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2023-11-25 24:44

タスクシュートについての2つのアイディア【GMV 889】

アイデンティティとしての私とその中を生きる私。

サマリー

タスクシュートについての2つのアイディアについてお話します。まず、第一のアイディアは、彼らの健忘症に関して触れられた守備一貫の私と守備一貫しない私の存在です。第二のアイディアは、タスクシュートを通じて彼らの人格の変化と記憶の連続性について考えます。タスクシュートは、連続している彼らの道を記録し、アイデンティティの一貫性を保ち、時間と空間のバランスを図る重要な手段です。タスクシュートという概念について説明し、時間の把握方法について考察します。

タスクシュートと健忘症
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
11月24日金曜日の夜21時3分です。
これはですね、明日の土曜日の朝、ショート編としてアップしたいと思っています。
今日は久しぶりか分かりませんが、タスクシュートの話にしたいと思うんですね。
これはたまたまなんですけども、今日認定試験というものがありまして、
そこのレクチャーを聞いているうちに、なるほどと思って考えついたことなんですけれども、
だいぶ以前からこういうことを考えてはいたなというのを思い出したので、そのお話をしつつ、
もう一つですね、私はタスクシュートで、タスクシュートではないんですけど、
これもまた大事なポイントだなと思うので、
合わせてですね、この辺のタスクシュート絡みの話をですね、
いつか小冊子みたいなのにまとめたいと思うことがあるんだけど、
一体その小冊子ってどういうふうにして出せばいいのかが、まだまだ全然さっぱりイメージがわからないので、
Kindleで出せばいいのかもしれませんけどね。
その辺ちょっと今考えたいと思っているところです。
二つありまして、一つはまずその認定試験のレクチャーを受けている、
レクチャーというか模擬講義って形で講義してもらうんですよね。
それを私が眺めて判定するみたいな話なんですけど、
判定するというよりはやっぱり聞いていて考えさせられた内容だったんですね。
そこから得た私の、改めて得たというものではないんですけれども、
タスクシュートの中の考えとしてこういうものがあるなと。
というのをお話ししたいんですけど、
簡単に言ってしまいますと、私よく以前別人問題という表現でこの話を取り扱ってきたんですが、
深刻なレベルではないんですけど、我々っていうのはやっぱり日々健忘症にかかってる感じがあるんですね。
短いタイミングで記憶を失ってるって僕は思っているんですよ。
よくアイデンティティとか自我同一性と言ったりするんですけど、
これって結局自分というものがどういうふうに生きてきたかを覚えてるってことなんですね。
しかにまあまあ覚えてはいますよね。
多分ですけれども40年前にいたところ、土地とか青森県とかですね。
覚えてはいないけど生まれたところはどうやら北海道らしいと聞きでそういうことを聞いてきていると。
で、それから長なく埼玉県で過ごしてきて、正確な日付は覚えてないにしても、記録は残ってるけれども覚えてないにしても、
神奈川県にその後引っ越したとか、アメリカに行ったとかはすべてこの佐々木昌吾という人間がやってきたことだというのを覚えている。
これが多分アイデンティティというものと関係があるんですよ。
これをことごとく忘れるのを専門用語では全生活死健忘と言ったりしますけども、いわゆる記憶喪失ってなかなか大変ですよね。
そういうことになったりすると。
重度の抑鬱でしばしば見られる現象だったりするんですけど、これ抑鬱で見られるというのはよくわかる話ですよね。
抑鬱症というのは結局のところ、鬱病と言われているものというのはですね、非常に深く精神分析では特に対象喪失という言葉と関係がありますよね。
この場合の対象喪失は言うまでもなく人なんですけれども、人とは限りません。
例えばペットロスと言われているように、ペットを失うと何で対象なのかというと、それは内在されているからですよね。
もうペットが亡くなってしまえばですね、このペットに会うことはできませんよね。
守備一貫した私と守備一貫しない私
記憶というものが内在されていないのならば、それからしばらくして忘れてしまいますよね、会っていなければ。
いや、そんなことはないだろう、覚えているだろうと思うのは、それは人間だからであって、そして人間はそれを内部にその記憶を持っているわけですよ。
だからそれを記憶の対象というわけですね。
その対象はしかしも現実にはいないんだという認識を持つ、これが対象喪失ですが、あまりにもこれがこの人だけは失いたくないというものだったり、それこそ国家だったりね。
例えば大日本帝国は失われたみたいな、大げさな話だとそういうところもあるわけです。
大日本帝国は対象ですよね、今や。外在はしないという言い方もすることはできますからね。
それこそ、わかりませんけれども、フランス帝国、それは対象ですよね、我々にとって、すべての人にとってですね。
それが既に現在、現実には存在しないことを我々は知っているということが、心の板手にならない人が一般的だと思いますが、なるといった場合にはですね、
究極的にはですよ、それと自分のアイデンティティーが深く深く関わっていて、自分のアイデンティティーというのは大日本帝国とともにあったということになり、かつそれが失われたということになると、
自分の全生活は無意味なものになってしまう。ここまで行く人は稀ですが、もちろんこの場合、欲打つ症をはっきりと示すとともに、
このレベルは非常にレベルが深刻になってくると、自分の生活史全域が失われる。だから生活史見本といったことになるわけで、そういうことがうつ病でしばしば見られるわけですね。
うつ病では記憶を喪失するというのは、こういったことと関係があるわけです。話がそれている感じなんですけど、タスクシュートというのはある意味、つぶさに生活史というものを記録していきます。
そうすると、これは私の考えでしばしばやっていることなんですけれども、特に先送りとの文脈の関連においてですね、朝はご飯食べる前はもうご飯食べたくて食べたくて仕方がない。
つまりご飯食べたい私がいるわけですね。ところがご飯満腹でお腹いっぱいになると、その私は消えてしまう。もうご飯はいいやっていう私が現れる。
その時に私はある意味では連続性を失っているわけです。さっきの私はどこかに行ってしまう。これが先送りというものと関係があると思うんですよ。
何かのことをやりたいと思ってた。何でもいいんですけれども、今日は部屋を片付けたいと思っていた私。でもその私はタスクに、いざ片付けというタスクがあるところに立ってみると、やりたくなくなっている私が現れる。
人格が短いタイミングで、小さいですけれども後退している。もちろんその生活意見簿みたいなことは起きていない。あくまでもさっきの気持ちを忘れてしまったという。
これがですね、細かく細かく連続して次から次へと繰り返されているので、守備一貫した私などというものはそこにはいないわけですよね。
そのことに僕はタスクシュートに、タスクシュートを使ってなくてもそのようなことには内面への理解を意識している人は気づいているはずだと思うんだけど、守備一貫した私などというものはいないと。
人格の変化と記憶の連続性
これは恋愛ではもうしょっちゅう見られるわけですよ。ある人とすっごい付き合いたい。この人と付き合えればもう一生満足いくと思っていても、1年ぐらい経つとその同じ相手を振ってる人がいるわけですね。
でもその人は生活試験法とか記憶喪失に陥ってるわけじゃないですよね。守備一貫した私だと思ってるんだけど、つまり人は気が変わるとか、もう気持ちが同じところにはないとかってそういう言い方をします。
心変わりとかって言うじゃないですか。そういう時に非難しててですけどね。で、こういう時に私たちは、守備一貫しない私というものに何らかの意味で直面する、まったくそういう内面への意識が向かない人は、いやもうあの人はひどい人だから別れたんだぐらいで済ませてしまうけど、
少しでも内面というものに意識が向く人はですね、なんか自分って妙に一貫してないなっていうのに気づかないわけにいかないと思うんですよね、ある程度。ということは一貫していない私に気づく一貫した私っていうのかな、あるいは一貫したいと思ってる私みたいなのもどっかにいるわけですね。
このことがタスクシュートっていうものをつけているとよく実感されるわけです。その時僕はですね、ほぼ、特に昨日今日思ったことなんですけど、1本のパイプがあって、このパイプ自体を通ってきているわけですよ。このパイプっていうのは要するに私の生活の歴史を表しているわけですね。
これは間違いなくある意味私なんですよね。ずっと繋がってきている。ここを私は歩いてきたみたいな。そんな道はないんだけど、イリュージョンなんだけど、でもそういうような記憶があるからこそアイデンティティは保たれているわけですよね、ある程度。
この間をしかししょっちゅう色々と変化する私が歩く。これを基本的には自分の主体、私だと思ってるわけですよ。こういうのを多分精神分析では自己対象って呼ぶんだけど、いずれにしてもその時々の私がいるわけですね。これはもうどんどんどんどん入れ替わる。
でもそのバトンを渡すみたいな感じですよね。前の私が次の私にバトンを渡し、さらにその次の私にバトンを渡す。その時少しずつスイッチするんだけど、その歩みの連続性みたいなものはそこにある。だからここにはですね、私の歩んできた道としての私とそこを歩いていく私っていう2者が存在していると思うんですね。
これが精神分析的にはなんとなくコンテインドとコンテナーって感じ。つまり、あるいは母子っていう感じですよね。包んでいる母と包まれている子っていう関係を連想させたんですね。私にはその時。こんな話はタスクシュートとほぼ全く関係なくなっていくんだけど、タスクシュートの記録に残ってる方がつまり連続している道なんですよね。
そこを歩んでいく、一つ一つの作業を実行していく私というのは、いつも一貫していないんだけれども、でも何らかの形でその道を歩んでいるという意味ではですね、すべての私に共通しているポイント、あの面がある。
そういうふうにして私というものが、自分と言ったらいいんですか、自分があるという状態は維持されていくんだなっていう感じがするんですよ。
なぜこういうからくりがタスクの実行に向くかというと、結局のところこの連続している私に何をさせるかっていう観点が、人の社会、現実社会を生きる上では一つ意味を持ってくるんですよね。
この連続している道に、この道の中で一定の何かを残していく、それがプロジェクトってことになるんだろうけれども、そういうものがなくても僕は別にいいと思うんですよ。
その時その時で、それでは消費的だとか断片的だとか主体性が足りないとかって言われるんですけど、僕はそれは言い過ぎだと思うんですよ。
現代はそれを言いたがるし、そういうことを言うのは言い過ぎだと思うんですね。
どんな人にもそこまで求めちゃいけないと思いますし、そこまで求められる言われもないと思うんですよ。
この道がどんな道であるか、つまり私が記録していくタスクシュートという全私の生活史として残るかもしれない一つながりの文章みたいなもの、あるいはテキストみたいなものは、
どのような内容であっても人からとやかく言われる筋のものではないと、特にこれが犯罪的でないならばですね、
どれも等しくそこにおいて何らかの成果が残っているとか、そこに連続性がどれぐらい見られるかっていうことは趣味の問題に近い。
それを高く評価したり、ある記号の連続性によって金銭がより多く賄われるっていうのは良いけれども、
それが短くぶつ切りになっているから価値が低いだろう、連続しているから価値が高いだろうということは私は言うべきものではないような気がするんですね。
ただそういったものがあるなというのは確かに記憶の中にあるなという感じはして、
ただしそれを実際に歩んでいる私はその全域は望めないし、またその全域において一貫しているとか連続しているという意識を持つのはおそらく無理だろう、また持つようなものでもないだろうと。
時々持ち続ける必要があるっていうのはわかります。
だからそういう意味でタスクシュートっていうのはですね、それが記録として残るんで、一時的な健忘に陥りそうになった時でも再度それを回復しやすい状態というものを保ってくれる。
つまりアイデンティティの一貫性というものが求めたくなるようなシチュエーションになったら、その手がかりとしては強力な機能を備えている。
空間と時間の関係
これがタスクシュートの現代社会を生きる上で大きなサポートになる、その力になり得るポイントだと、機能の一つだと。
提供する機能としては大きな部分だというふうに思うんですね。これがその機能を持ったところなんです。
もう一つこれにやや関連して思ったのがですね、一方で私たちはですね、ああいったものに限らないんですけれども、タスクシュートに限らないんですけれども、
タスクシュートでもよく何もしていない時間はないというふうに私が表現したことがある。
最近のタスクシュートの認定トレーナーさんたちに、J松崎さんが提供しているマスター講座の、マスター講座ってものがあるんですけど、その講座の中でね、金魚鉢の写真があるんですよ。
この金魚に入っている水が時間だってことなんですね。我々は金魚とか水草、水草とか石とかに目が行くんだけれども、水にはおよそ目が向かない。
まあそうでもないけれどもね、空気だと目が行かないですよね。完全にそこには何もないとみなされる。
私は昔はですね、この何もないっていうその時空間の取り扱いが大事だなっていうことを考えたことがあって、
技術評論者さんから一番最近に出させてもらっているタスクシュートに関する本ではですね、この時空間に一定の空間を持つこと、つまり空きが大事だっていうのを本の中で書いたんですよ。
つまり部屋というものをもの置きみたいにしちゃいけないと思うんですね。そういうことを当時書いた記憶があるんです。
家具でいっぱいにしてしまうとテレビを見ることもできないじゃないですか。テレビを見るためにやっぱりテレビから自分までの空間には何もないっていう状態が必要ですよね。
その距離をある程度空いていないとすぐ目の前にテレビがあるっていう状態が望ましいと思う人はいないと思うんですよ。
でも空間というものを隙間なく使うことがむしろ空間活用効率として高いっていうふうに考えてしまうとですね、ぎっしり物で埋めてしまいたくなります。
僕らこれを時間についてやりがちなんですよ。現代人は忙しいのでね。ぎっしり時間を埋める。
だからこのダラダラしてしまっただの、休み過ぎてしまっただの、睡眠時間が長すぎるだのっていうことが出てくるんですね。
ところがですね、空間というものは何もないから空間なんですよ。そこに何かがあったんでは空間じゃないんです。それは物になってしまうんですよ。
これも私最近不在論っていう話を盛んにしてますけど、それとの兼ね合いですごく考えるようになったんですが、時間がないという人は何かをやりすぎているんですね。だから時間がないんですよ。
時間がないっていうのは空間がないっていうのと全く同じだと思うんです。空間っていうのは何もないから空間なんですよ。この中に空気があるとかいうのはなしね。
あくまでも物がおける空間の話。心にスペースを持つとかいうのが精神分析では重要ってされるんだけど、これは同じことだと思うんですね。
空腹感の認識
時間においてはやっぱりスペースを持つのが大事だと思うんです。全時間を作業で埋めてしまうと時間はなくなるんですよ。
時間があるというのはとても逆説的なんですね。時間があるというのは空間があるというのは全く同じで、そこに物がないからこそ空間があるんですよ。
そこに物があっちゃったらそれはもう空間じゃないですね。物で埋まっちゃうんで。そこにあるのは物なんですよ。空間ではなくて。
時間が欲しければ、時間があるという感覚を持ちたければ、何かしないって時間をことさらに持つこと。それしかないなっていうふうに本当に最近は思います。
休憩でもなんでもいいんですけれども、とにかくそのいわゆるタスク習得的に言うと空白の時間を持つってことです。
そこに何もしないっていう時間を空けるってことですね。そうしないとおそらく時間があるという感覚を持つことは決してできなくなってしまうだろうなって感じがします。
時間ってのは抽象ですから、空間と同じく抽象なので、そこに何もない、何もないという認識がどれほど大事かっていうのは、
最近不在論を読んでるんで、ずっと、あの本って結局何もないという認識を持つということがどういうことかというのを中心テーマにおいて、
全身分析全体を理解しましょうって、対象関係論なんですけどね。理解しましょうって本です。それと全く同じだなと。
私たちはですね、たぶん、例えば、よく全身分析でお腹が空っぽになった乳児の苦しみっていうのを言うんだけど、空腹って僕らは見たこともないでしょ。
ファンの人ないと思うんですよ。あ、胃袋今空っぽだっていうのを目で見てお腹が空いたって思うわけじゃないですよね。お腹が空っぽだっていうのはある種の感覚ですよね。
間違いなく乳幼児はあると思うんだけど、空想の中でおっぱいを飲んだっていう夢を見ると、乳児は満腹感を得ちゃうと思うんですよ。脳はそういうバグを得ると思うんですよね。
あれ結局血統値をモニタリングしてるだけなんで、生まれたばっかりの赤ちゃんの脳では、その辺の誤解は十分あり得ると思うんですね。
これちなみに成人でも指定しました。なんかこう非常に不思議な現象が起きまして、いきなり途切れてしまいました。成人でもそういう病気はあるぞっていうことですね。
空腹と満腹というものが脳のモニタリングで正常に働かなくなるという話。
つまりこれは私たちは、おそらく胃が空っぽだという体感覚で、胃が空っぽだという抽象的な認識とその体感値というものを合わせているに過ぎないと思うんですね。
ある方、昨日お話したある方と、僕は全く同意見なんだけど、私の空腹と妻の空腹は違うはずだって、僕はもう今は確信してます。
違う感じに実際、その認識が同一のものだとは、会話してて信じられないことが多いんですよ。
娘の空腹感もまた、私の空腹というものとは違う。僕ら空腹とはみんな同じような空腹感情を持っていると思ってますけれども、大きな誤解だと思いますね。全然違うと思います。
空腹感についてはさらに違うんじゃないかって僕は最近思うんですよ。
人によっては味みたいなものをすごく重視しますし、人によっては本当にお腹の中にズシンとくる感じってものをすごく、それも心地よいと感じる人とすごく気持ち悪いって、うちの妹が昔それを非常に嫌ってましたね。
だから完全にお腹が重さで満ちるようなものの食べ方は決してしない人でした。
そういうのって人によってすごい違いがあるわけですよね。当然ですよね。これ、体感覚と抽象をマッチさせてるわけで、僕ら空腹というものを、いわゆる物理的な意味で知ってるわけじゃないわけです。
胃袋の重さを測ったことがあるわけではないし、胃袋の中にあるなし、僕見たことが2度ほどありますけどね、目で。
タスクシュートとは
でも胃袋の中に何かがあるかないかを見て空腹かどうかを決めてるわけでは決してないですよね。
食べる前に血糖値いちいち測る人もほとんどいないと思うんですよ。それは脳が教えてくれる、いわゆるクオリアなんですよ。
これにどんな意味付けをするかで空腹っていうものは決まってくる。つまり空っていうのは抽象認識だってことなんですよ。
そう、空間だの時間だのっていうのは完全に抽象的なものですよね。
具体的に何かがあるわけではなくもちろん、具体的に何かがあったらむしろ空間だの時間だがないんですよ。具体的に何かがあっちゃうと。
そして、おそらく時間ってものが、いわゆる量子力学的に言うところの時間が存在するしないっていう意味ではわかりませんけれども、
具体的に何かがあるわけじゃないですよね。時間っていうのは結局のところ空間に名付けられたラベルでしかないので、時間が存在するわけではないですから。
だから時間がある感じというものは、逆説的に何もしていない時空間というものをどれだけ持つことができるかにかかってると思うんですね。
ここを埋めてはいけないんですよ。第一に作業で埋めてはいけない。第二に気持ちで埋めてはいけないと思うんですね。
いわゆる何かしなきゃと焦ると時間ってないじゃないですか。時間があるというのは時間が空くってことですね。
だからその間は何もしなくていいという感覚と共にあるのが時間があるという感覚なんですよ。何もしなくていいというのは同時に何をしてもいいという感覚です。
だからこれは、むかしむかしカントがですね、エマニエル・カントですね、哲学者の。あの人が全概念って言ったんですけれども、それと似てるんじゃないかなっていう感じが私はします。
全概念っていうのはつまり期待っていう意味なんですよね。精神分析ではよく出てきます。
おっぱいがこれから飲めるっていう期待はガチャ持つことができるのは全概念を持つことができたっていう言い方をするんですよ。
その時おっぱいは口の中にはないですよね。というか多分その時おっぱいはまだないんですよ。
赤ちゃんにとってないというものを認識するのは非常に困難なので、そしてこれからそれはあるって考えるのは一層困難なので、これと同じことが時間というものに言える気がします。
特にこれから何でもできるぞという時に持つ感覚ですよね。その時まだ何もしてませんよね。
これが全概念だと思ったけど、つまりその時何もしていないからこそ時間の空きというものを認識することができるんですよ。
この辺も僕はタスクシュートですごい意識するようになったんです。
ここを何かをするということで埋めるのではなく、記録をしないことによってないことにもせず、あるということにして時間がですね、あるということにしてなおそこを埋めなくてもいいっていう感じを抱く。
これによって時間があるという感じをものすごくセンシティブに捉えることができるっていうふうに思うようになってます。
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