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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
比較的どうでもいいような問題ってありますよね。
ところが、一つ事例を挙げておきます。
既読するとか、結構色々考えて、恋人とか上司とかに何か連絡を送ったんだけど、DMを送ったんだけど、返事が来ない。
だいたいほぼ100%に近く取り越し語だと思っておけばいいんですけど、私の経験では。
まあ、気になりますよね。
こういう問題。日頃は、すごくこういうことを意識しちゃう人はともかくとして、日頃はあんまりこういうことは意識しないんだけど、こういう時には問題だという問題ってありますよね。
これが解決されると、意外と日々のストレスが激減する。
私にとってグッドバイブスっていうのは、一つにはこういう効果がありました。
1日の90%は意識してないんだけど、10%くらい意識することがあって、それが意外と仕事や生活に細かく細かく差し障ってくる。
そしてそれがトータルというのも変なんですが、でも長い目で見ると結構ストレスになっていて、スコッと抜けてみるとずいぶん楽になっているということがあります。
というような問題があると思うんですか。
以前、倉園さんが鏡の法則とよくおっしゃっていて、今もおっしゃっていますが、要は自分が人にどう思われているかが気になるというのは、結局自分が自分をどう思っているかを人に投影しているという話だと思うんです。
私はこれを昔というか今もそういうイメージを持っているんですが、水晶玉というイメージがありまして、人の心の中で私がどういう姿をしているかと言っていることは同じことなんですよ。
私はこのイメージの方が自分の具体的なイメージに近いので、これで今日はお話ししますが、要は倉園さんが鏡の法則と言っている話と同じだと思っていただいて大丈夫です。
人それぞれいろんなイメージがあると思うんだけど、人が私のことをどう思っているかが気になる。つまり言ってみればそういうことだと思うんですね。
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それはある意味しょうもない問題ではありながら非常に気になるという方もいらっしゃると思うんですけど、そういう方であっても内心はさまつなことだなと思っていると思うんですよ。
みんな思っていると思うんですよ。こんなのはさまつなことだと。でも気になる。
私は水晶玉。一人一人の心の中で私を映し出す水晶玉があって、外してその図画、その絵は美しくはないんですね。
これが私の自己肯定観と呼ばれるものなんですけど、私は自己肯定観というよりは自己イメージという人が呼んでいるものですよね。
でも自己イメージというと1個しかないみたいじゃないですか。私はこれは人の数だけあると思うんですよ。
だって私のイメージって人によって全然違うと思うので、だから私は人の心の中、人それぞれの水晶玉があって、その中で私の映り方が良かったり良くなかったりすると。
で、プラドノさんが以前カプセルの中に閉じこもると言っていたお話は、私の中では私の水晶玉がよく映っている人とだけ付き合うというようなイメージだったんです。
こういう所成術は今でもあって、ただこれは一つの欠陥として、私のイメージが良い人はいいんですけど、良い人だとしても私が何かやらかすと悪くなるかもしれないじゃないですか。
これが怖いんですよね。だから絶対悪くならない人とだけ付き合いたいと、そういう風になっていくんですよ。
で、幸いにも私の人生では絶対悪くならない人って何人かはいるような気がしてるんですね。
プラドノさんのお話を伺っていて、そういう保証はないだろうという話もよく聞くし、実際その通りだとも思うんだけど、
でもこれはもう盲目の信用みたいなもので、絶対悪くならない人が何人かはいるような気がするんですね。
例えば私の父母とか。私はやっぱり育てられ方について恵まれてきたんでしょうね。
私の父母の中では私はいろんな面を見せてきてますが、それで決定的に私のことに不信感を抱くということはないように思うんですね。
で、この話、今の言った通りで究極的には既読スルーの恐怖感というのは信頼感の欠如だと。
これも信頼の欠如だと。これ多分ぶっちゃけ相談の中でもYouTubeの中でも絶対何度か出てきている話ですし、
私もなかなかそのことを、それはその通りだとはすぐ思うんだけど、だからといって恐怖感が払拭できたわけではなかったんです。
でも最近ようやく払拭できるようになってきて、今日はその話をしているんですが、
コツがあるかと言われると若干コツらしきものもあるんですよ。
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で、それをお伝えするんだけど、要はスルーしちゃわないってことかなってまず思います。
つまり、いちいちこの恐怖を感じたときはこれについて一定の時間をとって考えると。
やっぱり現代の人の一つの問題としてはですね、こういう時間をとらなすぎるんじゃないかっていうのがあるんですね。
あまりにもこれはさらっと、いやこれはさまつなことだし気にしないようにしようぐらいで頑張っちゃうんですが、
そうじゃなくて、もっと時間をかけてですね、つまり自分は何かをまず怖がってるというか、
そういうことを自覚する。で、その恐怖は信頼の欠如から必ず来ているという点を論理立てて抑えていく。
そしてもし信頼ということを完全に、完全じゃない信頼っていうのは倉園さんに言わせるとないんですが、
信頼というものが完全にできたならば、この恐怖は消える。
そこまで持っていくっていうことを毎度毎度やってるとなくなっていくんですね。
で、信頼を完全にするというのは難しい。なぜそもそもこれ信頼の問題になるかというとですね、
要は既読するが怖いとか、私のイメージでは水晶玉の中の佐々木賞吾がダメなやつに見えてきてしまうのが怖いというのが、
条件次第で私はその人に、私の人間性次第で私はその人には嫌われると思っているってことになるんですね。
これはつまり相手のことを100%信頼はしてないっていう意味なんですよ。
自分を良く見せておかなきゃいけない。だから水晶玉なんだけど、
自分の良い部分を相手の心の水晶玉に映し出さないと相手は私のことを嫌いになるって、
究極単純に言うとこういう恐怖感なんですね。
この恐怖ってのは、私がうまくやっている限りは良い扱いをしてくれるけど、そうでないと縁を切られたりするっていうわけですよね。
これは相手の人間性に対する不信だと思うんです。
こう思って当然だと言う言い方もできるかもしれませんが、私はやっぱりそうは思わないんですね。
態度としてイケメンだったら好きだとか言うのもそうですけれども、
例えば私の人間性に不信感が芽生えるようなことを私がしたら切るというのは、
結局その人のご都合主義がとっても強いんですよ。
もちろんそういう人がいて不思議はないんですけれども、でもやっぱりそういうことになっちゃうと思うんですね。
自分自身のことを考えてみても、大橋さんなり倉園さんなりが私に良くしてくれている間は、
自分自身のことに好意を持つが、そうでなければそうじゃなくなるっていうのは随分な話にも聞こえるわけです。
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それはしょうがないんじゃないかって考え方がある一方で、こういう事実があるんですよ。
私は娘についてはそうでないようにそうでないようにし、かなり真剣な努力をしている。
つまり、例えば娘が朝起きないとか、乱暴な言葉を使うとか、そんなことは私はあまり気にしませんけれども、
何でもいいんですが、良い子とそうでもない子っていう側面が見えたとき、
良くない側面が見えたからといって、今までよりも好きじゃなくなるっていう風であったら、
親っていうのは良くないんじゃないかなって感じを抱くんですね。
よく言うじゃないですか、あなたがどうであろうと愛しているとかっていう言葉が良い響きを持ってますよね。
つまりこれは、条件次第では嫌いになりますよというのは決して、
いろんな側面から見て褒められた話じゃないって僕らは多分分かってると思うんですよね。
にもかかわらず、それをやる、あるいはやられることを恐れているとすると、
相手の人間性を疑っているということになっちゃうと思うんですよ。
自分が娘について考えることは、常にどうであろうともOKだということであるならば、
私は例えば大橋さんなり蔵園さんなりに対して、どうであろうとOKであるほうがベターだと思うんですね。
ということはこれをひっくり返せばいいんですよ。
私が時刻をしようと締め切りを守らなかったとしても、
例えば編集さんなりが私のことを100%信頼してくれているならば、
どうであろうとも私に対する信頼は揺るがないと思うんですね。
これが全く逆に出るとなると、例えば私が売れている間は非常に著者として重宝するけれども、
2回ほど重版が出せない本を出したらもう切り捨てると。
そういうことはありますけどね。
でも、いいことではないんですよ、これはやっぱり。
このことをよくよく突き詰めて考えてみると、
全ての人に対して100%信頼してもらうというわけにはいきませんが、
関わる限り100%信頼しておくということはできるんですね。
恐れている時というのは必ず相手の人間性に対する不信感を持っているんですよ。
こう書いたら相手は気を悪くするんじゃないかと、などというのは非常に単純な不信感なんですね。
私は娘がちょっと悪口を私について言ったぐらいじゃ決して私は気を悪くしない。
この程度のことも相手はできないんだって思っていない限り、
私が本当のところちょっとした筆の誤りというものに対してまで気をつけるというのは、
実は私の不信感の現れそのもので決してこれは良い状態じゃないと思うんです。
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この点を毎度毎度抑えることなんですよ。
ついついここはもう時間がないので、
ついつい相手の既読スルーが気になっているけど気にしないように決意することでスルーしようとしちゃうんだけど、
そういうのをやめて毎度毎度私は何に不信感を抱き、
どんな失敗を相手は多めに見る程度の寛容性や度量も持っていないことを恐れているんだろうって考えるべきなんですよ。
そのような寛容性も持っていない、相手はすごく簡単にキレてしまう、とっても子供っぽい人だって思うことが必要だろうかというふうにまず考えますね。
あるいはそれは必然だろうかと。
どっちもないんですよね。
あるいはそういうふうに相手の人は思うかもしれないし、
ここまでくればそういう最初の恐怖感ではなくなるんですよね。
相手はもしかすると気を悪くしたりするかもしれないんだけれども、
それは必然ではない。
この相手が十分熟慮した上で気を悪くするということを選択したなら、
それはそれでしょうがないと思えるんですよ、これは不思議なもので。
僕はここで、よく諦めがつくというのと100%信頼するというのは結局同じことになるなという気がするんです。
最初から人間というものはつまらないものだと思って諦めるのとは、これはちょうど100%違うんですよね。
ほぼ180度違う気がします。
必ず100%信頼するということと、
良い諦めがつくというのが一致する点が見つかるんですよ。
これを見つけてさえしまえばこの恐怖はなくなっていきます。
それも急速になくなっていくんだなというのを最近実感しつつあります。
ただ、私は娘を事例に出すことが割と容易にできるという恵まれた状況にあるので、
娘のように、私にとっての娘のように、
信頼できる人間を探すのはどうしても無理だと一人ぐらいはいると思うんだけれども、
人間に対する信頼という感覚がどうしてもつかめないという方はしょうがないので、
何か面白い作品なり、悲喜のチームなりのことをちょっと考えてみてほしいんですね。
例えば私で言えば千葉ロッテですよ。
13連敗とかしても嫌いにならないんですよ。
こういうことなんですよね。嫌いになれないんですよ。
13連敗とかしても、今年はこれから挽回して優勝してくれるんじゃないかとか、
半信半疑とかって思ってらっしゃるじゃないですか、今年も。
それなんですよね。
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それほどの寛容さを自分が向けられるのに、
なぜそれを相手に期待することができなくなっちゃうんだろうということを
よくよく考えてみてほしいんですよ。
相手の人間性というのはそんなに
ろくでもない、あやふやなものなのかと。
つまり、自分に対する相手が発揮し得る寛大さのマックスを考えてみた場合、
たぶんほとんどのことはお目に見てもらえると思うんですね。
DMでちょっと失礼なことを言ったぐらいでは、嫌いにならないと思うんですよ。
で、それが相手の人間性によるものでなく、
何らかの事故のようなもので不信感を見損なったとか思われるのであれば、
諦めがつくはずなんですよ。
十分熟慮していれば。
それが不意に相手が急に青ざめるようなのをイメージするから、
単なる恐怖になってしまって、
その恐怖に結構私たちは苛まれているように思うんですね。
これともう一つは、
一度見限った人とは二度と口も聞けないという人のことを考えてみてほしいんですね。
ある意味、私たちが恐れているのってそれじゃないですか。
デフォルトが人間不信であるという人たちの考え方。
でも、そのデフォルトが人間不信であるという人たちの考え方。
でも、私はデフォルトが人間不信であるという人に不信感を持たれるということを、
本当は私たちが恐れているものとは違う気がするんですね。
私たちが恐れるのは、選択の上で低評価を受けることであって、
デフォルト低評価なんだという人から低評価を受けることって本当はそんなに怖いことじゃないと思うんです。
それはその人の精神の非常に危うさを物語っているのであって、
決してその人から低評価を受けるということが自分の評価そのものの問題だとは、
自分の人間性とか自分のスキルとかそのものの問題だとは思えないんですね。
確かにそういう面で持っている人はいると思うんです。
それは、やっぱりですね、
さっきの推奨玉がちょうど反対で、
自分はあらゆる人に嫌われているんだというような、
自分を映し出す推奨玉みたいなのが各人が持っていると、
あらゆる人から見て自分はろくでもなく見えるんだろうなと思っている人は、
これをやっちゃうと思うんです。
そういう意味では本当に鏡の法則なんだけど、
デフォルトが人間不信である、つまり、
本性を表したといったときに必ず人間性にろくでもないものを見るっていうタイプの場合、
つまり常に良くしてくれない人とは付き合えないというのは、
その人にとって極めて辛い過酷な問題であって、
その人から低評価を受けるということは、
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自分にとっての不幸ではないんですよね。
そういう意味でも、やっぱりうまく諦めがつくと、
この二つのことがあるかなと思います。
自分が他人の人間性に対する、人間性の度量みたいなものに対する信頼感、
信頼が原則欠除していると既読するみたいなものが怖くなる。
もう一つは、デフォルトの人間不信みたいなものは、
基本問題ではないということを忘れなければ、
やっぱりこの人間性に対する信頼感、
デフォルトの人間不信みたいなものは、
基本問題ではないということを忘れなければ、
やっぱりこの恐怖感はなくなっていくと思うんです。
事実、最近私は誰かにメールを送るというのが、
あるいは連絡をするというのがネガティブなものであっても、
非常に素早くなったんですよね。気がつくとなってたんですよ。
これはグッドバイブスの重要な賜物だなと思っているんだけれども、
躊躇してもしょうがないなと思いながらも、
メールを送っておいたりするということがすごく多かった。
最近は数分と動かずに、答えるべき答えというのが、
ネガティブなものでもさっと出るんですね。
これはなんだか、昔これができる人って本当にすごいなと思ってたんですが、
そういうことじゃないんだなと思うようになりました。
私がただ考えが足りなかったんですよ。
つまり、信頼というものが欠如しているという、
これはクラゾノさんに教わって初めてわかったということでもあるけれど、
でも他人の寛容さに対する基本不信感があるなというのは、
うすうす感じていたんですね。
だって自分は相手に寛容だつもりでいるのに、
相手が自分に対しては不寛容だと思うというのは、
結局そういうことになってしまいますから、
ただそれを私は時間がないというようなことを言い訳に、
すごい素早く回避していた気がするんです。
我慢しちゃってたんですね。
でも我慢をするから1日奥はめになるんですよ。
相手に嫌われてもしょうがないんだというのを、
一生懸命強がれるように頑張ってたみたいな、
この努力をするから1日も使っちゃうんですね。
そういうことをする必要はないんですね。
おそらく相手がこんなことで気を悪くするはずはない。
なぜなら私は娘に対してそんなことで気を悪くはしないから。
もし熟行度末に気を悪くしたなら、
それはそれでしょうがないし、
常に気を悪くするデフォルトであるならば、
それは相手が大変なのであって私の問題ではないんですね。
ここまで順を持って考えることができれば、
これが難しかったら今の反省の状態を思い浮かべてほしいんですよ。
これでも応援するじゃないですか。
逆転優勝を信じるでしょう。ジャイアンツを抜いて。
これが信じられるという力が自分にあるならば、
きっと相手の人にもあるんですよ。