00:04
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
2月29日ですね、ルービーと言うんですね。
木曜日、朝7時22分です。
寒い。
いやー、なんかこう、ここに来て、今日なんかほんとすごい寒い感じがしますね。
昨日も寒かったな、朝は。
フロントガラスの内側がね、久しぶりに内側が水滴が少し凍りかけてて、
ああなってしまうとですね、いわゆる曇りを飛ばすやつをガーッとかけると、
大概すぐ内側からの曇りって消えちゃうんですけど、
消えないんですよ、凍ってるから。
一旦溶けるまでですね、消えなくなるという。
ちょっと非常に不便なんですよ。
内側から凍って曇ってるから、見えやしないんじゃないですか。
ちょっとこの地域の特性もあるんでしょうけれどもね、
いやいや、凍るか、珍しすぎないですか。
北国ではありきたりなんですよね。
特に東北とか行くと、凍りついてるのが見えるくらいな感じになっちゃうんですけれども、
いや、それにしてもちょっとびっくりしましたね。
関東では稀な現象で、今年一回もなかったんで、
いやいや、困ったなって感じがしました。
久しぶりにですね、氷点下行ってないのにですね、
凍ることないんじゃないかって思うんだけど、
凍ることはある、凍りかけてるくらいなんですけどね。
はい、いよいよですね、あさってJ松崎さんと出版記念パーティーがありまして、
渋谷で開催。
わりと身近な方でもご存じないという方がいらっしゃったんで、
改めてこちらで告知させていただきますが、
100名は入れると思いますね。
おそらく現在60は超えてきてるんじゃないかと思っておりますので、
多分、尊駅分岐点が多分ですね、60最後の方にあるんで、
ここら辺でちょっと尊駅分岐点を超えるためにもですね、
出版記念パーティーを持ち出しっていうのは、
多少はしょうがないかなと思わなくもないんですけれども、
持ち出すのが結構私だけじゃなかったりしますから、
今回はちょっと宇宙させていただきたいと。
渋谷でそこそこまともな氷にもありつけるのではないかと。
私も行ったことがないお店についての食べ物はちょっと云々できませんけれども、
よろしくお願いします。
割とそれなりに有名な方もいらっしゃるんではないかと。
実は私の手元には名簿とかがあるわけじゃないのでね、
03:00
どなたがいらっしゃるのかはわからない。
ただ50名は確実に超えているというのは確実なんで、
結構にぎわってると思います。
そんなところかなとりあえず。
あとですね、これはかなり先の告知になって、
でもそうでもないんでね、本当はね。
4月7日にダスクシュート手帳セミナーというのを、
これは史上初ですね、やります。
ダスクシュート手帳というのは、
今回の先送りゼロにブロックとしてくっついております。
1ページ分ですけどね、ブロックとしてくっついておりますので、
そういうものだと思っていただいて、
もしかすると僕は最初はそういうのがなかなか想像できなかったんですけども、
ダスクシュートをデジタルで使うユーザーより多くなるのかもしれないなって、
最近思うようになったんですね。
やっぱりそれぐらいこれを言うのを待っていたという方もいらっしゃっていて、
そうなんだみたいなね、驚かされるというのが、
私はやっぱりこれをデジタルでないのでやるのは大変困難というか、
やっぱりイメージできなかったんですね。
もともと私イメージできないじゃないですか。
イマジネーションというものがビジュアルでは存在しないので、
ほぼ存在しないので、
ましてあのように細かいものは僕には到底無理なんでね、
頭の中に全く想像されてないんですよ。
だからできないんですね、私はイメージが。
想像できなくて当たり前で、想像できるものがほとんどないわけですからね。
バナナの輪郭とかしかできないんですよ。
それもすごいいい加減な輪郭なんですよ。
しかも黄色だなぐらいな、黄色でもないんでね、輪郭はもう黒なんですよね。
で、バナナは黄色だみたいな、そういう認識になっちゃうんですよ。
これが統合されていかないんですね。
非常に困ったというか、困ってないんですけど、
これで困ったのはですね、絵を描く時だけなんで、
しかし私は絵を描かなくなっちゃったんで、
全く困ってないんですけど、
絵を描くとなると困るということですね。
あれですよ、文章で描くことはできるんですよ。
例えばバナナが黄色だとか輪郭はこうだとかを描くことはできる。
だから言葉で説明するのは割と簡単なんですよ。
なんかこうよく言語化言語化言うじゃないですか。
言語化って何を言ってるんだろうくらいな感じなんですよ。
私にとっては想像というものが基本言語化しかないので、
音楽はあるんだけど、あれはまたちょっと違う感じがするんですよね。
何て言うんですかね、これはね。
ビジュアルは僕の中でもうっすらとあるのは基本的に前方って感じなんですよね。
顔の前っていうのかな。
だって目で見てる方向は前方だから。
06:02
言語はやっぱり聴覚なんですよ。
耳の付近から少し後ろ。
音楽は全体的な感じがするんです。
音楽って全体的な感じがするじゃないですか。
僕あれヘッドホンつけてるとき、今もつけてるけど、
すごい不思議な感じがするんですよね。
耳だけなのに空間全体から来ている感じがする。
というふうに脳が作ってるわけですよね。
そういうの。
この辺が脳の凄さだと私は思う。
これは結局のところ現実近くを錯覚させるので、
のにこれが便利だからなんだとは思うんですけど、
それ以外の説明はおかしいと思うんだけどね。
というわけで、そういうことなんですね。
何の話をしてたんだっけ。
だからビジュアルイメージができないので、
当然手帳のイメージはなく、私にそういうものが作れないので、
作っていただいて、こうなるわけねっていうものを、
まだ手帳そのものは私は見たことがないんですけど、
見たらちょっと感動するかもなって思っております。
そういう話もありますので、4月7日にですね、
これは私も想像もできなかったとはいえ、
参加は当然します。主催なんでね。
タスクシュートの思いっきり概略的な話を、
15分ぐらいでできるかな、まとめようと思っておりまして、
その他、島に別れるとかですね。
昔タスクセラピーというのをやった時の、
やり方に近いやり方でやっていこう。
やり方に近いやり方ってあれですね。
そういうのでやっていこうと思っています。
でもこれはね、4月の話なので、
3月の遅くとも5日には告知を開始したいとは思っています。
以上よろしくお願いします。
というところで、今日は寒いながらも、
今日落とす理由は何もないので、
お話ししていこうと思うんですけどね。
昨日あたりから、
いろいろと考えさせられるところも、
いろいろありましてですね。
だいたい考えても無駄なことも多いんですけど、
世の中。でも考えちゃうから、
考えるところがありまして、
今日ノートですね。
ユタカジンという、これはタスクシュート協会で、
認定トレーナーさんが中心となってですね、
寄稿し合っていくマガジンですね。
ノートのマガジン。そこに私も寄稿させてもらったんですけど、
今日はですね、このところはずっと、
僕のネットにあるのもこれしかないなぐらいになってきているんですね。
精神分析でも一番基礎中の基礎ですね。
無意識というやつです。
09:00
そして無意識というのはですね、
意識できないから無意識なんですね。
我々がよく無意識にやっちゃってさとか言ってるあれは、
意識じゃないんですね。あれは少し意識から離れたところにあるけど、
いつでも意識できる。
善意識っていう言い方もしたりするんですけれども、
善意識ってあんまり言われてないですからね。
とにかく善って前ですよ。前後ろの前ね。
善意識というか、
あんまりすぐそばにはないけれども、
意識十分できる意識ですよ。そういうのを無意識とは言わないわけですね。
無意識というのは、意識が全くできないという意味の
無意識なんですよ。
意識が全くできないのに、私の心に左右してくるわけですね。
例えば、
もう忘れてしまいたいのに忘れられないといったときに、
この力は無意識の言動力を得ているという感じがするわけです。
こういうのを離微動と言ったりするんでしょうけど、
専門用語が飛び交うとわけわかんなくなって
いきやすいので、
無意識の源泉はコントロールができない。
コントロールができない。
だからそういう考え方をしたくないのにしちゃうとか、
ちょっと前に今思い出したんですけど、
質問するとバカだと思われるような質問を
したくないというお話なんだけど、
そもそもバカだと思われなんかしないような気もするし、
こんなことを考えずに質問したいんだって
おっしゃっているときのこのバカだと思われるというのは、
無意識に近いところから来ているわけですね。
なぜならばコントロールが全く効いてないですよね、
本人にとって。
そんなことは本当はないかもしれないと、
コントロールできる部分ではそう思っているんですよ。
つまり自意識的にはそう思っているんだけど、
バカだと思われるかもしれないぞという無意識からの
何かがやってくるわけですね。
そのためにブレーキがかかってしまうと、
自分の行動に不自由だという、
そういうふうに無意識というものは機能しているわけですね。
だから邪魔っちゃ邪魔なときがあるわけです。
これに助けられることも多いにあるんで、
そんなに簡単な話ではないけれども、
邪魔っちゃ邪魔なときはあるわけですね。
例えば朝絶対起きなきゃならない、
どっちにしても起きなきゃならない、寒かろうと暗かろうと起きなきゃならない、
今日はマガジンでその部分を書いたわけですけど、
でも気がつくと寝始めてしまうとかあるじゃないですか、
私もしょっちゅうあります。
これは無意識ですよね。
コントロールが全く効いていませんよね。
寝るってそもそも無意識にしかできないじゃないですか。
これすごい大事なポイントだと私は思うんですよ。
寝られませんって言ってる人は、
意識的に寝ようとしたって無駄なんですよね。
意識的にできるのは、部屋を暗くして、
布団に入って、暖かくして、
でもそれは眠ったってことにはならないじゃないですか。
まだ起きてるでしょ、起きてる時は。
12:00
でも無意識がどこからか作動して、
その人に荒らぬ夢を見させ始めたりする、
この夢はもう絶対無意識ですよね。
なぜならば、どんな夢これから見るかって全く想像できてないじゃないですか。
誰が出てくるのか、思いも知らない人が出てくるわけですよね。
それは無意識ですよね。
コントロールが及んでない、意識できていないっていうこと。
特に何より大事なのは、
無意識の力がなければ、
眠ることができないんですよね、人はね。
だから、眠れないという人は結局は、
コントロールしなければならない、
という状態にあると思いすぎているわけですね。
コントロールしなければならないという状態にあるというのは、
つまり危険だってことですよね。
そういうものがあるんでしょうね。
何か、寝させない何かが。
だから、寝られないということになるわけですね。
つまり、コントロールが効いてしまったら意識なんで、
いや、無意識にやっちゃったよっていうのは、
無意識の力も及んでるのかもしれないけれども、
100%無意識ではない気がしますね。
無意識でやっちゃってないんですよ。
結構意識してたりするわけですね。
それでですね、
最近もちょっとお話ししましたけど、
閉じまりしたかなって心配になり、
鍵かけてきただろうかと心配になり、
家に戻って確認する。
これは無意識のなせる技なわけです。
というのは、つまり、
たぶん閉じまりはしたんですよ。
そういうときはだいたいしてますよね。
部屋から、家から離れるときは、
そんな発想は全く持ってないわけですよね。
当然ですよね。今かけたんだから。
かけてないかもしれないなどというふうに、
かけた瞬間に思う人はいないわけですよ。
ガチャンってやったときは確信してるわけですね。
その確信の時間が短かったり不注意だったりするから、
後で心配になるかもしれないけれども、
かけたというときに、
かけてないという心配をするという無意識は、
少し離れたときに急に発生して、
しかもコントロールは効かないわけですね。
だから無意識なわけです。
とにかくかけてないという心配が急にフワッとやってきて、
僕の場合はそういう心配は決まって下から来るって感じなんで、
無意識っていうのはやっぱり下方っていうイメージ、
下の方ってイメージがどうしてもあるんだけれども、
人によって違うかもしれませんね。
これは天から降ってくるのかもしれない。
いずれにしても気になって引き返す。
そしたら、なんだかかってたじゃん、やっぱりってことになるわけですね。
ここまでは私は、
ちょっとあれだけど正常の範囲内だと思うんですよ。
問題は次だと思うんですよね。
15:01
ここで一回戻りました。
離れました。
また再び心配になりました。
僕はこうなったらですね、
そしてここで心配になって、
いやいやいやいや、そりゃないでしょうと思って振り切って前へ進める人は、
まあいいと思うんですよ。
ここで振り切れなかったら、
ちょっと専門家にご相談、検討してみましょうと、
言った話になると思うんですよね。
つまりこの2度目の確認を要するという時には、
私はこれは無意識の中で、
非常に難しいというか、
やや難しい問題が起きかけている。
本当はそこで不安になるのもどうかと思うんだけど、
でも不安になったとしても、
いやいや、さっき確認しただろうと、
ここで開くのはおかしいでしょうって思えるというのは、
いいと思います。大丈夫だと思います。
ここで戻っちゃうと、戻らずにはいられなくなるというのは、
これはまず第一に、
記憶の問題ではないということが確実に言えます。
記憶の中では、
自分は戻って確認したというのを覚えているわけだから、
記憶の問題ではないわけですよ。
記憶の問題もあるじゃないですか。
本当に書き忘れるってこともあるわけだから、
記憶の問題はあり得るわけですよ。
でも1回戻って確認したのに、
そこから離れてもう1回確認しに戻りたくなるのは、
記憶の問題ではないですよね。どう考えても。
これは心の問題ですね。
つまり、2度目に戻りたくなるという、
この心理状態が発生するようなほどの無意識、
無意識はコントロールできないんですけど、
コントロールできないことがいけないんじゃないんですよ。
僕はここは2つ言い方があると思います。
コントロールはできないんですよ。
誰だってそうなんです。
コントロールしてる人なんていないんですよ。
問題なのは、コントロールできなきゃダメだと思っている、
その発想なんですね。
そういう、無意識には任せてられねえって思う、
その無意識への不信感があまりにも強い。
無意識に少々不信を抱くのは、
これは正常の範囲内だと当然思うんですね。
思わず無意識に変なこと言っちゃったり、
やっちゃったりするってことは誰にでもあるんで、
なのに、でも無意識というものと、
明らかに対立状態が発生していて、
寝るのも意識的にやる、
心臓の動きも意識的にやるみたいなことをやってたら、
その人すぐ、本当にそれをやろうとしたら死んじゃうわけですね。
意識の半径は決して広くないので、
血液の流れも意識してやるんだとか、
脳の血中の流れも意識してやるんだとか、
こういう感情に嬉しくなったり悲しくなったりも、
全部意識的にやるんだってやってたら、
多分手が回らなくなってお手上げなんです。
18:01
僕、今思い出したのがあれですね、
後醍醐天皇ですね。
彼は建武の神聖というのをやったときに、
全部自分でコントロールするって、
あの天皇はすごく野心的で、多分有能な方だったと思うんですよね。
そういう建武の忠孝みたいな言い方もするんですけれども、
多分、当時もう無理だったわけですよ。
平安時代終わった後の話ですからね。
鎌倉時代も終わった後じゃないですか。
もう全部自分でやるとかいうのが、
効く時代じゃないわけですよね。
裁判も全部自分でやって、文字的な話も全部自分でやって、
すぐパンクしてしまいますよね、そんなこと。
そんなことのできる人はいないんで。
こういうことが起きているわけですね。
自分の能力を過剰に評価しているということもあるし、
あまりにも自分から離れたものに対する、
言ってしまうとちょっと厳しい言い方になってしまって恐縮なんですけど、
ちょっと下に見すぎているかなと。
ちょっと見下しすぎですよねということ。
例えば自分の意識で終わっても、
コントロール効く部分と効かない無意識に対して、
効かない無意識をあまりにも信頼してなさすぎる、
という話ですね。
だって睡眠も呼吸も心臓も、
言ってみれば相当無意識にやってもらっているわけなのに、
これはちょっとダメだなみたいな、
俺によこせみたいな、
コントローラー奪っちゃう人みたいにね、
お前下手すぎるからちょっと貸せみたいな、
そういうハンドリングに対する過剰な要求があるわけですね。
この無意識に対する不信というものと、
ある種の完璧主義みたいな、
やっぱり関係してくるわけですね。
脅迫症という言い方をするのは、
多分このコントロール欲求の過剰から、
いろんな形のものが出てくるわけですよ。
例えばよく言う、
我々の仕事術界隈でよく使うので言うと、
やっぱりタスクが多すぎるんですと、
それは私がコントロールする現実の分野を広げたい、
という欲望なわけですね。
いや、他人には任せてられんということなんですよ。
広く取ればそういう話にだんだんなっていくわけですよね。
例えば健康だって、
ある程度他人任せにしてもいいわけじゃないですか。
外食はダメです、みたいなのっていうのは、
つまり外の人間が作ったものは食えんって話をしてるわけですよね。
いろんな意味でそうなわけですよ。
ある程度ちょっと病気になったらお医者に任せればいいじゃんって、
いや、私は病気になりたくないんだ、そもそもっていうのは、
結構なお話だし立派なんだけど、
他人に任せたくないわけですよね、自分の体を。
こうして自分の領域を少しでも少しでも広げていきたいと。
で、例えばさっき途中で言った質問、
バカだと思われるような質問はしたくないっていうのも、
結局他人に委ねたくないわけですよ、
自分の評価というものを。
私の評価は、私が高評価してほしいように、
人は評価するべきだと。
21:02
少なくとも私はバカじゃないんだっていうのを、
だから他人に評価して、他人に評価を委ねると、
どっちに取られるかっていうのは自分でコントロールできないじゃないですか。
自分がバカであろうとなかろうと、
佐々木がバカであろうとなかろうと、
佐々木バカだなみたいに思ってしまう人がいるっていうのは、
コントロールできないじゃないですか。
でもここでコントロールしたければですね、
バカだと思ったやつは強制収容所に入れるとか、僕はできないんで、
できる唯一のことは、バカだと思われるような言動は
一切慎むっていうコントロールなんですよね。
これをしたいってこと。
つまりこういうふうに、人に委ねる部分、
無意識に委ねる部分とか、
医者に委ねる部分、現実に委ねる部分を
ことごとく排除、可能なレベルで
とにかく排除していきたいというのが、
だいたい強迫的な気持ち、
要するに完璧主義を求めるわけですね。
あれですよ、今寒くなったりしますけど、
この夜寒霊アレルギーっていうのがあるから
備えようとか、低気圧が来たら備えようとか、
花粉も備えようとか、いろいろ備えるのが
出てくるじゃないですか。これも全部同じですね。
委ねるということができなくなっていく。
だから寒霊になったら
あまり出かけないようにするとか、
一枚防寒グッズ買うとか、
そういうふうにもちろんしますよね、
ある程度は。ある程度はするんだけれども、
この委ねてはまずいことが起きるんだという
意識が過剰に働くと、
可能な限りコントロールしていくということになる。
やっぱりやることすっごい増えますし、
その分取りこぼしも実は増えるわけですよ。
非常に面白い現象が起きるなと私は思うんですけど、
今はね、以前私も全くそれをやってたわけだけど、
考えてみるとリマインダーをセットするという流れは、
一旦自意識に引き受けておきつつ、
それをまた無意識化していくという流れなんですよね。
私はあれはよくそういうのをやっている最中も、
なんだか笑っちゃうなというところはあったんですよ。
つまりわざわざ自分でコントロール。
つまりあれですよね、お前下手だから
俺に貸せと言っておきながら、
ゲームのコントローラーを知ったくっておいて、
俺の方がゲーム上手いんだから貸せと言いながら、
ロボットに任せるとかね、そういうやり方なわけですよ。
チェックリストをやたら作るというのは、
そういうリマインダーとか特にそうですよね。
全部覚えておきたいと。
でもあまりにも自分で引き受けすぎると、
今度は全部は覚えておけなくなる。
そこでリマインダーを信用するって話になる。
国際社みたいなものをイメージさせられるんですよね。
民主主義みたいにいろんな人で分担するのダメだと。
だから憲務の申請みたいに、
俺の方がはるかに有能なのは明らかだから、
全部仕事は俺のところによこせと。
で、よこせちゃないんだけど、
24:02
憲務の申請ではそういうことが起きたらしいんですけどね。
いやいや、明らかにこれ自分一人じゃさばけないじゃんってことになるわけです。
そうすると何をするかというと、
俺が信頼できる人間だけに任せようという話になるじゃないですか。
これがよく独裁的な国で起きることですよ。
ヒットラーとか思いっきりそういうことをしてましたよね。
自分のお気に入りだけに仕事を任せると。
言っていいんですけども、
彼は猜疑心の強い人だったからやっぱり、
いやいや、やっぱりちょっとこいつ信用できないわってことになるから、
いきなり死刑にしたりするわけですよね。
こういう現象が人の心理では非常に起こりやすいというか、
もともとそういう心理が起きてるといったところがあったわけです。
我々はこれをですね、
ミニミニ独裁国家の中で、
当然私手下何十人とかいるはずがないから、
だからリマインダーってことになるわけですよ。
何をこれを言ってるかというと、
人は信用ならんから機械に信用したいってことなんですよ。
だから自分の周りがどんどん機械が増えていくはずなんですよ。
この心理を持っている人の精神状態からから、
考えれば自然とそうなるわけです。
他人はどうも俺に比べてアホだと、間抜けだし、
佐々木とか明らかに抜けたところが多すぎるから、
こいつから仕事を全部ひったくっておいて、
身の回りの機械に任せようということになるはずなんですよね。
非常に至ってある意味、
自然で妥当な流れかなという感じがします。
で、でですね、
さっき途中になったんだけれども、
3回目、つまり2回目か、
2回目に戻るっていうこれ、これが問題なわけです。
この状態ってはっきりと、
合理的でない行動が起こり始めています。
そして合理的でない行動っていうのは、
つまり非常にオカルトな発想に近づいているわけですよ。
いや、99.999%鍵は閉まっているが、
0.0001%開いてるかもしれませんね。
というのも、
そして開いていたらひどいことが起きるじゃないですか。
とにかくここで戻るというのは、
それほどのコストじゃないんだから戻ろうというのって、
かなり限りなくだんだんオカルトに近づいていますよね。
どうやって鍵開けるんだよと。
ここら辺は藤本晴さんだっけな、
っていうお亡くなりになってしまいましたけどね。
非常にシュールで面白い漫画を描かれる、
夢見心地という、
このポッドキャストでも紹介しました。
ほっぺだつねり罪っていうのでね。
夢警察が出てきて刑務所に入れられるっていう話。
非常に考えさせられるエピソードなんですけど、
彼の中に出てくるんですよね。
旅行中に家が火事になる。
小人たちがガスコンロに火をつけた。
彼は強迫症なわけですよ、たぶんね。
クマさんでしたけどね、確かね。
動画を撮るんですよ、鍵をかけた動画とか。
コンロの動画とかを全部撮っておくわけ。
一見これは完璧なんですよね。
27:02
何回見直しても、
やっぱりちゃんと火は消した、安心だってなるんだけど、
でも小人が登場しちゃうわけですよね。
夢なのか幻覚なのか非常に微妙な感じで、
小人がティッシュペーパーに火をつけて、
家を火事にする。
つまりどこまで行っても無理なわけです。
なぜならば、
無意識に不安というものがあるからなんですよね、これは。
意識できず、コントロールもできないところに、
強力な不安というものがあって、
人生どうなるかわからない、
自分は失敗するかもしれない、
ひどい目に遭うかもしれないという、
何が原因なんだかは知りませんが、
確認の手段がどれほど完璧であり、
自分がどれほど精度の高い用心を重ねて、
システムを構築したとしても、
無理なわけですよ。
安心するということができないわけですね。
安心するというのは、
安心させられるだけの根拠があればできることではないんです。
なぜならば、
無意識はコントロール外にあるから、
安心させられるだけの根拠によって安心できるのは、
あくまでも自分が意識できる意識の範疇までであって、
その外にある意識は、
この安心材料によって安心するかどうかは、
まさにそういうことですよね。
安心材料によって安心させるという、
このコントロールが及ばないのに、
なんでその根拠を集めたり、
仕組み化によって安心を得ることができるのか、
安心できないものを自分の意識や体に抱え込んでいるのに、
最近私、千葉雅也さんの本をよく読んでいるんですけど、
千葉雅也さんが、
そもそも自分という人体の中には他者が住んでいる。
例えば細菌が住んでいるじゃないですか。
鼻水菌とかも住んでいるじゃないですか。
他者が住んでいるのに、
なぜ自分が自分というものを全域コントロールできると思うのか、
というようなお話を書いてくださっているんだけど、
そういうことです。
自分の中には意識できない部分、コントロールできない部分が
広大にあるわけですよね。
そこに強烈な不安というものを住み込ませてしまったら、
これが随時登場する。
これは私たちが人生はうまくいっているとか、
一生困らないだけのお金があるとか、
そういう条件をいくら提示しても無駄なんですよね。
パワードヒューズがそのことをよく教えてくれてますよね。
彼は彼だったと思うんだけれども、
名前間違っているかもしれないので、私こういうことに不安はもう覚えなくなった。
適当くっちゃべってますが、
要するに全米のお金持ちがそういう映画も見ましたけどね、
彼は不安を抱えてしまってるんですよね。
あれはお母さんの養育歴のせいだということに
映画ではなってましたけどね。
なんとか菌とか、なんとか菌とか、なんとか菌とかいうのがあるから、
30:01
体をきれいに洗わなきゃって言いながらきれいに洗ってたんで、
彼はそれに捕らわれてしまったわけですよね。
で、ホテルの一棟を全部自分のものにして、
この最上階に行って、
限定的に殺菌消毒された空間でないと不安だと。
しかも彼は今どこに自分がいるかを人に知らせるのも不安だと。
まあお金持ちですからね。
だからそういう不安が無意識の方から、
まあ意識もさせられてると思うんですけど、
ホテルの一棟借りようとして、
殺菌消毒が完璧であろうと、
誰も自分の居場所について知らなくても、
なお不安は消えないわけですよ。
普通だったらそこまで現実の根拠を徹底させれば、
不安は消えていいはずなんだけど、
と思われそうなもんなんですけど、
意識の外にある不安は消しようがないわけですよね。
で、じゃあどうしたらいいんですかっていうような話に、
だから専門家に相談する必要がありますよ、
というのが一つなんですよ。
一つなんですけど、専門家に相談するのが、
そもそも怖いですよね、こうなってくると。
で、ここでですね、私は現状、
私が考えるところの、
まずこれを言って考えるしかないなってものが、
万有って言葉になっちゃうんですよね。
違う発想の方がいいのかもしれないんだけど、
私自身がこれまでに取れてきた一つの方法は、
万有に近いんですよね、感覚は。
万てや万の万、勇気の有ですね。
勇気なんだけど、単なる勇気ではないですよ。
もう合理的でないんで。
穴真ん中が不合理になっているときには、
やっぱり不合理な勇気がいるなって感じがするんですよね。
先日、倉田の圭蔵さんとグッドバイブスファクトリーのためのTV収録で、
このような話が、
この話じゃないんだけど、このような話が出た。
彼はベッドっていう表現を取ったんですけど、
賭け、ギャンブルってことなんですよ。
僕はやっぱりね、そういうことだと思うんですよ。
1回閉じまりのために戻るのはいいですよ、1回は。
うっかりするってことはあるし、記憶にないんだから。
でも2回目ってことになったときに、
万有を振るっていくんですよ。
他閉まってない可能性があろうとなかろうと、
0.0001%閉まってなくても、
100%ってことはこの世にはないんだ。
なぜなら私たちの知覚は100%の現実と一致している保証は
一切できないように作られているので、
しょうがないんですよね。
記憶はましてあやふやなんでね。
だけれども2度目戻っちゃいけないって私は思うんですよね。
記憶の中でも確実だということになったら、
もうあとはこの世に置かれるとはないと思って、
家から離れるしかないんですよ。
この家から離れるは、
余計なことを追加します。
多分母親から離れるという意味だと僕は思うんだけど、
とにかく家から離れるしかないと思うんですね。
この家から離れるときに、
33:01
勇気がいるんですよ。
この人の真理に照らし合わせればそうなるはず。
万有がいるんですよ。
でもこれは賭けなんですよ。
賭けるしかないと。
僕らは賭けをしてるんですよ。
この種の話をするときの人の気持ちは、
100%を求めているってことなんですね。
それが病理だと。
病理と言ったら言い過ぎかもしれませんが、
でもそれが心のややこしさを生み出したんですよ。
100%はないから。
我々は今までずっと人生は賭けの連続で生きてきているのに、
ここは100%が欲しいんだって言っても無駄なんですね。
100%はないんです。
そして0.0001%の方に賭けない方がいいわけですよ。
一体9999なら、
9999の方に賭けるしかないじゃないですか。
ものすごい小さい方に賭けてもいいんだけど、
大体ものすごい小さい方に賭けるほどのものは、
そっちにはないんですよね。
でもここは賭けなんで。
結局は自分で選ぶしかない。
ここがよく依存症等で言われているポイントだと私は思うんですね。
どんな依存症の本を読んでもこれ出てくるなって感じがするんですよ。
飲むか飲まないかは最後は自分で決めるしかないっていうそれですね。
でも人はそうは考えないんですよね。
つまりそれは
飲んだ方が人生いいんじゃないかってどっかで思うからなんですよ。
だって飲まなくったって
あやじにする人いるじゃんとか言うのは
まさに賭けの話をしているわけですよね。
匂いによってはですけれども。
何でもそうです。これは。
健康に良いものでも悪いものでも何でもそうですよね。
全ては賭けの要素ってものが消えない。
それを消してくれっていうのが
よくカウンセリングに持ち込まれている主題だなって私はよく思うんです。
倉園さんのお話を見ていても
相談される方と倉園さんのお話を見ていても
そうだなって思うんですよね。
100%の保証が欲しいですっていう風に言い方によっては
そしてどこにもそれがないから発泡ふさがりです
っていう話が展開されているわけです。
当然なんですよ。
この質問をしていたらバカだと思われるかもしれません。
でも質問をするという風に賭けた方がいいって話にしかならないわけですよ。
だけど質問してバカだと思われたら
責任取ってくれるんですかっていう問いになっちゃったら
これは結局100%はどっちにあるのかって話になってしまってるじゃないですか。
どちらが正解なのかって話じゃないですか。
でも誰もバカにしませんよと言っても
でもする人もいるじゃないですかって話するでしょ。
これは確率の問題を話しているわけですよね。
でももっと言うと確率だけではないですよ。
賭けはいつもそうだけど
賭けた方から何が得られるか
そして賭けなかったら何を失うかっていう話が
ここに絡んでいるわけですね。
36:00
確率だけの話をしているわけじゃない。
だからどんなに小さい可能性でも小さい可能性の方に賭けたいんだ。
なぜならそっちの方が絶対安全だからっていうならば
しょうがないんですよ。
絶対安全をものすごい低いベッドの方で
得られるものはすごい少ない
起こる確率も全然低いのに
そっちを選んじゃうというのはしょうがないんですね。
つまり2度目に戻っても得るもの何もないです
っていう話になるんだけれども
でも戻りたいんですっていう
そこにある小さな報酬
つまり確実に閉まっているであろうと
もう1回確認して安心したいというその報酬を得るために
ものすごい確率の低い方に賭けてしまう
いうことは起こるわけですよね。
これは保険と近い話なんで
いわゆるものすごい低い確率が
外れた方がいいって話なんですよね。
ここが空いてるかもしれない確率、1億分の1
でもそれに欠けてるわけですよね、ある程度。
空いてないことが100%であれば
戻って確認するっていう作業そのものは存在しないので
戻って確認するということは
空いてる可能性を意識してるわけですよね。
これ外れた方がいい可能性ってやつですね。
保険業界でこの話出てきます。
外れた方がいい可能性ってやつですね。
どこかで誰かが私の悪口を言ってるかもしれないとかですよ。
どこかで誰かが私のことをバカだと思ってるかもしれないとかですよ。
あるいは私が書いた本の中に
重大な事実誤認があるかもしれない。
これは全て手を洗うのがやめられないの話に
つながっていくと思うんですよね。
手に菌がついていてそれで食べて
そして食中毒を起こし
そして入院し、そしてっていうやつです。
ゼロじゃないっていう話になるじゃないですか。
このゼロじゃないという確率に
脅かされたくなかったら
どこかで万有を振るしかない。
万有を振るというのはつまり
1億分の9999万9999の可能性の方にかけるという
全然野蛮な勇気じゃないんだけど
しょうがないんですよね。
本人は深刻なんですよ。
どっちにかけてもひどい目には合いませんという
これにかけるしかないんですよ。
あとはそこを自分が選べるかどうかにかかっていると。
私でいうと
自分が苦手な話だとこれはすぐピンときます。
例えば私は静電気が非常に苦手です。
これはどういうことかというと
起きる確率と起きない確率っていうのもあるんだけど
それよりは静電気でビリッとなったら
自分がどうかなっちゃうんじゃないかという確率
これはおそらくゼロに限りなく近いんだけれども
私はそれを信じ切ることができないために
結構かなけのものに手を振れるのが嫌なんですよ、この季節は。
万有振るしかないんですよ。
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現にビリッとくることもあるんですよ。
だけどビリッときたかために
そんなの当たり前じゃんって笑われると思うんですけど
これを笑うということは
どこかで誰かが自分の悪口を言っているということを恐れるのを
恐れるが故に情報発信できないとかを笑うことはできないと
私は思うんですね。
ほぼ同率だと思いますし
多分それは何か言われることによって
こういうことが起こって、ああいうことが起こって、そういうことが起こってってことは
かつて一度もないか
何十年も生きていてかつて一度しかないか
っていう程度の話だと思うんですよね。
多分そっちに欠けるメリットっていうのは
本人もないと思っているんだけれども
でも欠けられずに安全牌の方
安全柵の方を取りたくなる。
そしてこの安全柵というのはつまり
閉まっている塔をもう一回見に行くというような安全柵っていう話なんですよ。
いっぱいあります。この種のことはいっぱいあると思います。
何度も言いますけれども
ポイントは二度目に戻らないってことですね。
一回戻っちゃうのはしょうがない。
でも二度目に戻らない。二度目に戻りそうになったら
万有を振る。99.99%の方にかける。
難しい話では本当はないんですよ。
ここでその目を積んでしまうっていうような話ですね。
ここで積んでしまわないと
二度目に戻ってしまったら
かなりの部分、自分というものを
不自由にしても私はいいんだっていう
宣言に近いことになってしまうと思うので
そのリスクは逆にでかいって思いますよね。
それぐらいだったらピッキングに合う方が
マシだっていうぐらい私の感じでは
その天秤は釣り合ってない感じがします。
二度目に戻ってしまうという選択を取るということは
かなりその後の自分の人生に
いろいろな不都合を
結局その不都合も何とでもなる
本当は不都合ではあるんですけれどもね。
でもそこまで行ってしまうと非常に難しい。
だからここまで行ってしまったら
もう一つのポイント。
専門家に相談するという選択肢を
十二分に検討する価値が出ます。
つまり二度目に戻ってしまうという自分が
押し留められなくなったらですよね。
こういう基準がないと
私たちは結局どういう時に心の専門家的なものに
頼ればいいのかが分からなくなってしまうので
こういう基準というのはそれなりに意味があるんじゃないかとは思うんですよ。