精神力動の理解
おはようございます。精神力動的な人生相談、第1120回をお送りします。
7月15日、火曜日、8時7分です。
タイトルコードを変えると、ちょっと言い間違えそうになる。そんなに長いことを使ってなかったので、前のタイトルコードの方が遥かにGood Morning Voiceとかですね、よかったんですけど、簡単で。
まあ、代わりに何を意味しているのかわかんないじゃないですか。だから、そのうち戻すかもしれませんが、今のところは精神力動という言葉を、
力動系という言葉をですね、世に実に些細な、ほとんどそんなことをやっていて広まると思っているのがおかしいと思われるレベルでやってますが、広めようと。
ここでですね、私がすごく分析的な話をしてみたり、本の話をしてみたりしているのは、なんかこう、この番組が、番組名もそうなんだけど、
何かあったかもですね、精神力動とか人生相談をこれでやってるような雰囲気だと思われるかもしれませんが、それは全然違いまして、全く違いまして、
単に、これは心理カウンセリングの代わりとかには絶対ならないと思うんですよ。そういう目論みすら持ってないので、代わりになっているというふうに言ってくださる方がいらっしゃれば、
それは大変ありがたいですけれども、まあ光栄ですが、別にこれが精神分析の代わりになりますとか、そんなことを目指しているわけでも、考えているわけでもない。
ただ精神力動というのはどういうもので、どんな意味なんだろうというのが世の中に広まればいいなぐらいに、この番組は今は考えています。
啓蒙活動とかは、私その言葉の響きが好きじゃないんで、あんまりやってるつもりはないんですけど、精神力動がないと大変不便だというのがあるだけなんですよね。
他にもあるわけじゃないですか、認知行動とか行動科学とかがあるんですけど、あるいは行動分析とか応用行動分析とか、その辺は公式ではないんですけどね、実はね。
でもそういうものがいろいろ諸々あってですね、それはそれであるわけで、僕は別にこれのアンチテーゼを張ろうという気も別段ないんですよ。
なぜかというと、どうせそっちの方が強力で大勢力なのは当然なんでね。
あと別に僕は自分の人生相談に論理療法的なものが使われるのが良くないと思ってもいないんですよね。
それは当然使われるでしょうねっていう感じがするんですよ。
この文脈は例の精神分析、私が思うところではですね、心理臨床とか心理カウンセリングというのは基本的には精神分析に対する強めのも弱めのもあるけどアンチテーゼだと思っているわけですね。
アンチ精神分析が心理臨床なんだっていうのが僕の感覚なんですよ。
例えば時間がかかりすぎるというのが有名ですけど、だから行動科学とか行動療法っていうのは、つまり短くするっていう意味だと思うんですよね。
あるいは特にブリーフセラピーという、これは短いセラピーですから、日本語に直すなら。
まさに短くする。短くするというのはつまりどう考えたって時間がかかるんで精神分析は。
あるいは頻度を減らすとかね。
これもブリーフセラピーか頻度を減らすっていうのを目指しているかは知りませんけれども、頻度を減らすという考え方は当然ありますよね。
毎日会って2年も3年もっていうのをとてもやってられん。
安くもなりますしね。だから安くしよう、もっと安くできないのかとか、もっと短くできないのかって思うのは最もなことだと思うんですよ。
精神分析のようなものを見てですね。
もっと手軽にもっと安く、あるいはもっとわかりやすくっていうのがありますよね。
それがロンリーとか認知とかそういうことになってくるんだと思うんですよね。
で、わかりやすくっていうのは見えやすくっていう意味でもあるんで、行動両方っていうのは行動を変えるってことなんで。
一歩間違うとね、精神分析の世界とかでは行動化とか言い出すわけじゃないですか。
全然似合いますよね。真逆と言っていいぐらい違う。
で、そういう全く違うものがでも心理臨床の世界には入り込んでることには違いがないわけですよ。
だって、例えば有名な自己愛。
自己愛ってナルシシスティックパーソナリティディスオーダーみたいな言い方をするんだけど、
自己愛性、人格障害とか言ったりしますけど、この自己愛ってどう考えても精神分析から出てきてるものね。
今じゃ普通に当たり前のようにDSMとかに乗っかってて、
それは認知行動両方で対応できるんですみたいに書いてあったりしますけど、
ネット調べてもらえれば多分書いてあったりしますけど、
それって真逆の概念を使って、
同一の概念を何とかしようとしてるわけですから。
自己愛性ってのは明らかに精神分析から出てきたものですけど、
認知療法なんてのはまさに精神分析に対する安定で出てきたものですけど、
書いてありましたから、ハーバード・エリスかな。
創始者ですね、エリスは。
創始者のエリスさんはちゃんと書いてますからね。
認知療法っていうのは100年間伝統ある、はっきり名指ししてないですけどね、
100年間の伝統ある心理療法に対する反対するものとして出てきたんだぞっていう、
そして画期的なんだぞっていうことを書いてらっしゃいますし、
喋ってもらってらっしゃいますからね。
だからそうなんですよ。
でも自己愛性とかに認知療法が使えますみたいなこともさらっと書いてあるんで、
今のDSMもそういうもんなんだっていうことがわかった方がいいと思うんですよね、私は。
だから私は人生相談に精神力道は使われていて然るべきだと思ってるってことなんですよ。
それがこのタイトルの願意であって、別にここで精神力道的な人生相談してるよっていう意味ではないんですよ。
私はビジネス個人コンサル、ビジネスパーソンのメンタルに対するサポートを目指して個人コンサルをやります。
そのときにリファーしたい考え方は、参照したい考え方は基本精神力道です。
それでも別に論理療法とか認知行動を一切延用しないですとか、そういうつもりはないんですよね。
そんなことは考えてないです。そんなことはしたくないですしね。
だからよく言うじゃないですか、アドバイスはしないものだと。アドバイスはしますよ、必要だと思ったらですね。
アドバイスなのかどうかわかんないですけど、することはします。解釈もします、必要だと思ったら。
解釈しかしないっていう考え方が精神分析にはあって、でも私はそれは本当にそうはなってないような気がするんだけど、
例えば解釈しかしないというのは、どうせ言い抜けることは絶対できるんですよ。
その辺はタスクシュートとGTDみたいなもんで、言い抜けようと思ったら何度でも言えますよね。
それはしてないとかしてるとか、それもするんだとかしないんだとか、そうやって自分で作った判定を自分で壊していくものなんですよ。
それはしょうがないと思うんですね。
で、例えば沈黙ってどうするんだっていう、沈黙って解釈できないじゃないですか。
できるかもしれないけど、でも結局黙ってるっていうのはしょっちゅう出てきますよね。
黙ってるのは解釈なのかっていうと、黙ってるか解釈なんだっていう言い抜け方はできると思うんですけど、
長い沈黙っていうものに対する解釈っていうのもするわけだから、結局のところ沈黙に対して沈黙が続くっていうのは解釈なのかどうなのかっていうのはやっぱり分かんないと思うんですよね。
分かんないというか言い切れないと思うんですよね。
で、介入っていうのもありますね。介入か解釈か沈黙かみたいなことを言ってしまえるならば、私のだってそうですよね。
アドバイスだって介入ですから。黙ってるのか解釈するのかアドバイスするのかぐらいしかないじゃないですか、ある意味。
それ言ってしまったらもう精神分析であろうとなかろうと、全部そうやってますよね、相談ごとに乗るってことは。
唯一正規と非正規を絶対的に重視するなら、たった一つ言えることはこれだけですよ。相談で金取っちゃダメ。
これを言えるんだったら、たぶん正規と非正規は完璧に分けて、正規がすべての相談を独占するってことができるのかもしれない。
でも僕はそこまでの書を聞いたことがないんですよね。相談してはいけないとは言えないじゃないですか。
だって先生は生徒の相談に乗んなきゃいけないし、親は子供の相談に乗ります。これはでも基本無料だから。だから無料ならいい。
塾の説明会とかはお金取ったりもするじゃないですか。あれはダメなのか。
塾の説明会に求める代わりに、受験のことは正規のカウンセラーのところにいてくださいって言わないじゃないですか、普通に。
だからどっかで線は引くはずなんですよね。占い師とよく比較するんですけど、僕あれナンテンスだとよく思ってるんですけどね。
いくらそれ言っても占いって絶対なくならないと思うんで。
あと、防災どうするんだって話ありますよね。うちの父は無料で相談に乗ってたけど、無料に相談に乗るのはいいのかっていうのも実は問題だと思うんですよね、ある意味。
正規の側の人からしてみるとですね。無料はよく、無料ダメっていうのは非常に無理があるんで。
だから先生が生徒の相談に乗っちゃったら、それはもうダメですからね。相談が一切禁止されるってことになってくると。
だからお金を取るのがダメなんですっていうのも、非常にグレーなものを大量に作り出すだけで結局無理があると思うんで。
最終的には、そんなこと気にしてるのは僕だけかもしれないですけど、最終的には僕はですね、そういうことはどうでもよろしくてですね。
相談なんてするに決まってるし、相談料取るのも当たり前だと思うんで。
パソコンの相談とかね、携帯のスマホの使い方の相談とか、全部正規のカウンセラーのところに回していたら、それはそれで変じゃないですか、明らかに。
ちょっとここの操作わかんないんだけど、それは正規のカウンセラーさんに聞いてくださいみたいな。相手の人答えらんないかもしれないですよね。
その時に解釈とかされても嫌じゃないですか。あなたがその操作に固執するのはちょっとエディプスコンプレスかと感じられますとか。
冗談みたいな話ですけど、というか冗談ですけど、そういう話になっちゃうんで、多分やっぱり不礼になってしまうしかないと思うんですよ。こういうところは全部ですね。
で、一番僕が考えてるのは、そういうことでは全くなくて、ただ精神力度をもっとみんな使ってほしいっていうだけなんですよね。
正規のカウンセラーであろうと、野良のカウンセラーであろうと、夫婦関係であろうと、夫婦関係が出たのはつい先頃、夫婦関係のお話をここでアップしたからなんですけど、Jさんの話は面白かったと思いますが。
何であっても力度をもっと使おうと。力度をスルーするのやめようっていうの、たったそれだけなんですよ。たったそれだけって言っても、これが通ると思ってないんですけど、私は。
だから私はもっぱら力度計でいきます。滅多なことでは論理良法とか認知良法とかそういう考え方は取りませんということです。よく知らないですしね。
まして行動良法的なことは私は極力言いませんということですね。ここを今日は少しだけ掘りたいと思っているわけです。
つまり行動変容を極力促したくない。促してしまうことはありますよ。促さないというわけではないんですが、促したくない。変化を促さない。
360度って言っちゃったわけですよ。しかしですね、これがミソなんです。変わるっていうのはそういうことなんですよ。だって、変わればいいって言うんじゃないじゃないですか。
で、よく変わればいいって言うんだけど、よくってどうやって決めるんだよ、誰が決めるんだよって私はすぐ思っちゃうんで、よく変わるってことはできない相談なんですよ、私からすると。
で、そもそも人間って変わっちゃうんで、昨日と今日と明日の私は全員違うんで、どうせ人間って変わっちゃうんで、むしろ変わらないでいるっていう方に無理なわけですよ、多分。
こういうことをあれこれ考えていくと、変わるって、このやり方で変わりましたかとかってよく言いますけど、本質的に変わったとか、根本的に変わったとか、やがると変わりたがるわけですけど、
変わらずに済ませたいよなと思うんですよね。やっぱり変わるときには痛みを伴うし、ダメージも受ける。なるべく変わらずに済ませたい。
ただ、変わろうとしているというか、状況がよろしくないから変わらなければならないのに、実際変わることを促さないというのは不親切なんではないかっていう立て前の話はあるんですよね、立て前の話。
変わることの困難
でもそれは立て前の話なんだと私は思うんですよ。人はやっぱり変わることに直面させられると、大体相当不愉快になるもんなんですよ。
特にそれまで情勢があんまりよろしくないという方にしてみるとですね、変わるという状況、変わって変化をするっていうのはですね、非常に厄介な問題に直面してしまうので、
大体そこには強い抵抗があって、だから抵抗って言葉が、やっぱり精神力論はいろんな言葉を、しかもそれは非常にわかりやすい言葉をある意味では開発してくれていて、当然デクワスダの事態というものを想定してくれているんで、そこがいいと思うんですよね。
だから変わるのはとても難しいし、変わればいいかどうかも定かではない。だから、このちょっと変わるんなら、もう本当に周りが全く気づかないレベルでいいと思うんですよ。
そのごくごく小さい変化でも、事態はずいぶん変化することがあるので、私自身、アトピーの話もよくしますけど、私がアトピーだと診断されたから、私はこれアトピーだと思ってないんですけど、信じてないんですけど、診断されたからそう言っとくと、
お医者さんに敬意を表して言っとくと、それはアトピーじゃないから治ったんだとかって言われても困るんで、知らんからって感じなんで、私自分はアトピーだと思ってないし、医者がそう言ったんだし、言った医者も10はくだらないですからね。多分20以上の医者がそう言ってますから。
で、何が言いたいかというとですね、治ったんですよ、私の中で。だって痒くないし、薬塗んなくてもどこも荒れないし、全然痒くない。
で、何が言いたいかというとですね、治ったんですよ、私の中で。だって痒くないし、薬塗んなくてもどこも荒れないし、甘いものいくら食べてもお酒飲んでも一向に吹き出物とか出なくなりましたし、昔は出てたんですからね。
それが足のくるぶしの内側とか、膝の後ろとか、よくありがちなところですよ、首の下とか。一切出なかった。で、痒くもない。あとは残ってますけど。もう40年代のアトピーだった。だってその間アトピーじゃないですっておっしゃったお医者さん誰もいなかったんで。もちろん皮膚科の専門家ばっかりですよ。
で、それは良いんですが、私が言いたいことは、じゃあお前変わったんだろうってことなんだけど。確かにアトピーという病状は変わったんですけど、良くなったんですから。お前変わったかって言われると私何も変わってないんですよね。
ちょっとは変わったんですよ、ちょっと。ちょっとしか変わってないんですよね。人が見て分かるレベルでは全くないと思うんですよ。有病は分かりますよ、人が見れば。うちの母とかも綺麗になったねとかって言いますからね。でもそれはうちの母だから分かる。うちの父とかは分かってないですからね。あの人は人の体とかそんなの見てない。親に、親だっていろいろですからね。
うちの父の態度の方が楽ですよね、やっぱりね。気づきもしないやつの方がよっぽど楽なんですよ。パパみたいにいちいち気づいてこられるとめんどくさいなって気持ちがどうしても正直、悪いなとも思うんですけど、なんか余計なこと言ってくるなみたいな気持ちがどうしてもどっか芽生えてるなと思うんですよ。
まあ、そこは極力手放してますけど、本当に。40年代この人こうだからなってのはありますよね。まあ、なんていうのかな。古傷の奥の方の違和感みたいなものであって、その人にもはや何が言いたいとかは全くないんですけれども。認知入りましたしね。
かなり緩やかにですけれども、先日本当に日付聞かれて、LINEでですよ。LINEで日付聞くんなら目の前のスマホ見ろよって感じなんですよ。うーん、厳しいなーっていう感じがちょっとしてきたんですよね、さすがにね。LINEで日付を聞くかっていうね。でもそれをLINEで聞くってところがまた現代的で不思議な感触を覚えるんですけれどもね。
まあうちも先頃父の話をして、今日母の話をしてますけど、まあやっぱり年をとってますよね。私もね、自分年とってんなーっていうのがつくづく感じますね。かつてちょっと信じられない40だった頃にはまだ全くイメージしていなかったことが、今は普通に進行中って感じですね。
非常にここでもまあやっぱり力動なんですよね。ここでも僕はね、やっぱりね、母が絶えなくなっていき父が絶えなくなることに強く抵抗している。これはやっぱり力動だなーって思うんですよね。
母の方が一つ年下ですから。でも母の方、ここの件は諦めがつくんですね、やっぱりね。息子と張り合おうという気は、この人にはさらさらない。父にはあれでまだあるんだっていうね。何で張り合ってるつもりなのかさっぱりわかりませんけどね。
内面的な考察
例えば、泳ぎとか昔、まあいいや、めんどくさい。どうでもいい話です。変容を促さないというのはですね、どうせ変容はしちゃうんですよ。変化したいというのもわからなくはないんですけど、それって要するにあれでしょ。
大谷翔平のように変化したいとか、そうまで言わないにしてもお金稼げるように変化したいとかそういうことだと思うんですけど、それをお伝えすることによって問題解決本当にするならば、3ヶ月チャレンジはありえないと思うんですよ。
そうじゃないところがいっぱいあるじゃないですか。お金稼ぐ方法について語っている人もいるし、行動変容について、っていうか行動変容について促さないとか言ってる奴の方がよっぽど少ないじゃないですか。私のほかにそうは僕知らないですからね。行動変容を基本促しませんよって言ってるような啓発系とかカウンセリング系とかそういうのっていうのはほとんど聞いたことがないです。
促さないんですよっていうのを言い切っちゃってるっていうのはほんとに滅多ないと思うんですよ。だからここに来るべきじゃないと思うんですよ、行動に変容を促したければ、というか促されたければ。
でも私は一個やっぱりここに吹き込んでおきたいんですよ。なぜ変化したいのかについてよくよく考えてみたほうがいいと思うんですよ。
だって私自身だって、私お金の稼ぎ方って結局よく知らないから、自分の分はなんとかかんとか頑張ってますけど、それはもっと10倍稼ぎたいと思ったら、例えばケンスさんとかのところに行って、すいません教えてくださいって言いに行くと思うんですよ。
わかんないですけど、なんか彼の方が全然稼げてそうな気がするじゃないですか。特別にそういうことに対して彼に対してリプス的に張り合いたいという気持ちは一切ないんで、
もう本当にお金に終わったらああいうところに行って土下座でもしようくらいには思ってますから、教えてくれないかもしれませんけどね。
そういうふうに思いますよ、やっぱり。なんて言うんだろうな。持ちは持ちやですよ、それこそね。
公明と軍略で争うのは愚かなことだと僕は思うんで、自分頭が旅婦並みだと思うんでね。
しかも僕は馬にも乗れない旅婦みたいなもんなんで、あんまり自分にいろいろと期待しないわけですね、そういう張り合うみたいな話になってきた場合は。
そういうことはもう、頭を下げて何とかするみたいな、頭下げれば済むじゃんみたいなノリがちょっとあるんで、だから教えてくれないかもしれないですけどね。
昔あれだ、岡田斗司夫さん、オタキングのね、彼がね、ほぼに頭を下げてお金を借りまくってるときに、
いやー、世の中楽やな、頭下げれば金貸してくれるんやな、みたいなことをどっかで言ってた気がするんだけど、
それはあなたが岡田斗司夫だからではないかって気持ちなくはないんですけど、彼はやっぱりそういうことに対するこだわりが全然ないですよね。
なんか違うものに価値観を感じてますよね。私は彼とは全然違うタイプだと思うんですけど、あの感触はよくわかる気がするんですよね。
何かと張り合ってなければ、当然それはほぼどうでもいいことになると思うんですよ。
今日はなんか結構違う方向に向かっておりますけれども、でもこれは力度とは何の関係もない、少しあるか。
だからエリプスと関係が少しあるような気がしますね。
エリプスであってもなくてもどうでもいいんですけれども、僕が言いたいのは要するにですね、
例えば、ついさっき見たんで、疲労性って疲れやすさみたいなのってよく言われるじゃないですか。
本当に疲れやすくてみたいなのとか、人間関係で消耗するという話ってあるじゃないですか。
ああいうのはグッドバイブスで倉津野圭三さんがよくそうでない考え方っていうのを一生懸命言葉を尽くして説明してくださってるんですけど、
私はああいうのをですね、力度的に考えていきたいわけですよ。
つまり疲れることそのものは問題じゃないような気がする。
私もよく言われてたんですよ、疲れやすいなお前はみたいなことを。
私それ信じてた。
これが大事なんですよね。
疲れやすい体質とか疲労性みたいなものって、例えば私も20代の頃はもう実にそれだったんですよね。
発達障害ってきっと、発達障害と疲れやすさがどう関係してるのかは私はよく知りませんが、言われただろうな、当時でさえもと思うんですよ。
ちょっと心理なんとかみたいなところに相談に行けば、私は幸いというべきかわかりませんが行かなかったんですけどね。
何が言いたいかというと、私が物忘れする集中力がないとか、今でもそうなんですけど迂闊だとかですね。
しょっちゅう言われるんですけれども、そんなことはないんですよ。
これが大事なんですよ。
普通に信じるわけですよ。
世の中に発達障害とか疲れやすいとか言うと、何かそれは、それを受け入れて別に悪いことはないような気がするじゃないですか。
私、疲れやすいっていうのは本当に受け入れて悪いことではないような、私本当に疲れやすくてって言って、誰かそれを批判するっていうことは、そういう人もいるかもしれないけど、
基本的に私、すっごい、私しょっちゅう言ってましたけど、いや俺は本当に疲れやすくてさって言ったら、大体受け入れられますよね。
本心でどう思ってるのか知りませんけど、大体受け入れられますよね。
で、これにADDの義味があってとか言えば、大体受け入れられると思うんですよね。
大体。
この大体がミソですよね。
少なくとも自分ではすんなり受け入れられるんですよ。
なぜならそういう土壌が今あるからなんですよ。
ADDでって言った時に、なぜADDなのかとか、どこからADDになったのかとか、いつなったのかっていう話にはならないんですよ。
面白いぐらいにならない。
コロナだったらこれはそうは言わないですよね。
いつなったのか、どこからなったのか、必ず、それは重要なことだから、問い正されますよね。
問い正すっていうか、自分で問い正します。
これが発達ならば、そうはない。
まして疲れやすいってことになってくると、いつ疲れやすくなった?
どうして疲れやすくなった?
それは遺伝的要因なのか?
そんなこと言わないじゃないですか。
なんとなくふわっと受け入れられるじゃないですか。
そして私は、これは僕、東映ドイツ課だと思うんですけども、東映ドイツ課によって、発達障害気味の疲れやすい佐々木翔吾が自分の中で形成されていくんですよ。
で、これを言うのが難しいんですよ。今の時代。
いやいやいや、それは分かってないからって言われるわけじゃないですか。
問題なのは、分かっていることのメリットって何なんだろうってことなんですよ。
だってですね、考えることにはメリットがあるから考えるわけじゃないですか。
ある小さな子が、ロックがかかってもいない。
エンジンがかかって、エンジンがかかってるのはまずいけど、まあエンジンがかかってることにしましょう。
車の中にクーラーは効いていない。
その子は閉じ込められていると思ってる。
この話は嫌なんですよ、やるの。
でも、この話は私は何かを象徴しているなっていつも思うんですよね。
喉もカラカラになって、火は射している。
こういう時代ですからね。
昔に比べて危険性ははるかに増したと思うんですよね。
僕も似たような目に実は数度張ってるんですよ。
迂闊なんだよ、うちの親もね。
でも、たまたま私は北海道と北東北にいたし、今と時代全然違うんで、
本当、夏の暑さとか運命の差ですよ、北海道、北東北は。
関東は、まあ黒暑になっちゃったよねぐらいで済んでますけど、
北海道とかまるで違う、30度とかってなることは本当に少なかったし、
夏でもめっちゃ寒いみたいなことが普通にあったのに、
今も6月でも北海道とか暑いじゃないですか。
だからもうあれ、非常に恐ろしいと思うんですよね。
慣れてないよね、やっぱり向こうの方は。
私もそうだったけど、慣れてないですから暑さになんて。
北海道、青森ですけど、青森から一家引っ越していた時、
浅川ですけどね、埼玉県。
1回目の夏でみんなへばりましたもん。
親も私もみんな。
だってあんなに暑くなるなんて聞いてないよって感じなんだよ。
35度とか。
外普通に歩いてたらクラッとするじゃないですか。
みんなクラッとしちゃったんですよ。
普通に外行きますからね、青森県あたりだと。
それはいいんですが。
車に乗っていますと。
でも鍵は開いています。
クーラーもつけようと思えばつけられます。
子供の思考と大人の期待
でも子供だから、例えば3歳4歳って非常に微妙だと思うんですよ。
さかしい子なら、もしかしてボタンを押しまくって何とかする可能性はあると思うんですけど、
できなければできないですよ。暖房とかつけちゃうかもしれないじゃないですか。
考えるってことは、もしですよ、
手は出せない状況に何らかの理由であった場合、
あるいはドアのロックがかかっているとした場合、
外から何かが言うことができる人がいたら、
ノンノンノンと押せ押せみたいなことを言ったり、
ドアこうやればロックが開くからみたいなことを言うと思うんですよ。
言うでしょう。
これを、いやそれは傷つくでしょうなんて言わないじゃないですか。
わからない子供に向かってわからなさに直面させるのは辛すぎるでしょうって言わないじゃないですか。
普通に、誰もそんなこと考えつかないじゃないですか。
これに限りなく近いんですよ。
考えるということはメリットがあるんですよ。生き延びる上でですね。
私は疲れやすいからって人は死なないんですけれども、
ああ疲れやすいのか。
で、終わるってことは、
ああ、そのクーラーの効いてないところ暑いよね、分かるよって言われても、
そういうこと言わないじゃないですかってことなんですよ。
この感じとしてはね。
力度を使わないというのは、
力度を使わないというか考えましょうって言うのはね、
考えるってことは不愉快なんですよ。
だって子供はおーってやって、どんどんどんどんって言ってるわけですよ。
そんなことはやめて考えろって言われるのって、
非常にこう、ある意味侵入的だと思うんですよ。
頑張らないと考えられないじゃないですか、その子にしてみればですよ。
この暑いのに、一刻も早く開けてほしいのに、
開け方を教え始めやがると。
こういう状況って直面しますよ。
例えば私もだいぶ前でしたけど、本当にだいぶ前だ。
アメリカに留学していた頃にね、
時差を考慮にしない愚かな親とかから、
あるいは肉親からですね、兄弟から電話がかけてきやがるんですよ。
そして何を言い出すかと思ったら、
ちょうどパソコンがさ、パソコン屋に聞けや、みたいな感じじゃないですか。
で、しかも考えてくれないんですよ彼らは。
操作の方法をただただ教えてほしいわけですよ。
スタートボタンを押せばねっていう、これを考えようとしないんですよ。
だから3歳児が車の中に閉じ込められている状況と何ら変わらない。
しかもこっちは真夜中に叩き起こされて、
しかもこれ国際電話だし、みたいな。
そういう目の前に画面もないのにですね、
推測でスタートボタンを、
要するにやってることは再起動がしたいってことだけだったりするわけですけどね。
考えろよっていう感じがするんだけど、
考えたくはないわけですよ、人はね、別に。
教えてほしいわけですよ、操作の仕方を。
これは考えずにできることなんですよ。
考えるということは、生き延びるために都合がいいことだと思うんですね。
でもその場合若干持ちこたえないと始まらないわけですよね。
で、こう、私が疲れやすいっていう時に、
なぜ私は疲れやすいのか、
これを考えるっていうことを下手に言うと、
その人は傷つくってことが起こるわけ。
なぜ傷つくのかってことをここで考えると。
そうすると、不在論に出てくるような、
アルファ機能を押し付けられると迫害的になってくるっていうのが出てくるんですよ。
私はここに行き着きたいと思うし、
疲れやすさの影響
みんな行き着いたら楽になる。
自分でロックを外してドアから出られれば、
さっそく気持ちがいい。
これを考えないとできるようにはならないから、
やっぱりここ、ちょっとなんですよ、これは本当に。
迫害的になるのもわかるんで、
だから非常に熱いよな、そこにいたらみたいなことになっちゃうんですけど、
そうされることのほうが、
あの、なんていうんだっけな、
親切にされているっていう気になるんですね。
でもこれをずーっとやって、
なんとかする、ロジアス派みたいな、
これはロジアス派に対してあれだね、わかんないですからね、彼らは。
でもこの詐欺ってあるんですよ、確かに。
どうしようもないんで、迫害的に受け取るという
心理状態にしかないっていう人に、
考えることを強要するってことは非常に無理があるんで、
結局のところ、そこにいたら熱いよね、
こうなってしまうんですよね。
そこにいたら熱いよね、わかるよっていうことになってしまうんですよ。
本当は違うことを言いたいんだけど、
何を言っても通らない心理状態ってあるんで、
本当はそこにいなくなることが
いいんですけど、
どんな話にせよそれを言われると
傷つくっていうことになってしまうんですね。
疲れやすいんだ、私はって言ってる人に、
だから朝起きられないんですよ。
それを疑ってみましょうっていうのが介入的なんですよね。
私は自分がアトピーであることは疑って、
疑いきったんで治りましたし、
疲れやすいというのはもうこれは
徹底排除だったんで、
疲れやすくないからっていうね。
難しいんですよ、専門家が20人以上にわたって
あなたアトピーですって言ってるのを
徹底的に疑いきるっていうのは非常に難しいんですよ。
薬を塗ったりするじゃないですか、幹部なるところに。
こうして党営を同一化していくんですよ。
私がアトピーだという党営をされて、
それを私が受け入れて、
アトピーである人と同じようにアトピー対策の薬を
アトピーの幹部に塗るってことをやると
現実になっていくんですよ。
そこになかった幻想が現実になっていくんですよ。
そうするともうアトピーになっちゃうんですよ。
そういうことってあるんだってことなんですよ、
精神力道の考え方を借りれば。
ないんだってことに現代の社会は概ねなってるんですよ。
体制としてそういうことはないんです。
アトピーはアトピーで、そうじゃない人はそうじゃないんです。
私はそれは嘘だと思う。
そんなふうに人は完全に現実を
瞬別できる能力は持ってない。
それっぽいものはそれっぽいものとして捉えてしまう。
専門家だとしてもね。
このようなことを言うのは許されてないんです、実は。
難しいんですよ、こんなことを言い切るなんてことはね。
だから疲れやすいっていうものが専門性を帯びてくると
疲れやすい人間というものはいることになってしまうわけです。
で、しょうがない、それは。
しょうがないと思います。そういうことですからね。
ただし私は受け入れないことにしています。
疲れやすいというものはなぜなのかというのが少なくて
なぜ疲れやすいのかと。
それは万能空想を使っちゃうからなんです。
因果関係と空想
って思うんですよ。
やっぱりこう
暑いと。
そんな過酷な状況じゃなくて暑いと。
クーラーがついた部屋で自分寝させてくれればな
っていう空想をしているうちに
その空想をしている夢心地の中で
クーラーを親がつけてくれると。
ああ、クーラーって私がクーラーついたらいいなって思うと
つくんだって。これがテレパシー飛行です。
これをやっていると疲れやすくなると
僕は思うんですよ。だって
テレパシー飛行っていうことはつまり
飛行でもなんでもないと思うんだけど空想しているだけじゃないですか。
こうなったらいいのになって思ったらそうなったと。
子供のうちにそういうことはあり得ますよね。
大人になってもあるんですよ、こういうことっていうのは。
だから東映で追いつかというのは
怖いんですよ、結構。
何かを空想しているうちに
そういう現実がやってきて自分の心の中で
そこに因果関係ができてしまう。
ポジティブなものならいいですよね。
まあ本当は良くないと思うんだけど。
でもこれがネガティブなものだったらどうするんだろうってことなんですよ。
疲れやすいなと思っているうちに
本当に疲れてきたと。あるいは
疲れやすいなと思っていたら
1時間の5時間だったことを思い出した。
松崎さんが同じようなことを喋っていましたけどね。
そしたら、急に眠くなってきた。
こういうことを繰り返していれば
疲れやすくなるとは思いません。
だから私はこういうことを
私たちの因果律ってそんなに完璧なものじゃないんで
テレパシー思考はいくらでもできることなので
キツツキの不吉なことがあったら
木をコンコンと叩きなさいっていう
論文のタイトルだったと思うんですけどね。
つまり、木をコンコンコンコンってやってみたら
虫が出てきた。
あ、良かった。空腹だったら木をコンコンやればいいんだと。
これは愚かな考え方ですが、でもしょうがないですよね。
しかも4回とか。
キツツキはそれで4回ずつ突くようになったりするらしいんですけど。
行動科学的ですけどね、これはね。
4回ずつ突くと出るのか。
それはキツツキじゃしょうがないですよね。
でも僕らはそういう風にできてるんですよ。ある程度。
これを
善用しましょうって考え方もありますよね。
つまりご褒美をあげて自分に仕事をさせる。
でも私は関係ないものを関係づけない方が
いいと思うんです。
だから今そういうことは一切やめてるんですよ。
僕らの心って、そうか、仕事をちゃんとやれば
チョコレートが手に入る。因果関係ないじゃないですか。
作っただけじゃないですか、その因果関係。
こういうことをやっているうちに
低気圧がくると頭が痛くなるんだっていう自分を
作ってしまうと思うんですよ。
それを投影・同一化って言うんだと思うんですよね、私は。
だから精神力道でここを押していきたい。
空想をやめて考えましょうってことですよね。
空想の中の物語、物語には因果関係が
発生しますから、頑張ってお姫様を助けたから
ご褒美をもらえましたっていうのが物語じゃないですか。
こうやって因果関係でどんどん結ばれていくのが物語なんで
物語思考ってのは私は大変リスキーなものだと思うんです。
だからこれを夢思考と言ったりするんだと思うんですよ。
思考になってないんですよね、十分な形では。
だから
なるべく空想を入してなるべく考えると
やっぱりこう
お母さんが来てくれたからおっぱいが来たんです。
おっぱいを空想したから
おっぱいが来たのではないんですよね。
我々はこれをちょっちゅうやってると思うんですよ。
だから関係ないものに関係づいていくんですよ。
しかもそれも関係ないというのが難しくなった時代なんですよ。
低気圧が来たら頭痛くなるんですよ、私は。
それを否定するなんてひどいじゃないですかって話になってくるんですよ。
これをやっていると
もはやだんだん言えることが
そうですよね、低気圧、頭痛い、辛いですよね。
これだけになってしまうんですよね。
共感するだけになってしまう。寄り添うだけになってしまう。
そうするとその人が辛いのは
やめられるっていうことを
知ってはいないまでも似たようなことは
いくらもあるということは認識している側からすると
その認識で頭痛を作り出すことも
できるんだけどなっていうのを
言えなくなるわけじゃないですか。
頑張ればそのボタンを押せば
くらつくんだけどなっていうことを
言いにくいことが起きるわけですね。
こうして非常に事態が
ややこしくなっていると思うわけですね。
それはだから私が愚かだからいけないんでしょうかって話になってくると
いよいよ話がややこしくなっていくわけですよね。
これは我々はこう思う傾向を
持っているということを
強力に自覚しておくべきだって話であって
頭がいいか悪いかの話では全然ない。
この話ですね、先日来ちょっと出ているんだけれども
外して私は3ヶ月チャレンジでも
自己認識と関係性
自分より頭いいよなって思うんですよ。
参加している人のほう。
頭の良し悪しというのと万能空想するしないのは
関係ないんだよなと。
第一、私が指摘するときは相手の万能空想だけれども
私の万能空想は多分他の人に指摘してもらったものですよ。
この辺の考え方は
くらつの系統さんがGood Vibesでよくおっしゃっている話ですね。
誰でもいいんだって言うんですよね。
天文家であろうとなかろうとそんなことは関係ないと。
ただ、畳のほうがその人が夢を見ているということには
気づきやすい。これは多分確実にそういうことがあると思うんですよね。
だからカウンセリングというのは腕前が全てではないと思うんですよ。
結局のときに。
相手になれるかどうかのほうが大事な局面はありますよね。
要はそれは夢ですって言えるかどうか。
その関係にあるかどうかって話で
しかもそれを言ったら目が覚めるのかどうか。
目が覚めるというとやっぱりどうしても
愚行みたいな話になってくると思うんですけど
そういうふうに見えるって思うんですよね。
そして我々はそういう状態に陥るってことは
自分のプライドの問題になっちゃうんですよね。
これがね。
この問題は、だってそうじゃないですか。
確かに三歳児は自分で出られず
クーラーつけられないのは愚かだということになるのかもしれないけど
言葉切迫してくれば
そういう話には誰も関心抜けなくなるじゃないですか。
そして我々はそういう状態に陥るってことだと思うんですよね。
それは
行動変容をしてもいいんでしょうけど
その前にできることが割とあって
その前にできることをやっても
さしたる変容は必要ない。
私は変容せずに済むならば
変容せずに済ませたいなという感じはします。
やっぱり30度の庫内
35度の庫内になっても耐えられる
そういう三歳児のように体を鍛えるって
悪くはないかもしれないけど
ロックを外して出ればそういう話じゃないっていう
そういう感じがします。
それが力道には割と豊富にあるんです。知識としてですね。
ところがこれを我々の世の中と文化と
社会的な価値観がおそらく
全力を尽くしてというのは
言い過ぎかもしれませんけど
使わないことにしていて
これが私には大変ある種の借然としないものを
私はそれで苦労してきた口ですから
借然としないものを感じる。
やっぱりアトピーは誰が見ても客観的に
アトピーなわけでは全くない。
その中には名医も野食医もいたと思うんですけれども
でもどっちも同じことを言ってしまう。
だからそれはそういう風になっている。
事実として客観的な意味でのアトピーとかが
誰が見ても判別できるそれがあるわけじゃなくて
自分がそれを信じるかどうかというのは
実は絶大な影響を及ぼしてしまう。
本当に絶大なんですよ。
でも行動変容はわずかなんですよ。
本当にほとんど僕は何もしなかっただけなんです。