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2020-09-09 28:06

【GMV 221】妖怪べきねばはどこにいる?

リアリティのあるイメージがリアルを凌駕することはない
00:05
おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
えーっとですね、ムロ側の山間昭さんという方が
妖怪ベキネバというタイトルの電子書籍を出されたんですね。
で、アンリミテッド対応なので、
まあ無料で、無料では本当はないけれど、無料で読むことができます。
私もアンリミでダウンロードして読んだんですけど、
制作の過程を少し知ってるんで、どういう本であるかは大体知ってたんですけれども、
一気に通しで読んでみて、
あ、なるほどなと思うところがいくつかあったんで、その話をしたいと思います。
えーと、高いものではないので、ぜひ読んでみていただいたらと思います。
ブログでこれを紹介すればね、アソシエイトでアフィリエイトになるんだけど、
このポトキャストでこれを喋って、皆さんが読んでいただくと、私には本当に何もならないので、
このインセンティブのないCMって不思議だもんだなと思うんですけど、
CMじゃないんで、これから話す内容のネタになっておりますんで、それで十分かなとも思います。
この妖怪ベギネバっていう言葉なんですけど、マストとシュットですよね、英語で言うところの。
社会常識であったり、マナーであったり、良識であったり、空気であったり、
あまり私たちが気持ちが良いと思っているものではない。だから妖怪と付けてられるわけですけど、
これに結構苦しめられているんですよ、自分はっていうエッセイなんですね。
で、みんなそうなんですよ。みんなこれに結構苦しめられているというか、
こういう生活の、私たちのようなそれなりに文明化された生活の大半の苦しみって実はここに由来するんじゃないかと思うんですけど、
自分ぐらいなんですが、だったらやめればいいんだけど、なかなかそれがうまくいかないというのには訳があるんですよ。
で、一つではないんだけど、読んでつくづくわかったことはですね、
ベギネバは本当にですね、心の中にしかいないんですよ。
で、それは多分妖怪ベギネバっていうぐらいだから、そんなものがそこらへんにうろうろしてるはずないですから、
自分の心の中にしかいないということは当たり前なんですけれども、これが私たちは実はよく理解できていない。
03:09
で、不審なことにですね、よく思うことがありまして、
ある種の事柄については、リアルということと、つまり現実であるということと、リアリティがあるということ、
つまり現実的であると私たちが称することの間にはギャップがあるなと思うんですね。
これね、一番いい事例は性的な話なんですよ。
性的な話になると、どうしても品がなくなってしまうのが一つと、もう一つはですね、
僕やっぱり男なんで、男のままのファンタジーに話が行っちゃうんですよね。
これが気に食わないんですよ。
何かいい事例が欲しいんですよね。
何にしてもですね、リアルであるということと、リアリティがあるということが、
なぜか関係のない領域というものがある気がするんですね。
いっぱいありますね、これは。
例えば、やっぱり知らない世界がいいんですよね。
知らない世界がいいんですよね。
皆さんがあんまり知らないという前提でしゃべりますが、
知ってる人も結構いるのかもわかりませんけどね。
ヤクザっていう人たちがいることになってるじゃないですか。
暴力団でもいいんですけど。
私たちが持っているヤクザのリアリティ、つまり現実的なヤクザのイメージというものと、
おそらく実体としてのリアルのヤクザ屋さんたちのイメージ、
ヤクザ屋さんたちの実体、これはイメージじゃないとは、
多分相当ズレがあると思うんですよね。
例えば映画とか小説とかフィクションですよね。
あそこでリアリティの方を重視しないとダメだと思うんですよ。
リアルなものを描いたってウケやしないと思うんですね。
そういうことってあるじゃないですか。
リアリティと言ってる方は実はリアルとかけ離れてたりするんだけど、
リアリティが大事だったりする。
そのみんなが持っているイメージが大事。
時代劇ってそうです。
これがいい事例。
時代劇と歴史ってすごくむちゃくちゃ全然ズレてるけれども、
時代劇を見てる人はリアルな歴史を見たいわけじゃないですよね。
時代劇は劇画みたいわけですよね。
リアリティが感じられないとダメなんだけど、
例えば出てくる刀が全然刀じゃありませんとかはダメなんだけど、
でもリアリティがあるだけであって、
リアルであってはいけないんですよね。
そういうものってあると思うんですね。
この妖怪べきねばっていうのはリアリティのある世界なんですよ。
何々すべきっていうリアリティが、
あれ非常に僕は不思議だと思うんですけど、
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リアルに何々すべきであることとはあんまり関係がないんですね。
ましてリアルに何々であるということはほとんど無視してかかる。
中にあったのが一つが、
例えば、年長者は立派であるべき。
この場合の年長者には立派な年長者、
年長者ってこうであってほしいなっていう、
著者の山本昭さんのイメージがあって、
しかもそれには相応のリアリティがあると思うんですね。
立派な年長者イメージの、きっとこんな感じであるだろう、
きっとこんな感じであるべきでしょうっていう。
それはでもリアルな老人とは何の関係もないんですよね。
老人って今言いましたけど、年長者と言いつつ、
山本昭さんは35歳以上をここに指している。
35歳って私から見ると和行道ですよ。
年長者で、何歳から見るかによって年長者で当然変わりますから、
なんですけど35歳の何とかとかいうのは、
ありそうですけど、でも35歳っていうと、
僕なんかも40間もなく8ですから、
若い、非常に若い。
年長者は立派であるべきとかいうのは、
何歳の人が言うんだって感じしかしないんだけど、
それは関係なくですね、
山本さんの中の35歳という人たちは、
こうであるはずだ、こうであるべきだ、
このべき込みで現実感があるんですよね。
きっとこうであるだろうというのと、
こうであるべきだというのは一緒になるんですね。
時代劇みたいに。
それは35歳のリアルとは関係ないんですよ。
こうして考えていくと、
あそこに書いてあった妖怪べきではは、
世の中的にはこうであるべきだ、
社会的にこうであるべきというのに苦しめられる、
というふうに書いてあるんですけど、
ここにリアリティのある理想というものがあって、
それはですね、
世の中の理想とは実は関係があんまりないんですね。
読んで私が感じたこととして、
まず、世の中的にどうであるべきというのが、
山本さんのそれと私のそれとでは一致していない。
私の中では、あのうちのいくつかは、
というか7割ぐらいは、
別に世の中的にもそうであるべきではない。
つまりあれは、
山本さんの心の中の、
心の中で世の中はそうであるべきというふうに
世の中が言っているというイメージなんですね。
しかもそこには相応のリアリティがある。
ややこしいんですけど、この辺の部分。
この辺がややこしいから、
フェロイトはこれを一発で超自我と名付けちゃったんですけど、
一発で名付けるとよくわからなくなるんですよ。
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超自我というともう心の中にしかない感じがすごいするんですが、
妖怪メキネはですね、超自我なんですけど、
外にある感じがするんですよね。
世の中的にはこうであるべきだ、
私がそう思っているわけじゃないんだ、
というニュアンスがあるんですよ。
お母さんがとかいう話も出るんですけど、
私はですね、たぶん、
もちろん親御さんのべきねばに貢献している程度は高いんだけど、
本当は親じゃないイコール親なわけじゃないんじゃないかってすごく思うんですね。
なぜならこの妖怪べきねばを盾にとって、
親と喧嘩したりするはずなんですよ。
親御さん、私知りませんけど、私はするんですよ。
いやいや、親父それはおかしいだろうって言うんですよ。
厳に言っちゃうことがあるんですよ。
じゃあその、私がおかしいだろうという限りからにおいては、
自分の正しさを盾にとって父親と喧嘩するんだけど、
その正しさが、スーパーエゴが父親からのものであるとすると、
おかしいですよね、この構造。
なぜかというと、
これは多分やっぱり私の中の正しさが、
父親成分100%なんかでは全くないから、
そういうのが起こるんですが、
この場合の私の中の妖怪べきねばというのは、
当然、私の中にしか存在しないんですよ。
私の中の妖怪べきねばというのは、
自分の中にしか存在しないんですよ。
自分の中の妖怪べきねばというのは、
自分の中にしか存在しないんですよ。
自分の中の妖怪べきねばというのは、
当然、私の中にしかいなくて、
世の中的にそうであるべきなわけではないし、
常識的にそうであるべきなわけでもないし、
日本の空気的にそうであるべきでもない。
ただし、私はそうなぜか思い込んじゃっている。
そういうもの。
しかもそこに私はリアリティを感じているんですね。
世の中はこうであったらいいのに、
こうであるはずなのに、
こうであるべきなのに。
例えば、
今もあまりないですけど、
出版社の編集さんと打ち合わせをしてきたと。
打ち合わせをする予定になっていると。
今日の11時からだと。
私は10時50分くらいに着いたと。
11時になっても来ないと。
20分になっても来なくて、
そのところに連絡が来て、
すみません、1時間遅れます。
というときに発動するわけです。
連絡をよこすべきだろうというこの感覚は、
もっと早く連絡をよこすべきじゃないのかという感覚とか、
そもそも先に来ているべきなんじゃないかとか、
考えるじゃないですか。
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このときの考えの中には、
先に来ているという現実の方が、
実際に起こっている現実の方が、
現実に優先されるはずであるという感じを抱くんですよ。
つまり、
どんな理想的なことであっても、
現実に優先されるはずはないんですよ。
理想というのはイメージですし、
言ってみればVRみたいなものなので、バーチャルなので、
例えばそれがどれほど望ましくても、
そっちがこの物理的実態を持っていて、
触ったりみんなで見たりすることのできる現実に対して、
優先的に振る舞えるはずは、
ないんですよ。
だから絶対に理想の方が価値が上に出てくることはないと思うんですけど、
どういうわけなのか。
そしてましてや、
現に起こったリアルよりも、
理想の方がリアリティを持つなんてことはありえないんですよ。
まさにそれは、
歴史的事実よりも時代劇が優先されるみたいな、
話になってしまっているんだけど、
脳内ではそれが、
もっとこうあるべき現実が、
リアルだったはずなのに、
みたいな雰囲気を帯びてくるんですよね。
雰囲気を帯びているというか、
私の感情をそうやって揺さぶるんですよね。
先に来ているべきだとか、
もっと早く連絡をよこすべきだとか、
遅れるにしても30分以内にするべきだとか、
いうのがもうシュッとじゃなくなっているんですよね。
事実になってしまっている。
当然だと。
だけど当然だと言おうと、シュッとだと言おうと、
マストだと言おうと、べきだと言おうと、
そうなっていないのは確かですよ。
だからここで苦しむんですよ、人は。
そうなっていないものの方がリアルなはずなんだと。
このリアルよりも一層そうであるはずなんだと。
だんだんそこからですね、
そこで問題にしているのは実は、
どっちがリアルであって、
どっちが自分次第で戦っているんだけど、
やがてこれが違う文明に移って、
ここで俺が損した30分をどうしてくれるとか、
そういう話にしちゃうんだけど、
多分僕はこれは副次的に出てきている感覚であって、
一番の問題は、現に目の前にあるリアルよりも、
優先されるはずだったら、
もっとリアルなリアルみたいな。
そこがおかしいんですけどね。もっとリアルなリアルはないから。
だけど、みんな怒るときに言うのはこれなんですよね。
時間になっても現れないとか、
オンラインで11時にオンラインやりましょうねと言っても、
スポカスとかいうことが起きたときに、
言い始めるのはこれなんですよ。
自分が負債を負って、
相手が負うべき負債だったから、
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押し返してやりたいっていう言い方をするんだけど、
実際には多分、
そこでオンラインミーティングが行われているという
リアルこそが、
本来あるべきリアルで、
現に自分が味わっているこのリアルは、
なんかこう一段とですね、
価値の低いリアル。つまり、
べきであったのにそうではなくなってしまっている
このリアルに
追い落とされた自分。
それがそもそも許せないっていう、
そういう感じがするんですよね。
どう見ても馬鹿げてるんだけど、
自分よりもリアリティがあるリアルというものは
ないので馬鹿げてるんだけど、
それがあるはずだって思ってしまうんだ
と思うんですね。
最近読んだ、
キレる私をやめたいという漫画でもあったんですけど、
お母さんはいつも私が怒って文句を言うと
ヘラヘラするんです。
ここにヘラヘラする母親というリアルよりも、
もっとちゃんと真面目に聞いてくれるべきだろう
という、そっちの方が本来の母親として
よりリアルであるはずなんじゃないか
っていうニュアンスがあるじゃないですか。
ヘラヘラしてるのはいけないかもしれないけど、
でもヘラヘラしてるのは事実じゃないですか。
事実よりもよりリアリティのある現実が
それにとって変わるということは、
なかなか起こらないというか、現に起こらないですよね。
起こらないからその人は葛藤してるわけで、
そのことが全部妖怪べきではなんだ
と思ったんです。なぜ思ったかというと、
あそこに書いてある妖怪べきではは
僕の中にはいないから。世の中的にはそれが
当然だろうって著者が書いているときほど
いやいやそんなことはないだろうって思うわけですよ。
なぜなら私は世の中の一員ですから。
私は少なくともそうは少しも思わないと思った時点で
お前は世の中的に間違っているんだと言っても
著者は主観だけど
私は著者に対しては客観じゃないですか。
だから世の中的にそうでない部分が
どうしても残りますよね。
常識的にっていう話ならば、
まあ私は非常識なのかもしれないけど、
世の中的にという話ならば、私は間違いなく
世の中の一部なので、全部じゃないですけどね、
一部なので、世の中的にそうであると言われても
それは100%そうだわけでは決してない。
結構違うと思うんですよね。
結構違うというのはどういうことかというと、
つまり、べき寝場は
外に何か全くいないという風に考える方が
自然なはずなんですよ。
35歳になったらこうあるべきとか、
35歳になったら時々はテレビに取材される立派な大人であるべきとか
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そう思う人も中にはいるかもしれない。
でも世の中的にはそうではない。
そう思う人も中にはいるかもしれない。
でも世の中的には全然そうではないような気がするんですね。
だって、私の知っている35歳は誰もそうなっていないんで、
し、そのことをみんなでバッシングしまくっているわけでもないので、
どうしてもやっぱりそういう感じがイメージとして湧いてこない。
それはだから、私の中にはないべき寝場なんです。
私の中には別のべき寝場がある。
こういう風にいろんな人がですね、
いろんな妖怪べき寝場を
いろんな人たちが
いろんな妖怪べき寝場を持ち歩いている。
そしてお互いの妖怪べき寝場同士を
あれですね、
ネットゲームみたいにして争わせる。
それがつまり葛藤というやつに
きっと違いないだろうと。
この場合、私たちは妖怪べき寝場の存在をですね、
外にあると思うんですよ。
特に自分が喧嘩をする時。
正しさはですね、バーチャルなんかじゃなくて
リアルなんだって感じがする。
ここが厄介なところで、
なんかね、
あんまり感じの良くない編集さんに
1時間くらい待たされてみると分かるんですよ。
この正しさは自分の中にしかないと
頑張って思うとしてもなかなかそうはいかない。
なんかね、急に独立し始めて
誰もが自分を正しいと言ってくれるような
リアリティを持ち始める。
って感じなんですよね。
これは嫌じゃないという意見も結構あるんですが、
私はこれが嫌なんだと思うんですよね。
人はこれで核戦争だってやりかねないんじゃないかと思ってるんですよ。
そう考えると嫌じゃないですか。
つまり、
コストパフォーマンスがおかしいというのは
言い方としてあれかもしれませんが、
やってることと怒りの程度が
釣り合いが取れてない感じがするんですよ。
そういうのはやむを得ないかもしれないんだけど、
でも、
核戦争のボタンを押すのは明らかに行き過ぎてるじゃないですか。
ここの釣り合いが取れてる感じがしないケースが
圧倒的に多いんですね。
怒るにしたってそこまで怒ることはないだろう
って感じがするんですよ。そうするとですね、
じゃあどこまで怒るべきなんだろうって思うと、
そもそも怒んないのが一番いいんです。
って感じがしてくるんですよ。
それが正しさなんで。
100人に聞いてみれば
30人ぐらいは同意してくれる可能性もありますが、
その30人にも温度差があるはずなんで、
私と全く同じレベルで怒ってくれる人は
たぶん1人もいないと思うんですね。そうなってくると、
このベキネバは害罪はしないんですよ、結局。
だって、
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それが正しさが客観的であり、
リアルであり、現実を打ちまかすほどの
温度差は100人が100人とも同意するはずだし、
100人が100人とも私と同じ温度であるはずですよね。
30人ぐらいしか同意してくれなくて、
かつ温度がバラバラになっちゃうということは、
みんなが内面で持っているものなんだって
考える方が自然だと思うんですよ。
みんなが内面で持っているということは、
持っているということが、
ヤママさんの妖怪ベキネバを言うと
よくわかると思うんですね。
なぜなら、一つ一つの、いろんな妖怪ベキネバが出てくるんですよ。
年長者は立派であるべきとか、
新人の社員は電話を取るべきとか、
いろいろあるわけですね。
貢献するべきとか。
全部、いかにもヤママさん、著者らしい。
しかも、
一つ一つのべきがですね、
その人の経験とか、
生育歴を非常によく反映している印象があって、
一つ一つはその人の中にしかあった。
おそらくないというか、全然感じられない。
世の中的じゃないって感じがするんですね。
それを僕らも、
いろんなバリエーションで持っているわけですよ。
だから、
これを手放すということは、
できるはずだと思うんですね。
だって自分の中にしかないものなので。
そして、それは論拠としては、
イコール親じゃないし、
多分本とか結構多いと思うんですよね。
本を読んだとか。
先生っていうこともないわけじゃないと思うんですけど、
あんまりね、先生はあると思いますよ。あると思うんですけど、
やっぱり、どちらかというと経験則みたいなもの。
こういうことを言っておくとうまくいくんだとか、
時にこういうことを言ってしまうとみんなにバッシングされるんだとか、
そういう体験が自分の中で、
だんだん作り上げていくわけですよね。
私は、
例えば、新人になったら電話を取るべきって思いませんし、
感じもしませんし、
その会社でそう言っていても、多分同意できない気がするんですよ。
新人だったら、
空のコップにビールを注ぐべきって、
昔、居酒屋に泊めててね。
でも私、その中で一番喧嘩したらみんなに負けそうだったのに、
ガンとして一回も先輩に注がなかったですからね。
ガンとしてっていうのは、僕の変なところなんですけれども、
怒られても殴られてもいいから、
コップに注ぐのはやりたくはないっていう感じなんですよ。
で、それが、
すっごい突っ張ってるみたいな感じじゃないですか。
そうじゃないんですよ。
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やたら恐縮してるんだけど、そういうことはしないんですね。
いろんなべきネバがあるんですよ、ほんとに。
全然私はそういうことをしたいとは思わないっていうのが、
やっぱりあるんですよね。
変なもんなんですよね、こういうのは。
多分自傷やゆずりかな、自傷やわせるところはありますね、多少。
で、結局、
そういうことを言い出すと、
絶対どこかでべきネバ同士を戦わせる、
ネットプレイを始めちゃうんですよね。
オンラインゲームを代理戦争みたいにして。
さっき私が途中申し上げた通りで、
父親に向かって、親父それはおかしいだろうって言うわけですよ。
これほど変な構図はないと思うんですよね、私は。
いっつもスーパーエゴのことをイメージしてるから。
自分のスーパーエゴを父親と争わせる。
でも現実にはそういうことは、
自然形で起こってしまう。
このスーパーエゴの論拠が父親であるとすると、
こんなナンセンスな話はない。
でも自分の中では父親は起こってしまう。
おかしい感じがするし、
これを言っても不自然な感じはあんまりしない。
あんまりいい絵ではないと思うので、
何がいい絵ではないかというと、
結局これは父親だから平気で言えるわけじゃないですか。
例えばこれを妻とやるのでもはばかるくせに、
父親だと平気でこういうことを言うと、
これがいやらしいなと思うんですよね。
結局。
本当のところこの人は、
平気で戦いを挑んでこないだろう。
仮に来たとしても、
私が困ることは何もないという降参があるわけですよね。
こういう時に。
しかもスーパーエゴ的に、
父親が私にそういう長自我を植え込んでいるのであれば、
これを使って喧嘩をしても、
何にも自分は責任がないような気がしちゃうんですよ。
この真理って分かっていただけますかね。
この正しさを教えたのは、
平気で戦いだろうということですよ。
非常に気楽なんですよ、こういう喧嘩はね。
だから私はこういうことをサラッと言っちゃうんだなと思って、
自分でちょっと嫌なんですね。
ということがあるので、
長自我。
ベキネバっていうのは、
僕らが世の中のリアリティだと思っている、
世の中のバーチャルだと思うんです。
それは本当に時代劇の感じが強いと思います。
だからああやって書いてみると、
矢本さんにどういう影響があの本を及ぼしたか、
僕、本っていうのは書くと著者に一番大きな影響を及ぼすと
よく思っているんですが、
どういう影響を及ぼしたか分かりませんが、
私は基本的にこれを書き出すことによって、
私たちは長自我のリアリティの無さというものを認識している。
そういうものを認識して、
それによって長自我の生み出す、
27:01
現実に不毛な戦いを挑むという葛藤から抜け出せるのではないか。
抜け出すきっかけが得られるんじゃないかと。
以前、ブログで紹介しているゲシュタルト・セラフィチュの
そういう手法だなという風な気がしました。
本当のお母さんではないものを、
本当にお母さんだと思い込む。
本当のお母さんではないものを、
本当にお母さんだと思い込む。
本当のお母さんではないものを、
本当のお母さんだと思い込む。
母親とはこう言う存在なんだと思い込む。
シュッと思うんですよね。
当然、母ならこう言うだろうみたいな。
それといつも私たちは戦うんですよね。
親が嫌いであれば、
母親と戦っていると思ってる。
でもそれは私たちのイメージしている
リアリティのある母親、
ああ、そのままに出てくるんですよ。
ある刃法やとはそういうものだと思っているものなので
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