2023-11-20 46:48

「不在」がある苦しみ【GMV 883】

「彼女がいない」という現実が「在った」のでした。

サマリー

11月19日に開催されたセミナーは成功しました。倉田さんとの協力のおかげで、自分の言葉に修正できた感触があります。今日の話では、精神分析の書籍についての感想や不在の取り扱い方などが述べられています。3ヶ月チャレンジの参加者から教えてもらった松木さんの本や精神分析の意義についても触れられています。精神分析を通じて、抽象的な概念である不在による心の苦しみについて考察されています。私たちは存在すべき人や物がいないという状態を感じ、それが苦しみを生み出すという経験をすることがあります。ある男性は子供時代に母親を突然亡くし、いつも死を考える状態で苦しんでいますが、同時に理想化された母親像を求め続けることで幻想的な安心感を得ています。松木さんは幼少期に母親との関係で祖母の存在を感じていましたが、その幻想は失われてしまいました。彼は普通の男性と結びつくことを望んでいますが、自分にはそれがなく欠けていると感じています。その欠けているものは父親の存在であり、彼女は世の中全体にその不在を感じています。私には特殊な感覚があり、世の中の何を見ても寂しくなってしまうのです。それが不在というもので、私の苦しみを生み出しています。

セミナーの成功と言葉の改善
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
11月19日日曜日、夜の20時31分ですね。
今日2本目の収録を試みております。
というのはですね、ようやく倉田さんの11月19日と、
つまり今日ね、ずっとこれで言っていたセミナーが無事終わりまして、
私は大変大成功だったし、かなり充実した内容だったのではないかと。
こればっかりはね、受けた人がそう思ってくださらなければいけないわけですけれども、
とりあえずやった私の感触としてはこれでもう良かったと。
もちろん改善しようと思えばその余地はあるだろうと今後思うんですけれども、
こう思って改善しようと思って改善したからといって良くなるとは限らないのが、
現実のややこしいところでもありますけれども。
まあでも、第一な話はですね、
Good Vibes的な方からも、タスク修道的な方からも、
より合わせてうまくお伝えできたのではないかと、私は思っております。
ぜひこれを何とか、あまりに頻繁にやるというのも変なんで、
ある程度の間隔で続けていきたいなと、そういうふうに思っておりますが、
とりあえず今日が終わってかなりホッとしたところですね。
まあいろんな思ったところもあるんですけれども、
自分としてタスク修道というものに長らく、本当にもう20年ぐらい付き合ってきていて、
ようやくこう、今自分が一番しっくりくるところまで来てるなという感触があってですね、
それを倉殿さんのお力も借りて、
なんとかこう、なかなか自分の言葉に直せていないところが直せてきたかなと、
感じがしているわけですね。
はい、そういうわけでまた引き続き、
今日は本当にたくさんの方に来ていただきまして、本当にありがたかった次第ですね。
皆さんが100%全ての方が大満足というわけではなかったかもわからないけれども、
そこまではね、もうわからないことですし、
あともう一つ、例えばGood Vibes一つとってもですね、
私も倉殿さんのお話を一番最初に聞いたとき、
精神分析の書籍とその印象
全てに完全に納得したというわけじゃなかったような気がするんですよ。
何回か聞いているうちにすごくしっくりくるようになったといったところもあるので、
今日の話がですね、今日即座に納得が非常に満足いただけなかったとしても、
30日後はまたどうなっているかわからないと、
しゃべっている側の都合のいい考えかもしれないけれども、
そういうこともありますからね。
結構世の中そういうことは多々ありますから、
最初に読んだときはよくわからん本だなと思ったのが、
妙にですね、その後の生活の中で、
いろんな意味で有効化していくといいますか、
そういうことってあります。
音楽なんか特に私そうで、
最初聞いてもなんだかさっぱりわかんない曲だと、
クラシックだろうと洋楽だろうとですね、
さっぱりわかんないなと思っていても、
繰り返し耳にしているうちに、
もう一生これから離れられないみたいになっている曲ってたくさんあるんで、
そういうことも含めてですね、
何かが伝わったら良かったかなと思いますね。
今日はですね、またいきなり話は飛ばしてですね、
手元にですね、今、松木さんのですね、
よく精神分析家で言っている、
松木邦博さんのウザイ論という本があるんですね。
根源的苦痛の精神分析。
ぱっと見なんだかよくわからない表紙だなと思ったんだけど、
よく見るととっても考えられている表紙で、
なるほどなーって思うんですよね。
問題はこれが書店に平に置きになっていたとき、
どう見えるのかってことなんだけど、
手元にあって今も読みまくって非常に興奮しているところなわけですよ。
この本ですね、3カ月チャレンジの参加者さんの方が教えてくださった本で、
非常にだからこの3カ月チャレンジというのは、
私にとってまた新しい意味を持っている活動になりつつあって、
これはぜひ長く続けていきたいなと思っているところなんですけど、
ウザイ論ですからね。
よくこのタイトルで本、立派なもんだなって思いますね。
なかなか私なんかにはこういうことはできない。
させてもらえないということはありますよね。
精神分析というのはですね、
これはたぶん一生付き合っていくんだろうなと思っているのは、
精神分析で何かをしたいってことでは全く私はないわけですよ。
分析家になりたいとか、分析を受けてみたいというのはいずれ出てくるかなと思っているんだけど、
病気を治したいとかっていうわけではないし、
本当に面白い発想だよなってつくづく思うんですね。
結局このウザイ論なんかを読んでいると、
いろんなことが書いてあるんですよ。薄い本なんですけど、本当にいろんなことが書いてあって、
実になぜこういうことをね、私はやっぱり何らかの形でこれを皆さんに、
Good Vibesとはまた別に幅広くお伝えしていきたいと思っているんですけれども、
それは病気を治したいとか、分析を受けてほしいとかではないんですよね。
こういうものが人類史の中にかなりの地位を占めてきた、
そういう意味では共産主義もちょっとあるんだけど、
とにかく精神分析っていうのは1900年に始まって、
100年以上の間、人類の中でかなりの地位というのかな、
影響力を持って綿々と行われてきたわけですね。
綿々と誤解され続けてきたものでもありますね。
このウザイ論を読んでいて、つくづくやっぱり、
松木さんのこれは一つの、分かんないですけど、
この方の本は読むと、どの本を読んでもかなりいろんなことを考えさせられるので、
精神分析ってその辺が面白いんですよね。
不在の取り扱いと精神分析の意義
例えば私はクラインの本ってまだ1,2冊読んで、
すげーって感じにはならないんですよ。
多分すごいこと書いてあるんだけど、正直よく分かんないなってところの方が多いぐらいですね。
松木さんのこの本はだいたいすげーって感じが1ページ目からずっとしてるんですよね。
同じ精神分析の本じゃないですか。
なんで精神分析というものは書かれている本から受ける印象がこうも違うんだろうと、不思議な論ですよね。
同じ精神分析を扱っているはずなのに、受ける印象があまりにも違うんですよね、同じ精神分析から。
こういうことはあんまり認知行動療法ではないですね。
認知行動療法の本、様々な方が出されてますけれども、
あれの子言ってる認知行動とこの人の言うのは全然違うななんてことはまあないですよ。
かなりやっぱりどっちも似てるっていうのが自然ですよね。
面白く書ける人とそうでない人がいるってのはそうなんだけど、
言ってることが違うように聞こえるってことは滅多ない。
ところが精神分析は同じ精神分析と言っておきながら、インパクトが全然違ったりするんですよね。
しかもどっちも面白かったりもするんですよ。
これは不思議だなっていうのは、つくづく感じる、とてもある意味不思議な。
そして、じゃあ全然違うことを言ってるかというと、そんなことはないんですよね。
同じようなことを確かにテーマにして、同じような主張をしてるんだけど、
何か全然違う主張に、主張の方向が違う。
そしてどっちも納得がいくっていう、実に不思議な世界だと思ってます。
ただ今私は読んだ知的刺激みたいなものから言うと、松木さんの本が今一番ですね、
頭一つって感じがちょっとしますね。
山崎さんの本もすごく私にはものすごく勉強になるんだけど、
これはですね、どっちかというと精神分析の話というよりは、
精神分析を取り巻く状況の話っていう感じなんですよね。
こういう話が私に是非必要だと思ってたんで、
時代が最も必要とする本だと思うんですけど、
それほど読まれちゃいない気もするんですけどね。
こういうこと言っては申し訳ないんだけど、もっと読まれてほしいなと思いつつ、
精神分析というものを取り巻く状況について、そもそも知りたい人が今のところそう多くないっていうことなのかな。
いずれ増えていくといいんですけどね。
この在論はそれとはまた全然違ってですね、
これ多分クライン・ビヨンっていう対照関係論と言われるところで一番軸となる2人の考えを、
一人の日本人、松木さんがですね、
総合的に理解したその一つのテーマの軸に、中心に在という話を置いたってことなんだと思うんですけど、
まあ、とにかく刺激的です。
何が刺激かというのはですね、我々は不在の取り扱い方が非常に混乱しているということで、
この指摘はですね、全く正しいとつくづく思い知らされますね。
だからこれを3ヶ月チャレンジの受講者さんに教えてもらったってね、
やっぱり僕にとって3ヶ月チャレンジの持つ意味と大きさというものですよね。
そして今までにないやっぱり試みだったなと。
こういうフィードバックはやっぱりなかなか自分の活動から戻ってくるってことが、
もちろんありますよ。今までだってないわけじゃないんだけど、
このレベルではやっぱりなかったなと。
そもそも精神分析っていうものは、
なんていうのか、ここのところうまく伝えられてる気はしないんですが、
繰り返し私が言っている小さなことで我々はくよくよするし、
普通の相談ができないし、
つまり私はいつもこの子と昔から強いフラストレーションがあったわけですよ。
最近は蔵野圭三さんという人が身近にいてくださって、
私の小さなことに付き合ってくれてるんですよ。
そもそもこういう状況がなかなか得られないんですよね。
私はだからこの蔵野さんはそうじゃないんだけど、
蔵野さんとの関係というのは精神分析的だと僕は思ってるんですね。
彼はグッドバイオスの提唱している人ですよ。
精神分析家ではないけれど、
精神分析しかこれまで恐らくほぼ扱ってこなかったんじゃないかっていう、
小さなことにくよくよするっていう課題ですね。
例えば先日、昨日か、まさにこれを月曜アップするつもりなんで、
日曜日にアップした話がそうだったんだけど、
小さなことかもしれないけど大変なことですよね。
仕事がないとか、これは小さなことじゃないか。
とにかく大変なことなんだけれども、
どこにそれを持ち込んだらいいのかがいまいちよくわかんない。
生活保護っていう話になれば確かにそうなんですけれども、
これはある程度はっきりしてますよね。
それでも持ち込めずにいる人はいらっしゃるわけじゃないですか。
だから思わず何かどこからそれを知ってくるんだっていうぐらい、
不思議なところの窓を叩くしかなくなる。
元不動産業を挑んでいた人のNPO法人、
そんなの普通の人は知らないですよ。
またそれが行われているのは大阪なんで、
東京の人間は当然そこまで行くわけにはいかない。
似たようなことをやっている人を探すしかないけど、
公的機関ではないので、
同じようなことを本当にどこでもやっているかはわからない。
こういう問題がやっぱりあったりするんだけど、
それをじゃあどこに持っていくかっていうことになってくると、
精神分析と不在
簡単ではないわけですよね。
そして我々の悩みはもっと小さなことで、
もっとくよくよする。
もっとくよくよするかはわからないけど、
小さなことでくよくよしているんだけど、
これを持ち込む先はないわけですよね。
私なんかはそのフラストレーションはでかかったんですよ。
聞き飽きていると思いますが、
私は大学時代、彼女ができないという悩みがあった。
これは友達中に言いふらしていたんだけれども、
誰も何もしてくれなかったわけですよ。
みんなだって欲しくてできないわけだからね。
できていた人もいますけど、
できていた人だからといって、
別に僕のために何かはしてくれませんわね。
彼女が欲しいと言っている人、
じゃあ彼女が欲しいなら付き合ってあげるっていう、
そういう解決策を女の子が持ってくるというのも
変なもんじゃないですか。
これ非常にややこしい問題なんですよ。
この問題を実は精神分析が取り扱ってくれているんですね。
私どこかでどうにかうまく表現できないかなと思って、
ひもての品格という本があるんですよ。
前にここでも紹介したことがあると思うんですけれどもね。
杉田俊介さん。
これは杉田さんは問題提起をされているわけね。
これは非常にいい本で、
誠実な人だなって思って読んでいるんだけど、
この本の問題は何の解決策、
提示してないわけじゃないんだけど、
一言でもある程度売れたくなったらいいか。
この本で提示されている解決策というのは、
頑張ってこらえろってことなんですよ。
でも偉い人だと思います。
問題の方にとことん向き合ってですね、
いかにある種の、私もそうだったんだけど、
男性にとって持てないという、
持てないっていうか、
彼女ができないってことね。
できないって思い込んでるってことなんだけど、
これがどんなに厳しくてつらいことかという話なんですよ。
この帯にある、
孤独の永久糖度を溶かすレッスンってタイトルはいいんだけど、
孤独の永久糖度ってことしかこの本には書いてないんですね。
溶かすレッスンはないんですよ、この中には。
僕に言わせると。
これで溶けるかなみたいな、
でもこれはやっぱり杉田さんの誠実さなんですよ。
これをどうにか本、新書でできる内容が書けるかっていうのは、
かなり実は難しいことなんですね。
だから書けないんですよ、要するに。
でも彼は、彼に考えつく唯一のことは、
男たちよ、頑張れってことなんですよ。
本当にそういうふうに書く人なんですね、この人はね。
頑張ってこらえるんだっていうことなんですよね。
死んだりしちゃダメだっていう。
家でマスターベーションばっかりして、
一日中過ごしてるのもダメだっていう。
でもどうすればいいのか僕にも分からないみたいな、
そういう書き方をする人なんですね。
偉いもんだなって僕は思いました。
なんか独特の書き方をするんですよね。
で、男らしくあろうと頑張らなくてもいいから、
みたいなところが溶かすレッスンなんでしょうけど、
そう言われてもなーみたいな、
ある人がですね、それも福祉士の人なんだけど、
それだけ言われてもねーみたいなことをコメントっぽく書いてたんですけど、
まさにそういう感想は持っちゃう。
でもものすごく自分が学生時代、大学生時代に悩んでいたことがきっちり書かれているんで、
ここはさすがだなって思いましたね。
自分の心を読まれているように思えるほど。
ただなんですよ。
ただ解決策はないんだみたいに書いてあるんだけど、
上野千鶴子さんのちょっと厳しめのコメントがあったりして、
それは解決策にはならないんだけど。
でも上野さんは精神分析ご存知だから、
この問題の解決は精神分析にあるんだよって教えてほしかったなっていうのはちょっとあるんですけど、
そうは思われてないのかもしれませんけどね。
あるんですよ。
精神分析にここは入っていく必要がある。
精神分析ってのはそういうのを扱ってるんですよ。
小さな小さなことがこじれにこじれてしまうっていうそのプロセスを扱ってるんですよ。
これを相談する人が手近にいないならば、やっぱり僕はこの種の本を読むより他ない。
まずこれが治療対象になってるってところがすごいと思うんですよね。
占いの対象とかではなくて、もうすぐいい人できますよっていうのもありなんだけど、
なしだとは僕は思わないんだけど、やっぱりですね、それだけでは済まされない気がするんですよ。
もっとことは深刻だったような気がする。
悪いおっぱいの存在
いろんなことがあるわけですよ。
酒がやめられないとか、ギャンブルがやめられないとか、どれもありますよ。
全くないわけじゃない依存症問題に取り組んでる人も大勢いらっしゃる。
だけれどもどう取り扱われるのかってすっごい悩むじゃないですか。
間違いなくそこは悩まれると思うんですよね。
説教されるのかなとかね。
私なんか学生時代、高校生時代は美容室に行けませんでしたからね。
自分の顔を鏡で見るのが嫌で。
美容室って真正面で自分の顔を鏡で見なきゃならないじゃないですか。
持てないことで悩んでるのに、なぜこんなにクリアカットな鏡でね、
あんな明るいところに座らされて、この格好をまともにしてくださいとか言わなきゃならない。
これが恥ずかしくて嫌でした。
今思うとなんでこれがあそこまでダメだった。
これが書いてあるんですよ。精神分析には。
グッドバイブスでもいいんですけど、少なくとも僕の高校時代、グッドバイブスなかったじゃないですか。
僕の高校時代から精神分析はあったんですよ。
だから気づかせてほしかったなってことはあるわけですね。
ギリギリ近いところにかわい早尾さんがいらっしゃっていて、
中暴恐怖症っていうふうに彼は書いてたんですけど、見にくいという姿だと思い込む恐怖症があると。
こういう人は理髪店に行けないと。
理髪店にボサボサの髪のまま行ってきちんとしてくださいと、これが言えないっていうのが書いてあって、
いいな近いなと思ったんだけど、なんとなくそれがファンタジーの話に流れていくというか、
いいこと書いてあるんだけど、なんかやっぱり着前としないわけですよね。
それはどうにもならない気がすると。
不在論はやっぱり僕は、これは本当に高校時代に、
ただしこれを高校時代に読んでも理解できなかった可能性は高いんですよね。
ここが非常に難しいところなんですよ。
で、いいおっぱいってことなんですね。
そうだな、不在とは何なのかっていう話なんですけど、
不在とはですね、私の大学時代は特にそうでしたが、
不在というのは、不在があるという間違った考えが圧迫されてしまうということなんですね。
何度も僕言ってますよね、大学時代に。
彼女がいない彼女がいるんですよ。
これがおかしいんですね。
僕の中で抽象化されきらないんですね、思考がこの件に関して。
何度も何度もこの話でできます。
いいおっぱいがないっていう考え方ができない幼児にはね。
ないっていうのは抽象思考だから。
悪いおっぱいがあるになってしまう。
ないんですよ、本当は。
だから不在なんだから。
お母さんがいない。
まあそういう概念はないけど、お母さんがいない。
これが事実なんだけど。
悪いお母さんがいるになっちゃうんですよ。
これをですね、私も完全に理解できてなかったんですよね。
松木さんの本。
今まだ読み切れてないし、何度も読むことになるんだと思うんだけど。
えっとね。
悪いお母さんがいるっていうのは2つの意味があるんですね。
確かに出ないおっぱいにすいついている苦しさもある。
怒られるとか拒絶されるという苦しさもある。
だけどそこにいないという苦しみは、これはちょっと違いますよね。
拒絶するお母さんがいるとか、
文句言ってくる人がいるとか、
まああんまり母乳が出ないってのはちょっと問題なんだけど、
まあこの際ちょっと意味違いますから本当は。
おいしくないものを食べさせられるでいいや。
これはあるってことですよね。
悪いものがある。
けれども、私空腹なのに世話してくれる人がいませんというのは
赤ちゃんには理解できない。
そうすると何が、どういうふうにその事態が理解されるかというと、
悪い事態がここにあるっていうふうに認識してしまう。
しかも赤ちゃんは赤ちゃんになって、
お腹の中に食べ物がないんだじゃなくて、
空腹という苦しみを与えるこの悪いおっぱいが
お腹の中にあるっていうふうに考える。
これが悪いおっぱいがあるっていう。
そして実際には何かがないってこと。
赤ちゃんの苦しみ
実際には何かがないってのは抽象概念ですよね。
ないものはないわけだ。
ないものがあるってのはおかしいわけですよね。
でも私がまさに大学時代にそうだ。
いるべき彼女がここにいないという事態が
存在している気がしてたんですよ。
伝わりにくいですね。
例えばこういうことでどうですかね。
ずっと仲睦まじく暮らしていた奥様がお亡くなりになった。
家に帰ってくると妻がいない空間がある。
これおかしいんだけど、よく言うじゃないですか。
本当は奥さんが、奥さんというか誰もいない空間がある
というのがそもそもおかしいんですよ。
誰もいないだけなんですよ。
なのにここにいるべき人がいないという状態を
人間の知覚は持っちゃうんですよね。
以前ね、これで思い出した話なんですけれども
倉園慶三さんに足し延べられたって言ったら
ちょっと変なんだけど、これは大事な話だなっていうのを
思い出したんですよ。
5人ぐらい座れる小さな規模の足し延び室があって
5人を満席に、満席だったら5人になるという
セミナーを開催したとき、2人だったんですね。
いらした人が。
で、3人分空席があるなって僕は言っちゃったんですよ。
倉園さんが、それは5人が来ているセミナーが
正しいっていう認識が先にあって
だからこの空席の椅子に座るべき人がいない
っていう話になるんだ。
あれは全くそうだなってそのとき考えて
つくつく人間ってそういうことを言い出すよな
っていうふうに思ったんですよ。
これと全く同じですよね。
だから一見したところ我々は赤ちゃんだから
かわいそうに。
あなたはお腹が空いてるんであって
空腹というものがお腹の中にあるわけじゃないんだよ
って笑うわけじゃないんだよと
そういうふうに同情するけど
我々だって全く同じなわけですよ。
トラウマによる苦しみと理想化された母親対象
本来あるべき何かがないという事態がある。
漫画でよくですね
てんてんてんてんてんで
その何もない空間にいるべき人を
てんてんてんてんてんでシルエット描いて
この人がいないっていうのが寂しいんだよね
っていうようなのをうまく表現するじゃないですか。
まさにあれなんですよ。
あれおかしいですよね。
その人がそこにいるという仮定をして
それがいないというのを
てんてんてんてんてんで表現するんだけど
それじゃまるでいない人がそこに
透明人間のようにしているみたいじゃないですか。
でも我々の心はまさに
そういうふうに働くわけですよ。
抽象思考しきれてないんですよ。
抽象思考するならば
いないこれでいいわけ。
いないだけなんですよ。
ナッシングなんですよ。
ところがノットシングになっちゃってる。
ノーシングか。
ノーシングになっちゃってるわけ。
ノーシングというものが
そこにあるってことになっちゃってるわけですよ。
存在しないというものがそこに存在しているみたいな。
そしてそれが私を苦しめる。
だからこの苦しみというものを
なんとかしなければいけない。
だから私は理想の彼女というものを
作らなければいけない
っていうことになっちゃうわけですよ。
私はこれに非常に長いこと苦しんでたんで
この負在論は非常によくわかる気がするんですよね。
で、こんなふうな思考になってしまう。
つまり私は抽象思考できますから。
一応。
例えばそうだな。
何でもいいんですよ。
抽象思考っていうのは
まさに何でもいいわけですよ。
何かが存在しない。
これは抽象思考ですよね。
張ってきていないものはそこに存在しない。
っていうのは抽象思考なわけです。
だから私は決して空腹の時に
いや、お腹のものを減らしていく
悪いちぶさが腹の中にあって
これだけ悪いから
いいちぶさからいいおっぱいを吸って
この悪いちぶさ外に出さなきゃとは思いませんよ。
絶対に。
けれども
こういうことを幼少期に思ったトラウマがあったとして
不思議はないんですよ。
これと全く同じじゃないですよ。
これと全く同じじゃないけど
私の学生時代の
理想化された彼女対象って言ったらいいのかな。
母親対象なんですけど
理想化された彼女対象というものを
ああも探し求めていたというのは
この記憶がおそらく
強く刺激していたわけですよ。
覚え出せるようなトラウマならば
まだ対応の仕方が
それはそれで難しいんだけど
あるんだけれども
例えば
幼稚園の時に庭のプールで溺れかけたから
だからプールの時間本当に怖いんです
っていうのはわかるじゃないですか。
その対象が簡単だとは言わないけれども
わかるわけですよ。
そしてそういうことは起こり得ることですよね。
私が
でも
だから精神分析というのは
ここを思うんですよ。
一切未満
思い出せっこないトラウマってものが
起こり得るわけですよ。
お母さんの対応次第では。
それは何が起きたのかは
誰にももう
誰にも確認のする術がない。
私の母に聞いても思い出せるはずがない。
大体私の母なんて
実におかしなもんで
ショウゴのこと怒ったことないわよとか
平気というわけですよ。
もう毎日毎日
365日年中無休
おまんじゅうで怒ってたくせにですね。
これがもう怒ったことがない
記憶になっちゃってるわけですよ。
こんなおばあちゃんに
俺が1歳未満の時に
こういうことしなかったみたいな
無意味ですよね。
つまり
確かめようのない時代が
そこに進行していて
1年間
なかなか大変な
うちのあの
お花畑のおばあちゃんが
24歳そこそこだった時に
私を育てるにあたってですね
何も問題なくスムーズに育てられる
ってことは考えられないわけですよ。
いろんなことをやらかしているに違いない。
このうちのいくつかが
大きなトラウマになるような
出来事で
私自身ももちろんそんなことは
全く記憶できていなくてね。
それがすっかり心の中に
残ってしまって
ノーシングですよ。
ノーシングがトラウマになっている。
つまり悪い
乳房を植え付けられたというような
あるいは悪い乳房を
抱え込んでしまったというような
悪いおっぱいを
飲み込んでしまったというような
非常に素朴で原始的で
ありえないような
空想と記憶がごっちゃになった
ような事態が脳内というか
理想化された母親対象を求める幻想
心の中で進行したんだけど
全く覚えてない。
で、これを
何とかするためには
とってもいいおっぱいと一緒に
せやせやと寝ていたときの
いい記憶。
あれで何とか
この悪いおっぱいを外に出すんだ
っていうですね。
これと全然違う空想。
でも何しろ空想なんで。
しかもゼロ歳児にする空想なんで。
もうむちゃくちゃな空想をしたことが
あったに違いないと思うんですよ。
今なら。
これを取り扱うのが
ある意味精神分析なんですね。
そして精神分析は
そういう記憶が
思い出せもしないような
記憶が、思い出せる記憶だと
なおいいんだけど、思い出せもしない記憶が
あなたの今の
非常に非現実的な行動を
繰り返させる影響力というのかな。
動員として
強く働いている可能性が
あるよっていうことを示唆する
わけですね。
フザイロンの
webページだかちょっと
非常に
なるほどなあ
と思ったので
うまく
見つけられたらですね
いいんですけど
どのページ見ても
すごい
驚くほど
感銘させられるんですけれども
なんていうんですかね
用語が特殊なんで
わかりにくく
見えるんだけれども
本当にこう
単に用語が特殊なだけなんですよね。
わかりました。
これはですね
フザイロンの
まさに
ちぶさの不在のフラストレーションの
回避。要するに
いいおっぱいと一緒にごくごく飲んで
寝たいと思っている非常に素朴な
赤ちゃんがそこにいるだけなんだけど
たまたま運悪く
その時出なかった
一緒にいなかったとか
お母さんが、わかんないですけどね
うちの母でいえば仕事が
立て込んでいてちょっとほっぽらかし
にされたとかそういうことがあったと思うんですよね。
その時に空想を始める
わけですよ赤ちゃん。この空想が
困りもんなわけですよ。
脳だから。人間の脳だから。
たとえ未熟であっても空想ぐらい
始めちゃうんですよね。
素晴らしいおっぱいがあると想像することで
この
お腹空いたのをなんとかしちゃおうみたいな
やるじゃないですか。我々だってね
今過酷なことが
ニュースとかでは盛んにやってますけど
絶対子どもたちは
やってますよね。
すごいあったかいところで
みんなに大事にされて寝ている空想
とかしてますよ。
そこにこうなんていうんですかね
大変な事態になってくると
我々はこれをするしか
もないから赤ちゃん絶対やりますよね。
常に死を考えるという
欲打つ状態に苦しみ続けていた
もはや中年となった男性は
幼い時に母親を突然
死で亡くしてしまった。
僕なんですよ。
中年じゃなかったけど大学生だったけど
常に死を考えてましたね。
欲打つ状態に苦しんでました。
酒ばっかり飲んでましたね。
そしてその死には
誰も触れないままに
母親の突然死には誰も言わなかったわけですよね。
気を使ったんでしょうね。
彼はやがて家に入ってきたまま母に
育てられることになった。
さない頃にはすでに出現していた
現実と心の中で進行する事態の乖離
と思われる彼の対人関係での
親密さをめぐる困難さは
青年期には彼自身にも
はっきりと自覚された。
僕も全くそうですね。
まさに青年期にどうしても
親密な人間関係が困難になってくる。
いろんな意味でですね。
難しいんですよ。
やたら親密になりすぎてみたり
特定の人以外とは全然付き合えなかったり
っていうのがすごい繰り返される。
ただし私は
母を突然死で亡くしてはいませんからね。
この辺がいわゆる
サイキックリアリティっていうのかな。
心の中で進行している事態と
リアルで進行している事態が
必ずしも一致するわけじゃない
ってことなんですよね。
で、彼の持つ
唯一の希望は理想化された
母親対象、彼の全てを
受け入れ、いつでもどれだけでも
受け入れてくれる女性の寄与であり
これなんですよね。
僕はこれを彼女と呼んでいるわけ。
そんな人はいませんからね。
その理想化された母親を
求め続ける。
そうした母親的な人物は必ずいて
こう思うんですよね。
不思議と。これを求めていないと
生きていけない感じがするからね。
彼を見つけて世話をして
彼を見つけてですよ。
どうやって見つけるんだって感じたんだけど
見つけて世話をしてくれ。
そうして彼の望みは完璧に満たされるはずである
という幻想以外の考えは
決して受け入れられないものだ。
そうなんですよ。
ここにこう書いてあるから
書いてあるのを読むと実に不思議な感じがするんだけど
僕も全く同じように考えてました。
こういう考え以外は
なんていうんですかね
考えようともしない。
実際彼はそれに沿わない
あらゆる考えを断固拒絶した。
この人の場合はね
突然して
実際の母親を亡くしたので
そのトラウマがあるっていうので
まだ死も分かりやすい。
分かりやすければいいってもんではないけれども
まだ死も分かりやすい。
私の場合はそういう事態はなかったんで
これに準拠する事態が
何かあったんだろうかみたいなのを
また空想するより他はないんですけどね。
精神分析受けてるわけですね。
母親と祖母の関係
精神分析過程の経過の中で
幼児期に彼はすでに
実母との間で
祖母を来たしていたということが
明らかになる。
分かんないんですよね。
僕はそれがあったのかどうか。
それでも理想の女性と結びつく
という彼の幻想は絶対に
失われてはならないもんだ。
苦しみの中で彼は現実を嫌悪し
暴力的にも排除を心も
そうした女性が現れることを
待ち続けて
それは幼児が
まあ乳児ですよね。
欠けているものへの願望
おっぱい飲んでる霊才児が
また狂い鳴き喚きながら
母親強さを必死で求める姿
そのものだ。
完全に僕はこの説明で
完璧だなって思います。
大学生時代の私はこれで
説明が続く。
これ以外の説明は多分
ほぼ不要な感じすらしますよね。
これは
幼児なんですよ。完全に。
だから
いい年齢になった
大学生が彼女を求める。
全然ありそうじゃないですか。
ここで訳分かんなくなっちゃうわけですよ。
まあ性欲も出てきているし
そりゃ年頃だし
彼女も欲しいよね。じゃないんですよ。
それだったらいいんですよね。
この
ひもての品格に出てきている
人たちもみんなそうです。
どういう戦なのか分かんないけどみんなそうで
男の弱さみたいな話が
出てくるのに
違うなーって感じやっぱしたんですよね。
現象面は
確かにこの通りで
中年になるまで童貞だったり
私もそうでしたけども
そりゃ求めるよね
って思っちゃうじゃないですか。
それはそうなんですよ。ある程度まで。
でもある程度
以上になっているケースでは
おそらくそれだけではないはずなんですよね。
だって私の周りの
友達でも私と同じぐらい
ということには恵まれなかった人も
いましたけど、私ほどは
気にしてないような感じでしたもの。結局。
それは欲しいっちゃ欲しいんでしょうし
いつまでも
彼女なしってつらいねって話は
するんだけど、私ほど
切実なようには見えなかったんですよ。
どう考えても。結構あっさり
部活とか
やっちゃいますし。僕はそういうことが
もうやってられなかったんですよね。
部活やってる場合じゃないでしょ。
彼女作んないとみたいな。
そういうことに優先していくんですね。
自分も
それはどうこしてるなと
思ってたんですよ。
女好きみたいに言われるんだけど
僕は全然女の子が好きではなかった
気がするんですよね。
性欲も人並みよりは全然
父親の不在と世界の認識
なかった気がするんですよ。ある意味では。
これ
全部性欲だと思ってた。ここが
よくフロイトにも誤解が
浴びせられる。
これを性欲とみなさい。
一時ナルシシズムを過剰に
供給する。つまり
極端に用事返りしている
対抗を性欲とみなされてしまう。
性欲にしか見えないから。
0歳児が
おっぱいをすいたいというと、22歳が
おっぱいをすいたいというのは全く意味が違うように
聞こえるわけですよ。
ところが全く同じ意味になっちゃってるわ。
本人にも分からない。
ここがものすごい厄介なんですよね。
本人は0歳児の時の
何か取りこぼした要求に
今縛られているというのを
思い出せないので
どうしても本人にも分からない。
そして
当時精神分析というものは全然
主流じゃなかったですね。日本では。
あったのはかわいはやおと
行動心理学。
ネズミは
レバーを倒すと繰り返しレバーを
倒すようになります。
これだけではね
無理ですよね。
頭が天才的に良ければ別かもしれないけど
かわいはやおさんはやっぱり
永遠の少年
とかグレートマザー
って話を書いてるわけですよ。
それは正しい。確かにそうです。
なんだけど
グレートマザーの話をされて
トルーデさんとかの話をされて
いきなりトルーデさんが
女の子を薪にかえて火に燃やして
言いました。
グレートマザーって凄まじいもんです。
っていう話を読んでも分かんない。
分かんなかったんですよ。
私の悩みはどう結びつくのか。
一方ではネズミはレバーを
何度も倒すようになって
その記録をエクセルにつけて
いくわけですよ。
これもなんか関係あるような気が
僕は当時してたんだけど
なんか全然関係ないような気もするわけですよね。
当時これを依存症の説明として
ほぼこれを説明に持ってくる。
私はセックス依存症
っていうのを読んでたんだけど
全然ピンとこない。
そもそもよく分からない。
依存症っていうようなものとは
全然違うような気がするんだけど
アダルト日で分かりまくってるし
確かに仮に行くから
依存症なのかなって思うんだけど
依存症というのとは
違うような気がしてるんですよね。
この不在論の説明で
完全に説明つくんですよ。
ただ未だに私は
何が不在だったのかの説明が
よく分からないんですよね。
母はいら。
僕は別に私別したわけではない。
母は世話を
放棄していたわけでも
ニグレクトしていたわけでもない。
何が不在なんでしょうね。
ただもう一つ
もういっぱいある
一つや二つじゃないんですけれども
今度はこれは
父親かな。
父親だったような
気がするんですけど
ちょっと
出てこなくなっちゃうな。
やっぱりこういう本って
ある意味どこもかしこも
目が止まってしまうんで
どこを探しに行けば
いいのかがちょっとよく分からなくなって
しまうんですけれども
そうそう
これですね。
一部だけ引用しますけども
これは父親なんですよね。
精神分析の中でその
アナライザント。いずれも
不在論からの引用ですよ。松木さんの。
精神分析の中でその
アナライザントはいつものように
連想を始め
そこでは日常生活に起こった最近の
出来事やそれに関連した彼女の
思いが語られたのだった。
それに関連して彼女には
普通への非常に強いこだわりがあったこと
あらゆる周りの人たちに
普通に見られるように
懸命に努力してきたことが語られた。
こういうところなんですよね。
これが今ならカウンセリングの
領域だってのは明らかですけれども
小さなことに思われるじゃないですか。
普通になりたいんです。
私普通になるように懸命に努力してきました。
そんなに普通にならなくていいのよ
っていうようなやり取りになっちゃいそうじゃないですか。
だから相談したくなくなるんですよ。
これはそういうことでは
済まされないんですけれども
普通の人には
わからん話ですよね。
一体何の話をしているのかと。
普通に見られたいとか
普通への強いこだわりって
何なんだと。
そこにはこれまで生きてきた中で
体験した苦しみを語らないことが含まれた。
語らないんですよ。
こういうことはね。
そしてそこから普通でない何かが欠けていると
ずっと彼女が感じてきたことの
話に向かって。
何かが欠けているんです。
これが不在ってことです。
私には彼女が欠けていた。
これ非常に
おかしな思考なんですよ。
お腹が空いた時に
ない食物があるっていう考え方。
おかしいじゃないですか。
食物がないでしょ。
ない食物があるわけじゃない。
だけど私の思考はずっと
いない彼女がいるっていう状態だったわけですね。
ここに彼女が
いないという状態が存在している。
だからいるべきだってことなんですよ。
これがどうしても逆転しない。
耳を傾けていた私はそこで
彼女が感じてきた過去と
感じてきたと。
感じてきたという風に
言ってるわけですね。
ずっと感じてきたと。
感じてきたと過去形で語ったことに着目し、
彼女に伝えた。
その何かが欠けている
というこの感じは
今もここでもあるのでしょう。
彼女はこう停止、こう話していても
それを実際感じている。
つまり欠けている感じをずっと持っている
ってことなんですね。
と答えた。
それから話は幼い娘には
そうした何かが欠けているという体験は
今のところないよ。
自分の娘さんにはそういう体験はない
ということに進んだ。
物思いに至るところから
私は物思いに
なんとなくそういう物
これ物思いってのはちょっと
説明しませんけれども有名な
テーマなんですね。
暴転が打ってあります。
物思いに至るところから私は
あなたに欠けている何かとはお父さんからの
愛情なのかもしれませんと伝えた。
彼女はそうかもしれませんと言い
父親にまつわる
連想を少し続けた後
私とこうして一緒にいるのは
安心なのに
ひと気がつくと自分の中で私から
放り出されると思っているのだと語った。
男性との間では
自分は忘れられて
しまうとの確信を
彼女は悲しげに語りついた。
何かが欠けているというのは
父親の存在であり彼女には
物心ついたことには父親はいない。
こういうことなんですよ。
だから
もうトラウマになった年齢のことは
もう思い出せない。
欠けているというのは
つまり普通は欠けていないものが
欠けているという感情
この場合の女性は
父親という存在ですけれども
これをあらゆるところに見てしまうわけですね。
どこかの家族を
見てもあそこには父親がいない。
私にはいない。
どこかの家族を見てもそう。
例えば電車の中で
男性というものを見ると
私にそう見えてしまう。
父親、父親、父親。
自分にはそれがない。
だからもう父親不在というのは
彼女には認識できないわけですね。
世の中を見渡すと
世の中には普通に
何かが存在していて
私にはそれがない
という感じ。
つまり世の中全体に対して
私に欠けているものがある。
特殊な感覚と不在
私の特殊性というものが浮き上がってきてしまう。
これが不在のものが
私にだけはあるという
特殊な感覚なんですね。
私にとっては
それが良い母親対象
良いしぶさ対象ということになるんだけど
全く同じだったんですよ。
世の中の何を見ても
そこにはカップルがいる。
カップルらしきものがいる。
家族を見ると
私は寂しくなり
カップルを見るともちろん寂しくなり
要するにクリスマス的な
世界なんですけれども、私の目には。
世の中にはクリスマスがあり
私にはそれが欠けている。
だから異様に寂しくなっちゃうわけですね。
何を見ても
それを連想する。
例えばCDを見れば
CDがプレゼントされているカップルの子供とかを
連想する。
こういうふうに世界に対して
私には何か欠けている状態というものが
次から次へと目に入ってくるわけです。
非常に不思議な体験だったんですよ。
今は全くないです。
だから
小ウィンドウを見れば
小ウィンドウにカップルがいるという
空想がそこに上がってくるんですね。
そして私に欠けているものが
いつも何を見ても
そこから連想されてくるわけですね。
これが不在論
ってことになるんだろうと思うし
これって
人間の思考ですよね。
人間しかこんな思考はしないと思うんですよ。
不在しているという
事態が
不在しているが故に出てくる
自分の思考というものを
あらゆるところから連想して
紡いでしまうんですよ。
だから不在不在不在不在不在なんです。
すべてそこに何かがあるんですよ。
何かがあることによって
私の不在感というものが
いちいち照らし出されてくる。
憂鬱らしさなんですよね。
これが苦しみを生み出す。
赤ちゃんがね
具体化される存在しないもの
お腹の中に悪い
おっぱいがあって
私の中の栄養を
食い荒らしているという
空想主じゃ
実態はそこに何もないですよ。
何もないということが
実態なわけですよ。
私は
それをね
フラゾンさんとの渋谷の
セミナーの時に聞いて
猛烈に思いました。
風石が2つある
というその発想は
私の妄想なんですよ。
風石があるのではないですよね。
そこには2人の人が来た。
これが事実ですよね。
不在論ってそういうこと
不在の対象ってことはね
そういうことなんですよ。
存在しないものがあるという
風想を私の中で
苦しみとともに
実感しているわけです。
それは何かが
抽象化されないわけですね。
具体的になっちゃってるってことなんですよ。
存在しないということが
具体化している。
存在しないというものは
ものじゃないので
具体化はできないんですよね。
こういうのにとらわれるということ
それが問題なわけです。
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