1. 佐々木正悟のライフハックからの精神分析
  2. 「人を信用してはならない」か..
2025-06-27 44:47

「人を信用してはならない」から【1212】

ロックミュージックとテレビと自慰と、AIと?
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サマリー

このエピソードでは、対抗と転移の概念を通じて、友情や人間関係の複雑さが語られます。特に、子供の頃の関係性や喧嘩、同性愛的傾向についても考察されています。 また、幼少期における役割の認識や対人関係の複雑さが考察され、「PSポジション」や「妄想分裂ポジション」といった心理的概念が紹介されています。男子同性愛的な感情や関係の維持に対する矛盾した思考も取り上げられています。 人間関係における信頼の欠如や、自己反省を通じた成長の難しさについて探求し、他人に責任を転嫁することの弊害や過去の記憶が人間関係に与える影響が論じられています。 ポッドキャスト「人を信用してはならない」では、内界と外界の認識について深い分析が行われ、象徴水準の重要性が強調されています。特に、親子関係におけるコミュニケーションの質や精神分析の技法が議論され、誤解や対抗のプロセスについて考察されています。 「人を信用してはいけない」というテーマのもと、スキゾイドの症状や親子関係の変化について詳しく考察が行われます。

精神分析と人間関係の考察
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ、第1212回をお送りします。
6月27日、金曜日、8時3分です。
いやー、ついに金曜日を迎えて、大変めでたいわけですね。これで無事1週間が終わりました。
朝も送り迎えしてきて、朝食も終えてっていうのは早すぎる。暗くないから救われる感じですけども、暑いから結構救いようがない感じもあってですね。
金曜が終わると戦いが終わった感が出ますね。
まだ募集かけませんが、第11期は若干フライングをしてですね。
7月の下旬、相当後ろの方ですけど、にスタートしようかなというふうに思っております。
ちょっと延長サービス的なやつですね。
第11期は、特に10期を割と大きく変更してきたので、11期は大幅な変更はしない予定なんですけども、
さすがにですね、本当にいわゆる構造化ってやつを少しは真面目に考えようかなと。
少しですけど、少し真面目に考えようかなと。
何ら変わらないんですけど、私が一応守るお約束みたいなのはどっかに書いておこうかなぐらいのことは考えております。
合わせてディスコードをせっかく使ってるんで、もうちょっといくつか面白いチャンネルが作れそうな気がしたんで、
もうちょっとチャンネルというものを、この種のことを僕がやっても大して盛り上がった試しはないんですけど、
まあでも、ものは試しなんで、なんかちょっとチャンネルを作る。
これは別に11期と関係ないかも、もう間もなく作っちゃうかもしれないですね。
というわけで、ちょいちょいですね、お申し込みというよりは打診があったりしていますが、
ぜひですね、もし何か3ヶ月チャレンジを体験してみたいという、
体験的な何かをもう少し作ってもいいのかなというのを最近思うようにはなりましたが、
これもね、だからそれによって何が起こるかっていうのが少しも、
つまりほんのちょっと触れてみるっていうのはいいことなのかもしれませんけれども、
そうしたからといって何かがっていう感じがしないんですよね。
まあ10回は集中的にお話を本当聞き込みませんと。
最低10回はね、やっぱり聞かないとですね、分かんないんですよね。
1回聞いたところで何かを僕が言ってみたからって、それで変わるぐらいなら、
もうそれこそ私のタスクシュートのノートでも読んでおいていただければ、
変化が大事なわけではないとも思いますし、やっぱりこうですね、
難しいんですよ。難しいことではないとも思うんだけど、難しいことでもあるんですよね。
ここは本当に3ヶ月、このポッドキャストで喋っていくことによってしか、
これだけ膨大に喋っても全然足りてない感じってありますから、
最近だから私書くってことをもうやめたんですよね。
書くってことは、一文にたくさんのガインを込めなければ本当に冗長になるばっかりでですね、
私のポッドキャストたまにリッスンっていうテキスタイル、これをテキストに変えてくれる偉大なサービスがありまして、
結構ゴジは多いんですけど、でも喋ってる私としては何を言ってるかは分かるわけで、
対抗と転移の重要性
本当に無駄にいっぱい情報を詰め込もうとしてるなと思うんですけど、
あれ書くとああいう風になっちゃうんですよね。ものすごい文字数じゃないですか。
誰もあんなもん読みたくないと思うんですよ。
でもあれをじゃあ1500字にまとめるとどうなるかというと、
できますけど、まあやめといた方がいいなって感じしかしないんですよね。
そんなことをしても、死のようになってしまう。それこそ。下手な死のようになってしまう。
行間ばかりが空いて、伝わるものではないし、そこを埋めてくれるように読んでもらうぐらいなら、
これは死じゃないんで結局。全部話を聞いていただいた方が、
はるかにお互いにとって、無用な苦しみを味わわずに済むだろうというわけで、
あんまり文章で書きたいと思わないんですよね。
安価3ヶ月チャレンジについて、それこそ実務的なことを書いている。
でも実務的なことをノートに書くって何なんだろうっていうのも思うんで、結局はよくわからないんですよね。
この辺ちょっとずっと考えております。大した考えじゃないんですけどね、本当に。
まあまあちょっと考えております。
最近しきりに、対抗と転移ってことについて考えておりまして、
先日ですね、藤沢にたまたま行きまして、ここでビッグカメラの巡工堂の上の方にあるんですよ、ビッグカメラの。
リーディングビオンが置いてあったんで、割と時間気にせず立ち読み、たまたま時間あったんでですね、していて、
あーって思ってたんですよね。あの本が分厚いわけがよくわかりましたね。
松木邦郎さんってすごいんだなって思います、本当に。
いやーこれ本当だったらこうなるよなっていうのを、よくあんなに薄くまとめられるよなぁと思いますね。
リーディングビオンだってビオンが書いたわけじゃないんですけど、リーディングビオンだからね。
でも本当にこう細かく細かく繰り返し繰り返し丁寧に丁寧に書いてありまして、
分かってはこなかったんですけど、高いんですよね、この字の本って。
そして、読むかっていうとまたそこが難しくてですね、
読むんですけど、読むことは読むんですけど、
ああいう事点みたいな字点みたいなやつを読むときって、
なんかこうですね、
分かりきったことじゃないとこれを読んでもわからないみたいな、
そういう何かの確認作業みたいになってしまうんですよね。
今まだ僕はそういうフェーズにはない気がするんですよ。
いろいろ誤解もあると思うし、自分では。
しかも、ビオンを読めば、
じゃあ臨床上の誤解は全て丸く解けますってことにもならないし、
その辺やっぱりね、
仕様対効果はよくよく考えないとなとは思ってやってるんですよね、これでもね。
効率をどこやって高めるかってことはできないんですけど、
やっぱり読んで自分に今響くものでいかないと、
響きもしないものを延々ただ知識拡充とか、
何か安心材料のために読んでるとですね、
いざ人のお話を伺ってるときに、
別にそれが何かの役に立つわけじゃないよねっていうことになっちゃうんで、
それは避けなきゃなぁとは思ってるんですよ。
私20代ならまだしもね、もう50代ですからね。
友情と恋愛の複雑さ
追い先短いとは思いませんけれど、
急いでやらなきゃならないこともあろうということですね。
で、対効と定位について考えてるわけですよ。
一発に、一発にというか一丁前にっていうのかな。
で、対効という言葉は対象関係では結構避けられるようになって、
それは最もだと思う一方で、
やっぱりでも対効という概念で、
とりあえずとっておいて考えていくのがいいよなと思うときがあるわけですね。
なんでかっていうと、
メタファーとしての赤ちゃん帰りみたいに考えておかないと、
やっぱり、というか、とっさにわからないんですよね、とっさに。
やっぱり美容のように非常に洗練されてくると、
とっさにそれを考えるのは難しいわけで、
赤ちゃん帰りってとっさに考えられるじゃないですか。
言葉の厳密性に問題はあるにせよ。
例えば、先日私、タスクシュートの認定トレーナー寄せ講座ってところをやってたときにですね、
アパホテルに泊まってたんだけど、下のコンビニに行ったときに、
あるご老人が、結構社会的知恵もありそうな人が、
タバコを買うときに店員さんがタドタドしすぎると言って激行しだしたんですけど、
ああいうときに、厳密には赤ちゃん帰りっていうのは失礼かもしれないけど、
赤ちゃん帰りっていう感覚を、
なんて言うんですかね、
言葉が一番手っ取り早いというか、
不適切で厳密でなさがあるにせよ手っ取り早いっていうのはある気がするんですよ。
対抗っていうのはああいうときに、
使わないけど、
検討しておくと、
だいたい自分が何をどうすればいいのか、
例えばとりあえずさっさとセレフレージで水買って出て行った方がいいのかどうかってことまで、
判断しやすくなるという、
これがコンビニだったらどうでもいいですけど、
セッション中はですね、大事なんですよね。
あんなあからさまな形では出ませんし、
もっと微妙な形で出たときに、
自分がどういう言葉をやっぱり使った方がいい、
使うんならね、あるいは黙ってる方がいいのかみたいなのって、
とっさの判断なんで、
そのとっさの判断をするには、
この概念はやっぱりまだ今のところ僕には捨てられない概念だよなと思うわけですね。
大事なのは、大事だと思うのはですよ。
大事なのはとかっていうようなことではないんですけど、
思うのは、たまたま最近、
おぐでんを読んでいたんですね。
だからそういうことなんですけど、
人が人と仲良くなった人とうまくいかなくなるときに、
別れ話みたいな、
最近ね、別れ話って言ったときに私、
小学校低学年時代の大親友が2人いたんですね。
あの2人はなかなか対照的でして、
片方幼稚園時代からの付き合いだったかな。
同性愛的なもんだったなと今思うんですよね。
彼との関係というのを考えたときに、
この2つってつまり、
妄想分裂気味に、子供しょっちゅうなりますから、
妄想分裂気味に分かれてしまう、
分かれてはいないんですけど喧嘩になっちゃうケースと、
欲物ポジション的になっちゃうケースってあって、
この2つってまさに、
クラインが言うというか、
オグデンとかも言っているやつだなっていうのをですね、
最近思い出したんですよね。
悪い経験ではないと思うんですよ。
でも子供の頃の喧嘩ってやつね。
恋愛にカコつけて言いますけど、
あのときはやってたのは恋愛とちょっと違う気がするんですよね。
親友ぐらいのイメージだったんですけど、
同性愛的傾向というのは多分あったなと思うんですよ。
それは非常に男子の小学校低学年では、
自然とよく見られる現象だと思うんですけど、
女の子と遊ばなくなりますからね、ある意味。
あの時代特にそういう風になっている傾向が強かったんで、
エディフス的な禁止が入ってくるんで、
女の子と遊びにくくなるんですよね、非常にね。
どうしても恋愛をしてはいけないが、
友情を深めすぎてはいけるとそうなってくるしっていうので、
めんどくさいんで、
まず同性愛にはいかないだろうっていうニュアンスの中で、
同性愛的になっていくわけですよ。
だからそこでこじれるのは非常に恋愛のこじれと似てるんですよね、
よく考えてみると。
後からよく考えないと。
その当時は誰もそれを推奨しまくっている
こういう関係なんで、分かんないですよね。
幼少期の役割と心理
でもあれは明らかにそういうもんだったと思うんですよね。
結構私母親役やってたと思うんで、
小学校低学年の時は。
私父親役とか得意じゃないし、
誰かにケアしてもらうよりはケアする側にもっぱら回りやすい。
あれですよ、学年計画員とかすぐやっちゃうタイプだったんで、
すぐ母親役やったんですよね、気がつくと。
本人は全く気づいてないですけどね。
人を保健室に連れてってあげたりするわけですよ。
それは当時としては小学校1年にもかかわらず、
保健室に連れていくということができるという人間が
やってるだけのことでしかないんですけど、
道間違わないとかね、
保健室はどういうところであるかを認識できていると。
説明もできると。
外して説明できないですから、小学校1年の子っていうのはね。
男の子は女の子連れていっちゃダメなんですよ、昭和なんでね。
アホみたいだなと今思うと思うんですけど、
男の子は男の子を連れていくと。
だから女の子が男の子を連れていくっていうのは私もあったんですけど、
それもあんまり推奨されてなくて、うちの学校ではね。
だから同性愛的になってっちゃう。
やむを得ないわけですね、母親役やるから。
で、まあそれはいいんですけど、
これがこじれたとき、まず妄想分裂ポジション的にこじれる。
これはもうね、普通にいっぱいあるわけですね。
簡単に言うとそうは言わないですよ。
小学生の男の子はそうは言わないけど、
あなた変わってしまったねっていうやつなんですよ。
これはつまりどういうことかというと、
妄想が進行しちゃうわけですよね。
要するにPSポジションっていうのは時系列をすっ飛ばすんですよ。
瞬間瞬間のその時々の自分の気分の良し悪しが全てだから、
全てに使用しようとするんで、
お前と俺は永遠の仲だと思っていたのが違ったっていうね。
そこを多積していくわけですよね。
自積はしないんで、PSポジション。
で、小学校男子、低学年男子は自積とか基本しないんで、
基本多積なわけですよ。
だからてめえ変わっちまったなみたいな、
ぶっ飛ばしてやるみたいになるわけですよ。
これがでもやってるじゃないですか。
私恋愛はほとんど経験がないんでわかんないですけど、
あなたは変わってしまった。
昔あんなに優しかったの。
同じですよね。
何も変わってないですよね。
やってることは。
小学校低学年の男子と基本的には全く同じですね。
その時自分の気に食わないからといって、
それを相手が変化したことにしてしまうわけですね。
ここまでであれば、
それは全然正気なんですけど、
人間やっぱり変わってしまったって言っても、
相手はロジカルに変わってないことを説明してくるかもしれないじゃないですか。
私小学校2年の時すでに、
いやいや、
あのね、
君は、君はとは言わないけど、
お前がそういうのを1年前こうこうこう言ってたのにとか言うけど、
1年前俺はこうこうこうこうこう言ってたのにだったら、
めっちゃロジカルに僕は押していくんです。
それでなんか治っちゃったりしますからね、小学生は。
素直なんで。
だから、
私はそういう時には負けないで、
全然論理的に対抗していく。
この習性が今も多分使われてるな、セッションではっていう気も。
しなくはないんですけど。
つまり、歴史的ポジションを維持するわけですよ、僕は。
必死になって。
まあもう、
反してしまえばお互い殴り合いますけど、
しゃあないんでね。
もう、
そんなこと言ったってこうこうこうだみたいなこと言って、
なんかブチ切れるとお互い殴り合い始めちゃうんですけれども、
僕はそれは滅多にしない子だったんで、
なんとかしてそこを維持しよう維持しようと、
総力を上げるみたいな。
なんか、
この際言いくるめてでもなんとかしてやるみたいなノリはあったわけですよ。
で、
あのー、
男子同性愛の感情
奥田の本にちょうどそういうことが書いてあるんですけど、
PSポジションを、
ずっとこう維持している、
PS的な対抗っていうのが、
ここで対抗が出てくる。
対抗するじゃないですか、
小学生男子って、
まあ、
8歳とか9歳とか、
その辺じゃないですか。
つまり、
30代の、
こういう時点で30代初めの独身男性で、
結構、
あの、
なんかコンピュータ分野で責任のある仕事に就くことができていたとか書いてあって、
こういうふうに人が9歳とか、
なってしまっていたら、
やっぱり対抗っていうニュアンス、
厳密にはそうじゃなくても出てくると思うんですよね。
で、この人の発言で、
ものすごい、
それこそ男子同性愛的な、
やっぱりなっていくわけですよ。
あの奥田との関係が。
インテリシブにあって、
しかもアンビバレントじゃないですか。
PSポジションにいるんだから、
先生のことは憎らしいが、
先生しか頼りにならんみたいなことを言ってると、
だんだん接近していって、
あの、
変異性の同性愛みたいになっていくわけですよね。
で、
ここでですね、
この、
2人が同性愛であるとは言えない、
あの、
男性がもう1人の男性を好きになるからといって、
2人が同性愛であるとは言えないというようなことを一生懸命言い出すわけですよ。
これ相当意識してるってことですよね。
で、
この次のセリフが、
秀逸で、
私こういうセリフがなるほどなと、
なかなかやっぱオグレンのような話じゃないと出てこないなと思ったのが、
今浮かんだんですが、
きっとここでも何か似たようなことが起きているんでしょう。
もう明らかに先生との間に自分は男子同性愛的になってきてるのは、
気づいてるんですよね。
でも僕がこう言ったのを先生がちょっとでも僕に思い出させようとしたら、
僕は否定しますよ、
わかるでしょって言うんですよ。
これはすごいなと。
つまり、
俺はPSポジションからヨクウスポジションに行こうはしないぞっていう宣言をさせて、
宣言を先にするんですよ。
でもよーく考えてみると、
この宣言自体すごい変ですけど、
あの正気じゃない感じっていうのをしちゃいますけど、
よーく考えてみるとですね、
あのー、
私たちは永遠に愛し合ってるわよねって言って保証をかけようとするのって、
これと全く同じですよね。
だから、
無理なことを強調してますよね。
つまり私たちは永遠の愛を誓った関係だっていうので、
PSポジションの手放さないにもかかわらず、
この関係を壊してはいけないよって言ってるわけじゃないですか。
気に食わないことも言うし、
殴り合ったりもするかもしれないけれども、
愛し合っているんだぞっていうのっていうのはですね、
ヨクウスポジションに入るっていうことへの覚悟のある種不徹底さを感じさせなくもないじゃないですか。
そういうことを言って、
別に教会で結婚式をあげるわけではないんだけれども、
昔教会の結婚式っていうのは、
僕が2回しか行ったことのない結婚式同士の1回かそれだったんですけど、
あの、あれなんですよね。
そこでガリラ屋のカナだったかな。
あの武道手が、
いい武道手を最後に取っておいたっていうような話ですよね。
あれを牧師さんがしてたんですけど、
あの牧師さんが言ってたのと基本的には全く同じことなんですよね。
一番条件が悪くなった時に、
えーと、
つまり、まあ破局と修羅はみたいな時にも、
関係を維持できるかどうかがポイントだっていう。
だから仲がいい時のことはどうでもいいっていうノリがあるわけですよ。
そこにもね。
仲がまずくなった時が問題だと。
この男子同性愛のスキゾイドの患者さんの言ったことは逆なんですけれども、
あの、
僕は一貫させる気はないからねというか、
嫌だと思うことを認めたりはしないからねっていう、
でも今この瞬間では何か認めてもいいような気が
少ししてきているようなことを匂わせておくけれども、
これは後から否定されるんだからねっていうことを先に言ってあるわけですよね。
なんて言うんだろうな、これは。
今私たちは恋愛モードになってるけど、
基本的に外で話しかけられても私はあなたを無視するからねみたいなノリですよね、これはね。
PSポジションを一貫させるぞという不思議な、
PSポジションって一貫しないからPSポジションなんだろうって感じがするんだけど、
PSポジションを一貫させるぞという不思議な宣言ですよね。
当然このような治療事情がスムーズに進むはずはなく、
その後シュラワを迎えるわけですけど、
とにかくですね、この妄想を使ってでも過去を否定してやるという、
情緒の安定性の難しさ
だって覚えてしまっているから不都合じゃないですか。
つまり私が小学校低学年だった時のあれですよ。
佐々木はさ、小学校1年の子はこう言って嫌がったけど、
今は言うこと違うじゃないかみたいな、
小学生なんでほぼ言いがかりなんですけど、
この種のことを言いやがるわけですよね。
で、これは相手の間違いなんですよ、僕の場合。
なんだけど、もう相手の中でそうなっちゃってる。
妄想なんですよね、これは結局のところ。
だから妄想分裂ポジションなんですよ。
で、いざとなったら、
なんでしたっけあれ。
名前忘れた。
とにかく相手が他人である少女。
あれにしてしまうわけですよね。
お前は佐々木じゃないだろうみたいなね。
これはもう相当なレベルですよね。
でも何がやりたいかっていうと、
一貫していれば私たちの関係は保持しなければならないが、
もうこの関係を保持するのは私としては気持ちの上では限界を迎えているっていう意味なんですよね。
で、その限界を割と迎えてしまいがちな、
妄想分裂的なっていう人っていうのは、
つまり自分の情緒の安定性というのは非常に難しいところがあるので、
嫌なことがいっぱい起きますからね。
信頼の欠如
で、嫌なことが起きたときは基本多席なんで、
実は自分が鼻がグズグズしているとかそういうことなのかもしれないけど、
それは多席できませんから、
それは鼻のせいにできるんですけれども、
小学校男子は、小学生男子は基本多席ですから、
もっと外に外にと起きますから、やっぱり排泄して投げますから、
全部続きが悪いってことになって、じゃなきゃ殴れないじゃないですか。
で、そういうわけでですね、僕は殴られるわけですけれども、
殴られたわけですけれども、
でもですね、それは他人になってしまってるっていう、
他人にしてしまってるってことなんですよね。
そこまでいかないと殴れないっていう、
そこまでは小学生男子といえども滅多にいかないんですけど、
だから大人のほうが大変なんですけどね。
覚えてる。
覚えてるっていうことは、
それだけの価値があるわけですよ。
だけど、この逆のパターンが起こるんですよね。
覚えているから壊してしまうというケース。
こっちは妄想分裂じゃないんですよ。
だから装的、装的防衛とかではないんですよね。
要するに抑鬱的に壊していくと。
これも恋愛で時々耳にしますよね。
あなたは悪くない。
全部私が悪い系ですよ。
これも私でも小学校男子と、
そういう考え方の男の子っていたんですよね。
あれは度肝を抜かれてびっくりしました。
最近思い出したんですけど、
やっぱりおとなしい感じの子でしたね。
で、全部俺が悪いと言って去っていこうとするみたいな感じ。
僕はそこもやっぱりロジカルで一生懸命頑張るんですけど、
今度はロジカルに頑張ることが裏目裏目に出ていくんですよ。
なんでかっていうと、
その子の中では私は変わってないことに一貫してなってしまってるんで、
私が佐々木が変わってないのにこの関係がこじれるということは、
根本的に自分が悪いからなんだ。
当時は私は貧乏法制でいい子ちゃんぶってましたから、
いい子ちゃんの佐々木君と付き合っていくには、
俺はなんかこう、ろくでもなかったんだ的な、
小学校3、4年かな、変わったことを言うなっていうのを今思い出してたんですよね。
いたんですよ。
ウリュウ君出たらな。
妄想分裂気味になってる子は確か栗原君といったと思ったんですけど、
どっちも君ですよ。
女子との付き合いは一切なかったんでね。
僕は小学校の時からその流れに入ってるわけです。
幼稚園の頃は多分男女あんまり意識したことはなかったんですけど、
小学校、低学年の時から一貫して女性との縁が非常に希薄っていう世界を生きてきたわけですよ。
なぜか生きてこさせられたというか。
だけどウリュウ君との関係は確かにですね、
当時は絶対的に拒否していたから全く認識できてなかったんですけど、
あれは男子同棲愛的なものでしたね。
栗原君とよりは、あれは非常にごく一般的な人間関係でしかなかったんですけど、
ウリュウ君はそうではなかったですよね。
どういうつもりだったのかわかんないですけど、
彼はだから記憶力抜群で頭も大変良かったわけですよ。
覚えてるから。
つまり一貫してるわけですよ。
抑鬱ポジションで一貫してるわけですよ。
だから歴史的書き換えは起こらないわけです。
お前は昔はこう言ったはずだとかいう妄想は、そこでは全く見えてこない。
確かに私は一貫して変わってないことにして、その子の中でも。
だから自分がよろしくないからこの関係が崩れていくっていう主張なんですよ。
これが妄想分裂的な陰性治療反応と抑鬱的な陰性治療反応の違いみたいに、
自己反省と成長
オグレンが書いてるのもそれに限りなく近い話が結構、
だいぶ読み込んだつもりでいたんですけど、ほぼ完璧に忘れてましたね。
エイチさんの先の方の事例。
先生はこの同性愛的なことを将来に覚わせたら私はそれを否定しますよって、
この一貫しない大宣言みたいな不思議な宣言ですよね、これは。
だから万能空想を保持することに全力を尽くしているみたいな、
それもなんか不思議な感じ。万能空想って元々自分に都合の良いもんだから、
保持するのに、保持したくなるのは分かるんですけど、
その宣言を周りにしておくっていうのは、
なんかこう非常に不思議な、つまり非常に切実なものをやっぱり感じさせられはしますよね。
私は一貫しませんからね、みたいな。
すでにそれが自己矛盾っていうか、一貫しないことを予言しておくってどういうことなんだろうという感じがしましたけれども、
読んだ時には、多分最初読んだ時はよく分かんなかったんですよ。
これを過去について言う人はいるんですよ、たくさん。
あれはあれをみんな言う、あなたは変わってしまったねっていう。
昔はあんなに優しかったのにっていう、あれですよ。あれは分かる。
だけど、私は変わるからねって。
これはですね、そしてそれはあなたのせいにするんだからねみたいなそういうのに、
これはちょっとやっぱすごい、それを言われると何とも言えない気持ちになるでしょうね。
もし恋愛関係とかだったら、私は変わるからね、そしてそれはあなたのせいにするんだからねみたいな。
どういうことやねんって感じがしますが、
一つの宣言です。未来に向かっているから不思議なんですよね、これはね。
構造分裂の人が起こるのは現在のことで起こっているわけですけど、
あくまでも過去を持ち出していきますよね。
なんだこういったでしょってやつですよね。
で、だいたいそれは言ってても言ってなくても、それはどうでもいいことであって、
今この関係を破壊することができれば、だから戦亡的成果になるんですよ。
お互いに何のメリットも実はないんだけれども、
自分の気が済むということが最大のメリットになっていて、
で、破壊をしていくという感じですね。
過去の影響
で、これは臨床の話をしているので、そこで破壊されてはまずいので、
オグデンはどうやって一生懸命とどまったのかという話を書かれているんですけど、
彼はですね、なんていうか、厳に一生懸命にならないんですよね。
こういう調査が起きてしまったとか、時間は延長したとか、さらっと書くんですよ。
結構日本の臨床のやつだと、ここで時間を延長していいのかどうか、
私は葛藤したみたいな、時間はすでに過ぎていたみたいなことを書くじゃないですか。
そういうふうには書かないんですよね、オグデンは。
これでいいんじゃねえのかって感じが、基本は守ろうとするべきだろうけど、
こういう時に同じルールを適用せんでも、
それに意味があるって話はあるんでしょうけど、
私は別にこれでいいんじゃないかって感じで、
割と時間を延長して、このままこの話をずっと聞いていたっていう感じの話になっているわけですよね。
当然彼も書いてるんですけど、
治療者にとっては理不尽な話なので、
ここで持ちこたえるっていうのは感情的には大変なんだよって、
これも割と普通に書くわけですよ。
それは普通に書けばいいよねっていう感じがするわけですよ。
これもついでに思い出したんですけど、
夫婦関係ではこれ起きますよね、はっきり言って。
あなたこう言ったでしょって、何度言われたかわかったもんじゃないぐらいのセリフですが、
言ったこともあれば言ってないこともあるわけですよ。
こういう時に私はですね、男性はロジカルに云々って話があるんですけど、
男性かどうかは関係ないし、ここで言ってることはロジカルとかではないんだが、
しかし私はやっぱり転移解釈ではないんですが、
純転移解釈しますよ。
だってですね、それしかないじゃんって感じがするんですよね。
話通じなくなっちゃってるって言うなら別ですから、
これもオグデンちゃんと書いておいてくれてるんですけど、話は通じるって書くんですよ。
だからこの対抗っていう概念がどういう風な意味を持ってくるかについて、
よく考えなきゃいけないわけですよ。
転移解釈って何かっていうと、象徴を使うわけですよ。
今ここで起こってることを言葉に置き直すと。
問題なのはそれを理解できるのかどうかって話ですよね。
私は共感を示すとか、寄り添うとかいう話も最初考えたし、
夫婦関係だったらですね、そういうのも頑張ろうかなと思ったんだけど、
と考えてみた場合にですね、私はそうはしてこなかったんですよ。
何が言いたいかというと、娘相手ですよね。
娘が2歳とかの時もですね、感触を起こした時、私は転移解釈に近いことをやってたんです。
3歳の頃はもう完全にそうだったんですよ。感触を起こすから。
でもよく聞いてると、うちの奥さんだってそうなんですよ。
うちの奥さんの方がある意味、情緒に寄り添ってる感は出しますけど、そこは上手いなと思うんだけど、
やってることはね、あまり変わらないんですよね。
頭こなしに言うとかじゃダメだと思うんですけど、
でも基本あれは転移解釈だよね、やっぱりって思うんですよね。
だから、3歳児に通じるのに少々取り乱してるからといって、
成人にこれやっていけない理由はないだろうと思うんですよ。
0歳10日まで対抗しちゃったら無理でしょうけど、
でも思い出してみたんですよね。
うちの子に、お月さまが雲に隠れる絵本。
あれが最初にうちの子に読ませた文字付き絵本だったと思うんですけど、
あれ繰り返し読んでてぐちゃぐちゃになってるくらい好きだったわけですけど、
あれ読んでたの0歳なんですよ。
で、あの時、子供のやり取りってできませんけど、
あの時ですね、やっぱり明らかにうちの子は、
1歳に近い頃、0歳10ヶ月くらいの時にはすでに、
ここに書かれている雲と月というのは、
空にある雲と月のことを指しているが、
雲と月そのものではないということは分かってたと思うんですよ。
分かってる感じだった。これが象徴ですよね。
私、指し示すものを指し示されるものの三角関係が描ける。
描けるなって感じだったんですよね。
そのことはすごい私ものすごい考えてたんで、当時は。
いったいいつになったら人間それできるんだろう。
めちゃくちゃ早いなと思ったのは確かなんですよ。
僕がまだ覚えている1歳児の時にうちの子がすごい腹を立てたからなんですけど、
あの1歳、あれは1歳の前半だったと思うんですけど、
一つのまとまったセンテンスとして喋った最初の言葉が、
内界と外界の認識
かなり親じゃないと分かんないようなモニョモニョって感じだったんですけど、
はっきりこう言ったんですよね。
うちの実家近かったんで当時は、
実家にいておじいちゃんおばあちゃんと遊んでもらおうって言ったら、
やだって言ったんですよ。やだはもう普通だったんですよ。
で、どうしてって言ったら、どうしてって言ってもどうしてかは言わないだろうなと思ったんですけど、
いきなり、だって実家に行ったっておじいちゃんもおばあちゃんも、
ちゃんと遊んでくれないじゃないかと。
こういう1センテンスがスパッと出たんですよね。
いや、びっくりしましたし、これはもう完全に象徴水準ですよね。
完全に象徴水準だったなって思ったんですよ。
で、もう二度と忘れないって感じだった。
生まれて初めて僕は、
それまで完全にセンテンスを結べない人が、
センテンスを結ぶ瞬間ってもっと前にあったのかもしれないけど、
うちの妻とかに言わせればそうだったかもしれないけど、
僕が娘から最初に聞いたのはこれだったんですよ。
だから、一切前半だったから間違いなく、
一切前半までは対抗しないですよね。
親子関係のコミュニケーション
3回チャレンジの参加者さんはほぼまず対抗という言い方ならば、
グリッドの営業まで行ったとしても、
そこ、こういう水準までは落ちていない。
1センテンス結ぶこともできなくなって、
しかもその意味することが、
だからつまり、
太陽という言葉と太陽、外に。
内界と外界の区別ですよね。
それが全くつかなくなってしまう。
怪しくなるということは起こるんですよ。
内界と外界が。東英ドイツ化が起きるから。
でも、東英ドイツ化が起きるということと、
内界と外界の区別が全くつかなくなること。
違うんだなって思うんですよ。
うちの子にしたって、
まだまだそれこそ東英ドイツ化の世界の真ん中に生きている感じ。
プライン流に言うと。
幼児はとにかく空想、
まるごと空想世界に生きているわけですが、
確かにそうだけど、象徴水準にはないけど、
でも象徴が全く理解できていないわけじゃなくて、
やっぱり絵に描かれている月が、
意味するものが月であり、
しかしそれは月そのものではないということ。
外界と内界というものがあるということをどこかで分かっている。
あるいは記号世界と外界というものは別物であるということが分かっている。
どっちも外にあるものじゃないですか。
同じものを指し示しているのに別々であるって理解するのは、
実は非常に困難じゃないですか。
だから動物はこれができないんだと思うんですけど。
だって知覚の中にどっちもあるものなのに、
その知覚を区別しなきゃいけないわけですよね。
これは本当に私の外にある。
これは本当には私の外にはないっていうことを、
どこかで区別しないと言葉というものは決して操ることはできないと思うんですよ。
ましてそれが情緒に絡んでくるとなってくると。
だから私はその転移と対抗というのはですね、
セットだと思うんですけれども、
転移と対抗というものは、
一切でも理解できる水準が十分あるんだから、
ロジカルにそれこそ行くべきだと。
修羅場になったら特にそうだって思うんですよ。
やっぱり純転移解釈で僕はやってるわけですよ。
それがいいとは思いませんけれども、
でもこれしかないじゃんって感じがするんですよね。
だからやっぱりこうある意味負けないっていうのかな。
いやあなたがそう言ってるのはこういう風なつもりなんだろうけど、
つまりあなたから見るとそれはこういう意味になるんだろうけど、
自分はこういうつもりで言ったのであって、
そこには要するにあなたの内界と私という外界は別物なんだから、
別のロジックが働いてしまうんっていうことは、
誤解という意味では申し訳ないけど仕方がないでしょうっていうのを、
こんなに理論不整然とは言えないですけど、
これを喧嘩越しに伝えてしまうという。
喧嘩越しじゃなければないほどいいんだけど、
でも喧嘩越しに伝えてしまうという。
これが一番僕はですね、
相手にとっては納得感が高いだろうというふうに思って、
娘に対しては全部これ以外はやらないんですよね。
少々空気がまずくなった時は常にこれで行くっていう感じで、
娘がそれで取り乱すことはなくて、
基本的には私と見学になった時の冗長的なPS水準は、
僕と同等だなって感じがするんですよね。
あの子は私とやる時はそういう調子になる。
基本Dポジションは維持できるぐらいにはなってるので、
さすがにそれはみんなそうですけど、
高校生でもなれば普通にそれはできると思うんですけど、
PSポジションに入ったとしても、
なんとかこのロジックを聞いてられなくなるなどということは、
さすがに本当に怒ると部屋に帰っちゃいますけど、
僕がぐじゃぐじゃ喋ってても部屋に帰っちゃいますけど、
でもその後やっぱり同じようにやれば、
だいたい聞いてもらえるということにはなってるわけです。
あそこでですね、
気持ちに寄り添うとか共感するとかをやりますよ、
雰囲気の上ではね。
でもそれは雰囲気の話であって、
頭ごなしにここだからこうだみたいに言わないというだけの話であって、
そんなのは当たり前だと思うんですよ。
特にセッションともなれば。
少しヒートアップしちゃうみたいなことは起こりますけど、
まあしょうがないですよね。
ない方がいいかもしれないけど、やむを得ないとは思うんですよね。
でも、
転移解釈、
今ここの転移解釈をやるにはやっぱりそれ以外はちょっと無理ですからね。
ここで話を反らすということになってくると、
場は和むかもしれませんけど、
どうせまた再燃するし、
チャンスをミスミス失うみたいな感じもしますんで、
ここは踏みとどまって頑張るしかないという、
そういう対抗ぐらいは対抗じゃないと思うんだよね。
でも、やっぱりそういう純転移解釈と対抗のセットみたいなことぐらいは、
それこそ非正規だろうと素人だろうと、
現実には夫婦関係でやってますからね。
やっていけないことはではないだろう。
これはフロイトの先輩特許なんでやってことはないだろうって感じがするんで、
彼は偉大だなと思うし、
このことを発明してくれて素晴らしいですとは思いますけど、
それはそれとして、
使ってダメだろうってことにはならないと思うんですよね。
場の雰囲気としては相当硬直してしまいますけれども、
これしかやりたくはないですよね、ある意味ではね。
ここで何かこう、
ただ寄り添うという感じで、
それで上手くいく人はいると思いますよ、夫婦関係は特に。
娘との関係も、子供との関係も。
僕は彼女が幼児だった時から、
寄り添う作戦でいったことはないなって思うんですよね。
で、だから愛情が伝わらないなどということはありえないし、
大体これ愛情がなければやらないと思うんですよ、絶対に。
自分の欲打つポジションに一貫して歴史的に維持しているぞっていうのは、
すでに愛情だと思う。
ここがやっぱりですね、伝わりにくくなるとは思うんですよね。
取り乱しているとなってくると。
ありますよね、この奥田の本にもありました。
何だっけな。ちょっとすいません。
わかるんですよ、この言い分は。当然だろうと思うし。
あの、なんていうのかな。
そもそもこの人スキゾイドがひどくて、
30代のコンピューターの責任ある仕事をしてるんだけど、
人間接触の代わりにロックミュージックとテレビとジートを用いていたっていう子。
奥田もまたさらっと書くんだけど、人間が絶対開剤しないで済むっていう、
しかも結構刺激的っていうものに、自分の身をどっぷり浸しちゃうわけですよね。
で、えっと、そう、治療、そうですよ。
だから治療者はって書いてますけど、多分奥田だと思うんですけど、
何時間もかけて患者と話をしようとしたと。
これをね、さらっと言ってるところが偉いなと思うんですよね。
事態が事態になってきたら、シュラバ的な事態ですよね。
この時、患者は急性精神病とみなされて病院に担ぎ込まれちゃうんですけども、
そこの入院してるところに行くわけですよ。
で、そして何回か治療者は最後のセッションで起きたことについて触れたと。
誤解と精神分析
これがつまり事態をPS的な変異的対抗に落としてしまった。
ここでだから失敗なんですけど、ミニコット流に言うカギカッコつきの失敗なんですけど、
ここがやっぱりポイントですよね。
集血について患者の発言を話し合った時、
治療者が患者を追い払おうとしたようにHが感じたに違いないと思うと治療者は言ったと。
で、Hが子供の時突然に完全に母親から切り離されたと感じた体験と、
それが危険なほど似ている感じがしただろうと思うとも言ったと。
これ転移解釈ですよね、完全に。
もうまさにクライマックスに近い転移解釈ですよね。
切り捨てられるという体験をしたHさんにしてみると、だからスキゾイドになっちゃったわけですから。
せっかく安心できる環境になったこの集血についての話が出てしまったから、
集血しようと思っていたわけじゃないんですけど別にオブデンは、
出てしまったから、これは自分がこの精神分析ルームから追放されるんだと思って、
救世の対抗が起きたって話になってるわけですよね。
で、患者は治療者のペテンに操られるものかと言い張り続けたが、
一方で部屋から出ようとはしなかった。
こういうことですよね。
一貫性というものを意識しつつも、これはペテンであるっていうふうにも言うわけですよね。
つまり、治療者は一貫してはいないと言いたいわけですよね。
一貫しているんだけども、一貫しているようにはもう感じられないから、
ペテンに操られてはいけないというふうに考える。
で、治療者は彼と患者が一緒に危機を乗り切ってきた以前の治療の中の出来事に触れた。
でも患者はそれもまた治療者の策略だと思うと言った。
これ、永遠に終わらないですよね。
要するに、あれですよ。
恋愛の修羅場と全く同じで、
私は知らないんですけど、そういうのを。
つまり、あなたは私を騙してるっていう。
人を信用してはいけない理由
私はそういうことはしていなくて、こうこうこういういい思い出もあったじゃんって言うと、
そういうことを言って騙そうとしている。
これを繰り返されているわけですよね。
そういう時でも、どんな人だって妄想分裂ポジションですから、
何言っても無駄なんですが、一見したところ、話が続いているということは、
そして、1時間で切んなきゃいけないという精神分裂が何時間も続いていても、
話が続いているということは、まだ断ち切るというわけではないということを案に言ってますよね。
あなたは私を騙そうとしているって言い続けるということは、
騙そうとしていることについての確信は持ってないということを案に言ってます。
そこは非常に本人の中でも難しい。
だからアンビバレントなんですよ。
そもそもこの人の話はアンビバレントからスタートしているので、
この人がスキゾイドになったというのは、
お母さんがものすごく一生懸命、異常なほど一生懸命世話していたのに、
ある日突然に一切の線をお父さんと家政婦さんに出してしまう。
ヘンゼルとグレーテル問題ですよ。
お菓子の家を作ってくれるほどのお母さんが、
お菓子の家で魔女に自分を引き渡すというこの人というものは、
180度逆転する。
もうこれほど優しかった人が一気に魔女化するっていう、
これがその人を信用してはならない。
だからものすごい大音量ロックミュージックとテレビとマスターベーションで、
お母さん代わりにしていると。
そいつらは裏切らないからね。機械ですからね。
ここに僕は今やAIが入ってくると思うんだけどね。
ご視聴ありがとうございました。
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