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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
色々とお伝えしたいことはありますが、話を一つに絞ろうと思っていましてね。
そうしないと、あちこち拡散しているうちによくわからん話になって、これは実はテイク3だったりするんですよ。
これもしかすると、月曜日の難しさってやつなのかなと思います。土日休みますからね。
こういう話をしているうちによくわからなくなって、拡散してテイク4とかになっていく恐れがあるので、いい加減にしておきたいところなんですが。
嫉妬っていうやつがあるじゃないですか。
最近、だいぶ昔、嫉妬と煽謀という、これは私の概念じゃ全然なくて、メラニー・クラインという有名な精神分析家の考え方なんだけれども、
嫉妬と煽謀、戸畑海人さんが妬みとソネみという言い方に置き換えられていましたけれども、
妬みとソネみと言われてみても、どう違うんだか厳密にはよくわからないなって思うんですね。
そのどう違うかがわかんないより以前に、私にはこの感情は希薄なんですよ。
はっきり言ってかなり希薄な気がします。
それは私の心が不健全に働かないせいなのか、ある種、ここの部分だけ成熟しているからなのかがよくわからないんですけれどもね。
嫉妬ってイマイチしないんですよね。
ですが最近ですね、グッドバイブスでファクトリーというコミュニティの中に入っていただくと見られるんですけど、
倉園さんがYouTubeで発信しているファクトリー・カインだけが見られる中に、嫉妬がテーマになったのが出てきて、
僕は嫉妬はしないんだけど、この問題と無縁ではないなっていう問題を動画で見ていて、非常に考えたんですよね。
私は嫉妬そのものの感情ってない。ないとは言わないけれどもないに等しい。
小説とかドラマとか見たり読んだりしていて、非常に嫉妬っていうのはこういう状況に対する感情なんだなっていうのがわかるんですが、
わかるわけですよ。別にそこに三角関係とかがあればですね。
あるいは自分より常に先んじている人間に対して、同性でも異性であってもいいんですけれども、
引きずり下ろしたいという感情がないんですよね。
よく言っても悪く言っても同じなんだけど、諦めがいいんですね私はね。
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わずか先へ行こうが、大きく先へ行こうが、先へ行っている人が先に行っていることについて腹は立たないんですよ。
より前に出たいとは全く思わないんですね。
これは全く思わないというのはですね、むしろネガティブなんですよね。
できれば勝ちたくないなという感情はどこかで感じるんですけど、
何が何でも勝ちたいという感情は僕の中には滅多に起こらないんですよね。
よくも悪く思っていたのは今のような理由でして、
よくも悪く思っていたのは今のような理由でして、
要するに負けず嫌いというのはわからなくはないんですけど、
実はよくわかっていないんですね、感情としては。
頭ではわかるってやつなんですよ、これは。
あまりにもこの種のことがあまりよく言われない時もあるので、
つまり負けず嫌いという性格はこういう世の中で勝っていくにはダメだと言われることがあるので、
負けて悔しいふりをするというのを身につけた時期はあったんですよね。
結構少年時代なんですよ。
だけど本当に悔しいかと言われると、
そういう時先生とかに言われると怖いじゃないですか。
負けて悔しくないのかと言って、後で張ったおされたりもする時代でしたから、
かなり悔しいという演技ができるようになっていたんですけど、
実は全く悔しくないなというのがあったんですね。
あるんですね。
これはですね、その訓練のせいでその後そうなっちゃったのか、
それとも何の関係もなく元々そうであるのか知らないんですけれども、
例えば異性を同じ、ある女性を私と別の男の人が好きになったと、
絶対私はどうでもよくなってしまう気がするんですよ。
私すごい彼女が欲しいと言っていた時に、
人の彼女が欲しいと思ったことは一回もないんですね。
私はあの感情があまりにもわからないために、
嫉妬しないことについて怒られるということが何回かあったんですよね。
付き合っている女性とかから。
非常に百全としなくて、なんで私が嫉妬せねばならんのだろうという、
これも結局その演技が身についちゃったんですよね。
悔しがっているとか腹を立てている演技。
ところがこれは子供の時のようには有効に発揮せず、
演技して嫉妬したはしたで、嫉妬しないでくれみたいなことを言われて、
どうすりゃいいんだこれっていう、
これはですね、僕を結構悩ませることになったんですよね。
その後、人間関係ってややこしいなって思ったのの一つがこれなんですよ。
内心での嫉妬心はゼロなのに、
嫉妬心がゼロであることは怒られる。
嫉妬すればしたで怒られる。
どっちにしてもひどく百全としないわけですよね。
感情についてありもしない感情があるふりをするってのは、
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そんなに容易なことじゃないんですよ。
そしてメリット何にもないじゃないですか。
やっている人間にしてみれば。
あなたがそれほどそれを望むからこんなに頑張って、
こういう感情をこしらえてみたのに、
それについて文句を言われるのは、
なんてことだって感じがしちゃうわけですよね。
これでも少なからずあるんですよね、私の人生ではね。
負けず嫌いも同じですよね。
負けて全く悔しくないのに、
やむを得ず悔しいふりをするとか。
でも人間関係にはそういうのってあるじゃないですか。
私、人に説得されたふりっていうのは、
本当に上手くなってしまったところがあって、
上手いために見破られる。
相手の能力が高いとそういうことが起こるんですけれども、
そうは言っても困るなという。
つまり人が、私なんかの商売でもそうですけど、
人を説得する商売っていうのは、
そういうところがあるんですよ。
私が言うといいよと言っても、
この人内心ではあんまり信じてないなと。
これイリュージョンもあるんで非常にややこしいんですけれども、
内心ではまだ十分納得してないなというときに、
かぶせていってしまうんですよね。
良さをくどくど説明すると。
でもこれは、
ふと出る面と、生徒出る面とあるんで、
なんとも言えず、
良い塩梅っていうんですかね。
見当たらないんですよ、実際のところ。
ただ少し言うといいよと言って、
十分伝わっているのに、
あまり良い反応がないけれども、
実は十分伝わっている人っていて、
そういう人に無駄にかぶせるのは、
明らかに余計なことだし、
逆に非常に上手い人もいるんですよね。
本当にぜひ一度試してみたいと思いますとか言って、
3秒後には忘れるくらいな能力を持っている人もいて、
非常に難しい。
私も反対側だと、
すぐこれをやってしまうんですよ。
相手にすぐ迎合して、
迎合ってことになるんだろうな。
非常に上手く説得された、
フリをしちゃうんですよね。
しかも一部抵抗をするっていうのも、
タイミングを見計らって、
でもこういうのがちょっと引っかかるんですよねとかって、
言ってみてて、
医者とかにもやっちゃうんですよね。
病院通いすごい多かったから、
歯とかの話でも十分納得してるんだけれども、
ここで簡単に納得すると、
良くないかなと思って、
本当にイリュージョンなんですよね。
いろんなことをやってしまうんですよ。
相手が説得したいという気持ちが、
感じられれば感じられるほど、
相手の満足に、
僕の気持ちを調整させていこうとして、
しかもこれをやってる時ってのはもう、
ある程度本気でやってるせいで、
本当にそこまでやらないといけない。
そう思ってくるんで、
本当なのか嘘なのかも、
よくわからなくなってくる時もあるわけです。
これが嫉妬の問題には、
僕には常に付きまとっていると。
つまり本当はゼロなんですよ。
これがですね、
誰にも信じてもらえないということは、
嫉妬という感情はよっぽど一般的かつ、
強烈なものなんだなっていうのは、
わかるんですよね。
あんな彼になったトルストイの、
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あれ読んだ時、
あれまさに嫉妬の物語なんですけど、
非常に優れた作品だと思うんですけど、
実はあれ、
よく僕にはよくわかってないんですよね。
一番最大の問題は、
あんなに嫉妬する男の気持ちが、
全然理解できないという、
だからトルストイは、
念入りにあんなの素晴らしさを、
非常によくかけてると思います。
確かに、あんな彼になっている女性は、
本で読んだ中で、
一番魅力的だなとは思うんですけど、
全然わかんないんですよね。
夫の気持ちっていうのが、
若い男にとられる、
というのが何かって思っちゃうんですよ。
だってあの男、
撮っていく男は、
なっきり言って、
ろくでもないやつですけれども、
十分魅力的だろうと。
自分があの立場にいたら、
当然諦める、
結局僕の場合そうなってしまうんですね。
当然諦めるに限りなく近いんですよね。
これが自分の娘の場合どうかな、
っていうのがあるんだけれども、
でもやっぱり、
踏ん切りがつかない、
難しいんです。
そういうところはあります。
そんな僕の個人的な心理は、
とりあえずいったんどうでもいいとして、
とはいえ、
嫉妬はないんですけれども、
この問題は僕に無縁ではないと思うのが、
あるうまくいっている人のやり方を
踏襲できるかどうか、
ということと、
踏襲するのはどうか、
という問題と、
それに対してフラット化、
これが一番、
クレゾンさんがウッドバイブスで
言っている部分だと思うんですが、
それに対してフラット化という問題、
私はそんなにいずれにしても、
強い情緒を持っていない、
というのは確かなんですね。
今のだと分かりにくいので、
具体的な話をしますと、
例えば、私の本、
50の方法、
先送りする人が、
何たらかんたら50の方法、
タイトルをすぐ言えない、
というのも問題だけれども、
あの本売れたんですよ。
本が売れると、
ついづいする本がバカバカ出てきて、
一度娘に教えられたことがあるんですよ。
これね、そっくりのがね、
50万部出たよ、と。
本当にね、
どうかと思うよね、
という話を聞いた時、
同調しちゃったんですよね、ついで。
本当にどうかと思うよ、と。
実はどうとも思っていないんですよね。
こういうの娘にバレるんですよね、
この時にすぐバレるんで、
黙ってますけどね、娘も今では。
あの、
こういう時に考えるんですよね。
確かに私は、
こういう真似をしたくない、
と思っているところはある。
けれども、
実際にこれをされて、
腹を立っているわけではないし、
えっと、
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ある意味、出版業界で
これをやるのは当然だという気はする。
これ、線引きも難しいんですよ。
昔、チーズはどこへ消えたって
有名な本があるじゃないですか。
あれのですね、
バックリボンだと思うんですけども、
これ言っちゃいけないのかもしれませんけどね。
バターはどこへ消えたっていう。
溶けたって、本が出た時に。
訴えたか、訴えられないか。
僕はこれは、
本屋さんに行くと、
いくらやってもいいとしか思えないような事例で、
満ち溢れているから、
私、知り合いの、編集さんの
さらにその知り合いという人に
直に聞いたことがあるんですよ。
その方は、
堂々と公言されていて、
しかも結構売れる本出されていたんで、
そうもだよな、当然だよなっていう風に、
もしそれが
法的に規制されているとか
そういう話でないならばね。
僕は本屋さんに行って、
そのことについて
違和感を持ったことはないんですよ。
多分これが規制されているなら
こうはできないし、
規制するとなったら
容易なことじゃなくなるし、
表現規制っていうのは
非常に難しい問題が
ありますからね、きっと。
タイトルっていうのは
全く同じタイトルがあっても
それ自体がダメとはされてないですし、
私、これも古典的な本なんだけど、
割と哲学系か
自己啓発系でも
哲学寄りの本に
コリー・ウィルソンの
アウトサイダーって本があるんですけど、
アウトサイダーってタイトルの本は
知っている限り4つはあると思うんですよね。
1冊はあまり有名じゃないですけれども。
アルベル・カミューの異邦人、
あれも英語では
アウトサイダーだと思うんですよ。
しかもウィルソンはアウトサイダーの中で
異邦人を取り上げてたりもしますから、
タイトルのパクリみたいなのは
パクリじゃないと思うんですけど、
あの作品は。
難しい問題はあると思うんですよ。
バターはどこに溶けたは
確かに相当な問題だけど、
でもやっぱり
訴える、訴えないって話になるんだなっていうのは
非常にちょっとした
ショックを受けたんですよね。
これ訴え得る話なのかなっていうのを
考えさせられたことがあるんですよ。
私の本でもそうですけど、
特にそうなんですが、
売れてる頃には一番著者はタイトルに
実は直接の関与が
関与度が下がっていくという
あんまり売れてない時の方が
僕の意見通ってたなっていう気がするんですけど
これは僕に任せてると売れないってことなのかな
と思っちゃうんですけどね。
何でもいいんですけど、
要は僕の本が売れてるならば
それにそっくりのタイトルが出るのは
当たり前だと思うんですね。
問題なのは
自分でそれやるかってことですよね。
私は昔は嫌だったんですよね、やっぱりね。
なぜ嫌なんだろうってのを
あまり真剣に考えたことがなかったんだけど
倉園さんのこのグッドバイブスで
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世の中に罪というものはない。
これ非常に言い方次第なんですよ。
罪というものはないっていうのは
よくよく考えてみると
大変な発言だなって思うんですよね。
罪悪というものは人の作り出したものだと。
これは人の作り出したものは存在しないと
言えるかどうか問題っていうのが
別途あると思うんですよね。
例えば東京ドームは人の作り出したものですが
あれは現実にある感じがしますよね。
イリュージョンっていうのは難しい問題で
私はやっぱり寺生まれなんで
イリュージョンでもあるとは思うんですよ。
これ一体何でイリュージョンなのか。
東京ドームは絶対にあるだろうって
思われるかもしれないんですが
まず目で見たものがこの世にあるかどうかは
疑わしいっていうのは私たちみんな知ってますよね。
虹とか蜃気楼とかそういうものですね。
でも東京ドームは触れるって思うじゃないですか。
でも哲学者っていうのはすごいんですよね。
触ったものがあると言えるかっていう問いがあるんですよ。
夢の中でも私たちは物に触ってますし
もっと脳科学の世界に行けば
触覚は作り出せるのは自明ですよね。
有名な話です。
どんな触覚だって作り出せるんですよ。
実際のところはね。
そうなってくると触れるものあるのかっていう話になってきちゃうんですよ。
そこまで言えばですね。
人の作ったものであろうとなかろうと
この世にあるのかどうかなんて
分かんないわけですけれども
そういう深みにハマったような話は
一旦置いておくにしても
罪はないって話になった時に
罪はないってこのケースでも言うのは
勇気いるよなっていうケースは
僕はあると思うんですが
僕の本のタイトルのパクリで儲けてますみたいな
それでどんどん売りますみたいなのは
罪かって言うと僕はそうは思わないし
多分訴えたところで通らないと
僕は訴える気はないですけど
あれを訴えるのは阪本さんがやるケースが多いと思うんですけどね
訴える気もないですけれども
罪と言えるかっていうのは
大変グレーだし薄いグレー
事実上罪とはいいと思うんですけど
これを後は残るは自分がやるかっていう話だと思うんですね
私は以前よりも遥かに
罪ではないなら
つまり後は何だろうって考えると
これは困り度だって私は思ったんですね
私の場合は嫉妬の問題は薄いのでやっぱり
困り度だって思うんですよ
それを後は残るは自分がやるかっていう話だと思うんですね
嫉妬は薄いのでやっぱり困り度だって思うんですよね
困り度というのは何かというと
そうですね、例えば
そんなことはないけれども
娘の給食費も出ませんとか
18:01
給食じゃないんですけどね冒頭で言ったとおり
いや、給食費も出ないなら本来バクるよねと
バクれば売れるのかどうかは別として
バクったっていいよねとは思うだろうなと
これはひんすればドンスみたいな話になってっちゃうので
ちょっとニュアンスが変わる面もあるんですけれども
つまりある行為を正しいか正しくないか
その正しさを振りかざせるかどうかみたいな話には
結局のところ置かれている条件というのがすごく物を言います
僕らの生き方にはそういうものが左右せざるを得ない
例えば困ってると言ったって
私一人が困るのか家族が困るのか
実家のおじいちゃんおばあちゃんまで含めて困るのかって
全然違うじゃないですか
結局その都度その都度変化するような正義というものは
まず正義としてどうなのかというものもありますよね
でも多分にそういうところあるじゃないですか
結局のところその問題にその困窮なり
その苦しみに何人が巻き込まれるか
一見関係ないようで深く関わってきちゃいますよね
そういうのってやっぱりつまりもともと
それが実態としてあったのかどうかはあつこぶる疑わしい
そういうふうに考えれば考えるほどですね
つまり僕らついつい口にする誰もがってやつなんですが
誰もがはないんだなっていう
まずそこからなんだろうなと思います
例えば私の嫉妬の薄さっていうのはあんまり考慮されてないと思うんですよ
自分の好きな人が目の前で他の男に持っていかれたら
誰だって腹が立つでしょうって言った人が
僕の知っている人にもいるんですよ
知り合いにね
誰だってっていうのは嘘なんですよ
僕に対しては嘘になってしまう
誰だってっていうのはそれを言っているときは
本当に疑いの位置はないような感じがして
そういうことを言われれば
誰だって腹が立つよねっていうセリフはさらっと出るんですけど
腹が立たない人は必ずそれも相当数いるんですよね
つまり真実じゃないってことですよね
その命題は
その命題が真実じゃないということは
そうならない人はいませんとかいう言い方ですね
そのときに僕たちは
もしそれで腹を立てたり
何かを全く正しくないと感じているならば
それとしている条件に
嘘が入っているっていうことになるはずなんです
この話は倉園さんが何度もお話しされているのと
何にも変わりませんが
要するにそういうところです
僕の感じではそれが
21:00
つまりベースにナルシズムがあるっていう言い方を
僕はしちゃうんだけれども
ナルシズムがあるんですよね
私中心のものの見方に完全になっているのに
まるで客観であるかのような意識でいる
誰だって腹は立つとか
ムカつかない奴はいないとか
そういう言い方
私がそのことを考えたら二重にあったわけですね
嫉妬しない人なんていないっていう人はきっといるだろうと
でもここにいる
そういう考え方もある
もう一つは
自分も急にそうなっちゃう
つまり本がパクられれば誰だって腹が立つだろうと
つい思ってしまう時がある
あるいはこんな真似をしてまで動けたくはないとは
誰だって思ってしまうとか
誰だって本当はそう思っているとか
誰だってこのやり方はまずいよと思っていると思っていない人は
明らかにいるわけですよね
私そういう人をさっき言った通り知っていたわけだし
条件次第では
自分も同じことを自然とやりたくなる
その時にできないとか
あるいはやっちゃまずいと思うっていうのは
思うのは全然モラルという意味であったとしてもいいと思うんだけど
根拠は多分怪しげっていうところでしょう
遠畑さんの具志堅クリニックが出てくるやつ
野の医者は笑う
あれで出てきますよね
人間ああなったらおしまいやだという声が聞こえてきて
この本の続きが書けなくなったっていう話のエピソードが
彼は非常に面白おかしく書いているので
どこまで本当だかはちょっと分かりにくいんですけれども
あれですよね
まさにあれだと思うんです
つまりああなったらおしまいやだっていうのは
遠畑さんのようにきちんとした臨床心理師にしてみると
やっぱり具志堅クリニックになったらおしまいなんですよ
これを誰だって本当はそう思うというのは
多分真実じゃないんですよね
少なくとも具志堅クリニックさんではそうは思ってないと思うんですよ
そして例えばですけれども
あの話の冒頭で
ここのところがやっぱり
この話には伏線がいっぱい張ってあったなと思うんだけれども
結構軽くない精神障害が
遠畑さんのところにずっと来ている人が
必ずしも良くなったように思えないように
具志堅クリニックに行ったら一発で治ったと
本当か嘘か分からないですよ
ただしこういうことだ
あり得る世界ですよね
精神症の話というのは
本当は身体でも起こり得るということを
私はよく知っているんですけれども
陰知気だからといって
治せないとは限らない
じゃあ治しているのに
そいつは何で陰知気だと言えるのかというのがもう一つと
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こういう人も世の中にあります
治せなくても正当な医療にかかるべきであり
治せても陰知気で治すべきではないという人は現にいます
私そういう意見の人に出会ったことが
お医者さんでしたけどねあります
私のように治りにくい病気
アドピーみたいな病気を持っている人間は
こういう言動に出会ったことがあるはずです
はっきり言って
治せなくても我々にやらせろと
そしてここまでは言いませんよ
治らなくても一生我々のところに来いと
そして治ったとしても
具志堅クリニックのようなところに行っちゃだめだと
これが正しさというものだと思うんですよ
ある意味ではね
非常に極端な例ですけどね
そして人間ああなったらおしまいだと
みんなが思っているというイリュージョンが
あると思うんですよね
そこにはやっぱり正しさに対する
何か絶対的な信仰みたいなものが
信仰という言葉をあえて使っているんだけれども
信仰みたいなものがあると思うんです
そしてそれは決して宗教とは限らないというか
実は私よくあちこちで見かけて思うんですけど
実は宗教ではないケースがすごく多いです
宗教というのは本当に怪しいよねって言っている
その対象が宗教じゃないケースがとても多い
それが医療であったり科学であったり
いろんなものであるんだけれども
意外に宗教じゃない
宗教はそんなことは意外に言わなかったりします
何しろそういう話を
そういう批判を受け慣れてますからね
だから思ったんですよ
その嫉妬の話でも
この誰もがというのは伏せものだと
もちろんやっていい悪いみたいなのも
自分の基準でこっちに行かないというのは
ありだと思うんです
これはこれそれはそれなんですよ
ただそれはその人の中でも
いつでも変更し得るものだし
ここが変なんです
変に思われると思うんですよ
この道だけは行く前というのは大事だと思うんです
でもこの道だけは行く前というのは大事だと
いう意見の人っているじゃないですか
その意見そのものがダメだとは思わないですけど
でもそれを意外とあっさり手放せないと
辛くなると
でもこれって両立しがたい心理ですよね
かたやこの道に行くのは
ああなったらおしまいだと思ってる
でもいざとなったらさらっとおしまいの方に行けて
しかもおしまいじゃなくするために
そっちを選択できるようにすると
これなんですが
これは臨機応変という言葉だなって思うんですよ
そして結構グッドバイブスというのはですね
優遇というのか
優遇無下という言葉は仏教用語なんですけど
優遇無下というのをすごく大事にする
つまり言ってみると
戒律というのはその逆で
僕らは戒律にがんじがらめなんだという気がします
これは今言った通り宗教の話じゃないですよ
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自己啓発に走らないとか
ああなったらおしまいの方に行かないとか
これにだけは手を出しちゃダメだみたいなのは
全部戒律だと思うんですよね