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2023-05-23 43:51

【787】100日チャレンジ編 ストレスゼロを目指す

ストレスの作り手は自分かもしれない
100日チャレンジ第4期
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
5月23日の7時49分ですね。
いきなり寒くなって、昨日ははっきり言って暑くてですね、
この撮ってる場所がだいたい安定してきているんですよ。
つまり同じ場所で撮ってると、暑い寒いが適面で、
今日ぐらい差があるとですけどね、
昨日はもう氷で冷やしながらやってたんですね。
そうしないと、この空間で喋ってるうちに熱中症になって、
頭がぼーっとしてわけわかんなくなっていくんですね。
今日はもう冬の、冬ではないんだけど、
3月ぐらいに来てたやつを着込んで、
氷をつけるなんてとんでもねえという状態で、
ストーブをつけるっていうんでもないしね、
非常に中途半端な感じもあるんですけど、
ちょうどいいとも言えるんですけどね。
着込んで収録中と。
これ着込んでやってるとそのうち暑くなって脱ぎたくなる気もするんですけど、
そのぐらいのラインですね。
でも昨日よりは一段と寒い感じはします。
はい、なんとなくこれを自己の挨拶代わりに
僕はただしてるだけなんじゃないかと思うんですけれども、
時間が足りないとはいえ、
いきなり本体からズバッと入れるかっていうと
そういうもんでもないですよね。
誰かに向かって喋ってるつもりでいるので、
いきなり話し出すと変じゃないですか。
今日100日チャレンジ編ですね。
J.Matsuzakiさんとやっている。
先週はリセッターリストの方をゲストにご紹介した、
ゲストにお招きしたやつです。
山本香里さんをゲストにお話ししたのが
前回の100日チャレンジ編。
今回は私一人で喋ってます。
またちょっとゲストの方を呼んでもいいのかなと思っているんですけれども。
はい、えーとですね。
J.M.ですが、
100日チャレンジ第4期現在募集中です。
で、もしかするともう満席近いかなと思って
そろそろ急いでいただけるとありがたいんですけど。
100日チャレンジ第4期スタートは6月3日。
来週の土曜日ですよね、多分。
そう、来週の土曜日なんですよ。
でもこの時にはキックオフが始まってしまうので、
その前に、5月中ぐらいですよね。
お申し込みいただければと思うんですけど。
5月28日の日曜日ですね。
J.M.さんと100日チャレンジ第4期の説明会をやり、
おそらくここで満席になってしまうと思います。
現在の流れからいきますと。
なので、5月の28日までには、
遅くとも5月の8日中にはお申し込みいただいた方が、
6月からの第4期をスタートさせたいといった方には
よろしいのではないかと思います。
これはですね、もう私の読書会とかとは違って、
当日ドタ参加とかは多分締め切られてしまってますからね。
満席ですから、ぜひ少なくとも今週中ですね。
今週中がよろしいのではないかと思います。
運動によるストレス解消の効果
で、100日チャレンジ編ですね。
今日は、タスクですね。
100日チャレンジ編だから。
ストレス解消のタスクというものを
できればゼロにするというのをちょっとお伝えしたいかなと思うんですね。
これもまたね、難しくて、
ストレス解消でコーヒーとか飲むのがダメなんですかと言われると、
全然ダメではないんですよ、これは。
ただ、今日のお話は、
それをやることでストレスの解消にならないのではないかということを
一応考えております。
ストレス解消にならないのではないかということを
一応チェックされた方がいいということと、
ならないのにそれが習慣になるとするのは、
するとどうしてなのかというお話をまずしていきたいんですね。
コーヒーを今さらっと言いましたけれども、
運動にしましょうか。
ストレス解消のために運動しています。
これはもう、21世紀の日本では、
これを否定する人はもう、
あり得ないですよね、これを否定するというのは。
ありとあらゆる方面から見て、
これは良いことだということにほぼなっていますし、
別に悪いことだというわけではないんだけど、
運動することはいいと思うんですよ。
ストレスを解消することもいいと思うんですよ。
ストレスの解消のために運動するというのは、
私はどうかなと思うんですね。
まず運動ってかなり時間がかかりますから、
これはシュート編だから言っていることですけれども、
別に運動にいくら時間をかけても構わないんだけど、
多分運動というものを削ると、
これを聞いている方の多くが望む結果は得られる。
つまり時間は浮くでしょう、結構ね。
ストレスの解消になるならでも、
別にそれにかける時間はいいと思うんですよ。
なるのかどうかというところが問題ですね。
なった気はすると思うんですよね。
なぜなった気がするんだろうということなんですね。
私これですね、実はこれを聞いている方は
納得はされないとは思うんですけどね、やっぱり。
でもよくよく考えてみてほしいんですよ。
ストレス解消に運動がなるのはですね、
運動がストレス解消になると信じているからだとしか
私には思えないんですね。
いろんな説明が他のありますよね。
脳から出る神経伝達物質とか、
なんならば汗が出ると、
心拍数が上がる、
その時に脳から出ると、
心拍数が上がる、
その時に、気状って言葉がやっぱり一番
僕は妥当だと思うんですけど、気状が分かりにくいのならば、
そのプロセスがあるわけですね。
プロセスって言った方が分かりやすくなるのかは疑問ですけどね。
要は体内の運動を始めたことに伴う動きがあるわけですよね。
動きは明らかにあるんですよ。
体を動かすということによって起きる動きがあります。
血流が速くなり、筋肉の温度が上がり、
燃焼が始まり、始まらないんですけどね。
20分くらい経たないと。
燃焼が起こり、脂肪の燃焼ですね。
それにその前に筋肉を動かすための神経伝達物質の
かなり急速な変更が起こります。
とうとう起こるんですけど、動向も開きますし、
それらがストレスを解消していると、
ストレス解消の文化的影響
私には言えないんじゃないかなって気がするんですよ。
多少は物質の動きに変化があるわけだから、
その流れの中でストレスが解消されると思うんですけど、
一番でかいのはストレスっていうのは気分なんで、
これによって解消されるんだと。
そしてそれは文化が、文化がですよ。間違いなく文化がです。
憲法は保証してませんからね、そういうこと。
運動すればストレスが解消される、102条とか書いてるわけじゃないんで、
これは文化なんですよ。
どんな場合でもそれが、なんていうんですかね、
その言葉が信じられるか信じられないかの言葉について、
しかもそれが命令とかでない以上は文化だと思うんです。
まあ命令だって文化ですけど。
文化がそれを保証してくれてる気がするんですよ。
だからこれは誰かが誰かの言葉を信じてるってことですよ。
私たちが、それらの人が言ってる言葉を信じてる。
スマートニュースとかね、ライフハッカーとか、
どっかで読んだんですよ。
それが信用できるリソースかどうかってよく言う話も、
今はあんまり出ないのかな、
インターネットのエビデンスとかって言うじゃないですか。
でもエビデンスっていうものも、
人がつけてるんですよ。
しかも私たちそれ確認しないケースが多いですよね。
そのエビデンスは本当に、
米国の健康保険センターの論文に7つぐらいあがって、
しかもその7つの論文が、
例えばAPAから認証されているのかいないのかとか、
調べないと思うんですよ、私は。
調べるべきだって言う人はいますけどね。
多分調べないですよ、そんなもの。
すっごい手間ですし、
そして調べると分かるんだけど、
調べると完璧に保証されている事象って、
この世にほとんど何もないんだってことに気づくだけなんですよ。
話が一気にこみってきたのでやめますが、
要はストレスが運動によって解消されているのかどうかということを
調べるのだって一筋縄では行かないということです。
運動するよりずっと時間かかっちゃいますね。
でも僕らは、
それを信じるということは結構容易くやるんですね。
宛になりそうなリソースだとか、
例えば日経新聞に書いてありましたみたいな、
そのぐらいの感覚で信用するってことは容易にできるんです。
そしてここに大事なポイントがあって、
信用するとストレスっていうのは、
これによって解消されますよっていうのを信用するだけで
解消されるものなんですよ。
この効果の方が圧倒的に大きいんです。
だからみんなが好きなもので解消されるっていう風に書いてあったら
飛ぶようにその製品入れます。
そういう現象はいくらでも起こります。
例えばちょっと前に流行った小松菜ってやつがあるんだけど、
小松菜を食べると若返りになってストレスも解消されますって言ったら
小松菜消えますからね、スーパーから。
僕は小松菜を分け合って常駐しなければならない事情があるんで、
ほぼ3日に1回は買いに行ってるんですけど、
あの種の話が大手の新聞とかテレビでやると
小松菜消えますよ。
特にある種の小松菜は消えるんですよ。
そういうのは毎日買ってる人間、ほぼ毎日買ってる人間には分かるんですね。
例えば納豆のダイエットの効果があるっていうのを
今一番大きなワイドショーでやってくれればですね、
納豆消えますからね。
特に一番安い納豆はパチパチ消えますね。
うちの地元とかスーパー少ないんでそういう効果が絶大に起こるんです。
絶大に起こりやすいんですよ。
あとはみんなのリソースがテレビですから。
高齢者の街ってそうなんですよ。
リソースの大半がテレビなんで。
で、スーパーはやっぱり高齢者が常に来るスーパーの地域ってのはですね、
仕入れの数がかなりピチッとしてるんで、
つまり絶対普通の買い方ならなくならないだろうっていう数字で読んでるんで、
飛ぶように売れるとあっという間になくなっちゃうんですよ。
先日卵が高くなったっていうニュースがあったじゃないですか。
そしたら卵一番安くこの地域で売ってるスーパーから卵消えましたからね。
こういうことってあっという間に起こるから、
ある意味すごく効果が測定しやすいですよね。
つまり文化が決めるんですよ。
文化による解消法の差異
ストレスをどうやって解消するかってことがね。
そしてその文化によってそれを信じた人のストレスはなんと消えてしまうんですね。
僕はこれがストレスの最大の特徴の一つだなと思ってます。
つまりストレスが何かがストレスになる、
そのストレスを消す、あるいは維持する、残してしまうっていうのを
決めてるのは自分だってことですね。
ただ自分なんだけど、ここに大事なカラクリがあって、
文化なんですよ。
自分がその文化からのメッセージを信じるか信じないかを決める。
だいたいテレビを見るか見ないかを決めてるのも自分ですから、
自分なんだけど、
自分が決めてる気がしないのは、それを人に決めてもらってるからなんですよ。
自分で本当のところを運動すれば自分のストレスは消えるんだと
確証することができれば、
ここに結局さっきのエビデンス問題が戻ってくるんですけど、
どうやって確証するのかっていうと、
多分私たちは受けてきた教育の影響もあって、
科学的に言えば、
例えば結局心拍数を測ってみたり、アプローチとかで、
あるいは熱を測ってみたり、結局測り出すじゃないですか。
それって測ることによって分かるぞってことを信じてるってことなんですよ。
どこまで行ってもこのパターンから逃れにくいんですね。
このパターンから私は逃れたいなと思ったので、
測りすぎって本も今あるんですけどね、
そういう本を読んでるんですけどね、
この本を読んでるんですけど、
やめると言うことを考えたんですね。
で、止めるということを考えるとやることが一個しかないんですよ。
ストレスの自力消去について
自力でストレスを消せるかどうか。
僕そうやって測ってみたり、
辞めるということを考えると、やることは一個しかないですよね。
自力でストレスを消せるかどうか、極力外部のものに頼らないで消せるかどうかをやってみようということになってしまうんですよ。
で、多くの人はこれを全然受け入れられないということになりやすいんですね。
どうしてかというと、そういう話は文化からは全然やってこないんですよ。
自力でストレスを消しましょうというのを日経新聞で書いてあるのを見たことがある人はほとんどいないと思いますよ。
理由は簡単で、それをみんながやっても誰も儲からないからですね。
これはすっごい大事なポイントですよね。
この国は資本主義なんで、コーヒーだといえばコーヒーが売れ、運動だといえば、
しかも運動というのは何もしなくてもできるんだけど、
大概の場合、運動というのはシューズを買ったり、ジャケットを買ったりすることになっているんですよ。
だから運動というのは儲かるんですね、ある種の人たちからすれば。
小松菜はもちろん儲かりますよね。
そんなに儲からないような気もするんだけど、納豆だって儲かるし、つまり何でもいいんだけど、
文化からのメッセージというのは、誰かが儲かるようになっているんですよ、何らかの形で。
私はこの日経新聞でも書いたことがありますし、ライフハッカーでも記事を書いたことがあるのでよく分かるんですよ。
そういうことと何の関係もなければないほど、記事の依頼はやってこないということがあるんですね。
テレビはマシテアです。影響力が大きいし、動くお金も大きいから、
そういうものと無関係に報道でしたり、記事にしたりするのは不可能だとは言わないけど至って困難だと思います。
だから一番最も絶対に誰も儲からないであろう、何にもしないということほど人々は進めてこないわけですよ。
誰も言わないもの、誰も文化からのメッセージを受け取らないものは信用できないんですね。
僕はこれがエビデンスということの実は正体なんだろうと思います。
誰も何にも権威ある筋からやってこないメッセージを信じることはできないんですね。
だから私がこんなところでストレスを解消するために何もしなければいいとか言っても誰も信じちゃくないわけですよ。
これは儲からなくてもできるメディアだから発信することができるんだけれども、
このポッドキャストは聞いている人の数からしても心の底から資本主義的な価値、つまりお金の価値によって我々は生を営んでいると信じている人には
時々このポッドキャストを私が750回以上も無益にやっているという、無益って言いますかね、
無収入でやっている。これ自体無収入になっていないわけですから。
これが有形無形で私の仕事を支えてくれているという事実はあるんですけど、
信じることの重要性について
でも直接的な収益をこれによって得たことがない。
これで750回やっているというのは嫌な顔をする方もいらっしゃいますよ。
本気でこの価値を信じている方には私のやっていることそれ自体がアンチ提前みたいに感じられるんだろうと思いますね。
そういうことはあると思う。
あると思うんですが、多分僕が発している一つの理由はですね、
100日チャレンジの方は私とJさんのサービスに参加いただいているわけだから、
やっぱり私としてはですね、一番効果のある話をしたいというのは一応あるんです。
一応というのは、一応という必要はないんだけどあるんですよ。
コーヒーで解消できるなら、私もコーヒーめちゃくちゃ好きなんで、
是非コーヒーで解消したいところなんだけど、コーヒーじゃ解消できないんですよ。
この話を次にはしますね。
コーヒーで解消したい、あるいは運動で解消したい、何でもいいんですけど、
それはつまりそれらの言葉を信じているからなんですけれども、
信じるってものすごく大きいんですよ。
この話、皆さんプラシーボで知っているんだけど、どうしてもどこか心の底では信じきれていないところがあるんですよ。
それは信じることでストレスを解消できるということは、
自分がストレスをコントロールできるんだってことにほぼ等しいじゃないですか。
信じる信じないは心の中で決めることができますから。
心の中で決めることができる、左右することができる、
それによってストレス自体をなくしたりもできるんですけどね。
なくしたりできるということになってくると、
結局自分次第で決めることができちゃう。
ここを信じていないのに、外部のものがストレスを消さないと言われると、
大変なことになっちゃうんですよ。
じゃあそれストレスでどうにもならないじゃんってことになっちゃうわけですよ。
ストレスっていうのは内面の徹底次第でなくすことがおそらくできると私は思うんですね。
そのすごく大きな、それこそエビデンスに近い話だと僕は思うんだけど、がプラシーボだと思っているんですよ。
プラシーボで病気の大半は治るとまでは言わないけど、でも治るケースはあると思うんですけどね。
大いに状態を改善したりできるって話は、医療的にはエビデンスを得てるんですよ、それこそね。
だから例えば何の効果もない注射でも、これは効きますと、かかりつけの医者が、その医者を信じている患者さんが言って打ってもらうと、
多分ケイトの病気なら治っちゃうんですよね。
これはつまり薬が入ってないんだからその注射には、薬が治してるわけじゃないわけじゃん。
注射が治してるのかというとそんなこともないわけですよ。
それこそ非常に極端な例で、全然信用できない訳の分からない人がですね、いきなりブスッと張り刺しても、多分その人治んないですよね。
注射が治すわけじゃないわけです。
薬が治したわけではない、薬が入ってないんだから。
医療とプラシーボの関係について
何が治すのかというと、自分がそれを治すと信じているから治すんですよ。
これが危うく聞こえるんだと思うんだけど、私たちはこれでほとんどの病気を治しているはずなんですね。
この話を戸畑さんが、戸畑海斗さんが、例えばのの医者を笑うの中で、台湾では注射を打たないと病気が治んないという事象を取り上げている。
今もそうかもしれませんよ。
昔そうだったことは十分あり得ると思うんですね。
注射が治すとみんなが信じているから、注射を打たないと病気治んないんですよ。
同じ薬を飲めば治るのに、飲んだだけじゃ治んないとみんなが思っている間は治んないんですよ。
こういうことは現にいくらでもあるんですね。
だから、どんなにこれが危ういと思っていたとしても、事実は多分こっちなんだと。
薬なきゃ治んない病気もありますよ。そういうものもあるんですけれども、治んない状態もあります。
が、大抵の場合は治ると思うかどうかっていうのがすごく大事なの。
特に健康な人の場合はそうです。
だから、この種のことを信じないというのは危険なんですね。
自分を健康でなくするっていう問題もここに絡んでくるんですね。
余談をやってるから時間が経つんだけど、余談ですがうちの母はめちゃくちゃ健康なんですよ。
僕は見ていて思うんですけど、その最大の秘訣は自分は健康だと信じて疑わないんです。
先日、もう後期高齢者ですからね。後期高齢者なのにインフルエンザにかかったんですよ。
結構問題でしょ。それで亡くなっちゃうという方もいらっしゃるんですからね。
で、うちの母はインフルエンザにかかったらしいと。ここからが古ってるんですよ。
だから、うちの父に風邪薬買ってきてくれと。
ここがうちの母の知識が非常に不足している。風邪薬は効果しないんですよ、インフルエンザには。
しかもなんかうちの親父は適当な人間なんで、後期高齢者なんですけどね、父もね。
薬局行ってきて適当な薬を買ってくるんですよ。信じられないですよね。
インフルエンザにかかってるのに適当な薬を買ってくるってどういう発想なのかなと思うんですけど。
その適当な薬を飲んだ母は治っちゃうんですよ、これが。
これはですね、つまりうちの母はインフルエンザだろうとなんだろうと風邪薬で風邪は治ると信じているんですよ。
そうするとあんな80近い人の免疫機能がが全機能して治してしまうんですよね。
これができないからあれですよ、重症化していくんですけれども。
だからやってることは怪しいし危なかしいんだけれども、でも治っちゃったわけですよ。
こういうことを可能にできるのが私たちのクラシーボってものだと思うんですよね。
うちの母はそもそも風邪薬も滅多に飲みませんからね。
ほとんどの場合、病気にならないんですけどね。
ほとんどの場合はそうやって病気にもならないですし、本人は。
その割に医者にはきちっと行くんですけどね。
とても僕はあの辺が不思議なんですよね。
だいたいあの種の人は医者に行かないんだけど、うちの母は医者には行くんですよ。
この辺が非常に不思議だなとは思うんですけどね。
だからつまり医者に行ったからインフルエンザだってわかったわけですからね。
そこから先の展開がおかしいんですけどね。
直してしまうんですよね。
で、今言ったようなことがあります。
ストレスなどというのはまさに今言ったようなパターンです。
ある意味軽度の風邪みたいな、まあそういう言い方はダメだな。
でもまあそういう言い方ができるようなものだと思うんですけどね。
風邪の方が重いと思う。
ましてインフルエンザですね。
で、今のようなことがあるから、
私たちは危ういとか怪しいというよりも、
そもそもどうして外部のものが治すと信じているのかの方が
よっぽど怪しいんじゃないかという風に考えてみる必要はあると思うんです。
そういう風に考えてみないと、
今のような事例って訳のわからん事例になってしまうだけじゃないですか。
結局風邪薬がインフルエンザ治したのか。
そんなはず絶対ないですよね。
ウイルスには効かないんですから風邪薬やカッコン等みたいなのはね。
全然効かないですよ。
インフルエンザウイルスを倒すみたいな意味では。
多くのあれが誤解されているように、
ウイルスは菌ですらないんで、
いわゆる菌を殺す薬飲んだって効かない。
だから怖いんですからね、ある意味はね。
そうじゃなければ今回のコロナ騒動って一切ないじゃないですか。
カッコン等飲めば治ることになってしまう。
治んないですよね、カッコン等では。
結局自分の免疫機能を起動させて、
それによってウイルスをやっつけてもらうか、
でなければそのウイルスに効く薬というやつを飲むかのどっちかなんですよ。
その薬がないから免疫機能で倒せる人はコロナで死ぬことはないし、
ウイルスと薬の誤解
そうじゃない人は大変なことになってしまう。
だけれども今比較的最近の方のやつは、
いわゆるオミクロンという株の方はそんなに強くはなかったから、
あんまりそんなに怖いことにはならないんだけど、
時流行ったデルタの方は厳しかったから厳しいことになっていて、
みんながもっと警戒していたわけじゃないですか。
この話はつまり最後の最後になって、
いきなり外部のものに頼れない時どうするんだって時に、
我々はみんな世界中で騒いだわけですよね。
でも多くの人は実際は死んでないわけですよ、かかったとしてもね。
結局はその危ういと言っている自分の内部の力で直しているわけじゃない。
こっちの方が僕はいざという時そっちに頼るくせに、
最初ストレスとかすごく軽度の時にはですね、
やれコーヒーとかになってしまうのはおかしいとむしろ思うんですよ。
その方がよっぽど危ういやり方を実はしているんじゃないかと思うんですよね。
そういういざという時にすごく難しい問題が起きた時には、
全く普段頼りにならないとか再現性がないとか
エビデンスがどうのって言っている方の力に頼っているのに、
つまり内部の方に頼っているのに、あるいはプラシーボに頼っているのに、
プラシーボ大きいんで、なのにもかかわらず、
外部と内部への信頼
致命的じゃない時にはですね、外部のものにやから頼るようになって、
自分の内面というのは頼りにならないと信じているんですよね。
この信じていく方向に向かっていくっていうのが危ういっていうか、
リスクの高いことをむしろやっている感じはします。
これは要するにまとめると非常に簡単な話なんですよ。
私たちはいざとなったら、内部の力にしか頼れないことが多いってことです。
それは多くの場合より深刻なケースが多いんです。
我々は深刻じゃない時には、内部の力なんて全く頼りにならないと信じて、
コーヒーとか、聞くのか聞かないのかわからないようなものに頼りに
頼ろうとするんですよ。コーヒーとか、軽めの運動とか。
実際、コロナが深刻になってですね、
もう今は去っちゃったけど、デルタ株みたいな時に、
軽めの運動で治しましょうって言ってる人は誰もいなかったじゃないですか。
そんなものでは治らないんですよね。
なのにどうして、通常のもっと遥かに深刻度が足りない時にはですね、
自分の内部の力ではどうにもならないストレスを運動で何とかすることができる、
と信じちゃうのかと。
それは、僕はですね、えらい怪しげな方法論だなっていう感じを抱くんですよ。
もう一つが、ストレスというものはそもそもどうして得られるのかと。
これもいろんな説があるし、いろんな理由があるんですけど、
私はここまで行ってきたので、もうこれ一択だと信じているし、
今それ一択だと信じて困っていることは何もないんですが、
要するに自分で自分に対して作るものなんですよ。
これもさっきの文化の話と似ていまして、
私たちはそうは思っていないので、外部からストレスをもたらされるものだと信じているんです。
これ100日チャレンジ編ですから、一番いい例だとして、
割り込みの連続だというふうに僕は一例挙げておきたいですね。
割り込みの連続はストレスにはならないはずなんですよ。
これがですね、まず聞いていて一番釈然としない人は、
多分一番ストレスになるであろう割り込みを今、頭の中で想像されたと思うんですね。
例えば、全くやる意味が感じられない仕事を全く好きになれない人から、
ほとんど嫌がらせのように割り込みされたケースを考えた人は、
絶対にストレスというのは外からもたらされるものだと思っていると思うんですね。
ただ、依頼というものを持ち込んでくる。
依頼というのはコントロールできるものではありませんから、
依頼を持ち込んでくる人がこの世で最も好きな人か嫌いな人かは、
実は選択できないはずですよね。
そのタイミングに関しても、これも選択できないからこそ、
皆さん割り込みと命名されているはずですよね。
そして、その内容もまた選択できるはずはないんですよ。
相手が望むことですからね、割り込みというのは。
つまり、頭の中で一番嫌いな人が最悪のタイミングで最もひどいものを持ち込んできたと考えるのは、
それは恣意的な選択なんですよ。
これはとてもストレスというものを考える上で、欠かせない要素だと思うんですね。
ずるい例だとは思うんですけど、これが例えば割り込んできたのが、
昔から好きだった人が今できればこの仕事やりたくないなという仕事をしている最中に、
つまりこの仕事から逃げたいなと思っている最中に、
一番好きな異性から、どうせでもいいんだけど、
何か仕事とも言えないようなことをちょろっと頼まれたという場合、
多分ストレスには全くならないんですね。
でもこれは割り込みのはずなんですよ。
だとは思うんですよ。
ただそれを頭の中でそうは思い描かなかったというだけの話で。
だから、頭の中でそれを描かなかったということは、
頭の中で描いた内容次第でストレスになるかどうかは決定されるということになるじゃないですか。
それって、自分で自分のストレスをどうするかを決めているのとほとんど変わらないと思うんです。
これは、割り込みはいけないものだと思っているほど、
割り込みのストレスについて
ストレスになるはずだというふうに多分なると思うんですよね。
良い割り込みがあって、悪い割り込みがあるということですよ。
でもそんなものはないんです。
そもそも良いか悪いかというのが自分の心の中でかなりの部分を決定している以上ですね。
良いか悪いかという話をするんだったら、
全部良い割り込みということにしてしまった方がストレスにならないはずなんですよ。
ここがずるいと思われるのはですね、さっきの文化の話と似てるんですよね。
良いと決めることはできるはずなんですよ。
できるはずなんだけど、できないと信じている。
そして、どっちにしても割り込みというのはコントロールができないんだから、
つまりそうじゃなければ割り込みという理由がないわけですからね。
コントロールはできないんだから、良いか悪いかを自分で決定できるならば、
全部良いと決定する方が良いに決まってるじゃないですか。
それをしないということはですね、悪い割り込みがあるとか、
この割り込みは悪かったとか、悪い割り込みばっかりだと決めることの方が自分は好きだと言っているのに等しいわけですよ。
ストレスをたとえ増やすということになったとしてもですね、
これは私が最近は特に気をつけてはいることなんですけど、
一番最初に先日調べてみたんですけどね、
この辺のことを一生懸命書いていたのは2013年の頃だったんですね。
震災があってちょっと経った頃だと思います。
2013年4年かな。
なんでかというと震災があったからなんですね、私の経験。
つまり震災というのはもちろん外からもたらされたものであって、最悪であって、
そして多くの人にとって、あの当時すごく言われてたんですよ、ストレスになったんですね。
でも私が気にしたことは違うところにありました。
あの時ね、すごく見ていて感じたことがあるんですよ。
人によってストレスの受け方が全く違う。
それは受けた震災の被害に比例していなかったんですよ。
すごい私はそれがやっぱり気になったんですよね。
震災のストレスについて
ひどい目に遭うからひどいストレスになるというふうに言えるほど、
整合性が取れないケースが結構世の中にはあるんだなと。
例えば私のいとこなんですよ。
震度7のところにいて、家は潰れちゃったし、
すっごくたくさんの災害を見て、見てその中を逃げてきた人なんですよ。
全然ストレスを得てないんですよ、彼は。
そういう人ではあるんですけどね、全然なんですよ。
僕よりもなんてことないっていう顔をしてたんですよ。
そういう人だったんですよ、僕のいとこはね。
もともとちょっとそういうふうに、この辺が人に非難されるレベルでそういう人なんですよ。
震度7強とかっていう、それはどういうものなのかもう僕には分からないですけど、
実は私の実家なんですね。
その人は実家のすぐそばに住んでいて、本当に実家のすぐそばのお立て小屋みたいな家に、
そういうこと苦にしない人だから住んでて、潰れちゃったんですよね、事実上。
もうよく生きてたねっていう話なんだけど、
彼はですね、危なかったとは言うんだけど、全然危なかった感じでもないんですよ。
彼を見てですね、ストレスってのは人がその程度も含めて、
全部自分の心の中で決めるものなんだと思ったし、確信したんですね。
僕の方が全然彼よりもストレスを受けてました。
僕なんか渋谷で震災にあったんで、絶対に彼なんかより、
彼はもう宮城県にいたんですから、津波も見たしね、
全然何のトラウマもないんですよ、彼には。
今もごく平穏に暮らしてます。
本当にね、そういうところってのは信用ならないなと。
トラウマになる説とか全く信用ならないなと。
あれより僕は土盤の中であの被災した人って知らないんですよ。
もう一個もろともお亡くなりになってても全然不思議のない場所です。
陸前高田とかよりも危険な場所にいた。
だから友達とかでもね、亡くなったのかはわかりませんけど、
災害を受けて大変だったとか、
彼の奥さんの実家の方はやっぱり家なくなっちゃったんで、
一家揃って静岡に引っ越したとかも大変だったわけですよ。
ただ彼は全然ケロッとしていた。
それによって財産の大半も失った。
財産自体が極めて貧弱な財産の人ではありますが、
全然ケロッとしていて、
ごく当たり前のようにして今も同じような地域で
ダンボール工場で働いているんですよ。
私はやっぱりですね、
人のストレスというものは、
その人の心が自分で決定しているとみなさざるを得ない。
そうは我々は思わないところがたくさんあるんだけど、
ああいう事例を目の前で見せつけられるとですね、
彼は友達を助けるために、
なんと陸前高田の方に登って行ったんですよね。
こっちから見ると。
屋上して行ったんですよ。
その行動も謎ですけれどもね。
でもやっぱりそういう人なんですよね。
その辺のところを全部見てもですね、
ある事柄が外からもたらされると信じることほど
嘘くさいことはないと思うんですよ。
そしたら同じような目にあっている人は、
みんな同じようにストレスを抱えないと、
同じレベルで同じ強度でストレスを抱えないと、
おかしいじゃないですか。
彼はそういう事例に、
特殊な人だったら済ますんでしょうけど、
人はね、
全然何の説明にもなってないと思うんですよ、そんなのは。
で、そうして悪いことがないですよね、一番のポイントは。
そうであって悪いことは彼にとっては全然ない。
あれね、ところ相応のストレスを受けるべきだった理由とかは
一個もないんですよ。
そうしないで済むならば、みんなそうしたくないと思うんですね。
で、彼はそうしたくないからなのかは知りませんけれども、
実際にはそうはならなかったんですよ。
全然平然としていられたわけですね。
他、彼がそんなに悟りきった人だとか、
そういうわけではないと思ってます。
すごく言いかけなところもあるし、
よく人に怒られてる人でもありますからね。
ただ、ああいうのを見て、
人の強さというのは全然計り知れないところもあるし、
そもそも私たちが体験する割り込みとかによってですね、
得るストレスというものはですね、
多分外からもたらされてはいないんだろうというふうに
やっぱり思わざるを得なかったんですね。
だから私は2013年4年の頃に一生懸命その辺のことをですね、
ストレスを抱えない人の特徴とは
自分で模索しながら書いてた気がするんですよ。
これをやる気になるとかやる気になるタスクですね。
タスクをする気がするとかしないとか、
このタスクは重荷だとかそうでないとか、
前向きになれるとかならないとかは、
全然タスクそのものとは関係がない。
この話でよく私が持ち出すのは、
仕事の野橋裕三さんがですね、
筆記として確定申告の書類とかを
書類は揃えないんだけど、データの整備をすると。
多くの人があれをストレスだと言うんですけども、
そうではない、全然そうではないという人も実際にいるんですね。
これも外部と、つまりタスクの質や性質というものと、
その人が受けるストレスとの間に相関関係がないということを意味していると思う。
それは彼が得意だからだろうと言われるんだけど、
ストレスを消す方法とは
得意だけで言うならば、私自身もそう別に苦手ではないし、
得意な人は他にもいっぱいいるんだけど、
得意な人でも全然やる気がしないって人もいっぱいいるんですよ。
だからこれは得て不得てでは説明できないと思うんですね。
大体私のいとこだって別に大震災に被災するのが得意だったわけじゃないんですよ。
得意不得意は関係ないと思うんですよね、こういう事柄に。
で、やっぱり何が決め手になるかっていうと、
それはストレスになると信じているかそうでないかが決め手になるとしか思えない。
だからコーヒーじゃ効かないんですよ。
信じているかどうかが全てなのに、
飲む飲み物がそれに影響を与え得るとしても、
そんなものは微量だとは思いません。
信じているかどうかが全てだったとするならば、
そのストレスを消せるかどうかをやっぱり信じるかどうかが全てだと思うんですね。
その時にサウナに入るとか、コーヒー飲むとか、
ストレスを消さずに溜め込む危険性
あるいはハーブティーにしておくとかは関係ないと思うんですよ、この場合。
そして関係ないことをずっとやっていて、
ストレスをそのままずっと抱えたままにしておくと、
消せるはずなのにコーヒーでも消せないとか、
ハーブティーにしてみたんだけどやっぱり消えないとかやることをしていると、
無気力になっていくじゃないですか。
あれですよ、犬の無気力実験と同じで、
電流流されてどうやってもその電流逃れられないとなると、
犬はもう逃れるようという気がしなくなると、
ストレスも僕は同じだと思うんですよね。
そこが今回の言っている話のポイントなんですよ。
タスクの内容次第によっては、私たちはストレスを決めないんですよ。
あくまでもタスクを見た時に、
それによってストレスを得るか得ないかを決めるんですよ。
そして、得てしまったとしても、
消すか消さないかを決めればいい話なのに、
ストレスはそのままにしておいて、
サウナに行ってみたり、コーヒー飲んでみたりすることによって、
体調を動かしていってしまって、
体調を崩したりするんだと僕は思っているんですね。
だから何にもしないというのは、人に勧めにくいんですけどね。
とってもストレスがあるのに何もしないというのは、
海外の人は嫌だと思うから。
それは私たちが文化に刷り込まれたから。
何かしなければストレス消えないというふうに刷り込まれたから。
でもいざ精子を沸かすような病気の時には、
結局のところ何かをするというのは役に立たないので、
そういうことをして何とかしようというのは、
すっごく信用ならないなとは思うんですけどね。
これが今日の100日チャレンジの皆さんにお話ししたいことなんですよ。
タスクであってもなくてもいいんです。
要は何かをしようといった時にですね、
それがそもそもストレスを消すための行為になってないかどうかですね。
で、その時に本当にそれで消えるのかという、
100日チャレンジに参加している方には、
私はいつも真逆のことを言うけど、
皆さんはおそらく時間貴重だと信じているじゃないですか。
その貴重な時間をわざわざ使って、
ストレス消せもしない行動に本当に投入してていいんだろうか
タスクを見極めストレスを消す方法
っていうのが一つですね。
もう一つは、何もしなければ実は消せるんだけれども、
そのストレス、私が信じているところではですね。
何もしなくてもストレスが消せるとするならば、
そもそも何で得ちゃったのかってことですね。
何もしなくてもストレス消せるというのは、
消そうというふうに消せると信じていれば消えるんですよ。
ってことはタスクをやる直前だって同じじゃないですか。
それが確定申告の嫌なのだろうと、
割り込みをしてきた嫌な上司からの
役にも立たない仕事であろうと、
同じなんだと僕は思うんですよ。
そのタスクをやることによって
得るであろうストレスというのを得ないことにしてしまえば、
ストレスなくなってしまうんだと思うんですよね。
そのタスクを実行するあっても。
自分はそういうふうに信じてやっているので、
実質的にはどういうタイミングで何が持ち込まれても、
そのことそれ自体はストレスには全くならないし、
だからタスクをするということ、
それ自体は苦にはならないんですよ。
まして、そのタスクによって得るストレスを
何か解消するためのタスクとか行動っていうものはないんですよ。
多少は蓄積されるものはありますよね、1日にたって。
でもそれは寝て起きれば消えてしまうんですよ、本当に。
寝て起きれば確実に消えているものなんですよね。
無駄なタスクを減らし時間の使い方を見直す
これで十分なんじゃないかと思うんです。
このサイクルであればですね、
時間が足りなくなるってことは起こらないはずで、
もしそれで時間が足りなくなるということが起こっているとするならば、
たった一つしかもはや理由はなくなるんで、
つまりやろうとしていることの数がただ多すぎるだけってことになるんで、
それはもう減らすか、そのまま時間の足りないまま
毎日を送っていくかのどっちか、この二択になるんですよね。
またそれがストレスになるって言われるかもしれませんけど、
それはストレスにはならないんですよ。
今日言ったような理由でですね。
43:51

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