1. グッドモーニングボイス
  2. 私はなぜ「良い人」を切り捨て..
2024-09-25 49:42

私はなぜ「良い人」を切り捨てたくなってしまうか?【1059】

そしてその後絶望するのか?
---
stand.fmでは、この放送にいいね・コメント・レター送信ができます。
https://stand.fm/channels/658790a07376b3f9361fc70f
00:07
おはようございます。働く人による精神分析チャット1059回をお送りします。
9月25日水曜日、7時54分です。
はい、むっきり涼しくなりまして、ネッククーラーまだつけてるんですけど、しゃべっている。
あと耳ね、これなんだよな。たぶんマイクだけのやつを入手すればいいんでしょうけどね。
耳当ててるとだんだん暑くなってくるんで、やっぱり耳当て冬やるのと基本変わらないですからね。
完全に熱がここでこもると。それがちょっと問題なわけですが。
昨日ですね、たまたま割と上手いことしゃべれたんですけれども、
ずっとずっと僕が話そうとしていたベータ要素、物自体というのが一番正しいと思うんですけど、
無いという状態の無い、我々の世界の近くです。近くするものって無いという状態無理ですよね。
あんまり思考というか頭の中で生き続けているのに熱心だと忘れてしまうかもしれないけど、
例えば目の前に鳥がいるとするじゃないですか。この鳥が無くなったりはしないですよね。
どっかいなくなる。視界の外から消えることあっても無くはならないですよね。
点滅というのかな。あったりなかったりできるのは心の中だけの状態じゃないですか。
心の外にあるもの、つまり現実の世界には無いっていう存在はあり得ない。
だから心の中にあるにもかかわらず、あるなしができないもの、これがつまりベータ要素なんだと思うんですよね。
ベータ要素っていうのは点滅することができないんですよ。幻覚としてあるだけなんですよね。
あるだけなのに現実のものではない。
ということは本当はそれはあるだけってのはいかにもおかしくてないものなんだけど、ないのにもかかわらずあり続けるという、現実のようにあり続けるという、これがおかしいわけですよ。
このような思考であるということは思考の最も原始的な形態とベータ要素って言うんだけど、最も原始的な形態で思考以前の思考ってことになってしまうわけですね。
これがつまり幻覚と。こういう思考で生きているということが人間にもしあるとすれば、それはもうゼロ歳児、生まれたばかりの赤ちゃんだろうと。
で、幻覚を見る人の思考はそこに思考の一部が戻ってしまう。多くの場合、情緒を伴う思考がそこに戻ってしまう。
つまり、ママがいないんだけど、ママという概念もなく、いないという概念すら持てないときに悪いママがいるっていうね。
03:01
でもそれは悪いママという概念も無論ないので、いい悪いがないですから。
それに自分はやられてしまうんだっていう生存本能の恐怖みたいな話ですよね。
だからそれがキシボジンみたいなやつとして向上してしまうわけですよ。
あれはもう本当にベータ要素の象にしたもの。だから象ってやっぱりそうですよね。仏像の象ね。
仏像の象は消えないじゃないですか。あり続けてしまいますよね。
あれはもうイメージの世界なわけで、そういうイメージの世界であるにもかかわらず消すことはできない。
だから夢なら消せるけど、幻覚は消せないというですね。
物自体ってのは消せない。目をつぶって見えなくすることはできても、物自体が外界にあるってことは、僕らはもう意識の上で物は消えないわけですよ。
物は去ることはあっても消えることはない。それと同じなんですね。
だから私たちはここでもって、本当は現実と内界を区別しなきゃいけないし、心の外と現実というもの、心の外と心の内、空想世界というものは分けなきゃいけない。
点滅できないものは外にある。点滅できないものが内にあっちゃいけないってことですね。
心の内にあり続けるものが物としてどんどんあるというのはまずい。
それがあると心の中のスペースが消えないもので埋め尽くされて使い物にならなくなるわけですよ。
だからそこで勉強したりはできないし、空想することすらできないので、そこで現実的に生きていくのは難しいっていう、これ心のスペース的な話とも絡むらしいんですね。
そういうことをぐじゃぐじゃ、私がここで喋ってきているわけですね。
このβ要素というのがめちゃくちゃ大事なのは、でも私たち健常なとされている人間であっても、このβ要素にはちょいちょい悩まされるということがあるわけだからなんですね。
キシゴジンの話は何と言っても、私は高梨亮子さんの赤い沼を読んでいただくと、あそこにバッチリ表現されていると思うんですね。
キシゴジンに憑依されてしまう女の子が登場するんですけど、まさに憑依というのがうってつけだなって思うんですよ。
あのように存在しているはずのないものが存在し、しかもそれが人を乗っ取るというね。
そしてキシゴジンは赤ちゃんを食べる、赤ちゃんは食べられてしまう恐怖というものと戦っているんですよ。
実際はお腹が空いているだけなんですよ。
でもね、例えばですけれども、しばしば幼稚園でもバスに放置とかってあるじゃないですか。
ああいう時には本当に命に関わるし、悪い存在というものがあるわけですよ。
06:07
悪い存在というものはないんだけれども、放置というのはつまりそこに悪意があるとは言えませんからね。
言えないんだけれども、自分はでもそれによってサバイブできなくなると。
これがやっぱりキシゴジン的な憎悪というものが赤ちゃんの心の中に、赤ちゃんじゃないかもしれませんがとにかく心の中にあるわけですよ。
それがもう自分を締め付けてくると、そういうことになるわけですね。
この話の場合、当然のことながら、放置することの社会的な問題というのを問いますよね。
これは当然問いますよね。
だからそこでどの程度その部分に話を寄せるかという問題もあるわけですよ。
悪いおっぱいというのは心の中にしかない。キシゴジンも心の中にしかいないんだけど。
でも現実というものは存在し、しばしば本当に致命的なことになるわけ。
だからそこにウィニコットのような人が少し社会の方に寄せる。
だから環境としての母親という言い方をする。
クラインだったらもう良いおっぱいと悪いおっぱいなんだと。
完全に心の中だけのことを言ってるようなんだけど。
ウィニコットのような人になってみると、やっぱり母親というのは環境を供給してるんだと。
だから環境の供給として時々パチンコ屋に行っちゃう。
つまり失敗もあるんだけど、死なないように頑張らないとダメですよねっていう。
それはお母さんじゃなくてお父さんでもいいんじゃないのっていうのがジェンダー的な話なんですけど。
無論お父さんでもいいんですよ。
ただしあくまでもウィニコット流に言うとお父さんだとしても環境としての母親と言うんですよ。
それが供給しているものの象徴的な表現の仕方なんですね。
いずれにしても別にそれが血が繋がっていてもいなくてもそこはいいんです。
なんなら年が運といってる兄弟とかおじいちゃんおばあちゃんでも全部ひっくるめて環境としての母親って言うんですよ。
これをもっと記号的に言うとですね、ビオンがコンテナーとかっていうわけですよ。
そうなるとジェンダー的な問題からは離れられますよね。
どう表現する方を好むかは好みの問題だけでは決してないんですけど、コンテナーには象徴的な含みも明瞭にあって、
環境としての母親っていうのは環境面の方をむしろ強調してるんで、
例えば藤山直樹さんが書かれてますけど、甘えさせるっていうのは環境としての母親以上なんですよ。
やっぱりそこには象徴的な含みが、気持ちの供給もありますからね。
環境っていうのはあくまでもバスに置き忘れないとかそういうあくまでも物理的な環境の方を強調してる面が感じられますけど、
コンテナーって言い出すとまたちょっと微妙な感じがするんですよね。
09:00
質を意味してますからね。支給も意味してますし、そして部屋も意味している。毛布も意味している。
そういう意味でやっぱりビヨンって人は網羅的にことを表現しようという努力がすごい上手というか徹底してるよなって感じがするんですよね。
環境としての母親っていう言い方はバクッとしてますよね。その辺から比べると。
良いオッパイ悪いオッパイってなってくると心の中の話にかなり絞ってる感じがしますね。
一番大事なのはその中では良いオッパイ悪いオッパイだと思うんですよ。
悪いオッパイっていうのはやっぱりキシボジンみたいなのを連想していただくのが一番いいと思うんですよ。
それは外から迫害しにかかってくるように思われる心の中にある。
だから本来正気の心にはないものなんですね。正気の心は点滅するものを作り出すはずであって決して点滅しないものを作っちゃいけないわけですよね。
目をつぶっても目を開けていてもそこにないものが見えますってのはやっぱりまずいわけですよ。
ただしそういう状態に健常者もなりますと。
そこがだからやはりこれも美音の言葉で精神病部分と非精神病部分でどっちが優勢かによってその人の正気の程度は決まるんだという。
これはつまり我々は精神病部分をみんな抱えている。
どうしてかっていうと0歳1ヶ月だった頃の自分というものを卒業したりはできないかっていう含みがあるわけですね。
お知らせもないままどんどん話が進んでしまっていて。
お知らせに戻るのがめんどくさいからこのまま進めますけど。
ここが昨日やたら話してうまくまとまったんでちょっとつないだんですけど。
今日私がしたいのはこの次の段階でつまり病理構造体ってやつなんですよ。
その前に本当は妄想分裂ポジションあるんだけど。
でも僕らにはやっぱり一般的に病理構造体こそが私たちの本当の課題なんだと思います。
β要素はその前段として非常に重要で私たちはβ要素にしてやられるっちゃしてやられる。
僕がアトピーでしてやられたようなんですけどね。
でも病理構造体こそが私たちをしてやりはしなくても非常に邪魔になるというか、
これこそが僕らの仕事を滞らせるポイントだと思っているわけですよ。
だからこの問題を僕は見ます。
3ヶ月チャレンジに参加していただいた方にはその人の病理構造体みたいなものが
どういうふうにその人の仕事を先を暮らさせて仕事を進めるのに障害となっているか
12:03
そこを僕は見るというのが最近の大体まとまってきたところですよね。
だからそれがなくなれば働くメンタルを取り戻すことができると思うんですよ。
働くメンタルはもともとあったんですよ。
働くメンタルを取り戻す3ヶ月セッションというのが来期の名称にするんですけど
働くメンタルはあったんですよ。
働くメンタルを取り戻すというと何かこうね、
どっか一部界隈で労働狂とか言われているものみたいに思われるかもしれませんが
別に働くメンタルを取り戻すだけで働けって言ってるわけじゃないですよ。
僕はそういうことは言わないはちなんですね。
興味がない、そこには。
興味はなくはないけれど
そこは私の仕事の観点をさらに大きく超えていってしまうので
働けという話では全然ない。
働くメンタルはしかし取り戻されていいと思うんですね。
まして働くの中に稼ぐはない。
別に稼がない働きはいっぱいあって当然だと思いますが
働くメンタルが失われているのは
僕は病理構造体によるものだと
それが進行していくせいだと思っているんですね。
もっと言うと精神病部分が優先になっていくから
つまりそれはβ要素にしてやられているから
この状態はいいとはとても思わないので
それよりは働くメンタルを取り戻せている状態の方がいいと。
だからそういうことを可能にできたらいいなという
三ヶ月セッションなわけです。
でもそれは私が働くメンタルを供給しますという意味では
全くないわけですよ。
そんなものは供給できないわけです。
やる気出しましょうってことではない。
その人はもともと持っていたのが
おそらくいろんな理由から
ほとんどの場合は病理構造体を良しとする理由から
失っていってしまう。
それを取り戻しましょう。
だから取り戻せるわけですよ。
もともとあったものだ。
なくなってもたぶんいないと。
それで病理構造体の話になりたいんですけど
これはやっぱり良いおっぱい、悪いおっぱいから
ことは始まるわけですね。
で、なんで昨日よりも前のフェーズに来ているかというと
やっぱり幻想は幻覚よりも
幻想が幻覚より進歩しているというのは
エビデンスってやつはないし
そのようなことが万人に認められているとか
この世のコンセンサスなわけじゃないんですよ。
言ってみればビヨンとかクラインの話から
松木邦彦さんとかの本を読んだり
藤山さん、直樹さんの本を読んだり
曽笛さんで方とかお好みさんの本とか
いろいろ読むうちに
たぶんこういう話してるよなっていう話で
しかもそれはその世界では通るけど
でもその世界って僕入ってるわけじゃないし
行ったこともないし、会ったこともないんで
15:02
結局僕が勝手に言ってることみたいになっちゃうんだけど
一方で、いやそれはお前誰だそれさんが言ったこと
非常に立場的に僕弱いので
バックボーンになってくれない人からケチはつけられ得るという
この状況は僕は良くないんで
なんかこう別の観点はないのかと思うんですけど
今のところない気もするんで
勝手に喋るわけです。しゃあないからね。
幻覚というのはベータ要素だと僕は思うんですね。
幻想の世界に入ってくると
幻想の世界に入りかけてくるとですね
理想の愛を作るということは
理想の母親を心に作るということは
どこかで母親がいないっていうことを知ってると僕は思うんですよね。
全く知らないとやっぱり騎士墓神が襲ってくるになっちゃうと思うんですよ。
危機的な状況では我々もそうなると
ありもしないものが襲ってくる世界が始まると思うんですよ。
が、まあまあそこそこ普通に育てられて
ものすごい幅が広いグッドイナフマザーですよ。
この辺がやっぱり見に行くといいところですよね。
グッドイナフマザーっていうのは生きてる全てのマザーをグッドイナフマザーですから。
もしかすると生きてなくてもグッドイナフマザーですからね。
幅超広い。ほぼ無意味な言葉なんだけど。
でもマザーがいる、いないは大きいわけですよね。
一人でいる赤ん坊がいないってわけですよね。
一人でいる赤ん坊がいうるから幻覚が発生し、キシボジンになっちゃうんですよ。
でも一人で赤ん坊を放ってしまうということは
周りにお父さんもお母さんもおじいちゃんもおばあちゃんも
育てる人も誰もいないってことですよ、これは。
だからガザ地区みたいなところの、わかんないですけど
もっと戦前、戦中の日本のある情景みたいな。
それキシボジンじゃないですか。
誰もいないんだけどキシボジンですよね。
大人が狂気なんですよ。
だから大人が狂気の世界に入ってしまうとキシボジンが登場するっていう。
これはですね、なんていうのか非常に宗教的な話でもありますよね。
だからキシボジンなんですよ。
これをなだめることができるのはブッダとかになっちゃうわけ。
超、なんていうのかな、非常に超現実的な存在ですよね。
それを許せるみたいな。
私はこう、みんなのために十字架につけられたから、
ジーザスはそれを許せるっていう理論というのは結局、
こういう話でしかなくなるという課題があると思うんですよね。
いやそれは、私救われた気がしませんっていう人はいると思うんですよ。
やっぱりどっちにしてもね。
だってそれ、なんていうのかな、納得できるかどうかみたいな話になっちゃいますよね。
どうしたってね。
だから一人でいる赤ん坊はいないっていうのもいますよっていう人はいると思う。
そこにケチはつけられないと思うんですよね。
ただ生きながら得るケースにおいて、
そういうケースは普通は考えにくいっていうこの普通の幅の広さを取ればですね、
成立するとも言えなくはないかなっていう話でしかないんですよ。
18:04
結局ね、いずれにしても幻覚というのは正常な状態では考えにくいんですよね。
正常な状態では考えにくいんですが、幻想はいっぱいある。
良いおっぱいというものを作り出す。
良いおっぱいというのはつまり、グッドイナフよりもはるかに理想的。
そんなおっぱいはないんだけど、つまり私がお腹が空いたらいつでも供給される。
私のお金が尽きそうになったら、
なんかこう、ATMにお金1億円入ってたわみたいな、ないじゃないですか。
それはおかしいですよね。
でも、我々はそれを夢見ますよね、やっぱりね。
お菓子とか買うのはそれが理由でしょ。
だから夢は見ますよね。
この夢が見れるようになったということは、
キシゴジンがいつまでもあるというのに比べると、
はるかに前へ進んでいる感じがあるわけですよ。
まだお母さんがいないということがわかんないんだけど、
でもいないってことをどっかに感知するから初めて、
自分で自分のためのおっぱいを作り出すってことをやるわけですよ。
これは現代でも普通に進んでますよ。
いや、彼女いないんならレンタル彼女とか、
そういう発想じゃないですか。
作り出すわけですよ。
それはお母さんがいないことを否認しているという点で、
幻覚に限りなく近いんですね。
お母さんはいるんだってことにしている。
たとえ鬼のようなお母さんでもいるんだと。
お母さんがいないよりはマシっていう面があるわけですよ。
こういう病理があるんですよ。
そのお母さんでもやっぱりいた方がいいですか、みたいな。
だからマゾキスティックになっていくわけですね。
一歩間違うと、クライアントさんは。
毎日のように夫に殴られてるけど、
夫を愛してますみたいなノリってあるわけですよ、やっぱり。
それは単に自分を低く見積もってるって意味ではなくて、
別れれば致命的だっていう。
だから低く見積もってるって言えばそういうことになるか。
お母さんがいなければ生きていかれません。
ゼロサイズだったらその通りですよね。
それは何らかの形で自分が生きていく力を持ってるっていうのを
どっかで放棄してしまってるんですけれども、
放棄せざるを得なかった理由がきっとあるんですよ、そこにはね。
それよりはやや先へ行ってるけど、
現実にお母さんがいないということを否認するために
レンタルお母さんとかレンタル彼女とか、
いないんだけどVRゴーグルをつけたら、
すごい綺麗な彼女が服脱いでくれますみたいな。
これはいることにしてしまってるわけですよね。
いないのはわかってないんですよね。
いないのがわかってない状態が幻想。
いないのはわかってるけど、
いることに無理やりしちゃうのはあれです。
パーソナリティ障害ですね。
これは行動の病みなさい。
いないものを認識しろと。
いないことを受け入れろっていう、
これができない、やだっていうわけで、
いることにします。
でもいないこと知ってますっていう、
21:00
この矛盾した心理状態を解消するために、
よりリアルなものを自分の目の前に
無理やり置くという。
これが行動として迷惑行為とされるものに
かかってくるわけですよ。
ストーカーみたいな話ね。
いや、あれ彼女だから。
今俺のことすごい嫌ってるらしいけど、
あれは本心じゃないからみたいな、
無理やりいることにしてしまう。
否認という言葉で表される防衛規制ってやつですね。
これは全部それを意味してますね。
あるいはお酒を飲むと、
昔付き合ってた女の子と一緒にいるような
気持ちになれるとかそういう話。
ここまで来ると、
もう何だっていろんなところにあるんで、
それが大金持ちになった空想であれ、
優しい彼女さんであれ、
何だろうな他に、
優しい彼氏でも同じですよ。
母親なんですよそれは、
言ってみればね。
ここちょっと話を飛ばすんですけれども、
飛ばすというか、
ここに余計な話を含めますけれども、
母親機能の中でも一番大事な機能というのは、
お金とかリソースとかそういうことではなしに、
みんなそれだと思ってますけど、
それではなしに話が通じるということ。
話が通じなかったら、
現実とはアクセスできないんですね。
だから昨日お話ししたような、
美音の解釈とか、
松木邦博さんの解釈とか、
本節丁寧に話を聞いて解釈してあげるというのは、
猛烈なことなんですよ。
猛烈なことだというのは、
だってその人は話が分かってもらえないわけですよ。
私の昨日のアトピーがそうだったじゃないですか。
私のアトピーというのは、
厳覚用だと僕は思うんで、
痒みという厳覚、あれ痒みって言うけれど、
痒くなんかないんですよ。
すっごい分かりにくいと思うんですけど、
アトピーが中小度以上できつくなってくると、
痒い。
でもこの痒いってなんだ?
だって痒み覚ってないから、
痛覚はあるけれども皮膚には。
そういう刺激って何?っていうことになる。
ないんですよ、これ。
ないから困るんですよ。
それって分かるんですよ、真剣に考えてると。
痒みにこらえて5時間ぐらい頑張ってると、
痒みってないんだな。
とにかくこれは違和感みたいなものであって、
痒みじゃないぞっていうのが分かるんですよ。
他の人のアトピー知りませんよ。
僕のです。
これにずっと耐えてると分かることがあって、
何にもないんだってことが分かるんだけど、
でも消えてくんないんですよ。
幻覚ってほんと困るんですね。
で、この幻覚用のものって伝わらないんですよ。
医者行って痒みはないんですとかって無駄じゃないですか。
これほど無意味なものはないですよね。
だからお医者さんに今のお医者さんに言うと、
今はだいぶ進んでから操縦扱いされないけど、
僕の時代なんかひどいもんってダニがいるんですっていう、
何でもいいからいることにしちゃうんですよ。
ヒスタミンがあるとか、
24:00
ヒスタミンがあることに。
そいつを除去すれば痒み止まり、
かかなければ皮膚病治るってことにしちゃうんですよ。
そんなことはない。
寝ている間かかないなんてことはできませんから。
僕手縛って寝てた時期があったんですけどね、1年ぐらい。
無駄なんですよ。手縛って寝たところって。
手に血が通わなくなるだけで、そこが悪化するんですよ。
なんかもう本当にね、取り付く暇がないというか、
出口がないんですよ、あれね。
精神障害っていうのはほんとそういうもんだと僕は思いますね。
非常に簡単に言うと、
肌に対する母親の対応というのは非常にまずかったということになるんだけど、
それは結果論であって、
分かんないんで、うちの母にはそういうことは一切ね。
だから私は身体化って言うんですけど、
皮膚の奥にβ要素を埋め込んだみたいな感じの方が、
まだしも説明になっている気がしますね。
そいつを取り除こうと頑張っちゃうってことですよ。
それはないものだから取り除けない。
取り除けない。
で、ないってことこそが最大の問題なんですよ。
それをあるに切り替えてしまったら、
もう手当にならなくなっちゃう。
ということですね。
だからまだね、クリーム・保湿剤みたいなの、
そこまで行っちゃうと効かないことが多いけど、
塗るって方がはるかにマシなんですよ。
それが母親だって思えるようになったらOKです。
治る。治ると僕は思う。
僕の病気はそうやって治ったんですよ。
気色悪くないっていう人にとってこの考え方は辛い。
そもそもの思い出しのシーンですね。
ゼロ歳児を放っておくような母親が、
だからキシボジンになっちゃう。
今はミニキシボジンみたいなのが肌の奥にあるみたいな感覚だから、
そこを母親がいるから大丈夫って思うことほど、
この人の精神状態の人にとって難しいじゃないですか。
だから難しいんですよ。
いないって方がまだはるかにマシなんですね。
いない方がマシだと思うからえぐり取ってしまうわけですよ。
残念ながら。
いない方がマシってことはないんですよ。
いないからバスの中なんですよ。
いないから車の中にいて、
いない母親どこにいるかパチンコ屋にいたりするって話じゃないですか。
それはキシボジンだろうってことになるんだけど、
でもその母親が助けてくれるんですよ。
ここが厳しいんですよ、この話。
だからβ要素になってしまう。
そうなったら拝むしかないみたいなところがちょっとどっかあるわけですよね。
βキシボジンなわけで。
もうちょっとマシになってくださいみたいな。
拝むしかないみたいなところがあるわけですよ。
そうなると宗教ジックになっていくわけですね。
話がちょっと途切れた。
それよりはるかにマシな理想の母親を作り出せるあかん。
でも理想の母親を心に繰り返し繰り返し作り出さなければならないということはですね、
そのお母さんとの関係は何かがちょっとこじれて、
これのこじれだって僕が言ってるのは、
第一子はそうじゃないけど第二子はそうしたとか逆だったりするというのは、
お母さんという人との相性みたいなものがここに込み入ってくるんですね、やっぱりね。
27:03
ものすごい泣くこと、穏やかに泣く子、めちゃくちゃおっぱいを欲しがること、
そうでもない子、育てやすさってあるから、
厳格用になってしまうというのは育てやすさぶんぬんではない。
その情勢に問題がある。上から爆弾降ってくるとかね。
情勢に明らかに問題がある。
でも、情勢に問題がなくても相性っていうのが今度出てくるので、
ここに理想のおっぱいを繰り返し作ってしまう子供というものが出てきうる可能性ってあるんだろうなと。
これにも当然僕はハマってます。当然です。
なぜか、厳格用の事態を引き起こしているおうちが幻想とは無縁でいらない。
たまにあんのかもしれない。
0歳時の頃のお母さんはすごい問題だと思うけど、
1歳になった時に心をめちゃくちゃ入れ替えましたみたいな、
そういうケースあんのかもしれないんだけど、
だとしても私は結局、厳格と幻想の両方はセットになっちゃう。
幻想だけっていう世界はあり得ても、
つまり課題は2歳時頃から、いわゆる第一次反抗期ですね。
起こりましたっていうケースはいっぱいあるだろうけど、
0歳時の時に課題があったけど、
2歳の時にはなくなりましたというのは考えにくい気がします。
事態は断続的に悪いだろうなって感じはするんですよね。
だから私のような人間が、
私はそんなにひどい育てられ方はしてないんですけれども、
厳格用と東映ドイツ化を、
幻想の方と両方セットで持っちゃってる。
そしてもちろん私は普通に育てられた方だから、
心の中は幻想の問題の方があって、
これが病理構造体を生み出す。
自己愛構造体とは最初言われてたんですけど、
自己愛構造体の方が正確かもしれないけど、
網羅的に自己愛を超えてしまってるんで、病理構造体。
ここからこの病理構造体の話をしますけど、
またエグい話だなって思われるかもしれないけど、
ここはもう諦めてください。
そもそもが、事態がエグいのに、
病理構造体を生み出すというのは、
これを小嫌いな話にしようというのがナンセンスなんですよ。
心の内なる赤ちゃんが泣いているのを
慰めようというだけでは、
それでことが回るなら、そうしたいところですよ。
やっぱりね。
それではことは回らない気がしますね。
私の心の中で起きたことを考えてみても、
9歳、8歳、10歳、地球10歳、
私の心の中で起きたことを考えてみても、
9歳、8歳、10歳、地球10歳、
小学校2年、3年、4年、
特に3年、4年の頃、ストレスもあったしね。
どんどんどんどん、ある意味性倒作みたいな、
病理構造体は倒作を生むんで、
これは性って表現があるし、
性の目覚めと関係があるんだけど、
セクシャルなこととあんま関係なくもあるんですよ。
だからこれをエグいなというよりはですね、
やっぱりこれは心の中の問題として、
考えてしまった方が手っ取り早いと思うんですよね。
私はいいおっぱい、悪いおっぱいって表現で、
30:01
そのものがセクシャルみたいなところはありますけど、
いい母親、悪い母親にこれを治すんだけど、
そうすると訳分からなくなってしまうんですよ。
怪物感がないじゃん、悪い母親なんて。
せいぜい子育てちゃんとやらないぐらいの、
キシボ人みたいなイメージ、キシボって言うから、
母なんだという、母なんだというのは、
やっぱ赤ちゃんから見てるからなんですよね。
で、いいおっぱい、悪いおっぱいは、
まあシンデレラ問題ですよね。
だから実母は優しく、ママ母は悪い。
実は同一人物っていう話なんです。
シンデレラはそうはなってませんけど、
あれはだから二歳児向けなの。
これをうんと拡大すると、あれですよ、
セント・チヒロの神隠しになってきますよね。
ゼニーバというバーバ、あれいい母親と悪い母親じゃないですか。
あれは、まあ多分ですけど、
チヒロのおばあちゃんですよね。
まあそれ、おばあちゃんという象徴を通じて、
お母さんなんですけれども結局は。
こういい面と悪い面が明らかにあるわけですよ。
おばあちゃんでもいいですよね。めちゃくちゃお金にうるさいというのと、
めちゃくちゃ母性愛に満ちてると。
逆になってますけどね。
ユーバーバめちゃくちゃ母性愛に満ちてたじゃないですか。
母大好きだったじゃないですか。
ああいうところにいろんなカラクリを込めるんですけども、
まあそれらのことは置いといて、
双子っていうのは要注目なんですよ。
母親が双子っていうのはね、いいのと悪いのに分裂してるから。
これが妄想分裂ポジションの分裂ですからね。
いいお母さんの時はいい私、
悪いお母さんの時は悪い私に自己が分裂していく。
これがそのまま成長するに従って何が起きるかというとですね、
母親役が彼女役に切り替わるわけですよ。
そりゃあそうっすよ。
だって特に男の子なんかは、女の子だってそうだと思う。
いつまでも母親母親言ってたくないわけですよ。
内心では母親母親言ってたって、
いつまでもおっぱいが欲しいって言っても格好がつかないじゃないですか。
いろんな事情がありますが、
このおっぱいをお金に変えてみたり、おっぱいを休日に変えてみたり、
やっぱり成長はするんで、
情緒がその成長が妨げられていても、
頭の中の象徴機能はちゃんとではなくても成長していくので、
お母さんはセーラー服を着た美少女とかになっちゃうわけですよ。
なんだけれども、これは作ってるってことを忘れちゃいけないんですよ。
これをリアルなそれだと思うと、
なんかミソジニみたいな話になってみたり、
文化的問題みたいな話になるんだけど、
だからロリコンがどうのって話になるんだけど、
それは私はめちゃナンセンスだと思うんですよ。
いないってことが全てであって、いるいないのもないんです。
さっき言った通り、いないからいいのを作るわけ。
そうすると、いないからいいのを作るということは、
いないから悪いのもできるわけ。当然ですよね。
33:01
いないから悪いっていうのが元々の話だったんで、
悪い意味、悪いものといいものに分けるということは、
やっぱりいない状態の中で起きてることですから、
いるんだったらば、このような空想を心の中でする必要がないわけ。
だけど、いるいないから、いない以上は作るしかない。
で、いいものを作るということは、悪いものもできる。
いないことによる悪いことはいっぱいあるんで、
お母さんがいないというのはですね、
8歳児にとっても全然大変なんですよ。
いますよ。うちだっていたから。
でも、例えばうちなんかそうだけど、
仕事でめっちゃ忙しかった。で、仕事していないときは、
なんかスイミングスクールとか行っちゃうみたいな。
いないわけ。これは結局ある意味で。
いてほしいときにね。
だからそれは、私がその母親に対して攻撃的な気持ちを向けるんだけれども、
攻撃的な気持ちを心の中で持つということは、
その心の攻撃的な部分が私をやっぱり襲ってくるというか、
それは非常に攻撃的な部分として心の中にセットとして持たれるわけですよね。
しかもそれは悪い気持ちになったときのものなんですよ。
いい気分のときは持たない。
いい気分のときは持たない。
だからいい気分のときはクラスで一番かわいい女の子とかをここに。
いいほうに置き。
それはすなわちくっつきたいという気持ち。
で、悪いほうには攻撃的なものを全部ここに集める。
で、これは切り離したいという気持ちなんですよ。
ここでこの切り離したい気持ちが皮膚とかに適応されると、
皮膚むしるみたいな話になってしまうんですけれども、
この性に関してですね、
くっつきたいという気持ちを一方で持っているわけじゃないですか。
一方でこの性欲というのは切り離したいという気持ちもいっぱい関係するわけですよ。
すっごいめんどくさいものなんですよ。
だいたい相手はいないんだし、
当時8歳9歳のときにセクシャルな恋愛できないじゃないですか。
めっちゃ大変なことになっちゃいますよね。
まあ怒られますよね。
この種のことで怒られることは当時の自分には致命的なので、
この感情そのもの、この欲望そのものを切り離してしまいたいわけですよ。
切り離したいんだけれども、実際には湧き上がってくる。
そしてどっちにしても対象は存在しない、リアルには。
空想の世界の中で頑張るしかないわけですよね。
良いオッパイと悪いオッパイの部分が良い彼女と悪いヤンキーみたいになってくわけですよ。
この悪いヤンキーに良い彼女がレイプされる。
そういう空想が私の中では、繰り返し繰り返し8歳ぐらいから湧き上がってきて、非常に困惑したんですね。
今のような説明が自分に対してできるようになったのは40近いときなんですよ。
遅い。遅いにも程がある。
頭悪いなって思います、私は。
頭が良ければ10代後半でもわかっても良さそうに、これは期待しすぎか。
でも20代後半、大学卒業後にはわかっていい話ですよね。
36:03
フロイトも読まされたんだし。
フロイト読んだってわかんないですけどね。
とにかくこれが私にわかってきたのは30代中盤ぐらい。
それでもあの人ですよ。
森岡さんの感じない男を読んでだいぶ何かがわかった気がしたんですけど、
かわい早男たちは全然わからなかったですね。
ようやくわかったのが40過ぎてからなんですよ。
ヤンキーとなんかこう、清純な女の子みたいな。
これがまたね、不思議なことにあるんですよね。
昔の昭和の観音小説を書く人はこれ結構書くんですよ。
私はそれを貪るように読むんだけど、思えばなぜ読んだのかわからなかったんですよ。
性欲って説明になっちゃうんじゃないですか。
これは性欲は良いおっぱいと悪いおっぱいに乗っかってるに過ぎなくて、
ことはやっぱりお母さんがいないなんですよね。
許せる許せないは関係ないんですよ。
で、これのなんちゅうのかな、尻尾をつかんだっていうのも変なんだけれども、
ようやくこの話の筋が見えてきたのはですね、
悪いおっぱいは結局のところキシボニンみたいなやつだからヤンキーになる。
これはいいとして。
良いおっぱいが理想的な女の子になる。これもいいとして。
これが結合しようとすると、要するにすごいことになってしまうという状態なんだけれども、
そういう作品は、作品っていうのかな、しばしばありますよね。
当然それしか私はリアリティを感じられないので、
これがメンタルのリアリティ、心内で起きてることですから。
で、私は精神病状態なわけじゃないんで、この時代は全部把握してますから。
このヤンキーはいない。この清純な女の子もいない。
いないことは知ってるんで、いないことを知ってるからビデオを借りたり、
本を読んだりする必要が出てくるわけですよ。
いないことを知ってるから、現実を作り出すために、
その現実を作り出すための素材を現実に借りてこないと難しいわけですね。
これが一つ。つまり点滅してるんです。消えちゃうんですよ、このような心象は。
私の中ではすぐ。維持しておくためには、画面を見てるほうがはるかに安全。
安全というか確実。最初は漫画だったんですけどね。
で、漫画も消えないじゃないですか、結局。消えないってことがすごい大事だったわけですよ。
これが一つで、もう一つ。ここでよくそういうものがですね、
だからこれが教科書になるってことほど、僕はナンセンスだと思ったことはないですよ。
僕の心の中に最初からのは分かってたんで、に近いものをただ探したに過ぎなくて、
向こうに教えられたわけじゃないんですよ。
これはものすごい僕の中では大事なことなんだけれども、
なんか世の中では普通に逆が言われていて、だんだん混乱してくるんですよね。
これって教えられないと分かんないことかっていうか、分かる分からないことではない気がした。
ただ、そういうこうフェミニスティックな論議を読みながら、
僕の頭の中はめちゃくちゃ混乱してたんで。
39:01
なぜなら僕は別に、清純な女の子に興味なかったんですよ。リアルには。
ヤンキーにはまして興味がない。
このヤンキーが清純な女の子を襲うシーンを見て興奮するというのは、見て興奮するのであって、
傍観者的なんです。ものすごく。どっちにも同一化してないんですね。
だからこれが僕は、そこの部分が精神病的だったんです。
これが僕の外で行われているような出来事になぜか感じられている。
そういうのに対する社会的な批判、別にフェミニズムじゃなくても、教育側からの批判ってあるじゃないですか。
だけども、その議論の中で僕が一番同意できなかったのが、
男が女を支配するのが好きなんだっていう表現。
ところが私はヤンキーに対して心の中で、
自分が作っているにも関わらず、そのヤンキーに全然同意できてなかったんですよね。
全く同一化できてない。
どっちかというならば、その女の子の方に微妙に同一化している感じが、これだとマゾンになるんですけど。
でも事実上私は傍観者的だったんですよ。
見てるっていう立場が。ビデオを見てるから見てるじゃないです。
僕はどっちでもないって感じがあった。
これが私の心の中の猛烈な分裂なんだけど、
どうしても傍観者的だなって感じがした。
あのヤンキーのようになりたいとは全然思わなかったんですよ。
が、自分男なんてヤンキーなんだろうなと思ったんですよ。
ここに病理構造体における創的防衛で活躍するところの
破壊的な事故っていうものの存在っていうのが出てくるわけですよ。
これが関係を壊しにかかる。関係を壊しにかかってるじゃないですか。
恋愛関係とか、要するに男女がくっつけば進む話を。
これ明らかに破壊的ですよね、ものすごく。
でも破壊的なところに快楽、難しいんだけど、
破壊的なところにしか性的な快感が感じにくいので、私の状態っていうのが。
この状態で入っていくと、このヤンキーに期待しなければならなくなるんですね。
これがですね、このシーンでは成立しないんですけれども、
いろんなところでこの構造が出てしまうんですよ。
例えば私と編集さんが、編集さんが清純な女の子状態。
女性の編集さんを言いますか。
かたやヤンキーではないんだけど、なんかもうちょっと正義ぶっている。
右翼みたいな。右翼も難しいんだけど、とにかくある意味左翼みたいな。難しいですね。
とにかくいるわけ、ヤンキー役が。
僕の心が分裂しがちなんで、いいよっぱいと悪いよっぱいになるわけ。
何かがないストレスを抱え始めると、この図式が構造上上がってきちゃうわけですよ。
何かがないというのは、例えば締め切りまでの日数がないとか。
42:00
トゥードゥリストは捨てていいで書きましたけれども、日数が足りないストレスがかかってくると、
編集さんは今回たまたま女性でしたからね。
正純な女の子になる。それに対して、正純な女の子なんだけど、
この場合はちょっとボケてる感じがするわけ。
あるいはちょっとこう、自分のことしか考えてない女の子みたいになってしまうわけですよ。
それに対して、いかつい教師みたいなのが。いかつい教師難しいな。
私の母親のみたいなのがヤンキー役として出てきて、
あの女、キリステロンみたいになってくるわけですよ。
あの女に思い知らせてやれみたいな感じになってくるわけ。
これが私のストレスなんですけれども、そうすると、よし、わかった。
この企画をぽしゃらせれば、すげースッキリするみたいな。
これが反出であり、スプリットオフなんですよ。反出になるわけ。
これが仕事の至る所に出てきちゃうわけですよ。
これがもう税務処理みたいなところにも出てくるわけですよ。
もう税務書員の人が正純な女の子であることはまず考えられないけど、
雰囲気としてそういうものにイメージされてきて、
もう税とか関係ねえからみたいなことを、なんかちょっと不思議なんですよね。
左翼チックなヤンキーみたいなのが出てきて、
もうこれを切り捨てようみたいな。
それは確定申告までの日付が足りないとか、
結局ことはないことに起因してるわけ。
で、ないということが私にストレスをかけ始めると、これが始まってしまう。
そうすると日付ないのに言語書かないわけじゃないですか。
そしていざとなったら切り捨てればいいみたいな。
日付ないのに税の処理を怠るわけですよ。
そして、やんなければいいんだみたいな。
最近インボイストがふざけてるし、やんなきゃいいんだよみたいな。
そういうふうになってくるわけ。
この破壊的な私というもの、
これはおおよその概ねの起源をどこまでもたどっていくと、
やっぱり悪いオッパイに行き着くんですよね。
キシボジン的な何か。
破壊的な母親であり、
かつなんかね、やっぱり年齢が進んだんで、
ここが正義の顔をかぶるんですよ。
これは正義なの。
正義の鉄椅とかって言うじゃないですか。
鉄椅を振り下ろして、あのなんかボケボケしたやつに思い知らせてやろうみたいな。
相手が正純とかじゃないんですけど、
なんていうのかな、
いいオッパイだと思ってるとは言えないんだけど、
そこがやっぱりリソースを持ってるから、
そことくっつきたいっていうのがあるわけですね。
だって編集さんとうまくやればお金になるわけじゃないですか。
あるいはこう、
税務署とうまくやらないとまずいじゃないですか。
そもそも僕のような個人事業主は。
これをなんで正義で叩き潰そうとするかというと、
関係を破壊することによって、
なんつーのかな、やっぱ母親に思い知らせたいわけですよ。
だから、前はキシボジンだった。
どうしようもない。
わけわかんないし、世の中のことなんて。
でもだいぶわかってきた。
母親はパチンコに行ってる。
あれをこう、少年を叩き直してやろうみたいな。
そういうノリがここには入ってきてるんだと。
45:00
だからやっぱ成長してるんですよね。
母親がいるべきだってことなんですよ、これ。
あるいは母親はもっと自分に良くするべきだってことなんですよ。
だからここに自己愛構造体って言葉がもともともあったんだけど、
今では病理構造体。
必ずしもこれが自己愛的なんですよ。
すべてがくっついてるのにバランバランになってるっていうこの状態は
自己愛的なんだけれども、
病理構造体、ローゼンフェルドの考え方から来てるわけですね。
この先なんですよ。
ヤンキーに襲われた清純な女の子に、
もう言っちゃいますけど、
あれですね。
挿入するじゃないですか。
そうするとドス黒い欲望とか、
ドス黒い精神とかっていう表現が出てくる。
黒くねえだろって。
これが具体水準ってことなんです。
超超水準の領域をとって、
黒いっていう黒いのは悪いから。
悪いのは破壊的だから。
それは何かっていうと、
いない母親の象徴だったわけですよね。
もとを辿ればですよ。
いない彼女でもいいんだけど、
とにかくいないことは不当である。
いないことが不当だってことは、
つまり自分は無力だってことじゃないですか。
ここはものすごい大事なところで、
この黒い欲望を打ち負けたってことを、
やらなきゃいけないんですよ。
この黒い欲望を打ち負けたってことを、
やらなきゃいけないんです。
この黒い欲望を打ち負けたってことを、
やるとね、
観音小説の最後に大体出てくるんですけど、
女の子は絶望するんです。
これおかしいんですよ。
これおかしいなって、
僕が気づくようになったのには、
やっぱり二十歳を過ぎてて、
遅いなって思うんですけど、
女の子は怒ったとかでもいいはずなんですよ。
あるいは悲しんだとかでも別にいいはず。
悲しんだ出てくるケースはあるんだけど、
絶望ばっかり出てくるんですよ。
絶望してるのは自分なんですよ。
だからあれ書いてる人は絶望してるんだな、
って今なら思うんですけれども、
そう、絶望するんですよね。
つまり、
総的防衛で飛び出して、
関係を破壊して、
そして俺は大丈夫だ、
俺だけでやれるんだからって言って、
自分が関係しようとしている存在を破壊しきる、
しきると、
腹が立ってるからそういうことをするんだけど、
しきってしまうと、
絶望するんですよ。
僕はここに実はミソロジーとかを投入してしまうと、
わけわかんなくしかならないと思うんですよ。
これは、
正純な女の子も私なんですよ。
私が作り出した私なんですよ。
ヤンキーも私なんですよ。
私が作り出した、
私の中の破壊衝動というものが
心象として上がってきているにすぎないんですよ。
で、この破壊と愛というものは、
つまり母親というものを、
もともとは、
母親の不在というものを
象徴しているわけですよ。
ここに絶望してるわけ。
だから最後は、
黒い精子とかいうわけわかんないもの。
つまりオカルトなもの。
オカルトなものをぶちまけて、
で、そのいい女の子の方は
絶望するわけ。
それは私の心なんですよ。
という話なんで、
最後には装的防衛。
つまり、いやそんないい奴とかは
48:01
わかんないし、知らないし、
壊してしまっても、
俺全然やっていけるしって言ってる
このヤンキー的な部分に依存してるんですよね。
結局ここに。
だけどこれについていくと、
最後には絶望を残して終わってしまう。
これは非常によく臨床で出てくる話。
ちょっと似てるなと思うんですよ。
東映同一課の最後に絶望を置いて、
クライアントは去っていっちゃうと。
ババババババッと
尾形カイトさん怒られてましたよね。
あなたみたいなカウンセラー見たことがない。
最低のカウンセラー。
と言って絶望を置いていく。
この絶望は当然、
クライアントの絶望なんですよ。
カウンセラーの絶望ではないわけね。
だから女の子が絶望したって言って、
あースッとしたってのは
非常におかしいわけですよ。
そんな女の子自分なんだから。
絶望してスッとするはずがないんだけれども、
夢中が非常に複雑になってしまっていて、
やっぱり子供の側にだって
いて欲しい時にいてくれない。
いて欲しい彼女がいてくれない。
もっとちょっと待って欲しい原稿を待ってくれない。
あるいはもう少しは
いろいろコロナとかがあったんだから、
確定申告の時期がずらしてくれていいのに
罰金取る。
許せないってのが出てくるわけですよね。
そういった状況で
女の子が
女の子が
罰金取る。
許せないってのが出てくるわけですよね。
だから攻撃する。
でも最後には絶望が残ってるわけですよね。
結局取られるしね。
そういう話なんだと思いますね、ここはね。
これが
こと細かに組まなく書いてある漫画が
あれです。
ドコンジョウガエルの娘。
49:42

コメント

スクロール