7月7日、七夕
おはようございます、グッドモーニングボイスです。7月7日、七夕ですね。8時になります。
七夕は、私にとっては一つの記念日で、のきばですからね、アカウント名が。
七夕の歌を歌っていただければ、のきば出てくると思いますね。
しかも今年は、あ、今月は、私の誕生月でもあって、7月というのは、自分にとっては一つの、なんていうんですかね、勝手に自分が内心祝う月なんですね。
7月は良い月です。何が起ころうと良いということに決めていて、なんかですね、これは全然全くどうでもいい話なんですけれども、
グッドワイブス的ってこういうふうに機能することが多いなと思うんですよね。
全部の月が7月的に私が考えられれば、私は多分もっとグッドワイブス的になれるんだろうなっていう感じがします。
それが、なんていうのかな、これを、よく倉園さんがおっしゃるお話を使うと、ポジティブシンキングを使わずにこれができるようになればいいわけなんですよ。
今日はちょっとそういう話をしようかなと思いつつ、ちょっとその前にいつも通りCM的に告知させていただきたいんですが、
告知かな、これはでも、スレッツというのを使い始めてみました。
いろいろ今、Twitterが話題になっているようなんだけど、その対比先としてなのか分かりませんが、結構ですね、懐かしい気持ちになるんですよね、スレッツやると。
初期の頃のTwitterってこんな感じの人たちとこんな感じの風景を見てたなっていうのが私の場合なんですが、見えるんですよ。
でもこれはみんなに起こる現象なんじゃないかな、特にライフハック好きな方は多分この現象をスレッツで見ることが、
それを見たいかどうかはまた別としてね、見ることはできるんじゃないかと。
私はそれを見に行ったとか懐かしくて素晴らしいと思ったというのではないんだけど、懐かしい雰囲気がありました。
初期の頃のTwitterの雰囲気ってあんな感じだったなーっていうのを思い出すような光景でしたね。
で、まあTwitterをやる代わりにスレッツやるようになりましたよっていう話ではなくて、いじってみてるだけですという感じで、
今は僕はもうこういうあんまりバリバリにこういうのをやってるとはとても言えないので、
そもそもスレッツを始めたのは報道ステーションのニュースでスレッツを知ったからというか、
もう普通ありえないじゃないですか。IT界隈に詳しい人ならばこの順番って明らかにありえないと思うんですよ。
大手マスメディアに新しいITのトレンドを教えてもらってそっちに行くっていうのはほぼ真逆だと思うんですけど、
まさにそういう流れで自分がやって、これはやっぱり華麗による効果なのか何なのかは分かりませんが、そういうふうに思った。
華麗ではないんでしょうね。これは若い人と知ってる人はあんま関係ないんですよね。
若い人でもこの流れしか知らないっていう人もいれば、
割と6、70代でもバリバリITからITへっていう人がいらっしゃるわけだから、
私の中での現象でスレッツやってますという感じですね。いじってますという感じです。
ちゃんと告知をすると、17日の海の日に、これ今ちょっと募集状況分かりませんが、
海の日にプラゾの圭同さんとリアルで久しぶりにやります。
これリアルでしか今のところやる予定ないので、ぜひこの日直接お昼なんですが、
お昼頃1時からかな、1時半からだったかもしれないですけど、
その辺から上板橋なんで、ぜひ飲食代はそこで払うとしても、
その他はもうほとんど2,000ぐらいかな、だったと思うので、参加費用は来ていただけますとありがたいです。
このトークライブはトークライブというのかな、ぶっちゃけ相談なので、
相談を当日受けてからそれに抗うするという内容になっております。
だから事前にこういう内容を話しますよっていう告知はできないんですね。
グッドファイブスなわけだから、そこからうんとかけ離れた、
例えばプラゾのさんと私でノーションの話をしますとかには絶対ならないと思うんですけど、
そもそも私ノーションの話はもはやできませんから、そういうことにはなりませんが、
Jさんとやってるわけじゃないですかね。
一般的な話、つまり皆さんの日常におけるお悩みと言いますか、何とかしたいと言いますか、
あるいはこう、私特にこう最近意識しているのがですね、
対人支援の難しさみたいなのをここに持ち込んでいただくのはありだと思うんですよ。
必ずしもカウンセラーさん、カウンセラーさん大歓迎なんですが、
カウンセラーさんでなくなって、それこそ高校で先生やってますとか、
もっとね、こういう方もいらっしゃるんです。
公務員で福祉課にいますと。福祉課にいるからと言って、
人生相談を受けるというわけじゃないんだけど、結局そういう話は持ち込まれてくると言ったときに、
どういうふうに対応すればいいのかって質問ではなくてですね、
その時に気持ちが落ち込んでいくと、話聞いているうちに一緒に落ち込んでしまう。
これも対人支援あるあるで、そういうことをされる方はですね、
知っておいた方がいいことってあるわけですよ。
カウンセラーの抑鬱ってのも、教科書に大項目で載ってるわけなんですが、
そういうのを何らかの形で意識しておかないと、起こってくる現象ってあるわけですよ。
対人支援職ならではの、どんな職業でもそうじゃないですか。
一番分かりやすいのは野球のピッチャー。野球のピッチャーやってない限り、
肘がどうどこうので、そこを手術しないとなりませんなんてことは起きないじゃないですか。
私の仕事じゃ絶対そんなことはありえない。
だけど私の父は、下手とよく似た職業病があって、
喉に悩まされるんですよ。ポリープとか防産よくできているんですね。
それにちゃんとまつわる対応もあるんですよ。
だから職業病みたいなものなんで、そういう対人支援あるあるみたいな話をですね、
持ち込んでいただくのは結構いいんじゃないかと思いますね。
これはあくまで一つの案であって、何であっても構わないですけど、
家族の悩みとか、子供が学校に行きたがらなくなりましたみたいなそういうのとか、
そういうことですね。
すいません。
ちょっとこれ不思議ですね。
喉がどうのこうのはないはずなんですよね。
ちょっと先日ね、めちゃくちゃ長くなっちゃったじゃないですか、前回のやつが。
これでちょっと気がついたのは、
この分割って悪くはないなということに気づいたので、
今ちょっと止めて喉を潤してみたりしたんですけどね。
喉の心配よりも今僕が心配しているのはここの気温なんですよ。
頭がホワイトアウトしそうな勢いを感じ始めているという。
これもうちょっと経ったら夏休み付近になってくると気候変わるんだなっていうのを感じますよね。
このままでは、ここでは絶対このまま撮ることはできなくなるっていうのが、
足元から湯気が上がってるんじゃないかみたいになってきたらダメなんですよね。
気がつくとしゃがみ込むみたいなことが起こるんですよね、私は。
熱中症的なやつで。
だからそうなるともう収録どころではなくなるので、
なんか違うところでやるというのを考えないといけないなと。
今のところはまだギリギリ。
今日明日あたりが多分限界点かなっていう感じがしてます。
午前中はね、お昼は論外なんでここは。
本当にもう日によっては38℃ぐらいまでは行くんじゃないかって気がします。
告知的な話は以上で、海の日にやりますからぜひ遊びに来てくださいということですね。
スレッツをやってますってのは、
僕本当にスレッツやり続けるか分からないんで、
見に来てもらったらいいかもねみたいな感じですね。
そんなところです。
今日はですね、
脳内シミュレーションの現象
ここやっぱり不思議な現象、
これはそういう意識を持っちゃうからそうなのか分からないですけど、
一つの現象として、
現象としてというのはつまり多くの方に寄せられた話に、
脳内シュミレーションというキーワードが複数の方からババッと出たんですね。
この脳内シュミレーションというのは昔ね、
昔ではないんだけど、
Good Vibes Factoryがまだ始まって間もない頃にある方に寄せていただいて、
結局私はその方とのやり取りではうまい説明できてないなというニュアンスというか、
感触を残して、
これ自体がイリュージョンだと思うんだけど、
感触を残して終わったっていうやり取りがあったんですよ。
だからあんまりこれにいい思い出とかはないんですね。
もともと脳内シュミレーションというのはいいことだとは思えないんですよ、私には。
で、これ完全にイリュージョン製造中ってことに、
僕の定義ではなるんで、
いい話ではないんだけど、
これをどうすればやめられるでしょうって話と、
これはそもそもどういう意味で自分を苦しめたりするんだろうとか、
やめられないんだろうとか、
そういう話を複数の方から今週立て続けに、
これが起こったことなんですよ。
ちょっとしたユングでいうセレンディピティみたいな感じなんだけど、
いやいつも起きてるんだけど、
たまたま僕がそれに注目しただけなのかなみたいに考えたりもしつつ、
でもなんかこういうことがやっぱりこの種のことをやってると起こるんだよなというのもあって、
あるような気もするんですね。
で、とりあえずそれはいいとして、
だから今日これを早速取り上げると。
早速なんですよ。
本当はですね、もっとしっかりこれについて考えて、
4週間後ぐらいに取り上げてしゃべるといいのかもしれないんだけど、
このポッドキャストはそういうところじゃないんですよね、僕の中で。
生に柄なものがそのまま出ていくところであって、
話をまとめて報告するみたいなところとは違う、
本格のとは違うということですね。
本格的にはこういう書き方はできないんですが、
ブログではないので。
ブログは若干この種のことができますけど、
それでも文章にするとなるとやっぱりこういうやり方はできないんですよね、僕には。
ですが、ポッドキャストならやれるんで、
だからこれはポッドキャストならではなんですが、
要は生に柄なんですね。
あんまりこうだというのはないんですよ。
こうかな、ああかなみたいなのがそのまま流れると。
ちなみにある分析家の方、ちょっと今名前で忘れちゃってるんですけど、
フロイトの論文ってそうなんだっていうふうに書いているのを読んで、
すごい面白いと思うことがあったんですよ。
以来フロイトの論文を読むのがすごい面白くなったんですよ。
彼はこうだ、ああだっていうのがはっきりわかって論文を書いているというよりは、
こうなんじゃないかな、こうも考えられるなっていうのをそのまま論文にしてるっていう話を読んだことがあって、
そういうふうに論文って書けないじゃないですか。
今のときなかなかそうは論文で書けないんですよね。
試行錯誤の後が論文から滲み出てくる論文っていうのが、
しかもあんな対価でやってるというのは実に面白いと思うんですよね、私は。
どっちにしても論文って試行錯誤の産物だと思うので、
そこに何か法則みたいに、特に心の問題を扱っているようなテーマで、
法則が出てくるはずが本当はないと思うんですよ。
物理法則ですら微妙な線って出てくるのにもかかわらず、
心の法則なんておそらくイリュージョンだと思うので、
その人の仮説をやっぱり出している感じっていうのが、
ある程ある意味いいんじゃないかなと。
だからこうといって僕のこのポッドキャストみたいなレベルで
ダラダラ書かれても困ると思うので、
そこがちょっとフロイドが書いてるから面白い面があるんですけど、
まあまあいいや。
それでですね、脳内シミュレーション、
まずそれが僕がそもそもいいもんだと思ってないというのはですね、
銃を買う理由
暴力から逃れるための十五章という本、
この番組でもしばしば振り上げているギャビンベッカーの本に
あった一節が非常に色濃く残っているんですけど、
ある中年の多分いかにもアメリカンなおじさん夫婦がですね、
なんかちょっと太っている感じの方だったんだけど、
この間銃を買ったんだみたいな話をしてたんですって、
その銃を買ったというのは要するに、
この辺最近強盗事件が多いとアメリカですからね、
やばいんですよね。
その銃を持って乗り込んでくるみたいな。
それだから身を守るためにやっぱり銃ぐらいは必要だということで
購入したという話を聞いていたベッカーがですね、
考えたのが、つまりこの夫婦は強盗から身を守るために、
そういう話をしてますよね。
その共和党の話とかで買うわけなんですよ。
あの全米ライフル協会みたいなね。
で買うんだけど、この人が強盗を打つ確率に比べれば、
この夫婦がお互いに打ち合う可能性の方が、
統計上は15倍ぐらいだったかな。
ちょっと正確な数字を覚えてないんですけど、
圧倒的に統計的に言えば、
この夫婦はお互いを打ち殺し合う可能性の方がこれで高くなったと。
この担々とした書き方がですね、
いかにもなんですけれども、
そういうことを書いていてだろうなとやっぱ思うんですね。
これが人間の脳内シミュレーションの困ったところだと思うんですよ。
まずその強盗が来る脳内シミュレーションを間違いなくしてるわけですよね。
それはまあメディアがそういうの放映するからするんですが、
だから自分が打ったというシーンも脳内で放映してしまうんですよ。
でも夫婦がお互いに打ち合うというのはシミュレーションされてないんですよね。
脳内シミュレーションの話をしているときって、
多くの人がですね、
このシミュレーションはイリュージョンじゃありませんって本音ではどこかで思っている。
あるいはそうフラズノさんなりに言いたいっていう人もいらっしゃるぐらいだと思うんですね。
これは現実を予測してるんであって、
イリュージョンじゃないんだよ。
これは起こりうる現実なんだよ。
現に起こりうる可能性が、
それは100じゃないかもしれないけれども、未来のものだから。
99.8%ぐらいだったらもうそれは100とみなしていいんじゃないんですかっていう議論が、
実は議論というのかな、
そういうことを言いたいという気持ちがあって脳内シミュレーションをするんですね。
でもこのベッカーが書いてたことは、
いかにも本当で、
その脳内シミュレーションが当たる確率そのものよりもですね、
そこでシミュレートされていない現実が起こる可能性と比較したとき、
その脳内シミュレーションをする意味の薄さですよね。
ほとんど全くないっていう問題の方は無視されてしまうんですよ。
なぜならばそれについて考えるっていう意欲がないから。
つまり脳内シミュレーションの非常に厄介なポイントに、
そのシミュレーションをしたいという気持ち、
そのシミュレーションをしたいという意欲がですね、
そのシミュレーションを支えているっていう部分が盲点になってしまうんですね、本人たちにとっては。
そのおじいさんは強盗を撃退するシミュレーションをしたいという気持ちがないと、
そのシミュレーションは行われないんですよ。
そのシミュレーションをすることの意義とか予測精度っていうものが、
そのシミュレーションをする動機にはなってないんですね。
我々はそれをその予測をすることが役に立つからするんだと思っているかもしれないけど、
そうではないんですよ。
私たちは願望を脳内に作り出す傾向の方がはるかに大きいんで、
自分がやりたいと思うことができればですね、
まあでもこれはやりたいと思うことなんですよね、結局ね。
やりたいと思うこと。
ないしはですね、非常に嫌な目にあったから、
この嫌な目を何とかしたいと思っていること、結局やりたいと思うことなんだけど、
これを脳内で作り出すんですね。
だから予測精度はっきり言って高くないはずなんですね。
でも仮に高いとしても、そんなことは問題ではないんですよ。
やっぱりね。
このセリフを言うとね、この話聞いてもらえなくなるからやめておこう。
いいです。この話ね。
予測精度が高かったら役に立つことにしましょう。
予測精度が極めて高いかもしれないということにしましょう。
それでも同じだから。
つまり私が言いたいのは、問題は予測精度でも何でもないということです。
結局そういう言い方になっちゃってるな。
これは脳内で放映してるのかもしれないんだけど、
本当はどうしてるのかわからないですよね、私には。
でも脳内シミュレーションだとしておきましょう。
でもこれはさっき言ったように、心が意欲的に作り出しているものなんですよ。
決していわゆるシミュレーションではないんですよ。
これから起こりそうなことを予測したいという気持ちがこれを作り出しているのではなくて、
これから私がやりたい、
今後私がこういう目に合うのを避けるためにこういうことをやりたいという願望なんですよね。
願望がそこに映し出されているのを、
それをシミュレーションというふうに位置付けようとしているんですね。
それが2つの意味をはっきりと持っているということです。
2つはつまり、実はこれは願望を脳内で映像して放映しているだけのこと。
シミュレーションをしたいという気持ちは最初からあまりなくて、
にもかかわらずこれをシミュレーションなんだよと言いたいという気持ちがそこにはあるんですね。
そのことをベッカーはもっと気の利いた表現で書いていたということですよ。
この人は、おじさんは要は強盗を打ち殺したいんですよ。
そりゃあそうです。アメリカに住めばよくわかると思います。
私だってそういう気持ちになりそうになりました。
銃なんてうてっこない人間なんだけどね。扱ったこともないんだから。
アメリカってのはやっぱりね、こういうのに対する脅威に晒されている感が日本の6倍から1000倍ぐらいは高いから、
そういう気持ちになりますよね。特に夜は。
しかもあそういう番組見ちゃうと。だから僕見ないようにしてましたもん。
英語よくわからんということもありましたけど、暇もなかったしね。
でもまあ見ないようにしてました。
奥さんがいればですね、お互いを打ち合う可能性の方が高いというのは、
でもこっちの方の脳内シミュレーションはしないわけですよ。
そんな光景を想像するのは嫌だから。
つまり想像したくない光景はシミュレーションしないというのが、
いかにもこれがシミュレーションじゃないということをよく物語ってると思うんですよね。
ベッカーはさらにこれに付け加えてですね、
このおじさん、さっき小太り体型のアメリカって言いましたよね。
脳内シミュレーションと分裂
イメージできると思うんですけど、もし強盗に殺されるのが怖いならば、
まず病院に行ってダイエットをするべきだと。
心筋梗塞で亡くなる可能性の方が統計上ははるかに高い。
これもこの人がやろうと思えば簡単にできるシミュレーションですよね。
こっちは。しないんですよ。したくないことはね。
人はしたくないことは脳内シミュレーションなんかしないんですよ。
よくよく僕らが意識しておくべき話だと思うんですね。
脳内シミュレーションをしているってことは、そのシミュレーションをしたいんですよ。
で、この話まで来た時にもう一つの強い意義が入ってくるんですね。
それは私は脳内シミュレーションをやめたいんですって話なんですよ。
やめたいのにやめられないんだと。つまり上司に叱られたと。
これが一番多いですね。
また夫婦喧嘩みたいなですね。
奥さんがきついことを言っている。
その対応に対してあの時こう言われた。
その時ああ言えばよかった。
そういうシミュレーションを、これシミュレーションなのか公開なのかって思うんだけど、
したいわけではないんだっていう意義ですね。
ここに僕は分裂があると思うんですね。
いわゆる分裂症みたいな話ではないですよ。
事故分裂ですね。
つまりやめたいと自分が言っているのは本当なんですよ。
辛いから。脳内シミュレーションって辛いんですよ。
これから例えば奥さんと喧嘩したから和解するシミュレーションとかするじゃないですか。
ああ言われたらじゃあこう言って仲良くしようみたいな。
私も昔しょっちゅうやってたんですよ。このシミュレーションをね。
これも願望なんだけど、本人はやめたいと思っているのも完全に嘘ではないんですね。
グッドバイブスの話なんかも聞いていて、
イリュージョンを手放しましょうとか聞けば、
そうか脳内シミュレーションもやめようと思うかもしれないけど、
やまないと。やまないわけじゃないんだけど、
やまないっていう風に本人はお考えになる。
つまりやめようとはしている。
でもどうしても脳内に脳内だと思っていらっしゃるんですけどね。
上司の顔が浮かんできて、
あの時こう言われた。つらかったというのを忘れればいいのに忘れられないとか、
こういうのが、これちょっと脳内シミュレーションとは違うけど、
だから次に上司に会った時は、
こう言われた時にはこう言えばいいかもしれない。
でも実際にはどう言われるかわからないというところで、
延々と悩むっていう話ですね。
それは時間ももったいないし、やめた方がいいと言われればそうかもしれないから、
やめようと思って、
例えばおいしいものでも食べるんだけど、
ふとした瞬間に、これよく出てきますよね。
ふとした瞬間にまた思い出してしまう。
という自己嫌悪に陥るみたいな、
もうなんかすべてがぐちゃぐちゃしていくんですけど、
やめようと一方で思っている。
でも実際自分はそれをやってしまうというのが、
僕のさっき言った自己矛盾というか自己分裂なんですよ。
脳内シミュレーションの不合理性
で、私はそれは一方でどこかでやりたいと思っている。
これはですね、ある種の恐怖症と似ているんですね。
何て言うんだろうな、眼科系みたいなものなんですよね。
何がいいですかね。
私もこれ不思議だったんですけど、
僕の場合一番考えつくのがやっぱり静電気なんですよ。
静電気って事前に来るかもしれないなって思って触っても意味ないんですよ。
これ脳内シミュレーションのすごく短いスパンパンなんだけど、
金物に触ろうとした時の指先から来るあの感じを
事前に予期しておいたら覚悟ができるような気がするみたいな、
そういう事前にシミュレーションしてしまうっていうのは、
こういう状態を指すんだと思うんですよね。
触る前にしっかりとシミュレーションして、触ってビリッと来たみたいな。
私これがいつも不快で、来るのが不快なんだけど、
そもそも何のために俺これやってんだと思ってたわけですよ。
だって来る、来る、来るって思って、あ、来たみたいなのだって、
これ来るって思う分無駄じゃんと。
思っても思わなくても結果変わらないわけです。
そこがね、実は思ってる方が来ないんじゃないかって思い始めるという病気もあるわけですよね、神経症には。
これはもうオカルトの完全に世界ですよね。
静電気を予測していれば来なくなる静電気とかってないわけだから、
これは完全にオカルトなんだけど、僕はこの心理から完全には逃れられてないってことですよね。
非常に心の中には不合理な世界が眠ってるよっていうのを表してますね、この出来事。
それと同じようなことをこれから話す人が厳しめの人だってことになると、
こう言われるかもしれない、ああ言われるかもしれないという心の覚悟を持っておいてから上司に会いに行って提案をしてみるっていう風にしないと怖すぎてやれない。
でもこれっておかしな話で、何にも覚悟を決めず無防備に行って怒られても、
覚悟をしっかり決めて心をがっちり固めた気持ちになってから怒られても、
多分怒られる辛さ、少なくとも怒られるということはどっちにしても少しも変わらないんですよ。
そういう脳内シミュレーションに期待されている真よけの札的なニュアンスもちょっとここにあるんですよね、実際には。
ちょっとオカルト、オカルトと言っては札に申し訳ないかもしれないけど、
多分この札を誤証大臣に携えて言ってもですね、警察の人が昔言ってたんですけど、
フロントグラスに交通安全のお守り貼ってちゃダメですと。
脳内シミュレーションと願望
その分視界が狭くなってるから、それ取り外した方が交通安全ですって言ってたのと同じようなものを僕はこの脳内シミュレーションのあるものには感じるんですね。
この真よけ的な効果という意味ではほぼゼロだろうとは思います。
なぜなら自分の脳内でやってる劇場が世の中の実情に影響を及ぼしてはまずいとむしろ思うんでね。
話を少しずつ戻していきますが、戻していくというか進めていきますが、
このやめようと思ってるのにやっちゃうという事故矛盾の中で、まずそういう心理現象は必ず、
銃を買ったおじさんがそうであって、やりたいと思っている部分があるっていう自覚が必要です。
そのためにはですね、この脳内シミュレーションという言い方を本当はやめる必要があってですね、
これは心がやってるんだ、脳がやってるかのような表現をやっぱり避けた方がいいと僕は思うんですね。
脳を使ってやることなんだけど間違いなく。これ脳がないとできない。脳を使ってやることなんですが、
脳はあくまでもメディアであって脳が放映してるかもしれないけれども、多分僕はそんなことはないと思ってるんですけど、
でもまあそうだとしてもですね、さっきも言ったようにここには背景に意欲があるんですよ、願望があるんですね。
何らかの形でこの脳内シミュレーションの中には見たい光景というものがその中に含まれています。
そして大事なのはですね、見たい光景が含まれているからその上映をやってしまうということはですね、
これは現実と似ているんだよって心は信じようと頑張ってるんですよ。
さっきも予測精度がテーマになっちゃうと言ったじゃないですか。
予測精度は本当はテーマじゃないのに予測精度がテーマになってしまっていたのは、
現実とこれが似ているかどうかは本当は大事なポイントじゃないの。
現実と似ているということに心はこだわってるんですね。
これはリアルだと言い聞かせようと頑張ってるんですよ。
リアルだと簡単に鵜呑みにしてしまっていればですね、
もうこのことに疑いすら抱かないんだけど、
強盗に襲われたとき俺が銃で撃つっていう脳内シミュレーションをしちゃってる人はリアルだと思ってるわけじゃないですか。
リアルだと思ってるから銃買うわけですから。
高いわけだから銃は結構ですね。
大前をはたいて決意して買うわけですから、
それなりにリアルだと思ってるわけですよ。
リアルだと思っているというのは、
空想が現実と混ざってきているっていう話になってるわけじゃないですか。
現実と空想の区別がつかなくなっているはずなんですよ。
ここをきっちり区別していきましょうねということを、
僕はグッドバイブスのプラズモケイゾーさんが、
イリュージョンという表現を使って、
途中から心象という言葉に切り替えられましたけれども、
を使って、切り替えたわけじゃないのかもしれないけどね。
心象という言葉も出てきましたけど、
同じで、要は現実と空想を分けようという話をしている。
区別をちゃんとつけましょうという話なんですよ。
そうしないと、現実を見に行くなんてことは絶対できないとなりますよね。
空想を現実だと思い込んでいればですね、
空想だか現実だか分かんなくなるわけだから、
現実というものを見に行かなくなるはずなんです。
というか見に行く意欲を失っているはずなんですよ。
そういう時の人間というのは。
それが一番問題だって話をしているんですよ。
だから空想が現実にどれほど似ているかっていう話をここに持ち込むのは、
本当は話の本筋からずれちゃってるんですね。
話の筋は、現実というものを見に行きましょうと。
グッドファイブスリーに言うと、現実というものを愛しましょうって話なんですよ。
現実を愛しましょうっていうのは、
現実っていうのをもっと好きになろうっていうことを言ってるはずなんです。
この空想をやっていると必ず起きることは、
現実が嫌いになっていくはずなんですね。
というか、なっていくんですよ。
現実が嫌いになっていくメカニズムについては、
この番組でも何度かお話はしていて、
うまく話せていないかもしれないけどお話はしていて、
脳内シミュレーションという言葉に、
これは俗にそういう言葉でなんとなく伝わる造語ですよね。
どこで作られたのかわからないけど、脳内シミュレーションというのは造語だと思うんですよ。
実際には僕らが脳内シミュレーションと言ってやっていることは、
専門用語では万能空想という言葉に置き換えられているのはおかしいね。
もともとあった言葉ですね。
専門用語では万能空想と言うんですよ。
もともとそういう概念はあるってことですね。
で、万能空想をやっていると現実が嫌いになっていくんですよ。
これはですね。
すいません。
この番組でも何度も何度もお話している、
排出という行為がここにはつきものだからなんですね。
排出というのは、
さっきの上司とか、強盗とかでもいいですね。
嫌なことがやってくると思うとですね、
私たちの心は、それは嫌だよねと思うので、
それを外に出していくんですね。
排出という言葉は文字通りなんですよ。
排出なんです。
昔これをフロイトは排泄と呼んでたんですよ。
この辺に彼の理論が嫌われる部分があるんですね。
今時はもうちょっと受け入れやすい、
投影という言葉になってますよね。
排泄と呼んでたんですよ。
ストレスというものを受けたとき、
この話は散々してますけど、
赤ちゃんは排出するんですよ。
すいません。
どうもこれ来ますね。
もう一回ちょっと。
昨日、前回に引き続き3度目のつなぎになっているんだけど、
排出ですね。
これは実はですね、
万能空想、脳内シミュレーションにしておこう。
脳内シミュレーション、何で万能空想と言いたいかというと、
ここに万能感というものが絡んできてるからなんだけど、
さっき途中で言ったように、脳内シミュレーションというのは実は願望を反映してるんですね。
願望とは何かというと、
万能空想の並行、脳内シミュレーションも僕は同じだと思うんですけど、
一つこういうことを必ず覚えておいてほしいんですけど、
この番組ではしょっちゅう言ってることですけどね。
脳内シミュレーションは一見シミュレートしているつもりになってるかもしれないけど、
全然シミュレートになっていない大きな証拠の一つとして、
おそらく白黒思考というものがそこに反映されています。
敵味方に分かれてるんですよ。脳内シミュレーションの中では。
シミュレーションなどという表現をとっておきながら、
現実って敵味方に分かれているわけではないケースがほとんどなんですね。
なのに敵味方に分かれていて、敵をやっつけるという構造になっているはずなんですよ。
これはすごく原始的な心の働きがここにきちっと反映されてるから、
シミュレーションであるならば、例えば天気のシミュレーションであったり、
いろんなシミュレーションがありますけど、そこはニュートラルですよね。
現実をなるべく動画撮影したようなもの。
よく今時ってSNSとかで現実を動画撮影してるじゃないですか。
普通に見ている現実の動画撮影って、ある意味非常に退屈なところがあると感じませんか。
空をただ映していたり、そこを走っている交差点をただ映している。
ああいうのをわざわざ脳内でシミュレートする人ってほとんどいないと思う。
非常にある意味平和な光景じゃないですか、そこは。
脳内シミュレーションというのは、さっきのアメリカンなおじさんが
強盗を打ち殺しているというシミュレートはしてないかもしれない。
強盗を撃退したというシミュレーションをしている時に
よく反映されているように、敵と味方がそこにいるんです。
二極化された世界がそこにあるはずなんですよ。
全部ではないかもしれないけど、今度思い起こしてほしいんですね。
脳内シミュレーションと敵味方の世界
自分が脳内シミュレーションをしている時、そこに敵がいないか。
そこに敵がいるということは、まさに万能空想をしたいという風に
その人は言っているようなものだと考えていいんですよ。
別にこれ、罪なことだとか悪いことだって言っているわけじゃないですよ。
これは人間の心というのは面白いことに、人間であれば
1億人がいる日本人のおそらく万能空想は
みんな同じような構造を持っているんですよね。
この辺が、僕が思うに精神分析のすごいところなんですよ。
一見みんなが考えていることはバラバラなようだけど、
そこにはきちっと、心とはどのように機能して、
どのように働くのかという、その働きの傾向というのか
法則みたいなものがちゃんと動いていて、
人が脳内シミュレーションと言った時に、
これ俗語だからみんなに伝わる言葉じゃないんですが、
言った時、あの上司にこう言われてさ、
あの時私はこういう気持ちになったんだけど、
これを言っておけばとか言ったり、
あるいはおととい旦那が帰ってくるのが遅かった時に、
私ちょっとこう機嫌が良くなかったからこう言っちゃったんだけど、
それに対してそこから口も聞いてくれない、
いくらなんでもあれはないんじゃないだろうか、
今度こういう風に言ってみたり、あるいはケーキでも買ってきたら
口聞いてくれるようになるかもしれないとか考えている時には、
必ず敵と味方がそこにいるんですよ。
脳内シミュレーションの限界
一見何の関係もなく、
相互に共通点がないようなやり取りにもかかわらず、
そこは非常に似た構造を持っていて、
この敵というようなもの、
自分にストレスを与えている状況という状況、
現実の状況、刺激、そういったものが、
ストレスという名で呼ばれるようなものに心の中でなるんだと、
これを外に出したいという気持ちが、
その万能空想を作り出していく、
脳内シミュレーションを始めさせる燃料になっているわけですね。
この心の中にあるこれを出さないと、
いつもの私の気分のいい私に戻ることができないから、
これを外に出したいと、
これを何とかする現実の対処のプロセスを知りたい。
これが私たちが脳を使って、
この心の中にあるモヤモヤとか、
ペンでよくモヤモヤと漫画家さんが描く、
頭の中とか心の中にモヤモヤって描く、
この心の中の辛さの現況みたいなものを取り除きたいという、
そのプロセスを脳内で考えるのが、
脳内シミュレーションだって思っていらっしゃるわけですよ。
だからこのモヤモヤを外に出す必要があるって考えていて、
その外に出すというのを現実にやるためにはどういうことをするんだろう。
本当にケーキを買ってくるのか、
上司に対してこのような証拠を突きつけるのか、
いろんなことを考えるんですけれども、
それを脳内シミュレーションと呼んでいるんですね。
でもその目的とそのプロセスの中で起きていることは、
人間はみんな同じように考える。
その目的は自分の心が以前のように平和な状態に戻るという、
事態を作り出すためのプロセスを頭に考えてほしい。
そしてそのプロセスがうまくいった暁には、
心の中のモヤモヤが切り離されて、
自分から外へ追い出すことができるというシミュレーションなんですね。
そして実際にはこれがほとんどの人にとっては、
うまくいかないことをよく知っているんですよ、僕らは。
特にこれを脳内シミュレーションだけをいくらいくら繰り返しても、
非常にうまくいきそうなシミュレーションだとしても、
100回やっても1000回やっても、
その現実がシミュレーションだけでは実現しないことを僕らよく知っている。
これを正気と言うんですよ。
あるいは二次過程とこれを言うんですよ。
神経症水準とこれを言うんですよ。
つまり精神病ではないですよと言うんですよ、これを。
よく僕らはこのことを知っているんですよ。
シミュレーションを何億回やろうと、
この心のモヤモヤは決して晴れない。
なぜならばモヤモヤの原因は現実にあって、
脳内シミュレーションと心の晴れなさ
そしてシミュレーションは現実ではないから。
シミュレーションがいくらうまくいったって、
心は決して晴れることはないということを知っているんですね。
知ってしまったんですよ。
ここに多分我々が苦しむ最大の原因があるんだと思うんですね。
実際にはシミュレーションじゃダメで、
現実を動かさなければいけない。
だけれどもシミュレーションというものは、
そうすると現実に近づければ近づけるほど、
うまくいきそうにない気がしてくるんですね。
うまくいかなかったことに関して考えているわけだから。
これがあれなんです。
いくら頑張って万能空想をやっても、
現実的な万能感は取り戻すことができないと、
知っている苦しみみたいな言い方をするんですよ。
これを繰り返し繰り返し、
空想をやって空想をやって空想をやっても、
決して心が晴れないことを知っているから私たちは、
例えばわざわざアルコールを飲むとか、
わざわざ頭を少し震わせる方向に、
打って出ることもあるわけじゃないですか。
その大変さを書いていたのがあの人ですよね。
アズマ・キデオさん。疾走日記で。
彼はアルコールを入れるという力を借りることによって、
自分の正気を保つ力を壊していきたいと考えたわけですね。
辛いから。
編集さんとかに厳しいことを言われたり、
現実というのはとにかく辛い。
何かもじゃもじゃが起こると。
多分彼は絵を描くことができるぐらいだから、
それに対していろんな空想をしたはずなんですよね。
女子高生に慰めてもらえる空想。
だけど、女子高生が慰めてくれる空想をしても、
気は晴れない。
編集さんに厳しいことを言われたというのを、
女子高生が慰めてくれても晴れないだろうから、
その空想したのでは晴れないわけですよ。
他人の脳内シミュレーションが効果をなさないのは、
外から見るとすぐ分かります。
自分はもっと現実的なことを考えていると思うかもしれないけど、
さっきも言った通り、空想と現実を分ける能力がある私たちの脳にとっては、
何の空想をしようと、心は晴れないわけです。
これはつまり、心は現実的であろうとしているという意味ですよね。
その心が現実的であろうとしている力というものを、
脳内シミュレーションというのは、
じわじわと壊していく力を持っているはずなんですよ。
だから、これをやってもいいことがあんまりないだろうなと思うんです。
排出と現実の関係
疾走日記はそのことをよく教えてくれるんですよ。
どうやっても心というものは、現実というものを捉えておこうとしていて、
それはいいことなんですよ。
つらくてもなんでもあってもですね。
つらいから現実というものを、
現実だと捉えることができなくなるような空想を、
どんどんどんどんたくましくしていっても、
やっぱりこれが空想であるということを、
僕らは忘れることができないから、
何かの力に今度は頼るしかなくなっていくというのは、
この方向性の先には望んだ答えはないということを信じるしかないんですよね。
それを教えてくれてるんですよ。
疾走日記のようなものが。
彼はお酒の力を借りて、
その空想と現実の区別をつけられないように自分に持っていってしまうんですよ。
最終的には彼が書いていたギャグなんだけど、
でも非常にこの通りだろうなと思ったのが、
あんなに大好きだった女子高生すら恐ろしいっていうところに行き着くんですよね。
これはお酒がそうしているという部分と、
さっき言った排出という問題がこの事態を引き起こしているんですけれども、
排出というのは何かというと、外に出すわけじゃないですか。
私たちは嫌な現実が起きたときに、
何とかしてそれを外に出したいわけですよね。
一番簡単にできるのが人のせいにするというやつなんですよ。
これも飲まないでやることなんだけど、
あの時私がこんな失敗をしたかもしれないと、
今日会社に遅刻していったかもしれないと、
でもそれは直前の日に上司が非常に理不尽な言いがかりをつけてきて、
あるいはその理性に行き過ぎた失跡をしてきたから、
夜眠れなくなって朝起きるのが遅くなったから遅刻したのであって、
原因はあの上司にあるんだから私にはないという空想をするんですね。
そういう空想をすることによって、
なるべく自分の気分が悪くなったという悪くなった点を
現実の方に押し出していこうと頑張るわけです。
で、上司が良くなかったから私は遅刻したんだから、
私は悪くないんだから、
もう少し平穏の気持ちで会社に行くことができるはずだと、
そういう風に空想することができるんだけど、
空想と現実は違いますよね。
このことを上司に納得してもらわないと現実で、
この空想は成就しないんですよ。
でもそういうことを恐らく上司は納得しないので、
行くと遅刻してまた怒られると。
そういうことになっているのが現実であって、
現実を嫌う脳内シミュレーション
つまりこれをやると何が起きていくかというと、
現実というものは悪いものだという空想を
現実の上に押し付けていくから、
押し付けていくというのか、
現実の上に塗っていくという感じなんですが、
塗っていくのでより一層現実が嫌なものに見えてくるんですね。
これが万能空想のある意味副作用なんですよ。
私という人間は悪くないという万能を維持するためには、
現実というものはその分悪かったという風に、
空想で塗っていかないわけにはいかなくなっていくんですね。
この話をしていくと、
でもそれは本当に上司が悪いんじゃないだろうか、
本当にその人は悪くないんじゃないだろうかという議論が
抜けてるんじゃないかという風に言われると思うんですね。
これをどうしても確かめたいというのであれば、
DAOのことですね、
現実を緻密に見に行くよりほかないじゃないですか。
本当に現実に上司が悪かったのかもしれないということを
確かめたいのならば、
極力この空想を避ける必要があるわけですよ。
つまり上司を色眼鏡で見るということをやりつつ、
上司が本当に悪かったのかそうでなかったのかを
はっきりさせる方法ってないじゃないですか。
どうしたって上司が本当に悪かったということを
本当に明らかに、つまり現実に良くなかったということを
誰の目にもそうだと言えるほど明らかにしたいのであるならば、
上司が悪いかもしれないという空想を心に抱えたまま
その上司を見ていてはできないですよね、これは。
だから現実と空想を区別つけなければいけないわけですよ。
そのために脳内シミュレーションほど邪魔になるものはないんですね。
これをやるということは必ず敵味方にその空想の中で人を分けて、
その敵側の人間は敵だという認定のもとに現実を見ようとする
という心の働きが起こってしまうんで、
これが排出と言われているもので、投影と言われているものなんですね。
排出というぐらいだから、汚いものを出すんですよ。
時々世の中では心のデドックスとか言って、
心の嫌なものを外に出してしまえば、
すっきりして心が健康になるという話を聞かれている方もいらっしゃるんですけど、
そういう意見もあるのかもしれないですけど、
精神分析はこれを完全に逆だと捉えます。
心の中の嫌なものを外に出せば出すほど心は痩せ細っていって、
しかも外に出したその細ってどこよという問題があるんですね。
さっき説明したように、遅刻をしたのは上司のせいだということになると、
上司は悪人だということになる。これが排出なんですね。
外に出したということは、現実に出したということになるわけですね。
現実に上書きする感じになっていくんですけれども、
つまり現実というものに向かって排出した以上、
現実が汚くなっていっちゃうというのを避けられないんですよ。
残念ながらこの心のデトックスはトイレでやってるわけじゃないって感じなんですよね。
心のデトックスはそこら辺に吐き散らかしている感じになっちゃうんですよ。
そういう自覚はないと思うんですけど。
だから排出ということをすればするほど現実が嫌いになっていきますし、
つまり脳内シミュレーションをするということは、
その分現実というものに対してバイアスをかけて、
より自分にとっての現実はきつく、嫌で、期待的なものに見えてくるという、
そういう副作用というのかな、副反応というのかな、
をセットでついてきてしまうんです。
ここまで意識すれば、これをやりたいという気持ちは、
僕の感じでは半減ぐらいはさせることができます。
万能空想というか脳内シミュレーションは、
自分がやりたくてやっている部分というのは間違いなくあるので、
やりたいという気持ちを下げれば下げるほど、
実際には脳内シミュレーションというのは、
機械を失って停止していくようにできているんです。
これはもう一つが、万能空想というのは空想なんですけど、
空想である部分がすごい大事なんですが、
そして排出であるというのも大事なんですが、
当然防衛ですね。
もともとこれは防衛だというふうに、
防衛規制という言葉が分析にもありますけれども、
防衛なんですよ。
自分を守るためにこれをやっているんです。
自分の万能感を守るためですね。
自分は決していかなる意味でも悪くないというふうに思いたいと。
自分は白いという状態を保つために万能空想というのをやるんですね。
脳内シミュレーションというのもそういうことなんですよ。
強盗を撃ち殺しというのはまさにそうじゃないですか。
俺は全然悪くないのに、
そうやって押し入ってきて銃を乱射して物を買っ払っていくひどいのがいるから
銃を買ったんだと。
ベッカーが言ったのはそういうことなんですよ。
でもあなたは奥さんを撃つでしょう。それでと。
つまりその人は万能じゃないってことなんですよ。
なんていうんですかね。
その観点で見るならば、
誰かが敵か誰かが味方か、
誰かが悪人か誰かが善人かというその観点だけで見るならば、
あなたは真っ白じゃないんですよという話をベッカーはしていたわけですね。
そこではね。
そして目を向けるべきことは他にもいっぱいあるのに、
わざわざ強盗にだけ目を向けるっていうことをするから、
ダイエットとか奥さんとの関係とかから目が逸れてしまうんですよ。
そっちも現実ですもんね。
だから現実というものがこの観点を取っていくと、
脳内シュミレーションをひたすら繰り返すという観点だと嫌いになる。
しかしその前に多分脳内シュミレーションを繰り返している人にとって、
現実って嫌なもんですよ。その分。
だってその銃を買った人から見ると少なくとも、
陽気なアメリカンのおじさんだから現実嫌ってるか分かりませんけど、
少なくともその夜、銃を持って襲ってくる暴徒が
ウヨウヨしているかもしれないという意味では嫌なわけじゃないですか。
この現実が嫌なものだと思えば思うほど、
私たちはこの万能空想というものをしたくなるし、
脳内シュミレーションをしまくってしまうんですね。
だからここら辺は全部セットなんですよね。
現実というものをそもそもどういうものだと思っているのかということと、
それを空想というものの色目が出ているから、
少し現実と空想を区別するという、
つまり現実をよくよく知りに行くということを、
避けたいと思っている気持ちがあるはずで、
その避けたいと思っている気持ちというのを弱めないことには、
より現実が嫌いにならないようにしたいという気持ちを持たないと、
万能空想というものを脳内シュミレーションをやめるという
モチベーションは持ちようがありません。
だから自分が万能でありたいと、
万能であるというのは真っ白であるということです。
つまり自分は無実だという、無実なんだけど、
敵味方に分けて現実を警戒する
この敵味方に分けておきながら世の中をですね、
世の中には悪い人間というか敵がいるという意識を持ちながら、
自分は真っ白だというふうに思うことはできないということなんですよ。
私はこれがですね、よく世で言われている、
倉園さんもよくおっしゃる許すってことなんだと思うんですよね。
許すってことは自分が無実になれるんだけれども、
そのためにはこの世に敵っていうものがいないっていう観点を取るしかないんですね。
その逆をやっていくのが第一歩ではないんだけども、
第一歩として敵味方に分けて、
現実というものがその分嫌いになり、
現実というものに対してその分警戒するようにしたときに、
脳内シミュレーションというものが始まって、
そのときに脳内シミュレーションの中でやりたいことは、
自分をもう一度真っ白にするために黒いものを外に追い出す、
あるいは黒いものを撃退、同じことか、撃退するという空想なんですよ。
これを成就したいという気持ちを手放さない限りは、
この空想を止めるってことはできないんですね、結局。
自己矛盾を解消し現実を受け入れる
やはりこれを止めたければ、その自己矛盾を何とかしなければならない。
つまり、現実を好きになるしか、
そしてその現実というものに、
何て言うんですかね、撃退するべきポイントというものが存在しないっていうのを
確かめにいかないといけないんだと思います、最終的には。
現実をよく見に行くっていうのかな、よく知るっていうことによって、
そこに空想を混ぜて現実を見ずにですね、
敵味方に分けるという空想をそこに適用せずに、
現実と空想を僕ら区別するのは得意じゃないので、
そこは意識して区別することによって、
空想をとにかくより混ぜないように混ぜないようにしていって、
現実を透明度高く見に行くっていうことを知りに行きたいと思わないと、
多分これは止まらない。そんなお話だろうと思いました。