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2023-09-01 45:23

信頼「商売」【GMV838】

信用は相手次第だが、信頼は自分次第でできる。

サマリー

グッドモーニングボイスでは、夏休みが終わり、次の活動について考えています。また、書き上げ塾の告知も行っています。また、信頼と信用の違いについても話しています。信頼と信用の違いについて考察し、信頼は自分次第で増やせるという話をしています。また、精神分析の姿勢についても触れながら、相手の信用について介入しない解釈を重視すべきだと述べています。さらに、信頼と信用の違いについても話し、タスクシュートや人間関係での信頼の重要性に触れながら、信用がお金や服装といった物質的な要素に頼るのとは異なる、信頼の経験について考察しています。そして、信頼に基づく商売の現実を説明しています。

夏休み終了と次の活動計画
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
ついにですね、私にとっても、
娘がってことなんですけどね、夏休みが終わりまして、
明日もまた土曜ですけどね。
なんて言うんですかね、これは完全に私事なんですけど、
もっとこのポッドキャストを多くしていこうかなと、
またちょっと体制を動かそうかなと、
密かに考えている次第。しょっちゅう僕もこういうことを考えてやって、
元に戻したり、あれこれ忙しいんですけど、
なるべくテーマに縛られないという方法は持っていたい。
でもこのポッドキャストは多分ですね、
カウンセリング崩れみたいなテーマから動くことは、
あまりないと思うんですけどね。
でも他のもののテーマからずらしていきたいっていうのは、
ずらしていくって僕よく言いますけど、あるんですよね。
ロッテが勝ったら書くみたいなね。
そういう風でありたいなっていうのをどこでやろうかなって言って、
でもやってほしくない人もいっぱいいるだろうなとも思っちゃうんで、
これ余計なことなんだけど思ってしまうんでね。
その辺をどうしようかと思いながら、
今日はいい区切りなので、変えていこうかなと思ってますね。
まだまだ暑いんで、
夏感は全然抜けてないんですけどね。
さすがにここまで暑くなってくると、
いくら私が夏大好きでも、
もう若干秋の気配がしてくると楽になるなっていうのはありますね。
例年こんなこと思わなかったんで、やっぱ今年暑いんでしょうね。
今年暑い最大の僕にとっての証拠はですね、
ナスが身をつけてくれないんですよ。
農家さん前にテレビでやってて、やっぱそうなるかって思ってたんですけど、
もうあれなんですよね。
土がですね、振るむと火傷するくらい暑くなったらダメなんですけど、
地上のナスは動かせないんで、
もうどうしようもないですよね。
水まけば一時的に冷たくなるんだけど、
この水が沸騰はしないけど、湯気立て始めるんですよね。
こうなるとナスはダメですね。
仮に身をつけても、石ナスって言うんですけど、
本当石みたいに固くなってしまって、
食べられるようなものにはならないんですよね。
まあだからこれはちょっと、もう本当、季節考えてね、
今までだと、それはそれで難しい季節なんですけど、
梅雨時にナスやるという手があるんですよ。
こうすればほら、地面は古ったように暑くはならないんで、
ただこれをやると今度はですね、
葉っぱにカビ生えるという、難しいんですよね、いろいろ。
でも多分今の、このような地球環境になった場合、
6月にあっても、いわゆるうどんこ病って言うんだけど、
なんないんじゃないかなと思って、
来年ちょっと考えようと思っている次第だったりします。
全然どうでもいい話なんですけどね。
そうそう、9月のですね、29日に、
山崎隆明さんをゲストにお招きして、
しかも東京オライファー研究会の、こういうタイトルじゃないですけどね、
ベックさん、北信也さんも一緒に、
エフターさんという方のパートナーさんがやっているところで、
7時からですね、前回と同じような、
カウンセリングの話を聞くという、
なんていうんですかね、設定でミニセミナーをやります。
これはですね、私にとっては、
もう完全に何のビジネス的な学題みたいなの、
つまり大きく黒にするということは見込めない。
ほとんど趣味でやっているとしか言いようがないような活動になっておりますので、
佐々木がやっていることに投資してやろうぐらいな感じでやっていただくと、
すごい嬉しいと。
そうしないと本当にもう、なんていうんですかね、
山崎さんに直接お話を伺うというだけだったら、
もっと簡単に、しかも多分安くできるんですよ。
彼に何か食事を送って話を聞くみたいな感じでいいわけじゃないですか。
多分日によっては応じてくださるんで。
これ皆さんのためだっていうのはさすがにそんなことでもないんで、
あれなんですけど、
でもそういうのをやりたいという、
ただその一心でやっている感じになっておりますので、
ここから何かをやっていけるぜとか、
そういう見通しは全くないんで、はっきり言って。
書き上げ塾の告知
全くないんですよ、本当に。
だからぜひ、ただ話を聞く。
何になるのこれって言われても、
本当に一生懸命僕も告知レター書いてるんですけど、
こういうことなんですみたいな書いてるんですけど、
嘘ではないというレベルでしかありませんので、
しかもあれを書くことによって、
これも集客としてのプラスになるマーケティング的なね、
いわゆるそういうの、やっぱりある程度意味はあるんですよね。
としては全然ないなっていう感じがする。
全然正しくないんですよね。
でも正しく書きたいという気持ちが微塵も起きないんですよ、
これについては。
それをやるぐらいだったらやらないと思うんですよね、
この活動は多分。
今僕はこの活動をしなければいけない、
仕事上の理由とか、
ファイナンス的な理由とか一切ないんで、
本当にこう、本当にやってますという。
でもこう、ただ趣味でやってるというのとも違うんですよね。
意味はあると思ってるけど、
この意味を今すぐ多くの人に理解していただくのは、
私の力量ではほぼ不可能だと思っていて、
しかもそれは残念でもないというね、
何言ってるのかよくわかんないかなとは思うんですけれども、
そういうことなんで、
一つそういうこととしてね、
いずれしばらく経つとまたちょっと変わってくるのではないかと思っています。
普通の相談というですね、
遠畑海斗さんが書かれた本があって、
僕はあれは、これはいい本だなと。
山崎隆さんの精神分析の歩き方と並んで、
最近の、僕より若いからね、
若い方のカウンセリング会から出た本としては、
抜群だなという感じを抱いておりまして、
皆さんこちらでももう今後紹介していきますけど、
ノートとかでもこのノートをどうするかというのがあるんですよね。
それは良いとして、
良い本なんで、
ただ何が良いのかというのを説明するのも、
非常にややこしい話になっちゃうんですよね。
それを読んで、
例えば、それこそタスク首相の百チャレの人にとって、
どういう意味がありますかって言われると、
認定トレーナーの人には少し意味があると思うんだけどな、
ちょっとその話も軽くするつもりですが、
どうなるかわからないですけどね。
良い本ではありますが、
例えばサピエンス前史みたいなのとかとは全然違うしね、
何の役に立つのか、
サピエンス前史って何の役に立つのかっていうような本じゃないですけどね。
ちょっとこれからお話ししていこうという方向性と絡みがあります。
あとそうですね、
昨日ですね、相模大野というところで、
倉野慶三さんとGood Vibes TVというのの収録をしてきたんですよ。
これを受けると私がまた少しインスパイアされて、
言うことが変わるってことはないと思うんですけれども、
やることの方向性を少しチェンジするということがよく起きる気がしますので、
それはもうどういうふうに変わるぞみたいなことは言えないので、
変わるんだなぐらいに持っておいてください。
書き上げ塾があさって第8期の最終日を迎えまして、
その次の日曜日から第9期がスタートします。
もう今からこれにお申込みいただくという流れではないかもしれませんけど、
でも9月になりましたしね、
ぜひこの機会に書くということについても、
最近そのやっぱり僕は普通の相談を読んで、
これはもうああいう本が出たという事実を受けてですね、
また少し考えるところが出たんですよ。
あれもともと論文書くつもりで彼が書いたのが本になったんですね。
この流れはやっぱりありだなと僕はすごい思いました。
一体この本、一般読書のどこを向いてるんだろうっていう、
ちょっと不思議な本になっているんだけど、
でも売れてるわけですよね。
やっぱりやりようがあるんだなっていうのを思うんですよ。
あれ出してるの多分混合出版社さんってところだと思うんですけど、
あそこはもう本当学術書ばっかりで、
カウンセリングの技法とかね、
もう全然ビジネス書のタイトルとしてはもうダメダメじゃない、
ダメ出しするところではないんですけど、
余計なお世話なんですけどね、
多分ああやってやる形を作れるようになってるんだと思うんですけど、
ビジネス書界では考えられないような、
いわゆる引きのないタイトルがついてるわけですけど、
ちゃんとやってるわけですよね。
しかも今回のは多分ベストセラーになってる。
買った人があれを読んで何をどうっていうのはどういう感じなのかが
イメージがつかないんですけどね。
でもとにかく悪い本、いい本だし、
しかも売れたと。
だからやりようはあるんだなと。
この辺をですね、
書き上げ塾でそれが実現するのかと言われると答えようがないんですが、
でも考えてみる。
考えてみる価値はありますよということですね。
大学の先生とか、
じゃなくても大学院で論文を書くとか、
和紙論文を書くとか絶対必要なことじゃないですか。
それがもっとこうですね、
薄いんですよ、普通の相談は。
薄い本に、電子書籍だと厚さとかそもそもないので概念として出すというのはですね、
意味はある場合もあるんじゃないだろうかと。
いろんな意味でですね。
そういうことをちょっと考える本でもありました。
だから急きに参加してみましょうっていうこういう話ですね。
でも今日はですね、そういうことを話したいというわけでもなくて、
これはだから告知ですね。
信頼と信用の違い
プラザノさんがGood Vibesで信頼と信用は違うっていう、
これは世の中一般の定義なような、
プラザノさんの定義なような、
その辺がプラザノ流な面もあると僕は思っているんだけど、
要は信頼しましょうねっていうことですね。
信用と信頼は違う。
信用がダメって話ではないですよ。
信用はいいですよ。
でも信頼しましょうねって話なんですよ。
で、要は信頼というのは100%なわけですよ。
僕はこれ100%と言っとけばいいかなと思って、
何があろうと信頼するのは信頼する。
信じるっていうのと近いよね。
昔、石の花だっけな。
なかなか重い漫画があったんですけど、
そこにあったんですよね、このセリフ。
だいぶ昔です。
僕がフンジ雑誌とか読んでるときに同じ雑誌に収録されていた、
重くて真面目な漫画でね、
テーマがあれですもん、ナチズムですからね。
しかもほぼ強制収容所がテーマだなこれって感じの話なんで、
重いわけですよ。
そこである人に言われるんですね。
兄貴に撃たれてしまう弟さんなんだけど、
兄貴は病むを得ず、しかも死なないように撃ってくれたんですよ。
その時にその弟さんに言うセリフがあるんですよ。
お前が何を見て何を経験したとしても信じろ。
信じるとはそういうことだっていうセリフがあってですね。
これが信頼だと僕は思うんですね。
ちょっとここまで深刻にならなくていいと思うんですけどね。
これは戦争中の話ですから、
そうはできないじゃんってことにもなりやすいと思うんで、
でも信頼するってのは100%だということで、
相手がどういう振る舞いをするかに関わらずっていうのが大事だとは思うんですよ。
これが深刻なのか深刻でないのかわからないんだけど、
子育てでは時々問われるんですよね。
子供を信頼するっていうのは僕はそういうことだと思うんですよ。
相手が何をしてどういうことになったとしても信じるっていうのと近いと思うんですよね。
ほぼ同じになるなと。
そんな深刻なことになるとはならないケースの子が多いと思うし、
ならない方が幸せだとも思いますけど、
なったとしてもそういうふうにできるっていう姿勢みたいなものが、
割と物を言う時があるなと。
いつもいつもってわけじゃないんですよ。
いつもいつもじゃないんだけど、時々そういう事態が発生して、
そういう時にいいんですよ、これは。
信用と信頼は違うんですよね。
子供を信用しているっていうのとはちょっと違うということなんですよ。
信頼と信用の違い
どう違うのっていう話に多分なると思うんですけれども、
どう違うかというと、
例えば私はJ松崎さんを信頼してるんですよ。
信用してるかと言われると微妙なんですね。
信用してないわけでは全然ないですよ。
彼はそういう点について、
僕は誤解されてると昔思ってたんです。
今ではそうではないですけど、昔はちょっと誤解されてるなと。
今日はちなみにJさんとボイシーで音声収録しますから、
よかったらそっちも聞いて欲しいんですけど、
彼は信用できる人ですよ。
僕は寺に育ったんで、これはもうめっちゃ信用できる方だと思うんですよね。
世の中の平均的なラインからすればですね。
世の中のある種のライフ破壊もそうですけど、厳しすぎると思う。
人を信用するしないとか、そういうラインだけをとってもですね。
本当に寺とかに住んでると、人を信用するなんて無理だなって思いますよ。
はっきり言って。
とんでもない人って山ほど来ますから、お寺なんてところには。
あれはまさに信頼なんですよ。
信頼と信用が違っているのはまさにそういうことなんですよ。
さっきのJさんについでに言いますと、
松崎さんよりは大橋一夫さんの方がはるかに信用できますけど、
そこは僕にとっては大事なポイントじゃないってことですね。
信頼できるのであれば、信用度が高い低いはどうでもよくはないけれども、
相当二の次なわけですよ。
僕昔ですね、仕事をしていて、
いや、佐々木さんは信用商売ですからねって言われたとき着前としなかったんですよね。
信用商売なのかと思って。
ちなみに僕、Jも佐々木さんと比較しても自分は信用できない人間だなと思うんですよ。
でもそこは大事じゃないなと思ってるんで。
信用で商売するのかっていうのがすごくしっくりこなかったんですよね。
僕は信用ならない人間だなって思うんですよね。
平気で物は忘れるし、物を落とすしなくすし、
ここは頑張らなくていいと思ってるわけではないから、
タスクシュートとは違ってチェックリストとか使うんだけど、
でも信用ならないところは多分にあるよねと思うんですよね。
でもそこはいいと思ってるんですよ、はっきり言って。
努力、目標ではあるけれど、
努力をして信用できるようになろうとは思いますけど、
信用ならないことをしちゃうのはしょうがないよねっていうのはあります。
僕の例えば周りで言うとですね、
信用できるできないで考えることはほとんどないんですが、
自分に比べれば信用あるなっていう意味では、
Jさんであれ、大橋さんであれ、それこそ倉園さんであれ、
大体信用できる感じがします、自分と比べれば。
だから信用できる人はいっぱいいます。
が、信頼できるとなってくると、
僕は数えることになっちゃう気がするんですよね、自分の中で。
これは悪いことなんですよ。悪いことはないんだけど、
今のところ残念なことなんですね。
信頼できるってことになってくると、
うちの家族、倉園さんでしょ、大橋さんでしょ、Jさんでしょ、
ゾエさんですね。
精神分析の姿勢
これプラス北信也さんも信頼はできる。
信用はどうかっていうところも、
だからやっぱりこれ、ライハックで考えるからなんだよね。
水準が高いんですよ。信用できますよ、これはものすごくね。
本当僕が子供の時に育ったあの環境で考えてみると、
信用できない人なんかいないんだよね。
でも信頼できるって話になってくると、
やっぱり数えるほどと、もっと数えればいるけど、
増えていかないんですよね、あんまりね。
ここが自分のネックっちゃネックなんですよ。
どういうことかというと、信用は相手次第で決まるんですよ。
そうなんだと思うんですね。Jさんがどうするか、
時間に間に合ってくるかとか、ちゃんと会議の時に来るかとか、
Jさん次第で決まることじゃないですか、それは。
だからそういう意味では大橋裕三さんってすごいんですけど、
これは結局僕が決めることではないから、
自分にどうでもいいことなわけですね。
僕の考えではですよ。
来ようと来まいと、それは相手が決めることであって、
僕が決める、僕にコントロールできるなら絶対来るようにしますから、
来ますよね。
さっき言ったZoeさんもすごく信用できる人ですけど、
別に信用できなくても信頼は失わないわけですよ、私的に。
ここが信頼の意味なんですね。
つまり信用は相手次第なんだけど、信頼は自分次第なんですよ。
そういう違いが、僕は蔵園さんのGood Vibesにおける信頼と信用の違いとは
そういうことだなと認識しているわけです。
もうちょっと厳密には違うかもしれないんで、
この辺はまた蔵園さんに聞いてみればいいと思うんだけど、
僕の中ではそんなに食い違いはないとは思うんですね。
だから信頼は100%にできるわけですよ。
信用はできないですよ。相手次第で決まることなんだから。
この人の性格とか考え方とか、私に対する位置づけとか関係性とかに
左右されますから、100になることはまあないと思う。
でも信頼は100にできる。自分がやることだから。
だからさっき言ったように、何を見ようと何を経験しようと信じる
って話になっていくわけですね。
ないならば、これはアンナ・カレーニナというトルシェの小説に出てくる話なんですけど、
1%でも疑うんだったらもう信じてることにはならないんですよ。
このセリフはですね、チョイ役が喋るんですよね。
夫に浮気された奥さんが喋るんですよ。
だって完全に信じないんだったら信じてることにならないものって
サラッと言うんですけど、あれ上流社会の話だからね。
でもそういうことだと思うんですよね。
結局0.01だろうと疑いが入ってるってことは、信じてることでは全然ない。
疑ってるってことだとむしろそれは思う。
だから自分次第で決まることなんですよね。
これはですね、信用できる人ばっかりですからね。
ライフワーク界隈だってはっきりして。
信用がガタ落ちしても信頼は全然傷つかないし、
信頼に傷ついたら信頼というものはないも同然になっちゃうわけですね。
だから僕は別にJさんとか北さんとかが、
そういうこともほとんど全くないんだけど、
仮にセミナーすっぽかしましたということがあったとしても、
ないなやっぱりな、僕が一番にありそうなことだな。
あったとしても全然信頼が減るってことはない。
信頼は増える減るっていう概念はやっぱないんですよね。
全然信頼できるでしょうって感じがするんですよね。
この漢字は漢字なんですよね。
で、私はこれは自分次第なんだから、
これを増やすしかないなって思うんですよね。
自分の信用を増すとか、信用のできる人が周りにいるとかいうのは、
意味がなくはないけれど、
あって悪くないよね的な。
これは別に僕はですね、信用にこだわる人をディスってるつもりはないんですよ。
信用あるのはいいことですよ。
特にこういう時代においてはですね、絶対いいと思うんで、
信用を重視していない。
僕が信頼に比べて重視していないっていうのは、
でもこれはね、エゴインスティックな感じも少ししないではないんですけれども、
エゴとも違う気はするんですよね。
結局信頼は自分のためにしてるんですね。
だから私さっき数が増えていかないのは少し残念だって言ったのは、
自分のためなんですよ。
信用が他人次第で、信頼が自分次第であればそういうことになるじゃないですか。
信頼できればできるほど私は幸せになるわけです。
でも、これはですね、
だからつまりあんた自分のことしか考えてないんでしょって言われると、
非常に微妙なんですけどね。
ある意味僕はそういうところがちょっとありますから、
自分のことしか考えてない。
つまり人が信用できようとできないと、それはその人の勝手だからなんだと思うんですね。
そういう言い方をすると、ひどく突き放してる感が出ちゃうんだけど、
相談時の解釈的な姿勢
そういうわけではないような気もするんですよね。
これはね、ちょっと今言葉で定義してるからね、
信用と信頼が別物ではあると僕も思うけど、絡むところもありますからね。
そんな風にスパッと割り切れないんですけれども、
あるなと。
そういう違いは僕の中でも一応あるなという風に思うんですね。
で、山崎隆さんなわけですよ。
先日来ていただいたときに思ったんですけど、
彼は例えば倉園さんと比較したり、比較はしませんが、全然違いますよね。
僕が言ってることが、なんかですね、
突き詰めていくと似てくる、すごく似てきているっていう感じを抱えてるんですね。
で、これも結局信頼的な話だなって思うんですよ。
彼は精神分析というものについて言いましたよね。
クライアントが嫌いになるなんてことはもう十分あると。
クライアントも私のことを憎むし、もう割増言だと。
あるいはもう腹が立ちすぎて口も聞いてくれなくなる。
でも、これが大事だっていう話をしていて、
これがやっぱりね、あのたてつけのとっても独特なところだと思うんですね。
精神分析という世界。
当然ですが、クライアントさんは人に信用されずに生きてきているような人もいっぱいいると思うんですよ。
例えば、ボーダーなんかのケースっていうのもそうかもしれないけど、表現意識みたいなのありますよね。
息を吸うように嘘をつくみたいな、そういう人はいらっしゃるんですよね。
で、そういう人が来てですね、たぶん人間関係というものにそれこそ信頼なんて置いてないから。
先生はどうせお金がもらえるから私なんかと喋ってるんでしょみたいなことは。
これをさらにドギツく言ってくる人、それが50分ずっとそんなことを言う人っていると思うんですよ、結構。
でもそれに対して、わかんないですけど、介入せずひたすら解釈をする。
例えばあなたはそういうふうに言っているけれども、それを言うってことはつまり、
私がお金目当てで会っていると思うのが寂しいんでしょうねみたいなことを言うと。
これね、ちょっと話ずれるんですけど、精神分析は権威的だってよく言われるんですけど、どうしてそう言われるんだろうっていうのがちょっと。
もう立てつけが権威的だと言われればそうかもしれないけど、この解釈に徹するっていうのはロジャーズもそれとは違うけれどもですね、
すごくノンディレクティブ、非指示的だなって指示するっていうか、命令するみたいなやつね、指示するの。
非指示的な感じがするんですよね。
介入もするけど、解釈に極力徹するわけですよ。
だから相手が、先生なんかお金目当てで俺と会ってんだろう、俺みたいなのと本当会いたくないと思ってるだろうみたいなこと言われて、
いやそんなことないよとかは言わないんですよ。つまり介入しないってことですよね。
あくまでも相手の気持ちについて自分がどう感じたかを喋るわけだから、非常にノンディレクティブだと思うんですけどね、私。
これが私は人に相談を受けた時の、僕も基本的にはこの姿勢でいたいっていつも思う。
できなくなっちゃうことはありますよ。精神不適の人だってあると思うんだけど、
基本はこの姿勢がいいって僕は人に相談を受けた時は思うんですよ。
本音のところというか、内心ではですね。
単に同情しただけではしょうがないじゃないですか。
例えばタスクシュートやってるんだけどどうも仕事が辛いみたいな。
それは大変ですねっていうだけじゃダメな気がするんですよ。
でも、だからといって介入的になってですね、介入的になることは当然ありますが、
タスクシュートでちゃんと記録をつけていれば仕事をちゃんとやれるようになりますから、
これが介入的な一つの言い方だと思う。
これ言われると嫌だと思うんですよね、僕らは。
僕だったら結構嫌だなと。事実だとしてもですね。
あるいは事実だと信じていたとしても嫌だなと思うんですよ。
僕がだから、やっぱり一般論としてですね、
グッドバイブス的とかタスクシュート的という話を取り除いて、
だからさっき普通の相談はいい本だって言ったのは、
普通の相談で一番いいやり方は解釈的であることだと、
僕はなぜか考えるんです。そう感じるんですよ。
つまり、今仕事が立て込んできていて、
タスクシュートと解釈的なコミュニケーション
タスクがいっぱいになっていて、そのタスクを見るという状態だけでも、
気持ちが揺さぶられて、気分が悪くて、
とてもタスクシュートやってられないってそういうことですか、
みたいなことを僕は言うと思うんですよね。
これは極力相手の人が言っていることを、僕なりに咀嚼してみて、
基本的に相手の人が言っていることと同じことを、
ちょっと言い回しを変えて整理して喋っているつもりなんですね。
これが解釈的ってことだと思うんですよ。
もっとこれを深掘りしてというか深入りしてですね、
上司の人にやたら割り込まれて仕事にならないんですよみたいな、
タスクシュートに記録している場合じゃないんですって言われたときに、
それはおつらいですねではダメだと思うし、
それでも頑張って割り込みの記録を取りなさいみたいな、
これが介入的で極端に言うと思います。
これもどうかと思うんですね。
本当はそうやってほしいとしても、これはどうかと思うんですよ。
割り込みが入ったときにその時刻をつけて、
割り込んできたタスクの内容を書いて、
それまでやったことは中断して中断と記録をするというのが、
だいぶ手間だと感じられてますよねっていうようなのが解釈的だと思う。
文字通りなぞったような解釈だと。
でももうちょっと行くとですね、
これは僕は精神分析でやるから精神分析的だと思われちゃうのかもしれないけど、
そうではないと思うんだけど、
この上司がもしかすると口うるさいお母さんみたいに感じられてますよね、
っていうような言い方をする。
そんなふうに僕には感じられたっていうのは、
これはですね、僕が散々そういう本を読んできちゃってるから、
そういうのの影響がないとは言わないんですが、
それはね直感的に出てくる感じが僕の中ではするんですよね。
そういうことってありそうな感じがする。
だから解釈っていうのは当たってる必要はないと思うんですよ。
例えばちょっと違う感じのことを聞いてると、
この人なんか上司が昔嫌だった先生みたいに見えてる気がする。
その人にとって昔先生が嫌だったか聞いてなかったりしてもですね、
自分の経験もあるじゃないですか。
だから上司に先生ダブってんのかなって投影ですよね。
投影って考えなくても、
上司が口うるさい先生みたいに感じてるみたいだよねみたいなことは言う。
これは普通のやり取りの中でも起こることだと思うんですね。
こういうのが僕は相談したときに大事だと思うやり取りの一つなんですよ。
全部じゃないですよ。
でも割と精神分析ではこれに徹しろみたいに言うところがあったりもしたわけですよね、昔は。
それは僕はすごい良いやり方だなって思うんですよ。
手間かかるかもしれないし実感もかかると思うんですけど、
そうやってずっと自分の言ったことを解釈されていくうちに、
俺ってこういう人間なのかなみたいに考え始めるじゃないですか、人はきっと。
これを待つってことなんではないかと。
それはすごい人から信用されてなくて、ここに戻るんですけど、
今まで嘘ばっかり、息を吸うように嘘、息を吐くように嘘をついてきて、
人からみんなこう孤立している人がですね、
喋って喋って喋っていることを解釈されて解釈されて解釈されているということによって、
ある種の自覚が絶対出てこざるを得なくなるような、
そういう流れになっていくっていうのがあれなんだと思うんですね、一面では。
だからこれは信頼ってのがないとできないことだと思うんですよ。
結局どこかで、お金は取るんですけどね。
どこかで相互の信頼関係ができていくで、
そういうものがほとんどない人生を歩んできましたっていう人がある意味いらっしゃるわけじゃないですか。
というかそういう人も来るわけですよね。
そういう人がお金を払うし、時間も限られているし、
決してその外では会わないという、
つまり、いわゆる普通の友達関係のようではない人間関係の中で、
でも信頼関係みたいなものはできていくんだという実感を得ていくことができるわけですよね。
できないじゃないですか、そんなこと。
多分その種の人にしてみると、普通の世界。
これが一回できたってことが、多分その人が社会生活を送っていく上でですね、
とっても有意義な経験になっていくんだろうなと思うんですよ。
そういうふうで、タスクシュート的なものもあったらいいんじゃないかなというのが、
今私がよくよく考えるところで、
その時にやっぱりですね、自分が信頼できる人っていうのが、
無限に増えていくという必要がベースとしてあるんじゃないかなというふうに思うんですよね。
その場合、信用できる人が増えるっていうのは、プラスにならないわけじゃないですけどね。
でも僕のこの仕事の質を考える上では、
語弊はあるんだけどもっと上手い方が考えつかないんだけど、
ある意味どちらでもいいことなんじゃないのかなっていう、
むしろすっぽかされても現れなくても、
お金を失っても信頼できてるっていうことの方が、
はるかに意味はある気がしますよね。
あと、今仕方を思い出したんですけども、
さっき言ったことと同じですが、
私はだから寺に生活していましたから、
信心深かったわけじゃないけど、
そりゃあ精神分析とよく似てるんですよね、ある意味は。
お金取らないだけで。
いるわけですよ、虚偽的な方とか。
本当にこう、うちでは信頼するわけじゃないから、
その人が病気だとか病気でないとかは問題にしないし、
どういう病気なのかみたいなのも、
もろもろわかるわけじゃないんだけど、
明らかにこの人は、
この体に染み付いたように嘘をつくね、みたいな、
そういう人はいらっしゃるんですよね。
うちの父親は坊主なわけですけども、
明日から心入れ替えます、みたいな感じで、
今日から心入れ替えて、
毎日お寺に来てお題目を唱えて、みたいなことを言っていて、
本当にめっちゃ真剣にそういうことを喋ってて、
帰り際にお穀物とご供養全部取っていくみたいなね。
でもまあ、
私の父も、
信頼はしてても信用はしてないんで、
こういうことが起こるってことですよ。
信頼はしてても信用はしてないんで、
見張ってるんですよ、そういう人は。
何をその人がどれほど真剣な口調で言おうと。
今で言うとサイコパスみたいな言い方になっちゃうのかな、
わかんないですけどね。
まあ、恐怖な信者さんいますからね。
ちょっと混ぜたいな感じで呼び止めるわけですよね。
で、またお説教するとか、
そういう話になるんだけど、
でも全部返させて、人のものなんでね。
必ずしも親父のものじゃないんで、
うつだに上がってる段階では返させて、
で、うちの親父が何がしか財布からですね、
1万円とか出してあげるわけですよ。
これが精神分析ではありえないことですよね。
多分絶対ないと思う。
パンセリングでも絶対ないと思うんですよ。
でも宗教だとこれがある。
ここにちょっと独特の違いがあるし、
この違いはものすごいでかいなと思うんだけれども、
いいのかそれ、いいことなのかって言われると非常に難しいじゃないですか。
でもうちの父的にはいいことなんですよ、これで。
僕がよく思うのは、これがやっぱり信頼と信用だと思うんですよね。
絶対うちの父はあの虚言役の信者さん、
信者さんだったのか知りませんけどね、
ただ来ただけのおじさんだったのかも知れないんだけど、
信用はしてないと思うんですよね。
全く。
でも信頼はしてると思うんですよ。
だから結局それは信用は相手次第ですよね。
信頼は自分次第だという話になっていると思うんですよね。
父がその人を信頼するのは父の勝手であり、
その虚言役の人が今後うちの信者さんになるのか、
お寺に来るのか、相変わらず嘘と盗みを続けていくのかはその人次第で、
こっちでコントロールするのでは意味がないわけですね。
信頼と信用の関係
だから信用は現段階ではできないけど、
信頼はしておくんです。
だからお金あげるわけです。
お金あげるというこの組には、
結局お金はそんなに大事じゃないよねっていうニュアンスがそこにあるじゃないですか。
だってどう考えても信用ならない、
今しがたも信用ならないことをしたばっかりの人にお金あげちゃうわけだから、
お金ってそんなに僕らが生きていく上で必須なんだけど、
抜群に役に立つわけじゃないっていうのがそこの含みにあるわけですよ。
だからつまりそんなに一生懸命頑張って、
寂しくお金を取っていかなくても大丈夫だっていうニュアンスがそこにはあると思うんですよね。
というようなことが1回や2回ではないんですよこれは。
100回や200回は起きるわけですよ。
だから僕は人を信用できるかどうかっていう話をするとですね、
人っていうのはそんなに信用はならないと思うんですよね。
さっき言った通りですよね。
LIFACの世界は水準が高すぎる。
この人絶対いませんもん。
セミナーに来てですね、
なんか僕の読んでますとかすごい感動して、
僕のもの全部買っ払っていくなって人は1回も会ったことがない。
寺だったらこういうのは100回ぐらい会えますからね。
もっと会えます。
いい人もいっぱいいますよ。
そういう人もいい人なんだけど、
でもやっぱり世界が違うしか言いようがないです。
すっごく偉い人とかもいる。
そこがやっぱりお寺という空間の何とも言えない不可解な不思議なところなんですけれども。
あと今みたいな話から考えてもですね、
よく宗教法人は何で無税なのって言われる。
僕はそういうことを中学高校になると友達に言われるんですけど、
だってさ、
そういうもう窃盗罪で逮捕されるような人に
お金あげたこのお金は経費なのかどうなのかみたいなことを考えだしたら、
ダメじゃないですか、こんな世界では。
でもじゃないけど成立しないと思うんですよね、私は。
あれはうちの親父のポケットマネーだったと思ったけど。
だからですよ、ある意味では。
もう別に課税してもいいんでしょうけれどもね。
でもなんかですね、
ここから国が金を取っていくっていうのをやって、
これは宗教に使った、こっちはそうじゃないみたいなのを
区別するのって何なんだろうなって感じはするっていうならばですよ。
それはつまり国が方針に介入するっていう意味に多少ともなってくるんで、
そういうことだと思うんですよね。
だってあの人、寺であれをやったからあれで済んじゃうけど、
寺と信仰の独特な信頼関係
外であれやったらやっぱり国家が捕まえにきますよね。
今の価値観ならそうなる。
で、さっきも言いましたけど、1回や2回じゃないですからね。
それと似たようなことがあって、
それこそ信用って言葉が付いてますけど、
クレジットカードを限度額いっぱいまで必ず出して、
お寺にすっごい立派な格好してくるっていう不思議な人がいるわけですよ。
うちの父がですね、寺に来るのにそういうことしないでいいからって言うんだけど、
無駄なんですよ。
寺に来るのに服買ってこなくていいからと、
しかもその人は絶対借金してしか買えないわけですよ。
これは私も何かしらの病理だろうと思うんだけど、
やっぱり寺なんで病理という定義はつけない。
その限度額いっぱいまでのお金をうちの親父が肩代わりしてあげて、
チャラにしてあげるわけですよ。
これも精神分析では、カウンセリングとかではありえない展開だなと僕は思うんですけど、
でもやってることは似てる気がするんですよ、どうかね。
で、そういうことをするということによって、その人は心を入れ替えました。
この言葉はもううんざりするほど聞くんですけどね。
心を入れ替えましたって言って朝から立派な格好をしてくるんですよね。
御儀をあげに来てる。
そうすると当然借金で首が回らなくなってくる。
でも父はまたコンコンと同じような話をするわけですよね。
あれを信頼って言うんだろうなと。
あれは絶対信用はしてますよね。
代わりに肩代わりしたってその分使っちゃうってことは自明ですよね。
信頼と信用の違い
うちの親父は別にそこまでナイブなわけじゃないんで、
いやこれで心入れ替えてくれて二度と借金しないだろうとか、
かけらほども思ってないと思うんですよ。
そんなことを信じられるにはちょっと憲法書とかになるしかないと思うぐらい、
そういうことが頻々と起きるんですよね。
でもまあいろいろなことをやっていくんですけどね、その中で。
だから信頼と信用ってのは僕はそういうふうに、
クラゾンさんの話を聞いてからそういうふうに自分で一応整理づけるようにしているんだけれども、
そうは言っても信用できる人が多い世界に今僕は生きてるんで、
どっちを混ぜてもそんなに大きな問題というか、
そんなに悩むようなことではないんですけども、
自分次第で決めることしか決められませんからね。
やっぱりね、決めるってことは自分次第だってことになりますから、
ここを増やしていけるといいんだろうなというのは、
わくぜんと思っていて、
信用は大事なんだろうなぐらいな感じでいるわけです。
こうしておくと楽だなとは思うんですよ。
信用を増すとか、信用ができる人だけを周りにおくってのは、
さっき言った水準が厳しいって言った通りで、
なんかね、空気が薄いんですよ。
めっちゃ高い山で生きていかなければいけない。
僕はやっぱり世の中の実装っていうんですかね、平均的な姿っていうのは、
あの寺における人間関係みたいなもんだと思う。
あそこにいたらですね、自分の信用をひたすら増して、
信用できる人だけと付き合っていこうなんて絶対考えなくなると思うんですよね。
無理だからそんなことも。
そうすると出入り禁止にしなきゃいけない。
先日サッカーで暴動を起こしたサポーターが出入り禁止みたいになってましたけど、
レキンって発想を寺にはないんですよ。
だから誰でも来るわけですね。どんな人でも来ると。
そういうところってある意味、現実を反映してるわけじゃないですか。
ここで信用商売とかは絶対無理なわけですよね。
だから信頼だけがそこにはあるみたいな世界になっていくんだけど、
でも崩壊してないですからね。
ここを多くの人が心配するわけじゃないですか。
いやそんな信用ならない人をどんどん入れていったら、
信頼に基づく商売の現実
すぐ寺とか潰れちゃわないって。
意外に、これは変な言い方ですけどね、ものすごく。
意外に儲かってるんですよ、寺は。
これは面白い現象だと僕はよく思ってたんですよね、見ていて。
こういう風なやり方しかしてないんですよ。
料金も決まってないし、お葬式の料金とかお葬式屋さんでは決まってるけど、
お寺に払う金って決まってませんから。
お気持ちですからご自由にっていう言葉が、
これもうんざりすること、多分僕は1万回は聞いてると思うんだけど、
料金決まってないんですよ。
だからそれで商売しているわけですよね。
私はこれがですね、
みんながこうやればいいのにとは全然思いませんけれども、
楽だなとは思いますね。
非常に楽なやり方なのとは思います。
あれ無税だからではないですよ。
よくこれも誤解されてるんだけど、
あれ税金取られてても全然苦労だとは思いますね。
経費よりははるかに収入の方が普通に多くなります。
このやり方に徹しすることができればですね、
劣金とかしたら全然ダメだと思いますよ。
はっきり言って。
割と誰も来なくなる可能性もあると。
だから非常に不思議なんですけれどもね。
でも実際はそういうふうになっているんですよ。
もちろんこれは、
そのうちの例えば父なりの経営能力とかではないですけどね、
すごく組織がある意味しっかりしてる部分が宗教ってあるけれども、
でもやっぱり結局、
あれこそ信頼商売といえばそういうことになるかなというふうに思いますね。
そういうところで僕は生きてきたわけですよ。
ただあれですよ。
すごく信心深かったわけでも関心してたわけでもないです。
バカじゃねえかと思ってたことは何回も。
それもうんざりするぐらいはあります。
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