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2024-11-19 40:57

ビジネスの現場に「精神分析」を活用する【1092】

まずは「現実」に自分をあわせる。、
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00:05
おはようございます。働くメンタルをとり戻す精神分析的ポッドキャスト、第1092回をお送りします。
11月19日火曜日、7時32分です。
いや、もうめっきり寒くなりましたね。
えー、なんと言いますか。冬ですね、これはね。
えーと、まあ冬、とにかく10度切ったんで外、外気温がですね、この時間で10度切っているというのは、まあ別に、まあ冬って感じではないんだけど、やっぱり先々日あたりはまだネッククーラーしていたかったぐらいなんで、
もうストーブなしでちょっとここに立ってるのは厳しくなってきたので、えー、冬だなあという感じがします。
あの、今日をもって冬が来たというふうに言いたくなるような。
今日をもってといえば、今日、私知ったんですけど、今朝。
あの、詩人のですね、谷川俊太郎さんがお亡くなりになりましたね。
いやもう本当に、うちの娘が聞いてもショックを受けるという、すごいなっていう感じがします。
4世代離れてますよね、たぶんうちの娘とだったら。3世代ではないよな。
暇ご相当ですからね。
いやーもう冥福を祈りしますとともに、これぐらい4世代離れた人にも亡くなるとショックを与えられる詩人って、
詩人ですからね、作家ならわからなくはないんだけど、
あのー、詩人となってくると知ってる人の数が激減するじゃないですか。
作家さんの10人知ってるのに対して詩人1人知ってるっていう人は詩好きな人だと思うんですよ。
もっと比率的に下がると思うんですよね、詩人っていうのは。
本当にすごいなと思います。
ちなみに私は谷川俊太郎さんのことを、たぶんかわいはやおさんの本で知るという、
やっぱりなんかですね、野良カウンセラーですらない私なんですが、
あまりにもカウンセリングっていう世界に自分はどっぷりハマってるんだなっていう。
だって谷川さんの名前を知るのが、かわいはやおの本って普通ちょっとないじゃないですか。
わかんないですけどね。私は間違いなくそうなんですよ、意識してる感じでは。
もちろんその前から谷川さんの詩をどっかで読んだことがあるとかはあると思うんだけど、
私はそういうのあんまり得意なほうじゃないんで、
国語は得意だったけどあれですよ、文芸史みたいなのがあって非常に苦手だったんでね。
だいたいもう間違う。
漱石の前期3部作すらちゃんと言えないみたいな全部読んでる。
そういう人間なんで、全部読んでるどころか、
少なくとも全部3回ずつぐらいは読んでるんで、もっと読んでるよな、絶対な。
でも言えないんですよね。興味がないんだろうな、そういうことに。
03:03
そういう感じでですね。
ちょっと時代が変わっていくなという、時代変わってますけどね、もうとっくにね。
そういう話をしみじみとしててもしようがないので、
あっさり本題に今日はお知らせも抜きにいこうと思っているんですけれども、
最近タイトルの付け方が悪いのか、スターFではめっきりユーザーさんの視聴者数が減ってて、
もう限定公開の方が視聴者数が多いというね、
起こる現象がすごいなって思うんですけれども、
同じようなことしか喋ってないですからね、毎日毎日ね。
相変わらず今日は、なぜ分析というものを学ぶということがそんなに私がいいと思っているのかと、
谷川俊太郎さんに巡り会えるからとかでは全然なくてですね、
そういうふうに考えている。
だって私、河合俳夫さんの本をいくら読んでいても、精神分析わかるように厚いになってないですからね。
これはもう彼のそこが上手なところなんですけれども、
精神分析わかるように書いた本は、あの世には全然売れないということが起きるわけですからね。
精神分析が私がわかるようになったほど、河合俳夫さんの本を多分それまで100冊ぐらいは読んでたと思うんですけど、
100冊ぐらいは読んでたと思うなが、全くわかってなかったと思うんですよね。
それもどうかとは思いますが、
なぜなのかな、これを知りたいんですよね。
なぜ私はわからなかったのかということを知りたいんですよ。
そのうちこれはノートにでも書いていかなきゃなと、
最近ちょっとようやくノートにでも書いていかなきゃな欲がですね、
小橋哲夫さんが豊か人にポツポツとでも書かれ始めたのを読んでいて、
やっぱり書かなければいけないような気がしているみたいな。
こういうのをインフルエンスって僕は言いたいんですけれどもね。
何かこう意図的にそういうインフルエンスを起こそうという気はないんですよね。
起きるものだと思うんですよ。
非想定読者では、非想定読者なんですよね。
想定されてない読者。
あの定員覚書を読んでいてですね、
松木邦弘さんの定員覚書を読んでいて、
ふとずれて、この本はとてもいい本なんですが、
ふとずれて、精神分析実践、あれ?タイトル忘れましたけど、
要するに実践というのが出てくる松木邦弘さんのこれも本を読むことに今なっているんですが、
06:03
その中にですね、あれは自己愛性パーソナリティ障害の人が出てくるんですね。
この種の人が出てきたときはもう、
あれくる系の治療状況だなっていうのが大体想像がつくわけですが、
要は、
怒り狂ってしまうわけですよ。
怒り狂ってことは、やっぱり親習があるってことなんだと思う。
厚川って書かれてたと思うな。
名前はBさんになってたんで、もはや全然おそらくそんな人はいないんだと思うんですよね。
要するにキメラですよ、キメラ。
いろんな治療者像が、クライアント像が合体してできていて、
特定の誰かには想像できないということになっている。
しかも病棟での治療になってるんですね。
病棟での治療っていうのはやっぱりコンテーナーがでかいですよね。
病院がコンテーニングしてるわけですから、コンテナーでかいなという。
これがまず、海業員にももちろんモテないんですけれども、
我々のような野良的な人には最も欠けているものですね。
組織的なコンテナーはない。
私なんかはこれでも曲がりなりにも理事というような、
全然らしくない肩書をいただいているんで、
そっちであれば少しは組織的コンテナーがあるんですけれども、
そうは言っても建物があるとかじゃないですし、
私のこの3ヶ月チャレンジにおいても、このポッドキャストにおいても、
その肩書ではやっておりませんから、
そっちの側のコンテーニングや守りはあんまり期待してはいけないと思うんですよ。
これはもう、自戒を込めてってやつで、
いざとなったらそれ使おうみたいなのは良くないと思うんで、
さすがにモラルハザードもはなはだしいだろうと。
まあ、いろいろありますけどね、モラルハザードはね。
まあ、それはいいとして、
この厚川のパーソナリティー、自己愛パーソナリティーの人がですね、
やっぱりすぐ松木さんに怒っちゃうわけですよ。
もうめちゃくちゃ怒るわけですね。
なぜかというと、
まあ、彼の万能感を肯定してくれないからなんですよね、簡単に言うと。
彼の多席も、多席は絶対出るはずなんですよ。
これは、ものすごく欲打つ的な人は出ないのかもしれないけど、
私はもう、それはないなと思うんですよね。
自責と多席に違いはないんだと思うんですよ。
だって、治療状況ってことを考えてみるとですね、
親の悪口、例えばめっちゃ言ってたって、
それって全部自分への悪口じゃないですか。
ここがですね、なんか昨日もそういう話をした記憶があるし、
夢んなはだったのかもしれないんだけど、
もうね、親の悪口っつったって、
それは絶対対象としての親ですよね。
09:00
あの3ヶ月チャレンジのある方がね、おっしゃってたんですよね。
なんかね、自分はそれは、自分であることは自明だと思ってたと。
なんかそんなこと言っちゃってるけど、
だってそれ自分じゃないですかっていうのは自明だと思ってた。
対象を強く意識してる人にしてみれば、そうなんですけども、
そうでもない人にしてみると、
やっぱそれは絶対他人のことを喋ってると思っているんですよね。
でもそこにいない人について喋ってるじゃないですか。
そこにいない人について喋ってるということは、
少なくとも絶対にどんなにその人がエスパーでない以上は、
エスパーじゃないというのが僕の想定なんですよね。
想像を使ってますよね。
いやそれは記憶だって言われても、
いやって記憶は想像ですよね。
記憶の親を攻撃するってことは、
記憶を攻撃してるってことになっちゃうじゃないですか。
記憶を攻撃してるってことは、
自分の脳で自分の脳を攻撃してるのは確実じゃないですか。
これ本当は目の前に人がいたって同じなんだけど、
とにかく他席と自席には何の違いもないと僕は思うんですよ。
他席を強烈にやれば、後でぐったりするのは当たり前なんですよね。
もちろん他人が目の前にいればちょっとは違うかもしれない。
でも他人が目の前にいないときに他席すればですね、
それがどれほど私の記憶ですと言っても、
昨日あったことですと言っても、
1分前にあったことですと言っても、
僕はそこに本質的な違いは一切認められないという、
極端かもしれないけど、
やっぱりこういう状況をちょっと思い浮かべてみてほしいんですよ。
マトリックス、映画マトリックス、見てない人すいませんね。
もう見てるものと前提にしちゃってますからね。
映画マトリックスで、
あれ、ああいうですね、
主人公は荒野みたいなところでカプセルに入れられてるんだけど、
そうじゃなくて、
全くニューヨークと変わらない街で、
全くニューヨークと同じ夢を見させられてると思ってみてほしいんですよ。
日本でもいいですよ。
東京に住んでいて、東京のこれとすんぶん違わぬものを、
VRゴーグルで見ていると思ってほしいんですよ。
全くやってることは変わらないですよ。
やってることは。
でもその人がマトリックスのように夢を見ているならば、
どれほど現実と変わらない夢を見ていたって、
夢を見ていることに違いはないはずじゃないですか。
私が言いたいのはそういうことなんですよ。
クラスのケイドウさんもグッドバイブスでですね、
かなりよく似たことをおっしゃってたんですよね。
あなたの言う通りであったとしても、
あなたが夢を見ていることに違いはないって、
これをね、言いたいんですよ。
これはすっごく僕は言いたいんですよね。
光栄は光栄なんですよ。
未来のことがわからないというのは、
未来があなたの想像通りになったとしても、
想像は想像の息を出ないんですよ。
ここはものすごく大事なんですよ。
寸分でもずれてたらもう全然アウトですね。
現実でないかどうかが、ここは議論の対象なのであって、
現実と似てるかどうかは議論の対象ではないんですよ。
12:03
現実を予知できているかどうかと、
現実を予想しているかどうかは、話が全く違うんですよ。
予知というのは、その通りになることは、
既に明らかであるってことなんですよね。
いや、私の親は絶対ここで怒るんですとか、
私の親は絶対ここで私を無視するんですってのはダメなんですよ。
ここでというのが、私が知覚している通りにであるかどうかが問題なのであって、
その曖昧さをいくらかでも含む言葉を使ってしまったらもう、
それは空想であって、現実ではないんですよ。
だから自責と多責は変わらないんですね。
自分の脳を自分の脳で攻撃して、
自分の心で自分の心の中の対象を攻撃して、
そういうことをやる以上、その人は自己分裂が必ず起きていて、
攻撃される私と攻撃する私に分裂しているという事態が発生していて、
で、攻撃されているのは結局私自身であるからには、
苦しむのは私自身なんですよ。
こいつをやめない限り苦しいよねっていう話をしているのであって、
モラルがどうであるからとか、親のせいにするのがどうであるとか、
自責が良くないとか良いとかいう話をしているのではないってことなんですよ。
自分で自分を痛めつければ自分を痛みますという話なんですね。
これを100回言っても難しい。
なぜなら私もやっちゃうから。
やっちゃってんなっていうのは本当に最近すくすくやっちゃってんなって感じなんですよね。
もうこうやった後に傷を見ることによって、
やった後の傷は自分がつけた傷だから、
どんなに親を攻撃しているつもりでも、
妻を攻撃しているつもりでも、
娘を攻撃しているつもりでも、
ダメなんですよね。
もちろん参加者さんをやっちゃっている時もアウトなんですよ。
これは二重にアウトですけど、
自分を傷つけるんですよ。
人じゃなくて。
人は傷つくかもしれないけど、
まず自分への傷は明快に残るんで。
人の傷は分からないけれども、
自分の傷は分かるんですよ。
疲れるから。
疲れたってことはもうアウトだって感じがするんですよね、私は。
疲れるはずがないんですよ。
走ってるとか、
うさぎ跳びやってるんじゃないんで、
ぐったりするなんてとんでもないことで、
ぐったりしてるってことは、
自分で自分を傷つけたんですよ。
自分で自分を締め上げたのかもしれない。
なんであってもですね。
ここまでは前提です。
前提。絶対前提ですね。
Bさんは、
他責と自責を同時に行う。
だからそのことはもう松木さんには痛いほど分かるんですが、
とはいえ松木さんの前で、
面白いですよ、
セリフがね、
殴りつけてボタボタにしてやるって、
そのBさんに言われるわけですよ。
殴りつけてボタボタにしてやった奴がいるってことをBさんが言ってて、
15:02
そのBさんが今目の前で激行してるから、
怖えぇと。
怖いですよね。
松木邦弘さん、私、
京都大学の最終講義見たんですけど、
殴りつけられたら死んじゃいそうだなって、
僕でもなんか結構、
この人にボクシングだったら、
精神分析では一瞬も勝てそうにないですけど、
ボクシングなら勝てそうな、
分かんないですけど、
ああいう人が妙に強かったりするんで、
でもなんか、
力ではかなわないことは明らかだったって書かれてるから、
腕力にはそんなに、
長けてそうではない。
もちろん松木さんは何歳の時に、
おいくつの時の患者さんか分かんないんで、
殴りつけてボタボタにされないかもしれませんけど、
やっぱ強そうな人なんでしょうね。
ボタボタって不思議だって、
ボクはボコボコだと思うんだけど、
ボタボタって言うんだみたいな感じで、
地域的なものなのか世代的なものなのかと、
ボタボタが頭に残って忘れられないんですよ。
ボタボタ怖いなって感じはしますけどね、やっぱりね。
目の前の人、激行してるわけだから、
そういうことが起こり得ちゃうのが、
精神分析というか心理臨床の厳しいところですけどね。
でも相手も怒ってますからね、本当にね。
その時、怒れば怒るほど自分を傷つけることになるなって、
言われれば言われるほど激怒しますよね。
本当に難しいポイントだと思うんですよ、そういうのは。
わりとシンプルでありがちな話だけど、
難しいとは思うんですよね。
だって、マスキさんにしてみれば、
なんで扱うパーソナリティ障害の人に殴りつけられて、
ボタボタにされなきゃならないのかって感じじゃないですか。
このなんで自分がそんなことをしなきゃならないんだってところが、
転移ですよね。転移状況だってことです。
つまりそこには親子関係があるわけで、
その人は多分母親とかかわいそうですよね、
お母さんとか殴りつけられてボタボタにされたりするわけですよ。
それがそのままそっくりマスキさんとその患者さんの関係に再演されてるわけですよね。
演じられてるわけですよ。
持ち込まれちゃうわけですよね。
で、この点に関しては私の関与できるところではない。
ただ読むことしかできません。
これと同じことを実現したいと思わないだけでなく、
病棟だからそういうことが起こってるんだし、
精神分析だからそういうことが起こってるんで、
それを扱うのが精神分析科の仕事だからやってるんだけど、
私はどれでもないから当然それをやるということはないと思うんですよ。
そういうことになっちゃうという絡め取られるとか転移状況が出現してしまうのは、
人間の世界では実は避けがたいと思うんですけど、
避けられるなら一応分析科でない以上、
少なくともここにマッシュぐらいに入っていくことはないと思うんですよね。
けれどもこの本の中で割とこれはそれほど柔軟に…
あ、すみません。途切れましたね。
18:00
いや、電話がかかってきやがったんですよ。
それも電子音の迷惑電話ってやつで。
電話ね、かかってこないようにしておけばいいって感じもあるんだけど、
かかってこないようにしておくっていうわけにもいかないんですよね、この時間帯は。
非常に困る。もう本当にあれですね。
そして、なんだっけ。こうして途切れたので何をしゃべるのかが分かんない。
そう、怒りでボタボタね。
つまりですね、怒っているのに対して解釈をするわけじゃないですか。
そのあなたの怒りは何でもいいんですけど、親に対する怒りで。
その奥底にあるのはあなた自身が世の中でうまくいかなくて、
自分でお金を稼ぐこともできずに親に世話になっていて、
みじめな状況だということに対する自分の絶望感なんだみたいなことを言われると、
これが解釈だと私は思うという言い方だとしてもですね、
肯定受け入れられないわけですよ、このような話には。
それを受け入れるところでどうなるんだっていう、これが絶望感なんだけど。
そういう気持ちになるじゃないですか。
だから、いやいや、あんた分かってない。
私あんなに言ったじゃん、うちの親本当ひどいんだよって言ってるわけですよ。
別に岩月さんはそこをあなたの親ひどくないですって言ってるわけじゃないんだけど、
これを肯定してくれる以外の話は聞きたくないんだと思うんですよね。
こういう状況になってしまったら。
だから、岩月さんをおそらく言うときはですね、頼りにしたりすると思うんですよね。
理想家ってやつだけど、いずれにしてもなんか頼るわけですよね。
頼った分だけ腹が立つってことってあるじゃないですか。
だからものすごく怒り出すわけですよ。
これに対してさっきのように、あなたのその怒りはとかってやってられなくなってくるわけじゃないですか。
もう自分ボタボタな光景が想像がつくわけだから、人でも呼びたくなるわけですよ。
平等にいるわけですしね。
ちょっと屈強そうな人いると思うんですよ、絶対そういうスタッフさんって。
なんか柔道なんだみたいな。
で、ちょっとその人呼んで、一旦落ち着かせようみたいにしちゃダメなんですよね。
でもね、きっと。
まあ僕だったらそうしたくなると思うんですけどね。
つまり、なんでそうしちゃダメかというと、それって結局最後には力に頼るって話になっちゃうと。
松木さんそういう話書かれてるわけですけれどもね。
そのクライアントさんの一つの重要な問題は、いざとなったら力づくで何とかするという路線が行き詰まってるっていう状況にあるわけですよね。
親とか自分のわかってくれない奴は怒鳴ったり威嚇したり、なんならそれこそボタボタにしてやってきたわけではないですか。
21:03
それって一見うまくいきそうに思う、うまくいくと思ってる人が多いからこそ、
私だってあの昔、本当に昔昔昔になっちゃいますけど。
私これでもね、どこもサービスに努めてた時あったわけですよ。
その時やっぱりちょっと柔道できそうな人に、ほらその時なんだそれみたいなことを言われてたわけですよ。
これってそういうことですよね。
いざとなったら、威嚇なり力づくで怒れば、その場を何とかその人の考えてるところの正常な状態、
つまりその人の人生というものについて、あるべき姿にさせることができるっていう考え方、8巻ですよね。
それをもう退属しているわけですよ。
私がその時態度悪かったりしたんだと思うんですけれども。
とはいえなんてあれですね。
そうやってこう、なんていうんですかな。
言ってみれば暴力的に直すってことができる。
直すってことはつまり、その人の心の中にある姿を現実を、心の中にある姿を現実より優先させるって意味になりますよね。
僕らは結局は、突き詰めて言えばここで困ってるわけですよ。
車に、自動車に鍵がかかってるかかってないもそうだし、家の鍵がかかってるかかってない、家にいないのに火がつきっぱなしになってる、
すべてあってはならない現実をあるべき姿に変えようとするところで、そこにそごが起きた時に悩むわけですよ。
それはどなって直そうと、何十回も確認して直そうと、要するにそこにそごが発生すると僕ら困るわけだけど、
ないのもでかいから、何度も僕がこういう言い方しますけどね、想像力が人間豊かすぎて、現実がどっちになってんだかわからなくなるわけですよね。
炎上というものを恐れるのも、炎上してる状態はあるべき姿じゃないってその人が思ってるところに最大の問題があるわけですよ。
現実というのをあるべき姿に変えなきゃいかんと。
少なくとも精神分析とか心理臨床とか心理カウンセリングの世界ではそうなんですよ。
自分の主観をまずは現実にチューニングしましょうって合わせてチューニングしましょう。
現実の方を自分の心象の方、心理的な風景の方ね、こっちが正解だと思って現実の方を変えようとするのやめましょうと。
ここが批判されるポイントでもあるわけですよ。
今回日本の県知事選が実に独特の選挙で独特の結果になりましたけど、あれに対してそんなことでいいのかっていう批判がやってくる可能性あるわけですよ。
現実こそをあるべき姿に変えていくのが社会的なあり方じゃないのかっていう考え方ですよね。
でも心理臨床でそれをやろうとすると結局のところ親の子育てを正すみたいな話になってくるんで、少なくとも精神分析ではその観点は取らないわけですよね。
なぜならばクライアントさん一人の言い分しか原則聞かないからですよ。
24:03
ここにクライアントの特権の全てがあるわけですよ。
クライアントさんが言うことは全て基本それが正しいものとして捉える。
親はひどかったっていう話をしたら、親はひどかったってことをとりあえず事実として受け止める。
もしかしてその親って空想の親じゃないのかみたいなことをとりあえずは一旦は置いておく。
わかんないじゃないですか。その人が言ってることだし、過去の話をしているんだから。
そういうふうに言われること自体が既にクライアントさんを傷つけますけれどね。
でもいずれにしてもクライアントさんは一つの特権を持ってるわけですよ。
自分の言い分がどういった言い分であれ、やや犯罪的なものであろうと、被害妄想的なものであろうと、話は全部聞いてもらえる上に基本的にそこを否定はされないってことがあるわけですよ。
代わりにその話が真実であるとか、過去本当はどうであったかの検証の対象にはなってないので、
少なくとも分析家の方はそれをまるまる信じなければいけないという義理はないし、それを100%肯定しなければいけないという話でもないわけですよね。
話は話として受け止めるんですけれどもきっと。
その辺スタンスもあるとは思いますけどね。
ただいずれにしても、現実の方を正そうとは決してしないっていう立場では相当頑固に一貫してるなって感じがあるんですよ。
現実が悪か善かみたいな話はしてないってことなんですね。
だからこれは社会運動としてはあんまり使えないっちゃ使えないという話でもあると思うんですよ。
絶対にあなたの真相の方をまず現実にチャネルリングするっていうのを目指す。
社会正義の話をすればまた別かもしれませんが、心理臨床の現実としてはこれでいいんですよ。
多くの場合、親は酷かったにせよ酷くなかったにせよ何にせよ、我々の主観というものは現実に対して歪むのでバイアスが強くかかるのはもう避けられないのでね。
だからこの現実に対してチャネルリングしていくというやり方はですね、ある程度以上はどんな人にでもほぼ機能するんですよ。
おそらくこの前提があると思います。
だから健常者であれ、神経症水準の軽い人であれ、精神分析をやれば何かいいことあるんだよみたいなスタンスっていうのを精神分析家は持っているんだけども、おそらくそれは私は持ってて当然妥当だろうなというのが正直なところ。
僕らのものの見方は雑なんですよ、はっきり言って。
それが健常であろうとですね、親に酷い目に合わされていなくても全然全く問題ない育ち方をしていたってですね。
そうなんですよ。私は思いますね。
3ヶ月チャレンジである方がですね、私が母親の不在というかいるんだけども、もういないものとしているっていう母親の話。
僕あの話はよくわかるんですよ。
27:00
それ母親が悪いみたいになっちゃうけど、実際は母親側の状況としてそれしょうがないだろうと。
その通りなんですよ。
これは全くそうなんです。
ただあくまでも視点は絶対子供側から見るっていうのに動かさないわけですよ。
アジャセコンプレックスっていうやつですよ。
どうするにお母さんの都合でアジャセ王子は生まれたから怒ってるんだけどアジャセ王子は。
でもお母さんにしてみればですね、それは当たり前じゃんっていう私の都合で生むのよみたいなノリはあるわけじゃないですか。古代インドですしね。
ただアジャセ王子はそれを許せないんですよ。
これは社会正義の話をしているのでは全くなくて、アジャセ王子の観点からしか基本見ない。
この観点を動かさないという点において、精神分析家はある意味絶対にクライアントの見方をしてるんですよ。
それこそ見方をしてるんですよね。
クライアント側からものを見ると。
それでもこういう解釈はあり得るんではないでしょうかみたいなのを提案していくのがおそらく理想的なやり方なんじゃないかなって思うんですよね。
で、またここの以上の話はほぼ脱線なんですよ。申し訳ないんだけどね。脱線に近い。
だからそのお母さんは子供を寝かしつけたと思ったら私の仕事をしなきゃいけない。ましてあれは仕事をしてたんだと思うんですよね。
その3ヶ月チャレンジと提示した話はですよ。あり仕事とかに集中しちゃうと。
そうするとお母さんも構ってくれないと。
あまりにもその時間が恐ろしいと。
これはね、一生にあれなんですよね。
それは子育て問題ですかって言われると、その話に見えちゃうのが問題で、子育て問題ではないんですよ。
我々は親から迫害されたと思うようなシーンの1つや2つは誰もが絶対持っているはずだし、持ってなければいけないんだと思うんですよね。
そうしないと、親というものが完璧に私を包むものになってしまうので、これは閉塞状況を生みますよね。
いわゆるパーフェクトマザーってやつですね。
ウィニコットが言うところのグッドイナフマザーでいいんだと。
それにアンチの言葉、グッドイナフに対する反対語がパーフェクトマザーなんだけど、パーフェクトマザーっていうのは理念上の母親です。
現実にパーフェクトマザーはいないんですよ。
だから現実のお母さんはみんなグッドイナフマザーだってことです。
ここもいやいやグッドイナフじゃないでしょうみたいなバッドマザーでしょうっていう意見があるんですけど、それは精神分析というものではないものの見方をしてるんですよ。
世の中にはそういう親から保護して虐待だから児童相談所に云々って、それは現実の話をしてるんです。
精神分析というのは主観の話をしてるんです。
だからすべての母親はグッドイナフなんですよ。
仮に母親が私別していらっしゃらなくても亡くなっていたってグッドイナフマザーなんですよ。
これはもう観念に近い問題なのであって、具体的な話、これがねまた具体的な話でもあるから一層困るんだけど、とにかくパーフェクトマザーというのは観念上の存在です。
30:07
で、いてもいなくてもグッドイナフマザー。
リアルのものはすべてグッドイナフマザーです。
なぜならば子供は生きてるか、そしてすべては子供の主観から見たものの考え方を捉えるか。
完璧な母親というものはいないか。
子育てを完璧にしている母親がいないって話はここではしてないってことです。
完璧にして良くとしてまいが、必ず失敗はする。
これはただ精神分析の治療の部屋についての話を具体的にはしてるんですけど。
松木さんは母親になって、松木さんは完璧な母親ではない。
松木さんはグッドイナフマザーなんですよ。
で、まあそれはいいとして、ここのところは読み物なんです、私にとっては。
大事なのはここで点を置きますよね、と。
松木さんはそうは言っても解釈頑張ろうとしてますけど、あなたのその怒りはとか言おうとしてるけど、
相手はもう激怒していて今にも自分を殴りそうなんで、怖えーとか思ってしまうわけ。
で、当然この患者もいい加減にしてくれってめちゃくちゃ腹も立ってると思うんですよね。
この怒りは転移ですよね、間違いなく。
普段の松木さんは別に人に会って怒るってことはないわけだから、
これは明らかにそのクライアントさん、自己愛のクライアントさんが怒りと憎しみをガンガンガンガン投入してくるから、
この怒りが松木さんの心の中に入ってきちゃって、松木さんも怒ると。
これはあれですよね、子供の喧嘩ってやつですよね。
子供がめちゃくちゃ相手が悪口言ってきてこっちもだんだん腹が立ってくる。
これは向こうの怒りがこっちに入ってきてると考えられるから、転移ですよね、完全に。
で、この転移が起きますよね、こういう人の場合特に。
で、この転移をそのまま扱うのが精神分析なんですけれども、
この転移は病棟にも入ってきますよね。
つまりその人入院してるんだけどやっぱり病棟のスタッフがみんな怒っちゃうわけですよ、こういう患者さんがいると。
お前はなってないっていうような話をされて、こういう患者さんは入院して、
全てのスタッフに対して投影と投影ドイツ化をやるんで、
全てのスタッフを親扱いして、しかもその親が理想的な親じゃない場合はブチ切れるわけですよ。
要するに威嚇したりボタボタにするとか言っちゃうわけですよ。
そうすると病棟スタッフ全員がここに巻き込まれて、みんなが怒りだす。
もうあのような人入れないでください、松木先生みたいな感じになってくるわけじゃないですか。
これを松木さんがどのように扱ってるかっていう話なんですよね。ほんのちょっと書いてあるんですよ。ちょっとですけどね。
こんなに重要な話じゃないことになってるんですけど、僕はこっちに興味があるんですよ。
スタッフに対してやったことが書いてあって、彼らの怒りを言語化してもらって、それこそ言語化してもらって、
そして肯定したと、要するに怒ってOKってことになってる。
33:01
ただ、その患者の、あの自己愛の患者の怒りは自己愛だからああいうふうになるんであって、
彼は本当のところは非常に抑鬱的で、自分がすごく惨めな状況にあるというのを想的に防衛しているだけなんだっていう話を
だけなんだって言ったのか知りませんか。伝えていくわけですよ。
要するに、松木さんが心の中でこの患者さんについてどう思っていて、自分はどういう対処方針で言ってるのかという話をしてるわけです。
これで病棟が機能するようになったみたいな話なんですよ。僕が一番この番組でもそうですし、お伝えしたいのはこれなんですよ。
こうすることで僕らは、多分その病棟スタッフは働くメンタルが取り戻されるんだと僕は思うんですよ。
これって結局松木さんは何をしてるのかというと、精神分析を参照してるじゃないですか。
結局のところを使われている知識は精神分析の知識だし、その怒りとか、怒りの元になっている欲打つといった話は、その用語からしても力動的な流れの中の用語なわけじゃないですか。
これを踏まえながらものを見ていけば、病棟というすなわちビジネスの現場が機能不全を起こしかけていたところから機能が取り戻されていくという話じゃないですか。
僕はここのところだけを使いたいんですよ。
ここのところだけを使うのはありだろうと思うんですよ。
ここでですね、いやいやこの自己愛のパーソナリティの人は大変だけど、それが君たちの仕事だろうみたいなこと言ってもいいわけじゃないですか。
そしてそういう話しょっちゅう聞くじゃないですか。
僕はでも松木さんそういう話をしなかったと思うんですよね。
あくまでも精神分析の流れの中でお話しされてたと思うんですよ。
僕はそっちの方が効果が全然あると思っているわけですよ。
プロフェッショナルとしての流儀みたいな話をするよりもずっと。
それがプロフェッショナルの流儀なのかもしれないけど松木さんの場合には。
なんであれですよ。
精神力動みたいな話、つまりここの病棟全体に定位状況が発生しているんだと。
ものすごい強烈な怒りを持っている患者さんを持ち込んだから、その怒りがみんなに拝接されて、みんながその患者さんの気持ちというものにならされているんだと。
そういう同一化なんだという、定位なんだということを言ったわけですよね。
定位なんだからみんなが怒るのは当然で、その怒りOKと。
だってその怒りは患者の怒りなんだから、それをみんなが拝接されてみんなに定位して怒っているんだからしょうがないでしょうと。
実際みんな怒ったじゃんっていう言語化したからね、それが伝わるわけですよね。
で、それを肯定すると。
その上であの怒りっていうのは本当は自分がすごい惨めだとか、この歳になって自分が経済的に自立していないといったことを、なんて言うんですかね。
36:05
ごまかすというか、それを直面できないから、自分に向き合えないからみんなに向かって怒りを拝接しているんで、みんなが怒っているのはこの拝接物を飲み込んでるからなんだよと。
だから本来は同情すること、同情的な相手なんだみたいな話をしてみたら、病棟スタッフが機能するようになったって話ですよね。
これが精神分析を参照するとビジネスが機能し出すっていう話だなと思うんですよね。
だからここが3行か4行くらいしか書いてないんだけど、ここがポイント。
もっともこの話を少なくとも理解するには、結局は精神分析の構造というものを理解するしかないんで、非常に遠回りな感じがするんですけれども。
僕がでも3ヶ月チャレンジでやってるのはそういうことだよなと。
この病棟の人たちってみんな健常者じゃないですか。
少なくとも神経症水準よりは明らかに健常側ですよね。
多分この病棟スタッフの人たちの中で現実健闘の書いてるっていう人はいないと思うんですよ。
この話で伝わっちゃうんだからそうだと思うんですよね。
いやいや、そんなね、訳わかんない親のことで怒ってる怒りを私にぶつけられても困るんですけどって言って、逆に逆切れして松木さんをボタボタにするぞみたいなことを言い出す人っていないわけじゃないですか。
それは現実の健闘、つまり二次過程ですよね。
現実原則で生きているスタッフだからそういう話にできるんだろうと思うんですよ。
一次過程のハイラプ原則で生きている人たちのスタッフだったらこういうことはマジ通らないと思うんですよね。
だから私は3ヶ月チャレンジでやっぱりボーダー水準よりは言葉が通じるっていうのを最低ラインに置くっていうかそこにラインを置いてみて。
だから未成年ではないってことなんだけど。
置いてみて、そうなってしまえばですね。
つまり抑止ポジションを取れる人からしてみると、この話はこの話で、実際にはね、怒りを拝接されればその時は取り乱すことはあると思うし、そんなボタボタにされてはたまったもんじゃねえから人を呼ぶみたいになると思うんだけど、それはそれでいいと思うんですよ。
やっぱり機能するかどうかってのはそういうことではなくて、結局は現実見当というものがつくかどうか。
だからさっき途中で言ったように、自分の主観を現実というチャンネルリングに合わせられるかどうかなんだと思うんですよね。
チャンネル合わせができるかどうかにかかってると思うんですよ。
ラジオの周波数を合わせるみたいなもんで、昔の昭和のラジオはそうだったんですけどね。
つまみみたいなのを前にしたり後ろにしたりして、急に野球中継が始まるっていうザザザザっていったところから、投げました!みたいな声が入る状態、あれにするってことなんですよ。
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ザザザザってなってるってことなんですよ。
我々の主観を放っておくとそういうふうになっちゃう。
しょうがないんですよ。
現実と主観は別物なんで。
しかも主観が現実そっくりの振る舞いができるように、砂嵐みたいなんじゃないんだってことなんです。
よっぽど狂ってない限りは砂嵐じゃないんですよね。
現実そっくりに見えるんだけど、現実ではないっていうチャンネルがあって、そこから現実のチャンネルに合わせましょうねという話。
やっぱり現実のチャンネルに合わせてみればですね、ここは平等であり、つまりKですよね。
ここは平等であり、精神障害の人がやってくるところでもあり。
それを何とかするスタッフが自分らであって、だからああいう人のああいう無茶苦茶な状況で、ここに転移状況が持ち込まれて無茶苦茶になっちゃってるんだけど、それはやっぱりそれはケアするべき対象なんだってことですよね。
で、なんで私がケアしなきゃならないんだってなってしまったら、それはもう現実はスルーされてることになるわけじゃないですか。
もういかにももっともなんだけど、そういう言い分で、いかにももっともなんだけど、現実というものが無視されているわけですよね。
現実をあるべき姿にしようとしているわけですよね。
ああいう訳わかんない感じじゃなくて、もっときちんとした患者に来てほしいって言い出したら、もうそれは現実の方を自分の都合に合わせて変えようとしている。
だからそれは快楽原則になっちゃっているじゃないですか。
炎上をXはしちゃいけないんです。私によって心地よいXであってくださいみたいな。
それっておかしいと言えばおかしいわけですよね。
もちろんこの種の相互調整みたいなことも世の中は必要なんだろうと思うんですけれども、心理臨床の世界では一旦そっちは棄却するって感じがしますよ。
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