1. 佐々木正悟のライフハックからの精神分析
  2. 終わりなきモヤモヤ【1219】
2025-07-14 37:11

終わりなきモヤモヤ【1219】

番組名をまた変えました。
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サマリー

今エピソードでは、タイトル変更の背景や新たな人生相談の方向性について語られています。また、心理臨床の分野における正解と間違いに関する複雑な問題や、成功や失敗の概念がどのように作用するかが考察されています。このエピソードでは、旅行計画を巡る家庭内の葛藤やコミュニケーションの難しさが取り上げられています。さらに、父との関係や過去の経験から得た教訓に焦点を当て、気づきの重要性が強調されています。ポッドキャストでは、メラニ・クラインとドナルド・ウィニコットの心理学に関する見解が議論され、特に臨床の視点からの理解が深まっています。また、病理構造体についての考察や父との関係性が心理的な影響を与える様子が描かれています。このエピソードでは、結論が出せない状況や自己愛構造体の複雑さについて考察し、選択の重要性と人間関係の距離感が探求されています。

タイトルと方向性の変更
おはようございます。精神力動的な人生相談1219回をお送りします。7月14日、月曜日、7時39分です。
はい、皆さまご気づきのとおりですけれども、タイトル変えました。タイトルというか、まあタイトル、番組名変えました。
ちょっと声がね、通りが悪いかもなんですけど、これはマイクを変えた関係でご容赦いただきたいと思います。暑くてですね、もうマイク変えちゃったんですよね。
ついでに番組名も変えたと。多分これでいくんじゃないかと、何回も言ってるから信用ないと思うんですけど、いくんではないかと思うんですけれども、
考えてみると、前の方がタイトルいいとは思うんですよね、ある意味。わかりやすくはないんだよな、あれ実はよくわからないタイトルなんですよ。
精神分析的ラジオってわかりにくいじゃないですかね、本当のところ。
で、じゃあこれは人生相談なのかっていうと、それもどうかと思うんですけれども、
私がやろうとしていることってそういうことだなと、少なくとも現在やっていることはそういうことだなということがわかったから、このタイトルにしてみましたと言ったところですね。
どっちのタイトルでもバズることはないので、タイトル的にバズるようなタイトルじゃないんで。
精神分析って言葉も聞き、心理臨床会ではキラーワードかもしれませんが、世の中一般ではもはやそうではないですし、
精神力道となってきますと、もう使わない方がいいんじゃない、そのタイトルっていうぐらいマーケット向きではないと思うんですけど、使います。
いろいろ理由がありまして、結局これに落ち着きました。落ち着くと思います。
心理臨床の課題
で、ここのところちょっとサボったというか休みをいただきまして、その間もいろいろ思うところもあったりなんかしたんですけど、その前にカナエ談を配信しました。
この3社カナエ談はもっとだいぶ前に収録したものでして、私がちょっと怠惰なもんでですね、なんとなくダウンロードしてアップロードするというたったそれだけの作業を放置していて、
関係者にご迷惑をおかけしたり、私そういう人間なんですが、そうは思われてないらしいんですけど、そういう人間なんですよね。
で、その辺のことも合わせましてですね、最近ちょっといろいろ反省というか内省というかをしてみているわけですよ。
で、これも多分機を追うたびに言ってることだと思うんですけど、今期は第10期ですね。やっぱりまず周3にしたということから、周3を導入したということも含めて、いろいろとありとあらゆる意味でですね、
やっぱりこれは一挙真剣に考え直そうと。まあでも、今まで真剣に考え直してたし、今急にそういうことをやってるわけではないんですけど、これはやっぱりですね、
なんと言えばいいのかな、うまくは言える気がしないんで、もうただただ喋っていきますが、この世界とはそもそも何なのか、心理臨床なのか、私でも心理臨床やってないみたいな顔になってますから、心理カウンセリングではないとね。
せめて心理カウンセリングならまだいいんですけど、臨床医療でないことは確かだと思うんですよ。
で、その世界にはですね、正解はないけど間違いはあるんですね。嫌な世界なんですよ、そういう意味で。正解と間違いに非対称性があるんですよ。
間違いはあるけど正解はないのほうがいいな、近いと思うんだ。間違いがあるのに正解はないということは、どうやっていいんだかわからないが間違うことはあるよってことになっちゃうじゃないですか。
この話を最初に意識にいじっておかなきゃいけないんですよね。
別に、なんていうのかな、こういうことを言いまくるのは僕でもいいことじゃないと思ってるんですよ。
【佐藤】はい。
【佐藤】はい。
【佐藤】はい。
【佐藤】はい。
【佐藤】はい。
【阿部】はい。
【佐藤】はい。
【阿部】はい。
【佐藤】はい。
誰もということは決してないんだけど、食えてる人いっぱいいますけど、一歩間違うと食えもしなくなる。
お医者さんってそれはないと思いますよ、ほとんど。
まあ間違いもあるかもしれないけど、よほどひどく間違わない限りそれはないと思うんですけど、心理臨床はそうじゃないですよね。
遠畑海斗さんの本に書かれた、あの遠畑海斗さんすらですね、本に書いてましたけど、なんか就職先がないみたいな、
そのごく普通の大学生と何ら変わらない悩みに、今わかんないですけど、突入してしまうんですよ。
それじゃあ人集まらないでしょう、やっぱりって思うんですよね。
あの人がそうなんじゃ、それは集まらないよね。
本書けるような人、書きたての頃は本書くとはいえどもって思われるかもしれませんけど、
お医者さんはね、これといった過誤もなく、本が書けるぐらいの人が食いっパグれるなんて考えられないじゃないですか。
だから考えられなくはないかもしれないけど、やはり相当レアなケースだと思うんですよね。
ところが心理臨床でそれがごく普通のことになってしまいかねなかったんですよね、少なくともつい最近ぐらいまでは。
成功と失敗の概念
やっぱりここでハードルだけむやみに上げるのはどうかと思うわけで、
こういう話をしているうちに6分っていうのは長すぎると思うんですけどね。
これからいろんな話を私はしていきたいと思いますし、大事なのはこの世界はしかし、確かに間違いはあるが正解はないんだなっていう。
で、これはハードルを上げ、僕がハードルを上げてもしょうがないんで、私聖地じゃないわけですからね。
人生も多く入るほどいいと思ってますし。
だから、安易に手を出しましょうっていうのはおかしいんですけど、やろうと思った人はやるのはいいことだと思うんですが、
ただ、間違いはあっても正解はない。
失敗はあっても成功と言えるものが果たしてあるかどうかはかなり疑わしい。
ただ、例えば臨床例とかを見ていても、うまく終わったように書かれているケースはいっぱいありますよね。
それはそれでいいんですよ。だってそうじゃないと救いようがない感じになっちゃうんで。
ただ、果たしてそれが本当にそうなのかどうか、結構わかんないなっていうか、結構参考にはできないなってことがわかってきたんですよね。
つまり、どういうことかというと、中断ケースっていうのがすごく読みごたえがあるってことが実はわかってきたんですよ。
考えてみると、時々中断書いてくださる方がいらっしゃるんですね。
非常に有名なところでは、プロイトの省令ドラですけど、あれほど有名なものはまずないですけど、中断ケースっていうのは読んでいくと結構あるわけですよ。
でも、中断書くのは辛かったろうなと思うんですよね。
そのまんま実のじゃないと思うんですよ、プライバシーの関係があるから。
しかし、やっぱ中断ケースは、たぶん中断は本当だったと思うんですよね。
じゃなきゃ中断書きたくないですよね、やっぱり。
中断というのは、いわば失敗を、自分の失敗を人にさらすようなもんだし、しかもあの世界は結構権威的な制度なんで、そうに見えるんで、
結構叩く人とか叩いてくるんだろうな、こういうのって思うと、中断を人にさらしたくないだろうなって思うんですよ。
仮に叩かれなくたって、慰められたって嫌だと思いますね。
で、あれを読んでいるとですね、やっぱり今回はすごくこれがでも、こういうのをどっかに書いておいてくれた人は、
どっかで佐々木みたいな人間がすごくこう慰められているというのも変なんですけど、非常にこういうものに読み応えを感じてますと。
あのですね、この一つ中断が起こると、たぶんなんですけど、私、これまでの中断を全部思い出しちゃうんですよね。
こういうことが必ず起きるんですよ。で、終結と中断どう違うのかっていうと、
私はこれはですね、どんなに心理的に、いやでも人にもよる、人にもよるというか、ものが分かっている人には違うのかもしれないけど、
私の信じる世界では、中断と終結の違いは、恣意的なものだと思いますね。
まあこれはね、僕は間違っているのかもしれないんですけど、でも本当に、これは本当難しいんですけど、
でも僕は中断と終結はやっぱり主観的なものだと思うんですよね。分からないんですよ、本当に。
そのセッションをもう1回やったら真逆になるかの、それじゃダメだろうって言われるかもしれませんけれども、
僕はそれはあり得ることだと思うんです。で、それは最初からそう思ってたんだけど、
そのことの重要さというのか分からないんですけどね、そのインパクトの強さというものを少し分かるようになったなっていう、
これも機を覆うごとに分かるようになってきてるんですけど、でも中断というか終結しないっていうのはまずいわけですよ。
だから終わる人がゼロっていうのは何にも心がけないところがないんで、それはそれでアレなんですよ。だからこれはすごいややこしいんですよ。
成功とか正解がないのに失敗とか間違いは意識させられるわけですね。
でもね、これがそれぐらいがいいっていうのを僕はどうかと思うんですよ。
そういうことを言うからさっきの話に戻るんですけど、ハードルがむやみに上がって誰もやらなくなるわけですよ、一歩間違うとですね。
少なくとも賢明な人はやらなくなっちゃうわけですよ。
僕みたいにどこか無謀でどこかおめでたい人間だけがやることにならざるを得なくなるわけですよね。
だって、同じ苦労をするならお医者様になった方がはるかにマシだろうと思う人は賢明ですよ、そりゃ。
だって関わる時間の長さも圧倒的にまず短く、評価される評価は圧倒的に高く、得られる収入もおそらく3倍以上。
これで、私のような人間がホイホイと、外虫じゃないんだからって思うんですけど、ホイホイと入っていって身をきとれなくなってると。
まあ、端的には言わないですけれども、褒めてくれない人も多いだろうなと思うんですね。
たとえば身内とか、親とかにね、このまんまを言っても、いや、やめれよ、やめれよ、そんなのって。東北と北海道の人間なんで、このやめれよって言うんですよ。
やめないよじゃないんです。やめれよって言うんですよね。母とか。やめれよ、そんなのって言われてると思うんですよね。
で、これ東北の人はみんなそういうわけじゃないですよ。うちの母はそういう東北北海道の一部的表現で、こういう言い方をするんだけども、
あれはね、相当情緒が入ってるんですけど、最近は言わないですよね。
昔とかね、私が付き合えてたって言われなくて、付き合えてもいないうちから女の子を一生懸命アプローチして、やめれよって言われるんですよね。
お前のせいなんですよね。まあ、いいんですけど。面白いなあと思うんですよ。
最近これはちょっと余談で、別の日に話そうと思ったんですけど、最近家族で旅行計画していたら、前日に父から電話が来てきて、
明日行けなくなったわ、なんだって思った。なんか高熱が出た。で、子供かよって思ったんですよね。
家族旅行を楽しくて仕方ないのかもしれないけど、自衛熱とか出してる場合かっていう、80にもなって思ったんですけど、
家族旅行の混乱
旅行の計画とかを一生懸命立ててたら熱が出た。ほんと自衛熱じゃんって感じなんですよね。
そういうことがあったわけですよ。家族旅行計画していたのにせっかく。
土壇場で2人減らして、うちの家族だけで行くってことになったわけですけど。
でね、先日ですよ。まさに先週かな。
今度はその時は私が向こうに行く。で、私今度は一人で行くってことだったはずなんですけど、
当日になって、なんかうちの父から電話が来てきて、皮膚に出来物ができて、
感染症じゃないと思うけど移したらまずいから来ないようにしろって言われて、またなんか思うところがあって。
思えばなんですけど、その家族旅行以来ですね、父に会ってないんですよ。
あれはね、父がね、私に会いたくないんですね。
いやこれ、気が付くのがすごい遅かったんですよ。
約4ヶ月か、気が付いたのはつい先日ですよ。
これ3ヶ月チャレンジの賜物なんですけどね、本当に。
このさっきの成功はなく失敗はある、正解はなく間違いはあるが、すごく響くんですよね。
どうしてもダメなのかもって思うんですよ。
気がとっくに気づいていいはずなんですよ。
多分3ヶ月チャレンジで心身症系のことに非常に興味深い方がいらっしゃるんですけど、
彼からすると話した瞬間に気づかれるんじゃないかっていうぐらいなんですけどね、
当事者の私には気づけないんですよ。
父が私に会いたくないんだと。
しかも父は意識の上にそれがないから、
お前さっさと来いみたいなノリなんで、病気も治ったからすぐ来るようにぐらいのノリなんでね、
あの人もすごくある意味ナルシスティックなところがありますからね。
すぐ来いみたいなノリなんだけど、
お前が来てほしくないんだよとは今更伝わらないですよね。
この人も80ですしね。
知恵熱出てるのは知恵熱なんですけど、知恵熱みたいなもんなんですけど、来てほしくないんだと。
なんでなんだろうって考えてみると、今までもシグナルは山ほどあったんですよ。
ああ、こういうことなんだよなと。
だからドナルド・ウィニコットがですね、失敗というものをあれほど現象例として書いておいてくれたっていうのは、
非常に貴重だなと今は思って思いますよね。
失敗ではないんだけど失敗ですよね。
つまりもっと早く気づいておけばよかったことなんだけど、気づけないんですよ、どうしてもね。
うちの父の態度が全くその逆だから、来てほしくないとはみじんものって、
多分そんなこと言ったってわかんないと思うんですよ。
これが本当厄介だなって思います。
いろんなシグナルはありました、確かに。
全部無意識ですけどありました。
ただ全く精神力量をそもそも自分の家族に私は適用していいはずなのに、妹側ですから。
適用していいはずなのに適用してないんですね。
そのことに不意に突然猛烈に気づいて、いや衝撃を受けましたね。
父との関係の理解
だからこういう間違いをしてしまう。
それは間違いじゃないじゃんって言われるかもしれないんですが、
私はやっぱりこれが間違いなんですよね、この種の考え方における。
正解はないんですよ。
じゃあ父にさっさと会いに行くべきなのか、それとも会うのをやめるべきなのか、どっちも正解ではないですね。
会わなければいいわけではないし、会えばいいわけでもない。
実に困るじゃないですか。つまり会っても間違い、会わなくても間違いになっちゃうわけですよ。
だから困るんですよ。正解がないから。
じゃあ手紙出せばいいのか、メール出せばいいのか、メッセージ出せばいいのか、全部間違ってるんですよ。
どこかに正解らしきことはあるというか、それを現実とせざるを得ないじゃないですか。
今後私、この番組でタスクシュートのことについてももっと触れようと思っているんだけど、
もっぱら精神力動的に触れようと思っております。
ちょっと少なすぎるな、最近と思いつつも、
もはやこの観点以外の観点をわざわざこの番組で喋る理由は全くないなと。
なるべく私はタスクシュート協会理事やってますけど、この観点で喋ろうと思っております。
この観点で喋れることはわざわざたくさんあるんですよ。
ただ非常にこの観点は臨床的観点なので、話が暗くかつ重くなりがちですよね。
しょうがない、それはいいことなんですが、ただ聞いている人の気は晴れやかにはならないことは多いでしょうね。
残念ながら。
そこはもうですね、これを聞く以上は諦めていただこうと思ってはいるんですけどね。
なんというか、今ちょっとザラザラ音していたら申し訳ないんですけど、
別に今のところはそんな重要じゃないんで、
これから少し重要なことをお話ししておしまいにしようと思っておりますけれども、
まだ17分ですね、幸いに。
今日もこうやってひたすらぐずぐずと続いていくわけですが、
ただこの道なき道ですよ。
つまり正解はないが間違いはあり、成功はないが失敗はある。
けれどもむやみにこの世界を恐れずにやっていきたいという。
だってどうせそうなるってある意味ではどんなに気をつけてても、
今回やっぱり父のことで思い知った面もあるんですよね。
父に悪いことをしたとは思わないんだけど、
つまりこれね、後で後悔するというのはこういうことになるんですよね。
後悔しても追いつきようがない。
まあ後悔ってもともと追いつかないけど、
そもそも何回やっても気づかなかっただろうと私は思うんですね。
私が例え、おぐでんだとしてもこれは気づいたかどうか相当疑わしいわけです。
でも気づいてみると、なんでこれが気づかないんだってことになっちゃうんですよ。
そういうこともこれまでの、それこそ第1回、第1期の3カ月チャレンジからすでにあったんです。
いや、あって当然なんですよ。
あの時の方が私無知なんで、あの時の方が私は見落とすんです。
ただ私は、これはですね、私の正規コンプレックスっていうのはこういうところにあるんですけども、
正規の人ならわかったんじゃないかってつい思うんですけど、
それはやっぱり嘘で、私が私に嘘ついている嘘で、やっぱりそんなことはそんなにうまくはいかない。
ただですね、そう思いたいんですよ、ある意味でも。
そう思うことによって何かある種の免罪を得ている気もしてしまうんです。
まだ正規の人っていう逃げ道が残っている。
だってこれってそうしないと行き詰まっちゃうじゃないですか、どうしてもね。
正規ならやっていいんだ。
自分がやっていることはグレーかブラックかもしれないが、
しかしホワイトな世界もあるんだってどっかで思いたい部分があるんですよ。
間違いなくこれは。
お前の特殊なパーソナリティだって言われればそうかもしれないんですけど、
それはあるんですよね。
なんか救いがそこにあるような、自分にとって救いにならなくても、
救いそのものはあるような感じがどっかするんです。
でもそれは嘘なんですよ、たぶん。
少なくとも私自身について言うとですね、
仮に婚姻心理師を資格として取ったとしてもですね、
やっぱこの父との件は気づいてないなと。
これに気づかないということは見落とし得るんだなというふうに思わざるを得ない。
認識の重要性
確かにあの知恵熱とその後の皮膚疾患は非常に変な疾患で、
私はダニダダニダって騒いだし、
父もそれに乗っかってバルサンとか言いまくっちゃったらしいんですけど、
絶対効果ないですよね、そりゃ。
だって私に会いたくないんだから。
私が会うって言えば、どこか返帳を来たすだけの話であって、
私が会いに行かなければケロッと治る。
現にそうなってるわけですよ。
しかも父はそのことに全く自覚ができていないので、
はっ、お前なんでまだ来ないんだみたいなことを言って怒ってるわけですよ。
いやだってお、あんた皮膚病だの知恵熱だの言ってるから
いかれんのだよって言うんだけど、そんなのもう治ったってことになっちゃうんですよ。
だからさっさと来いと。
そしてこれとこれとこれとこれとこれをやって、
ついでに妹をよく知ろうみたいなことを言ってくるんだけど、
そんな妹とかよくできないからね私にはっていう感じなんですけど、
うちの父には全く伝わらないんですよね。
私が真剣にやればそうできるはずだぐらいに思っているんでね。
ところがなんですけど、この話少しだけ進めますと、
この話は後日やればいいんですけどね。
父は自分にもそれができると今までは思った。
ところが今は思ってないんです。
だから私に会いたくないんですね。
このことが私にはわからなかったんですよね。
わかりやすい話ではないですけどね。
でも事実だと僕は思うんですよ、もはやね。
事実と言ったら言い過ぎなんですけどね。
なので、力道の知識ってのがいるんですよ。
これが果たして問題を解決するかどうかをともかくとしてですね、
問題を解決しなくてもいるんですよ。
だってそうしないとこれは、
偶発的な変なおじいちゃんの変な病気になってしまう。
そしてバルさんになりちゃう。
それでもいいのかもしれませんけどね。
でもやっぱり私は良くないなって思うんですよ、最近は。
何かこれはやっぱり抑えておくべきことがある。
仮にそれによって問題が解決しないにしても、
一方は違うとそれによって人は幸福にすらなれないとしても、
それでもこのほうがマシだと思うんですよね。
事実に近いものを見たほうがまだいいと。
それによって何が得られるというと、
もしかすると何も得られないかもしれないけど、
せいぜいバルさんたかずに済むぐらいかもしれませんけれども、
でもいい。
トンチン感なことを少しでも照らしたほうが、
いいと思うぐらいのことしかないですけども、
それでもいいんじゃないかと。
はい、ここでマイクを変えました。
途切れちゃったんで、
少し音量調整とかをしていただけると、
ありがたいと思います。
最初からこれ使えばいいのかもしれないけど、
今耳が塞がったわけですよね。
これ素晴らしいんだけど厳しい。
前のマイクのほうがいい面もあるんじゃないかと思うんだけれども、
まあまあそんなことをしゃべっていてもしょうがないんで、
このまま行きますが。
つまりこのまま行くっていう言葉で思い出したんだけど、
つまりこのまま行くんですよ。
クラインとウィニコットの考察
このまま行くしかないんですね。
で、最近メラニ・クラインの本をついにですね、
かつて本格的にそんなに読んでこなかったので、
彼女の本をついに集中的に読むようになったんだけれども、
あれはね臨床の本なんだなっていう、
まあそんなの当たり前じゃんっていうことなんですが、
ドナルド・ウィニコットさんは観察している人としては
すごい正しいと思うんですね。
だけどあれは観察している視点が入ってるんですよね、
どっかにね。
で、メラニ・クラインという人の場合、
おそらく観察目線ってほとんどなくて、
それも不思議なんですけど、
臨床目線が圧倒的な感じなんですよ。
だからある意味臨床の人はやっぱりクライン派にはなるんですよ。
ウィニコット派ってあんまり聞かないんですよ。
どっちがいいとかはないんですよ、本当に。
気質もあると思うし。
ただ、そういうことは言えると思う。
なので、最近なんでクラインクラインなんだろうっていうのが
半歩近づいた感じがするんですよね。
中断の臨床例が非常に役に立つというか、
やっぱりとても参考になるように。
クラインの話は参考になる。
ウィニコットよりなるんですよね。
それはウィニコットが僕に分かってないせいかもしれないんで、
そこも何とも言えないんですけど、
でも正解はないが間違いはあるっていうこの感じが、
それをどちらかというとそのことはウィニコットがよく言ってくれてることでもあるんで、
両方とも必ず両方携えるって感じに私のような立場の人間はなるんだけれども、
私のような立場の人間っておかしいですよね。
そうではないんだ。
私はそう従っているんだけれども、
クラインのあちこち地雷だらけであるっていうのは偏ってるんですよ。
でも臨床化としての感覚としては、
病理構造体の理解
あれがある意味圧倒的に正しいなという感じはするようになりました。
グループセッションでですね、
3ヶ月チャレンジのグループセッションってそんな話してんだって思われるかもしれませんが、
病理構造体って言葉が時々出てくるんですね。
で、病理構造体っていうのは私その時ちょっと時間もなかったのと、
感覚的にややはしょっちゃったんですけど、
いわゆる良いおっぱいと悪いおっぱいの話なんですが、
つまりそれは送局の話なんですが、
確かにそうなんだけど、でも送局だけじゃないですよね。
いわゆる陰性治療反応を引き起こし、
病理構造体に逃げ込むと、
私なんかがよくやるやり方なんですけれども、
これはみんなあるわけですよね。
人と人が関係を維持できなくなり、
世の中には離婚というものが山ほどあるわけですけど、
その時には別に良いおっぱいと悪いおっぱいの話だけ考えておけばいいわけですよ、
多くの場合は。
つまり悪いという、悪い対象、何でもいいんですけど、
精神力道では不便と平気で言ったりしますけど、
相手を不便だと考えると、もはや近寄れない。
汚いし、悪いし、良くないしね。
だから近寄れなくなるから、その距離をどんどん上げていくと。
それでいいんですけど、
でも病理構造体というのはここにひとひねり確かにありますよね。
なんて言うんだろうな。
そういう訳もわからずそんな風にしているわけではなくて、
訳は相当わかってますよね。
つまり、いろんな相手の欠点というものを見ていかなければ、
耐え難くなってくるという事態、事情があるわけですよ。
で、投影を必ずしもしたいわけじゃないんだけど、
場合によってはしたくないんだけれども、
でも万能感というものを持っていかないと、
一人でやっていけなくなるっていう恐怖も一方にあるわけですよ。
関係維持すればいいじゃん、ではないんですよね。
赤ちゃんならば関係維持する一択しかないと思うんですね。
どうであれ。
だから赤ちゃんの場合、病理構造体いう必要はないんですよ。
どうせ距離を置けないから。
しかし政治は違いますよね。
独立し、距離を置くことができますよね。
さっきの私、父の話を今念頭に置いているわけですけど、
父は私に来てほしくないというのは、
父は私に支配されるのを恐れ出しているわけですね。
後日とか言いながらもどんどん全部喋っちゃってますけどね。
つまり父は私に支配されたくない、飲み込まれたくない。
今までそんなことは起こり得ないと彼は思ってたかもしれないが、
今そういう懸念を持つようになったわけです。
ようやくここに来て父子のバランスが逆転していることに
彼も気づき出しているわけですよ。
今さらかの満載なんですけど。
人の心理とはそういうものなんですね。
私も50過ぎて、向こう80ですから。
今79で9ですけど。
つまりそういうことなわけですよ。
ここに陰性治療反応を見えたものが出てくるわけですよ。
これはエディプスですけどね、どっちかというと。
でもそういうことになるわけですよ。
濃いと言ってるんだが、距離を縮められなくなってきているわけですね。
だからこれは自己愛構造体といって説明することは十分できると思うんですね。
父からした場合の話ですね。
このように自分にとって有意義なものであろうと、
有効なものであろうというような人であろうと、
人と距離を置きたくなるという心理ははっきりあって、
しかもそれは自覚できないレベルで進行するほど、
より確実にそれを実現できるわけですね。
だって熱出したり、皮膚疾患が起きたりするわけですからね。
そういう事態というものを自分で意図的に引き起こせないかもしれないけれども、
無意識がやってくれるわけですよ。
会いたくないと本気で思えば。
だから私は会うことができなくなっているわけですから、
うまいこと実現しているわけですよ。
予言の自己実現みたいな表現を心理学だったら取るかもしれないけど、
社会心理学だったらそういうことではなくて、
これやっぱり精神力度の現れだと思うんですよ。
父との関係の影響
別にこの話をするといろんな人が、
誰それに会いたくないから病気になったんだろうかと思われるかもしれないですけど、
そういうことではないですよ。
これはそういうふうに曖昧なものじゃないんですよ。
気づくべき時にはあまりにも異常な形をとってはっきりと、
例えば父の皮膚は相当ただれたんですよ。
それはそれで皮膚科に行かなきゃならないじゃないですか。
ちょっと熱っぽいなとかそういうレベルではないんですよ。
激しくなるんですよね、こういう身体科みたいな時代っていうのは。
そしてこれが怖いくらいに私が行かないと決めた瞬間に治っていくんですよ。
急速にね。
だから漫画みたいなんですよ、ある意味。
なんか会いたくないから調子を崩したんだろうかみたいなレベルでは済まされないことが多い。
なのに気づかないところにその異常性があるわけですよね。
お互い全く気づいてない。
だからこれは簡単には克服できるようなものではない。
これから私どうしようかとすごい考えてますもん。
行くと決めれば何かが起きるでしょうから。
何かがね、40度の熱が出たとかそういうことが言い出すでしょうから。
嫌じゃないですか。
別に私は父を病気にしたわけじゃないし、そんな恒例なんだから。
例えば、ある種のギャクプラシーボンみたいな病気だったとしても、
それによって致命的なことになりかねないじゃないですか。
しかも現実に医者にかかるだろうし、私が今のような話をしても多分通らないでしょうしね。
いろんな意味で徹底的に二重拘束感があるんですよ。
このいろんな意味で徹底的にっていうのが
身体科とかでない場合はないはずなんですよ。
普通に治療して普通に会いに行けるじゃないですか。
よくやってるじゃないですか。コロナ禍で会えなかったおばあちゃんに会えてみたいな
首都圏ネットワークみたいなのやってるじゃないですか。
ほのぼのとしたいい話。
ああ、慣れないってことなんですよ。
ああ、慣れるんであればそれは単なる体の病気なんですよ。
体の病気だって心当たり絶対あるでしょ。
困ったほどにこの身体科の場合、心当たりはあるんですよ。
例えば前日たまたまいい気分だって酒飲んだとかね、そういうことが本当にあるんです。
ただそれは意図的に飲んでると私は思うんですけど。
そんな話は非常に厄介だなって思います。
どうすればいいのかは分からないです。
どうすればいいのかは分からないけれども
どうしてはいけないかはなんとなく分かってはきたんですよね。
例えば私が父にあれこれ指図がましい子というのは
現状を避けたほうがいいことになりますよね。
でも父は指図を欲しがるんですよ。
まあやっぱりいろんな意味で二重拘束感は常につきまとってはいますよね。
でも意識すれば気をつけるべきポイントはあるとは言えるんですよ。
だからこれはもう真剣にならざるを得ないんですけど多くの場合。
意識的にありとあらゆることを、だから何て言うんですかね。
昔モンスターという浦沢直樹さんの漫画の中にケージが出てくるんですけど
何て言ったかな、すごい面白いケージなんですよ。最初から最後まで。
私は影の主人公なんじゃないかと思っているケージなんですけども
そのケージが言うんですよね。
君はケージだろうと他の新米ケージに言うんですよ。
あらゆる人間を疑うんだ。
一番自分が疑いたくない人間も疑うんだ。
あの姿勢に近いんですよね。
一番疑いたくない人間まで疑い。
その場合この新米ケージはできたばっかりの恋人ってことになるんですけど
そいつがとんでもない奴なんですけどね。そういうことなんですよ。
だから絶対ないだろうそれはっていうところを見に行く。
でもそれはですね、無意識にほとんどレベルで絶対ないだろうと思ってしまってるから
疑いようがないんですよね。見に行きようがない。
父が私に会いたくないと思ってるって一番ありえなさそうなことだったわけですよ。
世紀の上では未だにそうなんですね。
もちろんこれ私念頭に置いといた方がいいと思うんで
わざわざあえて言っとくんですけどそうじゃない可能性ありますよ依然として。
不確実性と自己愛の問題
単なる知恵熱と単なる皮膚病で実はダニが蔓延しているのかもしれない。
その可能性がゼロになってるわけではないです。
だから常にこれは結論が出せない。そこが厄介なんですよ非常に。
3年の本を読んでてそれがよく分かるようになったんですよ。
結論が出せないんだ。出せないまま行くしかないんだ。
3ヶ月チャレンジも第11期が間もなく始まるわけですけど
そう何にも結論とかの動機というものを究極的には持てない。
持てないんですよ。いくら持ちたくても。持ちたくて持ちたくてしょうがなくなるんだけど
持つことができない。そういう構造ってものがありまして
病理構造体の構造ではないですけど同じかでも結局は。
自己愛構造体とかですね。
これは自立というものと飲み込まれというものの深い絡みなんですよね。
そして万能空想というものを持ってなければ人は自立に走ることができない。
それはゼロ歳児からそうなんですけど悪いおっぱいが自分を懲らしめてくるんだ。
だけれども赤ちゃんは距離を置けない。
だから泣く攻撃する分裂する空想抱くこういうことになっていくんですけれども
でも成人はそうじゃない。物理的に距離を置くことができる。
そこに選択ってものが始まるわけですよ。
どれほど専門が高まってもなお近くにいるというそれはそれで危険な選択もあれば
当然専門が高まらないように距離を置き
相手との関係をむしろ距離によって守る応答しないとか
関係性を関係しない関係みたいなことによって守るっていう守り方もある。
だから私は自己愛構造体っていうのは病理って呼んではいけないと思う。
これはやっぱり極めて深い意味でグッドワイブスみたいなのを今念頭に置きますと
一つ意識というものを保つために人とむしろ分離という選択をする必要があることもあって
クラゾンの計算は同意されないかもしれませんけれども
でも私はそういうことってあるなと思う。
おそらく同意されなくもないと思うんですよね。
ここはやっぱり答えはないというふうに私はもう今や思わざるを得ない。
だけれどもやめるわけにもいかない。
答えがないからといってはい終了ですってことはできない。
で、かつてのすべて集結も含めてですね終わったものは実は中断だったかもしれない。
これがだから芋づる式ってやつであまり考えるといいことがないんで
あまり深く考えないようにしているわけですけど
その可能性だってなしにはできない。
つまりどっちを向いてもすっきりは全然しない。
驚くほどモヤモヤしていくっていうこれがフラインの世界だなと思います。
37:11

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