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2020-12-27 40:37

【GMV 283】ノープラン、ノー準備で、セミナーする

なぜ反省しない方がいいか?
00:04
おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
あの、冬季、年末年始ということで、頑張って連日やっておりますけれども、
あの、ま、これはですね、意外と娘が塾通いなんぞをしているために、
学校と何ら変わらない状況になってしまって、
まあ、私疲れるんであれなんですけどね、普段の例年であれば寝てられる時間のはずなんだけど。
はい、グッドモーニングバイブスとかもやれるということですね。
で、昨日、えっと、なんていうのかな、一応私の中ではHSPっぽい問題についてのセミナーをしました。
あの、今後これをずっとやっていくかどうかわかんないんですけど、
私としては一つのですね、えっと、仕事の軸にこれを持っていきたいなと。
実際のところあれなんですよね、世の中ではずいぶん話題になっているけど、
本当のところこれでどのくらいの人が困っているんだろうという疑問はあります。
そんなにね、えっと、私のオンラインセミナー、
人がわんさか毎回満員オンレイみたいになっているというわけではないですしね。
ただこれは私がこれまでやってきた専門性と、専門性ではないですけど、
要するにタスク管理、ライフワーク系仕事術であったのに対し、
どうなんだろうなっていうのはあるんだろうなとは思います。
この話は散々してますし、いいんですけどね。
これから例えば情報整理でいくぞみたいなのは、絶対ないとは言いませんけれども、
当面全くそういう、僕の中でそういう機運は皆無なので、
話して言われれば話はしますし、話しているうちにすぐ盛り上がってくるんですけど、
自分からこれを主軸にするぞみたいなそういう機運にはなってないので、
あとブログよりポッドキャストの方が私の中で、
これはですね、多くの人が言う楽だということではないんですよね。
楽では僕は全然ない気がします。
楽だというならばノート書く方が楽なんですけど、
喋らないとこの話は伝わりにくいなと。
昨日もすごく良かったんですよ、僕の中で。
聞いていた人がどうかっていうのの方が本当は大事なんだけど、
でもこれも難しいところですね。
後ほどしますが、セミナーで喋るというの大事なんですよね。
03:05
単にビジネスの形と収支面だけでいうと、
もう単独をやるべきではないんですよ。
でも単独を模索しているのはやっぱり、
自分だけで喋っていく箱が必要だなと切々と思っているわけです。
これはですね、いろんな意味があるんですよね。
つい頼っちゃうみたいなのもなくはないです。
し、やっぱり二人でやるというのは、
例えば大橋製造さんとやっているのは、
頼っちゃうはもうないんだけど、
やっぱり二人でやるのと一人で喋るのが少し違うんですよね。
一人で喋り切るというのが、
昨日2時間半を予定していたんですけど、
途中でですね、なぜかうちのルーターが落ちちゃったりしてですね、
2時間20数分だったと思うんですけれども、
まあそれでも2時間20分3人で話し切ったというか、
途中休憩を入れるつもりだったんですけど、
もう時間がもったいなくなって休憩もかさまずに一気に行ったんで、
だからちょうど2時間半の計算と合っているとも言えたんですけどね。
一人で喋るというのは大事だなと思う次第なんですよね。
2時間半近く一人で喋りなかなか切れないんですよ。
切れなかったんですね、今までは。
でも今はもうスライドなしで、
昨日も2時間半ぶっ通しで行ったんで、
それがいいっていうんではなくて、
そういうふうに自分の中で、
なんて言えばいいんですかね、
書くっていうんでは無理だってことなんですよね。
2時間半書き続けるっていうのは、
書くほうが楽な私にしてもやっぱ無理だと思うんですね、そんなことは。
だから喋るっていう時にだけ出てくるなんかあるんですよね。
私はそれもリビドに含めちゃってるんですけども、
そういうものがある。
邪魔させないと言うんですかね。
自分を疑わない、すごくあるんですよ。
反省は絶対しない。
今日はこの話なんですけど、
フットバイブスで、これも基本の型ですよね。
基本の型シリーズなんで、
どこかで終了するはずなんですが、
罰を与えないという話ですね、
フットバイブスで言えば。
私の言葉で言うと、
私の言葉で言うわけじゃないですけどね、
反省しないというやつです。
当然ですが、PDCAはしない。
改善はしても別に改善とか修正とかなんでもいいですけどね、
06:00
いいと思うんですけど、
反省という情緒的なものを入れない。
なんて言えばいいんですかね。
反省しない、これ以上は難しいですね。
あともう自分を罰しないになりますよね。
罪はないというやつなんですけれどもね。
ということは罪はないということは、
許せないことはないと、
そういう言い方をしてもいいと思います。
この話、私は普遍的に通ると思うんですけども、
ものによるので、
犯罪を除外するっていう、
このフットバイブスの倉園圭三さんの、
この条件は残しておこうと思います。
反省させると犯罪者になりますという、
大変いい本があって、
あの辺になってくると、
犯罪であっても反省しないほうがいいケースは多々あると思うけど、
一旦、私たちには多分あんまり関係ないことなので、
犯罪は除外しておくと。
犯罪というものでなければ、
罪はないから罰もないと。
関さん長時間の話をしてましたし、
昨日も結構したんですけど、
その文脈ではなくてですね、
罰しないということはですね、
おそらく関係を破棄することもないということを
意味するはずなんですよね。
対外関係をご破産にするというのは、
相手に罰を与えようとしていると思うんですよ。
相手に反省を促そうとしていると思うんですけれども、
これを放棄するということは、
反省を人に求めることはせず、
人に罰を与えることもなく、
当然自分が反省することもなく、
自分で自罰することもないという状態。
私にとってはこの2つがですね、
すごく最初の効果を発揮したものなので、
だから私は基本の型に感じているものとして、
浮かび上がってきやすいんだろうなと思います。
この反省しないというのが。
反省しないのはですね、結構努力を要したんですよ。
というのは私はPDCAというのは最初から大変懐疑的だったので、
ほぼ登用したことはないんですね。
よっぽどPDCAについてどうしてもここは本にしてほしいと言われたときに、
条件に条件を重ねて、
こういう時にこういう条件でこういう場合なら、
PDCA的なものが有効かもねみたいな話は書いたことがありますが、
最初からPDCAというのは僕は大変好きになれなかったので、
まず採用しなかったんですね。
09:01
今では全く採用しないんですよ。
レビューというのも私の中ではレビューはしているつもりはないので、
タスクまで、タスクシュートで、
大橋一夫さんが作ったタスクシュートで記録を残してあるので、
必要に応じて見ることはしますが、
レビューをするということは僕の中ではもうないですね。
タスクシュートをするということはつまり、私はしてますからね毎日。
レビューをするということではないんですよね。
これはもう人それぞれの解釈なので、
レビューをするということは僕はなくて、
でもタスクシュートをするということはある。
これをどこまでいっていけるのかなというのは、
私の場合はタスクシュートが一定の依然として力をね、
私に及ぼしているのは実感として日々あるので、
レビューを取り除いても残るというのは分かっているんですけど、
人にこれを勧めるわけではないです。
昨日のセミナーでですね、参加した人全員タスクシュートユーザーだったんですよ。
そして昨日のセミナーに来ている人全員GoodVibesを読んでいる。
読んでいるんですよ。
それぞれ読み方はやっぱり違うんですよ。
そしてそれぞれテーマにされていることも違う。
でもタスクシュートユーザーで読んでいるという感じなんですね。
私はこういうところを大事にせざるを得ないと思うんですね。
そうすると反省できないだろうというのがまず何よりもあります。
昨日のセミナーについていくらレビューをしてみたところでですね、
それについて反省する、改善していくというのは、
これも言葉が強くなりすぎるんですよね。
私自身にのみ言っておきたいんですよ。
言いたいとは思わないんですが、参加者に申し訳ないと思うんですね。
改善の余地があるというのは、そういうことになっちゃわざるを得ないと思うんですよね。
あのセミナーは63点だったら100点を目指そうって言ったら、
そのセミナーしか受けなかった人は、
永遠に私の63点を受けたことにされなきゃならないじゃないですか。
それをしかも私が恣意的に決めるわけでしょう。
それはダメだと思うんですよね。
ここの点は一体どういう風になっていくんだろうと思います。
どんどん良くなるんだからいいじゃないかって言われるかもしれませんけど、
ここで縁という話になると思うんですよね。
例えば品質向上するとかはありますよね。
本当は私はそれも疑うべきポイントはあると思うんだけど、
昔なんだっけな。
こういうくだらない脱線するのはいけないな。
でもしちゃうんですけど、
シティハンターという漫画がありましたね。
12:01
鞘馬涼という主人公が出てくる漫画がありました。
本当かどうかは知りませんよ、そんな話は私はね。
ワンオブサウザンドって拳銃の話が出てくるんですよ。
私はこれは真偽のことは知りません。
でも人はこういうことを言いたがるだろうし、
ありえない話じゃないなとも思うんですよ。
だって車って徹底的に品質管理されているのに、
2台と同じ車はないじゃないですか。
乗っている人には絶対分かっていることなんですけど、
少し違うんですよね。
少し当たり外れがあるということですね。
だから全く同じものって作れるはずは、
そもそも全く同じものだったら2台やっちゃダメですよね。
と思うわけですね。
ましてセミナーとかは論外ですよ。
昨日3人いらっしゃったんですけど、
あれベストメンバーですよね。
3人ともタスクシュート。
3人ともグッドワイブス。
読んでる。
どうしてもですね、
それじゃダメでしょって話になりやすいんですけど、
つまり縁というものに、
縁ってあれですよ、縁側の縁です。
人々の縁みたいな。
これ以外のいい言葉が。
私縁という言葉が好きなわけじゃないです。
ただこの言う言葉しかないなと思ってるんで、
縁というものにあるべき姿はないと思うんですよね。
だから反省はありえないと思うんですよ。
よく言うじゃないですか、
この本は人を選ぶとか、
そんなことはないと思うんですよね、私は。
娘を見ていてホント思うようになりました。
娘と私の関係は親子関係ですが、
これ縁ですよね、かなりありがちな。
世の中に非常に多くある縁ですよね。
あるべき姿なんてないと思うんですよ。
虚しいじゃないですか、
あるべき親子関係とか、
あるべき家族の姿とかっていうのって。
そんなことを口にした今夜にもですよ、
恐ろしい家族の実態みたいな、
驚々しいホラーなんだか、
ドキュメント番組なのかわからないようなのがすぐあって、
私の想像なんかをはるかに絶するような、
今は絶しなくなってきたけど、
私が子供の頃だったらこういう家族があるんだみたいな、
いくらでも拾われてきちゃうじゃないですか、テレビとかに。
全然イメージできない世界ですよね。
こういうこともあるんだから、
幸せな人ばっかりじゃないんだよっていう、
そういう意図の番組なのかわかりませんけど、
それをずっと言ってたらキリがなくなっちゃいますよね。
何にも言えなくなりますよね、ある意味。
15:01
何かが書いてたんですよね。
あれは多分あの人だな。
孤独な群衆を書いた人だ。
他人志向という有名な言葉を編み出した人だったと思いますけれども、
あの人が書いてました。
世の中で不幸なことがあるという人がいるんだからという話をし始めると、
結局その一番不幸な人以外に何も言ってはいけないことになってしまうという、
そういう理屈があると思うんですよ。
幸せな人間にはわかんないというやつですよね。
わかんないんだったら書くなってことになっちゃうと、
一番不幸な人だけが全てを知っているってことにならざるを得ないので、
書けなくなるというか何も言えなくなると思うんですね。
そうしょうがないと思います。
ただ、縁なので、
つまり私が思うのは、あるべきとか言っても虚しいほど、
バラエティーに異常に富んじゃっているのが現実なので、
夫婦関係とか恋人関係とか、
皆さんそうだと思うんですよね。
やたらこう言うわけですよ、あるべき姿について。
それぐらいわかってあげないよとか、そういう話になるじゃないですか。
わからない人いっぱいいますよね。
だから、私はもうあるべき姿というものに期待するということはやめたわけです。
あるべき家族関係とか、あるべき顧客との関係とか、
そんなのは何だと思いますね。
あるというふうに考えても適応半径が狭すぎるんですよね。
あるべき親子関係とはこういう素晴らしいものですと言っても、
そうじゃない例のほうが99.9%以上だったら意味ないと思うんですよ、
そんなこと言ってても。
1%を切る現実にしか適応できないような理想って、
役に立つとは思えないですね。
そう考えてみると、あるべき親子関係なんてないから、
これ昨日も言った話なんですけど、
子どもの側にとっては大変なことですよね。
私、留学の記事書くとき、
言葉は通じないわ、見たこともない人で、
だけど所詮行ったところはアメリカですからね。
赤ちゃんがある家に行くと生まれてくるわけですが、
言葉は通じないし、自分何にもできないし、
どんな親かもわかったものじゃないわけですよね。
間もなく離婚する親かもしれない。
育児をする気は全然ない親かもしれない。
毎日酒ばかり飲んでる親かもしれない。
金は一銭もないかもしれない。
赤ちゃんは服も持っておらず、
持ち物なし、所持金なしでやってくるわけじゃないですか。
親が全部自分の人生握ってる段階で来るわけですよね。
これにあるべきとかを言っても
虚しいと思うんですよ。
だからあるべきをすごく強調しちゃうんですけれども、
18:02
でも現実にはあるべきという話から
すげえ逸脱している例は、
テレビをひねればすぐ出てくるというレベルですよ。
だから私は昨日のセミナーでもそうだし、
昨日のセミナーは特にHSP的な話なので話題になるわけですね。
例えばお客様の関係が怖いとか、
お客様のクレームが飛んでくる可能性が怖いとか、
これはお客さんがクレームを出すような顧客関係だったら
ならないということから来るんですよ、結局。
それはあるべき姿があるわけですよね。
よく言うじゃないですか、あるべきお客様との関係。
それを頭の片隅でもよぎると、もうアウトだと思うんですよ。
とってもビジネスはやりにくくなるし、
しかも価値が低下する気がします。
だから私は絶対これをイメージしないという努力を
ここ1年はクラズノさんのおかげでやる努力をするようになりました。
手間がかかることは間違いないです。
手間がかかるというのはおかしいんですよね。
本当は手間がかかんなくなっているんだけど、
やっぱり長年染み付いたあるべき姿に翻弄され続けてきているから、
怖くなるわけですよ、簡単に言うと。
あるべき姿を手放しちゃうと。
昨日、おそらく私は久しぶりにですね、
ノープランで、ノー準備で、
3名に対して2時間半をセットしてあげながら、
ノープラン、ノー準備で、ダイレクトで入ったんですよ。
直前まで何も考えなかったんですよ。
これができるようになるまでにグッドバイオスを読んで1年以上経ってますからね。
本を書くときはもうできるんですよ、これが。
ノーアウトラインで。
出せって言われれば編集者には出しますよ。
でもノーアウトラインで。
それを出した以上は時々見るってことはします。義務で。
でも書くときは一切それは見ない。
先にどういう結末が持っていかれるかも一切意識しないってことは、
割と容易にできるんですよ。
僕が今書いている全て、仕事のも含めて記事は全てノープランで書いています。
書くときはね、全く記憶以外はあてにしない。
記憶も本当は参照したくないけど、
全く記憶を参照しないと書けませんので文字書いてるわけですから。
記憶は参照しますが、ノープランですね、完全に。
エバーノート等、スクラップボックスとかアウトラインは一切見ないです。
見たいと思いませんし、
ただ、セミナーは難しかったんですよ。
ついスライドを作りたくなる。
21:01
数枚とはいえ用意しちゃう。
数枚用意しても別に構わないんですけど、
ただこれはもう一種のトレーニングというか、
ゲームなんで、ゲームでもあると思ってるんで、
ホワイトボード、オンラインだからホワイトボード本当は使いにくいんですけど、
ホワイトボードっぽいものだけを用意してですね、
そこに書いていって話し始めると。
あれです。他の人とやるときは、
それじゃダメだ、不安だって言われれば用意はします。
用意する方がよっぽど簡単なんで。
ただここがいけないんですよね、結局。
用意して安心しようとするじゃないですか。
そして決して本当は得られない偽物の安心を得てしまうわけですよ。
用意する。準備ができた。
これで2時間半の枠が埋まるほどのスライドの準備だ。
あとはこれを使えば思い出すべきことは自然と思い出せる。
ものすごくですね、間違った安心感ですよね。
これで一定の人に関心されるようなエピソードが含まれていれば、
相手は多分何もクレームしてこないだろう。
発想が逆だと思うんですよね。
これはつまり相手が晴れ者だと言っているようなものですよね。
これでは今思えばなんですけど、これは僕がずっとやってきたやり方に違いはないんですよ。
ただこれは今思えばクレームを誘発しているようなものです。
これをやるということは相手が潜在的にはクレーマーであると言っているようなものなので、
これが一番危険なやり方なんですよね。
子育てで薄々そのことは心にかすめていたんですよ。
子供に相手にこういうことをしないよな、私はと。
子供には完全にノープランで接している。
ノープランだしノーアイディアだし、全部受動的なのに、
なぜ大人相手になると途端にあれをやり出すのか。警戒するからだと。
私は子供に全く警戒心を抱いていないから将来グレるんじゃないかとか、
もうこの子は私のことを嫌な親だと思っている。
考えたこともないから楽。
だから相手をそういうふうには決して見ないから、相手もそういうふうには接してこないんですよね。
どうしたってお互い人間なんで影響しあえるわけじゃないですか。
親子なんて特にそうです。すぐ分かっちゃいますよね、相手が考えていることなんて。
テレパシーとは違うんですけど、もうその雰囲気で読み取られてしまう。
私は非常にびっくりするんですよ。びっくりしたんです。
2歳とか3歳の頃にね、ちょっとこの子の相手を今していると面倒だなと思っても、
もう察知されちゃうんですよ。
うちの子の場合は大人しいので、そういう私の察知をすると、
すぐ本を持って端っこの方に行って黙々と読み出すと。
24:01
それはそれでよかったのかもしれないけど、そういうことが起こるんですよね。
あっという間に察知されてしまう。
これがですね、大人相手に起こってないと思うのはとんでもなく甘いですよね。
絶対起こりますよね、こういうことは。
つまり相手が潜在的にクレーマーだと思えば、確実に相手をクレーマーに近づけていってしまいますよ。
これはもう避けられないと思うんですよね。
だから100%信用していくというのが最初は大変困難で、
ここで私は手間取っているんですけれども、
だから本当は時間がかからなくなっているはずなのに、
時間がかかっちゃうという現象が起きるんだけど、
そのうちその辺はもう解消されるだろうというのが、
昨日非常に感じました。
まさにテーマもこれだったし。
縁だと思うんですね。
で、セミナーの関係もお客さんという縁ですよね。
で、これでそこにこの縁をベストなものにしていくんですよ。
これしかないはずなんですね。
あるべき姿はないと思うんですよ。
あるべき姿があると思うから、
私はプロとして大丈夫なんだろうかとかいう非常にもっともらしく聞こえる、
私からすると極めて最低な言葉が走り出すんですよね。
まあ、これも最低だというのはイリュージョンなんですけどね。
プロとしてちゃんとしているんだろうかというのは、
あるべき姿に依存したいということなんですが、
そうすると安心だということなんですが、
この安心が全然安心じゃないんですよね。
ずっと子どもがぐれるのを心配して育てするように、
ちっとも安心してないんですよ。
それはすごく不安だと思います。
親子関係もあるべき姿はないので、
つるつると作っていくしかなくて、
これは私にとっては生まれた時からずっとそうやれてるんですよ。
なぜセミナーや本ではできなかったんだろうと思うんですね。
昨日ちょうど奥様との関係というのがテーマに入れてきたんですけど、
やっぱり同じなんですよね。
そこにはどうしてもそういう話にはしませんでしたが、
そこにはどうしてもあるべき夫婦関係というものが、
私もそれにかなりとらわれていました。
どうしてもとらわれちゃうところがあるわけですよ。
そんなものはないんですよ。
何を言おうといいはずだし、
何をしようとある意味いいはずだし、
そこを出発点にしないと価値がなくなると思うんですよね。
何を言おうと、
殴るとかやめといたほうがいいと思いますけど、
何を言われても何を言っても基本いいはずだと。
つまり選択肢としては360度開かれているというところから始めないと、
おかしいと思うんですよね。
この道だけが正しいんだったら、
ある言葉だけ夫婦には言い、
こうやって優しくして、
こういう時はこうするのが正しいんですよ、
27:00
最初から決まってるんだったら、
ただそうすりゃいいじゃないですか。
それに価値だの言う必要ないですよね。
あるべき姿があるんだったら。
ないから意味があるわけですよね。
わざわざあることを選択し、
別のことをしないという意味がですね。
だから夫婦関係にあるべき姿がない以上、
その時その時にベストな関係を築いていくしかないはずで、
それを選択することが価値だったと思うんですね。
これを逆に考えると、
とてつもなく常に不安になっていきますよね。
私はあるべき夫婦関係のために、
ここで言うべきことは言えているだろうか。
何しは言ってはいけないことを言っていないだろうか。
ここでああいうことを言ってしまったから、
妻が怒りだして、
あのような失策をしてしまったんじゃないだろうか。
こういう解釈になるじゃないですか。
これをお客さんとの関係に適応して、
全く同じような不安に苛まれ、
あるいは昨日はですね、
自分がお客であるけれども、
店員とかの顔色を伺っちゃうみたいな話だったんですけど、
これはまさにそういうことですよ。
正しい客としての在り方みたいな。
そんなものはないですよね。
その時その時で選んでいくしかなくて、
その時その時にベストなチョイスをすると。
自分はベストなチョイスができるというふうに、
信用しておくしかないと思うんですよ。
甘えって話も出したんですよね。
とはいえ、甘えられる部分は多々あるはずだと。
相手も甘えている部分が多々あるはずだと。
ここは今日は飛ばしますが、
縁というものは作るしかないもので、
しかも壊さない限りその縁は永久に続くので、
いつか必ずベストなものになるんですよね。
これは倉園さんがよくおっしゃる話です。
途中でそれが完全に壊してしまって、
その縁はないものになるとですね、
多分悪いという失敗というか、
そういうネガティブな楽園を押されたまま、
その縁は関係が終了するんだけど、
永遠に諦めなければ、
いつかはベストな縁ということに育まれて、
終了することができるという話ですね。
これも同じことだと思うんですよね。
結局そうすると信頼みたいな話になっていくしかないですし、
最終的には一つ意識という話になっていくしかないはずで、
縁だから。
自分だけが存在しているところの縁とかってないわけですから。
関係が永続するということになればですね、
一つ意識といっておかしくはないと思うんですよ。
どこかで分離するということになれば、
一つじゃなくなる時が出てくるわけですけど、
30:01
ある一つの縁について、
私の親子関係みたいなもので、
永続するというふうに捉えるならばですね、
この関係においては一つというふうに考えてもいいと思うんですよ。
ただ、一つだけ確実に言えるのは、
関係を破綻させるという選択肢は、
封印しなければならなくなるということなんですよ。
この話も途中散々出てきたんですけど。
結局、縁は、
破綻させる時に私たちが考えることはですね、
許せないことってあるよねって話なんですよね。
許せないことがあるから、
関係を終わらせるわけですよね。
ある人との関係を築こうとしたけれども、
この点だけはどうしても認められなかったから、
そいつとの関係を切ったみたいな。
顧客関係とかでも普通にあるじゃないですか。
これを認めないというか、
封印しちゃうんですよね。
そうすると許せないということがあったらダメなんですよね、結局。
だから犯罪を除外するって話になっていくんですよ。
この許せないを別の感覚で行くならば、
許せないを手放すというか、
封印するというのを別の感覚で言うならば、
関係を破綻させないということで、
最後まで行くという話なので、
やっぱり育むしかないと思うんですよね、残ってるのは。
育むだと親子関係っぽさが強くなりすぎるとは思うんですけれども、
やっぱりお客さんとの関係ないし、店員さんとの関係であっても、
育むになると思うんですよね。
他にないと思うんですよ。
その時ベストであり、今後も永続させ、
この縁はずっとベストなものとを思考するということになると、
育む以外はちょっと育むとか一つとか、
そういうふうなものになっていく。
そう考えるとやっぱりあるべき姿はないじゃないですか。
あるべき姿を人が規定したりすることはおかしいですよね。
育めませんからね。
あるいはその育み方は正しいのか間違ってるのかを、
いちいち人に採点してもらわなきゃならない。
これができる人がいるはずがないです。
私の昨日のセミナーも、すぐにでもいろんなことを言われそうな気がします。
全部、却下ですね。
反省しないんですよ。
反省する余地は全くないので、
反省できないんですよね、そういう意味では。
この辺のところって、傷つく話と大いに関係があるような気がします。
すぐにセミナーで失敗を見つけて、傷を見つけて、
そのことに傷ついて、すっかり反省どころか絶望モードに入るという話、
33:01
しょっちゅう聞くじゃないですか。
私だって昨日だって、そういう視点を使えばたぶんいっぱいあります。
100や200じゃ聞かないほどあります。
それは一つたりとも反省の材料にはならない。
それは僕の今の中では致命なんですよ。
育児の専門家みたいな人が出てきて、
私の子育ての仕方はこことこことここがなってない。
1000や2000じゃ足りないですよ、それを言い出したら。
でも私はそういう感覚が全く持てないです。
全然それが真実だとは思えない。
反省材料ゼロですね。
なぜ反省できるのかすら理解できない。
で、こういう話がスピリチュアルだとは僕は思えないんですよね、最後に。
スピリチュアルだと時々指摘されるのはどこを指してるんだろうってむしろ思います。
関係性というものが基本的には一回性なものであって、
基本的にはベストなものであり、
警戒するラインはどこにもないというのがスピリチュアリティで、
一方であるべき親子関係というものを規定して、
なんなら今日の娘に対する接し方を自己採点しチェックリストを作る。
これ十分スピリチュアルな感じがします。
僕からすると宗教っぽい感じがしますね。
これはプラグマティックだと言われてもピンとこない。
これがビジネスになると途端にそうなっていくのがむしろ非常に違和感があります。
これは割と昔からあったんですけど。
あるべき姿をなぜある人は想定できるんですかね。
その人は東大に子供を3人とも入れたからなのか、
あるいはビジネスで数百億稼ぐからなのか、
それは一つの根拠になると思いますよ、私は。
私がそうしたいとは思わないけれども、
それはそれなので、人それぞれなので、
数百億で欲しいじゃないですか、私だって欲しいし、
子供を東大に入れたいとは別に思いませんが、
それは分かります。
分かりますけれども、
その人が規定したビジネスモデルは、
誰がやっても数百億になるとかではないじゃないですか。
だってそれは論理的じゃないですから。
それじゃ何の意味もないですよね、お金の価値って。
あとその人がやった子育て論では、
全員東大に入れるとかもおかしいじゃないですか。
でも論理的じゃないですよね。
東大に入れる人の数は決まってるわけだから。
何よりも、
なぜその方法がそんなに有効だというふうに、
なんていうんですかね、
受け入れやすいのかということですよね。
チェックリストがあるからとかではないと思うんですよ。
36:02
形式的にチェックリストさえあれば、
その人が言っていることプラスチェックリストで、
丸く収まるような雰囲気が出るっていうのは、
大変スピリチュアルだと僕は思うんですよ。
さっきも言いましたけど、
あるべき親子関係といっても、
虚しくなるような実例、現実が山のようにあるわけです。
多分そういうところにチェックリストを持っていっても、
事態は少しも改善されないと思うんですよね。
私がこないだ見た、
こういう話はあまりしたくないんですけど、
見たやつでは、
夜間に手をつけると危ないというのに、
手をつけるからといって、
沸騰している夜間に手をギュッと押し付けて、
しばらくそうさせていたみたいな犯罪ですけどね。
ありましたが、
チェックリストを持っていくということより、
違うことをしたいじゃないですか。
残念ながらそういうのは、
私が簡単に目や耳にしてしまえるほど、
現実に起こっているわけですよね。
あるべき親子関係というのは、
どういうところまで役に立つのか、
大変どうかと思うんですよ。
そんなことよりは、
愛をもって接しましょうとかいうほうが、
よほど現実的なんじゃないかなというふうにむしろ思います。
これも愛をもって接してこうしているんだと、
言われかねないところがあるので、
実に断って難しいとは思います。
とても嫌がることはさせないようにしましょうとかのほうが、
いいかもしれない。
つまり、ないと思うんですよ。
あるべき姿などというものは。
その時々でベストだということが、
そっちはできると私は今では思うんですよね。
昨日セミナーでもできたので。
セミナーというのはやっぱり、
その時々流動性が極めて大なので、
ついつい準備していきたくなる人がそうなるのは分かるんですよ。
本を書く場合は、いざとなったら書けなければ、
ポンと掘り出せばいい。
でもセミナーはそうはいかない。
ポンと掘り出せないから。
だから事前に準備しておかないと大変なことになる。
この大変なことになるというイリュージョンが大きな間違いなんですよね。
これは長寿が得意な言葉なんですよ。
ちゃんとやっておかないと大変なことになるぞと。
これしかないんですよ彼らは。
覚えてろというのと全く同じですね。
私はあんまり使いたくないんですけど、
何枚だと言っているのと同じですよ。
それを言っておくしかないからそれを言っているぐらいな、
そういう感じなんですよね。
それをいくら唱えていても不安は晴れないので、
そして多分クレームを増やすのでやめた方がいいんじゃないかなと思うわけです。
39:02
あるべき姿に沿って準備を進めていき、
プロ意識を持ってあるべきお客さんとの関係を築くというですね、
これらのことは全部反省させると犯罪者になりますというのとそっくりですよね。
私たちこれをやめようとしないんですけども、
今も刑務所中で行われているんでしょうこれが。
そう考えるとこの路線、この自分でやっている仕事って先が遠いなと思っちゃうんですけども、
これを帯状の時間帯と言うんですけどね。
縁というのは他に表現しようがないからですよね。
あるべき姿はないということですよね。
だから失敗というものも当然ないし、
反省材料もないし、反省点もないし、レビューはないし、
当然そこに罪なんかあるわけもなく罰もありえないということですよね。
そういうことを多分今言った通りのことが感覚的にインストールされればですね、
不安になる材料はないと思うんですね。
私、婚輪際セミナーで不安になることはないなと思いました。
それは娘に不安を感じたことがないということと全く同じなんですね、結局。
40:37

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