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2023-05-25 42:45

【788】環境を自分のための母親のように認識するために

ほとんどウィニコットの話になりました
ガーデニングについて
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
5月24日の朝、7時52分ですね。
大体同じくらいの時間に最近はなってきています。
今日は曇りですけど、私の住んでいるところは曇りですが、
気温はいい感じで、ようやく落ち着けたかなと。
気候といい、温度といい、アップダウンと急変が激しくてですね。
別にそれはどっちでもいいというか、それはそれでいいんですが、
ガーデニングをやっている関係上ですね、あまり激しいとですね。
植えたばっかりのやつって風に弱いんで、すぐダメになっちゃったりしかねないんで、
ちょっと気をもんでたんですが、どうやら無事にくぐり抜けたようなので、
しばらくちょっと梅雨に入るまで、この穏やかさを保ってくれないかなと。
あれなんですよね、いっぱい買ってないとか、いっぱい買うって言うんだったらいいんだけど、
ちまちまとかしか買ってないから、ダメになっちゃうと再現がきかないというか、
もうその年はそれに感じて諦めるみたいになっちゃうんで。
本当はもうちょっとですね、時期をずらすとかいろいろやればいいんだけど、
そこまで手が回ってませんものでですね。
やっぱり非常に気候に対しては、ありと気を配らざるを得ないというか、
農家やってるわけじゃないんで、別にダメになったからといってね、
何か致命的なことにはならないんですけどね、ちょっとがっかりみたいな話でしかないんですが。
まあまあ、今年はでもうまくいってるんですよ。
一つは少々異常気象だったせいもあって、3月の段階からガーデニングの話しててもしょうがないけど、
3月の段階からやっていたんで、3月のいいところはですね、
虫がやっぱりほとんどいないんで、結構無敵感があるんですよね。
これがビニール栽培の強さだなと、別にうちはビニール栽培とかやってるわけじゃないんだけど、
虫が来ないってのはね、いいですよね。
アゲハチョウの幼虫とか、ほんと論欲ですからね。
一夜にして全部食いつくされるということも全然不思議じゃないんで、
かなりアゲハチョウとか、アゲハチョウ綺麗でいいんですけど、相当問題ですよね。
そんなことはいいとしまして。
読書会の告知
今日は割となんとか編じゃないから、ぐだぐだモードになるんではないかという漠然とした予想がある。
まだ何語やしゃべるかのテーマは全然決めていないんで、
これからちょっとCMを押しながら考えさせていただきますが、
CMの方はですね、6月の10日の土曜日に読書会をやります。
14時からで、これはリアル参加可能ですが、オンラインでもご参加いただけるといったものです。
こちらですね、ある程度は3ヶ月チャレンジの方は無料枠があるから、
それ以外の枠からのご参加ということになりますので、
あんまりないのでね、できれば、もしご参加したいといった方はですね、
できれば早めにお願いします。
すでに告知はしておりますので、BTXの方でお申し込みいただけます。
もしわからないということがあったらですね、
これは私、常々申し上げたいと思ってるんですけど、
別に私にツイッターのDMとか、ご存知の方はですね、
DMはですね、全然いくら送っていただいても結構なので、
全部に、どんなものにでも必ず対応しますってことではないですけど、
来て困るとかは絶対思いませんから、
クレームめいたものでも、全然どうぞお気軽にという感じで
お寄せいただければと思いますので、
ぜひぜひご参加いただければと思いますので、
あともう一つですね、一応、公式ホームページあるんですよ。
あんまり知られていないと思うんだけど、
公式ホームページの方からのコンタクトが、
これはGoogleフォームですけどね、送っていただければ対応しますので、
もしわからないことがございましたら、
そっちの方からのコンタクトでお寄せいただければと思いますので、
ぜひぜひご参加いただければと思いますので、
もしわからないことがございましたら、そっちの方に送ってください。
これあんまりちゃんと言ってなかったからいけないのかなと思うんですよね。
メラニ・クラインについて
見つけられないとか不思議な話が出て、
私はなんかもう、自分は情報の発信を出しすぎているぐらいで、
ぐらい出しているつもりでいるもんだから、
これ以上はなくても見つかるだろうぐらいに思ってるんですけど、
先日、ようやく見つけましたみたいなことを言われて衝撃を受けまして、
ようやくどういうことなんだろうと思うぐらい、
あちらこちらで言いまくってるつもりなんだけど、
そんなことはないんだなというのを最近ちょっと知ったので、
私の方に連絡をしたいという方はですね、
何の手段でも、読まれたくない方はエアリップでいいんだけど、
読まれたいという方はDMをいただければいいと思います。
それで、まだ何も考え続いていないんですけれども、
最近、環境としての母親という言葉をあちこちで喋り散らかしておりまして、
これはもともとある程度は説明しますが、
ウィニコットという人の言葉ですね、概念なんです。
ウィニコットという人は、メラニ・クラインという人の最初お弟子さんで、
後で波紋になった人だと私は認識しておりまして、
そのメラニ・クラインというのは確かハンガリー人だったと、
この辺があってくると曖昧なんで、
詳しく調べたいという方は詳しく調べてほしいんですけど、
たぶんドイツ系です、確実にだとは思います。
クラインですからね、
アイネ・クライネ・ナハトムジークのクライネのクラインですから、
小さいということだったと。
アイネ・クライネは、
アイネ・クライネは、
うん、そうですよね、小さいだったと思いますね。
で、彼女はアレです、
プロイトに直接指導された人で、
今だったら精神分析家にはなれない、
つまり学歴が不足しているというタイプだと思いました。
大学卒業すらしてない、
今大学院卒業相当なのかな、
今大学院卒業相当の人しかなれないはずなので、
大学院卒業すればなれるって話じゃなくて、
結構先が大変ですね、精神分析家は。
環境としての母親
クラインはたぶん大学すら卒業できてなかったと思いましたので、
すごい経歴です。
いわゆるそういうアカデミックな何かを持たずに、
あんなに大物になっちゃったみたいな。
だって結局アンナ・プロイトと
対立軸の位置軸を成している人ですから、
位置翼を担っている人ですからね、
こういう言い方しますよね。
アンナ・プロイトはプロイトの娘ですからね。
クラインのお弟子さんのウィニコットの言葉で、
環境としての母親と。
これは前も言ったと思いますが、
対象としての母親と、
ついに母親対象との反対語に近い言葉かなと、
私は思っているんですね。
そうは言っても全然説明としては不十分だと思うんだけど、
要はウィニコット流に言えば、
多分母親はあまり対象としての母親じゃダメなんだと思うんですよ。
母親はあくまでも環境としての母親であるのが理想的で、
この辺が社会学的には問題かもしれないけど、
でもやっぱり育てられる子供の側としては、
家事の押し付け合いの話じゃなくて、
子供の側にしてみれば、
母親は環境として意識されているのが私は理想的だと思うんですよね。
私は父親ですが、娘に対して環境であろうと
いつも心がけているところがあるんですよ。
対象になってしまいますよ、人間だからね。
でも対象としての父親になってしまったときは、
いかんと、一応思いまして環境になることに対して、
黒子薬に徹するとかそういう意味ではないんですよ。
環境、何もしないでいても、意識しないでいても、
環境として娘に使用されている状態が、
僕は一番理想的な状態だろうと、
自分の育ってきた経験から感じるんですよね。
何度か言ってますが、
折りたたまれているシャツってやつで、
折りたたまれているから母親なんですよ。
シャツだけだったら店に、
あるんですよ。環境だけだったら、
その環境は全方位を向いていると言いますか、
環境そのものに意味はないと言いますが、
環境っていうのは誰かのものではないわけですね。
でも母親というのは子供にとっての母親じゃないですか。
つまり環境としての母親っていうのは、
言葉の矛盾で、矛盾含みの言葉で、
私用にあつらえられる、
野球場と環境
私用にあつらえられる、
私用にあつらえられた環境なんだけど、
その環境は開かれてもいるみたいな、
そういうニュアンスなんですよ。
でもこれは私たちが、
私なんかこれやっぱりですね、
野球場っていうのがいっつも思い出しちゃうんですよね。
野球場ってそうなんですよ、私にとって。
私が野球場に行くと、野球場は私のための空間みたいに感じられる。
野球よっぽど好きなんでしょうね、私はね。
だけど野球場はもちろん私のための空間で、
私のための空間ではないどころか、
だいたい一番中核にいると言えば、
やっぱりピッチャーだと思うんですよね。
あの空間はピッチャーのために作られているようなところがありますよね。
ど真ん中というか、ほぼ一番大事なセンターにはピッチャーがいるし、
キャッチャーっていうところがまた微妙に大事なポイントなんだけど、
でもやっぱりピッチャーかなって感じが、
一番テレビに映っているのは、たぶんピッチャーだと思うんですよね。
少なくとも私じゃないですよね、観客席に座っている。
私とか一回も映らないか、時々映ったりしますけどね、
よっぽどしょっちゅう行けば。
その環境としての球場というのは、
私の目を通すと環境としての母親になってしまうんですよね。
そういうふうにできちゃうんですよ。
で、環境対私っていう世界に入ってくると、
私はもちろん球場なんで1万人はいると思うんですけど、
中で一人になれるんですよ。
これがすごい現象だといつも思ってるんですよ。
一人になれるんですよ。
引きこもらなくて済むんですよ。
ここでいろんな人の目線とかを気にすると、
人は引きこもらなければならなくなりますよね。
だからミニコットが孤立って言ったとき、
アイソレイトかな、とてもいい意味なんですよ。
その球場で野球に熱中している少年は孤立しているんですよ。
少年対環境になって、
しかもその環境は母親として、環境としての母親なんで、
その少年の中で、
自分のための環境になる。
そう感じられるのが僕は一番いいと思うんですよね。
娘には常にそうあってほしいと思って、
私は自分は環境としての環境になろうと。
娘のための環境であろうという風に
よくよく考えるんですね。
これは別に、
これはそれだけの話なんですけど、
ここでミニコットのまた別の言葉なんですけど、
偽りの事故っていうのが出てくる。
これはもちろんいい意味ではないんですが、
やむを得ないっていう感じなんですよね。
しょうがないよねっていう感じなんですよ。
偽りの事故というのは、
例えば私が球場とかに足を運んだ時には
絶対出てこないものなんですね。
そんなのはいらないんでね。
偽りの事故というのは、
昔、昔そうだな、
例えば居酒屋の面接を受けたことがあるんですね。
その時に面接に行くと私は
偽りの事故、まっしぐらになってしまうというか、
偽りの事故そのものぐらいになっちゃうんですよね。
どういうことかというと、まず居酒屋の面接に行きますね。
私は当時は、
多分20歳ちょうどぐらいだと思うんですけど、
19歳ぐらいかな。
その面接に行った居酒屋を
環境としての母親だと全く感じられないんですよね。
完全に私にとってほとんど、
まだ意味付けているのに、
そっているだけの環境、
例えばそこにあるテーブルはテーブルでしかないわけですよ。
環境としての母親
そこにある椅子も椅子でしかなくて、
私のためのという感じが全くしない。
だから環境としての母親、
母親というのはやっぱり私のための母親ですから、
私の母親でしょ。
だから環境としての母親というのは、
私に便宜をはかってくれるよっていう
面接を受けに行くときっていうのは、
私対環境になっちゃうんですよね。
私のための環境じゃなくて。
私の目を通しても、
世間の目を通したものと同じものしか
映らないんですよ、私の目にはね。
野球場に行くとそうじゃないですよ。
私のための空間のように見えるようなものが
私の目に意味付けていくことができるんですよ。
そういうことができるんです。
だから野球に詳しくない人は、
私と同じことはできないと思うんですよね。
例えば一塁側に座るか三塁側に座るかが
全然違う意味を持つっていうのは、
好きな人だからなんですよ。
好きでもなんでもない人は一塁側に座っても
三塁側に座っても同じだと思っちゃうんですよね。
それってただ一塁側三塁側って書いてあるのと同じで、
世間がつけた通りの意味しかそこに見えない。
自分がつけるある種ユニークな意味。
つまり世間がその意味をつけているけれども、
私もその意味に改めて付与している。
だけども私だけがつけている意味ではない。
っていうのがある。
マニアな世界ってそうですよね。
多分そうだと思うんですよ。
映画好きな人には映画好きな人同士ならば
伝わる言語ってあると思うんです。
だけどそれって世間一般ではそこまでは言わないんだけど、
でもその人だけの言葉でもないみたいな。
そういうのがあると思うんですね。
環境としての母親というか
その母親的な含みがない環境に入っちゃうと
偽りの事故が出やすいんですね。
面接に行くと
心にもないことってやつを言う。
つまり嘘をつくことになってしまう。
そこで素のままの自分ではまずい。
それもおかしな考えなんだけど、
でもやっぱり素のままの自分では
いけないんだっていう考えが
世間的に入ってきて
ここでずっと働きたかったんですか。
わけわかんないことを言うんですよ。
紫でずっと働きたかったわけでないことは
相手の店長だって知ってるはずなんですけどね。
そこでこういう変なやり取りが起こる。
これはグッドバイブス流で言うと
恐れと不安がそこに間違いなく潜んでるからなんですね。
恐れって全く抱いてないですから。
完全に自分と母親は母子は一体ですから
心から安心して自分を預けられる。
だから心から安心して
畳んであるシャツをばっと引きずり出して
着るみたいなことができないと
僕は何かまずいんじゃないかなって思うんですよね。
親子関係においては。
折り畳んでくれてありがとうございますっていうものではないと思うんですよ。
子供なのに偽りの事故が出てきてしまっている
というのが私は
とっても表面的なものとは別に
まずいことになってるんじゃないかっていう感覚があるので
極力そういう風でないほうがいいと思うんですよね。
だから環境としての母親というもので
なるべく親という時には
ありたいかなっていう感じがしています。
それで
偽りの事故とニーズの提供
紫のバイトみたいなところでは
お客さん相手にも
ありやすかったわけですね。
当時10代の私は
客が好きなわけじゃなかったから
ありがとうございますとかいらっしゃいませとか言うけど
それはある意味言ってるだけですよね。
だからすごい来てくれて嬉しいみたいなのはないわけですよ。
当時の私としてはね。
そういう時もありましたよ。
ある種のお客さんに来てくれて嬉しい人はありましたけど
大半は特に忙しくなってくると
ひたすら偽りの事故が頑張るみたいな
偽りの事故というのは
スキルアップしていくとすごい優秀になってくるわけですね。
本当の事故はそこでは出てこない。
この本当の事故って
何なのかと言いますとですね
野球場でもいいんだけど
このポッドキャストでもいいですね。
今私は偽りの事故じゃないと感じてるんだけど
その大きな違いはですね
ニーズが満たされるってことにあるんですよ。
環境都市の母親っていうのは
ニーズを満たしてくれる存在なんですね。
ニーズが満たされるということは
これもウィニコットの言葉なんですけど
ニードを発しているってことになるんですよ。
これがですね、非常にわけわからんと
私は最初読んだ時思ったんですが
ニーズってのは
言葉として解釈できる
ニーズを付けられた欲求に対する
何て言うんですかね
提供物みたいな感じかな
提供すること、提供するサービスみたいな
例えばコンピューターって
エラーが起こりましたとか言うけど
コンピューターって直してほしいとは全く思ってないんですね。
だからそこにはニードがあるだけなんですよ。
つまり直す必要があるだけなんですよ。
それは人間的世界における何か定義ですよね。
コンピューターの欲望とかではないですよね。
多分そういう欲求を持ってないと思うんですよ。
で、直すというニーズを人間は提供するんですよ。
これが環境としての母親なんですよ。
相手が機械だとニーズを提供したからといって
別に多分喜ばれることはないけど
相手が人間であれば
おそらくある程度適切に処置をすれば
喜ばれると思うんですよ。
だけどニーズの提供というのは
ニードとは100%フィットするというケースは
極めて稀でほとんどなくて
稀にあるかもしれない。
環境を母親的に認識するための考え方
それはまた特殊な事情を指すと思うんですけど
極めて稀です。
ニードに対して、必要性に対して
かなりの部分を満たすというケースは
多々あると思うんですよ。
例えばうちの子がお水ちょうだいと言ったときは
シーというニードがあって
しかも彼女は言葉に直せるので
この段階で実は彼女の中の環境としての母親が
機能していると僕は思っているんですが
私が水を出して水をやると。
あるいはお茶をあげると。
お茶と水は違いますよね。
ニードというのは
喉が渇いたというのが一つのニードだと思うんですが
それだけじゃないですよね。
ニードって言うなら
それは別のニードだと思うんだけど
お茶が欲しいニードみたいなのもあるわけじゃないですか。
それは喉が渇いただけじゃないですよね。
ニードってつまり定義不能なんですよ。
ニーズってのは定義しちゃってるんですよ。
だからぴったり合うことはないんですよ。
例えばお腹が空いたというのはニードだけど
だからといって何食べても同じだってことにはならないですよね。
何食べても同じほどお腹が空いてると
ニードがすごく鮮明になってはきますけど
例えばその場合はおにぎりとかの方がいいのかもしれないけど
やっぱりおにぎりとサンドイッチどっちがいいって問題は出てくるし
両方好きな人にとっては
どっちが100%ってことは多分ないと思うんですよ。
99%おにぎりがいいけど
サンドイッチも食べたい気持ちもあるみたいなのが
でも両方同時に食べても
その両方を満たすことはやっぱりできないじゃないですか。
ニードを100%私は完璧に満たすことはできないと思います。
環境としての母親というのはそれでいいんですよ。
偽りの事故とその必要性
というかそうでなきゃいけないと思うんですよね。
100%相手のニードを満たしてあげてはダメで
どっかずれてるんだけど
満たしてあげたいという気持ちを持っている
っていうのが大事なんじゃないかと思うんです。
このニーズを提供する
というのが私は立場としては最高です。
これがですね、損臭いって思うっていうのは
非常に今図書館が
難しい心理状態に
はまり込んでいると思うんですね。
ニーズを提供するというのが最高なんだと僕は思います。
ニードを発するというのもいいけれど
やっぱりニーズを提供できるというのが最高だと思うんですね。
なぜならば私たちは環境としての母親をすぐ求めるじゃないですか。
求めるということは
それになれるのが一番いいと思うんですよ。
ニーズの提供が自分がやれさえすれば
ある意味この世で生きていく上で
不足なくなっていくと思うんですよね。
私たちは環境側の過不足って考えませんよね。
必ずニードを発する側として
何かを求める側としての自分の不足っていうものを
感じるのであって
本当のところその不足は環境としての母親が
何らかの形で埋めてくれるので
実際のお母さんがっていう意味じゃないですよ。
環境としての母親が埋めてくれるように
この地球中ではなってるんですよ。
人間のニードは満たされないようにできてると思うんですが
この地球上で生きてる限り
人間のニードはほぼ満たされるように
かなりの状況では
つらえられてるっていうのは言い過ぎかもしれませんが
一応条件は整っているはずなので
あとは気持ちの問題なんだろうなって思わなくもないんですよ。
この辺ちょっと慎重な言い方にはなってしまうんですけど。
それでさっきの偽りの事故を思い出してほしいんですけども
偽りの事故っていうのの一番の特徴は
実はニードを発してないし
だからニーズを得ることもないっていうのが特徴なんですよ。
これが偽りの事故では人だけでは絶対生きて
というか偽りの事故は生きてないって
偽りの事故って死んでるんですよ。
本当の事故が生きてるんですね。
だけれども僕らは偽りの事故なしでも
生きにくいんですよ。
多分人間社会の現段階では無理かなって思うんですよね。
やっぱり偽りの事故っていうのは必要なんですよ。
面接とか行っても
非常にこなれてきて成熟した人ならば
別に偽りの事故なしで面接できるんだろうと思うんだけど
やっぱり10代でも面接って受けるじゃないですか。
その時偽りの事故は出てきちゃうんですよ。
出てきちゃいますよね。ほとんどの場合。
未熟な偽りの事故なんて相手には見抜かれても
出てきますよね。
本当の事故だけで面接っていうものを
やるわけにはいかないと思うし
面接している大人も大体偽りの事故は出してると思うんですよ。
やっぱり。
だからこういうことはどこでもいくらでも
たくさん起こることです。
ある空間に行ってその条件の中では
環境としての母親に
環境を母親的に
自分と関係づけるというか
そういうものを成立させることができないのであれば
やっぱり偽りの事故でとりあえず
その場は切り抜けるしかある意味ないと思うんですね。
ニーズとニードの違い
だから偽りの事故というのは
必要なんですよ。
ただ偽りの事故というのは
その偽りの事故のニードとかはないから
偽りの事故でいくら頑張っても何にも満たされることはないんですよ。
これが私が今ポッドキャストでやってるのと
偽りの事故がやった場合との
大きな大きな違いだと思うんですね。
私はこれをやるとニーズが満たされるんですよ。
コメントをもらってしかもそのコメントが
非常にありがたいものだったり
あとで言及されてそれが非常にありがたいものだという
とても分かりやすいケースもありますし
そうでないケースもありますが
ポッドキャストを通じたニーズの満たし方
ニーズが戻ってきて満たされるという感じは
何回も受けているんですよ。
私はこれに対してこのポッドキャストを
偽りの事故ではやってないということになるんですね。
満たされるわけだから。
偽りの事故って何かが満たされる必要はないものだから。
偽りなので。自分じゃないですからね。偽りなんだから。
とにかくこのポッドキャストを今
iPhone立ててiPhone三脚で立てて
このヘッドホンつけてやってるんだけど
これをやってる真っ最中はニーズが満たされてくる
ニーズが提供されてくるという感じを
はっきり実感されるんですね。
ということはニードを発してるんですよ。
さっきも言いましたがニードというのは定義不能なので
それはお金なんですかとか言うとそうではないし
それは承認欲求なんですかと言うと混じってるでしょうけどね。
お金も承認欲求も。そうではないし
何だろうな。自己満足みたいなもの。
自己満足ってニーズが戻ってきてるって意味だと
私は思うんですけどね。
あるいは効力感なんですかと言うとそういうものもありますし
そうでないものもありますね。
それはつまり私が
赤ん坊が母乳を飲むような形で
現実から何かを受け取るっていうものなんですよ。
ニーズを受け取るというのは。
だからそこには欲求が当然あるんですが
その欲求は定義不能なんですよ。
これを定義したいっていう気持ちの人が
今の時代は多いんですよ。
社会心理学とか社会科学とか
農科学が発達して
いろんな欲望に名称とラベルを付けることができるようになったから
ついつい私たちは
あらゆる欲求に名前とラベルを付けられるもんだと
思うようになっちゃったんでしょうけど
そんなことはないんでね。
最初にも途中言いました通り
ニードとニーズはぴったり合うことは決してないんですよ。
だから私のニードがこのフォトキャストによって
何もないし、したがってこのニードは何であるかは
分からないところが必ず残るんですね。
承認欲求でしょって言えば承認欲求の部分もあるんですよ。
これによって
ビジネスが成り立っているからお金でしょと言われれば
お金になっているケースもあるんですよ。
でもこれは母親の母乳を飲んだ時も
全く同じなんですよ。
母親の母乳を飲んでいる時の赤ちゃんは
承認されていて気持ちがいいんでしょと言えばそうですよね。
だけど赤ちゃんは承認欲求さえ満たしていればいいのかと言うと
そうではないですよね。
やっぱり母乳を飲まないとお腹が満たされないし
栄養補給もできない。
じゃああれは栄養補給なのかと言うと
それだけではないですよ。栄養補給だけではないです。
で、喉が渇いているのかと言うと
喉が渇いている部分もありますよね。
でも母乳と水は違いますよ。
だから環境としての母親から受け取るものというのは
生まれていて大事なのは
ニードが満たされるんですよ。ニーズによって。
そしてそれがある程度的確に
満たされるというところが大事なんですよね。
ある程度的確に満たされるのでなければ
他の何でもいいこと、他のものでいい。
私はこのポッドキャストで満たしているものは
ポッドキャストでしか満たせないと思っているから
YouTubeはやってないんですね。
YouTubeでやるのとポッドキャストでやるのが
大事かもしれないんですよ。
他の欲求を満たすためには
もっとビジネスに寄せるとか
もっと承認欲求に近づけるとか
それしか今のところ思いついていないから
この2つをしつこく言っているんだけど
他にもいっぱいあるはずなんですよ。顔を出したいとかね。
別にこれは私は顔を出したいというのは
この番組においては大事だと思っていないので
こっちでいいと思っているんだけれども
北さんと北信也さんとやった
忘れましたけどスタンドFMではないと思うな。
リバーサイドなんとかとか言ったかな。
そういうのを選ぶかもしれないんですよ。
それはそれぞれ異なるニードを異なるニーズで
満たしているということになるわけですね。
この的確さは大事なんですよ。
つまり当たっているほどいいはずです。
ただし100%当たることは多分ないはず。
特にそういう原始的じゃない欲求を
満たす上においては
はっきりとこのニードを
はっきりとこのニーズで満たすみたいな
一対一対応にはなっていません。
なっているはずがないわけですね。
だって私なんかこのポッドキャストやってて
最初にやる時もそうだったし今に至ってもそうですが
一体どういうニードをこれによって満たそうとして
やっているのかが全然分かっていないですから。
どういう欲求に基づいてやっているのかは
分からないんですよ。
欲求とニーズの関係
ただし私にはポッドキャストをやっていきたいという
欲求があるんですね。
もしこれを偽りの事故で
そういうケースもありますよね。
ポッドキャストをやった方がいいからやりたいという
気持ちは全然ないんだけど
ホールズセルフというんですが
本当の私はとりあえずここにいてもらって
おはようございますみたいな感じでやるということも
できるわけですよ。
私がそれをやった場合は全く続く気がしないですね。
だから私はこのポッドキャストに
プランや形式によるニーズの満たし方
いかなる形式もなるべく与えないようにしているし
もちろんプランは立てていないし
だからこれはプランを立てて
もっと形式を整えるということによって
自分のニーズが満たせるというケースの人は
そうする必要があるんですよ。
何なら偽りの事故が必要だというなら
そうすることも必要なんですよ。
私の場合このポッドキャストでは
まだそういう風には感じていないから
本当の私がぐだぐだしゃべるという形でいいんですよ。
そうすることで私のニーズが満たされると。
どうしてそうすることで満たされるのかとかは
私には分かっていないということなんですね。
ホールズセルフでこれをやるというやり方の人も
当然いるはずですし
その人の方が再生数が多いということも
当然ありますよね。
例えばそれは再生数を多くするということが
その人にとっての満たすべきニーズであれば
そういうことになるわけですよ。
だから人によってそれはもちろん微妙な意味では
必ず人の数だけあるし
それどころかやる回数の数だけあるんですよ。
私は780回くらいやってきていますが
780回ともそのニーズは異なっているんですよ。
生まれているニーズが毎度毎度違うのも
当然なんですね。
赤ちゃんだってそうですよ。母乳を飲むということの
意味は毎度毎度違うはずです。
それによってみたら単におっぱいに吸い付きたいという
ケースもあるでしょうし、喉の渇きを何とかしたい。
あるいはお母さんに抱っこされていたい。
あるいはお母さんがおっぱい今吸えと言っているから
みたいなね。あると思うんですよ。
そういう様々なニード。様々なニードがあって
一回一回違うニーズがそれによって
満たされていくっていうのが多分生きている
ということなんですね。そうじゃないと死んでいる
という感じになってしまうんですよ。生きてはいない。
生きてはいないホールズセルフによってでも
生きている私のためにしなければいけないことがあるから
こそ偽りの自分というのがあるわけじゃないですか。
必ずしも大好きなわけではない上司に
おはようございますとすっごくこう言うと。
これは偽りの自分がやっぱり
フルーセルフが生きるためにやっているわけですよね。
この順番さえ間違わなければですね。
偽りの自分がある程度活躍するというのは
そんなにおかしなことではないと思うんですよね。
この順番が逆転するときに非常におかしなことが
起こるはずですよね。偽りの自分のために
本当の自分が頑張るみたいなことが起こるわけですよ。
例えばそうですね。このポッドキャストで
再生回数を上げかつ毎日やって
365日365回進めるためにやるために
やりたくなくても眠くても何が何でもやる
ということになると
多分偽りの事故優勢になるんですよね。
これをウィニコットは精神分析の用語として
盗作と呼んだんですね。
普通の用語で言う盗作とは
偉い意味が違うんですけど点灯してるんで
ホールズ偽りのために本当の私が使えるみたいな形になっちゃってるんで
そういうケースで
いっぱいありますよね。
ラジオ体操のスタンプ集めみたいなもので
スタンプはラジオ体操に行くための
モチベーションを高めるためのものだったんだけど
スタンプを集めるためにラジオ体操に行きたくなくても
行くってことになると盗作的なんですよ。
別にこれは困ることのない盗作だけど
この種の盗作が脅迫症では
よく見られるということはありますよね。
計画を立てて
計画がきちんと遂行されていることを
自分に確信させたいためにプロジェクトを実行するみたいなのは
多分盗作気味なんだと思うんですよ。
だから形式
形式ってものが圧倒的に優先されたときに
よく起こる現象かなという感じはします。
そういうふうに私はこのポッドキャストを
最も持っていきたくないので
一番これは形式
私何をやるときも大体そうだけど
この偽りの事故というものが
前面に一切出ないようにする
一つの活動かなと思うんですよ。
だから
そういうものが
大事になってくるような空間ってない状態
ここをそういう空間にしたくないというか
見に行くこと的に言うとまさにそういう感じになるのかなと思うんですよ。
もう一つが
環境と母親的存在
環境としての
環境が母親的な感じにならない場合
つまりある環境の中で
先日言ったんですけど心んだとき
私たちは偽りの事故を持って対応するのと
もう一つが私は超自我を持って対処する
というケースがよく見られるなと思ってるんですよね。
これを見に行くとは
対象としての母親が現れるという言い方をしたのかわからないんですけど
つまり超自我って対象ですからね。
対象というものが出張ってくるというか
ここに介入してくるんですよ。
環境がなってないから
シャツが畳んでないとか言ったときに
子供はお母さんに怒ったりするわけですよ。
わがままだとね。お母さんに怒ったりするんですよ。
そうするとお母さんは怒り返してくるわけですよ。
私だって忙しいと。これが対象としての母親ですね。
環境が対象になってしまうんですよ。
ドローンするんですね。化けちゃうわけです。
そのとき私はよくよく
対象的であるケースと超自我的であるケースと
その両方がないまぜになったようなケースと
本当に会社ではよく見かけるなって
よくいつも思ってました。今思えば。
そういう言葉は使ってなかったけど
私が昔勤めていた、本当に昔ですか
28歳くらいのときかな。26、7歳。
NTTドコモサービスの派遣社員やってたときにも
例えばコピー機の余熱っていうのを押すと
ものすごい劣化のごとく押されるんですよ。
それが起こる係長っていう人がいたんですよ。
これが環境としての母親がほころんだときの
ある種の人の反応なんですね。
その係長が劣化のごとく起こると
みんなビビる人もいれば全然ビビんない人もいるんだけど
偽りの事故について
めちゃくちゃその人の機嫌を上手に取る人もいるんですよ。
これが偽りの事故ですよね。
その人は多分その余熱にすると
取り乱して激怒する係長の機嫌を取るのが大好きとか
それがまさに私のニードですってわけじゃなかったと思うんだけど
その人は上手いんですよ。
だから偽りの事故というのは非常にスキルフルなんですね。
だけど多分やりたくてやってるわけでも何でもないと。
偽りなんですよね、その人にとって。
そしてその劣化のごとく、つまり何で余熱にすると起こるかというと
すぐに稼働しないからなんだけど
それは要するに調子が的なんですよ、非常に。
この母親としての環境に早く戻せないと
その母親としての環境に早く戻せと言ってるわけですよ。
環境は俺のためになければいけないと。
そうでないとどうなるっていうことを
その人は多分全く意識してないんだけど
業務に差し支えるとか言うんですけど
それは全く作り出した言葉であって
その人が感じていることっていうのは
その時には絶滅の恐怖だったと思いますよ。
大げさすぎて変なんですけどね。
でもやっぱり赤ちゃんがですね
おっぱいにすいついておっぱい出ないよみたいな
それは赤ちゃんにとっては深刻な事態なんですよ。
これを言うとまた社会学的な問題になるんですけど
母乳出ないのはお母さんの責任なんですかみたいな話になりかねないんですけど
そういうことではなくて
赤ちゃんの側の気持ちになってほしいってことなんですよ。
母乳じゃなくてもなんでもいいんですよね。
例えばミルクに飲んでみようとしたんだけど上手く飲めないと。
そしてものすごい火がついたりになるじゃないですか。
でも赤ちゃんからすると
これはやっぱり冗談事では済まないんですよ。
なぜならこのミルクだっていくらでもあるなんて知らないからね。
ギャートルズの世界だったらそうじゃないですか。
この日これを食べきれないともう飢え死にするかもしれないと思って
その時のそういう赤ちゃんの認識って多分あんま変わらないと思うんですよね。
だから私は環境がほころんだ時
絶滅の器具というものをこの子は持つと
死ぬってことを知らないので
この話昨日ちょこっとあるところでしたんですけど
死ぬっていうのと絶滅するっていうのはやっぱり違うと思うんですよね。
絶滅の恐怖のほうが深刻だと思います。
ここで母乳がもらえないと自分は絶滅するんだっていう恐怖感
っていうものと戦わなきゃいけないんですよね。
その環境を自分のものとして認識することの大切さ
多分あの係長は私が見た感じ
あの余熱の反応からすると余熱になっているというのを見ると
絶滅の器具をいるあれ死ぬを放り越しているようなものを感じたんですよ。
なぜなのかは知りませんよ。
そういうことって起こるってことなんですよね。
でやっぱりそういう時にはホールズセルフが必要に
心の底からその人のグッドバイブスみたいなのを知ってる人であれば
心の底からこの人の恐怖を取り除いてあげようって思う人もいると思うんだけれども
まあそうは思わない人が大半だと思うので
そういう時は偽りの事故がそこで出てくるわけですね。
そして上手くいくとまた環境都市の母親が明々にとってですね
一人一人その環境の見え方は違うわけだから
明々にとってこのオフィスは自分のために扱えられているんだという感覚を持つことができるんですよ。
赤ちゃんにとってのミルク問題について
そうするとその環境は一つになっていくことができると
そういう話なんだろうなっていうふうに思いますね。
だからその環境を持ってどうやって自分の母親のようだっていうふうに
認識することに持っていけることがすごく大事なんだと思うんですね。
そこを長時間で押してみんなを自分の思い通りに怒鳴りまくって何とかしても
多分環境都市の母親というのはなかなか出現しないし
偽りの事故でとことん対応するっていうのは
必要な場合はやむを得ないというのはその通りだし
現に私だって今だってやってはいるんですけれども
そうでないように持っていく可能性について
いつも考えたのその時その時可能な限り可能にする方法を考える。
可能性空間ってオグデンって人が言う。
これはウィニコットのことをウィニコットの線で書いてある
かなり頑張っていらっしゃる精神分析家なんですけど
多分まだ生きてると思うんですけど
トーマス・オグデンって言うんですよね。
可能性空間っていう言葉をよく言ってるんだけど
すごくそういう感じを今抱くようになりました。
私にとっては可能性空間と言われてもですね
一番パッと思いつくのはやっぱり野球場なんですけどね。
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