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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
ただいま、10月6日、木曜日、20時28分、夜の8時といったところですね。
なんていう前ですかね、急に寒くなりましたね。
これがね、つまり苦手なんですね、私はね。
だから、こうなる前にいろいろ仕事を進めてしまいたいという、そういう単純な欲望があるんですが、
なかなかそういうわけにも当然行かず、なんといっても1年の半分はこうですからね。
ここからはこのモードで行くしかないなと。
しばらくするとまた少し暖かくなるみたいではありますので、そこはちょっと、私は結局期待はしちゃうんですけどね。
気を取り直しまして、10月8日土曜日に、橘武さんと薬莢の乗り越え方、この寒くなった感覚にはぴったりのテーマになりつつあります。
先日もCMさせていただいた通りで、中年の危機といったものをテーマにしたいと思いますので、よろしければご参加いただければと思います。
この配信は明日の朝にしようと思っているんだけれども、つまり今日落としちゃうんですよね。
やっぱりタイミングが狂ったりすると、いずれはやっぱり1日ぐらいは落ちちゃうなみたいなところが今ありますね。
今日はですね、いつもは自我心理学とか精神分析でやや特殊な用語を使って話していることを、少し世の中の一般に留守している言葉に置き換えながらというのかな、そっちに合わせながら喋ってみようかなと思いました。
これにはいろんな意味があるんですけれども、この方が一般的には役に立つ話に、話の内容それ自体は全然変わらないんですけどね、それでも世の中的にはこの方がいいだろうというのもあって、こういう話ができるようになってくるとですね、よりベターなんでしょう。
この番組でも時々お伝えしている新刊が出まして、またちょっとエグいタイトルではあるんですが、母が女とわかったら虐待連鎖がようやく抜けたですね。
説明的なタイトルである上に楽なタイトルではないですよね。
これが私、一気に一読したんですけど、コミックですから。
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やっぱりこれはそうですね、難しいところですね。診断を私がしてもしょうがないので、ただここの世界には良いお母さん悪いお母さん問題というのが如実に現れていて、大変だなと思うと同時にこれを書くことが癒しになるんだなと。
昔私この番組で癒しって言葉どうも苦手だと言っていて、今でもその件変わりはないですけれども、これを書くことがカウンセリング効果を作る、本人にもたらすんだなと。
わかんないんですよ。本人が今診療ないかなりカウンセリングなりを受けたことがあるかないかとかはわからないんですけれどもね。
これ書くのは良いなことじゃないです。まず私よくわかったんですけれども、新井さんは連作いろんな作品を書いている中でだんだん過去のことを思い出しているんですね。
これ自体がカウンセリングですよね。カウンセリングって結局過去のことを思い出していかざるを得なくなっていくと思うんですよ。
私がちなみに自己発信と言っているのはこれを指していて、自分のことを発信するうちに必ずなぜ今こうなんだろうという発想を持ち始めるんですよ。
物語ってのは基本的に人にも伝わる記憶の形式なんですね。つまり自分の記憶、思い出について人に伝わるように話すことができたらそれは自然物語になるわけですよ。
物語ることができればそれはカウンセリングになるというような非常にざっくりとした発想なんだけど、そういう発想ってカウンセリングにはおそらくずっとあって、
フロイトがあなたのことを何でもいいから話してくださいというところから始めたのはやはりさすがなんですよね。
それこそ除霊とかオカルトであったものからですね、ここまでそれをさらに話してもらっているうちに精神分析としてそれが機能し、さらにそれの組織まで作っていくというのはやっぱりさすがなんですよ。
だからこそまた何度も言いますけれどもね、時間と場所というものを守らせるというのが大事になってくるんですね。もしこれ時間も場所もクライアントさんが言う通りにどんどんつまりカウンセラーの主導権が全くなくなってしまうと、
そこら中で人の話を、世間話を聞かされる人になっちゃうじゃないですか。ましてお金を取らないとなってしまうとね、それではある意味井戸端会議と変わらなくなってしまうので、ここでお金と時間と場所というものをカウンセラーの主導権として握るんですよ。
代わりにクライアントさんは何を喋ってもいいという立場を手に入れる。だからこの関係が対等になるわけです。こうしないと実はクライアントの方が強くなってしまうわけですよ。これを避けなければいけないということなんだと思います。
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そして、もしクライアントさんの方が強くなってしまったら、これは成立しなくなるんですよね、究極的には。やっぱり与えると同時に与えられるというのは、これはクラズノさんのGood Vibesから借りている言葉ですけれども、非常に大事で、どっちがどっちに与えているのかわからないじゃないですか。
一見カウンセリングというのはカウンセラーがアドバイスを与えるように思われるかもしれませんけど、例えばこれブログで考えてみてほしいんですよね。なぜブログで考えるかはなんとなく後でご説明しますけれども、要は自分の過去というものを物語というものを発信する。
これブロガーが与えているじゃないですか。ところがなぜかブロガーはですね、これをやることによって読者というものが読んでくれると癒されるという事態が発生するはずなんですよね。これカウンセリングですよ。自分の身の上話を聞いてもらうと癒される。この場合癒し与えているのは読み手ですよね。聞き手でもいいんですけどね。
こういう関係というのは聞く、聞かれる、あるいは書く、読まれるには必ずある関係のはずで、この場合何らかの形で読み手には主導権がなければいけないわけです。
例えば読み手はブログであればいつでもどこでも読むという権利もあるし、読まないという権利もあります。これがカウンセラーにはないんですよ。聞かないということは認められない。代わりに時間と場所を縛るんですね。そうすることによって関係がまたバランスが取れた関係になるといった話だと思うんですね。
あらいぴろよさんは自分が虐待されていたという話を書くわけだから、それは精神分析というところの無意識に抑圧しているから思い出せない。この番組でも言いましたよね。全意識にあるものは思い出そうと思えば思い出せる。
一見したところ、過去に自分がひどい目にされたということも思い出そうと思えば思い出せそうなものですが、思い出すのが辛すぎて思い出せない。最初の頃のあらいさんが書いていたお母さん像と最新作のお母さん像は全然違います。今の方が遥かに細かくて詳しくて、そしてまずい感じがしますね。
一番最初の頃はお母さんは妙に優しい人だったんだけど顔がなかった。これが抑圧された記憶とそうでない記憶の違いなんです。思い出せるということはすでに癒されつつあるということになるわけです。
まして書けるレベルになってくるとね。書けないですよね。そんなに辛すぎる思い出については。書きたくもないですし。でも書くということが本人にとっては非常に意味を持ってくるわけですね。こういうのがカウンセリングでおそらく起きる現象なんですよ。
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もちろんそれを起こす間には聞き手であるカウンセラーはかなり大変な目に遭うでしょう。ケースによってはね。ただ話を聞いてもらうだけでも結構大変なのに、大変な話を聞いてもらうというのは著しく大変ですよね。
それがなりわいになっているわけですよ。ここに話を聞いてもらうということはつまり肯定してもらう側面が必ずあるわけです。たとえその話が肯定しがたい話だったとしてもやっぱり肯定されるという部分が肯定が全くされないのに話を聞いてもらうということはできないはずなので肯定されるという側面があるんですよ。
今日そのよく世の中で言われている言葉を普通に使うというのは自己肯定観というやつですね。私はの自己肯定観というのはどうもよくわからないようなわかったような言葉だと。この新井ピロヨさんはものすごくご両親から、事実上ご両親から虐待を受けていて非常にこうある意味歪んだ育ち方を養育歴を持っているので一番最初の話では隠れビッチしてましたね。
ちょっと男の人をひっかけてはすぐに振るっていうこれを繰り返すという一種のギャグマンガみたいなものだったんだけれども、これも見る人が見ればヒステリー的傾向は間違いなくあるよねっていうのがすぐにわかってしまうというかすぐにそういうものが見て取れると思うんだけれども。
新井さんのこの漫画の中ではですね、新井さんはものすごく人に肯定してもらいたがる。これがつまり男の人にしやほやされたいという感情につながってるんですけれども、というか行動に現れてるんですけどね。
とにかく自己肯定観が乏しいって話にどんどんどんどん入っていくわけですよ。ここが入り口になってるわけですね。
自己肯定観が乏しいのはこういう育ち方をしたからだっていうのはまさにその通りなんだけど、この自己肯定観っていうのはどうやってじゃあ我々は手に入れるものなんだろうと。
いろんな男の人が言い寄ってくれるから手に入るんだろうかと。ここで例のあれですよね。何者かになりたいってやつが出てくるわけです。
私たちは自己肯定観が乏しいという人たちの世界ってどういう世界かというとまさに新井さんがそうなんだけど、イライラしっぱなしなんですね。
なぜイライラしっぱなしなのかというと、ちょっとグッドバイオス的に言いますとですね、あらゆる人が罪を犯しまくってるからですよ。そこら中で。
どういう罪かというと昔自分がそれをしたら親父に殴られたとかそういう罪なんですよ。
例えば大きな音を立てたとかご飯の食べ方が悪いとかご飯こぼしたとかなんでもいいんですよ。もうなんでもいいんですね。
そういう全ての罪をお父さんがいちいち腹を立てては殴ってきたから全部罪になる。だって罰がそれによって発生するんだからやっぱりそれは罪なわけですよね。
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この順番は本当は非常におかしいんだけれども、子供は最初それがどうして悪いことなのかがわからないんだけれども罰される。
罰されるということは悪いことなんだろうという理屈になっていて、ありとあらゆる行為を、そういう行為をですね、自分が罰されたような行為をそこら中の人がしているわけですね。
だからこの世の中は罪深いんですよね。非常に。イライライライラさせられる。
で、このイライラを当然打ち切りたいと思ってるわけです。
いくらイライラしたところでそこら中の人に食べ物こぼすなとか大きな声出すなって言ってまわって歩くわけにはいかないじゃないですか。
でもそれに近い態度をどうしても出しちゃうから新井さんは孤独になっていくっていうそういう流れを描かれているんですよ。
で、この流れを打ち切りたいというか終止符を打ちたいと私たちは思います。
新井さんほど極端な世界ではないんですよ。私たちだって自分の家ではダメだとされてたけど世の中では全然ダメだとされてないっていうことがいくらも目にしなければなりません。
その都度イライラするわけですよ。だから我々は都市部で人が多いところでは相互にイライラしやすいんですね。
そういう人がルール違反を犯すシーンをお互いに見まくることになるのでどうしてもそういうことが起きやすいと。
例えばうちなんかはテレビの音量がやだらでかいと父は結構うるさかったんですよ。
で、街中に行くとテレビの大音量じゃないですか渋谷とか。
ああいうのを見ると私はイラッとしてしまうんですね。
しない人もいっぱいいるわけじゃないですか。むしろああいうのが楽しいと。
それでいいんだけどなかなかそういうわけにいかない部分があるわけです。
で、私と違う人は全く違うことでイライラする。
いろんなところでいろんな人が地雷踏んでるのを目撃するわけですよね。
これはよく倉園さんがお話になってる話です。
そして新井さんの世界はこれが一段と多いわけですよ。地雷だらけなんですよね。
自分の家庭がそうだったから。
で、終止符を打ちたいと。
終止符を打つためには何が必要かということなんですよね。
私はこれがですね、フリーパスっていうふうに。
自我心理学ではこれを万能感って言っちゃうんだけれども、
対照関係論でいうイギリスの方の精神分析でいう万能感ってこうじゃないんですよね。
僕はこの万能感の使い方としてアメリカ側の自我心理学の言い分っていうのは
ちょっとですね、避けておきたい使い方なんですよ。
私はこれは新井さんが何者かになれれば、私はこんなに周りに気をつかなくて済むんだ。
イライラしなくて済むんだって言ってるこれを万能感って自我心理学では言うんだけど、
私これフリーパスと呼びたいんですよね。
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フリーパスが欲しいんですよ、私たち。
人によってはフリーパスっていうのは億万長者になることなんですよ。
電車とか乗らなくてよくなるじゃないですか。
億万長者になればフリーパスが手に入る。
私はですね、こう絶え間なくイライラさせられる人ほどフリーパスが欲しくなるのは当然だろうなって思うんです。
これがですね、一つチヤホヤされたいということでもあると思う。
チヤホヤしてくれる人しか周りにいないということは、
自分にとって嫌なことをその人たちはすることは許さないってことができるじゃないですか。
私はやっぱこれフリーパスって感じが非常にするんですね。
セレブだけが入れる空間みたいなね。
ダメな奴はそこに入れないわけですよ。
そのために私たちが多分望むであろうことは2種類考えられる。
一つは億万長者ですね。
一人だけの空間が手に入る。
もう一つが何者かになるですね。
特別扱いをされることによって自分は気持ちよくそこを過ごせる。
どっちもですね、ストレスフルなこの世の中というものと
欠別したいという気持ちがあるんだと思うんです。
これと自己肯定感の低さっていうのが連動するのは当然ですよ。
自己肯定感が低いと言っている話っていうのは全部要するに
いつどこで地雷を踏む奴がいるかわかったものじゃない。
だからイライラするって話なんですよ。
で、そこに対して罰が与えられるという恐怖維持さを見ると
自分は自分の心の中で自分の心の中で
罰が与えられるという恐怖維持さを見えているんですね。
ちょっとHSPと近いところはあるんですけども
もうちょっと事態は深刻なんですよね。
親が手を出してきたから。
親が口を出してきたら多分HSPの水準に留まれると思うんですけど
親がいちいち手を出してくるとなってくると
恐怖を通り越してっていうのかな。
恐怖は常に怒りに転化される形になるじゃないですか。
口を出してくるだと不安だ、怖い、追っかないぐらいで止まるんだけれども
手が出てくるとなるとやっぱり常にそこには
感激モードというものを用意しておかなければならなくなるから
怒りの方が絶大になってくるんですよね。
これが多分息子は何も悪いことをしていないのに
息子のことでモヤモヤして仕方がないというこの感情を生み出すんですね。
悪いことはしてないんだけれども
自分の父親だったらまさにこういうエピローグが出てくるんですけど
自分の父親だったらもうこの段階でこの子は殴られていると
なのに私は殴らないんでいるからすごくストレスになるっていう話になっちゃうわけですよ。
これはやっぱりどうしても罰されたということが
つまり罪深いって話になってるから
余計この問題は深刻になってくるんですよね。
フリーパスないですよね、こういう件に関しては。
だから子育てって難しいと思うんですよ。
例えば億万長者になったらこういう問題解決するかというと難しいと思うんですよね。
ベビーシッターを雇うという手は出てきますけれども
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簡単ではない話になってくるとは思います。
ここで自己肯定感って話って実は私はずれてるんじゃないかと思うんですよ。
いつも自己肯定感って話が出てきているときにこういう件が問題になってるんだけれども
これ自己肯定感なんだろうかって思いますね。
これってのは結局何が悪いことであるかを
間違った決め方をされていたって話に近いんですよね。
もうちょっと精神分析的な話になっちゃってるんですけど
言ってしまうと環境としての母親が機能してないんですよね。
非常に機能が薄い。
逆に言うと私たちって結局普通に育てられた場合
環境としての母親に包まれてるんです。
そういう意味では。
だから世の中というものは根本的に悪いところではないんだという感覚が
無根拠に出来上がっている。
無根拠に出来上がっていないと
新井ぴろよさんのような世界にどんどん近づいていくんですよ。
いつどこで誰が何をして勝つか分からない。
それによっていつどこで誰がどんな切れ方をするか分からない。
そういう状態を見ているとハラハラするしイライラする。
もちろん我々もある程度は、さっき言った渋谷の大画面のテレビみたいに
ある程度はこういうのはありますが
例えば私の目にはこう見えるんですね。
根本的に世界というのは良いところなので
一部問題があったとしても
一部大音量という問題があったとしても
これは結局一部に留まるし
一時的なものだし
他のところに移動すればすぐにこの問題はなくなる。
つまり根本的に良いものの一部、一時的に
自分の気に入らない部分が発生する。
これが良いものというものをベースに見た時の考え方なんですね。
感じ方だね。感じ方ということになる。
これが逆転するということになると大変なんですよ。
根本的に世界というか現実というものは信用ならないものだと。
一時的に良い顔をすることがあっても
基本的には悪いことというのが
悪いことというデフォルトに戻っていく。
これ人に当てはめてみるとよくわかるんですけれども
こういう観点を人に向けた場合
良い人って世の中から消えますよね。
一時的に自分に良くしてくれる人はいても
その人の本性は腹黒いんだってことになってくると
この一時的に良いことをしてくれる人は
この一時的に良いことをしてくる良いというのは
少しも良い意味を帯びてこないですよね。
自我心理学でもこれはよく言うんですよ。
良いものと悪いものというのは
最終的には良いものにしか統合されないという言い方をするんですよ。
もしベーシックに悪い人だということになってくると
その人が良い顔をしてみても
それはただの詐欺的な何かですよ。
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逆に相手が良い人であるならば
一時的に自分に嫌なことをしてきても
基本的な信頼は揺らがずに済むんですよね。
これを世界に持ったとき
その世界は環境としての母親という機能を
私に果たしてくれるはずなんですね。
この機能が弱ければ弱いほど
現実の中に生きるということは
不快で不安で仕方がないという方向に向かっていく。
この方向に向かえば
自己肯定感が低いとこれを言うんでしょうけれども
そうなるのは当たり前ですよね。
そしてこの方向に向かえば向かうほど
私もあんまり人のことは言えないんですけど
決して私もこの気持ちは十分わかるんですよ。
でもそれでも私は
領域歴から考えても現状から考えても
現実にそれほど強い不信感を抱く理由はないので
つまり我々人間は
現実をニュートラルには見られないということなんです。
良いものとして見るか悪いものとして見るかの
どっちかを迫られている。
そして悪いものとして見るほど大変なことはないんですよ。
なんてことはないんだけれども
なんてことはないことですら
自分への攻撃になってしまう。
自分を不快にさせるということの意味が
攻撃になってしまうんですね。
私の場合、自分を不快にした場合だとしても
それは私の偏見だと見ることが
そう難しくはないんですよ。
これは何かの努力はいらないんですね。
パッと星空を見て
世の中って良いものだというふうに
そこに根拠はないですよ。
星空は僕に良くしてくれるわけじゃないんだから。
ただ、そう見えるわけです。
そう見える限りにおいて
一時的に何か問題が起きたとしても
それは一時的なものだから
すぐに何とでもなるわけですが
これが逆になったり
この機能、この機能って言うべきなのかわかりませんが
この観点が著しく弱かったり薄かったり
根本的に世の中が
そう人に見えているかどうかわからないんだけど
多分そういうことになるんですよね。
根本的に世の中が悪いものなので
一時的に良い顔をしてきても
信用はできないと
いった話になるはずなんです。
で、この世界で
何か悪いことは起きますからね。
嫌なことは
暴走族が通ったとか
誰かの罵声を浴びせているとか
全部自分への強い攻撃に
なんていうのかな
全部根本的には
自分への攻撃として
移り得るということです。
私にはそうは見えなくても
こういう観点で世界を見ていれば
当然することになるはずなんですよ。
その人は罪を犯していますから
一時的なミスでは済まされないわけです。
で、こういう苛立ちというのは
私たちにもあるんで
ないほうがいいとはみんな思うから
フリーパスはある程度欲しいわけですよ。
で、こういった
みんな思うから
フリーパスはある程度欲しいわけですよ。
つまり
ウィニコットが
環境としての母親というものに
包まれていれば
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その赤ちゃんは基本的に万能感を持っている
って言ってるときの万能感と
自我心理学で言うときの
ところの万能感は違うんですね。
自我心理学で言う万能感っていうのは
いいものと一緒にいたときだけに
発生する万能感なんですよ。
とってもこれは危険なものなんです。
あらいさんで言うと最初に
あらいさんのご主人と出会ったとき
ご主人にすべてが向いちゃうんですよね。
このご主人と一緒にいる以外の時間は
耐えられないというような
そういう感じ方になるわけです。
世界が基本的に信頼できない場所だから。
このご主人と一緒にいるときは
なるほど
万能感いっぱいで
幸せいっぱいでいいんだけれども
これはとっても危険なんですよ。
例えばこのご主人が
トイレのフタを閉め忘れたとき
もう発狂気味になって
そういうシーンがあるんだけど
そうなるわけですよ。
唯一信頼していた人に
裏切られるわけだから
私にとってそういう感じ方って
存在しないんですけれども
存在するとこういう風になるんですよ。
世界は悪いわけですから
その中で唯一ここだけが
安住の地っていう
万能感の得方をすると
そうじゃないところは
暗黒ですよね。
で、ご主人まで裏切った
ってことになったら
そういうことになるんだけど
裏切るんですよ。
自分にとって不快なことって
必ず人はするから
これがいい世界と悪い世界に
分けたときの
潜在的な危機なんですね。
だからフリーパスを手に入れる
っていうのは
こういう問題を引き起こす
ということです。
このご主人がフリーパスになったわけですよ。
ついにフリーパスの手に入ったと。
だけどフリーパスというものは
つまりフリーパス以外のところでは
とってもやっぱり
リスクが大きい何かなんですよね。
これを自我心理学では万能感と呼ぶ。
ウィニコットの言う万能感って
私が感じるところ
少し違うと思うんですね。
私が思うに
ウィニコットの言う万能感
環境としての母親に包まれている
というときの万能感というのは
そういう条件付きのものではないんですよね。
私だけが手に入れたフリーパスでは
決してないんですよ。
みんな持っている。
みんな持ってるということは
世界全体がですね
一部がではなくて
全体が信頼に値するところでないと
どうしようもないんですよ。
私がそういうものを欲したことはありました。
やっぱり欲したときはいつも
みんな同じだと思います。
世界少なくても
善意気には信頼感がおけず
世界に良い場所と悪い場所がある
って感じ方になるんですよ。
私が一番それがひどかったのは
大学生の頃ですね。
大学生の頃にはそういう感じ方があった。
私は何者かにはなりたいと思わなかったのに
億万長者にはなりたいと思いました。
金のあるところに
良いものを集められるし
そうじゃないところに行っては
私のような人には死んでしまうと。
例えば空気の良いところとか
例えば安全な場所とか
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治安が良い場所とか
空調の利いた場所とか
全てお金がかかるわけですよ。
こういう場所にいなければ
自分はまずいと
非常に弱いと思っていたので
特に身体的にですね。
これは私のやっぱり
身体的な自己肯定感の低さ
というものを物語っているんですね。
同時に世界は
そういう身体的に弱いものに対して
非常に過酷な世界であるという
感じ方を持っていたわけですね。
これはやっぱり連動するんですよ。
私のそういう
病弱な人間に対しても
良い世界があると。
ただしそこに入るための
フリーパスとしては
お金というものが
必要になると。
そういう感じ方を持っていたんですよ。
私はタスクシュートを使って
私のような身体の持ち主にも
安全な場所への
フリーパスを手に入れようと
ゲットしようという
努力をしていたわけです。
これが自我心理学でいう
良いおっぱい、悪いおっぱいの分け方。
そして分けたときに
起こる現象なんですよね。
ものすごい辛いんですよ。
だって僕は一度たりとも
億万長者になれたことはないんだから。
そう。
不健康なところに
転落する恐怖というものと
戦っていかなければいけない。
そこで逆説的にも
腰が悪かったり寒かったり
しているにもかかわらず
無理やり原稿を
粛々と書いていくというのを
自分に強いなければならなくなるんですよ。
そうしないと
フリーパスが手に入るのが遠くなり
ますます私は老化して
身体がダメになっていくという
事態を招かなければいけないから。
そういう状態に来ている
あるいは養育歴から来ている
いろんな形で来る
というものがあるわけですね。
いずれも
環境としての母親というものが
何か見失っているんですね。
そうして環境というものが
全く信頼のできない
何か非常に過酷な世界に見えている。
なんか土星みたいなね。
そこに至っては大変なことになるわけです。
いろんな意味で。
私の場合は非常に単純に
身体物理的な意味でした。
皆さんにとっては
非常に人間関係的な何かなんだと。
それはもう
いろんなバリエーションがあるわけだけど
面白いことに
バリエーションの
いろいろバリエーションがあるかどうかと
関係なくですね
見え方がすごくよく
酷似してくるんですよね。
つまり危険だということです。