1. グッドモーニングボイス
  2. 「自力」でやれるのは「お陰様..
2024-02-28 45:29

「自力」でやれるのは「お陰様」に頼ることだけ【GMV942】

お陰様自分がやっている仕事の小ささを思えば楽になれる。

サマリー

お陰様で、中途半端に生きるという話も自力でないことは確実です。本は著者の力だけではできず、印刷所や出版社の存在も大きいです。本を読むためには、日本語の読み書き能力が必要であり、その基盤は学校教育によって整備されています。読者の存在は本の出版や販売において重要であり、本を出すことは世界の全ての活動と関わっていることを示しています。お陰様という言葉を忘れずに、自力で行動することの意味について考えています。自力とお陰様の関係性を語っています。甘えさせるというのが一番今度はいいんですけどね。その人の存在というものを通じてその人のおかげに甘えています。私は大橋烈雄という人そのものに甘えたことはないんです。

お陰様での厳しい状況
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
はい、えーとですね、2月の25日なんですね。
しかし、今年は2月明日もあるんですね。
えー、なんか、あれ、まずいな。
なんか、29日に締め切りが一発あったような気がしたんですけど、後で確認しておこう。
2月の28日、水曜日、7時34分ですね。
お陰様で、この言葉を後で何度か繰り返すことになると思うんですが、
えーと、切除ですね。先送りゼロは、なかなか包丁までは言い切れない感触なんですが、
まあ、好評いただいていて、えーと、まあでも、そこそこかなと今のところも思っています。
まあね、ここのところの私が出している本の、本全体がそんな楽な情勢にはないので、厳しい状況の中では決闘していると。
まあ、ここで満足するわけにはいかないんだと思うんですけどね、いろんなこう、私も含めてそうなんだと思うんですが、
お陰様で好評いただきまして、今のところレーティングがやっぱり素晴らしいですね。
10について5.0という状態です。私はやっぱりこれも未経験の、本の中では未経験ですね。
で、まあ先日も言いましたけれども、これ、例えば5,4,3,2,1と星がついた場合の売れ行きと、
1,2,3,4,5と星がついた場合の売れ行きは多分、絶望的に開くんじゃないかと。
特に私のようにAmazon主体で売っていかなければならない注射なんかの場合は、
これも全く最終的に同じレートに行き着いたとしてもですね、
初っ端の1がつくみたいなのが厳しいっていうのも経験させていただいたんですね。
だからこう、はじめが5がつくっていうのは、何にせよ大変ありがたいわけですね。
もうこの、何と言いますかね、そういう時代になっているんだと。
助詞者として見れば、やっぱり本を出だし2週間で全て決定されてしまうというのは本当につらい話で、
2週間で決定されるほど本って絶やすくできるものではやっぱりないですからね。
関係者さんも含めて所属2週間が勝負なんですけれども、
本当は今やもっと短いのかもしれませんが、本当にこの、何て言うんですかね、いろんな意味で厳しい。
そして本当にそうなんですよね。
片付けられていってしまいますからね、商店さんからは。
Amazonだけでその後は頑張っていくしかない。
ここでもやっぱりAmazonさんなんですよね。
だからいろんな意味で全てがこのAmazonさんに力が向かわざるを得ないようになっています。
本当に生活でもいろいろと世話にもなっているというか、
世話になっているという言い方はおかしいんですけれどもある意味では。
でも世話になっているというか。
無くては成り立たないとかいうのは試行実験でしかもはやなくて、
そもそも無いというのを想像するだけでもあんまり意味ないかなって感じがします。
今やAmazonさん無いというのは世の中に道路が無いぐらいな雰囲気になってきつつあると思うんですよ。
道路が無いっていうのはとりあえず考える意味すらほぼ無くなってきちゃったじゃないですか。
普通に先進国だけではないですよね。
大半の国でそうだと思うんですよ。
だからもう試行実験でしかなくなってしまっていて、
これはもう私が少なくとも生きている限り、
そしてビジネス著作家というものをやる限りは、
ある意味Amazon作家であるという部分は全体の半分ぐらいは占めるだろう。
そしてこの比率も上がっていく一方であろうという感じはしますね。
本当におかげさまでありがたいことで引き続き、
3月2日にもJマスザキさんの出版記念パーティーもございますし、
私はもうその日は1日中Jさんと関係者さんと寝ずっぱりに近い状態かと思いますので、
最近思うんですけどね、
相変わらず体が弱くはないと思うんだけれども、
やっぱり昔は弱かったし、思い込みだったとしても弱かったし、
何しろトラブルが多すぎたというところはあって、
今は非常に年々健康になるんだけど、それはそれでおかしな話で、
しかも50を迎えてですね、やっぱり初機能が低下はしているんですよね。
健康度は上がっていてもね、この辺の経時的な何か不思議なX字かな、
何かがV字にはなってくれないとは当たり前なんですけどね、
V字になるのはおかしいですからね。
そんなこんなでですね、
体重も今私はある意味では一番安定して多めなんですよね。
これもすごい不思議なことですよね。
50になって、ある意味では一番多めに安定していると。
寒くなくなっているんですよね、以前は。
以前やっぱりガリガリだったんで、
今でもガリガリにちょっと近いところはあるんだけど、
寒いんですよね、あれではね。
そういうことも年々減って、
ああ、世の中の人というのはこれぐらい、これが30代だったら、
それは体力に物を言わせて仕事する仕事とかね、いろいろやるよねと。
私も部活とか仕事とか、スキーを含めてね、
何かを温存しながらやっているようなところが多分あったんですけど、
それはよくわかりました。
このような体力を、多分これはみんな普通に持っていたものだと思うんだけど、
私はこれを知らなかったから、
なんでみんなこんなに無理が利くんだ、
例えば私は徹夜してしたことが一回もないのは、
できないからなんですよね、簡単に言うと。
夜行バスとかもほとんど乗ったことがないんですよ。
スキーといえば夜行バスみたいなのが、私の大学時代もあったんですけど、
夜行バスとか、ナンセンスでしょっていう感じだったんで、
起きた翌日なんて、僕は一日中寝てたんですよね。
スキーどころじゃないんですよ。
もう立つこともできないみたいな、そういうふうになっちゃう人間だったんで、
夜行バスで行くっていうのは、お金の節約にはなんても何の得もないなっていうね。
夜行バスで2泊とかだって、僕はもう一日が消滅するから何にもならないんですよね。
それだったら新幹線で金かけて行く方がはるかにマシだと。
そういう割と甘えが強いところがあります。
それはもう見てればわかると思うんですけどね。
この今日は甘えとおかげさまが絵まで。
これ先日、おかげさまで中途半端に来てますと、
久しぶりに僕はこれは座りの良いタイトルだと。
私はタイトルとかやっぱり決して上手くつけるのが、
なかなかとっさには本当、上手い人って言いますよね。
とっさにそれなりのパッと浮かぶっていう。
そういう能力がどうしてももう一つだとよく思うんですが、
これも思い込みかもしれませんが、
中途半端に生きるっていうのは、これが思い込みなんですけれども、
でも多分世の中一般的に見て、
よくこいつはこれでここまでやってるなって思う方も、
多くいらっしゃるんじゃないかと思うんですね。
僕はそれはしかし、おかげさまってものがありますって言いたいわけですよ。
ここがあのタイトルの8割以上の重要性を持ってるんですね。
つまりおかげさまであれば大体何でもいけますみたいなところもあるわけですよ。
中途半端かどうかっていうのは、私の思い込みなんでね。
どっちでもいいっていうのはおかしいんですけれども、
私が気弱になってるんじゃないかみたいなお話をしてくださった方が、
やっぱりあれで何名かいらっしゃったんですよ。
タイトルみんなよくよく見てくださってんなと思って。
僕は何となく思いつきでつけちゃってるんで。
影に甘えることの重要性
タイトルよく見てるし、聞いてくださってんだなと思って。
それこそありがたいことなんで。
ありがたい甘えおかげさまですね。
これが私が今ですね。
昨日たまたま、たまたまじゃないけど、
Good Vibes TVというのを倉園圭三さんと収録している月1回ね。
大体今月末になっておりますが、
そこで出てきた大きな流れというやつなんですよね。
倉園さんのGood Vibesの用語で言いますと、
すべて力ですね。
僕はつい総力って言ってしまうんですけど、すべて力ね。
これが僕はおかげさまと思う。
大体重なるみたいなのが多いんですけど、
僕はすべて力とおかげさまは、
ほぼ全一致でいいんじゃないかなっていう風に思ってます。
倉園さん的にはダメかもですが、
私の中ではすべて力とおかげさまはほぼイコール。
完全イコールでもいいんじゃないかなっていう風には思っておりますね。
おをつけたりさまをつけたり、すべて力にお、
すべて力さまとかは呼ばないんだけど、
そういうことなんですね。
日本人はこれにおとさまをつけ、わざわざつけてるよね、
戸田博が指摘しているわけですけれども、
甘えの構造の中で。
まさにそうだなって思うんです。
あれは河合駿さんなんかもよく踏襲されている発想の一つですよね。
影って言っても陰陽の陰なんです。
シャドウとはイコールじゃないんですよね。
誤解は多いとは思うんですけれども、
でも昔の日本人、今でもそうですね。
おかげさまはおかげさまにやたら言いますよね。
あなたのおかげでっていう言い方もするんだけど、
これも実は実に不思議な話なんですよ。
あなたのお力でとは言ってないんですよね。
あなたのおかげでって言ってるんですよね。
あなたが影で動いてるんですよ。
非常に謙遜して聞こえるっていう面もあるのかもしれないんですけど、
他に説明のしようがないよねっていう部分も大きいと思うんですね。
甘えというのは、私は結局この影に甘えていると言いたいわけですね。
影に甘えるべきであると言ってもいいぐらいなんですよ。
べきはおかしいから、べきですとは言いませんけれども、
影に甘えればいいんですっていうか、
影に甘えて僕らやっているんですっていうか、
そういう感じの話なんですよ。
自力ではできないこと
例えば今回出た私たちの本にしてみてもですね、
結局自力で売れるというのは不可能なんですよね。
中途半端に生きるっていう話を書いてるから、
ひどく弱気になってるって感じがされるかもしれませんし、
別の言い方をするとひどく謙遜気味だって思われるかもしれないですけど、
どっちも言われるかもしれないし、
別にそれがそれでおかしいとは思わないんだけど、
それは一つの見方であり、
私はこの中途半端という思い込みだけど、
自力っていう話もそうなんですけれども、
自力じゃそもそも本はできないわけです。
これはもう謙遜とかではないんですよね。
まず表紙は無理ですね。
あれは井上新八さんじゃなきゃ無理ですよ。
私じゃ絶対無理ですよ。
これはもう謙遜でも何でもなくて、
あれをそもそも私が作ってたら、
作れたとしても5年とかかかっちゃうわけで、
そもそもそれじゃ話にも何にもならないわけですね。
少なくとも彼が出してきてくれた1ヶ月弱みたいな、
そんなんでできるはずないわけですよね。
しかも彼は、井上さんは他の仕事もたくさん抱えているけれども、
あの仕事も1ヶ月でやってしまうっていう、
それはやっぱりおかげさまなわけですよね。
これだけでとってもそうです。
もちろんAmazonがなきゃ話にならないわけですよね。
さっき言いましたが、ないっていうのはもう試行実験でしかないって、
Amazonあるって。
だからAmazonがこの本はダメですって言えばダメなわけですよ。
出してはもらえない。
現在Amazonには最初のストックで2000ぐらいっていう話があって、
6000中2000がAmazonですからね。
つまりそれだけは予約を受けてAmazonだけでやり切りますよっていう話なわけですよ。
Kindleもあるわけじゃないですか。
電子書籍もほぼAmazonさん以外で今読んでいる人っていうのは、
ゼロではないから、ゼロとは言いませんが、
非常に99.9対0.1ぐらいにAmazonなんですよ。
紙は3分の1だけど、電子となったらもう100分の99を超えていくわけですね。
この力がないならば、私たちの本はこの世にないに等しい状態になってしまうわけですね。
この2点だけとっても自力でないことは確実なんです。
もちろん本は著者が文章を書かなければできませんから、
本に著者の力がかかっているのは当たり前なんですけれども、
それだけではできないってことですね。
文章が中空にあっただけじゃどうしようもないわけです。
やっぱりそれが印刷され、だから印刷所さんっていうのがあるわけですよね。
当然紙というものを作っていただく必要があるわけですよ。
紙質良かったですもんね。
でも良くなくったって僕らは紙は自分じゃ用意できないわけですよ。
紙用意できないってことはもう本は作れませんよね。
少なくとも紙の本は無理です。
この中核には出版社さんという存在がでかくて、
ほぼここをセンターで切り盛りしているのは出版社さんなわけですよね。
その全体の力関係、バランス、その他、
収益、売り上げ、システムの機能、全体を見ると、
今厳しい情勢にあるのは間違いないです。
いろんな歪みがありましてね。
その最大の歪みはAmazonさんから来ているものだけと思いますけど、
とにかくあってですね。
それが非常にスムーズにいっているとは誰も言えないようなところがあるんですけれども、
でもこの力全体というものがあるわけですね。
そしてこの中で今言っていない最大のものがあるんですよ。
それは読者さんですよね。
つまりこれを聞いた方の中にも買ってくださって、
読んでくださっている方がいらっしゃるわけですが、
読者さんの重要性
読者さんがいない本ってしょうがないじゃないですか。
これもAmazonさんのそれと同じで試行実験なんですけど、
所詮は読者ゼロってのはおかしいんで。
だけど読者さんがゼロだったら、
本を作るのってもう滑稽の極みになっちゃうじゃないですか。
だから当然読者さんというのがこの前提になって最大なんだけど、
つまりこれが全体を指し示す言葉としておかげってのがあるわけですよ。
読者さんはなぜ本が読めるか、
なぜ本を買ってくれるのかっていうのは
マーケティング的にはもっと重要なんでしょうけど、
しかしやっぱり本は読まなければ始まらないわけですね。
本を読むためには読者さんそれぞれが
教育っていうものを受けてきているわけですよ。
この教育というのは、
学校教育というのが日本ではもちろん非常に近代化されて、
整備もされて充実していますけれども、
そうじゃないことも盛んに言われてるけど、
やっぱり充実はしてると思うんですよね。
少々時代遅れになっている部分は多々あるとは思いますが、
非常に充実していると。
それほど充実してはいるもののですね、
じゃあ学校に通うまで文字が読めない子ってどのくらいいるだろうと。
小学校1年って意味ですね。
とっても少ないんですよね、今は。
私も娘を小学校に入れて思ったんですけど、
今の子って大した少子化だからってことはあるにしてもですね、
やっぱり今の親って子供を作っている人たちは非常に真剣なんだなっていう。
僕が小学校1年だった時のみんなの識字率の低さは、
いや低くないですよ、日本は高いです。
小学校上がった時には大概の子は字だいたい書けて読めてね、
結構自分の名前も漢字で書けるけど、
でも1980年代の小学生と今を比較すると文程の差ですよね。
小学校3年か4年相当の1年生ばっかりだなって感じ。
もっと上行ってる子もいますよね、結構ね。
あれはすごい少なかったです、1980年代の小学校1年生。
字書けないなんて子はザラにいたんですよ。
全然書けないってわけじゃないんだけど、
でも書けるとは言い難いっていうレベル。
だからすぐ書けるようになるんですけどね、小学校行くと。
でも非常にあやふやな感じなんですよね。
読めないに等しい子もザラにいました。
教科書を見てもやっぱり朗読とかさせるじゃないですか。
明らかに読めてはいないんですよね。
ひらがなだけ読んでるとか、
本当に簡単な漢字でもそこは飛ばすみたいな子も。
でも思い出してみるとね、
私あの時代よく明日の城読んでたんですけど、読めなかったですもん。
ルビ振らないんですよね、昔の漫画って。
本当とんでもないと思うんですけど、
全部にルビ振れよって思うんですが、
ルビ振らないんですよね。
だからもう本当に読めないわけですよ。
タンゲダンペとか全然読めない。
タンしか読めないみたいな。
タンしたなんとかみたいな、
そういう大兵みたいに読んでて、
すげえ親父に笑われた記憶があるんですけれども。
読めないですよ、そんなの。
今の子読めますもん。
どうなってんだろうなって思うんですよね。
だから、読者さんがなぜ本を読めるかというと、
多分に親になっている。
親だけじゃないんですよね。
こういうのを一つ一つ細かく見ていくと、
細かく見る必要は別にありませんが、
細かく見ていった場合は、
全て力とでも表出するように他ないぐらい、
陰に陽になるんですよ。
いろんな力がここに絡んできているんです。
自力ってこの中で見ると、
えらい小さい。
これはケンさんとかではないですよ。
全域そのものが大きい小さいって言っても、
しょうがないんですよ。
このある力、全域を、
しかもこれは軸を越えちゃってるじゃないですか。
僕は今小学校1年と言ったんですけど、
それはつまりどういうことなのかというと、
今から45年前、
つまりこの45年間、もっと長いんですけどね。
以上の時間というものがここに、
時間の中の力というものがですね、
力というのか知見というのが総合してみると、
すごいものになってしまうんですよ。
だいたい今読めないのは漢字って言ったじゃないですか。
漢字といえばこのポッドキャストでも、
何回か前にちょっとホットにした、
幸運と流報の流報が作った国ですよ。
漢帝国ですね。
なんかデタラメでおそらく漢字なんか読めやしなかった、
流報さんが作った国の言葉ですよね。
彼はだって自分の名前なかったような人ですからね。
流報の報ってのはあれは兄貴って意味で、
要するにみんなにリュウ兄貴って呼ばれてたから、
あの人はその辺がご機嫌な人なんですよ。
自分の名前ないんですよね、結局。
リュウさんなんですよ。
リュウさんというのをそのまま自分の名前にしちゃったみたいなところが、
しちゃったんですよね。
しかもなんか中国にアザナとか言うわけわかんないのあるじゃないですか。
孔明って名前じゃないんですよね。
アザナなんですけど、
流報は、
アザナは末っ子って意味なんですよ。
だからリュウ兄貴、アザナは末っ子なんです。
意味が全くない。
リュウ以外はほぼ無意味な名前なんですよ。
そういう人が作った国で漢字なわけで、
それはつまり今から2000年くらい前ですよ。
これを読めるから我々は読書ができるわけで、
そういう人が1億人もいるから、
本というものが意味のあるものになるわけです。
こういうのが全て力の中に含まれているわけですね。
その中でどうすると何が起きるかって、
そんなものを予測できるはずがないわけです。
複雑系っていうのが昔流行りましたけど、
まさにこれは複雑系の極致みたいなもので、
だからなんですよ。
キャラゾンさんがおっしゃったように、
本当のことは分からない。
AをするとBになるかどうかは分からない、
っていう話が始まるわけですね。
だって分からないですよ、そんなことは。
AからBになるためには矢印1個でなきゃいけないわけですが、
こんな2000年もの時と空間、
空間ももう中国全域みたいなものを含むわけですからね。
本当はもっと広いんだけど。
地球全体みたいに多分なっていくんだけど。
この中にベクトルが無限にあるわけですよね。
そして時間を超えてずっとあったわけですね。
その全体との関係が、
私が文章を書くというところから本を出すし、
それを買ってもらって読んでもらうっていうのも含めて、
全体なんですよね。
で、私がこうすると次にどうなるかっていうのは、
誰にも全然分からない。
なぜなら矢印が一斉にワーッと動いちゃうから、
分からないわけです。
もちろん全部をAIかなんかで検討するみたいな話を、
ビッグデータみたいなのを使ってね。
でもそれはシミュレーションだし、
そもそも全部は無理じゃないですか。
ここにはいわゆる観察者効果みたいな話が出てきちゃうと思うんですよ。
このAIを使ったことについての検討を
AI自身ができないみたいなね。
だから結局無理なんですよ。
僕はこれを全部含めて、
おかげさまで中途半端に生きてますっていうタイトルにしているわけですね。
つまり分からないわけです。
分からないし、
なんでうまくいくのか、うまくいったのか、
そうでなかったのか、
失敗したのか、やらかしたのか、
大成功だったのか、
全部分からないわけですよ。
なぜなら決めようがないからですね。
これで一斉に矢印がワーッと動き出したところに、
僕はいるわけです。
その中、そういうふうにした時の自力ってのは確かに大変小さい。
ほとんど目に見えなくなるくらい小さい。
だからいいんですよ。
ここに良さがあるっていうのが、
クラゾンさんのグッドバイブスの、
ある意味ユニークな発想なんですね。
だからいいじゃんってことなんですよ。
もしかするとすごい良いことが起きてるのかもしれないじゃないですか。
分かんないけど。
つまりものすごく嫌だなということであっても、
つらいなということであっても、
実はものすごい良いことが起きる過程の一過程なのかもしれないんですよ。
そう僕らは思えないから、
例えば今回の本で、
ひどい5字なのか、
事実5人が見つかって、
事実とか書いてないから、
事実5人とかもないんじゃないかと思うんだけど、
大炎上しました。
星1がワーッと付きました。
でもそれはとっても良いことなのかもしれないですよ。
今言ったような、
UFOが作った国の字を読む国民として考えてみるとね。
つまりそういうこと関係ないわけじゃないから。
漢字は入ってますからね、
あの本の中にたくさん。
僕はかなり減らしたんですけれども、
本を出すことの意義
わけありましてね。
でもひらがなはもともと漢字ですから。
つまりそういうことなんですよ。
こういうのが全部、
事実じゃないですか。
今の話の中に起かるとはないわけです。
漢字は漢帝国の言葉ですよ。
もっと前からあったけど。
漢字はあるじゃないですか。
そしてその大元になったものが、
2000年くらい前のものだった。
実はもっと前のものだったのは、
事実じゃないですか。
ここに起かるとはないんですよね。
空想の話でも思い込みの話ではなくて、
事実なわけですよね。
で、読者さんは漢字もひらがなも読めなきゃ、
本読めないじゃないですか。
幸いなことに、
1億2000万は今いないんだけど、
ぐらいの人たちが、
漢字もひらがなも読める、
全員じゃないですね、赤ちゃんとかがいるから。
でも相当数の人が読めるわけですよ。
だから本というもの、
日本語で書かれた本というのは、
それなりの意味を持つわけですよね。
で、それも賛否はあるにせよ、
ポチすればアマゾンが、
トラックに入れて、
送ってきてくれるわけですよ。
お金かかるけど。
でもそのお金は多分、
これお金ってものがありますよね。
日本銀行券ですよね。
このシステムがなければ、
そもそもこれは動かないですよね。
だからやっぱり、
実は本を出すってことは、
世界の全ての活動と、
何らかの形で関わっているわけですね。
これを影と呼んでるんですね、
我々人間。
全て力でも結構なんですよ。
大きな流れでもいいんですよ。
とにかくあるんですね、
そういうものが。
ただ善意を示す言葉としては、
あまり意味のある言葉、
これです、
目に見えるあれを指します、
っていうのはないから、
非常に分かりにくいものなので、
影とかいう、
非常にあやふやな言葉になるんですね。
影はでかいので、
そしてパワフルで、
我々は間違いなくそれによって生きているので、
日本人は様を付けたんですね。
影様と。
五も付けちゃったんですね。
お影様ってことになってるわけですね。
これを人にも言うんですよ。
例えば、
そういうふうに思うんですけれども、
タスクシュートというこの活動が、
現在ですね、
もちろん大橋哲夫さんが創始者で、
かつタスクシュートの創始者で、
僕はこれの、
この大橋さんのお影が最大だと。
大橋さんの力がというより、
やっぱり、
彼の持ってる、
彼がその、
大橋さんにまつわる、
あらゆる意味を全てのですね、
目に見えるのと目に見えないのと、
自力とお陰様
例えば、大橋さんのお父さんお母さんとか、
いらっしゃらなければ、
彼はいませんからね。
そういう言い方をするならば、
大橋さんの祖父母とか、
4人ね、少なくても4人と思うんだけど、
いらっしゃらなければ、
大橋さんはいないんで。
私たちは結局、
タスクシュートのお影で、
食っていけるとすると、
彼の祖父母のお影で、
食ってるのと変わらないんですよね。
そういう言い方をすれば、
お影でになるわけですよ。
彼が意識はしていないものまで含めて、
要するに彼が日の光を浴びたと。
彼が日の光を浴びてなければ、
もうとっくになくなってるじゃないですか。
だから日の光とかもあるわけですよ。
ここにね。
絡んでるってことですね。
だから拝みましょうって話じゃないですよ。
別に。これは宗教的なこととは、
関係がなくはないんだけど、
そこを言わなくてもいいんですよね。
別にことさらに。
みんなそうなわけですから。
日の光は浴びてるわけですからね。
夜も来ないと困るじゃないですか。
多分夜が来なければ、
人類はいりません。
だから夜のお影ってことが、
夜のお影っていうのは色々あるんですよ。
で、こういうお影なわけですよ。
だから大橋さんの、
大橋さんがいたからではなく、
大橋さんのお影があったから、
ってことなんですよね。
大橋さんの影があった。
マスクシュートは今のようにやってる。
それを言えば、
Jさんも当然同じだわけですね。
で、それを言えば、
クラザノケイゾーさんとかも、
いらっしゃるわけですよ。
何の関係もないようにも見えるんですけども、
マスクシュートを作ったってことに、
直接関係はないんだけど、
彼のお影ってのは、
僕は大きいと思っているんですね。
でもこれもクラザノケイゾーの、
力でとかではない。
力でとなってくると、
その貢献とはそんなに多大とは言えなくなるわけですが、
マスクシュートのこの本に関しては、
やっぱりお影でってことになると、
絶大ななって感じが、
僕はするんですね。
これがお影なんですよ。
これって結局、
否定しても意味のないなんですよね。
これがないってことは、
ありえないわけじゃないですか。
光が射せば影ができるように、
これはできちゃう。
そこにはあるっていうことなんです。
で、
お影様でという意識を持っていると、
これにも甘えてやっていくような、
ないよな、
っていうのが甘えなんですよね。
私が感じるのはそういうものです。
これに委ねるしかないです。
これのいいようにしてくださいと。
だってこれのいいようになっちゃうんで、
どうせね。
ここを極力切り離して、
なるべく自分でコントロールできる部分だけで
やっていくのは、
すごい不利だって思うんですよ。
この力を考えると。
まず、漢字使わないで。
漢字使わないで。
まず、漢字使わないとかね。
そんな本は書けないじゃないですか!
1字も使いませんとかで。
俺の名前どうすんだって話になっちゃうよ。
J.松崎さんだって
アルファベット使っちゃってますからね。
アルファベットって、
インドが絡んできちゃいますから、
あれもや、やめます。
ということは言っても、
しょうがないじゃないですか。
何かに対して、
反抗して、
欧米の言葉はやめよう。
にしようと 多分売れ行きガクッと 下がると思うんですよ これがおかげ
ってものの力なんですよ 今 実に しょぼい例を出してみたんです
けれども でもやっぱりアルファベット 抜きにはほぼ出せませんよね あの
本の中にも パスクシュートクラウド ってどうやって表記するの 全部
カタカナにしてしまうのかっていう 全部カタカナにしてみたところで
漢字のおかげはこう塗るわけですよ カタカナもともと漢字ですからね
だからこういうことを これコントロール できると思っても それは多分妄想
ですよね これをコントロールする どうやるんだっていう 2000年前に
あった帝国は違うものにするのか っていう話になっちゃうんで そう
はできないんですよね だからおかげ なんて 全てがおかげの力をこう
持ってると そういう話なのかな と思うんですよ そうすると やっぱり
おかげさまに甘えさせてもらうと これが一番 多分間違いないでしょう
ねっていう感じなんですよ せいぜい ここはありがたいことだとでも
思っておくよりは仕方ないじゃない ですかっていう話を 枠田さんの
話を僕が読むたびに 読んだり聞いたり するたびに考えるわけですね 他の
がそもそもあんまり意識する意味 すらない だから これを忘れそう
になったときに 僕らは辛くなって くるはずなんですよね 自分はダスク
シュートを作ったのも自分じゃない し 広めたのも自分とは言いがたい
し 今 広まってるクラウドも自分 が作ったもんじゃないし グッド
バイブスも自分のもんじゃないし 自分の力っていうものを限定的に
捉えたときに もっといっぱいいろん なことしなくちゃいけないんじゃない
だろうかと思ったりして 辛くなるんですよ そのときに私は
おかげっていうものを無視して かげってものを忘れてるってこと
なんですよね この辺が僕は一つ意識 の話で いつもこう いつもいつも
檻に触れて ここに戻るしかない ここに戻るしかないって感じを
抱くって話なんですよね 自分で 出来てることが少ないっていう
のは 別段謙虚だとかいう話ではない ってことなんですよ いや 自分で
一歩蹴ったなとかって思う必要は 別にないってことなんですよ これは
比較する対象がでかすぎて しかも その力が実は全部自分にも
かかってきているわけだから 自分 のサポートにもなってきている
わけだから それで十分なわけですよ ここから先はもうフリートーク
というか どうせフリートークですけど 自由課題みたいなもんですが
先日Book Catalystというゴリゴさん って方と倉下忠則さんとJさんが
3人でポッドキャストでお話しされて たんですよね 非常にしっくりき
ていて驚いたんですけども すごい いい感じにまとまっていて しかも
1時間も話し合ってるって思って おかげさまでそれこそありがたい
ことなわけですが この話の中で やっぱり時間はあるんだとか Jさん
が行動は人の価値を変えないんだ っていうのは この僕は彼が言ってる
話と何にも変わらない話をしてる だけなんですけど 僕は つまりこれは
本の中身に触れてるわけですが 行動が価値を変えないというのは
おかげっていうのの観点からすると 至って当然だと思う だっておかげ
さま全体の価値をどうやっても 測れないじゃないですか そして
私が何か1つ 指一本動かしただけで もうおかげさまの世界がまたワー
っと動いてしまうわって この行動 はどういう価値を持つのかって
も ここで測る意味がないと思うん ですよ だから私が今回 本は出せ
ましたけど 守備を それもおかげさま なんだけど おかげさまで本が出せ
なかったとしても 私の価値とかには 関係してこないんですよ 本当は
あまりにもそれは微小すぎる というか もともとそういうもの
ではないんで 測りようがないし 意味がないんですね 本が出せなかった
から佐々木の価値は下がったとか 60冊出してるから佐々木は価値が
高いとかいうことは 実はナンセンス なという話に 謙虚とかは関係ない
ってことなんですよ どうせ同じなんで ここがすごく大事なんですよ
と思うんですよね ここが全部自力で 自分の価値を決めていくと えらい
さっき言ったような おかげという 絶大にでかい力 対自分みたいになって
しまって こんな戦いに何の称賛 もない 何の称賛もないっていう
のは 本当に大きさ比べで太陽と 自分を比べてみましょうみたいな
話で 何の意味もない 見えなくなって しまう そんなことをやってしまったら
っていうことでしかないと思うん ですね だから その話がタスクシュート
に戻ってくると 次にやるタスク をやるということによって 私の
価値は高まらない やらなかった からといって 低くもならない
これを確信すると やりやすくなります よっていうような これを確信して
やってくださいねっていう話を Jさんは僕 カタリストでされていた
わけですが それはおかげさまが あるからということになるわけ
ですね おかげさまがやってくれる から 何ていうのかな おかげさま
になってしまうから どっちをやっても おかげさまでってことになって
しまうので ここで頑張る頑張らない というのは 大した違いを生まない
というか そもそもどんな違いを 生むのかが分かんないわけです
だけれども 僕らはそれだとそれを 意識することはできないし また
自分のやったこと行動の因果っていう ものを意識してしまうので これが
思い込みなんですよ 思い込みなんだけど これはあるように
思う 一番最もあり得るように思う もので しょうがないんですね 例えば
知覚とおかげさま
コツコツと確定申告の準備をして 確定申告を出すと 昨日 僕 税金
忘れて退納してたやつを出したん ですけれども 忘れてると1週間
ぐらいで通知が来るんですね それを払ったんですけれども こういう
のを払っても払わなくても同じ なんですね 同じだと思えないんです
けれどもね 税務署の人来ちゃう とか 怒るんで それは非常にまずい
だろうって感じがしちゃうんだけど それはやっぱり おかげさまって
ものと自分を切り離すと そういう ものが見えてくる そして 面白い
というのが そういうからくり になってるんだけど 切り離さない
と何も見えないから われわれは 一旦 おかげさまというものを少なく
とも知覚の外に出しちゃうわけ ですよ 知覚って限定されてます
よね 可視光線しか見えないし 聞こえる 音の範囲も決まっているわけ
です 音というのは 空気の触れの 全域をカバーはしないですよね
つまり おかげさま しかも その 瞬間 瞬間のものしかわれわれはほぼ
意識と価値
知覚しないので そんな悠久の時 を越えた流れみたいなものは 目
には見えっこないわけで 音も聞こえる わけじゃないわけですよ 知覚の
外にあるものなんですが だから 知覚ってのは 一瞬を切り取った
スナップショットなんで 当然 これは 現実じゃないんですね あくまでも
現実から一瞬小さなものを切り取って はい これっていう情報を渡されていて
われわれはこれを現実だと思っている から おかげさまが見えなくなるんです
けれども それはそれで しゃあないんですよ 仕方のないことなんですね
仕方がないんだけど これは思い込み ですからねっていうのを随時意識
させて意識していくという 同時には 難しいんですよね 何かが特にインパクト
のある出来事だと思い込んだもの が目の前に現れたときは おかげん
が完全に切り離された感覚になって しまうんで もうだめだって感じ
はしちゃうんだけど 多分 これも 織り込んで本当はおかげさまなんだ
と僕は思うんですけど この辺になって くると さっきの観察者効果と同じ
で 非常に説明がややこしくなって いますから 非常に分かりにくい
話になっちゃってるとは思うん ですけれども 中途半端もオリジナル
も何も それはそれとして 何ていう のかな 人間社会の作法として併用
を払っとくって感じでいいと思 うんですよ それとは我々の生きてる
価値みたいなものっていうのは 私は こういう言葉っていうのは何ていう
のかな 意味をなさない言葉だと思 うんで ポッドキャストでは避け
たいんですけども そういうもの っていうのは変動はしないっていう
話なんですよね 生きやすくなった ような気がするぐらいのものは
隠れるかもしれないけど それは 本当に何と言うんですかね お米
とか研ぐときにざるとかに入れる じゃないですか 時々米の粒がざる
の間の隙間に挟まりますよね あれ 取ったらすっきりするじゃない
ですか 僕は人生でうまくいくって そういうことなのか 本当はこの
米粒全体の流れの中にいるんだ けど この隙間から抜けられなく
なったみたいなのが取れると 幸せ の絶頂みたいな感じがするっていう
米に意識があればね そういうような 話なのかなっていう感じがするん
人の存在とおかげに甘える
ですよね だからどっちでもそれは トータルで考えれば何の違いも
生まないんだけれども われわれ は隙間に挟まるのは嫌だとか 隙間
から出るとすごくすっきりする みたいな そういうのも一喜一憂
の中で生きているっていう事実も あるんで そういうことなんじゃない
かと思うんです それを昨日話した こととか Jさんがぶっ語りすず
喋ってることを聞きながら やっぱり そういうおかげさまなんだな
って感じがするんですよ 甘えられない から甘えさせられないっていう
このおかげというものを実際は 全部切り離すなんてことはできない
と思うんだけど 切り離されている ように感じている すごくそういう
ものに身を委ねるのに恐れを感じる ちょっと何か遅くなったりすると
すごくみんなが自分を迷惑がったり お荷物がったりしているように
思えて 実際うちの職場ではそういう ことが起きていて そんなおかげ
さまに頼ってはいられる心境には 慣れたらいいんでしょうけど 無理
ですというお話をいただいたとき には でも 実際には俺々は道路
のない世界で生きていないし Amazonのない世界で生きていないし
感じも使っているわけですよね それに感謝しろって話では僕は
ない気がするんですよ そういう 啓発的なのとか宗教もあります
けど それはそれで話は分かるんです けどね でも 多分 ことさらに感謝
しでも 辛さはあんまり変わらない かもしれません ただ 甘えさせる
っていうのが一番今度はいいんですけど ね 何でかっていうと 自分のおかげ
さまというものの力を甘えさせる のが最大限認識しやすい方法の
一つだからなんですが 甘えてみる というのは 結局 叩いてくるとか
お荷物があるとか 白い目で見る 人に甘えるのではないんですよね
その人の存在というものを通じて その人のおかげに甘えるんですよ
力を使って自力に頼る
私は大橋烈雄という人そのもの に甘えたことはないんですよ 彼の
おかげに甘えていくんですよ そうすると 例えばタスクシュート
を使うっていうこと一つがそう なんですよ そうすると非常に違う
その点 人生楽になるというか 人生 はこれでしか回ってないんですよ
間違いなく お前はタスクシュート をやだら使ってるからそう思う
のかって思われるかもしれません けど よく考えてみてほしいんですよ
フォークを使ったりスプーンを 使ったりするのだって 自分で
作ったものじゃないはずなんですよ しかも仮に3Dプリンターで自分で
俺は作ったんですって言っても フォークの概念は作ってないでしょ
それもどもどあった概念のはず ですよね そう考えてみると
そう考えていくと 人を甘えさせる というのは実に簡単なことだと
なぜならば自分のおかげを使う だけなんで おかげにやってもらう
っていう感じなんですよ この人に 便宜を図ってくださいと だって
便宜を図るときもそうじゃない ですか 例えば本を送るとか 本は
自分のお本じゃ多分ないですよ そこに書かれてることも自分で
発明したものではないですよね 文字もそうですよ 自分のおかげ
をただ渡していくって感じで 本当は済むはずなんですよね 本当に
自分がやらなければいけないこと っていうのは 実にわずかな力で
十分だっていう認識をするっていう のが 甘えさせるってことなんですよ
ね これは結局甘えるってこと 完全にイコールのはずというか
イコールなんですね だから全て 力と言ってしまえば それでいいん
ですよ 全て力を使えばいいって ことなんですよね それを使うことは
できるんですね それを使おうと思う っていうのが多分 自力でできる
たった一つのことなんですよね 総力を使おう おかげさまに頼ろう
っていうのを決めてそうするっていう のが多分自分でできる唯一のこと
だと思うんですよ これは決して それを やるのが若干負担になるって
ことはありますが それで使える 力との低くで感じると 多分 辛い
苦しいってことはないんじゃないか っていう気がするんですよね
ついでにここで僕 理由に言って おくと 僕の中途半端さってこと
とか 僕はやらかしやすいといろん なことをしでかすと 人を不快に
させると含めて総力なんですよ そういう のだけはごめんだっていう
ふうに思われる方 多分 自分が 甘えられるものの力強さという
ものを何らかの理由で意識し損ねている 多分 カウンセリングとかいう
ものは 蔵園さんのセッションでも いいんですけれども というものは
あなたはそれと切り離されてはいないん ですっていうのを指摘している
だけなんですよ 究極的にはそういう ことなんじゃないかと思います
はい
ありがとうございました
ありがとうございました
ありがとうございました
ありがとうございました
ありがとうございました
ありがとうございました
ありがとうございました
ありがとうございました
ありがとうございました
ありがとうございました
ありがとうございました
ありがとうございました
ありがとうございました
ありがとうございました
ありがとうございました
ありがとうございました
ありがとうございました
ありがとうございました
ありがとうございました
ありがとうございました
ありがとうございました
ありがとうございました
ありがとうございました
ありがとうございました
ありがとうございました
ありがとうございました
ありがとうございました
45:29

コメント

スクロール