
結局、なんていうのかな、まだまだカウンセリングってサラサラと使われるようなものではないですよね。
高い安いは物の見方によると思うんですけど、少なくともちょっと保険診療を使って地美化に行きましょうっていうのとはやっぱり違うと思うんですよ。
1回や2回で終わらないとなってくると、余計なおのことですね。
だから、そんなに簡単な話を書かれてもやることは複雑で難しくて、なんか専門家じゃないとダメですみたいなの書いてあって、
これがこう、なんかこう矛盾したメッセージみたいになりかねないんじゃないだろうかと、余計な話なんですけどね、余計なお世話なんですね。
まあでもこの番組は心理臨床への余計なお世話を焼く番組でもあるような気が、これ結構いい位置づけかもしれない、今喋ってて思ったんですけどね。
まあそういうところもありますので、いろいろ今日は改めて方針について喋ってみたりしていきたいと思いつつ、でも方針ばっかり喋ってるとあれなんで、今日は結構、あの、なんていうのかな、ややこしめのところも、そんなこと言ってるからまた話が長くなりますが、
それはもうしょうがないと思ってるんで、1時間ぐらいでいいや、どんどんどんどんこう長い方へ長い方へと話が言ってますけれどもね、そういうことで一つやっていこうと思っております。
専門家と一般人のギャップ
あの、そういうことで一つって言ったけど何も言ってないんで、今後これから考えてるのはですね、まず、もっとGood Vibesの体験の話もしようと思うようになりました。
体験なんですよ。Good Vibesとは何かって話は、プラゾンのけいぞうさんがもう山のように出さっていて、しかも彼がオリジナルだから間違いないわけですよ。
ここを聞いてみたり読んでみたりされるのをお勧めしたいですよね。私としてはそれを体験すると何が起きるのかの話を精神分析の話も絡めてやっていきたいと思っております。
で、この2つは私はもう今ははっきり違うなと思うようになったんですけど、どうしても似てくるところありますけどね。はっきり違うのは、自己啓発と医療の違いみたいに思われるかもしれませんけどですね。
最初、精神分析だってある意味のの医者だったんですよ、明らかに。今でもそうだと思うんですけど、精神分析科と公認心理師は全然違うんですよ。
そのことの性質がやることはそっくりかもしれないし、両者日本ではかぶってるかもしれないけど、公認心理師と精神分析科は違うんですよ。
でも心理カウンセリングをしているという意味ではどっちもおそらく同じになるんですけど、精神分析っていうのはある意味やっぱり、
山崎孝明さんの言葉を借りてあえて言うなら、カルと明らかに含んでるんですよ。そういう意味では自己啓発にぐっと寄ってるわけですよね。
ただ、寺田の啓導さんのグッドバイブスというのはですね、そもそも臨床からスタートしたものではないんですよ。
こういうふうに抑えるべきだなーって最近思うようになったんですよね。臨床がスタート地点にあったのか、なんであれ自己啓発、自分を、その発想によって自分を救い出したり、
本当に自分と近しい困ってる人たちを救い出したり、それって臨床じゃんって思われるかもしれませんが、臨床からスタートしたわけじゃないってことですね。
ドロイトは自分困ってるから精神分析やったわけじゃないんでね。あれは人が困ってるから精神分析を、困ってる人がいるだろうという当たりをつけてやったわけですからね。
あれは医療だったわけですよね。医療だったんだけどそのような医療方針というのは当時はどのぐらい、
どのぐらい、当時はね、まだそういう近代医療システムみたいなのがドイツで確立する以前の時代だったと思うので、
まああの心の病だろうと、催眠療法だろうと、とにかくうまくいきそうなら何でもいいんじゃんみたいなノリもなくはなかったのかもしれないんですけどね。
まあその時代背景とか地域みたいなことを考えるともうよくわかんなくなってきますよね。
今ではもう明らかにはっきりそのデストレーラーズバッと分けられてしまってるじゃないですか。でもやっぱり心のということになってくると話はややこしくなると思うんですよ。
だから私はそのグッドバイオス体験というものをお話ししていこうと。もうちょっとね、この中でもお話ししていこうと。今日はそれを話す予定はそう言いながらあんまりないんですけどね。
で、引き続きもう一つ考えついたというか、先日グループセッションでたまたまなんですけど私がライフハックを少し入れると、これは今後もやっていきたいと思ってるんですけど、
少し入れるつもりが、なんかそれがずるずるずるっと延長される格好で、結局グループセッション中、ある意味ライフハックを軸とした全然いつも通りの精神分析に流れていったんですけど、
これいいやり方だなと。まあひょうたんからコマなんだけど、これ悪くないなと思って、要はライフハックやっていてある種のところに行き詰まる、
端的に言うと並べてあるリストが実行できませんとかね、なった時にそこに認知行動的なものを、
当てがうんじゃなくて、一気にすっ飛ばしてライフハック矢印精神分析みたいにしてしまうのが、実は私の中で一番しっくりくるということを発見したんですね。
そこでこのやり方はいいと思ったんで、この話も本当にどのぐらいできるかわかりませんけど、この番組の中でもやっていこうと。
ライフハックと精神分析の統合
結局あっという間にライフハックの話は終わるのが理想的なんだけど、あの日はなんかこうずるずると引っ張る格好になったんですよね。
そういうふうにライフハックとかGood Vibesをまた復活させられるな、この番組でと。
しかも私の場合この番組は軸が精神分析に置いて、タイトル通りですからね、置いてあるんですが、それは別に問題ないな、ここまで整理がつけばなというと、
私の頭の中でようやくここまで整理がついたというだけの話なのかもしれないです。
それで先日のグループセッションでしたのって、要するにタスクシュートクラウド2の画面をお見せして、こういうふうにやってるんだけど、でっていうところから精神分析に流そうと思ってたんですよ。
ところがタスクシュートって事の性質上ね、中身に興味を持たれてしまうんですよね。
僕はこれが毎回毎回何て言うんだろう、ある種の罪悪感を覚えてしまうんですよね。
これね、いいテーマなんで今日これでいこうと思ったんですけど、今中身見えないじゃないですか、ポッドキャストだから。
で僕は中身について喋る気も一切ないし、ポッドキャストだし、画面見せればいいこと足りるんであんなものは。
どっちかっていうとあれはブログ向きなんですよ。
まあ動画向きなんですよ、言ってしまえばね。
で中身に興味を持たれるのは、もう必然的な成り行きだと思うんですよ。
私が朝から晩まで何やってるんだろうって、自然とそういうややスキャンダルであろうとなかろうと入ってくるわけじゃないですか。
ところが僕は中身に何の興味を持ってないわけですよ。
タスクシュートは構造が全てだと思っているんで、その中でその人が何をやってるかは何ら重要なことではないと思うんですよね。
ここに最近のやっぱり私の感覚と一般的な世界の感覚との大きなズレが一つあるようなと思うんですよね。
結局中身に興味があるというのは、その人は生産的かどうかに多分に興味を持たれてしまってるわけですよね。
でその人が生産的であると言うならば、ここから全てですよね。
その方法論には生産性を上げるだけの効果が発揮できるんだろうかとか。
もうちょっとシンプルなところでは、私と比べてこの人稼げてるだろうか、仕事してるだろうか、サボってるだろうかって興味になっちゃうわけですよね。
僕はこれが全て全く必然的なんだと思うんですけど、これはうっすらと定義だと思うんですよね。
どっかここには定義があるなって思うんですよ。
私のタスクシュートの中身に長寿が投影されてしまっていて、お前もっとちゃんとやれよって言われる声が聞こえてくる人もいるかもしれないし、
お前もっと真面目にやれよって私に向ける人もいるかもしれないし、いずれにしても長寿が投影されていってるわけですよね。
リストに。
でこれは優れて精神分析的じゃないですか。
行動科学と精神分析の違い
長寿がリストに投影されるなどという表現を使えるのは精神分析ならではであって、
行動科学にはそういう知識がある人が行動科学のカウンセラーだとしてもそういうふうな話に持っていくってことはあり得ると思いますよ。
いくらもね専門家なんだから。
でも行動科学の考え方そのものにはこのような考え方はナンセンスですよね。
むしろ排除してきた歴史があるわけじゃないですか。
だってあれは心はブラックボックスだし相手にしないんだ。
行動は見えるから行動だけを見ていくんだっていう。
そういう思想の下で発展してきた学問であって、それをいくら後からですね、SRから認知からいろんなものを取り戻していったとしても、
出だしがそもそも真逆なものを向いているわけですよ。
これやっぱり僕は大事なポイントだと思うんですよね。
未来に向いているわけですよ。
そもそも私のタスクシュートっていうのが大体未来に向いているかどうか大いに疑わしいんだけど、そもそも精神分析は未来には向いてないと私は思うんですよ。
最終的にはその人の未来を良くするとかはあるのかもしれないけど、この言い方はものすごく雑で、
その人にとっての未来って何なの?っていう問いが絶対入ってくるはずだし、
その人にとって良いってどういうことなの?
あなたが良いって思ってるものとその人に良いってものってものが一致するって保証はどこにあるの?っていうのが次から次へとやってきて、破滅する。
破滅はしないけど成立しなくなるんですよ、たぶん。
タスクシュートの価値
だから私は最初からそのようなものはごっそり捨ててあるわけです。
だってそれやってる人は世の中に山のようにいるわけじゃないですか。
それで上手くいくんだったら上手くいってるはずだし、上手くいかないけどそっちに欠けるというならば、
引き続き行動科学系のものを探していけば、それは自己啓発にあり、ライフハックにあり、ビジネス書にあり、そして認知行動療法の中にもおそらくあるはずなんですよ。
ブリーフセラピーは認知行動じゃないですけど、ブリーフってのは短いって意味じゃないですか。
短いセラピーって歌っていて、それが歌い文句になるということはですね、時間がもったいないって言ってるわけですよね。
時間がもったいないって言うっていう価値観そのものが、そもそも精神分析的では全くないと思うし、
まあ、あえてここで言うならば、グッドバイブス的でも全然ないと思うし、佐々木称呼的でも全然ないわけですよ。
私、時間がもったいないというものをいかに廃棄するかに全力を挙げてるわけですから、
時間がもったいないという概念を絶対に採用しないと思ってる人間のところにわざわざやってきて、未来を改善しましょうっていうものの話が出てくるはずがないわけですよね。
それは他のところでやった方が、それこそ時間の無駄がないですよ。
ここで私と議論しているその時間がもったいないじゃないですか。
未来を改善するということ、時間を大事にするということを重視するのであれば、サンチャレやってる場合ではない。
ただならまだしもですよ。お金払ってそれをやっていたんでは、本当にユーザーに申し訳ない罪悪感っていうのはそういう意味なんだけど、罪悪感が湧くじゃないですか。
いや、罪悪感湧かないんですけどね結局ね。なぜなら私はその人の時間も実はもったいなくはないと思っているんで。
というわけでですね。
なんていうんですかね。
そうそう、だからタスクシュートのリストを提示する。
というか、タスクシュートというもので私が何をどうやってるのかという話をしようとしたんだけど、やっぱり中身に興味が移ってっちゃうんだよなっていうのをね。
そして中身に興味が移ってっちゃうというのはまさに、実は精神分析的だよなと思うところから、実は精神分析的な話ができるんですよね。
日常的ルーチンの意義
ただリストに長字がを投影するというこのやり方は、あらゆるライフハック的に見ても僕は、そこには大きな誤解があるとは思うんです。
たとえそれがGTDのリストであっても、そこに長字が投影しちゃいけないと思うんですよ。でも僕らはしちゃいますよ。
つまりここで考え込み始めるというか、ここからが今日のポッドキャストの主題かな。
つまり一見リストに長字がを投影するのは、それ正常でしょ?普通でしょ?誰だってやるでしょ?誰もがやるわけでは絶対ないし。
私は、例えばデビッド・アレンさんがGTDをうまくやっているとすると、リストに長字がを投影しないような努力を相当してきたに違いないと思うんですね。
いくらかあると思いますよGTDは。なぜならばあれはタスクシュートなんかとは違って、その行為をやることについての価値を厳密に定義しようとするようなものはリストに上がってこないはずだと私は思うんです。
例えばトイレ。トイレに乗せてどうするのっていうのって、ではトイレには価値がないんですかっていう問いが実は立つはずなんですよ。
筋トレは価値があるからリストにアップするが、トイレには価値がないからリストにアップしないって言って、じゃあ1日トイレなしで生きてみましょうねっていう。
まあこれちょっと意地が悪いですけど、でも今ではですね、あのこれもちょっとあんまり話題にするべきではないかもしれないけど、でも3.11も近いですし、っていうか明日ですよね。
お入れにいつでも行けるっていうのは幸せなことですよと、筋トレに行くことの価値に比べて全然そっちの方が高くないっていう感じって私はするんですけど、でもGTDには多分トイレは乗ってこない。
なぜなら、なぜでしょうね。価値がないからなんですかね。
あの、なんだろうな。
必ず5倍になる株を買う方、価値があるからですかね。でも必ず5倍になる株を買うのと、今どうしても我慢できないトイレっていうのを選択するとき、人はどっちを選ぶのかなーって私は時々思うんですよ。
FXの画面とかでもいいんですよね。これを売るってなるのと、うんこ漏らしそうだっていうのと、どっちをその人は選ぶかなって思うんですよ。価値ってそういう側面を本来含んでるはずなんですけどね。
何にも考えないでリストアップすればトイレは上がってきませんよね、絶対。だからタスクシュートって特殊なんですよ。何にも考えなくてもトイレって残ってくるはずなんで、トイレが全部1秒で終わるなら別ですけど、そうはいかないじゃないですか。
トイレをログに残すのか残さないのか、トイレがルーチンに上がってくるのか来ないのかっていうのが、あの人の価値観をあからさまに示すんですよ、実は。だけどそうは思われてないんですよね。
こういうの一時が万事で、価値がないことを減らして価値があることを増やしましょうって、だいたい最初はライフハック系のリストで何でもそうやってスタートするんだけど、だからルーチンしかなくて、タスクシュートはダメですみたいなことになるんだけど、
毎日毎日繰り返しやってることに価値がないってするその発想は何なんだって感じですよね。それに時間使いたくないんです。トイレとか食事とか睡眠とか、あんなものはどうでもいいことなんでって、トイレと食事と睡眠、ゼロにしてどうやって生きていこうねっていう話なんですよ。価値がないって言うんであればね。
だから価値があるとか価値がないというものをすっごく簡単に洗った時には我々は日常のルーチンは全部ごっそりそこから外すことになるんですけど、でもタスクシュートっていうものを使ってると日常のルーチンしか上がってこなくなってくるものなんですよね。価値があるというものだからこそ繰り返しやるわけですから。
で、自分が価値があって欲しいと思うこと、なんでもいいんですけどフランス語の勉強とかそんなものには価値がないんですよその人にとっては。やんないんだったらってことですよ。価値があると信じていてやらないっていうのはもし本当にそういうことがあるんだとするとそこから私は行動科学の出番なんだろうか。私は精神分析の出番にそこでしていきたいってことなんでしょうね。
精神分析でそれを取り扱う。なぜその人はある行為に価値が、Aという行為に価値があると。確信しきっておきながらそのAを毎日のように実行しないということが起こるんだろうと。これはですね結局、あのすごく付き合いたいと思っていた女性をなぜか1時間も待たせる男性というものがこの世にはちゃんといるっていう現実からあり得ないことでは全然ないと思うんですよ。
自分が価値があると信じているものには本当に自分は価値があると信じているんだろうかというような話は、あの精神分析では必ず取り扱えると私は思うんですよ。真剣に取り扱う気になりさえすれば。
で、だから私は私のタスクシュートの中身というものにあんまり興味がないんですね。
なぜなら私のタスクシュートをおよそタスクシュートとして見る限りは実にうまく回ってるんで、自分は何にもこれに課題感を持ってないんですよ。だから興味が湧かないんですよね。
で、どうしたらそうなるのかってのはリストの上にはないんですよ。残念ながら。リストを見せればこと足りるぐらいリストだけで、なぜタスクシュートがうまく回るのかをリスト見さえすればわかるというのであればですね。
私は精神分析の話なんかせずにリストを黙って動画でずーっと流すんですけれども、多分それでは何にも生まれてこない時ですね、Xでなんかこうそういうの悪くないかなと思って、朝のリストとか昼のリストとか繊維、結局静止画なんでね、繊維しか映らないんですけど、
そのまんまスクショ撮って流していくということに何か意味があるかなと思ったんだけどやめちゃったんですよね。何にも意味がない気がするんですよ。そこには中身しか映ってないなっていう感じがするんですよ。
大事なのはあの構造の方であって、まあ大事な場合にはですけどね、大事なのは構造の方であって中身の方は何にもないわけにはいかないしリアリティがあった方がいいだろうから、極力人名以外にはモザイクをかけずにバリバリ出してみたんだけど意味が全く感じられない。
そもそも私、終わってしまったタスクシュートのリストには興味がないんですよね。これからやるリストにも全然興味ないです。タスクシュートというのはそういうことではないと思うんですよね。今かなりラディカルに言いましたけど、本当に僕はこれはいじってるときにのみ意味があるんであって、だからそこを映すことはできなくはないんだけど、それって僕の心の中で起きてることだけがポイントで、
画面見ててもわかんないと思うんですよ。画面は私は見てますね。見てたって動かないときはしょっちゅうあります。で、これ見ていてんーって見てるんですよ。この見てるってことに意味があるのであって、中身には意味ないんですよね、別にね。僕には意味ありますよ、もちろん。でも他の人々っては何の意味もないと思うんですよ。他の人がやらないことがそこに書いてあるわけですからね。
精神病と神経症の違い
これと全く同じこと書いて、それで人生うまくいくと思う人はいないはずじゃないですか。ここに全てがある気がしますね。これは私なんだってことですよね。私は私を見てるんですよ。だからそこに長寿画見ちゃいけないんですよね。この話をしたいわけですね。長寿画を見てしまう。そしてそれは当然でしょうっていう話になるのかもしれない。
で、そこで私はいきなりですけど精神病水準と神経症水準の差は、差というか差異はあると思いますが、なして言うほどあるのかっていう、これ先日3ヶ月チャレンジで出た、私は重大な問いだが重大すぎるって思った問いなんですが、こういうのが出るところがそのチャレの良いところですね。ここはじゃあまず聞かないじゃないですか。
な、何言ってんのそれって。精神病と神経症の違いってそもそも何なのっていうね、話になっちゃうじゃないですか。難しいですね、それも。簡単ではないです。だけれども例えば神経症というのは世の中の感覚的に見て、うーん、まあノイローゼですね。困った感じはするけれども、なんて言うんだろう。まあ正常の範囲内だよねと。
例えば何度か家に戻ってガスコンロの火を消えたかどうだかを見に行く。これって現実に何の役にも立たないわけじゃないじゃないですか。何かの役には立ちそうじゃないですか。実際にはそれは結構困った行動になっちゃうけど、何かの役には立ちそうですよね。ただ、それって文化的なものはどうするのって話になってくると微妙な問題は出てくるわけですよ。
で、一方でテレビが私を監視していてはあまりにも恐ろしいので、テレビにガッチリと布をかぶせてあって電源も抜いてあります。これはさっきの話よりも多くの人にとっては、それは精神病なんじゃないのってことになる。これが精神病と神経症の一つの境目で、なんて言うんだろう。
現実にありえないとされていることが、その人にとっては当然になってしまっているっていう水準が精神病水準であるならば、つまり現実見当を欠いているって言い方になるんですけど、現実にありえないことではないことを、その人は必要以上に困っているのが神経症水準。これも非常にざっくりですね。ざっくりです。
で、何が言いたいかというとですね、大抵の人は精神病、特に統合失調症の話の中で一度は聞いたことがあると思うんですけど、テレビに監視されてるんですよ。ではどうしてテレビに監視されるのかと。テレビだけじゃなくてATMとか、最近で言うとあれだな、ノートパソコンのカメラとかにあれはわかる気がする。監視されてるんですよ。こうやって見ていくと少しわかってくる感じがするじゃないですか。
私はよくこの番組でもジグゾーパズルとか粘土とか、いろいろな言い方するんですけど、つまり、知覚というものはそこにいろんな組み込みを、断片的なものをいろいろ組み込むことができちゃうということですね。テレビにお前は本当に無能な人間だ、さっさと働けと言われている。それもものすごい怖いっていう話を聞いたことがある人だっていると思うんですよ。
私は頻繁聞いた人間なんですよ、この集のことをね。で、これを聞いたときに、私も最初はさっぱり意味がわからなかったんだけど、松木邦博さんという人はですね、すごい偉い人だと思います。パーソナル精神分析辞典という、パーソナル精神分析ことてんですね。3900円で入手できます。彼、一人で書いたんですよ。辞典はですよ。
なんでこんなに、こんなことをするモチベーションはどっから来るんだろうって思っちゃうんですけどね。あの、本当にことてんなんですよ。一人でコンコンと書いてる。で、どう見ても辞典というよりは読み物で、上から全部読んでいくのが一番いいんですよね、ああいうものはね。
だって臨床例とかまで入ってきてるんで、普通に読み物じゃんこれって感じになるんですけど、用語集になってはいるんです。ここに、かつて僕が一番見た中で、わかりやすく、これがあるだけでも世の中の統合主張症の人は助かるんじゃないかと思うぐらい、日本国民に読んでほしいぐらいに思ってしまうんですけど、統合主張症のところではなかったかな、アルファ機能のところかな。
ビザレオブジェクト、つまり機械な対象群というものが説明されてるんですね。あれほどわかりやすい説明は僕は見たことがないですが、要するに断片的な現実のイメージ、つまり例えばテレビならテレビって断片ですよね。
現実世界にありとあらゆるものがある中の断片というと、それこそジグゾーパズルの欠片みたいに思っちゃうかもしれませんけど、テレビっていう、我々はテレビを見たときにテレビっていうものが見えるわけじゃないですか。
それは太陽とか木とかお皿とかテーブルとかいろんなもののイメージが、要するに世界中に散りばめられていますよね。
のうちのテレビっていう一つの断片じゃないですか。このテレビっていう断片イメージに一緒に攻撃、そのいろんなものには時々攻撃性、例えば今で言うと戦車とかには攻撃性ってものを我々は見ますよね。
でも戦車がただそこにあるだけでは攻撃とかが別に見えるわけじゃないから、攻撃というものはそれは攻撃し得るものなんだぞと思って見てるわけじゃないですか。
例えば台所にあるペティナイフだって攻撃性はないんだけど、それに攻撃性を見ることは容易にできますよね。
つまり攻撃性を見るというのは自分が知っている、つまりそれはその人のものなんですよ。その人の攻撃性なんですよ、ある意味で。
自分が知っている攻撃性というものを、それを投影と言ったりするんですけれども、何でもいいんですけど、組み合わせるわけじゃないですか。ナイフに攻撃性をプラスするんですよ。ちゃんとプラスって書いてあるんですよ。
この辺がマツキさんのはっきり書くところだな。プラスって書くか、かけるって書くか、なんか書き方は結構微妙だと思うんですけど、バッチリプラスって書いてあるんですよね。
プラス攻撃性、あるいは破壊力みたいなものをプラス。つまり、正気な人っていうのかな、正気とされている人っていうのは、例えばペティナイフに攻撃性を加えるというなら、ちょっと穏やかではないけどわかるじゃないですか。
戦車に攻撃性を加える、まあこれもわかるじゃないですか、攻撃できるから。フラッグに攻撃性を加える、まあケースバイケースですけどわかるじゃないですか。
だと何だろうな。それこそもうちょっと簡単な、木刀に攻撃性を加える。これはもう簡単じゃないですか。でも木刀がそこにコロンと転がってるだけで、それ自体が何かを攻撃するわけじゃないんだから、攻撃性を加えるっていうのは本当は我々の勝手なものの見方なの。
恣意的な。ただそれが他の人とも共有できるなら、その人のものの見方は異常だとは見なされないわけですよね。
で、テレビに攻撃性を加えることだってできちゃうわけですよ、やろうと思えば。だけどそれをやってしまうと、そしてそれをやってると主張すると他の人からは変だと思われるっていうだけであって、他の人と共有できないから、その感覚は。
だから変だと思われるだけであって、別にやってることはナイフの上に攻撃性を見ようと、木刀の上に攻撃性を見ようと、テレビの上に攻撃性を見ようと、別に構わないわけですよ。
ましてテレビは音を発するんで、音を発するということは喋るもののように見ることもできるわけで、だってあれを生まれて初めて見たというような古代の人みたいだったらね、絶対あれ喋ってるって感じる可能性ありますよ。
だからテレビは喋るわけですよ。喋るからには、このお前がそうやって働かないでいて家族にどれほど迷惑をかけていると思っているんだと言ってくるわけですよ、テレビが。言ってきうるわけですよ。つまりテレビには長寿画が見える人もいるってこと。
ていうか多分に統合主張の人というのはテレビに長寿画も見てると思う。こうやって断片化された現実の一部に攻撃性だの長寿画だの、自分を昔とてもうるさく叱りつけて非常に嫌な思いをしたおじいちゃんとかをそのテレビの上に乗っけるってことをだんだんだんだんですね、無意識の水準でやってしまう。
しかもそれは無意識にやってるから、あえて自分はそこに攻撃性を見ているんだなどとは思わないわけですね。つまり自分の心が外在化してるわけですよ。自分の心が外に出ている。攻撃性とか長寿画って心の産物じゃないですか。おじいちゃんの言うなら思い出ですよね。思い出としてはおかしいかもしれないけど、思い出が外にあるのはおかしいですよ。思い出っていうのは心の中にあるに決まっているんだけど、それを外に置いている、近くと一緒にしてるんですよ。
心理的影響と文化
そのことに気づいてないから無意識なんですよ。で、これを洗濯機も出し音立てるしね。それこそパソコンなんて思いっきりそう。スマホもそうです。ATMもスマホもテレビも洗濯機もこれをやってくる。つまり私を迫害する対象に私は囲まれている。これがヴィザーレオブジェクツっていうものだっていう説明が分析用語辞典に載ってて。
松木さんが一生懸命一人で書いた産物なわけですよね。これとリストに長寺賀を投影するのの違うんだってことなんですよ。違いますよ。もちろんね。多分リストに投影するリストがお前本当にだらしないな先送りばっかりだなと言って怒ってる気がする。それ分かるってことになるでしょ。みんなが分かるか分からないか大事ですよね。ここでものすごく。だから文化ってものが出てくるんですよ。
でも私は分かっちゃいけないと思うんですよね。リストに長寺賀を投影するのはテレビに長寺賀を投影するのがおかしいようにおかしいんですよ。もちろん現実検討というのがここで聞いてきてじゃあテレビには攻撃力ありますかと。ないですよね。これを検討できるかどうかを考える力って言うんですよ。多分。
だからテレビには攻撃する、そもそも機能が備わってるのか。あなたを監視する装置というものはテレビというものにそもそも備わってるのか。考えていくと解けていく可能性がある。だから私はここでそれについて考えるということを一生懸命言ったり伝えたり、さんちゃれで喋ったりするわけですよね。
それは一体どういうもので何をしようとしていて本当にそれをするのかと。不安を、あなたの不安を投影してませんか、こういう言い方はしませんが。まあでもこういうことを問い合わせるわけですよ。あなたの心からその不安は、その攻撃はあなたの心から出てきているものではないのかと。
メディナイフを見て、これで人が刺せるって思うのは不安じゃないです。考えもしないっていうこともあり得るじゃないですか。それは機能として持っててもですよね。テレビが攻撃するというふうに思うということは、もうその人はよっぽど腹を立ててるんですよ、現実世界に対して。テレビすらも私を迫害し、監視し、私のやることに指図をしてくると。
よっぽどその人はその指図感というものに、腹に据えかねているし、怯えているし、つらいんですよ。これが伝わらないですよね。伝わらない証拠に、私は兄弟からもこの種のことを聞くわけ、聞いたわけですよ。
で、私はこれがミザレオブジェクツというものが一体何なんだろうと思って、一生懸命読んでるし、松木さんの本とか藤山さんの本とかに当たって、ようやく理解できて、理解できて会話をしてみると、会話をしてはくれるんですよ、兄弟はね、私とは。だけど親はこれがわからない。私説明してみたんだけど、ついに伝わらないんですよ。伝わらないために兄弟とは会話ができない。
というか、もう相手が会話をしようとしてくれない。なぜなら、わかってくれないからですよ。で、買った早々のパソコンをぶち壊すと。そうすると、なぜ壊すのかというと、それはパソコンが監視するからですよね。監視して指図をしてくる。
お前そんなに家に引きこもってばっかりでどうするんだと。将来どうするつもり?すごい嫌じゃないですか。四六時中ずっとそれをパソコンが言ってくるんですよ。そしてそれは、その一番自分がされたくないような迫害とか言われたくないようなことを発してくるわけですよ。
で、何にも発してこない時間帯をウェブカメラのところでじひっと監視している。だからそれを塞ぎ、ついには壊すと。そうすると、うちの親父が言うわけですよ。なんで買ったばっかりのパソコンを壊すんだ。会話が全く成り立ってないですよね。だから私は夫婦喧嘩にしても親子喧嘩にしてもですね、これがですね、行動的な話なのかとか、神経的な話なのかっていうことに興味がもう持てないんですよ。
こういうやりとりを目の前で見たんで、私は。目の前で話が全く神合ってない。私は一応分かってるんで、なんで壊したのか。だからここで怒っても無駄だって言っても伝わらないんですよね。やっぱり腹が立ってしまう。
その時に、私も昔言ってましたけれども、この時の父はね、偏頭体が興奮してとか、意味がない気がする。そういうことではないような。もちろん偏頭体が興奮してるんだけど、活性化してるんだけど、アミグダラ。そうじゃないような気がするんですよね。そうなんですけどね、もちろん。それを言えば私の兄弟だって、アミグダラが活性化してるんですよ。そりゃそうなんだけど、そうじゃないだろうと思うんですよね、やっぱりね。
ここで問題なのはそういうことではない気がするんです。もちろん、精神を沈める薬とか、抗精神薬とか、興奮を沈めるとか、意味はなくはないと思うんですけれども、一時的にはね、問題はそういうところにはないと思うんです。
結局、この超自我対象をテレビなりパソコンなりにまで投影するというのは、迫害されている感じが猛烈にあるのに、そこにさらに怒りをぶつけてしまって、どうしようというんだっていうのも伝わらないんですよね。つまり、じゃあこれは伝わらない人間が、でも伝わらない人は正常なんですよね。正常って何なんだろうっていうのは、やっぱりこういうふうに悩ましい問題だなぁと思うんですよ。
リストとその影響
いくらこれを伝えても伝わらない。やがて私が父に対してなんですけど、怒りを含んでしまう。この人に怒ってどうするんだって話じゃないですか。でも腹が立ってくる。正常って何なんだろうってやっぱり思いますよね。自分が正常だと言うならばですね。
なので、話を元に戻すというか、元には戻しませんが、タスクリストとかタスクシュートに超自我対象を見ちゃったらダメだと思うし、同じことやってるんですよそれは。いくらかは違うにせよ。つまりコンセンサスが得やすいとか、そういうふうにしても、じゃあやっぱりやらなきゃいけないから不定進行しようということになって、
現実的用途はテレビとかコンピューターに超自我を見るよりはリストに超自我を見た方が現実的用途は高まるから、だからこの水準は精神病ではなく神経症水準だとは言えます。言えますが、だからそれでいいってことにはならない気がある。私はするんですね。
やっぱりリストはリストであり、リストは人を攻撃する力はない。リストに私を監視する力もないし、そのような機能がそもそも備わってない。これが現実見当ってものじゃないですか。現実ってどういうことになってるんだろうというのは、私たちは割と見失うんで、それは気をつけて確認しておいていかないといけないような気がするんですよね。リストは何かをやるべきだとは決して言わないんで。
だからこれを見て何かをやるべきだったと思うとか、そういうふうに思った時にはやっぱり少し注意しなきゃいけないとは思うんですよ。テレビに何かをやれと言われてると思うよりは、はるかにまともかもしれないし、マシかもしれないけど、それは程度の問題、質もちょっと違うけど、でもやっぱり程度の問題でして。
本質的には同じような一種狂気の世界に足を踏み入れようとしていて、それを繰り返した結果が良い結果になるとは私には思えませんと。そういうお話をしたかったわけですし、したわけですよね。
主に断片ですよね。リストもまた現実の断片です。現実の断片たす長寿が対象、たす何でもいいんですけど、攻撃的な対象、倉庫的な記憶、つまり昔そういうリストを作ったり、あるいは学校から配られて怒られたという記憶、そういったものをどんどんどんどんその対象に組み込み、組み込み、足し算し、足し算し。
そして出来上がったリストという知覚から、私は攻め立てられているような気がするとか、このままではいけないような気がするとか、焦燥感が借り立てられる。それはつまり現実が動き出してますよね。私の心、私の感情という現実がそのリストに対してありもしないものを追加していき、ある意味ではそこに妄想を見ることによって私の感情というものが変化して、
そしてそのリストの通りに動いてしまったら、私はそれはいいことですとはとても思わない。はっきり言ってまずいことが起きてますって感じがむしろするんですよ。そんなことをやっていたら、だんだんだんだん現実に私はいつも攻められているとか、迫害されている、怒られている、叱責されているっていう気持ちをむしろ勝手に自分で育てていく結果になってしまって、
そこまでいったらですね、まあ50歩100歩とは言いませんけど、1000歩くらいあるいは2000歩くらいいったら、私の兄弟とそう違わなくなっていくんじゃないのか。で、こうなるとですね、私の兄弟の気持ちというものがよく理解できるように思えてはくるんですよ。
それが何かの役に立つかどうかは非常に疑わしいんだけど、少なくとも会話することぐらいはできる。会話してないですからね、他の人と。会話することぐらいはできるようになる。会話ができるというのはやっぱり話が通じるとどこかで思えてこそなんですよ。
だから、まあ話し飛ぶんですけど、精神分析では陰性治療反応ってすごい問題にするんだと思うんですよね。キャンセルを繰り返して来なくなっちゃう。会話が成立しなくなりましたってことではないですか、これは。だから精神分析家に対して、もういかにもありそうなことですけど、テレビどころじゃないんでね。
それこそ攻撃性を見て、長寿がを見て、私はこの精神分析のカウンセラーさんを怒らせてしまったんだと思い込んでしまう。私がいつまで経ってもろくでもないことばっかりやっていて、リストカット止まりませんとか言っているから、ついに見捨てられたんだと。結局こんなに優しい人にすら自分は見捨てられるんだとか、こういう話に展開していくってことがもちろん当然のように起きるわけですよ。
人なんで。リストとかパソコンにそれを見るよりは、はるかにこの方が意味かなった者の見方なんで、いかに、いくらそれをカウンセラーの人が、いえいえそんなことはないんですか、私は怒ってませんとか言ったとしても無駄なんですよ、もはや。話が通じなくなっていくんですよね。
それはつまり、このポッドキャストで繰り返しで今日は説明は加えませんけど、ナルシシズムの世界じゃないですか。つまりそのクライアントさんは自分の世界にもう完全に入り込んでいて、その相手が本当に怒っているかどうかとか、そもそも怒る意味はどのくらいあるのかとか、何のために怒るのかといった見当がつかなくなっているわけですよね。
テレビが監視する機能を持っていないというのは、神経症水準の人には容易にわかることだけど、人が怒っているのか怒っていないのかが本当にわかるかといったら、わからないですよ。私にはわからないです。わからないというものをわからないままにはしておけないんですよね。なかなか我々は怖くて。
わからないままその人に接近しなきゃならないじゃないですか。でも私はこれをやらないから、わからなさというものを持ちこたえようとしないから、何かを決めつける結果になってしまうと思うんですよ。つまりマイナスKがそこで発動すると思うんですよ。この人は怒ってるんだということにしてしまうんですね。
そしてそれは私が不要意なことを言ったからだというふうに記憶を捏造してしまう。言ったのは言ったのかもしれませんよ。でも言ったから怒ったっていうのは捏造じゃないですか。そういう事実がないのであれば。あるのかないのかを見に行くのが怖すぎるので、あるのかないのかについて再検討を加えるのが怖すぎるので、見ないことにするんですよ。これは否認ですよね。
そして私たちは結構例えば、クレジットカードの、この話をすると大橋泰三さんが笑い出すっていう話なんですけど、彼は得意分野なんで、クレジットカードの迷彩を見るのが怖いわけですよ。お金を使いすぎたんじゃないか。これはどういうことかというと、お金を使いすぎたのが怖いんですとその人はおっしゃるかもしれないが、長時間を投影してるんですよ。
クレジットカードのリストに、お金使いすぎだぞと。そんな生活をしていてどういうつもりだっていう声が聞こえては来ないでしょうけれども、そういうふうに言われたという思い出とか、その人を叱責する人だとか母親だとかをそのリストの上に練り込んでいくわけですよ。踏み合わせて足し算していくわけですね。私はそれがいいことだとは全く思わない。
そうして怖すぎてリスト見られなくなりました。だからもっと使っちゃいましたって話はしょっちゅう聞くんですよ。全然現実検討適応度も何も上がっちゃいないじゃないですか。何かそういうことをすることによってむしろ下げてますよね。僕らこういうことをいっぱいやってるんだろうと思うんですよね。
それはまあだから水準こそ違うけれども、近いことは我々の身に起きていると思うんですよね。ぜひですね、まあぜひではないけど、このVisual Objectsというものが出来上がる工程というものを理解していくとですね。
意外に水準として話が全くわからないっていう人の話が実は意外に理にかなったというか筋を通ったというか、少なくともその話にある種の一貫性があるんだということが理解できていくとですね。
いろんな意味でこの種のリテラシーが上がることは私は大変いいことなんではないかと思うんですよね。やっぱり理解されない病気を抱えるというのはつらいことですからね。
ご視聴ありがとうございました。