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2023-11-26 41:53

失恋を受け入れるハードル【GMV 890】

対象喪失をワークスルーする。

サマリー

遅れていたが、インフルエンザワクチンを打ちに行っています。受付事務の方は厳しく、1分で終わるはずの注射に1時間もかかるのは大変ですね。自分の心の中にある苦しみと対象喪失を受け入れるハードルについて考えています。対象喪失は人間にとって受け入れにくいものであり、対象喪失が認められないと様々な現象が起きる可能性があります。また、対象喪失を受け入れられない場合には償いの行動が起きることもあります。人間の心理現象や空想による不安や苦痛について考察し、万能空想に基づいて行動することのリスクについて警鐘を鳴らしています。不在論を読むことで、人間の辛さやむちゃくちゃな発想に結びついて苦痛を感じることが分かります。

インフルエンザワクチンを打つ
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
はい、11月25日土曜日、夜の20時53分です。
今日はですね、娘と一緒にインフルエンザワクチンを打ってきまして、
まあ、そこの病院は、先生はうまいんですけど、受付事務が厳しくてですね、
たった1分で済む注射をするのに、ほぼ1時間っていうね。
この辺は古い町で、しかもお年寄りも多くいらっしゃるので、
例えば車がものすごい混むんですよね、人気のある病院とかになると。
みんな車でしか来られないわけですよ。早々、歩いて来られない方が足腰の問題とかあってね。
で、ちっちゃい病院に殺到するんで、腕はいい先生っているんでね、
そこそこお金のあるお年寄りもいらっしゃる町なんで、もうこれが大変なんですよね。
ということで、インフルエンザワクチンを。
先々週あたりコロナで、今週はインフルと。
まあ、腕がいちいち痛くなったりはするんですけど、
さすがにインフルはね、副反応は大したことがありませんので、
まあ別にこれをやるぐらいはなんてことはないんですけれども。
で、今日、そうそう、不在論読んでるわけですよ、今。
今日はこの話をもうぐんやりとしていこうと思ってるんですけど、
ここのところちょっとね、実務的な話とかワークとか言ってみたりしたんで、
不在論を今日は喋っていこうと思ってるんですけど、あんまり脈絡もなく。
だから相変わらずのグダグダ回という感じがしてきてるんですけどね。
不在論、この本、非常にいいのはですね、まず120ページしかないんですよ。薄いんですよ。
で、不在をテーマにしてるんだけど、これでいわゆる、いわゆるって言ってもわけわかんないですけど、
対象喪失について
BEYONDのグリッドまで説明があって、ようやく僕これを読んでですね、
グリッドが少し、全くグリッドよくわかんなかったんだけど、
BEYOND独特の記号の表なんですけどね。
少し何を言わんとしてるのかわかってきて、そうするとまたえらい興奮してくるんですよね。
この興奮を分かち合うためにこの番組やってるようなものです。
正直ですね、なんつうんですかね、こう、誰かに突っ込んでほしいなぐらいに思うんですよね。
こんなの聞いている暇な臨床心理師の方いらっしゃらないんでしょうけど、
いや佐々木さんそれ全然違うからみたいなのですら欲しい。
なんかもうね、ただ僕がしらしら喋っていて、
一部すごい面白がってくださっている方がいらっしゃっているというのがなんとなく伝わってきてるんだけど、
一体この番組は何なんだろうなっていうので、ずーっとこう考えさせられているわけですよ。
かつそもそも精神分析、なんつうんですか、このディレッタンティストっていうのしか言いようがないんだけど、僕のような人間は。
この、共有できないわけですよ。だって不材論読んでる人見たことないですもんね。
世の中にはほら、あまり読まれてもいないのに読むべきで読むべきだと言われている推薦図書なるものがあるわけじゃないですか。
僕はヒマニア風で結構読んでるんですけどね。
例えばD.H.ロレンスの翼ある蛇とかって、いわなびとかあるんだけど、まあ読んでないですよね、普通一般的に今時日本人は。
まあ別に一般的に日本人が読むようなこともないか。
チャタレイフ人の恋人とかもね。で、僕は読んでるんだけど、あれはまだ、でもなんかこう推薦図書とかに乗っかってくるから、まだしもじゃないですか。
これがもう、なんかね、不材論とかになってくると、推薦図書にすら乗っかってこないわけですよ。
だから、ある種の世界では筆読書なのかもしれないけど、読んでる人は見たことないぞみたいな本って、もう扱いに困るんで、ある意味ね。
これに興奮してしまうと、こういうところで喋っとくように僕はないわけですよね。
まあブログに書いたりしてもいいのかもしれませんけど、ブログに書くって結構、なんていうんだろうな。
こうやってパッパッパッと喋るのとはちょっと違って、えらい手間をかけなければ一つ一つ進められないみたいなところもありまして、
まあそういうことしなきゃいいのかもしれませんけどね。
とにかくこれまでいろんなところで読みかじり、読みかじりしてきて、なんとなくは理解してきたつもりになってるのが、
一段ブラッシュアップされていく感じが、いちいちですね、一つ一つブラッシュアップされていく感じがこの不材論にあって、
松木先生すごいなぁみたいに、勝手に先生呼ばわりしてるんですけどね。
僕は生徒でもなんでもないんですけど、この根源的苦痛の精神分析と書いてあって、
これ根源的苦痛なのかな、やっぱりが思いますね。
失恋とかですかね、あるいは私別みたいなものですか。
お、その赤ちゃんが、赤ちゃんは本当気の毒だっていつも思うんですよね。
泣いてるわけですよ。
入社さされては泣いて、お母さんがいないときっては泣いて、
まあいちいち致命的なことが起きてると思っちゃうじゃないですか。
その先どうなるのかわからないから。
だから赤ちゃんはなんかいきなり痛いわけですよね、腕とか。
針を刺されてるということすら知らないのに、痛みだけがやってくるから。
それは根源的苦痛にもなりますよね。うわーって感じがするじゃないですか。
しかもそれがどういう人によってなされてるのかもわからないわけですよね。
UFOの火星人の話とかあるけど、ああいうやつなのかもしれないし、
善意なのか悪意なのかもわからない。
だけど苦痛だけはやってくる。恐ろしいっちゃ恐ろしいですよね。
何もなんてことはないただのインフルエンザワクチンかもしれないんですけども。
まあまあそんなことも考えながら読んでいるわけですね。
一つ、これでだいぶ前からすごく気になる言葉としてあったのが、
幻覚や幻聴について
対象喪失という言葉なんですね。
これは対象の不在と対象喪失ってどう違うんだろうなっていうのは前々から思ってたんですよ。
この松木さんの本を読む限り、僕はそんなにこれはずれてなかったなと思うんですけど、
要はおっぱいがないですっていうのは赤ちゃんにとっては大問題だから、
悪いおっぱい作り出してしまうわけですね。
鬼が島に鬼退治にみたいな感じで、
こんなに私自分が苦しいのは鬼がいるに違いないみたいなこういうことですよね。
つまり事態を把握できていない苦しみなわけですね。
対象の不在が悪いおっぱいですってことは相当ずれてる判断なんだけど、
僕らでもこういうのをしちゃうわけですよ。
病理じゃなくても病的になった時にはこういう判断をしちゃうわけですよね。
例えば恋人に振られましたと。
これは自体はやむを得ませんよね。
でも納得がいかないと。
この苦しみは何なんだと。
そうか、俺の悪口を吹き込んでる連中がいっぱいいて、
恋人はそれを真に受けてしまったに違いないっていうこういうことで悪いおっぱいが作り出される。
つまり対象の不在というものがそのまま対象喪失に行けないわけですね。
行き着けない。
対象喪失っていうのは要するに苦しいかもしれないけれども正しいわけですよ。
つまり対象は失われましたと認識できる。
悪いおっぱいが私を苦しめてるんじゃなくて、お母さんがいないんだ。
それは大変つらいことかもしれないけど、いないんだからしょうがない。
いないんだからしょうがないっていうところまでは行き着けないかもしれませんが、
いないんだというこの正しい認識にまず至ることができるかどうかですよね。
ここにハードルがあるってことですよね。
一時過程と二次過程というのは、一時過程から二次過程に移るにはそこに一つハードルがあって、
正しい認識に至るために普通というものを一旦は引き受けるしかない。
そこで考えるってことをしなければならない。
ただただ万能空想をやってる場合ではないですよということなんだけども、
あまりに苦しいと我々はやっぱり赤ちゃんがそうであるように万能空想に走る。
それは決して珍しいことではないわけですね。
あ、やっぱりあの女友達は悪そうな奴だったから、
俺のあることないこと吹き込んだから彼女は去ってしまった。
というか今ここにいないんだと。
これもう少し進むと取り戻さねばならないってなるわけですよね。
珍しい話ではない。
悪いオッパイ作り出すっていうのは、対象が不在の時に悪いオッパイ作り出しちゃうっていうのは非常によくある万能思考ですね。
私も自覚あります。
しょうがないですよね、これはね。
人間の頭というのは空想ができてしまうので、
なんだってこれが一段進むと、つまり幻覚、そこまではなかなか進まないんだけど、
幻覚、幻聴、妄想と、そして白外妄想というやつで、鬼が島に鬼退治に行くしかなくなるわけですね。
あれ唐突ですもんね、話がね。
いきなり実はなお桃太郎鬼がいてなんていう話が唐突に始まるじゃないですか。
悪い鬼がいるせいでこの村は貧乏なんじゃよみたいな話。
完全に白外妄想の世界ですよね。
非常に子供が喜ぶわけです。
そっかやっぱり悪い鬼がいたんだからこれをやっつければ万事ハッピーになれるんだよねっていうこの発想を持つというのは非常に幸せなある意味ですね。
非常に幸せですよね。
人間の思考に非常にフィットしてるわけですよ。
とてもよく合ってる。
人間のなんでもかんでも万能的に空想できてしまう。
これ思考ではないですよね。
僕もこれを思考を止めるっていう中に組み込んじゃってたんだけど、混ぜ込んじゃったんですけど、何にも考えてないですよねこれね。
悪い鬼がいることにしましたみたいな。
その鬼をやっつけてみたら宝箱が手に入ってもう強奪ですよね完全に。
一歩間違うと。
検証したのかって話なんですよ。
で検証なんかしてないフェースがほとんどなわけですよ。
でもそれで強奪してきたら村が豊かになりました。
やっぱり鬼悪かったよねっていうこの発想っていうのは
我々が非常にほとんでしまう発想なんですよ。
悪いおっぱいがあるから我々は苦しんでいく。
これより対象素質は明らかに数段先を行ってるわけですね。
彼女は去ってしまった。
この世の中に彼女はいるんだけどもう二度と私とエッチしたりはできないみたいな。
辛いんですよね。
でもここに空白というものを意識できる。
やっぱりここに行かないと僕らは考えるということができるほど意義のある生き物なわけですから。
その意義に行きつけないわけですよ。
現実原則というものが大事なわけですね。
快楽原則より。
大体快楽原則で鬼ヶ島に鬼退治いってうまく鬼退治できて宝箱もゲットしたぜっていうように
全てが万事丸く収まるケースはほとんどなくて
鬼に帰り討ちに会いましたとか行ってみたら逮捕されましたとか
そういうことになりがちなわけですよね。
だから快楽原則というのは決して愉快な原則ではないと。
大体ここに立ち戻ってくると大混乱が起きたり大変な目に遭うんだけど
なかなか僕らは対象素質まで行きつけないから
対象素質に至るまでのハードルにつまずく苦しみみたいなものも
この不在論にもあるしフロイトも書いていた話ですよね。
僕が読んだ限りもっとわかりにくかったけど。
でも書いていたことは確実ですね。
問題なのは例えば対象素質の中でも苦しいんでね。
よくやりがちなのが幽霊に出会っちゃう。
これは相当迫害妄想的で悪いおっぱいそっくりというかほとんど同じなんじゃないかという感じがします。
いなくなりきらないんですよ要するに。
苦しすぎるからいなくなったと考えるの。
いなくなったと考えるっていうところまで行くぐらいなら幽霊でもいいから会いたいという。
でも相手幽霊なんで非常に恐ろしくて自分に悪さしてくるんですね。
これが私別した時にしばしば見られるとっても大好きな人と私別してしまいましたとか
遠くに行っちゃいましたって時に幽霊が現れる。
我々の思考の重要な特徴ですね。
幽霊話いっぱいありますもんね世の中に。
多分昔の人は相当のレベルであれを完全に現実のものだと思ってたと思いますね。
苦しみとは不在の対象
しょうがないですよね。
人間が頭ってそういうことがしちゃうから。
苦しみはありますからね。
絶対同じ姿では現れてくれないわけですから苦しみはそこにあるわけですよ。
自分の心の中にあって。
その自覚が不十分なわけですね。
そうすると苦しいから会いに来てくれたんだけども相手は凄いおぞましい。
なんか顔がカエルになってるとかそういう話になってくるわけですよ。
あるいはお岩さんみたいになって登場してくるんですよね。
恨みますよみたいなことを言ってるわけですよ。
恨まれる筋合いは別になかったりするわけじゃない。
あれはあるけど。
恨まれる筋合いは別になかったりするわけじゃないですか。
でも恨んでやってくるわけですよ。
なぜなら自分は会えない苦しみを抱えているから。
その苦しみが心の中にあってそれに対応する形で現れる人がやってくるというのは相手が恨んでたり怪物だったりその両方だったりするわけですよね。
これは喪失つまりいなくなったんだぞってことを確信しきれない心の出来事なんですよね。
今でも我々は間違いなくこれは持ってると思います。
実際それが今これをまともにやっちゃうと病気だとかって言われるんだけど精神的に障害ですみたいに言われるわけですけど
対象喪失を完全にワークスルーできてないとかって言い出すわけですけれども
ちょっと文化的に違うところとかちょっと時代が違えばお墓に行ったら母が言わしたみたいな全然普通ですよね。
多分江戸時代だったら全然普通だと思うんですよそれで。
それを病気だっていう人はいなかったんじゃないかって思うぐらいなんですよ。
だけど今の時代はいやもう死亡診断書がここにありますからっていう言い方ができてしまう。
そこを徹底的に管理してるのでもし死んだお母さんに会っちゃったら気の毒だなっていう風に捉えられるでしょうけれども
精神的にそれは健常ではないと。
だから僕らの精神的な健常というのはものすごく文化的時代的状況に左右されるってことですよねこれは。
対象喪失などというのは思い難しいんですよ私たちの脳にとって。
確かにいなくなったと思うの失恋した場合ねこれは確かにいなくなったと考えて次に進むのが
僕なんか自分で言ってて恥ずかしくなるぐらいそういうことができにくい人間だったんだけど
まあでもその方がベターですよね。
自分の理想の母親を投影していた相手の女の子が去ってったっていうのをですね
いつまでも固執するというのは相当ずれた行動になりがちなんで。
まあ僕は相当ずれてたんだけれども。
なりがちなのでこれ本当にですねこう2つのことを理解するとある意味ものすごく楽になれるんです。
一つは理想の母親対象というものは非常に異性に投影しやすいし
それは異性の相手と全く何の関係もない。
枯葉花と幽霊何の関係もないですよ。
でも枯葉花に幽霊見るのが我々の脳じゃないですか。
だから異性でちょっと自分の母親とちょっと体型が似てるとかちょっと目の形が似てると
もう理想の母親そのものに見えてしまってしかも若くなって再登場みたいな。
もう素晴らしいわけですよ。
でもそれは絶対そうじゃないですからね。
完全に上にもうあれですから。
ミッキーのぬいぐるみを着てる人には中の人がいないのと同じですから。
完全にあれ同じだと思う。
中の人はミッキーじゃないよねっていう話ですよ。
だから中の人がぬいぐるみ縫いでしまって行っちゃったらもう追っかけないことですよね。
いやそれは絶対ミッキーだからって言ってるのとほとんど全く同じレベルになっちゃっていますから。
投影ってそういうもんですからね。
対象喪失の受け入れと現実原則
もう一つその対象喪失が受け入れられない時に一つ起こりがちな現象として、
いろんな現象が起きますよね。
死んだ人の部屋をそのまんまにしておくとか、
これも不在の対象は心の中にあってつらいんだけれども対象が喪失したとは信じきらないっていう発想。
発想というかそういう心理的な状態ですよね。
情緒的な状態。これが継続している。
その他にこの松木さんの不在論って非常に面白いなと思ったのがですね、
ギャンブルに走る男の子っていうのがこれは対象喪失を理解しているんだけれども、
そのなんつうんですかね、心理的に対象喪失って2つのパターンがあるじゃないですか。
例えば失恋した恋人と寄りを戻せることってありますよね。
ここにギャンブルっていう概念が出てくるんだと思うんですよ。
永遠に失われるか再度取得できるかっていう考え方ってあるじゃないですか。
お金っていう対象が非常にこれをよく物語ってる気がするんですよ。
特にちょっと大金持ちになったことがあるみたいな人の場合。
お金は失われましたっていう場合、これ対象喪失とみなすべきですよね。
不在の対象のままでいると、いや今手元に金はないんだけど、
俺はいずれ大金持ちになるからとかって言い出しかねないじゃないですか。
これ分かります?不在の対象というのは心の中の問題なんですよ。
赤ちゃんはお母さんがいなくなった、おっぱいが出てこなくなって苦しいっていう時に、
対象を喪失したかどうかについては分からないわけ。
ここの場合対象喪失したら大変ですよね。
自分は赤ちゃんなのにお母さんが失われたってことは大変ですよね。
だから赤ちゃんには対象喪失って多分理解できない年ってあるんだと思うんですよ。
でも理解できる年齢ってありますよね。幼くても。
例えばもう5歳ぐらいの時にお母さんは病気で入院して、
その間あなたはここの家で暮らすのよみたいな。
家?そうなんすか?みたいな。
でも対象喪失は理解できる。
その時に例えばお母さんが戻ってきました。
でもだいぶ間が空きましたっていうのは一定のトラウマになりますよね。
これと僕はギャンブルっていうのは似てくると思うんですよ、感覚的には。
非常にってことを考えたことがかつてあったんだけど、
この不在論にそういう症例が出てくるんですよ。
長らく預けられていて、もうママ母にすっかり懐いちゃった人が、
大人になってギャンブルにうつつを抜かすようになって、
結局その問題はある意味解消されてないみたいな話出てくるんですよ。
こういうことってやっぱ人間の心ってそういうふうにできてんだなって思うんですよね。
本当お金はこのパターンありますよね。
不在の対象になりやすいですよね、お金って。
特にお金持ちだった人なんかの場合は、
いや今は不在かもしれないけど、
後で戻ってくるわけでしょみたいな、何の根拠もなく、
何の根拠もないところに万能空想ってものらしさがあるわけですよ。
いやいや、後で俺には詳細があるから稼げるしみたいなのとか、
あるいは何度もギャンブルやれば絶対あのお金戻ってくるからみたいに考えてしまう。
考えても不思議はないわけですよ。
だってかつてあったんだから。
お金が対象として心の中に、僕らみんなそうですよね。
お金って心の中に対象としてありますよね。
だから不在の対象になったり、あるいは豊かにあるという対象になったりするわけですよ。
実際にはお金は失われたっていうことになったら、
そのお金そのものが戻ってくるという保証はどこにもないんだけど、
不在の対象が対象喪失にならないわけですよ。
空想と自罰の症例
あ、貧乏になっちまった。私は本当に貧乏になったんだ。
この貧乏な苦しみに耐えようってのがある意味不在の対象喪失なんだけど、
ここに行き着かないわけですよね。
現実原則というものが受け入れられなくて、不在の対象のままなんですよ。
悪いおっぱいが今あるから、
例えば世の中の景気が悪いというおっぱいがあるから、
私は今苦しいんだけれども、
この悪いおっぱいがいいおっぱいになってくれれば、
ちゃんとお金は戻ってくるはずだっていうように考える。
こういう発想がギャンブルだったり、
ものすごく深刻にデイトレードにハマってみたりとか
っていうことが起こり得るんだと思うんですよ。
あるいはもうちょっと、
この場合はまだでも多少とも正常ですよね。
ギャンブルで取り戻すとか、
デイトレードで取り戻すとか、
って発想は現実にあり得なくはないからね。
これ以上信仰するとオカルトになっていくという観点。
オカルトとギャンブルって僕は近いと思うんですよね。
なんかオカルティスティックなところがちょっとあるじゃないですか。
月みたいな世界とオカルトって似ていますよね。
これが一段進むと幻覚の世界に入っていくと思うんですよ。
例えば、
アザブの老人ですよ。
わざわざ聖書が書いていたみたいに。
一部悪いことをしている奴らがいるみたいな。
だからそこにお金が集中していって、
それが彼らが撲滅すれば、
我々のところにお金が戻ってくるみたいな。
だからこの辺の話って難しいと思うんですけど、
オカルトとギャンブルって似ていますよね。
絶対僕はそういう部分があったと思うんだけど、
ソーシャルムーブメントっていうものは正しい。
正しいというか、現実的なものなのか、
それともかなり幻覚的なものなのか、
両方が入ってくるんじゃないかなっていう風に
よく思うことがあります。
対象喪失が認められないということは、
あり得ることですから。
我々人間にとってはそうです。
人間にとってはそうです。
あるいは対象喪失が受け入れられるかどうか、
際どいところだなっていう感じがいます。
ほとんどの場合、際どいわけですけれども、
償いって話がやっぱり出てきますよね。
病的に償うみたいな。
例えば、
お母さんが死んでから、
お父さんが死んでから、
お母さんが死んでから、
お父さんが死んでから、
お母さんが死んでから、
お父さんが死んでから、
お母さんが死んでから、
ご飯が食べられなくなるみたいな。
後から聞いても、
全然もう病気でもなければ、
狂気とは決して言えない感じがするんだけど、
これが自罰であるケースっていうのは、
少なくないわけですね。
つまり、
具体的に自分を罰することによって、
悪い、
これ結局、
悪い対象っていうのは、
悪いおっぱいっていうのは、
どこにあるかわかんないんですよ。
万能な。
悪いおっぱいが僕のお腹の食べ物を
盗んでいるから、
お腹が苦しいんだみたいな、
そういう赤ちゃんの空想も当然あり得るわけですよ。
そうすると、悪いおっぱいが
自分の中にあるわけだから、
こいつを取り除かないとまずいでしょっていう
発想もあり得るわけですよ。
これと近い発想で、
お母さんが死んだのは私のせいだからみたいな、
全然その人悪くないのに、
お母さんが死んだのは自分のせいだと思い込む
っていうことによって、
お母さんが永遠に失われた
っていうことを考えようとしない
っていう対象は喪失されたんだと。
だからこれについては
諦める以外の選択肢はないんだというのに
受け入れるまでに、
やっぱり考えられないという状態が
起こるわけですよね。
考えられない場合は
空想するしかないわけですよね。
お母さんが失われたのは
私が悪い。
つまり私の中に悪いものがあって、
これを抜することによって
お母さんの死というものが
直面せずに
済むかもしれない。
これだから空想の世界にある意味
生きているわけです。
対象は不在だと。
お母さんがいないという
いないというのかな。
空想による不安や苦痛
お母さんが現れてくれない苦しみを
自分は受け止めているんだけど
受け止めていないんだな。
それによって苦しんでいるだけなんですよ。
だからその代わりに
何か悪い存在というものが
あるはずだと。
その空想として
自分の中にそういう悪い
つまり自分の
例えば母親をまともに
面倒見なかったとか
ちゃんと話を聞かなかったとか
そういうふうに考えれば
そうではないことは分かるはずなので
考えてはいないですね。
やっぱり空想することで
自体の
何て言うんですかね。
思考する代わりに
空想することで
この空想は思考の
原因みたいな感じは
あるんだけれどもね。
特に成人の場合は
そこに最もらしい理屈を
くっつけるんで
例えばお母さんのことを
もっと血圧測っておいてあげれば
よかったのにとか
言い始めるわけですよ。
それはそうしたからといって
死を防げたかどうか
大いに疑わしいような話であることが
ほとんどですし
話聞いていると
私という話
なんだけど
誰かのせいにしたいというより
やっぱり苦しいということ
それについて冷静に考えられる
状態ではないということ
だから万能空想で
そこを満たしてしまうと
誰かのせいにしてしまうわけですよね。
それは苦しいわけですよね
本質的に。
で、
あるいはというか
こういうふうに考えていくと
パターンとしては
きりがないといえば
よくわかるようでというか
よくわからんようで
よくわからん概念に
だからこの対象の不在と
対象喪失の違いというのは
つまり対象の不在だけだと
万能空想にひた走ったりすると
対象の不在から
対象喪失というものを
認識する方向に
向かっていかなければならない。
対象は失われたということを
認識しましょうね
という話なんです。
ただしそれは辛いことです。
ついでにという形で
不在論に出てきて
やっとこれ出てきたと思ったのが
象徴的投下物ってやつなんですね。
これはさっぱりわかんないなと
よく出てくる事例として
有名な事例としてね
バイオリンを弾く人が
バイオリンはマスターベーションだと
いうふうに
例えてるんですね自分の中で。
しかもマスターベーションそのものに
例えてしまってるんだから
人前ではとても弾けないと
なぜなら人前で弾くと
これは正気ではない感じが
少ししますけれども
このでも象徴的投下物というのは
私たちはでも
結構やっぱり
やるよなって思うんですよ。
一つは呪術だと思うんですよね。
正気を書いてるっちゃ
書いてますけど
呪術文化ってやっぱり
文化の中にあったりするじゃないですか。
よく知りませんけど僕も
手塚治虫さんの漫画なんかに
ブドゥ教の呪いの人形みたいな
つまり人形というものを
人形に火つけると
相手が
火傷するとかいうのは
これは完全に象徴的投下物の
世界だと思うんですよ。
つまり象徴ってのはあれですよね。
不在論でなぜ出てくるかというと
象徴というのは
象徴されるもの
つまり象徴されている具体的な何かは
そこには不在なはずですよね。
そのものがあったらおかしいですよね。
例えば
これも不在論によく出てくるから
話しますけれども
白い鳩が
平和を連れてきているわけではないですよね。
何か後ろに平和をバルーンで
引っ張っているとか
そういうことではないですよね。
つまり白い鳩があるというところに
平和そのものもある
というわけではないですよね。
どっちかというと平和不在ですよね。
白い鳩に
祈りを捧げるとかいうときは
平和不在だったりするわけじゃないですか。
戦時中だったり
そういうような
何かその象徴に託すもの
というのがあったりするんだと思うんですよ。
いずれにしても
その象徴という
特に具体的なものによって
何かが象徴されているときというのは
象徴されているものは
普通不在でなければいけないわけですが
全くそれが逆になってしまう。
つまり
我々は象徴機能というものを
用いているときは
要するに象徴と象徴されるものは
別だよということ
知っているということだと思うんですよ。
赤信号というのは
信仰してはいけません
というふうなものを
象徴しているんだけれども
僕がよく使う
例えですけれども
赤信号そのものは
そのものが
たまらせる力を持っているとか
そういうことではないですよね。
具体物ではないということなんですよね。
ところがそれが
具体物になっちゃうという
ケースがあるわけです。
なぜならやっぱり
だって動物にとって
大きくできていて
でっかいから
そんなことまでやれてしまって
だから我々は
佐々木称号といえば
この人間ですって言葉
つまり佐々木称号が象徴だし
象徴されているのは
この肉体を備えた
なんか生き物なわけですよ。
この二つは別個のものですよね。
当然別個だからこそ
機能するわけだし
別個だからこそ
他のものにも使えて
いろんなものを
象徴させて
ハトとチューリップを
組み合わせると
こういう意味ですみたいなことは
とてもやってられないから
だから表意文字値が外して
廃れるわけで
できれば標音文字でいきたいという
その方がやっぱり
組み合わせが自由になっていくから
非常に便利なわけですが
ここがどうしても
逆転してしまうと
だからバイオリンと
付いてしまうというケースが
ある人の脳の中では
起こってきてしまうわけですよ
しかもそれを文化的に
やってる文化もないわけじゃない
ってことだと思うんですよ
つまりこの人形は
あの人間そのものであると
そんなことはあり得ないはずなんだけれども
この人形にだから釘を打つと
あいつは心臓を苦しむみたいな
これ完全に
象徴と象徴されるものが
ワンセットになってますよね
他これが象徴的投下物
空想に基づく現実化のリスク
っていうものなのかなと
漠然と思ってるんだけど
多分それに
そんなに離れてはいないかなと
これ病理だっていう話になってくると
ちょっと正気を欠いてる
発想のように
思えなくはないですけれども
これ病気なのかなとも
思うんですよね
この種のことは
結構人間やりますよね
カカシ立ててたりするじゃないですか
あるいはそもそも象を立てるって
どういうことよっていう感じが
ある意味
お墓なんかもそうじゃないですか
ある意味
お墓がその人そのものだと思ってることは
僕らもう全然ないと思うんだけれども
でもやっぱり
お墓に幽霊が登場するのは
結局のところ対象喪失に行き着く
手前の脳の
象徴現象というのか
心理現象というものだから
そういうことになりやすいんだと思うんですよ
やっぱり
何かそこに来ると
不安なり恐怖なり
不安なものを感じ
その苦痛に
こうする形で
いないから苦痛なんだっていうのが
正しいんだけど
苦痛がいるかもしれないになっちゃうわけです
だから僕らは決して
赤ちゃんが悪いおっぱいを
考え出すからといって
アホだと思っちゃいけないと思うんですよね
僕ら普通にそれは
相当いろんなところで
特にちょっとでも心理状態が
いや夜不気味だなぐらいな
レベルでもすぐに
やっぱり人間の頭だと思うんです
絶対に
亡くなった人は
永遠に失われてるんだから
幽霊だろうとどんな形だろうと
絶対現れることはないんだって
絶対的に確信を持っていれば
真夜中にお墓に行くの
全然怖くないはずなんですよ
今の理屈からすれば
怖いって少しでも思うってことは
いるってことを
何かがそこにいるってことを
意味しちゃってるわけですよね
だから
心の中には
不在の対象が
喪失されていないという
心の中には不在の対象を
持ってるんだけれども
それにこうする形で
理解というか現実世界に
何かが出てくるって発想
これは僕らはつまり
ないっていうことを
確信するのが
実は相当難しいという
意味だと思うんですね
だからこれは
結構気を付けなきゃいけない
と思うんですよね
そういうふうに
気を付けなきゃいけない
というふうに
不在って思った瞬間に
すぐ我々は
不在であるというか
喪失されているっていうか
何もそこにはないんだ
という認識を
象徴的投下物について
意外と持つことができなくて
何かあるかもしれない
何か悪口言われてるのかもしれない
何か吹き込んだやつが
いるのかもしれない
すぐ考えてしまって、可能性はゼロではないだろう、ゼロなんだけど、ゼロだっていうのが喪失って意味だと思うんでね。
だからゼロなはずなんですけど、いやその可能性はゼロではないみたいな、だからどこかで私の悪口をネットに書き込まれている可能性がゼロではないとかやり始めるわけですよ。
非常に頭は万能的にできている。根拠はいらない。理由もいらない。因果律もどうでもいい。
いきなりそういう実態を作り出してしまって、実態じゃないんだけど、空想を考え出してしまって、その空想に基づいて行動し始めると、現実がその空想に基づいて動き始めるわけですから、万能空想の現実が実現していくわけですよね。
これが多分東映同一課だと思うんですけれども、すっごいだから、ある意味危ういことをやり出すと。先日から申し上げている通り、空想を止めるっていうのは持たないっていうのかな、手放すですよね。
一番いいと思うんですよ、やっぱり。万が一とか言ってる場合ではないと思うんですよね。
だってこれは考えることに比較すると、悪いおっぱいがお腹の中の栄養素を抜き取っているから、鬼ヶ島に鬼退治に行くぞみたいな世界ですからね。
これで行動していたんでは、なかなか現実がままならないというのはしょうがないと思うんですよね。
空想は本能っていうプライン的な考え方を取った場合、僕らは空想に基づいて動き回ってしまって、何やってるのかわけわかんないことになってしまうんだけど、
動物はこれはせずに済むわけですよ。空想する力がないから。脳が小さいですからね。
だから彼らは現実把握力が人間のように高くないように見えて、やってることは極めて妥当なんですよね。
何もしなくていいときは寝る。食えそうなときには何でもいいからちゃんと食べて、戦うときは戦って、逃げるときは逃げる。
非常にシンプルなんだけど、幽霊みたいには絶対しないわけですよ。
そして万が一にも俺をとかって考えることもできないから、やらないで済むわけですよね。
そして発狂しにくいように見えるんですよね。
不在論と人間の辛さ
ここがやっぱり人間の辛いところだなっていうのを不在論読んでるとつくづく思いますね。
不在だということが存在しないんだに展開するまでにハードルが高い。
そして作り出すのが非常に得意というか、何かがあるって考える。幽霊がそこにいるって考える。
で、万が一とかって言い始める。
非常にむちゃくちゃな発想というものに割と行き着いて、むちゃくちゃな結論を出したがるというか出しちゃう。
全部それが苦痛と結びついている。
先日お話ししましたけれども、やっぱり幸せなときこそ考えるっていうのは、
最近僕は一生懸命やって、一生懸命やらないとやらないんですよね。
幸せなときは何にも考えなくていいんで、本当に適当な空想してても何も不都合起きませんからね。
何で自分はこの美味しいものが今食べられているんだろうのか。
どうしてもこの話って、じゃあ感謝しましょうとか、
あなたがどれほど恵まれているかみたいな話に結びつけやすいんですけど、
僕はあれやめたほうがいいと思います。
多分。
なんか気色悪い感じがどっかするっていうのには訳があると思うんですよ。
やっぱり。
空想しないことの効果
感謝しても全然いいんですよ。
むしろいいことだと思うんだけど、
何もそれを考えるところから展開させなくてもいいと思うんですよ。
感謝するんだったら感謝だけしとけばいいと思うんですよね。
考えるというのは、つまり根拠をやっぱり見つけに一応いくっていうことなんですよ。
正しいかどうかは別に、別としてですね。
根拠のない空想をして、
それを現実の代わりにする癖を何とか少しでもより分けておくというのかな。
僕らこれはやっちゃいますから、空想自体はね。
ただ空想はないものに対してやってるんだという不在なんだと。
在論なんて。
不在なんだと。
不在だということさえわかれば、
いろんな意味で何をしているにせよ楽になります。
一番冒頭で申し上げましたけど、
5分ですぐインフルエンザワクチンのために1時間、
やや手際に問題がある看護師さんたちにも状況を聞くとかするときにも、
怒りを覚えずに済むんですよ。
全然。
なぜなら時間が失われたとか、そういうよくわからない万能空想から、
僕は一応だいぶそれを制御できるようになってきているんで、
考えるってことがやっぱりできるんですよね。
この場合、ここでこうしてこうなってこうなったのは、
こういう事情によるっていうことを空想せずにいられて、
代わりに何ができたとかそういうことを一切空想しないで済むので、
とっても楽なんですね。
どっちにしても同じですから。
どっちにしてもインフルエンザワクチンのために時間を、
何時間も待ったとか、1時間も待ったとか、
そういう事実に空想しようとしないと代わりは一切ないですから。
この空想をすることによって、
例えば僕はしたことないですけれども、
看護師さんたちに怒鳴りまくるとかをしても、
事態が一向に良いことは起きないし、
その代わりに自分でグッとこらえて、
こんな病院に来てしまってとか言って、
自分を一生懸命処罰したとしても、
やっぱり良いことは何にも起きはしないんですよ。
このコストがですね、
非常に悪いオッパイと鬼ヶ島に鬼大事のコストというのは、
労害報復という言葉を松木さんは書くんですけど、
やっぱりですね、後々面倒、
これも結局それを引き受ければいいって考え方はあるんだけれども、
余計な塞ぎを背負うことになるよなと、
いつも同じようなことを言っている感じで、
申し訳ありませんけれども、そんなふうに思うわけですね。
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