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2023-09-04 47:16

「空気が読めない」と思われる怖さの正体【GMV839】

恐怖症と超自我

サマリー

第8期の最終の書き上げ式が終わって、第9期が始まる中、人々は文章を書くことや泳ぎを習うことに対する躊躇やプライドについて話しています。恐怖症の正体は、バカだと思われることへの恐怖やバカだと思う人に立ち向かいたいという恐怖です。バカだと思われることへの恐怖の本当の理由は、自己不信と自分の意見を持つことへの恐怖です。この恐怖から逃れるためには、バカだと思われることを恐れずに自分自身を表現する勇気が必要です。ある男性は、自分のお父さんの意見に従って人を断罪することに対する恐怖を感じながら、自身の静電気恐怖症との共通点に気づき、恐怖症に対する見方を変えていく様子が描かれています。話が複雑になり、解決が難しくなってくると思います。高い所から落ちる罰を避けるような予感の問題です。恐怖症の人に対しては、このようなことだけを言っても十分ではありませんし、ちゃんと尊重し、ケアする必要があります。

卒業式と新期の始まり
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
9月4日月曜日、朝の7時38分です。
一転して涼しくなりましたね。
今日は、昨日の日曜日で、第1日曜日で、第8期の最終の書き上げ式という卒業式をやってきたわけですね。
卒業書書っぽいものというのが、卒業書書なんですけどね。
もう何期か卒業された方は、何回か卒業式を経て何個も卒業書書をお持ち。
何個も言ってもそんなに、8期だから最大で8で、8持ってる人はいないと思うんですけど。
そういうものをやってきたと。
第9期が来週の日曜日から始まりますので、これもですね、いろいろあるんですが、
本を書き上げるために6ヶ月使うというのもいいと思いますし、
文章力がですね、やっぱり普通に上がりますんで、
なんといってもやっぱり、グラゾノさんが赤入れして、文章をどう書けばいいかというのを、
僕ら多分あれほど体系的に習っているという人は少ないと思うんですよ。
残念ながら。難しいことだと思うんですよね。
ああしたことを全部教えるというのは。
仮に知ってる人がいたからと言って教えてくれるとは限らないし、
教える気にその人がなるかどうかも。
グラゾノさんも一番最初、ずいぶんだいぶ前の話になりますが、
これをやりたくなかったというふうにおっしゃってたから、ことがあったわけだから、
多分もう始める前の話ですから、
パッキーということは4年以上前なんですけれども、
つまりこれは知ってるからと言ってそれを教えたくなるとは限らないというね、
そういうものってありますよね。
例えば私はスキーの滑り方って人に教えたいと思うことは一度もなかったんですよ、ある意味。
あと泳ぎの、泳ぎ方とかね。
僕泳ぎ方知らないですからね。
泳ごうと思えば多分最大で10キロぐらいは泳げたと思うんですけど、
泳ぎ方は知らないんですよ。
ちっちゃい頃に習ってしまったものっていうのはですね、
真面目に言語化しようと思ったことがなければ、
教えようがないっていうか、自分知らないから、
泳ぐことはできるが泳ぎ方は知らんみたいなね。
あともう一つ、僕は泳ぎ嫌いなんですよ。
だから人に教えたいとはさらっさら思わないですよね。
いや泳ぐのなんかやめとこうよみたいな、そんなことは言わないけど、
うちの娘なんかも泳げるようにならないっていう時期が、
うちの子は運動はそうして運動音痴ですが、
教えるって言ったって別に泳ぎなんか泳げなくたっていいじゃんという、
あれね、僕、溺れる時に備えてとかっていう人いるじゃないですか、
あれはとんでもない嘘で、泳げない方が生き残る可能性は高いぐらいなんですよ。
泳げる人は泳いじゃって死ぬんですよ。
本当あれは不思議ではないんですよね。
泳いでどこかに逃げつけるかっていうと、
泳ぎが達者な人が溺れそうな状況で泳げばなんとかなるのかっていうと、
本当難しいと思うんですよね。
だから浮いて待てって今言うんですけど、
ただ浮かんで、人は浮かぶんでね。
あれも本当泳げない人は浮かぶって信じられないから沈んじゃうんで、
それが唯一泳げるようになるメリットかな。
浮いて待てって言いますが、本当浮いて待てなんですよ。
浮いて待てないだろうなって思うんですよね、心理的にね。
でも下手に泳ぐと死ぬんですよ。
流れっていうものがあったりしますから。
あと体力を消耗していくからですね。
だから浮いて待つのは一番いいわけなんだけど。
そういうわけで泳げるからといって、溺れずに済むとかそういうわけではありませんから、
僕はなぜ人が熱心に人に水泳を教えてしまうんだろうというのがよく思うんですよね。
学校でしか役に立たなかったんです、結局ね。
でも僕は泳ぎ達者だから、どっか行ったら泳ぎますけれども、
泳ぎたいと思うことは全然ないんですよね。
それぐらいしごかれた経験があったということですよ。
もう水というものが好きじゃない。
水は嫌いでも好きでもないですけど、温泉とかも入るから。
泳ぐってのは好きじゃないですね、全然ね。
しごきの記憶がどうしても、あれと無関係に泳ぎを思い出すのが非常に難しくなってるという。
これもグッドワイブスで主食してもいいのかもしれないんだけど、
めんどくさくてですね、泳ぐことなんてほとんど全くなくなったんで、
ことさら泳ぎに行きたいとも思わないですしね。
だからどうでもいいやというふうに思ってるという感じですね。
スキーは好きなんですよ。
しごかれた経験が一切ないですからね。
そんな感じで何の話をしてたのか。
書くっていうのもそういうこと。
ちょっと泳ぎとは僕は違うんですけどね、書くことはもっと遥かに意識的に。
僕本当に泳ぎは寝ててもできるなって思うんですよね、ある意味。
寝てるとどこ行くか分かんないからあれだけど、
寝てて溺れることは決してないだろうというぐらいには思うんですよ。
それくらいしごかれたっていうことなんですよ。
なんであんなにやったのかね。
まったく星ヒューバーみたいになっちゃってるんですけど、
にもかかわらず別に選手になれたとかいうわけでもないし、
本当に残念感しか自分の中に、泳ぎに残念感があるんでしょうね、きっとね。
楽しいですよ、家族でプールに行ったりする。楽しいと思います。
ただ僕は泳ぎたいとは思わない。水に入ってるのはいいけど。
僕全然泳がないですからね、プール行ってもね、歩いてばっかり。
一番いいのは水中でゆっくりすることだと思うんですよ。
泳ぐってのは結構無駄な行為に感じられるんですよね。
なんかこう、エネルギーが無駄に使われている感じっていうのかな。
これも余計なことなんですけどね、本当に今時、
そんなことでは死んだりは普通、プールでは。
でもプールって自己因ですよね、あれもよく分かる気がします。
本当に泳げるようになると余計なことばかりが分かると言いますかね。
あと、だからお年寄りの方が歩いてるけど、あれはいいと思うんだけど、
結構水の中って余計な負担が体にかかりやすいんで、
あれは元気なお年寄りじゃないと僕はできないんじゃないかなってよく思ってます。
そういう意味では歩くのはいいんですけどね、水の中で。
水の中で歩くのってつまんないと思うんですよ、ほとんどの人にとっては。
やっぱり泳げるのに歩くっていうのはね、ものすごいモタモタしてる感じ。
こんなことで7分も使ってますね。
だからつまり書き上げ塾に入りましょうと。
全然脈絡がないんですけど、つまりですね、
プライドと文章の習得
無意識で物を書けませんから、当然意識的に書きますと。
そしてこれを言語化して教えるというのは容易なことではなく、
できる人だからと言ってその気になってるとも限らないので、
クラザの3年の方に習えるのは結構レアケースで、
いい機会なんですよ、本当に。
2つの理由で躊躇する方はいらっしゃると思うんですよね。
高いという。これは6ヶ月20万は高いとは思わないんですよね、やっぱりね。
あれぐらいの技術であれば。
だって私昔はるかに雑にテニスを習ってたけど、
6ヶ月習えば15万ぐらいやっぱいっちゃいますからね。
週に2回やってましたけどね、代わりにね。
でもあんなに手取りや足取りは教えてくれませんからね、テニススクールってのは。
時間も短いし、1回あたり1時間ちょいじゃないですか。
面白いから行ってたっていう面があるんでいいんですけど、
そんな高いもんではないと思うんですね、1つには。
もう1つは多分ですけど、プライドが邪魔をするってのがあると思いますよね。
人に文章を習うの。
でもですね、これは何と比べればいいんですかね。
そうだな、例えば、私は好きじゃないから習わないですけど、
書道ってあるわけですね。
うちの親父がね、やってますよ。
昔お寺では結構教えてましたよ。
一応日典に、1回だけだけど受かったことが。
日典に受賞したことがあるんですけどね。
だから上手いんでしょうね。
僕の目に上手く見えてるかどうかは別として上手いんでしょうね。
字、人に習いたいかっていうと微妙だと思うんですよね。
なぜならば、字は書けるから。
綺麗な字っていうものがあって、
自分の字が綺麗になるかどうかっていうことを僕らは考えちゃうからですね。
スキーでよく感じるんですよね。
足を揃えて滑れるかみたいな、そういうことを皆さん考えてしまうと。
どうでもいいんですよ、実はね。
字もよく親父は言ってますね。
綺麗な字っていうのは誰が綺麗な字を決めたんだみたいな話をするんだけど、
とにかく人に習いたくないものの一つかなって僕は思うんですよね。
そしてそこには大きな誤解があるような気がするんですよ。
字の書き方を習ったはずはないと僕は思うんですよね。
でも字は書けますよね。
文章はそれとよく似ている気がします。
文章は書けるんですよ。
でも書き方を習った記憶は僕はないんですよね。
だから僕は蔵野のさんに事実上習ってきたと感じているんだけど、
それは絶対にいいことだと思うんですよ。
自己で編み出すと苦労することと習得手段
どっちにしても誰かに習わないと誰にも習うことはできないものなんですよね。
そして自分で編み出すと重たく苦労する。
例えば僕の泳ぎもそうですけど、僕はもうしごかれたから泳げるようになりましたけど、
これは自分で編み出したわけじゃないんですよ。
でも多分僕はね、人は水中に浸かって1週間も誰でも泳げるようになると思う。
これと泳ぎ方を習うことは別のことなんですよ。
だから別にどっちでもいいけれども、
習っておいた方がいい類の人は絶対いると思う。
例えばライターで生きていきたいとかいう人は、
自分で編み出すのは絶対に非効率的ですよ。
それをやると名人が50年かけて探求する。
ライターさん引きの話じゃないじゃないですか、これは明らかに。
これは6ヶ月で習えるものなら、
本を書き上げるというのがオプションでついてくるぐらいな感じで、
習ってみるというのは悪くないと僕は思います。
というわけで来週の日曜日から休憩がスタートします。
10分使っちゃったな。
余計なことを喋るからなんですが。
それと今日はあんまり関連しない話で。
関連するとここでかっこいいんですけどね。
関連しない話でして。
最近思ったんですけど、
思っても思わなくてもいいようなことをいつも思っておりますが、
神経小水準という言葉が精神分析にありますが、
これはもちろん軽ければ県庁舎と何も変わらないんですけどね。
これは僕は多くの場合、最終的には恐怖症に行き着いているのではないだろうかというのを、
最近ちょっとある方とのセッションで考えたんですね。
セッションで考えることって多いですね。
ごく多いです。
恐怖症の正体
恐怖症。なんで恐怖症かというと、
例えば僕の場合ですが、
対人恐怖というのが僕には明らかにあったんですよ。
で、これを神経小水準で説明するんですよね。
ある意味ヒステリーっていうのは神経症の最たるものだと思うんですが、
例えばそうだな、
脅迫症みたいな、手を洗うのはやめられない。
これも結局汚くなるのが怖いって話だと思うんですよね。
ある意味ちょっと洗い損ねるのが怖いかな。
だから何かの恐怖症に結びついているというか、
クリアにしようしようと進めていくと恐怖症になっていく感じがするんですね。
そう考えると恐怖症への我々のアプローチを考えるとですね、
いかに神経症へのアプローチって何か間違ってるなって思うような気がしたんですよ。
例えば僕ら恐怖症で普通、その恐怖症に恨みの気持ちを持たないじゃないですか。
持たない気がするんですね。
持つ場合もあるんだけど、僕あんまり持ってなかったんですよ。
例えば僕は静電気恐怖症。
今はないけどあったんです。一番ひどい時。
静電気恐怖症である自分に恨みを持ったことはないし、
電気に恨みを持ったこともないんですよね。
なんでこれがですね、対人となってくると恨みが増しくなるんだろう。
そういうことを考えてみたときに、
トラウマになるようなことをされたとかいう話にこだわるっていうのはやっぱり、
これへのアプローチとしてはまず何とかするべき第一歩なんだなって感じがしたんですね。
ちょっとわかりにくいですね。もうちょっといきましょう。
バカだと思われたくない問題というね、
そんな問題の名前もの問題はないんですが、
フェーマーがあったんですよ、かつて。
つまりセミナーとかでくだらんことを感想で言ったり質問したりするとバカだと思われてしまう。
これってちょっと恨みに思ってますよね、何かを。
その恨みに思ってるっていうところに一つのポイントがあるんだけど、
とにかくバカだと思われたくないっていうのはですね、
僕は静電気恐怖症とは違う気がするんですが、
よく考えてみるとこれはバカだと思われる恐怖症だと思うんですよね。
そう考えてみると、これはバカだと思うやつが云々とか、
昔誰かにバカにされたことが忘れられないとかいう話では解決しないんじゃないかなって思うんですよ。
なぜなら僕は静電気恐怖症って、
昔静電気が恐ろしいと思い込ませたあいつが許せないとかいう話では全くないですよね。
何で自分は静電気恐怖症なのか分からないんですよ。
思い出せもしない。
でも恐怖症はそこに残ってしまった。
何か原因があったのかもしれないし、これといった原因はないのかもしれないんだけど、
とにかく原因に行き着け、だから解決したわけではないんです。
なのにどうしてバカだと思われるみたいな話になってくると、
誰かへの恨みみたいな話と結びつくんだろうと、
まあこれは対人だからなんだろうけども、
そのアプローチは多分ダメなんだろうな気がするんですよ。
バカだと思われるっていうやつと相まってですね、
よくフリーランスの間で話題になるのが、
あいつ儲けてると思われるっていう恐怖症。
これも多分ですね、思ってる人に対する恨みがあると思うんですよね。
このあいつ儲けやがってっていうことをツイッターで拡散されるのが嫌だみたいな話。
あるいはですね、金儲け目的で本を書いているとかいうのが
Amazonレビューにつくことへの恐怖。
僕これ実はほとんど全くないんだけど、
これがあるべきだぐらいに言われることが結構あって、
なんかね、あるべきだと言われるとないといけないのかなって思っちゃうんですけど、
ないんですよね、原則的にそんなもの。
僕は多分これは僕の物書きに対する考え方なんですよ。
物書きというのは基本的に人税もらうのが少なくとも、
なんて言えばいいんですかね、
意識の表層における一つの目的であって、
そうじゃない本などというものがどのぐらいあるんだろうかっていう、
ほとんどないんじゃないだろうか。
松本聖書とかはっきり言ってますからね。
食うためにやってるという話ね。
あの人食うためだけにやってるんだったら、
途中で書くのやめればよかったという、
あの人すっごい書くの苦手というか、
書くのから逃げてしまうときが多くて、
よく編集さんが松本聖書に殺意を抱かない編集はいないぐらいなことを言ってたことがあるんですけど、
とにかくドローンするんですよ。
ドローンしてパチンコ屋とかに行ってて、
すっごいなんか怒りを買うらしいんですけども、
それぐらい書けないというときは書けないんですよね。
それで書いてたんだから、
それ金のためなのかっていう気もするんですけれども、
まあ彼はそう言ってましたね。
ただ他のことも言ってたりするんでね、
わかんないんですけどね、本心なんて。
でもそれはその時々で本心なんて変わるだろうって気もするんですが、
とにかくお金と何の関係もない本ってあれだろうなと思うんですよ。
だったら今の時代特にそうですけど、
ただで配れば済む話になっちゃうんで、
だからお金儲けのために書いていると言われる恐怖症みたいなのは私はないですけれども、
他の人がそうであって当然だぐらいには思ってるんでね、
ないんですが、
これもしかも感覚なんで、
それで良いとか悪いとかではないんですよね。
多分そうであって自然だっていう感じっていうのは、
そうであって良いとか悪いというのとはまた別に来るものなんで、
人間には食欲があって当然だぐらいの感覚っていうのは、
ほら、キリスト教にありますよね。
七つの大罪に退職って、
そこからピンとこないんですもん。
退職が罪なのかみたいな。
なんかこう、お相撲さんとか見ててもね、
退職って罪な感じが僕はまるでしない。
どんだけ食べてもそれはそれでいいんじゃないかっていう感じしかしないんですよ。
なんかアメリカ人にね、
デブは罪だぐらいな考え方ってあるんだけど、
あれもアメリカに行くとすっごいみんな太ってますけどね、
でも僕には全然わかんないですね、はっきり言って。
デブのどこが罪なのかがわかんないんですよ。
僕はたまたま痩せてるけれども、
痩せてたいと思ったことって全然ないですからね。
人生で一瞬もないんで。
痩せてることをバカにされたってことは子供の時にいっぱいあったから、
痩せてるってことはいいことだと思ってませんから。
痩せてる、太ってることは罪だみたいな発想ってのは、
わかる人にはすぐわかるらしいんですけど、
僕には全然わかんないですね。
かけらほどもわかんないですよ、本当に。
なんでなのかがわかんない。
これ女性であってもですね、
僕は別にそういうのってあんまないなって感じがします。
まあいいや、それは。
要は何の話をしているかというと、
いわゆる神経症ってほとんど恐怖症だなと思う。
もしかすると全部。
その恐怖症であるならば、
その恐怖の対象に真っ直ぐ向かうべきなんですね。
でも電気が怖いなら、やっぱり電気に行くべきで、
その昔のトラウマとかに話を向けても、
思い出してしまうというならば、
そのトラウマごと考えなきゃいけないんですけど、
思い出してみたところで、
それで解決できるわけではないし、
ましてそこに恨みの気持ちを抱いていると、
多分事態は打開できないんですよ。
全くと言っていいぐらい。
で、この恨みの気持ちというのはですね、
こう言うと、非常に悪種の人にしてみると、
愉快だとは思うんですが、
多分誤解なんですよね。
でもまあそこを誤解だと言ったところで、
納得されないと思うので、
ここで納得するかしないかだけが問題ではないんです。
どうしてもそうなりやすいんだけど。
馬鹿だと思われるでしょう。
調子に乗っていると思われる恐怖症。
これ恐怖症なんですね。
そういう意味で、
虫が怖いとか水が怖いと何も変わらないんですよ。
何も変わらないんですね。
だから水が怖いのに何かを恨みに思って、
例えば昔水に無理やり入れさせられたら、
私そうだったけど、
その恨みについて真剣に悩んでみても、
多分水の恐怖症は取れない。
昔、私はそういう記憶がないからなかったと思うんだけど、
電気機とかで昔パチッとやって、
人にパチッとやったのをくっつけるという、
ひどいおもちゃがあったんですよ。
昔は平気なおもちゃ作ってたよね。
100円くらいでしか持ってない。
10円くらいだった気がする。
駄菓子屋とかにしか持ってないんですよ。
やたらとひどいやつは目とかにそれを向けてくるんですよね。
あれと僕の恐怖症は関係ないんでね。
だからその人のことは別に僕に恨んでないですから。
何だろうな。
とにかくこのバカだと思われる恐怖症は、
セッションの時に話題になったんですけどね。
最大のポイントはですね、
実はどっちがわかって問題なんですよ。
バカだと思われる恐怖症
この問題は。
つまりバカだと思われるのが怖いというのは、
実はバカだと思う人が怖いわけですよね。
あいつあんな質問してやがるぜって言って馬鹿にしてる人のことを恐れているんですよ。
で、この人の側に立ちたいんですよ。
バカだと思われる側とバカだと思う側に分かれて、
バカだと思う側にいたいんですよ。
これは恐怖なんだと思うんですよね。
バカだと思われる側に生かさせられてしまう恐怖ってやつなんですよ。
だから、お前はそうか、バカだと思われる奴のカテゴライズされたいのかっていうこの人を怖がってるんですよ。
これはですね、
よく観察するととても多くて、
本でお金儲けをしていると思われる恐怖症も同じで、
こいつ本でお金儲けしてやがる、本当に人間のクズだっていう風に言ってる人の側に立ちたいっていうことなんですよ。
だから誤解だって言いたくなるんですよね。
著者としてこれを恐れている場合ですけれども、
このレビューが怖い人にしてみると、このレビューを書いた人の側に立ちたいんですよ。
ここが書かれた人の側に立っちゃってるじゃないですか、本書いてるから。
だからこれ本を書くことによってURL側に立つリスクを犯すことがあっても、
U側に立つというのは本を書かないことによって確実なものにできるんだけど、そうですよね。
恐怖の正体
ちょっと今話がスムーズじゃなかったと思うんですけど、レビュー書いてる人は本書いてないかもしれないじゃないですか。
書いてるかもしれないけど。
だからレビュー書いてる人の側に立ちたければですね、本書かなければいいんですよ。
本を書かなければ、いつも文句を言う側の立場に立てるんですね。
私はそういうことだと思うんですよ。
ほとんど全ての恐怖症というこの種の恐怖症はですね、
例えば質問してバカだと思われるのは怖ければ、質問しなければいいわけですよ。
座っていて質問者をみんなバカだと思っている側の立場に立つことができるわけですから。
つまり質問さえしなければですね、あんな質問してバカだなっていう側に立たされる可能性は絶対ないわけですよ。
だから質問しなければいいわけですね。
質問しちゃおうといった段階ですでに、バカだと思われる側に立たされるかのリスクを負うわけですよ。
ここでね、面白いことがあると思うんですよね、僕はね。
十分あり得ることだと思うんだけど、極端なケースにしようと思うんですが、
その場所に15人いたとするじゃないですか。
で、14人が質問したとしますよね。
で、ある人が、自分その人は質問しなかったんだけど、
14人ともバカだ質問をしている感じがしたと。
これ漢字なんで、どうしようもないんですよね。
そうすると、バカだと思う側っていうのは1人しかいないんです。
で、バカだと思われる側に14人立ってるんですよね。
だから、この恐怖症っていうのはすごく見せかけ状のものなんだろうなと。
これ1対14に分かれて、これから戦いますってことになったら、
この1と4が絶対恐怖しますよね、普通に考えると。
よっぽど何かに自信があれば別かもしれないけど、
でもやっぱり1対14ではですね、非常にこの恐怖感強いと思うんですよね。
実際に面と向かって、これからディスカッションなりしますと。
1対14でやりますってことになったら、結構辛いと思うんですよ。
多分、バカだと思ってるっていう人は、自分が多勢だと思ってるところがあるので。
で、多勢でなかった場合には、自分に圧倒的に分があると信じているからそっち側に立ってられるんで、
この圧倒的に分があると信じるというのが何を意味するかというと、
僕は長寿がだと思うんです。
親だと思うんですよ。
やっぱり喧嘩に親がついていてくれるって強いって感じがすると思うんですよね。
子供同士の喧嘩に親がバックにいれば、1対14ってなってくると微妙かもしれないけど、
1対3ぐらいなら圧勝じゃないですか。
なにしても大人が後ろにいるわけだから。
こういう感じなんじゃないのかなと思うんですよね。
バカだと思われるとか、調子に乗ってるとか、ほとんど全て。
自分の方に分があって、単に分があるだけじゃなくて、圧倒的に分があって、
その反対側にいる奴は、つまり大変不利な戦いを強いられるという恐怖だと思うんですよ。
これは空想上の話なので、リアルに何対何になっているかは結局のところ分かりませんからね。
空想上の話なので、空想上の恐怖なんですよ。
ここのところはすごくいわゆる恐怖症と似てるなって思うんですよね。
私の静電気恐怖症の最大のポイントは、あれが空想上の恐怖だったというところなんですね。
パチッと来た時はもう大して怖くない。
痛さは全然ない、はっきり言って。
怖いのは直前なんですよ。
その直前が最大の恐怖値としては最大になるんですね。
そういうことを考えると、バカだと思われる静電気も原則は同じなんですよね。
空想上の恐怖、これがとっても大きいので、
その人にしてみると何を言われてもどうしようもないんですよ。
やっぱり怖いということです。
バカだと思われるということがあってはならないっていう風に、
こんなにあってはならないことなのにどうしてこの人平気なんだろうっていうのは、
バカだと思われる側に行っちゃっていいのかっていう話。
これが側の問題、つまり人の人間関係だと味方か敵か、
しかも少数で罰される側にお前立つんだぞっていうニュアンスなんですよ。
それはその人の価値観を反映してるからやっぱり僕は長時間と思うんです。
この時思い出されるのがあの甘えの構造の話なんですよ。
どいたけおさんが甘えられない人には自分がないっていう、
よくその話するんだけど、
これはなんでこの表現がいいかというとですね、
自分の意見を持つ勇気
なんとなくわかるからですよね。
専門的な知識が一切なくても甘えられない人には自分がない。
少なくともあの人って自分ないよねって言ったら、
何を意味してるのかがわかるじゃないですか。
これがですね、そうだな、
あの人ってなんか行事がとの同一化がひどくて、
いつも内的対象に振り回されてばかりいる、全然わかんないですよね。
僕はこれをほとんど同じ、かなり近い意味だと、
僕の認識が正確ならばかなり近い意味だと思うんだけど、
自分がないって言ったら一発だと思うんです。
それぐらいのことを日本語が意味できてるっていうのは、
日本人ってすごいことを実は開発してきているってことだと思うんだけど、
甘えがそうですよ。
あの人はちょっと小さい頃に親に甘えられなかったからっていうのと、
あの人は幼少時に一時ナルシズムを乱しきれてなかったので、
全然校舎では意味がわかんないですよね、普通の場合。
ほとんどがこれも同じ意味だと思うんだけど、
甘えられなかったって言った方がよっぽど簡単だと思うんですね。
ドイさんはそういうことが言いたかったなと思う。
つまり、全部一から勉強し直して、
ここら辺の日常用語でわかる言葉で全部置き換えてみたら、
よっぽどわかりやすいじゃないですか。
西洋人はナルシシズムっていう言葉のニュアンスが、
我々よりよっぽど伝わりやすい世界で生きてるから、
彼らはあれ日常用語に近いんだよって言いたいんだと思うんですよ。
あの超自我って言うとわけわからんのですけど、
スーパー英語なら結構わかりやすいと思うんですよね。
たぶんアメリカ人であれば。
この差を僕らは犯事として追っちゃってますよねっていうことを、
甘えの構造では指摘してるんだと思うんですね。
甘えられないというのはどういうことかというと、
例えば質問してバカだと思われるというのは、
怖いっていうのは甘えられないっていうふうに、
甘えられてないっていうことなんだと、
そういう言い方なんですよ。
うまく甘えられてない。
主催者にしてみると、
こういう質問出ちゃうんだみたいな感じがするような質問をするっていうのは構わない。
他人の意見に左右されず
それは話をガッチリ聞いていて、
適切な質問をしているというふうには言えないかもしれないけど、
それは参加者として十分許容されると、
つまり甘えられるってことなんだと思うんですよ。
だからそういう質問をしてもいいと。
これができないということは、
うまく甘えられないってことだと思うんですね。
この時にどっち側問題が発生してるんですよ。
お前はバカだと思われて甘わない側なのか、
それともそうは思われないように身を慎む側なのか、
はっきりしろみたいな。
これは自分が大事なんですよ、結局。
どっち側か問題というもので右往左往しなきゃならないというのは、
お父ちゃん側かそれとも反対側かっていうので、
怖さで決める上では自分がなくなってしまうじゃないですか。
人がどう思おうと自分は自分だって言えるのが自分があるってことですよね。
これができないってことなんですよ。
これはつまり自分で自分のケアができないってことなんですよ。
言ってしまうとね。
お父さんに身分を保証してもらわないと、
その場での振る舞い方が決められないということは、
自分で自分のことが決められないということですよね。
これが多分ドイさんあたりが前の構造で言っていたような、
甘えられない人には自分がないみたいな流れだと思うんです。
こういう時にやっぱり自分で決めることに対する
恐怖があるんだと思うんですよ。
怖さがある。
できれば権威付けられた決定というものをしておきたい。
私はここでこういう質問はバカだと思われませんよという権威を、
保証がある質問をしたいというような話になると思うんです。
これはだから調子に乗っているとか、
いい気になっているとか、
全部同じだと思うんですよ。
その類のもの。
つまり調子に乗っていないですよという権威付けが欲しいんですよ。
そうしないと調子に乗って嫌がるという人からの罰を受けるから、
それが怖いんですよね。
ということはつまり調子に乗って嫌がるという人と
同じ目線を持っていたいと。
そういう話なんですよ。
どっち側にいたいかってことですよね。
そうするといつも文句を言っている側にいたいんですよ、私たちは。
怖いんであればそういうことになるよね。
怖いということはつまり文句を言われる側に立つよりも、
文句を言う側の人たちと仲良くしていたいという選択になるんだと思うんですよ。
で、これは全部あれですよね。
フットワイブス流に言っていいと思うんですよね。
恐れと不安による選択そのものだと思う。
だからこのいい気になっているという人を罰したい人ってのは
やっぱり同じところにいると思うんですよ。
その人自身がそう感じているというよりは、
その人のお父さんの言い分というものに従っている。
多分その人のお父さんなり、強くその人に影響を与える養育者、
お母さんかもしれませんが、生児化的な存在がですね、
ああいうことをやっているといい気になっていて、
みんなからボコボコに垂れるんだからなというのを
ものすごく強烈に受け入れている。
つまり同一化しているわけですよね。
お父さんなりに同一化している。
この人に僕らがこの人の目線を気にして、
この人の顔色を伺っていることになってくると、
私たちはですね、見も知らない人の
お父さんの言いなりになるってことになっちゃうんですよ。
これ僕はエディプスそのものだなって思うんだけれど、
これはここまで考えたら嫌だなって思うんですよね。
だってそもそもそのお父さんはそこで質問しないことによって
喜んでくれるかどうかすらもう分からないじゃないですか。
そこの輪にはいないんだから。
そこで断罪している人は自分自身の意見だと思っているんですけど、
僕はそんなことはあり得ないと思うんですよ。
この断罪している人は明らかに社会通念のようなことに従って、
父の影響による恐怖症
つまり自分のお父さんの意見に従って人を断罪しているわけですよ。
この人の言いなりになるだけでもどう考えても面白い話じゃないのに、
よりにもよってこの人のお父さんの言いなりになるんだけなんないっていう構図ってのは
よっぽどどうかしていると思うんですよね。
しかもそれによって自分が圧倒的に有利な立場に立てるというなら
ともかくとして分からないじゃないですか。
もしかするとその場で自分の方がはるかにマイノリティで
はるかに不利な立場に立っているのかもしれない。
ただ感覚的に自分の方に分があるような気がしているのは
バックにその人をこき下ろしている人のお父さんがついているような気がするから
そっち側に立つと安心で安全だっていう感覚を
実にまやかし的な感覚を得ているっていうのに過ぎないと思うんです。
で、これがですね、僕はしかし面白いなと思ったのがですね、
つまりこれ恐怖なんだけど、この恐怖が僕の
静電気の恐怖と似たところがあるんですよ。
で、思い出したんですね。
なんでだったっけ?そもそも思い出せなかったんですよ。
静電気が怖いのはどうしてなんだっけ?と。
面白いことにね、私の父が静電気を非常に恐れていたのを思い出したんですよ。
これはもう本当に幼い頃の思い出なんで、本当にそうだったかどうかは
定かでないんだけど、でも多分確実だと思うんですよね。
3歳半から4歳だと思います。
父がね、これもうおろかしいんですけどね、
電車に乗る、昔車に乗ってて全部、
かなり何なんだろうなあれで、何らかの合金でできてて
遠雷静電気きてたんですね。
ほんとバシバシバシバシきてたんですよ。
で、考えてみると、
父が昔住んでた北海道東北北部では来なかったと思うんですよね。
雪が降るからっていう。
多分父は埼玉県の寺に引っ越してきて、これにトラウマを持ったんだと思うんですよ。
で、何をやり始めたかっていうと、鍵なんですよ。
鍵金属でできてるんですよ。
で、父はね、物理の知識が不足してるんですよ。
鍵をこうね、取っ手のところにチリンチリンってやってパチパチってならないんだけどね。
そうやって放電することによって静電気が飛ばせるというふうに誤解してきたわけですね。
そういうことやってもほぼ無意味なんですよ。
これは知ってる人にはよくわかると思うんですけど、
帯電してるのは金属じゃないのね。
人の体のほうなので。
人の体のほうから金属に流れていくのであって、
金属から人の体のほうに流れてくるんじゃないんですよ。
マイナスイオンに対する考え方が欠如してるんですよ。
父は金属電気通しやすいくらいなその辺の知識までしか持ってないから、
ああやれば放電できると思ってたんだろうけど、
もろんできないわけです。
放電するべき体質も金属の側じゃなくて自分の側だからね。
自分が帯電してるからああいうことが起こるわけです。
だからあの、なんていうのかな。
これイオンの問題なんだけど、
ある種の人は乾燥肌じゃない人はやっぱり帯電しにくいから静電気引きにくいんですよね。
私もあの体質変わってからすごい減ったんですよ。
ちっちゃい頃は静電気ばっかりで、
これアトピーだったという関係があってこの辺なんですよ。
まあ父がこの非常に間違った知識で放電しよう放電しようと頑張っていた、
あれを僕は見てた。
3歳半年。
ちょうど4歳の頃に埼玉県に引っ越してきたから、
時期的に不法するんですよ。
で、これ痛いぞっていうね。
これ超自我なんですよ。
つまりこれ食らってはいけないよってことなんですよ、あれは。
意味わからないと思うんですけど、
強症までなっている人間にしてみるとこの感覚よくわかるんですよ。
罰、罰が罰を受けてるんですよ。
ちゃんと放電をすれば、
ちゃんと放電してないんだけどね、私の父は。
ちゃんと放電すれば受けずに済む罰の、
お前は受ける側に立ってしまうんだぞっていう、
そういう教訓なんですね。
たぶん父はよっぽど嫌な思いをしたんでしょうね。
で、このことを思い出してですね、
父はこう考えられるんですよね、今では。
父は嫌かもしれないけど、
俺は別にそんなに嫌じゃない。
当時はそうは考えられなかったんですよ、4歳児だから。
私は父と仲良かったしね。
つまり超自我の見解を受け入れて、
同一化していくうちに自分が亡くなるんですよ。
その件に関してですけどね。
こういう流れで私は、
静電気恐怖症というものを、
受け入れてしまったんですね、結局は。
だからこれを突っ跳ねればいいんですよ。
自分がないっていう状態をやめてですね。
自分が自分をケアするんならどうなのという風に考えてみると、
どこでもいいっていう、
あれを食らっても別に何でもない。
現に何でもないし、父も何でもないし、何でもなかったし。
なぜあれほど恐れているのかは、多分何かがあったんでしょう。
今でも僕は、人よりは神経質ですけれども、
だいぶ恐怖症という意味では下がってきているんですが、
恐怖症ってのは多分、
あまりの部分がこれ。
もしかすると全部これ。
つまり超自我と同一化することによって、
超自我から罰を受ける側じゃない側に立ちたいという欲望。
これでせつめつくなって感じがしたんですよね。
最近のセッションとのやり取りで。
今の話は全体として非常にこみってましたけど、
単純にこう考えてください。
誰かに笑われたくないという心配は、
笑っている人が怖いんです。
笑われる側とその時、
笑われる側と笑う側という風に人を分けて、
私、笑う側にいたい。少なくとも。
一緒になって人をバカにしたくはないけど、
笑われる側に立たされたくはない。
だからここに国境があったら、
笑う側国に、笑う側国に住みたいんですよ。
笑われる側国には住みたくない。
これが恐怖症なんですよ。
ここでおかしいのは、
笑う国に住んでいるそのルールを決めた人は、
身も知らない人のお父さんだったりするという、
なんかもう亡霊みたいな存在なわけですよ。
笑う国のほうが実はすっごい弱小国かもしれないという事実は、
完璧に無視しているわけなんです。
異性よく笑っているからこっちのほうが強いと、
信じ切っている戦争をやりそうな気配があるわけです。
これが、
やんないで住むならやんないほうがいいような
喧嘩になっちゃってるってことですよね。
もう一つが、
これは割とどんなケースでもあって、
対人関係ではすごい見えやすいんだけど、
私のようにすごい見えにくかった、
父の非常識な知識と恐怖症
静電気による罰を受ける国と受けない国に分けているんですよ。
要するにそういうことなんですよ。
この時もやっぱり長時間がいるわけですね。
電気罰を受けない国の王様みたいなのが、
ここで放電しておけば受けない。
受けてるんですけどね。放電に失敗してるから。
これほど馬鹿げた話が結構多いと思うんですよね。
受けない国に行くことに意味が全然ないわけですよ。
生活が不便になるばっかりで、
何にもいいことが起きないんだけれども、
あの罰受けていいのかっていう恐怖。
こっちの恐怖なんですよ。重要なのは。
私の場合はね、
私の父が直接生じがいになる。
今思い出したんですよね。
これを思い出して、もう一つ思い出した。
うちの母が馬鹿じゃない。
本当に馬鹿を見る目でね、見てたんですよね。
こっちは気にならなかったんですよ。ここ面白いと思ったんですよね。
つまり母は静電気を受けることをヘドも思ってないわけですね。
だから電気の罰を受けちゃう国の国民なんですよ。
でも、もし母に馬鹿にされるのが嫌だったら、
反対側に回るじゃないですか。
例のさっきの馬鹿だと思われたくない問題に切り替わるんです。
そうすると父と一緒になって静電気を恐れていると、
馬鹿だと思われる国になっちゃうわけですよ。
僕はこっち気にしなかったわけですよ。
母がに馬鹿だと思われるのは、
静電気を恐れて馬鹿だと思われるのは何とも思わなかったんですね。
こういうふうに長寿がを無効化するときには、
あっさり無効化してしまうわけです。
で、母に馬鹿だと思われるという罰を天にして受ける。
この時私自分があるわけですよ。
自分の判断でやってるから。
父と一緒になって馬鹿だと思われる国で頑張ります、
みたいに思ったわけじゃないんですよ。
父と一緒になってたわけじゃなくて、
父と一緒になってたのはただ静電気を恐れてただけで、
母から馬鹿だと思われるのは恐れてなかったんですよ。
これは非常に僕はいろんな意味がここにあるというか、
しょうもない話かもしれませんけどね。
めちゃくちゃしょうもない話にも聞こえますけどね。
恐怖症の見方の変化
こうやって40分も喋るような話でもないような気がしますけど、
以前、プラゾノさんが公所恐怖症について、
これはかつてどこかを引いていただければ
ぶち当たると思うんですけれども、
見つかると思うんですが、
公所恐怖症について話し合った時に、
ジャングルジムから落ちたという経験を
教えてくださったんですね。
これはトラウマが思い出せるケースなんだけど、
これはトラウマが思い出せるケースなんだけど、
ジャングルジムから落ちたことに対する恨み事っていうのは
プラゾノさんから聞いたことがない気がするんですよ。
わかんないんですけどね、
本当のところ何をどう思っているかということは。
ただ、この恐怖っていうものが
罰の要素を提示していなければいないほど
楽になれることだけは確かなろうとは思います。
ここに恨みを持てるということになってくると、
例えばちゃんと、
こういう話をされる方はいらっしゃるじゃないですか。
現にそういうことは起こり得ることですよね。
プラゾノさんがその後どうだったっていうのは
わからないですけど、その後飛行機にも乗れなくなって
大事な仕事に就くことができなかったという
エピソードがあるとしたら、
そういうかつてのトラウマのせいで得た恐怖症が
自分の人生を台無しにしているということになってくると
自分の人生を台無しにしているということになってくると
こういう話になってくればなってくるほど
話が込み入ってきて解決しにくくなってくる
話は込み入ってきて解決しにくくなってくると思うんですよ。
こういう時には必ずと言っていいほど
必ずなんですけど、長時間絡むんですよ。
この場合たぶんちゃんと見ているべき方法をやっているのが
長時間に相当すると思うんだけれども
その時にですね、やっぱり高いところに登るということは
罰を受けかねないと。
つまり死にかねないということですよ。
だから高いところから落ちる罰というものを
回避するような
そういう話になっていくと思うんですね。
予感の問題なんだよ、これは。
こういうふうに考えていくと
実に多い、本当に実に多いなと
影響の代償は間違いなくあるし
恐怖症へのケアの必要性
恐怖症の人にこういうことを言うだけでは
十分ではないし
恐怖症の人が怖いのは
その怖さは尊重というのはおかしいかもしれないけど
ちゃんと尊重してケアしてあげる必要がありますし
そういうふうに自分でもやっていかなければ
私もずっと今後もやっていかなければならないんですけれども
ただこれは罰じゃないはずなんですよね、とにかく。
そうですよね、静電気は罰じゃないです。
バカだと思われるのも実は罰じゃないんですよ。
これを恐れと不安に
よるおかしな行動って
グッドバイブスでは言ったんだろうなと。
こんなようなことを今回思ったわけです。
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