1. 佐々木正悟のライフハックからの精神分析
  2. PSポジションでは「ホンネ」が..
2025-06-30 47:10

PSポジションでは「ホンネ」が出るの?【1213】

暑いのでマイクを変えてみました!
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サマリー

PSポジションによるホンネの引き出しについて、3ヶ月チャレンジと100日チャレンジの違いが論じられています。特に、精神力動に基づくメンタル面のサポートが重要視され、参加者との関わり方が解説されています。ポッドキャストでは、PSポジションとDポジションという心理状態について深く掘り下げています。メラニー・クラインの理論に基づき、PSポジションが感情の高まりを引き起こす一方で、本音とは異なる可能性があることが強調されています。本エピソードでは、別れと喪失についての深い洞察が語られ、特に松木邦博の心理分析アプローチを通じて、創出と欲打つの関係が探求されています。また、人生における失落やそれに伴う心の葛藤も考察され、日々の忙しさが感情の処理に与える影響についても触れられています。このエピソードでは、自己愛の傷つきやトラウマに関する心の問題に焦点が当てられ、行動を通じてそれらに対処することの難しさが語られています。また、母親との関係やその影響が、個人の心の成長に与える役割についても考察されています。PSポジションでは、悲しむ能力や精神力動の重要性について議論し、行動の選択が人生に与える影響が探求されています。

3ヶ月チャレンジの概要
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ第1213回をお送りします。
6月30日月曜日8時13分です。 もしかしなくても、たぶん
ラジオの音がいつもとは違う、私の声がいつもとは違うというふうに感じられるかもしれないですね。
マイクを買いました。 要するに耳を塞がないタイプの。結構いい感じなんじゃないかと何度かテストして、僕にしては珍しく何度かテストしたんです。
なんとかプライムみたいな料金だったかもしれないですけど、2000円台というですね。
格安にしてはすごい良かったんで、私マイクとか詳しくないんでね、たぶんいつもとそこまで遜色ないんじゃないかと思って、こっちにしてみました。
何しろこの耳を塞ぐというのに耐えられなくなってきつつありまして、ここで撮るにしてもですね。
というわけで、とにかくこう変えてみましたんで、今日はちょっとこれでご容赦いただくと言いますか、これでうまくいくようであればね、
明日以降もこれでいきたいというふうに思っています。
じゃあですね、早速今日はもう6月30日で、入ってない方には直接関係のないお話ですが、3ヶ月チャレンジの第10期、2ヶ月目が終了して、
いよいよ3ヶ月目に入るということで、この季節というかこの時期はですね、来期の募集をかけ始める時期なんです。
すでになんとなくかけ始めちゃっておりますけれども、公式にはこの辺りからスタートということに毎回しております。
毎期しておりますので、今日はその準備段階的な、まあでも基本的にいつもと喋ることは何ら変わらないんですが、それでも一応ですね、その辺を意識しつつ、7月は入っていきたいと思っております。
ともあれというか、まずですね、すごく簡単なところで、3ヶ月チャレンジというのはですね、そもそも100日チャレンジとは違います、というところからお問い合わせいただきましたので、
その辺はノートに書こうとも思ってますけど、とにかく違います。3ヶ月チャレンジは佐々木翔吾単独主催です。
100日チャレンジはJ松崎さん主催、佐々木翔吾共催です。2人でやってます。
あとですね、3ヶ月チャレンジは最大でも15名ぐらい。100日チャレンジは最大で150人から、行く時はもう500人を突破するという感じですから、とてもじゃないですけど、ワンオンとかはできません。
なので、100日チャレンジではワンオンセッションみたいなものは基本的にはありません。一方で3ヶ月チャレンジは、すごい名前がややこしいのはよくわかってきました。
名前そっくりじゃないですかね。90日チャレンジと100日チャレンジの違いぐらいしかないじゃんって感じなんですが、全然違うんですよ、実は。3ヶ月チャレンジはまずあまりチャレンジ性がないです。
チャレンジなんですよ、結構実際にやってることはですね。でも例えばゴール設定もなければ、これといった目標もなく、最初の参加動機は伺いますけれども、それは参加動機を伺うのであって、参加動機が達成できますというものではありません。
ということはですね、割とこの回を通じてしつこく言っておりますし、実際にお試し3回コース、ここから入っていただくのが一番妥当だと思うんですよね。
3ヶ月チャレンジやる限りは、お試しコースやっていただいた分は一切損にならないので、むしろオプションでプラスになるぐらいなので、お試しコースから入っていただくのが一番いいかなと思いますが、ここでも必ず申し上げます。
最初の参加動機を達成できるわけではないかもしれないし、わかんないですけど、それを最終的なゴールに必ずしも置くわけではないということも、大体最初に申し上げております。
120Gチャレンジはそうじゃなくて、先送りゼロにするという、一応明快な目標を持っています。
そこにおける定義は、1分でも着手したものは先送りにしないとか、それを最低3つからでいいという、つまり3分何かができればもはや先送りではないという定義が入るので、簡単に達成できそうなものなんですけど、
意外とそう簡単ではないという話がありますが、いずれにしても目標というものが何らかの形であるのが120Gチャレンジであり、
3ヶ月チャレンジでは明示的な目標は何もないという、そういう独特のものになっています。
120Gチャレンジでも目標設定、ゴールからの逆算とかは一切しないことにしていますけど、3ヶ月チャレンジではましてやしないです。
なぜかというと目標もゴールもないから逆算のしようがないんですね。逆算するという発想そのものの3ヶ月チャレンジでは生まれようがないという意味でちょっと違います。
あとですね、3ヶ月チャレンジは何といっても私との接触頻度を多く持っていただくのにかなりの眼目を置いています。
目標設定の違い
最低でも週に1回のセッションを持ち、これね継続の方に特にご要望があれば少し頻度を下げるというのも検討いたしますけど、
でも原則としては提示メニューはですね、週に1回の接触1on1セッションを持ち、かつ週に2回のグループセッションで私と接触する機会を設けております。
これはちょっと伝わりにくいと思うんですけども、仮にグループセッションのようなものに参加するのは苦手ですし嫌ですという場合には、
私そのグループセッションに出ないということが一つの接触だというふうに私は見ますので、
1プラス2は絶対的にこの3ヶ月チャレンジにご参加いただいている間はですね、私と喋ってなくても接触をしたということになると私は、
これはちょっと入ってから説明させてもらいたいぐらいややこしい話ではありますけど、
このボトキャストの中では時々取り上げる話ですから、不在という考え方ですけども、
この辺を考えていくために精神力動というものをベースにしています。
3ヶ月チャレンジはですね、精神力動ベースで動かしています。考え方としては。
なぜそれに効果があるのかとかいった説明は基本的には全て精神力動というものに返していくというかリファーしていくというか参照していくというか、
そこに私なりの根拠を見出していくということですね。100日チャレンジはそうじゃないです。
100日チャレンジに精神力動とか精神分析とか一切関係ありません。
だから100日チャレンジはJ.松崎さんが考案されたある種のライフハック的な仕事術としては相当ユニークなものだと思いますけど、
ベーシックにはタスクシュートの考え方が色濃く反映されてはいますけど、あれはJ.松崎さんのオリジナルです。
私と彼とが二人で頭を寄せ合って考えたというよりは彼のベーシックな考え方、彼のオリジナルに基づくものですね。
私はそれはなるほどと思ったんでそのまま採用させてもらってますが、これを3ヶ月チャレンジでやるといったことも一切ないです。
なおですね、3ヶ月チャレンジではここは誤解されがちなところだと思うんですけど、タスクシュートの使い方とかは使い方、タスクシュートをやってのタイムマネジメントなどなどは一切やっておりません。
こちらですね、認定トレーナーさんという方が、タスクシュート協会の認定トレーナーさんという方が、世の中に50人も、50人はわからないけど少なくともそのぐらいの数になりつつありますし、
積極的に今は活動されていますし、マスター講座というものとベーシック講座というものと、その他にハンズオンとかいろいろありますんで、ぜひそちらをですね、絶対そっちの方がいいと思います。
私なんかに聞くよりもですね、そちらにお問い合わせいただきたいと。まずそっちの方が安いんですから、3ヶ月チャレンジはなんだかんだ7万5千円ですからね、3ヶ月とはいえ。
ですからタスクシュートをやるのにそんなお金と暇をかける必要はなくて、ベーシック講座とかマスター講座とかは1日とか2日とかで、しかもお値段も7万5千円も全然しない、半分以下だったと思います。
ベーシック講座に至ったら特に1万円ぐらいならなかったかな、ちょっと正確な数字を僕今把握できてないんですけど、そういうわけでですね、そちらにぜひタスクシュートがいいっていうのに、3ヶ月チャレンジにわざわざ入っていただく必要は全くありませんから、タスクシュートほとんど、というかタスクシュートって言葉が出てくるよねぐらいな勢いなんで。
私こちらでタスクシュートについて語りたいという気持ちもモチベーションも持っておりませんので、問い合わせられれば答えますよ、さすがに。いやー3チャレだからタスクシュートについてはその日から一切言及しませんとかそんなことは言いません。
私不自然なこと嫌いなんで、でも基本的にこっちから積極的にタスクシュートについて言及することは基本ありませんから、昔話の中で出てくるとかは別としてありませんから、ぜひその辺も考慮に入れて、最後の頃はそうでもなかったんですけど、なんかタスクシュートもやるかもみたいなノリだったんですけど、いざ蓋を開けてみたら全然そうはならないということが分かり、
7期あたりからですねタスクシュートがここに出てくるのは基本的に難しい話だろうということになりつつありますので、そういう話はしないということです。
なので100日チャレンジ、J松崎さんと共催している100日チャレンジは遥かに仕事術、週間化とかそういったライフハック的な方に寄っておるというか、そっちがメインです。
3ヶ月チャレンジは1歩間違うと心理臨床っぽく見えてしまうということはあります。そうではないつもりなんですけど、ここで治療はしませんし、心理臨床的な行為もしておりませんが、それっぽくなるというセッションなり時間帯なりは、これはもう発生し得るものです。
やっぱり1対1で濃密にお悩みについての相談を受けていけば、心理カウンセリングっぽくなっていくシーンは否めません。しかも精神力度の考えを大いに活用するという私の方針からして、そうなるのは自然の成り行きですが、あくまでもこれは心理臨床ではなくて、これは3ヶ月チャレンジは3ヶ月チャレンジです。
精神力動の重要性
あえて言うならば、メンタル面にサポートの中心を、メンタル面にフォーカスしている個人コンサルです。ビジネス系の個人コンサルね。ということが3ヶ月チャレンジなんで、とにかく個人的なやりとりになるから、すごく少数になるということです。
最大に見積もっても20人に達することはおそらくないと思いますね。
100日チャレンジとはその辺が全然違います。そんな感じでした。
はい、これはお問い合わせいただいたのでお答えいたしました。
それでですね、3ヶ月チャレンジと言いますか、なんで今も申し上げた精神力動をそんなにお前は大好きなんだと。
心理臨床と被りたくないくせに、被りたくないんですよ。心理臨床とも心理カウンセリングとも名乗りたくもなければ被りたくもないくせに、なんで精神力動から動こうとしないのかと。
というか、そもそも心理臨床とかカウンセリングの主流はCBT、認知行動療法の第三世代と言われている方かなと思うんですけれども、
私はそっちは一切援養していないつもりなわけですね。基本的に。いや、嫌いしてるとか拒否してるとか良いじゃないですけど、
基本的にそっちに思考が回っていってないというのは確実にあります。
だから私は別に心理臨床の本を読みながらここで頑張っているわけじゃないんですよ。
読んでいる本はもっぱら、フロイトとかメラニー・クラインとか、最近はオグデンとかですね。
松木邦博さんがもう私にとってはバイブルというのはちょっと好きじゃない言葉なんで、基本教科書に近い位置づけで松木さんの本を読ませてもらっていますし、
最近だからオグデン、結構しぶとく読んでいる感じがしますが、そっちではものすごく参照はしてますけれども、
そこで行われているのは確かに心理臨床的なことではありますが、あれらは精神分析だと思いますし、
精神分析とオンラインの関係
私は精神分析は一切やっているつもりはないです。やっぱり精神分析というのは定義があるし、そういう意味では被ってもいないと思うんです。
まずそもそも、同一の物理的空間を共有していない精神分析というのはないと思います。
私は基本的にオンラインでしかやりませんし、オフラインで人と会うということが仮にあったとしても、そこは1対1しかいない空間にはしてないです。
これには意図的なわけがあります。
そういうことですよね。そういうところでしかやらない。他の人が必ずいるところでしか参加者さんとは会いません。
これは精神分析の考え方とは真っ向から対立すると言っていいと思います。
なのでオンライン、オンラインサイコアナリティクスというものも世の中にはあるんですけど、それは存じてますけど、それとも私は基本的にやっていることが同じではないなと思っています。
でも力道から動こうとしないのねというか、精神分析の本はそんなに参照するのねと。
どうしてなのかというのの説明を今日はしながら、それを第11期のPRにしたいなと思っているわけですけれども、
それ自分でできるようになるんじゃんって言われると、そうかもしれないけど、それほど簡単にそうはならないんじゃないかなという理由も、
今日はそれをお伝えできるかわかりませんけど、軽く触れていきたいと思っております。
まずですね、例えばこれは戸畑海斗さんの本なんかにも出てきたので、そんなに今ではおかしくないと思うんですよね、ビジネス賞に出てくるとしても。
PSポジションとDポジションという言葉がありまして、妄想分裂ポジションと抑鬱ポジションと。
特にちょっと問題にしたいのは今回はですね、いわゆるPSの方、いわゆるってのはおかしいな。
メラニー・クラインという人の発案した定義なんです、定義というか概念なんですけど、
もともとフェアバーンという人、ロナルドフェアバーン、フェアバーンという人が分裂ポジションという言葉を使い始めて、
それを見たメラニー・クラインが、これは良い発想だということで、それにパラノイドをくっつけてPSポジションという言葉にしたらしいんですけどね。
詳しいことはよく知らないですが。
このPSというのは要するにですね、赤ちゃんが叫ぶみたいな感じなんですよね。
冗長的にはそういう状態って私たちはあって、それが私たちの赤ちゃんに戻るって意味じゃなくて、これは対抗って意味じゃないと私は思うんですけど、
そういう心理的な体制とか構えとか言ったりするんですけど、要するにそういう状態ですよね。
状態と言っていいのかな、心理状態ってあると思うんですよ。
よく感情的になるとか言われている時に我々がよくなっているやつで、私はこの状態を人は卒業しないと思ってるんですね。
その理由を最後、途中でちょっと述べたいと思うんですけど、その前にそのPSポジションになったという時には叫びたいような気持ちになっていると思うんですよ。
それ自体悪いことではないと思うんですね。叫び出したいような、泣き出したいような。
で、私が言いたいのはですね、そうはみんななるんじゃないですかってことなんですよ。
そうならない人が偉いとされる世の中もあるかもしれないけど、普通にそういう状態になるじゃないですかと。
特に夫婦ゲーム家とかすればですね、物投げつけるまでは、まあでも行くときは行くよね。
殴るってことは私は、実は人殴ったことって僕、一回あったかないかぐらいしかない。
妹を含めても、殴ったって明快に言えるなっていうのは本当ないんですよ。
殴られることはあっても、殴るって僕できないんですよね。
でも一回もないとは言いませんが、でも数えて5回はないと思いますね。
だから私はPSポジションに入っても人は殴れないんですけど、PSポジションにはしょっちゅう入ってるという自覚はあります。
で、PSポジションに入ったときというのはですね、これをPSポジションに入ったときなんだと認識できるというのは、
私は世間一般に、一般的な常識として入ってもいいんじゃないかと思うんですよ。
よくほら、本音が漏れるとか言うじゃないですか。少女漫画みたいなコミックで、
それがあなたの本音なのねみたいな、そういうとき大体PSポジションだと思うんですけど、なんか暴言っぽいもの入っちゃうじゃないですか。
所詮お前みたいなやつはヌトカントカとか言っちゃったときに、それがあなたの本音だったのねみたいなやりとりってあるじゃないですか。
でも私はPSポジションは本音でもなんでもないと思うんですよ。
PSポジションが本気で喋っているとは思いますよ。
でも本気で喋っていることと、それがその人の本音であるということはイコールにならないと思うんですよね。
PSポジションは勢い余って喋っているかもしれないが、だから本音だと言われてしまいがちなんですけど、私はそれは本音ではないと思うんですよね。
こういう認識が人間関係の維持に役に立つと思うんですよ。
人間関係と本音の誤解
現に心理臨床でその関係を破壊しないっていうことを精神分析みたいな本でも盛んに書いてあるんだけど、
その破壊されそうになった時には大体PS的な雰囲気と言いますか、参加者さんというか利用者さんと言いますか、クライアントさんもカウンセラーさんもどっちもPSっぽくなって、
一歩間違うと言葉の応酬が始まるわけですよね、というわけですよ。
でもそれがやっぱりカウンセラーの先生はそう思ってたんだって思われちゃうかもしれないけど、それは本当じゃないと思うんですよね。
このことを知ってて損はないだろうというか、世の中にこれが周知されていて悪いことはないだろう。
だからPSポジションというものがこの世にありまして、それを政治になったからといって卒業できないんですと。
PSとDはポジションチェンジするものなんですと。
セカンドとショートが行ったり来たり両方できる人がね。
セカンドとショートがポジションチェンジをして、ショートからセカンドに回ったらショートは卒業ですというわけじゃないじゃないですか。
またショートもできるじゃないですか。
そういう感じでPSとDはポジションチェンジに過ぎなくて、どっちの方が上だとか下だとかはないんだと。
そこまで思ってたのがウォルフレッド・ビヨンという人なんですが、そういう話にもなっていくわけですよ。
この私はヘイズではなくてポジションであるという発想がとても良いと思っているんですね。
やっぱりその情緒に左右されなくなる人の方が成熟度が高いっていうのって世の中に的にあると思うんだけど、
だからその本音なんなの、ついに本音が出たなみたいな話になりがちなんです。
そうするとそこで関係が壊れがちになるじゃないですか。
そんな本音を持ってる人間とはもう付き合えんみたいなことになっちゃうじゃないですか。
でも私はそれはそうも臭いと思うんですよ。
やっぱり私はフリーランスなんでですね、編集さんとのやりとりの中とかでかつてね、
そういうPSっぽくなることなんてあるわけですよ。
電話口とかでは特にいわゆる感情的になってしまって、
私みたいな人間ってないとでも思われてるようなんだけど、そんなことはないんですよ。
あるわけなんですが、その時に知っとけば良かったなと思うんですよ、このPSポジションという概念を。
これを知っておけばですね、その時に相当突っ込んで激しい罵評みたいなことを仮にしちゃったとしても、
それは謝んなきゃならないとは思いますよ。
本音じゃなかったからなかったことにできるとか、本音じゃないんだから何言ってもいいってことにはならないと思うんですけど、
本音ではない、特に相手からの言葉ですよね。
これを相手の本音だと思って受け付けてしまうとやっぱり厳しくなると思うんですよ。
でもですね、考えてみると乳幼児が、このPSポジションですよ、乳幼児っていうのはしょっちゅうですね。
言うじゃないですか、言葉を覚えたての幼稚園児みたいなのが、みんな死んじゃえみたいな。
それは本音としてお前はみんなが死ねばいいと思ってるのか、全人類滅べばいいと思ってるんだなみたいに。
言わないじゃないですか、とも思わないですし。
そういうことじゃないですよね。
だから本音ではないんですよ。
本気かもしれないけど本音ではないんですよ。
で、これを説明するのに、ポジションっていうのは、コンステレーションって言ったりもするんですけど、
良い発想だと思うんですよね。
そういう風になる時もありますし、後で心落ち着いて後悔することもありますよね。
つまりDポジション取り出しますよね。
人ってそういうもんですよね。
で、Dも本音ですよね。
いや、あれは。
だってですね、そういう風、死んじゃえみたいなシーンを、私がこう、私じゃなくてもいいですけど、
みなさんのでもいいですけど、
勘極まったシーンばっかり全部、例えばビデオとかに徹底的に撮られて、
死んじゃえとか、なんかそういうことを言っている、
お前なんかと仕事したのが間違いだったみたいなことばっかり言ってるシーンも全部繋がれて、
これがあなたの本当に思ってることの全てですよね、みたいに言われたら、
いや、そんなことはないですって言いたくなりません?
なんかこうね、映画みたいにして、
かつてあなたが一生の間で、めちゃくちゃ感情的になってしまった2時間に再編してみましたみたいな、
よくわかんないことをAIにされてですね、
これこそあなたの本当に思ってることです、みたいな、
全人類滅べばいいみたいに思ってるように、
奥さんのことはもう火あぶりにしたいと思ってるように、
これがあなたが本当にやりたいことなんですよって言われたら、
いや、そんなことはないですよって思うと思うんです。
私だったら絶対否定しますよね。
ということだからして、
PSポジションが別に本音ってわけではないんですよ。
っていうことを僕らがみんな知っておくとですね、
知らずにですね、
あ、それがあなたの本音だったんだ、
もう私たちはおしまいっていうパターンで、
どんどんどんどん人と別れる一方にならずに済むと思うんですよね。
済む可能性が広がると思うんですよ。
結局別れちゃうかもしれないけど、
でも、別れずに済むならそれに越したことはないというのが、
50年間生きてきた私の一つの結論だ。
どんな人とでもあっても、
別れずには済まないというケースも、
それあるでしょうけれども、相手がやがるってことももちろんありますから。
でも別れずに済むならそれに越したことがないというのが、
比較的別れ話の多かった私の、
人を簡単に切るところが多かった私の、
50年生きてきた結論なんですよ。
あんなことで関係壊すことはないよね、
っていうことばっかりなんですよ。
人生長くやってると。
損臭いなと思うんですよね。
つくづく損臭いと思うんですよ。
私はね、私の感覚の中では、
トータルで見れば決して得意にはなってないという。
あれですよ、
捨て台詞ってやつ?
入って別れると、
その時はえらいにスッキリするんだけど、PS的に。
このスッキリは、
全然割に合ってないなと思うんですよね。
もうちょっと人間の心の構造が、
違った形になっていてくれると楽だなと思います。
思うんですが、
別れと創出の探求
こうなってしまってるんで、
これはもうしょうがないなと思うわけですね。
ここまでは半分ぐらい、話の半分ぐらいで。
すいません。
水飲まないとですね。
とてもじゃないけど耐えられない。
止めればいいんですけどね。
止めようという脳も働かなかったんですよ。
次にですね、
別れるということ、
つまり別離というものには創出がつきものですよね。
この子にDが入ってくると思うんですね。
先日もこのD、
私はなぜDに長くいられるんだろうということを考えさせられる理由があったんですけど、
結論から言うと私は分かってきたんですが、
松木邦博さんの欲打つ…
欲打つ…なんだろう。
欲打つの精神分析的アプローチ。
欲打つのか。
欲打つへのだと思ってた。
欲打つの精神分析アプローチっていう本の中で、
創出ってものが欲打つにはつきものなんで、
別れると落ち込むじゃないですか。
落ち込むんですよ、後からね。
だって死んじゃいとか言って死んでしまったら困るじゃないですか。
子供から見て親がね。
そこで欲打つっていうのが分かるんですけど、
この欲打つというのは創出から来るものだというのが確かだと思うんですね。
喪失と自己理解
オットランクの修正外書じゃないですけど、
私たちは生まれたときにまず子宮の中にいる。
つまり何もしなくても完璧に生きられる。
我々はいつもこれを目指してますよね、人生で。
宝くじを一発当てて一生遊んで暮らせる。
あれは子宮怪奇願望の一種だと思うんですけど、
左内輪じゃん、みたいなやつですよね。
玉残しとか全部基本同じことを言ってると思うんですね。
でもそれを失うところから人生ってそもそもスタートするよねと書いてあるわけですが、
そして失うものばっかりだよねって、
この辺が月国博さんのストイックなところだなと思うんですけど、
人生とは失うことであるみたいなそういう定義がすごいよね。
まず離乳で完璧な栄養源を、栄養源とおっぱいを吸うという素晴らしい体験を離乳で失う。
最初が失落園ですからね、子宮から追い出される。
次に卒乳ということをさせられる。
それから縁の仲間とかって書いてあるのがこれも面白いなと。
え、そうか、縁の仲間か。
縁の仲間とかに対しての見栄を張り出すって言うんですよね。
これはね、お作法を身につけねばならんから、
自分の万能感を捨てて、自分の欲望に制限をかけることを学ぶ。
トイレトレーニングとかですよね。
縁の仲間ってあれですよ、保育縁とかの縁だと思うんですよ、当然ですけれども。
これ縁の仲間とかってそういう表現なんだと思って、
いや松木さんは4歳の頃から厳しそうだなって思ったってことですけどね。
とにかく確かに縁の仲間に対する見栄ってすごい張りますよね。
子供って年齢差し押しますしね。
4歳時とか6歳とかって言い出しじゃないですか。
何の自慢なのかわかんないけど、そういう時代ですよね、あの時代もね。
だから縁の仲間、確かに縁の仲間の目を気にする。
ここから始まることって多いなと言えますよね。
ああいうところでおしっこ漏らすと告知したんですけど、ずーっと言われますからね。
小学校、高学年になっても言われますからね。
お前みたいなやつにそんなこと言われたくねえわっていうようなやつに、
もうバンバン言われますからね。
そればっかり、それしか話題にしないやつとかいますから。
だねえって思うんですけど、まあしゃあないですね。
見栄っ張りな時代。
それからですね、ちょっと先へ行きますと、
まああれですよね、性欲というものに振り回される。
私なんかもうこの時代が20年以上続いた人間ですからね。
これによって自分がくだらねえ人間だなあと。
夜遅くまで起きていて、
みぞれの降る中、自転車漕いで、
隣町までなかったんですよ、レンタルビデオ屋が。
そこに行ってまだ17歳だった私がですね、
一生懸命年齢を偽って、
この時はもうちょっと必死ですからね、幼稚園生よりは。
アダルトビデオを借りるわけですよ。
しかもそれをね、家のVHSで再生することの難しさが、
夜の2時とかに起きて、
頑張らなきゃならないわけですよ。
なぜそんなことをやらなきゃならないのか。
やってる最中、自分でも深く疑問に思うんだけど、
やらなきゃならないんですよね。
これによる失うものっていっぱいありますよね。
まず、自分への期待を大きく損ないます。
なんかこう、小学校、高学年の頃はね、
寄谷大塚とか行っていて、
自分ってすごい人間だなと思ってたんだけど、
ちっともすごくないわけですよ。
なんかね、こう、人妻のなんとかとかを一生懸命見ている自分がそこにいるわけですよね。
で、これが15、6、7ぐらいになるじゃないですか。
同時にその頃、私入った学校も悪かったんだけど、
自分はバカなんだなっていうことを、別の意味で猛烈に思い知るわけですよ。
周りが頭いい人間ばっかりなんで、
なんかこう、到底理解できないことがなんかこう、
これが理解できないのは人間じゃねえぐらいなことを言われるわけですよね。
で、あの、なんていうのかな、
偏差した赤い学校の私立の先生って、
先生もほぼ同じメンタルの持ち主だから、
逃げ場がないんですよね。
あれがまた効くんですよ。
あ、自分バカなんだっていうことがだんだんわかってくると。
能力が足りないっていうのは様々な形でわかりますけど、
自分がこう、唯一かなり頼みにしていた知力ってものも、
はっきり言って高度な知性の持ち主から見ると、
相当しょうもないものらしいっていうことがわかり、
しかもその、夜にメンタルビデオ屋に行ってる自分もいて、
なんかこう、喪失するものがどんどん増えていく。
確かに和木さんの言う通りなんです。
人生とは喪失であるっていうね。
そういうことになっているわけですね。
で、この喪失というものをやっぱりどうするべきか、
っていうことだと思うんですけど、
これも私ね、一般のリテラシーとしてあっていいと思うんですよね。
忙しいじゃないですか、私たちの時代は。
感情の処理と心理カウンセリング
その宝くじ一発当たって支給回帰できればいいんですけど、
できないんで普通に我々は。
私も今はもう諦めましたけど、これもだから喪失ですよね。
ビジネスショーの作家やってた頃は考えてましたよね。
なんとか一発30万部のやつやってね、
もうこのなんとかXで一生懸命、
いやいいんですけど別にXでやるくらい、
Xで一生懸命やってもやってもやっても順位、
Amazonの順位をもう毎30分ごと、毎30分ごとにチェックするんだけど、
どうしてもやっぱり900何位とかが精いっぱいで、
またうちの奥様に物知られるわけですよね。
90何位とかになったらスクショ撮ってなんか自慢するんですけど、
900何位とかだとそれじゃ充販はかかんねえよなっていうのは
もうだいたい空気的にわかってくるんでね。
充販かかんないともうね、外れた宝くじみたいなもんですからねある意味ね。
この言い方さすがに問題があるという気もしなくはないんですけど、
でもそういうところありますからね、やっぱり商売ってそういうところありますから。
やっぱりそれは50万部とかいってですね、左内輪になりたいんですけど、
なかなかそうはいかないですね。
そのパーセンテージを考えるとあんまり宝くじ買うのとほんと変わらなくなってくるんですよ。
そういうことでして、売れるってことだけを考えればね、
そういうことでして、なかなかこう、何の話をしてるんだっけ。
だから喪失というものがつきまとって、
喪失をですね、こうやってお金で埋めようとするとですね、やっぱり忙しくなってしまう。
もう年に5冊とか書いてると、ほとんど1年中物を書いてるだけの人間、
なんか物書きマシーンとかしてくる。
あのあれですよね、なんか漫画家とかが忙しくなってきた漫画家とかが、
もうなんかもう漫画描く修行僧でしかないじゃんこれじゃっていう感じになってきて、
もうなんか藤子不二夫さん達もそうでしたけど、
真夜中に漫画描いてて眠そうになると鉛筆で自分の手を指して、
目を覚ますみたいな。
何の世界だそれっていう感じに自分のやってることが近づいていくんですよ。
朝の4時に起きて、こう散歩して、
そういうストイックなものを聞くのが好きな人いるかもしれないですけど、
もうやれやれしょうがなかったんですよね、本音を言うと。
朝の4時とかに起きて、5時からも原稿を書くみたいな。
アホかっていう感じがして。
本当にもう色々あったわけです。
で、そういう風に取り戻そうとすると忙しくなり、
忙しくなると何が起きるかというと、
喪失を悲しむということができなくなるんですよ。
私はここに心理カウンセリングが入るっていうのはもちろんいいことだと思いますし、
どんどんそういう機会が増えるに越したことはないと思うんですけど、
全部を心理カウンセラーさんがカバーできるっていう世界は来ないと思うんですよね。
僕聞いたことしかなくて本当か嘘か信じられないんですけど、
韓国の方では葬式の時に泣き屋っていう人がいたってじゃないですか。
泣いてみせると。それはすごい泣くのが上手いんだと思うんですよね。
人ってのはでもやっぱり悲しまなければならないんだと思うんですよ。
葬式っていうものはもちろん寺側のビジネスという面もましてあって、
葬式関係のビジネスという面もあるにせよですね。
やっぱり悲しむというのは簡単に終わるものではないし、
簡単に終わらせていいものでもないんですね。
だから時間がかかると。さっきも言いましたけど、
失ってるものばっかりじゃないですか。私なんかもそうですけど。
自分の頭を頼みにして頭がどうやら悪いということが分かりました。
この一つとっても悲しいじゃないですか。
悲しんでる暇があんまないんですよ。
受験勉強とかしなきゃならないし、サークル活動とかしなきゃならないし、
しなくてもいいんだけど、とにかくやることいっぱいあってですね。
ちょっとも悲しんでる暇がなくてですね。
ここに様々な問題が起こる、
その、何て言うんですかね。
闇というのは言い過ぎだな。
温床があるわけ、そうですね。温床があるわけですよ。
だからですね、そういう温床があるので、
一歩間違うと様々な事態を引き起こすと思うんですね。
例えば、私がそれこそ高校時代とか特にそうだったわけですけども、
怒られるわけですね。
で、怒られるから自分は悲惨だって思っちゃう。
ものすごい僕は怒られるってことが嫌な人間ですからと思ってたんですが、
それはやっぱり単純にマイワールドが傷ついてるだけであって、
実際大したことは起きてないんですよ。
自己愛の傷つきと行動
今思い出そうとすると思い出せないぐらいどうでもいいことばっかりだったわけですね。
結局のところこれは、自尊心を失うってやつの方が重大な問題であって、
分かんないんですけども、怒られるってことはもちろんあるんですけどもね、
やっぱり悲しんでる暇がないわけじゃないですか、十分には。
自分こうアホでしたみたいなことで、
そんなことで悲しんでる暇があったら勉強しろみたいなこと言われるだけじゃないですか。
つまり行動しろって言われるじゃないですか。
こうして行動的になってさせられていってしまうわけですよね。
本当はもっと落ち込んでてもいいはずなんだけど、
落ち込まずに代わりに行動に精を出してしまうわけですよ。
私は言われた通り勉強するほど、もうその頃素直ではなかったので、
隣のビデオ屋に行くという、そういう行動をとってたんですけど、同じなんですよ。
結局は喪失したものに対する埋め合わせを行動でしてしまうので、
その時に悲しむ能力というものを起動しないんですよね。
落ち込んで時間を過ごすという、そういうことをしないんですよ。
今の時代それが完全にろくでもないことのように言われてしまってるんで、
行動にできればそれを挽回する行動を取れって言われているんで、
だからさっき言った通り、100日チャレンジと3ヶ月チャレンジは違うサービスなんですよ。
しかも100日チャレンジでも今では、もう自責しないのが何より大事ですっていう話になってるわけですよ。
自責してしまって僕らは行動に訴えるんですよ。
そして取り返そうとする。
それをやめて、この悲しむっていう能力を発揮しましょうっていうのが精神力度にはあって、
僕はこれのほうがいいと思うし、時間取りますけどね。
でも今の時代にこういうほうが必要だと思うんで、
みんなが知っていたほうがいいと思うんですよ。
ってなわけで、力度ベースにしようと頑張っているわけですね。
母親の影響
基本的には悲しむというものを捨ててしまおうとする。
捨ててしまおうとするんだけど、例えば失責されるとか、
お前ダメなんだぞってことを伝えなくていいようなことをやったことがある。
お前こないだの通知表によると2だったじゃないか。
10段階で2ってどういうこと?
あ、私だってね、5段階で4しか英語だったことないのよ、
だってうちの母がろくでもないことを言ってきて、
これはものすごい暴力的に言ってくるんだけど、
それで傷つくとでも、僕は思っちゃってるんですけど、違うんですよ。
そうじゃなくて、やっぱり2に傷ついてるわけですよ。
2しか取れない自分に。
ここを私は、嘆き悲しんでる暇が与えられてないんですね。
だからそこをスルーして英語に向かおうとするわけです。
英語が10段階で2だったら、2って確かにひどいけどさ、
23点とかだから2なんだけど、しょうがないですよ、めっちゃ難しいんで。
で、英語に向かっても全然向かえないじゃないですか。
こういうことを僕らはしてるわけですよね。
自己愛の傷つきなんだけども、
自己愛の傷つきをそれを跳ね返すために、
何くそと思って勉強しろみたいな、
そういうふうに人間の心って僕らできてないと思うんですね。
全然向かえなかったですもん、実際。
なんか赤い線とかいっぱい引きましたけど、
意味があったとはとても思いませんし。
で、これがですね、自己愛の傷つきなのか、
それとも親に言われてトラウマになったのかっていうのを、
ここを瞬別するっていうのは、
セッションとかで大事になるかもしれないですけど、
ここはちょっと話して、ここを分けるっていうのは難しい。
ただ一つ言えるのは、
これが私だけの問題なら自己愛の傷つきになると思うんですね。
これが母が何か私に対して投げ込んでくるPS的なもの、
つまり余計なことを母がしているとすれば、
それがお前の勉強が良くなるということが全てだってんなら、
多分これは自己愛の傷つきです、僕にとって。
結局この自分が投げ切れてないというこの悲しみが、
私の心の中にあるんだけど、
それが親から押し付けられているような気がしてしまうというのが
自己愛の傷つきですよね。
だけど本当に親が何かを押し付けてきていたら、
これはトラウマになり得ます。
つまり、実は私は英語がもっとできるようでありたかったとか、
実は私の人生をもっと素晴らしいものにしたかったから、
息子で私の古代自己愛を満たそうとしているのは、
こいつバカだから満たせないじゃんっていうので、
本人の残念さを私の中に押し込んでいたら、
これはトラウマになり得る。
ここでトラウマと自己愛の傷つきの区別っていうのができるんだろうなということを
分かりにくかったと思いますが、
松木さんの本で私は学んだ気がします。
なるほどなと思いました。
絶対これは両方混ざってくると思いますけどね。
もう一つが、もっとリゾイド的になっちゃうっていうのも
僕がよくやった手ですね。
もうなんか無関心を装う。
なんかそんなことで傷ついてる俺はいないみたいな、
総的防衛みたいなやつですよね。
だからもういや別にビデオ映画行くからいいよみたいな、
よくわかんない態度をとる。
自分傷ついている自分そのものを捨てて、
精神病的にこれをやることになっちゃうんですけど、
これをうまいこと切り分けるんですよね。
そういうことも書いてあって驚いたんですけど、
この本に載ってて。
確かに僕やってたんですよ。
自己全部を捨てるってことは僕は絶対しなかったので、
うまいこと切り分けて、
傷ついている自分だけをそっと切り離して、
そこだけ凍りつかせてちょっと話すみたいな感じをして、
残っている性欲とかで生きていく私みたいな方を駆動して、
そっちで生きていくという感じですね。
だから英語で傷ついている自分は当然いるんですよ。
厳密に言うとバカだから傷ついている自分がいるんだけど、
そこはもう切り捨てる。
そこだけ切り捨てる。
自己全部切り捨てると本当に精神病みたいになっちゃうんだけど、
そこだけを切り捨てる。
これも十分ヤバい行為なんですけれども、
私がやったことですからね。
だから気悪いなっていうかね、
当時私はすごい、
だって夜の2時にね、
そんなビデオを一生懸命回してる自分は、
すでに何か病んでる感じってありましたから、
あったんだけど、
でもなんかどっか正気を保ってたんですよね、ちゃんと。
分かってやってた。
にも、あれなんですよ。
うちの学校は3つ赤点だと本当に留年させちゃうんですよ。
でも私は絶対2つ赤点だったんですよ。
あの、際ないですよ、やってることは。
3以下が赤点なのね、10段階で。
3は2つあるんですよ、いつも。
でも他は全部4。
4は維持するんですよ。
これはね、常にやってました。
何の自慢にもなんないですけど。
だから現実検討式をつけてたってことね。
まあ非常に怪しいやり方なんですけど、
ほとんどの時間はアダルトビデオ見てたしね、本当に。
ほとんどの時間見てましたね。
だけれども、英語と数学はギリギリやってたんですよ。
4は取れるぐらいはやってたんですよ。
4は取れるだろうって計算は、実際4ばっかりだったんで、
これももう親は本当に見てものすごいがっかりするんだけど、
もうでも4は、4以上を目指そうという気持ちが、
私の中のどこにもないなっていうのがあったんで、
非常にそこは地則移動的にね。
将来はこの母親から母親の嫌な部分をすべて取り除いたような美少女が現れて、
その人と一緒になるから問題はないみたいな、
訳のわからない万能空想にどっぷり浸って、本当にどっぷり。
頭からつま先までどっぷり浸ってました。
地則移動感満載って感じなんですよね。
言ってて嫌になるんですけど、まあそんなに嫌にならないです。
まあ今から30年以上前のことですからね、もはやね。
今となってはそうか、そんなに昔なんですね。
よく覚えてるもので、よく覚えてるってことはやっぱり危機的な雰囲気はあったと思うんですよね、心理的にね。
そんなに親がひどいとは思わないんですけど、
母親の親いっぱいいましたし、非常に典型的なところがあったなと思うんですよ、うちはね。
段階の世代の親を持ち、段階ジュニアの子供がいて、子供2人、母は専業主婦。
家、寺だったのは特殊ですけど、何がユニークではないですね。
非常にティピカルな雰囲気があったと思います。
で、もう一つこれにですね、とはいえ、とはいえですよ、
当時、母がもう少し柔らかくコンテインしてくれていれば、
これはね、あると思うんですよね、欲打つ的な気持ちの中に。
どう考えてもあの人は逆をやってたから、
いわゆるこう、これもね、あったんでびっくりしたんですよね。
負のコンテナって表現があるのかないのか。
でも松木さんの本にあるぐらいだからあるのかな。
像を増やしていくっていうですね。
だから投げ込んでくるわけですよ。
本当は下読してくれればいいんだけど、私がPSになって出したものを、
母がこう、赤ちゃんの母じゃないからそこまでやってくれる義理はないのかもしれないけど、
うちの母はそういうことを全然やらないんですよ。
この時もまたパターンは2つありますよね。
母がいないという場合。
つまりコンテナの不在感。
それとも像を増やしてくるか。
放射の方が私はやっぱりリスキーだとは思います。
あのね、慰めてほしいところを出席にかかるっていう。
だからいろんなパターンがあるということなんですよ、欲打つに対して。
行動による問題解決
自己愛の傷つきになってるケースもあるし、
トラウマに引っかぶってるケースもあれば、
自動移動でそれをあまりにも自分を排除しすぎている。
私はこのパターンすごい得意だったんで、やりまくってた。
あとコンテナというのも、
不在で自分バカだってなっているのに、
お前バカだからみたいにひたすら攻撃されるっていうのは厳しいわけですよ。
うちの母と比較されて、
親自転もまともに引けない人からバカにされるっていう、
この独特の苦しみがあったわけですね。
でも不在とどっちがいいか。
にもしない。
誰もいない。
あるいはほぼ無関心みたいなね。
そういうものによって欲打つ状態が悪化するってケースもあります。
いずれにしても結局は行動で、
行動で自体を打開しようとしすぎていると、私たちは。
わかりましたよ、もちろん。
だって行動で自体を打開しないと
まずいことになるでしょうと。
なりましたからね、私ね。
なりましたけど、
でも、あれを、
あの時に私がやっていたような、
非常に稚拙な行動で乗り切ろうとするぐらいであれば、
あの時間を悲しむということに、
悲しむことの意義
不可能でしたけれども、
悲しむということに当てていられたら、
はるかにマシだっただろうとは思うんですよ。
感覚的に。
なので、
今の転生ものとか、
昔に戻ってなんとかんとかってよくあるじゃないですか。
あれ、必ず分岐点に戻った後にやるのが、
行動を変えることでしょう。
そうじゃないと思うんですよね。
そこで投げ込む。
まあそれじゃ物語になりませんけれども、
そこでですね、
人生の転機を迎えるために、
違うことやって株でも買って、
大儲けして人生見返すみたいな、
そういうのもいいのかもしれないですけど、
それは明らかに行動に訴えてますよね。
どの行動を取ったほうが、
いい人生が送れたかって話になっちゃってると思うんですけど、
やるなら、
まあ誰もそんなことはしたくないかなと思うんですけど、
やるなら、そこでやっぱりこう、
十分嘆くとか、
十分悲しみをかみしめるとか、
もう全くそれを選択する理由は、
見出せないというのが現代社会だと思うんですけど、
私はそこに精神力動というのは、
精神分析っていうのははっきりと、
悲しむことをできる、悲しめる能力とか、
起こることができるとか、
依存できるっていう表現を、
はっきりとポジティブなものとして表現している考え方なんで、
私はこれを世の中に、
常識的に広まったらいいと思うし、
3ヶ月チャレンジで、
しつこくこれを探求していきたいと思ってるわけです。
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