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2022-12-05 45:49

【712】マッチ売りの少女は怒っていたのかもしれない

環境としての母親と弁証法的対話について

00:04
おはようございます。みんなのセラピー心理学です。
この名前にしてから3,4回目かな?
2022年のまとめというので、
トータルで聞かれている掃除間はすごく長かったみたいなことが何度も何度も登場させていただいていて、
ありがたいと思いました。どうもありがとうございます。
これを聞いている皆さんですね。
よく続いているなとは自分でも思うんですよね。
明らかにこれが僕、今はもうブログになったんですよね。
ブログはこれになったと言うべきなんだと思います。
よく楽だっていう話があるわけなんですけど、楽な面もありますよね。
つまり、引用をしゃべる時とか、本の紹介をする時なんかも、
いちいち引用文を起こしていくというのに比べれば楽は楽ですね。
一方で、漫画とかになってくると、これ一コマパッと示せば済むのを、
わざわざ説明を、しかも絵もないのにね、
言葉でどんどん一つ一つやっていかなければならないから、手間取るようなというのも当然あります。
なので、どうしてもやっぱりメディアというのはそういうものなんですよね。
一長一短で。だから動画という結論になるんだろうなとは思うんだけど、
動画も多分慣れてないからなんだと思うんですけどね。
僕なんかはすごいめんどくさいなって思うことが少なくないんですよ。
しかも、なぜなのかわからないんだけど、動画ってすごい再生回数を一般的に見かけちゃうじゃないですか。
10万だの、100万だの、100万って探してみるとそんなないですけど、
そういうのばっかり目にするじゃないですか。目にするんですよね。
自分のはポッドキャストより少なかったりすることの方が、一般的には12再生とかになっていて、
これだとポッドキャストの方がいいんじゃないんだろうかと。
よーく考えてみるとですね、聞くっていうのは何やってても聞けるんだけど、
これに画像がついてくるとなると、割と他の作業を中断せねばならんということになります。
が、私その割には動画にする意義って少ないわけですよ。
さっき言った漫画を写真で引用するぐらいにしか役に立たなくて、
それも静止画でいいですよね。この辺だなって思います。
静止画で紹介できるんだけれども音声も作って言うようなのが結論かなっていう。
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紙芝居的な何かですよね。静止画付きラジオみたいな。
この辺がちょっと僕はそういうメディアになると一番いいんじゃないのかな、私にとってはというのを
最近なんとなくですけどね。とりあえず一番近いのは今のところポッドキャストなんだろうと。
2023年はですね、ポッドキャストに気合を入れていこうかなというのはちょっと思っております。
その分、書く量というものはミニマムに減らしてですね。
今細々とやっているスリーカードというのと、
しごたのの連載は毎週というのをなるべく起軸に。
しばしば落としているけれども起軸は毎週というのをやっていこうと。
来年になると少ししごたのも何らかの形で変化を余儀なくされるかもしれないんですが、
その辺はなってみてから考えようと思っていて、
基本はスリーカードとしごたのをベースに。
それだけでもですね、プラスメルマガがなんだかんだで、
そうだな、メルマガ相当のものがなんだかんだで週2本ないし3本なので、
さらに100日チャレンジでコメントを付けさせていただいたり、
最近ちょっと付けられてないんだけど、
グッドバイブスファクトリーの方ね、質問いただければ出すというのもあったりしてですね。
なんだかんだ毎日書いてるんですよね、結局ね。
総文字数でいうと2000文字以上は毎日書いているというのが実情なんで、
これでいいだろうと。
毎日2000文字を書き、ポッドキャスト週に3回出しているというのは、
基本その辺は全部が全部無料ではないし、
スリーカードも月500円とはいえ有料なんですけれども、
でも1本出すことによる収益がすぐに上がってこないという意味では、
書き手側からするとフリーに限りなく近いものなんですよ。
1本8000円とかいただいている連載となってくるとまた別なんですけどね。
そういうことを考えながら今年を漠然と、
それはSpotifyのまとめを見たからこういう意識が入っただけであって、
何かまとめようという気はさらさらないんですけど、
私も今年次レビューとか月次レビューとか一切やる意欲がないんですね。
週次は軽くなめるっていうのはあるんですよ。
日次は明日やることを拾っておくっていうのはやるんだけど、
ほとんど毎日やってることでいいだろうと思ってて、
週のを拾うのは世の中には週次レビューという言葉もあり、
私もそれに散々付き合ってきたので、
週次レビューという名のもとに娘の写真を眺めるという、
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ほとんど趣味みたいな時間はあるんですけどね。
それも毎週毎日やってるお日じゃないんですよ。
それによる不都合って僕には一切感じられなくて、
日次も正直、明日の予定を確認すればこれは程足りてるなっていう感じなんだけど、
そうは言っても日次はやっているぐらいな感じでおります。
僕は記録っていうのは見返したいときに見返せればそれでいいと思うので、
見返したいときは頻繁に見返すんですよね。
それで撮ってあるということが自分にとっては安心材料、
確認できる手段はあるぞみたいなそういう感じが私にとってのレビューなので、
そういう感じで、なんて言うんですかね、
ごくありきたりな生活に入っている感じがいたしますね。
タスクシュートずっとつけてるというのはごくありきたりではないと思うんですけどね。
今日はですね、100日チャレンジでも、
昨日書き上げ塾もあったんですけど、書き上げ塾も来季の募集もまたかけていきますので、
ぜひ今度金風車さんというところから書き上げ塾の塾生の方で本を一冊書き上げて、
かつ金風車というレベルで出したいという方は基本漏れなく出せるというような状況になっておりますので、
そういう体制を概ね確立いたしましたので、
クラスの軽道さんの赤い入れをコラボしながら一冊書き上げると大変レベルは上がって素晴らしいというのと、
それをやりきるのは意外にエネルギーはかかるというのとあってですね、
作り上げれば出せるんだけど、作り上げるのはつらくはないはずなんですけど、
さらっとできるようなものでもないというのはちょっと言っておかなきゃいけないかなとは思うんですけどね、
別に不安になっていただく必要とかは私にとって何もないので、不安になってもらっていいことないですしね、
書き上げ塾というところで書き上げればですね、金粉社レベルでも出せると。
これはすごい僕としてはですね、このほうが世に認知される幅は広がると思うし、
それはミリオンになるとかはないんですけど、認知される幅間違いなく広がると思いますし、
様々な可能性ですけれども、模索できますので、いいんじゃないかなというふうに思ってこの流れを作ってみました。
それで、書き上げ塾でも環境としての母親という話をさせていただいたわけです。
09:10
この概念は、私は最初に目にした時、不運ぐらいだったんですけど、ドナルド・ウィン・ウィニコットもね、
メラニー・クラインの最初は弟子で、後に決裂するんだけど、関係は維持したんじゃないかな、あの二人はと思うんですけどね、
でも弟子ではなくなってしまったという、独立学派というところで、中間学派なんかとも言われるらしいんですけど、
一人としては最高に著名な人じゃないかと、あまり知られてるとも言えませんけれども、その界隈では非常に高名な人でですね、
この人の概念、僕は中心概念の一つだと思うんだけど、
中心概念なんですが、対象関係論と言われる中の中心概念になっていると思いますが、非常に今はこれは自分にとっても一番大事な概念かもしれないと思うようになりました。
こういうことを言っておいて、来年になると全然違うお話を節々としている可能性も少なくはないので、
程々にしたいんだけど、程々にはできないんで。
この概念の何が重要かと言いますとですね、専門用語ばっかりになってしまうんですけどね、こういうところが浦園さんのGood Vibesのいいところで、日常用語でいけるんですよね。
これをどいたきょさんらが目指したんですよね。
甘えとか、自分があるとか言った言葉で、いじけるとか、すねるとか、やきもちを焼くとかね、嫉妬とかって言わないわけですよ。
極力そういうふうにしたいというのを、彼はやった一人の頑張った人なんですね。
多分彼の中では、時々最近言われるようになってきているんだけど、フロイトも実はそうだったと。
例えばなぜナルシシズムというのかというと、あれはドイツでは、なかなかナルキッソスという人、つまりナルシスだけど、
普通にそこら辺で口にされている言葉からの造語なんですよね。
そういうもので極力やるようにした。Sっていうのはそれですからね、日本語で言えばね。
だから、英語とかじゃなかったんですよ。最初はイッヒだったから、私なんですよね。日常用語に近い、というか日常用語ですよね。
こういうものを中心にフロイトは置いているのに、なんか日本語になると長字がだの、Sだの、耳慣れない言葉になってしまうわけですよ。
専門用語で、いどだの、こうあいきだの、意味がわけわかんないじゃないですか。
で、こういうのをなんとか改めるべくドイさんは甘えとか、これは一時ナルシシズムのことだと、結局こういう説明になっちゃってるんですけどね。
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ここが乗り越えられてない感じがしますが、自分があるとか、噛みつくとかね、感情的な意味ですよ。
スネるとか、いじけるとか、邪魔されるとか、甘の弱とかね、こういう言葉で精神病理を解きほぐしていきたいと、多分考えたんですよね。
甘えの構造にはこの種の話が頻繁に出てきています。けどそうなってはいないですよね、今の時代。
そこはまあ乗り越えられてない感じはするんだけど、非常に野心的な試みだったかなという感じを、僕は読んで今もずっと感じていて。
だから環境としての母親とかっていかにもいわゆるタームって感じか、あるいはヤーゴンって感じの言葉だよなとは思います。
思うんだけど大事なんですね。
なぜこのヤーゴン、ヤーゴンっていう言葉、専門用語っていう言葉を言い出したかというと、最近一度も多分言ってないんですけど、環境としての母親というのはですね、
免証法的対話とかっていう言葉と、この免証法的っていうのが大事なポイントなんですよ。
でも僕はこういうのはセミナーとかではさすがに言わない。環境としての母親といった段階ですでに半分以上惹かれていると感じているのに、
ここに免証法とか言い出すのは本当にやりたくないんですよ。やめてほしいと思われるだろうなって思っちゃうんですよね。
でも他の言葉が僕はやっぱり考えつかないし、考えつくだけじゃダメですよね。
それがある程度は説得的でかつ正確じゃないとダメということはあると思うんで、そうするとやっぱり免証法的対話ってことになっちゃうなと。
免証法的っていうのは、僕はこれを説明できる能力はないんですが、哲学用語ですよね。
要は主観と客観というものが攻めにあっているぐらいな感じですよ。
例えば、錯覚ってあるじゃないですか。この2つの線の長さは同じなんだけど、どう見ても下の方が長く見えますっていうのが錯覚ですよね。
で、例えばこれを物差しで測ってみると、これが免証法的対話ってもんだと僕は思うんですね。
主観的には下が長いけど、何らかの形で客観を当ててみようとすると同じであるということを意識させられてくるよねと。
でもその物差しをやめてみると、やっぱり線は下の方が長く見えちゃう。これはもう見えちゃうんだよね、主観としては。
つまり主観的にはこうだけど、客観ってものがそこに入り込んでくると、違った見方も一瞬見えてくるんだけど、でもやっぱり主観としてはこうだと。
15:10
つまり自分が見ている情景というものはですね、今見ている通りではないという現実と、でも今こう見えてしまうという事実と、
その攻め合いがあるんですよということを自分の中で対話するみたいな、会話するそんな感じの免証法的対話とかって言うんだろうと、私は何となく理解しているんですよ。
環境としての母親というのはまさにそういうものなんですよね。
私の母親というものがもちろんいたんですけれども、今もいますけどね、そのお母さんがいろんなことをやってくれているとですね、赤ちゃんだった時代の私は、
まるでこうひねると水道の水が出るように、それは自分にとって万事完璧に都合のいい世界だと思っちゃうわけですよね。
お母さんというのは常に私のことを全部やってくれて当然の存在なんだという感じを抱いてしまうはずなんですよね。
この話をでも客観的に見ると、そんなお母さんを召使いみたいにしてみたいな話ってもう出てくるじゃないですか。
つまり、免証法的には事実とその赤ちゃんに見えている事実と客観的現実というものが攻めにあっている部分があるわけですね。
だから、例えばお母さんを呼んでもいないという時がやがて割とすぐやってくるわけですよ。
で、よくこれもいないっていうのは事実じゃないですか。
でも赤ちゃんはいないということによって初めて、お母さんというのは実は単なる環境じゃないのかもなということに気づくわけですよ。
いることによってその人の存在に気づくというよりは、いないことによってその人の存在に気づくということってあるわけですよ。
この話ってよくやっぱりね、ややジェンダー的な部分でよく出てくるんですよね。
お母さんのありがたみを知りなさいみたいな。
あのドラえもんでもやってましたよね。
ありがたみ知る気みたいなやつで、お母さんとか言いながらボタンを押すとお母さんがいなくなり、
それによってのび太くんは大変困った目に合わされるからお母さんのありがたみがわかるみたいなね。
これが免証法的ってことなんですよ。
だっていないことによってその人の存在に気づくっていうのは非常に逆説的っていうのかな。
パラドキシカルじゃないですか。
僕はフロイトがかなり晩年の方だったと思うんですけど、
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ドイツ語でいうところのいないいないバーを割と重点的に論文で扱っていた時期があったと思うんだけど、
ちょっと言語を忘れちゃいましたけどね。
いないいないバーなんですよ。
それはこういうことを言ってるんだろうなと。
だからフロイトってやっぱり非常に先駆的なんですよね。
ウィニコットの言っている話ってのはいくつか明らかにフロイトよりもはるかに新しいものを言ってるんですが、
やっぱりでもどこかでそれっぽいことはすでに言ってあったりするんですよね。
フロイトっていう人によって。
いないいないバーってのはつまり不在の時に気づいたり、
お母さんが不在になったり、つまりいたりいなかったりするっていうのは赤ちゃんにとってどれほど大事なことかということを意味しているわけですよね。
だからいないことによってその人の存在に気づくし、
いないということがその人が実はいるんだということをいろんな意味で思い知らせてくるっていう現実があるわけだと思うんですね。
この環境としての母親というのはいろんな意味で評判が悪い概念なんだけれども、
でも私たちは仕事をするっていうことによってこれを作り出していることは間違いないと思うんですよ。
例えば私は間違いなく水道って環境としての母親だと思うんですよね。
水道屋さんが女の人か男の人かお母さんかお父さんかというのは問題じゃないですよね。
水道屋さんが水道のすべてを作っているわけでもないですよね。
だから環境としての母親というのはつまり仕事ってことになるんだと思うんですね。
普通私たち成人の大人にとっては。
ただ主観的には例えば水道とかは配管システムから何もかもが一望の下に見えるってことは絶対ないですよね。
水道ぐらいしか見えないですよね。いわゆる蛇口しか見えないですよね。
でも蛇口ってのは明らかに水道のほんの一部でしかないですよね。
目に見える主観的な面としては蛇口しか見えない、水も見えないわけだけれども水道から水を飲むという行為の全域にはどれほど多くのものが客観的事実としてはあるかという話なんですよ。
そしてよく私は言っている通り、実は昔はお母さんが水を持ってきて飲ませてくれたんですよ。当然そうですよね。
どれほど自立性の高い人でも赤ちゃんのときはそうなんですよ。水とすら言えないわけですよ。
だから水道から何もかもからつながってお母さんがコップから、コップじゃなくて哺乳瓶で持ってきて飲ませるといったところまで全部合わせて水を飲むなんですね。
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で私が喉を渇いているっていうこともお母さんが教えてくれたわけですよ。この全域を環境としての母親というわけですね。
当然何も見えませんよね。だから不可視の存在って言うんだけども見えないですよね。
でお母さんだけではないんですよね。背後には配管システムまであるわけですよ。それ全部セットで環境としての母親なわけですね。
だからこの話をことさらジェンダーの部分だけ取り上げるっていうのもなんかちょっと違うわけですよね。
ジェンダーの話には配管システムの話は入ってないじゃないですか。この環境としての母親というのは実はもっと大きいということなんですよ。
例えば私は空気っていうのは絶対こう環境としての母親だと思うんですよね。
もちろん全毛が目に見えるはずはないですよね。これ地球の重力って話とも関係が出てきちゃうんで。
酸素がないとダメなんで酸素だけでもダメなんですよ。酸素だけだと大変なことになるんですね。4分の3が窒素であるってのは大事なんですよ。
だから窒素ってめちゃくちゃ母親なんだけど誰もそんなことは思いませんよね。もちろん不可視だし目に見えないし。
で主観的には空気っていうのは人間ですらないんだけども客観的事実としては全部こう地球の裏側までつながってるわけじゃないですか。
だから弁償法的なわけですよ。
仕事って実は全部そうなんですよ。目に見えている部分しか目には見えないんだけど当たり前なんだけど。
その背景が本当はあってその背景というのはやっぱり背景だけに見えませんけれども攻めにあってるわけですね。
一瞬だけれども我々はそれを見ることはできませんが意識することはできますよね。
その時に例の感謝っていう話が出てくるんだけれども。
私はこの感謝っていうのを何て言うんですかね。
よく3回日に3個のことに感謝しましょうみたいなのってあるじゃないですか。
何を言わんとしているのかわかるんですよ。今言ったような話なんですね。環境としてのお母さんに感謝しなさいねということなんだけど。
でも子供が環境としてのお母さんにいちいち感謝しているというのはどうもいまいちな感じがするんですよね。
なんか好ましくない。精神状態において何か不健全なものを感じるっていうのは
つまりこれは全貌が意識し始めることができて初めてなんとなく感謝の念が湧くぐらいが理想的で
気づかれないというのはそれこそ社会問題的にジェンダー的には気づかれない人に犠牲を強いているという面があるから問題なんだけれども
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それはそれとして解決したほうが良くてですね。
この環境としての母親の話の中にそいつを持ち込んで私犠牲にさせられているわっていうのは
ちょっと話が違う方向に進んでしまってると思うんですね。
環境としての母親だけやってる人っていないんですよ。
だって水は飲みますよね。その時は水道管システムにお世話になっているじゃないですか。
環境としての母親というのは必ず特定の誰かだけがやっているっていうことはありえないんですよね。
全部がつながってるんで極論地球の重力含みの話ですから
それに頼っていないっていうことは人っていないはずなんですよ。この世の中に生きている限りは。
で、タスクシュートの話なんですよ。
この環境としての母親が、タスクシュートの話はもうちょっと先だな。
環境としての母親というものだけに我々は頼って生きていれば十分なんですが
残念ながらそういうふうに生きるわけにはいかない。
我々は環境としての母親から形式上、それは実体としての母親ってこともそうなんだけど
独立しますよね。独立するときにウィニコットが表彰したところだと思うんですけど
独立したとしても環境としての母親には世話になり続ける。
だけどそれはもう実母ではない。
だからつまりいろんな世の中の仕事やら他人やらに頼るという形を取りながら少しずつですね
ある環境から異なる環境へと移っていく。
移っていくこの過程を移行期間とかって言ったりするんですね。
あるいはその移っていくときに世話になる空間を移行的空間とかって言ったりするんですよ。
とにかくそのときに大事になってくるのが移行対象とかいうもので
母親じゃない対象を母親代わりにするっていう時期が来るわけです。
例えば学校の先生がそうですね。保健室の先生とかもそうだったりしますね。
地域のおじいさんおばあさんみたいなのもそうだったりしますね。
移行期間というものがあり、移行対象というものがあるわけです。
そういう時に自分が肌身を離さず、人によるけど一緒にいたぬいぐるみとかタオルというものが
さっき言いましてね、不在の母親の代わりにぬいぐるみがそこに置いてあるわけですよ。
不在の母親の代わりにいてくれる存在というものが必要なんですね。
これが移行対象と名付けられたわけです。
27:03
全くこの移行対象というのも日常用語とはかけ離れていますよね。
今日も環境としての母親でしょ、便称法的対話でしょ、移行対象でしょ。
嫌がられますよね、ミニゴッドとか。
そりゃそうだろうなとは思うんだけど、でもこれは大事なことを書いてあるなとはつくづく思うんですよ。
この途中で人は傷つくんですよ、やっぱりね。
環境としての母親とべったりであれば最高なんだけれども、何しろ相手は不可視ときてますからね。
自分だけで生きていけるような感じがする。
実は他人に100%依存している。最高なんだけど。
私も自分の今の人生考えてみると、よーく考えてみるとほとんど変わらないんですけど、
その100%が93%ぐらいになったという程度だという感じがするんですけどね。
でも、たとえ1%でもいなくなると傷つく。だって赤ちゃんってお母さんがいないことに気づくと泣くじゃないですか。
これがミニコットに言わせると傷つきの始まりなわけです。
この傷ついたときにですね、環境としての母親がいれば万能です。
万能じゃなければ死んじゃいますからね、はっきり言って。
赤ちゃんなんてそれぐらい首すら自分で立たないんだから、ほんと何もできませんからね。
だから泣くのは当然ですよね。大変なことが起きましたと。お母さんがいませんと。
でもお母さんにしてみればですよ、
それはずっと四六時中ぴったり一緒にいることはできないわけだから、
しばらくはテレビ見ててよと。テレビの意味がわかんなくてもテレビ見ててよと。
ETVですよね。教育テレビをかけておくわけですよ。
そしてワンワンとかコドちゃんとか、今知らんけど、違う人かもしれませんけどね、出てきてくれるわけですよね。
あるいはアンパンマンとかを、最初は意味わからんからね、見たところで全然喜びませんけれども、
とにかくそういう意向対象なんですよ、これに任せておくと。
これは別に決して客観的には悪いことではありませんが、
主観的に赤ちゃんから見ると体操悪いことです。体操悪いことです。
俺を殺す気かと言っているようなところがあります。
ここで赤ちゃんは、と考えたのが多分暗いんだと思うんだけどね、
誰かこう言ってしまっていいのかわかんないけど、でもこういうことだと思うんですよね。
対象としての母親というものを作り出す、あるいは見つけ出すんですよ。
この作り出すあるいは見つけ出すっていうのがまさに弁償法的的なんですよね。
作ってるわけじゃないんですよ、赤ちゃんは。でも、もちろんですよね。
つまり実体としての母親というのはこういう形で現れてくるわけですよ。
30:03
本当のお母さんというのかな、人間としてのお母さんというのはですね、
環境としての母親じゃなくてですね、目に見える、環境としての母親は不可視なんで、見えないんで。
目に見えるお母さんが登場すると。ここに頼るようになると。
いなくなったりするから、いなくなったりするんだったらですね、
他のものに頼らなければいけないと赤ちゃんは思っちゃうわけですよね。
これは誤解なんですけどね。ここで万能な対象というものを作り出すんですよ、赤ちゃんとしては。
赤ちゃんはお母さんというものが外からやってきたのか、自分の心からやってきたのかわかりませんから、
自分が作ったと思っても別に不思議ではないわけですね。
この万能なお母さんは万能なんで、お母さんがいなくなったとか、なんか嫌なことが起こったのに放置されていると、
すぐにミルクが出てこないとか、いろんな事態を何とかしてくれる万能な錯覚なんですよ。
錯覚というのかな、万能な存在なんですよ。
お母さんが実際に何をするかというと、よしよしとか言うとかそういうことなんですよ。
でもそういうことによって言ってみればごまかされちゃうわけですよね、赤ちゃんは。
こういうことを僕らはやるわけじゃないですか。
話をこの赤ちゃんの時代から今の時代に戻すとですね、今の話は非常に僕らが普通に頻繁にやることだということがよくわかると思うんですよ。
なんか現実に嫌なことが起きましたと。
例えば、彼氏にメール出したんだけど帰ってきませんと。
これさっきのいないいないばそっくりですよね。
メールが不在なわけですよ。既読にもならない。未読のまま放置されている。
まさに赤ちゃんからすると放置なわけですよ。
私を殺す気ですかと。恋愛ではさすがにそこまで言うことはありえないと思うので、
私のことはもうどうでもいいのかと。
この時に我々は万能な何かに頼り出すわけですよね。
例えば、YouTubeとか。
それの何が万能なのかはちょっとよく私にはわからないんですけれども、不思議なんですよ。
ああいう時って。万能だと思えるんですよね。
Twitterとか、友達に電話して文句をいっぱい言うとか、万能な感じがするんですよ。
つまりその不在を埋めてくれるツールなんですね。
これも昨日書き上げ塾で面白かったのが、
倉園さんはこの時パチンコに行ったらしいんですよね。昔の話ですけどね。
パチンコってどこがどう万能なのかって思うんだけど、
間違いなく昨日倉園さんに話していただいたエピソードを聞くと、
これは万能なツールとして使われたんだなと思うんですよね。
私はファン座なんですけどね。
33:00
あれの何が万能なのかと思われそうですよね。
私も思いますよ。今見てない時ならね。
でも例えば原稿が書けないとか、それこそこのポッドキャストのネタが浮かばないとか、
会心のポッドキャスト、会心の敵の何か岡野淳さんが漫画で書いてたかな。
とにかく会心のポッドキャストを喋ったつもりなのに、
再生回数が36とかで止まってるとかなると、
現実に拒否された感じがするんですよね。
これが悪いおっぱいって、違うな、これが不罪なんですね。
母親が不罪だと。許せないんですよ。
母親が不罪なのは赤ちゃんからすればよ。
自分をごまかすための万能なツール。
本当にごまかすんですけれども、万能感があるんですよね。
マッチューリの状態って私は今名付けるように頑張ってるんですよね。
これ対象としての母親って言うんだけど、マッチューリの少女なんですよ。
だってあれマッチスって自分を慰めてるじゃないですか。
なんか炎の中から優しそうな家族が現れて、
ご馳走がいっぱいテーブルに乗ってました。
あんな夢を夜の雪の降ってる中で見るほど危険なことはないじゃないですか。
でもあれは何か万能な感じがしますよね。
あそこに逃げ込めば、この辛い現実から回避することができる。
たぶん、倉園さんが昔見たパチンコの光景と、
私が今でも見ちゃうファン座の光景と、
マッチューリの少女が見ているご馳走の光景は、
同じような意味を持つんだろうと思うんですね。
これが、対象としての母親と言うんですね。
ですら環境としての母親が機能しなくなったという恐怖から逃れるために、
あるいは環境としての母親が機能してくれないという怒りを何とかするために、
ここに逃げるというか、ここに行くわけですよ。
ここに逃げるんだよな、そういうイリュージョンを作り出すわけですね。
そして、何とか乗り切れるであろうと言ったことになるわけです。
で、乗り切れないわけですよね。乗り切れなくなって、
現実はまた戻ってくる。現実ですからね。
その時、環境としてのお母さんが戻ってきてくれればいいんだけど、
マッチョリの症状みたいに戻ってきてくれない場合は、
またそっちへ行くしかないと。
だからマッチョをすりまくるという事態が発生するわけですね。
アルコールを飲みまくるとかね。そういう事態が発生するわけですよ。
で、昨日もここの話のところで、
私がした話と倉園さんがした話は異なる話をしたんだけど、
36:04
今日ですね、たまたまこの話を朝寝ぼけながら考えていて、
不意にこの環境としての母親というものは、
発見するものでもあり、同時に自分が作り出すものでもある
という弁償法的対話。
僕はその意味はある程度は掴んでいるつもりだったんですけど、
不意にその瞬間というものに立ち会ったんですね。
立ち会ったというか目撃したんですよ。
いや、こういう事って時々あるんですよ。皆さんも絶対あります。
とにかく目撃したんですよ。
鍋に用意されていたスープがあってですね、
このスープは娘のために妻が作っておいてくれたスープなんですけど、
不意にスープは他者だというのが見えたんですよ。
この光景自体は知覚だから、知覚というのは私の脳の中に、
脳の中にというのも変だけど、脳の活動の結果としてあるものなので、
白いスープで、
ソーセージが浮かんでいるんですけどね、
それを見て、見たというのは私なんですよ。
私自身でしかないわけですよ。
これがつまり主観なんですよね。
だけどこれは、
妻だっていうことが、
不意に半分眠かったからだと思うんですけど、浮かんできたんですよ。
私では絶対同じようには作れないから。
同じようなものは作れますが、同じには作れないから。
妻の方が上手いんでね。
これは妻だっていうのがパッと浮かんだんですよね。
本当にパッと浮かんだんですよ。知覚のように。
これが弁償法的対話なんですね。
客観的現実としてはそうですよね。
ここに他者がいるんですよ。
時間差はありますよ。
今そこには妻はいません。
さっきのですよ。不在なんですよ。
でも作った時には確かにいたんですよ。
これを抑鬱ポジションとか歴史的ポジションって言うんですね。
繋がってるわけです。
これが繋がりが欠けると断片的になってしまって、
ただのスープがそこにあるだけなんですよ。
赤ちゃんがそうしているように、私もですね。
あ、スープがある。
ラッキーぐらいな感じで飲むわけですよね。
あるいは用意すると。
そこは当たり前なんだけど、
でもそこには他者がいるんですよ。
そこそこ手間暇かけて、夜遅く用意した他者がいるんですよ。
そういう他者というものがいるっていうのを
実感できたほうがいいんですね。
実感できればできるほど、人は幸せになれると思うんですよ。
どんだけの他者というものが
周りで自分のために働いてくれているかとか。
ここでお金ってことが出てくると思うんだけど、
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お金ってのは、その全域に払うものではないですよね。
しかも事後的に払われるものだし、
しかもこの場合払われてもいないケースもいっぱいあるわけですよ。
環境としての母親というのは、
だからジェンダーとか社会問題として出てくるんですけれども、
それよりもまず、この文脈ではね、
精神分析的な文脈では、
他者だっていうのがものすごく大事なわけです。
最初からそうでしたよね。
赤ちゃんはお水を飲ませてもらう、他者から。
他者は常にそこにあるわけですよね。
いるって言ったほうがいいのかな。
この他者性っていうものが実感できるとき、
私たちはですね、私と環境としての母親というのは、
完全に一体だという感覚というのがパッとそこに現れてですね、
主観一辺等の世界というものから出ることができるんですね。
これで僕らは多分生きているんだろうと思うんです。
実際そうなんだけどね。
実際そうやって生きてるんだけれども、
そのことを知覚はできませんよ。
知覚というのはそういう機能を持たないので、
知覚はできないんですけど、
直感はできるんですよね。
あるいは実感はできるんです。
この実感ができたときに、
なんとなくありがたい感じがまでくればですね、
さっきの万能なツールに、
というかツールの万能感に行かずに済むんですよね。
ツールの万能感に行くときというのは、
この免証法的対話がなくなっているんですよ。
全部主観になっちゃっているわけです。
万能感というのはつまり、
自己都合100%という意味ですから、
マッチュリの少女には気の毒なんだけど、
彼女をかわいそうですからね。
でも結局、温かい家族とたくさんのご馳走って
自己都合じゃないですか。100%。
自分にとって最高の世界がそこにあるってわけですよね。
家族というのは必ずしも、
彼女のためだけに100%存在しているわけではないですよね。
でもツールの万能感に私たちが頼りたくなるときは、
まさにそうなんですよ。
僕がよく話題にするファン座の動画ってそうじゃないですか。
完全にユーザー都合ですよね。
よくそれも問題になるじゃないですか。
人を物扱いしているって言うでしょ。
そういうことなんですよ。
ツールの万能感というものは。
結局タスクシュートの話にならなかったんですけど、
最後の締めでパッと言うんですけど、
タスクシュートっていうのは、
一番上手く理想的に使えているときは他者なんですよ。
僕の場合は大橋哲夫さんがそこにいるわけですよね。
42:04
これが一瞬にせよ実感できるときっていうのはしばしばあって、
大橋さんにとってどうかっていうのはちょっとこれあるんだけどね。
現在使っているタスクシュートクラウドだとJ松崎さんは、
彼はいろいろ随所に出ている感は出してくる方なんで、
出てくるんだけども、
これが全く同じツールでありながら、
一番ダメなときっていうのはですね、
万能なツールになっちゃうんですよ。
このタスクシュートクラウドをやってれば、
自分の人生は安泰だとか、
自分がやりたいことは全部やれるんだという感じ。
これって自己都合なんですよ。
主観でしょ。
そういうことってありえないわけですよ。
だからマッチすっているのと変わらないものになってしまうんですよね。
つまりそういうふうなものとして、
タスクシュートに僕が相対しているときって、
現実は一向に進まないんですね。
夢見ているのと全く夢というか、
幻覚にうなされているのとほぼ変わらない状態なので。
で、一番うまくいったときっていうのは、
そこに他者が現れるんです。
だってこれは僕が全く作るという意味では、
1ミリも作ってはいないものだから。
こういう瞬間があるんですよね。
その他者が不意に現れると、
そこに他者性が実感できるというときがあるわけです。
環境としての母親に他者性を実感できるという。
そういう状態っていうのが、
ずっと続くと、
過不足なくというのかな。
非常にある種幸せに生きられます。
でも面白いことに、
この環境としての母親というのは、
これもウィニコットが繰り返し強調した通り、
グッドイナフなんですよ。
パーフェクトじゃないにもかかわらず、
これが一番理想的な状態だと、
やっぱり私も感じるんですよね。
昨日はそういう話じゃない話を書き上げ塾でしたんだけど、
グラゾンさんは今私が言ったような話よりも、
環境としての母親側の
凄さとか良さみたいなものについて語られてたんですけど、
今日の朝になってですね、
私はそういう感じを不意に
一瞬というか二瞬ぐらい得たんですよね。
二瞬ぐらいでもう十分なんですよ。
一日はもう十分やっていけるレベルになるんですよね。
他者性というものをそこに実感できると。
見えるというのは言い過ぎなんだけど、
見えるような感じがするぐらいなんですよね。
こういう時にハンザーとかの
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あるいはマッチみたいな万能ツールというものが
一切いらない感じがするんです。
もともとあれはそれによって仕事は進まないんでね、
いらないんだけど、
いる感じがしちゃうんですよね。
それがなくなってしまう。
これとそれを比較する対象ではないんですね。
ここにもう一つ、昨日確かにグラゾンさんがそういえば
言っちゃった、怒りっていうテーマが
もう一つ厄介な問題としてかかってくるんですけど、
途中話しましたけど、
今日はもうこれぐらいで切り上げますが、
赤ちゃんはお母さんの環境性としての母親が
機能しなくなると怒ると。
怒るから万能ツールに行くと。
あるいはマッチ売りの症状も起こってたのかもしれない。
まあ起こって当然ですよね。
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