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2023-05-26 34:59

【789】対人関係で苦しまないために

対象関係に気がついたら手放す
学問の雰囲気と論の位置
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
今日は5月26日金曜日ですね。
4時50分です。
やっぱり金曜日になると少々テンションが上がっちゃうんですよね。
学校が今日で終わるぜという。
娘はさぞそういうテンションになっていると思うんですけどね。
私がこうなっているぐらいですから。
今もお勉強中ですもんね。
私なんかはもうこれが終わったら二度寝するぞという舐めた感覚なんですけれども。
娘はそうはいかないもんね。
毎朝5時に犯人が起きて弁当なんかを作っていると、
もう本当金曜日が待ち遠しいというのが出てきちゃうんですよ。
特にもう水曜日あたりから。
適面ですよね。水曜、金曜。
また弁当だよみたいな。
でも最近は朝寒くもなければ暗くもないのでだいぶいいんですけれども。
そんなこんなで今週も終わりまして。
台風が来るとか本当にやめてほしいんですけれども台風早いですよね。
そしてまだ苗植えたばっかりでこのタイミングで台風かっていうガーデニングの話なんですけどね。
もうこれはちょっと本当にかなりあれが倒れると悲しいんで。
倒れた後っていうのはやっぱりこう倒れなかった時に比べて順調に行くことがほぼない。
そのまま立ち枯れていくというケースも少なくないので。
体験なんですよ。台風とかこのタイミングで来ちゃうというのはね。
考えもしなかったんで。
考えないことが起きるんですけどね。
今日はですね。もうお知らせとかなしに。
でも6月からも継続してですね。
60分対話をまた再度リリックス開けますんで。
チェックする方はぜひお願いします。
今月もですね。2方ほどいらっしゃったので。
これはやっぱりゼロではない。ゼロにはならないなっていうですね。
またこう私の得意の先細り感というものを勝手に持つという。
これはもう完全にイリュージョンなんだけど。
先細り感を持つのは得意なんで。
そういうものを持たないようにしようと。
平均して数字を探っていくと別に全然先細ってるわけではないんですよ。
なのでまあ60分対話はですね。
1対1になっちゃうんで。
僕は別にそこで何か追い詰めるということは決してしないんですが。
でもやっぱり初対面でしゃべるという。
対面はしないんですけどね。
ズーム対面なんだけど。
でもリアルも来月から取り入れようかなと思ってます。
ただリアルをやる場合は交通費をちょっとお願いすることになると思います。
私住んでるところがやや偏比なんで。
これは前にですね。
だいぶ昔なんですけど私がこの清少というところに引っ越してきたのは神奈川県の一番西の端ですが。
昔ほら、高知の方に話題になったじゃないですか。
まだ東京で消耗しているのっていう割と有名になった炎上消耗的なのがあったんですが。
私あれを読んだ時、いや私東京じゃないもんねって思ったというどうでもいいことを考えたことがあるんですよ。
僕の中途半端さをよく物語るエピソードだと思うんですけど。
東京では消耗してないけど首都圏からは出ないというね。
ギリギリ首都圏には位置づけていてでも東京で消耗してないからねみたいなことを。
その炎上的なブログを読みながらなんとなく自分のポジションに納得するというどうでもいいようなことを。
もう5年くらい前ですけどやったのをなんとなく先日、高知かなるほどなと思って思い出しました。
結局私は四国まで行くとかは思い切れるタイプではないんですよね。
四国は神類演者も誰もおりませんし、行ったこともないんですよね。
私、淡路島まで行ったことあるんですけど、四国に足を踏み入れたことはまだないんですよ。
あの橋を渡り切ってないんでね。
ナルト大橋っていうのかな?わかんないけど。
渡り切るところの直前で戻ってきたんですよ。
わけあってですね。
家族旅行で行ったんですけどね。
四国九州に住むっていうのはちょっとイメージが湧かないんですよね、今のところは。
何しろ住んでる人が知人にいなさすぎるという、そういうことですね。
まあまあそういう感じで今清少におりまして。
ここももう全然東京とは全く全然違う感じの場所です。
東京といっても広いんですけどね。
山梨の接してる方まで行けばここと何ら変わらないんですけど。
そんな感じで。
何の話をしてるのかわかんなくなっちゃいましたけど、お知らせは今言った通りでセッションをやります。
開いておりますということ。
6月、7月も継続してやっていくつもりでおります。
対象関係論の由来と特性
今日は対象関係という話をちょっと対象関係論って言ってるじゃないですか。
私もなんとなく惑然とは専門家でもなんでもないくせにですね。
ここでまず一つ僕が思うのは対象関係論っていう言葉はですね。
メラニー・クライン創始者とされていますけれども、
おおむねイギリスの精神分析の流派みたいな感じなんですよね。
自我心理学っていうのはですね。
アンナ・フロイトの、多分正式のと言っていいのかなと僕は思うんですけど、
後継者である娘のフロイトが、A・フロイトがですね、アメリカで広げた。
だからアメリカでは自我心理学が圧倒的だった時代があり、今でも多分おおむねそうなんじゃないかと。
少なくとも主流は自我心理学だと思うんですね。
まずですね、学と論なんですよ。
これは私は、かじった程度ですけど、大学では割と私の指導教官には叩き込まれたことでして、
学は上ですね。学の方が論より上、確立したという雰囲気があります。
例えば当時、吉野川大学に国際コミュニケーション論というのがあったんですよ。
国際コミュニケーション学とは言わないんですよ。
あれはやっぱり新しい学問というのは、まず論から入るんですね。
こういう仮説どうでしょうみたいな感じ。
シェイクスピアの文学をやるとき、シェイクスピア文学と言っているじゃないですか。
英米文学と言うんですよ。
英米文論とかって言わないんですよね。
あるいは英米文学論とか、そういう言い方あんまりしないですね。
授業を取るときも、なんだか今思ってさっぱりわかんないんですけど、
なんか僕は好きだったんで、ほとんど全部履修してるんですけどね。
英米文学概論とその奥深さ
英米文学概論とかって言うんですよね。
なんかこれ考えてみるとすごい不思議ですよね。
なんて言うんだろう、英米文学概論って何をやるんだろうって感じがするじゃないですか。
しかもそんな講義なんだけど、これ必修だからなんですけど、
これ取らないと他の学科全然取れて、他の科目全然履修できなくなるから、
400人の教室がほぼ満席になるという。
大学ってすごいシステムですよね、考えてみると。
何も当時は考えずに一番端っこの方にいて、
なるべく女の子とおしゃべりをするためにこの頃に陣取ってたんですけど、
今思えばどうやってあそこの教室を英米文学概論で、
しかもすっごい面白い話をしてくれるというわけでもない先生のこれで
いっぱいにしちゃうんだろうなと。
どんなシステムであってもなかなかなことだと思うんですよね。
あれに比べればですね、私がやっている講座はどれをとっても、
あの先生、僕が習った先生よりは面白い話ができてると思うし、
そもそもその先生、声が後ろの方は聞こえなかったんですよ。
ちょっと体も小さくて弱々しい方だったんで、
今思うと後ろの方は聞こえなくてもちろん何の問題もないと、
当時は思って後ろの方に陣取ってたわけだけど、
思えばですね、あれで成立してるのって素晴らしかったなってある意味思うんですよね。
だって先送り防止とかは言わないけど、
もっと訴求する言葉を使いますもんね、マーケティング的にも。
でも400人いっぱいになったなんて経験は私は一回もないです。
私自身のセミナーでってこともそうですけれども、一回もないですよね。
少なくとも一番後ろまで声が届くぐらいの講座はしますけど、
それでもいっぱいにできたことなんて一回もないんで、
やっぱ大学ってのはすごいシステムだなとは思いますよね。
そして来たくて来てる人ってほとんどいないわけじゃないですか。
私なんかも明らかに来る日がゼロぐらいな人が行ってたわけですから。
もちろん大変っていうのも400人の教室でわざわざ出席取らないですけどね、あんまりね。
そういう感じでした。
非常に今はどうなったか分かりませんけれども、ある意味素晴らしいシステムだなと思いますね。
話が全然すぐに脱線してますけど、対象関係論は論なんですよ。
対象関係学というのはまだ僕は見たことがないんですよ。
だからイギリス学科の方はその言葉だけで測るのはナンセンスだと思うんだけど、
そういう対象関係論と自我心理学の間には学者的なものを感じざるを得ないなと、
この言葉を見たときに私は思ったんですよ。
だから対象関係論にものすごく興味が僕は湧いたんですね。
やっぱりそういうのってあるじゃないですか。
例えばうちの学科なんかでも国際コミュニケーション論が一番人気あったんですよ。
人間そういうところってあると思うんですね。
やっぱりまず新しいものにどうしたっていく。
単純にミーハーなところがありますし、ミーハーって久しぶりに使いましたけどね。
もちろんネオフィリックなところもありますし、
何よりも今までシェイクスピアグなんていくら聞いたって無駄だと思ってる人っていっぱいいるわけだから、
全く違った話を聞きたくて、国際コミュニケーション論ってものすごく良さげじゃないですか。
何がどう良さげかはさっぱりわかんないけど、とりあえず良さげじゃないですか。
そういうところって学生の嗅覚ってあるなって思うんですよね。
私は国際コミュニケーション論にはもちろん全く興味が湧かなかったんですよ。
これも私の性格ですね。
当時ほんとすっごい悩んだんですよね。
だって女子大生はゴロゴロ行くんですよ。
もうそれだけでも行くべきだったと思うんだけど、
僕はやっぱりそこのところがすごくエゴイスティックにできているにもかかわらず、
非常にチャラチャラしたいぞっていう意識が強いにもかかわらず、
そこも中途半端で正常に留まるんですよ。
放置までは行けないみたいなね。
とことんやりたいんだけれども、国際コミュニケーション論にはどうしても足がもう拒否するぐらいな感じで、
結局シェイクスピア学とかに行っちゃって、
あんまり最後の最後の方は汚染工でも耐えてるようなぐらいの締めっぽい教室で、
3人ぐらいでね。
何故この大学でシェイクスピアを聞いているのが好きなのかわからないけど聞いてますみたいな学生が。
そしてその他の授業ほとんど履修してないくせに、
シェイクスピアのその部分だけはですね、一生懸命毎回毎回講義に出ているみたいなのが僕なんですね。
何ていうかそういう感じなんだなっていうのを思いますね。
で、内緒関係論なんですけどね。
対人関係の苦しさ
これは対の言葉がやっぱりあると思うんですね。対人関係なんですよ。
で、こうなってくると一気に僕はですね、やっぱり不吉な予感と言いますか、
興味をそそられる不吉な予感と言いますか、
いつもかならサスペンス系ホラーを見たがってしょうがない人が、
なんか公安は一生懸命見るみたいなそういうものを感じるんですね。
対人関係の難しさとか、もう人めんどくさいよねみたいな話はみんなしたことがあると思うんですよ。
人好きな人はともかくとして。
でも結構人好きな人でも実は私は対人関係苦手でとか平気で出てくるんで、
対人関係って本当にこうある種私たちの疑問なんだと思うんですよね。
対人関係抜きで何も回らないじゃないですか。
なのに対人関係というものを私たちは大変苦手とする。
今日もご苦労様ですということなんだけど、8時ですもんね今。
9時になればですね、人との関係がもうわんさか始まりますって方は大勢いらっしゃると。
これを聞いてる方でもですね、8割方そうなんじゃないかっていうくらいなわけです。
私だって今日すでに打ち合わせ2つセッション1つ入る。
これはすべて対人関係ですね。
そして多くの場合私はですね、対人関係対人関係と言ってるものの大半は、
実は対人関係でもなんでもないんだよなと思うことがあるんですよ。
グッドバイブスのイリュージョン
それはまあ言葉が便利だから使うんだけど、グッドバイブスのイリュージョンなんですね。
イリュージョンなんですよ。
私たちがいてにしている人だと思っているものって大体自分の中の空想だったりするんですよ。
これはもうグッドバイブスのお話を伺うまでもなくですね、
みんながこれをやめろって言っているにもかかわらず、
みんながこれをですね、特に苦手だという人ほどやめられないんですよっていう話をされるアレなんですよね。
そいつ今頃ファフェでも食ってるよっていう有名な本が、
有名かわかりませんがベストセラーになった本がありました。
これは言ってるのはまさにそのイリュージョン止めろってただそれを言ってるだけなんですよ。
ひたすらそれを言ってるわけですよ。タイトルもそれを言ってるわけです。
つまりあなたがイメージしてあなたの中であんたはダメだとかクズだとか会社やめちまえとか言って、
まあそう言われなくてもですね、もっとマイルドなんだけど嫌な言葉っていっぱいありますよね。
を言ってるその人は今頃あんたのことは忘れてファフェでも食ってますよっていう本じゃないですか。
あれが爆発的に売れたというのはみんなこれをやめたいと思ってるんだけどやめられない。
イリュージョンだということもわかってるのかな。
イリュージョンだとは思ってるし、いわゆる頭ではわかっているし、
そんなに私のことを相手は深く考えてもいないし、
あんたは人によってはひどいこと言うから生きる価値がないとか言ってきたりするわけじゃないですか。
言ってこないんだけどね。
心の中でお前は生きる価値もないとかって言われてる気がする。
でもその言っているであろう頭の奴はファフェでも食ってる。
まあファフェなんか食ってないんだけど。
ファフェでも食ってるわけですよ。
つまりあんたのことをすっかり忘れているんだよと。
あなただけがそのことでくよくようじうじ悩んでいるんですよということを、
あの本もまた訴えてたわけで。
この種のことはたぶん一丁目一番地ですよね。
自己啓発の特にちょっと人との関係で出てきたら即登場するタイプの本がこれだと思うんですよね。
あなたが思っているほどみんなはあなたに注目していませんし、
あなたをダメ人間だと思って何とかしたいとも思ってませんっていうことをコンコンと説いている。
この本、この種の本はですね、私調べた限り大正時代にすらベストセラーになってるんですよ。
ちょっとタイトル今忘れちゃったんですけど、そういう本があってなるほどなと思った。
ちなみに明治時代には、あのですね、えっとなんだっけ、
孔子園みたいな本がベストセラーになってるんですね。
やっぱり今の時代と何ら変わらないんですよね、ある意味では。
ベストセラーになる本ってのは。
そういう話、つまり、えっとですね、
なぜここで対照関係という言葉が出てくるかというと、
当人と関係ないものを僕らはこねくり回して勝手に苦しむんですよね。
だから自意識過剰ってことを言われるわけですよ。
あれは自意識過剰だとは、やってる人は思ってないんですよね。
私はもうダメなんだろうかとか、会社の人はみんな私お荷物だと思ってるんだろうかとかいうのは、
あたから見ると自意識過剰に見えるわけですよね。
たぶん周りの人はそんなことをいちいちその人に対して思ってない。
パフェでも食いに行くんで、という話なんだけれども、
その人はなぜか自分は注目されているかのように感じているように人から見えるんです。
人から見えるんですよ。
本人は注目されていると思っているというよりは、
いたたまれないと思ってるんだけど、
他人の目には彼、私は私とかですね、
私はよくそういうことを気にやむタイプだったわけですね。
一番最初は少年野球っていうところで、
僕はそれを心の底から嫌だと思った記憶があるんですよ。
一番最初は少年野球じゃないな、もっと前にあったと思うんだけど、
少年野球はよく覚えてるんですよ。大人が混じってくる。
で、やっぱり何やってんだみたいなことを言われると、
いたたまれなくなるわけですよ。
ここで私はでも学んだんですね。
彼らはパフェでも食いにすぐ行っちゃうんですよ。
目で見ててもよくわかるんですね。
私のことは100%忘れてる。
私だけが気に合ってるわけですよ、エラーとかしたことをね。
これが問題なわけじゃないですか。
で、私その時に学びつつあったんだけれども、
体得できなかった。
あの時体得するべきだったと思うんですよね。
要するに、私はよく言われたんですよ、
コーチとかに、お前はすぐ気にしてシュンとなるけど、
その癖やめろと。
すでにそのタイミングで言われてるんですよ。
たぶん私11歳か10歳ですね。
もうこのタイミングで、
そいつは今頃パフェでも食ってるぞって言われてたわけですね。
で、私はその時からもう対象関係になっちゃってたわけですよ。
対人関係ではなくて。
対人関係であれば、
パフェでも食ってるのを見ただけで、
私はもうそのことから解放されていいわけですよ。
人との関係においては、
もうすでに相手の人は、
私のことはどうでもよくなっているわけじゃないですか。
私が尚、攻め立てられてると、
お前あそこでエラーしやがってとか、
攻め立てられてると思ってる、
攻めてきている相手の顔になるものは、
対象なんですよね。
対人ではないわけです。
だから対象関係はやめろっていう話を、
多くの人がするんですね。
対象関係の問題点
なぜなら対人関係を損なうからですよね。
このことにいつまでもやってると、
まず確実に対象になっている人のことが、
嫌いになっていきますよね。
実物よりも嫌いになりますよね、確実に。
だってエラーで攻めてきている回数が、
多くなってるからね、心の中では。
実際に攻められたことは2回なのに、
多分心の中で2000回ぐらい攻められるわけじゃないですか。
だから対象関係は良くないですよっていう話を、
あらゆる人が、
対人関係に関する話を書く、
ほとんど全ての人がこれを言うんですよ、
一丁目一番地で。
ある意味それだけを言っている本も、
少なくないと思うんですよね。
でも我々はそれをやめられませんという、
固くなにかをやめることを拒みですね。
周りの人に何と言われようと、
自意識過剰を貫くと、
メリットはほとんど何もないんだけど、
それをやっちゃうと。
どうしてなのかという話を、
一生懸命ある意味解説しているのが、
対象関係論というものなんだなと。
ざっくりと、いつもと少し違う観点から考えると、
こういう話になっているんだろうと思うんです。
メラニ・クラインが内的世界での物語みたいな話を、
だから彼女はプレイセラピーをやったんですね。
子供に語る物語
物語を子供に語らせるわけです。
子供はそのいわゆる自由連想法という、
父がこうで、母がこうで、どうたらこうたらってことが、
3歳児とかにはできないから、
心の中で起こっている事態を物語として語らせる。
その時、だから3歳でも対象関係は始まっちゃってるわけですよね。
その時子供は、
クマさんがどうしたとか、牛さんがどうしたとか言ってないと、
それはだいたい親なわけですよ。
自分の親だったりするわけですね。
先日読んだ本の中で、
あれはいい絵本だなと、
怪獣たちとの何とかみたいな有名な本があるんですけど、
怪獣が親だったりするわけじゃないですか。
もう既に防衛規制とかも始まるわけですよ。
あるいは、絵本の中では怪獣と踊り始めるみたいな、
一緒にダンスするみたいなのもあるんだけど、
これはもう相的防衛なんですよね、ある種の。
相的に頑張ると。
から元気ですよね。
嫌なことを親にされて、
悪い親が怪獣になっているわけですよ。
でもその親と一緒に踊ることで、
事態を切り抜けようと。
それに心のトラウマというものに至るのを防ごうとするのが、
相的防衛ですよね。
そんなようなやり方を、
既に物語化していくってことを、
クラインは発見したんですね。
メラニン・クラインが発見したんですね。
これは、怪獣完全に対象じゃないですか。
そんな人間はいいませんか。
怪獣じゃないですからね、人間は。
人の怪獣的なところを、
心の中に作り出して、
自分が一緒になって関係していくから、
対象関係なんですよ。
でもこれ、対人関係ですよね。
おそらく大人になってくると、
怪獣になっている部分が、
角の生えた上司みたいになっているわけじゃないですか。
なってないと思うんですけど。
よく漫画家さんが描くんだけど、
ホラーみたいな、
ゾンビみたいな上司みたいなのを描きますよね。
あれも対象関係ですよね。
上司はゾンビじゃないんでね。
上司との対人関係
でももう本当にゾンビみたいなやつで、
とんでもないんだみたいなことを、
言いたいわけですよね。
このゾンビを通して上司を見ると、
上司がゾンビになっちゃうわけですよ。
そしてそのゾンビ化した上司との、
やり取りをするといったところで、
対人関係をやっちゃうから、
だから対人関係を損なうわけですよね。
リアルな上司も問題あるのかもしれないけど、
その1000倍くらい悪い上司と、
関わらなければならなくなるわけですよね。
で、自意識過剰ってのは、
当然のことで、
現実の人間はパフェ食べに行っちゃうんで、
つまり私のことを忘れてしまうんで。
あのセリフ、さっきもちょっとちらっと言いましたけど、
変じゃないですか。
お前は生きてる価値もないとかっていうのを、
しつこく言ってくるっていう。
先日もそういう本を、
東郷市長賞賛の間、
本で読んだんですけどね。
しつこく言ってくる。
生きてる価値がない人間に、
しつこく関わらないですよね、我々は。
もしそういうふうに思う人がいるんだとすれば、
こいつは生きてる、
例えば佐々木は生きてる価値もないとか、
本を読む価値なんか全くないっていうのに、
なんでわざわざ私の本を読むのかってことなんですよ。
そんなことあり得ないですよね。
本なんて読まずに終わる本が、
何万冊、何十万冊、何百万冊とあるんですね。
読む価値がない本をわざわざ読むって、
明らかにおかしいですよ。
だから、私が何とかする価値がないとか、
言われていると思っているという段階で、
それはリアルな人ではない証拠だと思うんですよね。
本気で私のことに何の価値も認められないという人がいるとすれば、
そんな人はいっぱいいるんだけど、
私のことに全く関わらないですよ。
一秒たりとも関係性を持とうとしないと思うんですよね。
価値がないんだから。
そうじゃなくても価値がある人って周りにいっぱいいるわけじゃないですか。
何もわざわざ、本当にそう思ってるわけじゃないんだろうけど、
生きてる価値がないとまで思う人とわざわざ関わる理由って、
全くないはずなんですよ。
なんでそれなのにわざわざそんなことをしつこく、
何百回も言ってくるなんてことが起こるかというと、
それは私の心の中の対象だからこそなんですよね。
私の心の中の対象は私にしか興味がない。
なぜなら私の心の中の対象は私自身だから。
だから私にしか興味ないわけですね。
だから価値が全くないとか言うことを何度も何度も言ってくるという、
極めて変な、極めて変ですよねこれはね。
全く理にかなっていない行動を、
わざわざ何度も何度もとってくるわけです。
それは私だけに興味がある。
そういう理由で私の中で喋ってるんですよ。
それは私なんですよね。
だから対象関係はやっぱりそういう意味でも、
やめましょうって話にはなるわけです。
それ私だからですね。
左手と右手で殴り合いをしているようなものであって、
どう考えても傷つくのは自分の手だけなんですよ。
この種の話も、
いろんなところでいろんな人がいろいろな優れた比喩を使って書いてますが、
それをどこかで納得するしかないと思うんですよね。
納得できる比喩が編み出されたとき、
多分その本はベストセラーになるんでしょう。
そいつ今頃ファフェでも食ってるような、そうであったようにですね。
何かそういう比喩なんですよ。
言ってることは同じなんですよね。
心の中の対象ともてあそんで、
それを対人関係だと思うのをやめましょうねっていう、
言ってしまえば基本はそれっきりのことです。
特に親との関係において、
あなたが多分親だと思っているのは自分のことだと言ってるわけですよね。
親だと思っているのは、特に母親だと思っているのは自分自身のことであって、
現実の母親ではないと。
僕がやっぱり一番古ってるなぁと思ったのがですね、
最近では足成夫さんの辞典なんですよね。
ファンタジーと才能
だってあれはすべてあそこで書かれている母って言ってるのは、
すでに生きていないんだからリアルでないことだけは確実。
漫画なんだからリアルなはずはないんですけど、
全部のコマに登場しているお母さんは対象ですよね。
だって体全身が描かれているシーンもほぼ一つもないですし、
顔ばっかりですよね。
顔が出てくる、唸り声が出てくる、殴ってくる手が出てくる、
そんなのばっかりですよね。
すべてが親がする虐待をしてきた親って言ってるのは親対象ですよね。
ただこれを自分だというふうに捉えるのは、
さすがにああなってくると酷なので酷だし、
そうとは全然思えない人にそんなこと言ってもしょうがないので、
親対象という言い方はするんですが、
リアルな意味での親でないことは100%確実ですね。
だってあの漫画が描かれているときに、
あのお母さんはすでにお亡くなりになっている。
そしてやっぱりここも古ってるなと思ったのが、
作品冒頭でですね、
お母さんはまた復活してくるんじゃないだろうかという、
そういう妄想がなかなか抜けなかったみたいなことを
いや大変だよなと。復活してくるんです。
それは要するに完全にオカルトなんですけど、
対象関係はやっぱりオカルトを生むわけですね。
対象関係なんて、ある意味オカルトみたいなものです。
だってさっきも言いましたが、
親は怪獣になっちゃったりするわけで、
この怪獣と南の国で一緒に踊ったりもするわけですよ。
ある意味ファンタジーなんですよね。
ファンタジーとはおそらくそういうものなんだと思うんですよ。
そういう意味で漫画を自伝の形で描いたとしても、
やっぱりそれはファンタジーなんですよね。
柏さんがものすごいあの人は作品数も多いし、
少女コミックの大化みたいな感じで、
昭和の時代にものすごく有名になっているし、
大体の人が一冊ぐらいは読んだことがあるみたいな、
ある意味だから藤子不二雄さんみたいなところがある人、
子供の人なんですけど、
あの先生のやっぱりあれだけ物語が作れるのはですね、
いかに多くの対照関係を彼女が心の中で繰り返し繰り返し育んできて、
いっぱいそういうものを心に持ってですね、
その対照関係を使って自分の心の中で物語ってきたかということだと思うんですよね。
人はそれを才能と呼ぶんですよ。
僕はやっぱりあれを考えてみると、
才能って本当こういうもんなんだな、
少なくともこれだけでないにせよ、
こういう形の才能っていうのは実によく見かける。
で、よく読むと大人になってですけど、
よく読むと繰り返し繰り返し同じような物語が繰り広げられてますよね。
やっぱりその一つしかある意味ないわけですよ。
彼女にとってのコアは私と母親の関係。
その原点はあの赤犬馬ってやつですね。
キシボジン神話ですよ。
えーと、航空王屋っていう神話ですね。
そういうファンタジーをやっぱり私は子供の時読んだ時は本当怖かったんですけど、
あんなに、今思うと何のリアリティも感じませんが、
あんなにリアリティに欠けるというのは、
彼女の体験というものと彼女が育んできた対象関係というものが
あそこにドーンと反映されているから怖いわけですよ。
つまり彼女にとって親がいかに怖かったかというものを、
他の子にあの漫画を通じて的確に示すことができると。
それが才能なんですよね、やっぱり。
で、これはビオンですけど、クラインじゃないですけど、
対象関係と対人関係
彼は夢というものをそこに考えたわけです。
対象というものを使って人が心の中で物語るということは、
寝てる時はもっとそれが激しく行われるでしょうと。
そして、実は私たちは起きてる時だってほとんどそうやって過ごしていますよと。
これはだからこれを減らしましょうねというのを
自己啓発の人が一生懸命言ってるんだよって話なんですけど、
ビオンが言ったんですよね。
夢を夢見る、夢を見ている夢見る人。
ほとんど完全に寝てるってことですよね、起きてるにもかかわらず。
夢を見ている夢見る人って。
それがつまりビオンの表現したことなんですよね。
そしてそこで例のフロイトに戻って、
大フロイトですよね、ジーク・ムーンとフロイトに戻ってくるわけですよ。
あれは一番最初に夢分析から始めたわけですよね。
精神分析というものは夢を分析するという話から入っているようなところがあるわけです。
これって結局我々は起きていても対象を持て遊んでいて、
それを世界だと思っちゃってるわけですね。
松木さんですよね、クラインの研究者で対象関係の本をいっぱい出されている松木さんが
本の中で書いてたんですけど、
実際にあなただって私だってリアルな現実世界を生きているという風に思っているかもしれないけど、
それはただ自分の内的対象の世界を現実世界でなぞっているだけなのかもしれません。
っていう風に書いているんですよ。
いやー、さらっと書くんですけどね。
そういうことっていうのはいかにもありそうなことなんです。
やっぱりこれは気づいたらやめる。
気づいたらやめるっていうのは繰り返しなんじゃないかなっていう風に思います。
少しだいぶやめられるようになってきた自分が思うのは、
もうこれは根気のなせる、なんていうんですかね。
根気の戦いかなみたいな。
戦いじゃないんだけど、根気がいるようになって感じですよ。
気がついたらやめる。
また対象を人に投影していたと思ったらやめる。
そういうことをずっとやっていくうちに、だんだんこうですね、
対象と対人の区別がつくようになっていて、
そうなってしまえば対人関係が大変とかつらいといったことって急速になくなっていく。
実際のトラブルだけが問題になってくるので、
エラーしたらエラーしたことで怒られる。
でもそれは時間に直せば、たぶん1分とか2分とかなんですよ。
心の中では一歩間違うと100日とかそれで苦しむわけですよ。
だからこの100日の苦しみが1分になるという意味で、
やっぱり楽には圧倒的になれると思うんですよ。
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