対談と編集ミスについて
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
7月5日の水曜日、9時12分ですね。
大谷翔平選手の、今日投げてるんで、ちょっと見てて、この時間になったんですよ。
ちょっと打たれだしたんで、とりあえずこの辺にしておこうという感じで、
これをやってから見ようぐらいに思ってたんだけど、気がついたら、今日早かったんですよね。
グッドモーニングボイス、通常7時半ぐらいに始めるとして、
もっと早い日もあるけど、まあまあ半には始められるとして、
大谷選手は投げ出すのが40分からということだったので、
あら、という感じでちょっと見てました。
そしたら、気がついたら9時になってるという、こういうことが起きてるわけですね。
あー、えーと、そうだ。
まず、えーと、昨日ボイシーでJ松崎さんと、
クミさんという方ね、認定トレーナー、スクシューと認定トレーナーのクミさんという方と3人で対談して、
あれがあったので、昨日はちょっとこっちのグッドモーニングボイスはお休みにしたんですが、
ちょっとあれしまったなと思ったのが、月曜グッドバイブス編にして、
火曜100チャレ編にすることにしておけば、
極めて綺麗にいったんだけど、
思わず月曜、あんまり何も考えずに100チャレ編にして、
あれ?もしかしてまた火曜日、タスクシュート系になっちゃうじゃんと思って、
ただそれだけなんですけど、
もっと美しくできたなという、こういうためにプロジェクト管理というのをするんですかね。
僕はどっちでもいいかな、これはって感じがしちゃうので、
どうしても今はこれで良かったんじゃないかと思うんですけどね。
100チャレ編を月曜日に何も考えずにやってしまって、
そして翌日もこれ100チャレ編の代わりにしたつもりだったわ、駄目だわっていうことになって、
今日グッドバイブス編をしようというふうに思っています。
それでいいんじゃないかと、適当ですけど思っておりますね。
オフラインイベントの告知
その前にCMをしますが、
これも昨日のVoiceの中で出すのはおかしいか、やっぱり。
7月10日の海の日ですね、こちらで倉園さんとトークセッションしますと。
これももし許可が得られれば、
Jさんなりにタスク集と100日チャレンジの方でも
一つ声かけさせていただけませんかと言ってみたいとは思っているんですけど、
とりあえずこのGood Morning Voiceではいいと思いますのでバンバンやっておきますが、
これはオフラインなんで、つまりリアルなんで、
Zoomとかではありませんから、上板橋まで来ていただくしかないということに今のところなってますのでね。
海の日に遊びに来ていただければと。
上板橋の方までご素振りいただければと思います。
リアルの良さっていうのはきっとあると思いますから。
オンラインの便利さはもちろんあるに決まっているし、
今回私のタスク集とオンラインもオンラインだったからこそ、
あれほどの方がご参加いただけたし、なおそれより多くの方が動画視聴の方を選択されていると。
つまりいつでも好きなタイミングで自分の好きなところで見られると。
それはいい意味ですよね。
今日はその話をちらっとしたいと思うんですけど、
とはいえ実際にどこかに来て見るというのもまたいいと思うので、
もうこういう言い方をするしかない、こういうことだと思うんですよ。
どっちかだけでは生きていけないじゃないですか。どこまで行ってもですね。
食べたものがバーチャルだったらやっぱり僕らは生きていけないんで、
リアルなものを食べるしかないわけだと思うので。
どれほどAppleのあれが、すごい欲しくなってるんですよ、密かにね。
値段では絶対買えないけど。
だって僕あれ買っちゃうと、今全財産の半分ぐらいがなくなってしまいますからね。
全財産明かしているような世界ですけど、
来月早々にすぐ借金状態になってしまうっていうのが、
あれを買った場合に、そういうものは絶対クレジットで買いますけど、
分割払いで買いますけど、それにしてもちょっと手は出せない。
そこの中でバナナ食べててもダメなわけじゃないですか。
本当にバナナの栄養を取ったことにはならないはずなのでね。
どれほどAppleがすごい技術を使っているとしても、
多分そうはいかないので、
神田はしまでリアルにご苦労いただければと思うわけですね。
7月になりましたので、
直接対面って名前にしようかと思ったんだけど、
結局ただの対談って名前にしてますが、
佐々木翔吾と1時間対話します、できますというやつね。
9,900円となってます。9,000円プラス税です。
今年からインボイスとかが入るらしいから、
900円はちゃんと払うことになると。
僕はインボイス、企画なんとかの方にしようと思ってますんで、
まだ思ってるだけなんだけど、しますんで。
900円は僕のじゃなくて、一応国のものになると。
10分程度の延長は全然普通にやりますと。
先日神保町で僕昼にラーメン食べたんですけど、
大盛りにしたんですね。
値段言われてたんだけど、よく聞き取れなかったんで、
聞いたら店主がメニュー指すんですよ。
店主の方は、決して大盲でも意地悪でもないんだけど、
実にそういうところのある方なんですよ。
大盛りだからこの値段じゃないですよねって言ったら、
いやいや、大盛りもその値段ですよとか言って、
いやそんなことは分からないだろうって思うんだけど、
ローカルルール的なやつですよね。
それとちょっと似ていて、60分でも9900円ですが、
70分でも9900円ね。
80分、90分、100分とかになってくると、
まだちょっと分からないですけど、
その場のノリで決めますが、
少なくとも70分くらいなら全然OKという感じにしておきます。
あえて明記はしてませんけどね。
そこのラーメン屋さんもそうなんですよ。
あえて明記されてないですよ。
大盛りは無料とかって書いた方がいいと思うんですけど、
どっかには書いてあるのかもしれないけど、
少なくともどっかに書いてあるレベルなんですよね。
見てわかるレベルのところには書いてないという、
実に不思議なシステムだなと。
そうかでも、下手に大盛りにされても無効得しないのか。
なんかでもよく分からないところはありますよね。
プラス50円とかにすればすぐ話のような気もしますからね。
食べたい人はそんなのあんま気にしないですもんね。
2000円でプラス500円とかだったらかなり気にすると思うんだけど、
ラーメンなんで。
一杯850円でプラス50円とかならいいと思うんですけどね。
またこういう関係ない話で時間使っちゃってますが。
対談サービスについて
そうですね。だから海の日よろしくお願いします。
そしてあと対談もよろしくお願いしますというか、
こちらもオプションみたいな私の中ではサービスなんで。
なんかタスク、いわゆる人生相談的なのでなくても、
タスク修道のことでも、タスク管理のことでも、
お答えはできるか分かりませんか。
オブシリアンのことでも結構です。
また最近こういうケースが散見されるなというものとして、
対人支援に近い結局サービスになると思うんですよね。
僕がやってるのも、対談なんてのも結局は対人支援サービスに近い。
カウンセリングではないけど、対人支援サービスの広い意味では一貫になるだろうと。
対人支援サービスをされている方がやっぱり相談したい相手っていらっしゃるわけですよ。
いるということになりますかね。
だから対人支援の専門職でなくてももちろん、
精神分析家なんですけどみたいな方いらっしゃってないですけど、
例えば学校で保健室という方いらっしゃる。
保健室の私はいわゆる保健室のおばさんなんですが、
いわゆる世の中で保健室のおばさんに子供のいじめにあってるとか、
そういうものがここに持ち込まれてケアされるんだみたいなこと言われても困るんですよね、
みたいなことが持ち込まれたことがあったんですよ、私のところに。
ああいうお話でも全然ありだと思います。
対人支援職にさせられてしまう職ってあるじゃないですか。
学校の先生筆頭ですよね。
学校の先生って対人支援職では、対人支援職ですけど広い意味では、
いわゆる人生相談やってるわけではないはずなんだけど、
つまりそういう専門職も少しはもちろん習うんですけれども、
すごくは習わないじゃないですか。
スクールカウンセラーって方も別といらっしゃるわけ。
まして保健室に勤務されている方がですね、
一方が違うと親がそこに来て、
じゃあ娘不登校なんですけどって言われても、
ある意味非常に困るじゃないですか。
でもこういうことが起こるんですよね、現実には。
だからそういう日知の日知の日知みたいなところに、
私みたいな人間がいるっていうのが、
一つのポジションとして、ポジションっていうのかな、
それこそ役割としてあるのかもしれないと思うようになってきましたので、
そういうところもありかなと思います。
そんな感じです。
8月から3ヶ月チャレンジをまたやるんですが、
これもおいおい告知をキンキンしようと思っていますけれども、
枠はあんまり広くはしませんので、
あとですね、ここに大きな誤解があるんですけど、
私がベストセラー作家で、ものすごくこういうので忙しくなっているから、
私なんかが参加するのは申し訳ないからっていう話を、
何回か聞いたことがあって、
これは単に入りたくないというのを遠距離表現されているだけかもしれませんが、
もし本当にそう思っていらっしゃる方がいたら、
それは全然誤解なんで。
私、ウェイティングリストにいっぱい人が待ってて、
話を相談をしまくってて、
すっごい時間がなくて困っているんですという、
そういう状態に全然ないですから。
僕がやっているようなサービスは、
基本的に待ち時間なしだと思っていただいても全然大丈夫です。
何のPRにもなっていないんですけどね。
これ言ってて思ったんだけど。
でもそういうことなんで。
もしそういうふうに、
私が首も回らないほど自分の時間が取れていないということを、
感じていらっしゃる方がいたら、
それは多分に全く誤解ですから。
安心してというのも変ですが、
安心して空いていると思って、
空いている飲食店は行きたくないって話もなくはないんだけど、
でもあれじゃないですか。
先日受診とスターバックス難民になっちゃったんですよね。
2回になったんですよね。
どこ行ってもスターバックスというのは、
大いに混んでいて、
あれはあれで困るじゃないですか。
最近入れたためしかないよみたいなね。
それもどうかと思うので、
私関雑しているところなんて、
スターバックスって自分しかいないなんてことしょっちゅうありましたけどね。
例題に違う話をしておりますので、
本題に入ろうかなと思います。
結論というのも変ですけど、
まず、いきなりなんですが、
私は、
ジゾイドのパーソナリティディスオーダーだったんですよ。
日本とアメリカの診断基準
そのように正式に診断されたことがある人間なんです。
ただそれは日本ではなくて、
アメリカ留学中の頃なんです。
いわゆる分裂症室っていうのかな。
分裂病室っていうのかな。
分からないですけど、
いわゆる分裂型の人格障害ですね。
これはもう、
家庭の医学的な知識としてありだと僕は思うんですが、
僕もこの番組でも時々喋っている、
精神病、ボーダーライン、神経症というこの3水準に、
ごくざっくりとだけ分けられて、
精神病理学とか心臓心理学とかが検討されているってことは、
僕らはもう一般に知ってていいと思うんですよ。
精神病水準って言ったら、
主に統合失調症を指します。
あとは、相鬱病。
そして、おそらくは重度の鬱がそこに入るかな。
そして、ボーダーラインの最も重い系の方が、
そこに含まれるのかなっていう感じ。
あんまり多くないってことです。
これはもう本当に、
いわゆる精神病とされているケースであって、
現在はこれを精神科医というのかなの中であって、
カウンセリングだけでこれを扱うということは、
普通あんまりないはずなんですね。
方針として、まず入院とかが考えられるし、
精神科医に守備範囲になるはず。
ただ、ここが簡単じゃないのは、
法薬を拒否されるという方が結構この中にもいらっしゃるし、
そもそも病院に行かないと、
家から一歩も出られないということがまたありますから、
全てがこの方針通りには動かないという現実はありますよね。
どんなにそういうことはダメなんですって言ったって、
家の中にずっとその人がいて、
すっごく困るとなればですね、
それこそ野の医者に頼りますよ。
頼ることもやってくる、いずれはね。
それが例えば坊さんであったとして、
それはダメだと言えるのかというと、
僕はダメだとか言ったって無駄だと思うんですよね。
その人は坊さんにだけは合いますというのだったら、
そうなりますよ、偶然的にね。
こういうことはもう当然世の中では、
ある意味受け入れられているというか、
そうなっちゃってることだから、
ここを一時突き回すことはないと思うんですけれども、
精神病水準というのはそういう水準だということですね。
それに対して、
神経症水準なんていう変な言葉だから、
神経症というのはノイローゼですから、
どうしてそれは正常の範囲内に入るんだって、
思われるかもしれませんが、
今日その話をちょっとしようと思ってるんですけど、
とにかくそうなんです。
神経症水準というのはつまり、
精神病ではないし、ほぼ正常だよっていうような、
ざっくりとですね、家庭の医学レベルだから、
真剣にここを語り出すと、
1年間そればっかり喋ることになっちゃいますから、
ざっくりとここはそういうもんなんだなと、
少なくともそういうふうに分けられた時代があって、
その分類は今でもまあまあ、
なんとなく作用してるんだなぐらいに、
思っていればいいかなと。
我々は専門家なわけじゃないってね。
で、この間にそこの線を引くから、
ボーダーなわけですね。
何度も言ってるけど境界線がここにあるから、
精神病と神経症の間に境界線があるから、
その境界線付近のどっちとも何とも言えないっていうのを、
ボーダーラインっていう話があるわけです。
本当はもっと実に複雑なのがここから先でありますが、
とりあえずここまでざっくりと。
で、人格障害というのはですね、神経症水準です。
だから精神病水準ではないってことですね。
人格障害というのが、
あなたも人格障害じゃないんですかみたいな、
そういうなかなか怖いタイトルの本が、
そのままじゃなかったかもしれないけど、
日本では出回っていた時代もありまして、
結構ベストセラーになった本もありますが、
神経症水準だから、
これは良いだろうぐらいなノリもあったかなって感じもしますけれども、
この人格障害というのがでもややこしいんですよ。
神経症水準とボーダーライン
重めの神経症みたいな言い方をするケースもありますが、
そんなにシンプルなもんではないんですね。
例えばジゾイドなんて名前がついている。
結局、統合失調症、精神病水準の統合失調症、
スキゾフェルニアという、このスキゾがつまりジゾイドなんですけど、
だってスキゾって同じ名前がついている人格障害は神経症で、
スキゾフェルニアは精神病なの?みたいな、
素朴な疑問がそもそも浮かぶじゃないですか。
例えば境界線、さっきのボーダー、
境界性人格障害というのがあるんですよ。
ボーダーラインパーソナリティディスオーダーって言うんですけどね。
だけど境界霊っていうのは別の病気なの?っていう、
素朴な疑問が起こるじゃないですか。
ここら辺の切り分けがすげえややこしいことになるんですね。
でも今日は私の話だけに特化して、
境界的な話はこの辺までにしておきます。
私はジゾイドのパーソナリティディスオーダーだねと、
アメリカでは診断する。
日本の診断じゃないから。
日本の診断とアメリカの診断は基準同じですが、
日本語を使う人、英語を使う人、
その文化圏みたいなのがあるので、
僕が日本でも同じ診断を受けるかどうかはその限り。
いやびっくりしたんですけど、
今アラームが鳴っちゃいまして、
そういえばさっき大谷さんの試合をどんなに長く見ても
9時半にはやめようと思ってアラームセットしたの。
すっかり忘れていて。
アラーム鳴ると収録止まっちゃうんですね。
だから今止まったんですよ。
どんなに違うのか同じなのか難しいですけど、
アメリカの診断基準と日本の診断基準は同じですが、
そう言っても日本でも本当に僕が分裂症型、
人格障害と言われるかどうかまでの保証はないです。
日本でその診断を受けたことはありません。
ただアメリカで受けたというのは認知行動療法のカウンセラー、
これはもう専門家です。
にプラクティカムと言いまして、
大学卒業時に実践授業みたいなのをするタイミングで
そういうことも選択できたということですね。
何しろ単位が欲しかったからね。
アメリカの留学は英語が大変なんで、
単位が欲しかったんで、
私が一番確実に単位が取れそうだと思ったのが、
診断をしてもらってみてそれについて検討するというのは
一番単位が取れそうだと思ったんですよ。
嘘ではないじゃないですか。
そのまま書けばある意味ね。
相手が英語を喋ってくれるから、
その英語を記録しておいて移していけば
レポートとしてちゃんと成立するじゃないですか。
実はこの作業がめちゃくちゃ大変だったんで、
後で死ぬほど後悔したんですけど、
とにかくそういうことがあったというわけです。
でも観察に走るっていうのはすごく留学生あるあるですね。
どうしても観察という事象は調べ物をするというのに比べれば、
結局調べ物って英語を誤解してしまうと、
調べた内容そのものを誤解しちゃうけど、
観察っていうのはある意味見たまんまですからね。
そこに英語であろうと何語であろうと
あんまり誤解の余地はないわけですよ。
だから私も頻繁にやりました。
子供の観察記録みたいな。
特に英語が喋れるかどうか怪しげなレベルの
4歳児3歳児を心理的に見ていくみたいなの大好きでした。
なぜなら英語を介在させずに済むという。
結局子供を観察してそれについてレポートを出すというのは
嘘だとは言い難いですからね。
まあそういうことですよ。
それで私はプラクティカムで、
私が診断された上での精神分析的なのかな、
心理療法的なものをレポートするというのを選択したわけです。
その時に衝撃を受けたことに、
あなたは実は別に僕は診察されに来たわけじゃないんだけどな、
みたいな。
でも診察されてしまって、
一定期間カウンセリングまで本当に受けることになっちゃったんですね。
まあそれは授業料の一環で診断料免除といったわけで、
実際に独特のシステムがアメリカの保険会社とかに絡んできて、
独特なのがあるんだけど、
そこはもうどうでもいいとして、
そういうことがあったわけですよ。
で、俺はそうか、性格障害なんだ、みたいなね。
あの時に自分相当変な奴だと思われてたんだけど、
だからそうなんだろうけど、
アメリカ基準で見ても、
しかもいわゆる学術基準で見てそういうのが出ちゃうんだなってのに、
人格障害との関わり
一定の衝撃を受けました。
ただアメリカでは特にそうだし、
日本でもそうなんだけど、
これ神経症水準はOKだ、みたいなのがあるんですよ。
変人ではあるが変人であるだけだぐらいな感じで。
それほど深刻な問題だと、
見なしているグループもありますよ。
精神分析なんか明らかに人格障害を結構深刻な問題と見なしてます。
後で申し上げますけど。
でも私が受けたのは認知行動療法系で、
しかも行動療法寄りだったから、
全然、いやいや、そんな社会に適合してればいいのよ、
みたいな女性だったんですね。
非常に不利子ですね。
今思えばある面良くある面良くなかったんですけれども、
そういうことがあったんですよ。
これはね、ショックみたいなものはあったけど、
そういうふうに言われたから、
別に問題ないんだな、みたいに思って、
性格偏ってんだな、俺偏ってるしな、みたいな感じで、
さらっと流していたわけですね、当時は。
その後も全くそれに関しては、
特に問題だという意識を持つことなく、
日本に帰国して、それこそ大橋製造さんと仕事をして、
自分はこういう傾向強いんだなという意識はちょいちょいしたんだけど、
全然それは問題だと思ってなかったんですね。
これが問題として勃発。
実は結構、これというタイミングでこの問題が顔を出してたんですよね。
予兆ってやつあるんですけど、
僕は全部それをスルーしてたんで、
この問題が勃発するのが2017、8年まで待つことになるんですね。
帰ってきたのが2056年だから、
実に10年以上ほったらかしにしておいたわけですよ。
虫歯放っておくようなある意味もんなんですね、これはね。
これを聞いて、そうなのかと思って、
あんまり深刻に受け止めないでほしいんですよ。
これ難しい問題なんです。
性格の偏りと言われているこれをどう捉えるか、
本当にそれは問題なのか、
単なる性格アンケートみたいなものでしかないのか、
今問題がないのに、わざわざこれについて深刻に考えることはないんですよ。
私は、よりにもよってと言いますか、
極めて深刻なことになり得る問題を抱えていたんだけれども、
ジゾイドパーソナリティとケア
むしろそれをアメリカで出会った先生のニュアンスで、
僕は英語を完全にわかっているわけじゃないから、
そもそもアメリカで診断を受けるのはいけないわけですよ、
所詮ね、あの英語力で。
ニュアンスでこの病気を肯定的に受け止めてしまったんですね。
だからある意味虫歯なのに虫歯で喜んでいるような感じになっちゃったわけですよ。
僕のケースなんですよ、これは。
だからみんな自分の性格偏っているのはそんな問題を引き起こすのか、
というのはわからないんですよ、結局ね。
明らかにこの性格の、これはフランスの精神分析家が書いている話だったんですけど、
明らかにこれを利用して上手いことをやっている人も実際にいないわけじゃないと。
その人がその人生の中で問題に行動と見なされることが来るか来ないかは、
結局神のみぞ知るだみたいなね。
それは実際その通りだとは思うので。
私の場合はあまたま診断された場所が母語を使う国ではなかったし、
ややその先生はすごいいい先生だったけど優秀だったし、
ややその偏りはあった。
行動両方に相当寄っているところのある、
まあ流行ってたってこともありますし、
その先生の信念だってこともありましたから、
行動両方寄りの先生に当たってたので、
むしろいいことだぐらいに僕は、
でもこれは多分僕の誤解なんですね。
英語を間違って、英語のニュアンスを間違って取り込んで、
ますますそのドツボにはまったという、
そういう経緯があったというわけですね。
で、2017年に、
まあ僕がこの番組でちょいちょい言ってるミドルクライスの最大の原因は、
私のこのジゾイドなパーソナリティというものに、
完全に明らかに原因一つじゃないんで、
いろんな複合要因からそういう事態が勃発するんだけど、
少なくとも一旦は間違いなくここにあったわけですね。
で、これを何とかしてくれたのがクラザノフさんなわけですよ。
で、ここでこれを何とかしてくれたのがGood Vibesなんですと言っても、
現段階では違いはないんでいいんだけど、
ここで僕は今考えていることがあるんですね。
はい、二度とありました。
これはね、アラームがさっきのスヌーズ扱いになっていたためにまたなったんですね。
僕はワンタップではスヌーズだという、
そうだったかな、褒めたつもりでいたんですけどね、
このiPhoneのアラームがどうすればスヌーズになるのか、
スヌーズってところをしたわけじゃないんですよ。
なんか上から出てきたやつを上にピッてやったらスヌーズ扱いになってたらしく、
9分後になり出すんですね、これは設定で。
知らなかったんですけど、今日はやられますね。
しかもこの大事なことを喋りかけたときに限って止まるんだよね、さっきの感じかもしれません。
ずっと大事なことを喋っているつもりでいるのかもしれないけど、そこはわかんないですけどね。
私のジゾイドパーソナリティをケアしてくれたのがクラドモさんという言い方と、
ケアしてくれたのがグッドバイブスという言い方が現段階では一致しているからいいんだけど、
これが将来、しかもその将来というのは運と先の話で、
この番組は多分終わっていると思うんですが、
10年後とかに一致しなくなったとき、果たしてそれはそう言えるんだろうかというのを最近ちょくちょく考えるんですね。
でもこれは先の話なんで、あまり考えなくていいことなんだろうなと思うんだけれども、
でも不意に考えてしまうことはあるんですよ。
何がポイントかというと、私はこのジゾイドパーソナリティまではグッドバイブスで扱えるんだとしたらすごいなというところが一つ。
クラドモさんに扱えるんだっていう意味でもすごいんだけど、
それだけ扱いがやっぱり難しい部分がある症状の一つなんですね。
人格障害の中で一番多分問題の多いものです。
人格障害はいっぱいあります。
自己愛性とか欲打つ方とか、回避性とかいろいろあるんですが、演技性とかね。
ジゾタイパルもあるけど、ジゾタイパルってあまり見かけませんけどね。
ジゾタイパルになってしまうと、いわゆるジゾイドとそんなに違わないんじゃないかなって気もしますけどね。
とにかくこの辺は難しいと思うんですよ。
だからこれが範疇に入ってくるんだったら、グッドバイブスというのはこういう言い方はできないんですけどね。
クラザノケイゾーさんのセッションは、人格障害の人が受けるという意味で受けるというケースにおいて、
これはもう完全に私の意見です。
有効なんじゃないかというふうに思うんですよ。
これはもう本当最近考えるようになったことなんですね。
なぜなら自分に有効だったから。
根拠がこれなんで、ある意味薄弱なんですよね。
いわゆる臨床例Nイコール1ってやつで、他にも人格障害の人がいたっていうような話は、
罪悪感と迫害不安
クラノンさんならご存知だと思うんですけど、僕の中では、僕に有効だったかどうかしか最終的な確信は得られないわけですね。
で、私にとって有効だったということと、私はジゾイドだということ、スキゾフェルニアではないですよ。
ジゾイドだったという、私はやっぱり精神病水準がはっきりした場合においては、
これはもう分からない範囲だなって思ってるんですよ。
精神開発中ですって話になった時に、それがいろんな意味での相談者っていうのが絶対そこに登場するんですね。
どれほど精神回答専門のカウンセラーだけが見るべきだと言っても、
不可能で、おそらく不可能で、そうはなってないケースが圧倒的に普通で、
私が知ってる私の身内だってその通りで、事実上精神科医なんかに通うことすらできていないんですよね。
ここに人権という問題がはっきり出てくるんで、そんなに簡単な話にはならないわけですね。
親に相談するのはどうなのとか、専門家ではないけどね親は。
そして親が坊主だった場合どうなるのみたいな、まさにそういうことが起こり得るわけですよ。
けれども人格障害というのは病院に行きましょうって話にはならないんですよね。
ビジネス書に人格障害の本があるぐらいなんだから、
それは専門家以外見ちゃいけませんという話にもなってないのが現実です。
しかし人によってはこれは深刻なんですよ。
私はジゾイドのパーソナリティとして、そのおかげで確かに純風だった時代もあるんです。
ジゾイドのハイプってのは結局どういうことになるかというと、
簡単に言うと引きこもってしまうんですね。
ただ私は一度も社会的な意味での引きこもった状態というものが多分他人の目から見えたことはないんです。
心理的に私が非常に引きこもっている人間だということは、
勘のいい人には分かるんだけど、
そうは言って私は実質から出ないで過ごしますなんてことをしたことは決してないので、
やっぱり診断基準みたいなものを見たり、
それこそロール射波テストみたいなものをやらない限り分からないことなんですよ。
私が本当の意味で心理的に引きこもっているということはですね。
引きこもっているだけでは決してないんです。
引きこもっているだけだったら回避性だって同じようなことが言えるはずなんですね。
回避性というのは人が怖いとか、
私はダメな人間だからと言って引きこもるかはね、
私はそういう方では全然ないんですね。
引きこもるっていうような特徴を捉えるだけだと、
回避性とジゾイドって区別がすごいつきにくいと思うんですけど、
内心で考えていることはまるで違うんですよ。
ジゾイドの私なんかはまさにそうだったんですけど、
一番の特徴は迫害不安を持っているってことなんですね。
ここで話が非常にねじれてるんですよ、実際には。
かなり専門的な話になっているように聞こえるかもしれなくて恐縮なんですけど、
これはですね、そこら辺でもないかもしれないけど、
一般書には書いてあることなんですよ、実はね。
決してそんなに専門分野の深刻なレベルに入っているわけではないんです。
私は結局、罪悪感っていうのは本当の意味でっていうのかな、
深刻な事態に立ち入った時、実は持つことができないという問題を抱えてたんだなということを最近知ったんです。
これ表面的にジゾイドの話を症状だけをチェックしても全然わからないことなんですが、
私は本当の意味での罪悪感というものをなかなか持ち得ない人間なんですね。
この話ちょっとグッドバイブスで倉園さんが言ってる話ときちっと整合しきれないんで、
非常に厄介なところなんですが、私の感じではですね、
私の問題というのは迫害不安なんです。
で、神経症水準の人の不安は欲打不安なんですよ。
この差が非常にでかいんですね。
神経症水準の人の不安というのは、つまり無意識、
自分が不安に思っているのは自分の心の中にあるってことがちゃんとわかってるってことなんですね。
いくらでも日頃は思い浮かぶのに、
例えば信号急いでるときに赤信号につかまって、
ものすごいイライラして、バーッと車飛ばしたのにまた赤信号になる。
いやー、ほんと。
っていう風になったとき、
そうは言っても正常な人なら焦りますけども、すごく焦るんだけど、
俺が焦っているからこんなに赤信号がつらいんだなってのがわかるはず。
わかりますよね、当然これは。
わからないとおかしいと思うんですよね。
でもわからない人もいるんですよ。
いやー、政府が信号操作してるんじゃねえかなっていう話になるんですよ。
これが迫害妄想ですね。
迫害妄想っていうのは結局、
自分の問題とか辛さというものを自分の心の中から来ているのが明らかな場合ですらも、
そこから来ているっていう事実を何て言うんですかね、
思い至らないように頑張っているというのかな。
本当に統合失調っぽくなると本当にこうなってしまうんですね。
ここがいわゆるラインになるんです。
私は政府の陰謀のせいにしたくなるタイプなんですよ。
でも統合失調の人の場合、政府の陰謀であることは確実だになってしまうんです。
そこに微妙な差を見るんですよ。
現実検討能力って言うんだけれども、
現実検討能力が非常に働きにくいのが精神病推奨なんですよ。
働くんだけど働か狭いとしているのが人格障害というものなんですね。
だから私は何をするかというと、
一時過程と二次過程
今の例だと非常にわけわからんことをやっているように思われるかもしれませんが、
これは普通の人がごく一般にやることでもあるんです。
また専門用語で本当に申し訳ないんですけどね、
一時過程と二次過程って言うんですよ。
一時過程というのは、
要するに気持ちいいか気持ち悪いかが全ての世界なんですね。
赤ちゃんにもそれはわかる。
気分が悪いから怒る、泣く。
気分が良くなればニコニコ。
これだけで生きていくと精神病推奨になっちゃうよっていう話が、
精神分析のベースの考え方に多分あるんだと思うんですよ。
二次推奨というのは、
つまりそうではなくて、
現実というものがわかってくる。
一時推奨と人格障害
赤信号でイライラするっていう風にして足をバタつかせて、
赤ちゃんはそんなことで泣かないけど、
泣き出す運転手さんがいたら、
それは一時推奨に生きてるってことになるんですね。
本当に困るんだけどここは頑張って、
ブレーキ踏んどいて、
青になったらもう最高加速しようみたいな、
それも問題だけど、
でもこれは現実見当はできているわけですね。
焦ってるのは俺だってことがわかってるからね。
これが二次推奨なんですよ。
でも二次推奨が辛くなった時に、
一時推奨に行こうとするっていうケースはあるじゃないですか。
例えば、
二次推奨では、
例えば一時推奨の人が会社に行って、
上司に唱鳴られました。
すっげぇ腹が立つから椅子で殴り返すみたいなね。
これ一時推奨なわけですよ。
そこをしないですよね、我々は。
ぐっとこう我慢する。
で、二次推奨に生きるんだけど、
二次推奨ってつまり現実ってことなんだけど、
現実やってらんないわって思って、
一時推奨を自分を一時推奨のところに廃坑させるんですね。
酒を浴びるほど飲むとかやって。
だから、狙って一時推奨に戻ってっちゃうということを、
これをですね、行動化と言うんだけど、
これをひたすらやる性格になっちゃってるのを人格障害と言うんです。
だから人格障害では依存はよく見られるんだけど、
依存症とイコールではないんですね。
というか、なんて言えばね、ここも難しいんだけど、
依存症に見えないケースもいっぱいあるわけですよ。
ちなみに、でもジゾイドである私のような人間は、
依存みたいなものをはっきり持ってます。
やっぱり繰り返しの行動で一時推奨の乱用っていう言い方を、
専門的にはするらしいんですけど、その言葉はぴったりですね。
一時推奨の乱用なんですよ。まさにそうなんです。
ただ、これを何が原因なのかって言ったときに、
神経症水準の人は原則的には全部欲打不安。
つまり、現実で生きていくのは辛いよね。
でもそれは私の心が辛くなってるだけだから、
っていう風に頑張ってるんですよ、神経症水準の人たちは。
ここでジゾイドパーソナリティの人だけが、
白外妄想を併用しちゃっているんですね。
白外妄想というのは精神病水準に付きもののものなんです。
精神病水準では全部白外妄想になっちゃうんですよ、ある意味全部。
ちょっと違うか、でもおおむねそうなりやすいんですね。
例えば、上司が怒ってきたと。
あ、俺が悪かったのかもって普通の人は思うんですよ。
たとえそう思わないにしても、あ、誤解があるな、みたいに思うんですよね。
つまり、何らかの形で上司は全面的に悪いわけではないっていうことを
検討し始めるんですよ、現実検討があるから。
でも上司に怒られたら、ものすごいムカつくからぶん殴るみたいな。
これ一時水準丸出しなんだけど、これってどこにも現実を検討してないですよね。
ジゾイドと人格障害
現実で嫌なことがあったからやり返すっていうのって、
現実に対するいかなる検討も用いてないですよ。
だからすごくそういう心理状態にある人は白外妄想を持つんですね。
とにかく現実が攻撃してきているということになるんです。
これが一時水準、心理状態なんですよ。
二次水準になってくると、今度は不安になったり苦しんだりしているのは
私の心から来ているってことを認識しているんですよ。
一番健康になる状態では、少なくともグッドファイブ的な話じゃないですよ。
一番健康的になるには、世の中一般的に言われるところでは
この苦しみに耐えて強い心を持ちましょうって話になるんだけど、
なかなかそうはいかないので、例えば酒を浴びるほど飲むとかね、
そういう確かに辛くなっているのは俺の心だ。
だから辛くなかった頃に戻ろうっていうふうになるんですね。
ここでやっていることがおそらく防衛と言われているものなんでしょうけども、
とにかく一時水準という状態を使い始めるわけですね。
いろんな方法があるんですけれども、
一時水準を使い始めることの中には回避性っていうのがあるわけです。
ここが地蔵技とはっきり違うんですね。
回避性の人は何をやるかというと、私が悪かったんだって多少思うのは
現実検討の結果なんだけど、ここを過剰に思ってくるわけです。
全部私が悪いんだってことにしてしまうんですよ。
これはある種の現実検討なんだろうけれども、
やっぱりすごく一時水準に近づいている部分があるわけです。
私が悪いということにされたと、ここは現実検討の結果なんですよ。
ここから先が、私は本当に全面的に悪人かダメ人間かどうしようもない人間だから、
家にいてひたすら泣くみたいな、これはすごく一時水準的ですよ。
つまり赤ちゃんまさに取る態度じゃないですか。
つまり家に帰ってってところまではすごく現実的なんですよ。
人目につかないところに来てっていうことをするから。
そして二次水準の枠組み、つまり現実がしっかりと枠組みの中で、
私が幼児に帰っても大丈夫って状態を確保してから、
私は一時水準になってしまいますっていうことをやるんですよね。
これをもう少し進行させると、何かひどい目にあったときは、
必ず家に帰って泣くみたいな感じになるんですよね。
これが、よく人格障害は、よくではないかもしれないけど、
行動の病気ですって言われるのはこれなんです。
行動があるパターンにはまっていくわけです。
その行動の意図しているところは、その人その人のシステムというかパターンに応じるんだけど、
要は二次水準の人目につくところでの整合性をとって確保しておいてから、
さあ幼児の頃に戻りましょうという。
あとはどう戻るかってことなんですよね。
気のおけない仲間とカラオケに行くとか、
そういう非常に社交的な一次水準があれば、
家に帰ってうつうつとして、
大人っぽい、これを幼児が言ったら大人っぽいじゃないですか。
大人っぽい一次水準があるわけです。
いずれもはっきりしているのは、
全部自分の心の問題だっていうふうな認識があってのことで、
一次水準を使ってるんだけど、
それは心の回復を目指してのことなんですよ。
だから人格障害は心の行動の病なんですが、
つまり心そのものはこれはなお正常な状態にあるよっていう話なんです。
これはGood Vibesの話とは少し違うんですよね。
もうちょっとGood Vibesは変更を目指していくっていうか平安を目指していくんだけれども、
カウンセリング世界で一旦ここまでで、
さらにこの行動がつらいならばどうしましょうかって話になるんだけど、
少なくともそういう行動が取れてる限り、
現実のことはわかってるわけだから、
まあまあそれでもいいじゃないですかっていう、
もしそれで苦しみがひどくなってないならば、
まだそれは正常の範囲内だからいいよねっていうニュアンスもあるわけです。
ここは割と大事なポイントかなという感じはしてます。
だけど私は違うんですよ。
私は一時水準の乱用とかをめっちゃしちゃってたんですね。
なぜならば構わないと思ってたから。
ここがすごくある意味違うところで、
私は抑鬱不安はあったんだけど、
多分でも私は基本抑鬱不安ではなかったんですね。
基本迫害妄想になってたんですよ。
心の回復と社会的機能
この差はでかいんです。
つまりそれはある意味では、
無意識の不安が今やってきている。
例えば老後が不安。
老後が不安っていうのは、
無意識の不安っていうのがすごく手伝ってるじゃないですか。
いずれにしても自分の老後が不安ですよね。
だけど迫害妄想の場合、
外にそれを出すので、
いやそれは麻生が悪いんじゃないかとかね、
そういうふうに不安を自分で抱えないんですよ。
外に出すんです。
ただこの話の厄介なところは、
こういう心理状態の人は、
社会運動を起こしそうなタイプの中にもいますよね。
どっちがいいって話じゃなくなってくるんですよ、
だんだんだんだん。
何でも自分のせいだって思えるっていうのが、
とりあえず現実見当ができているレベルなんだけど、
世の中悪いでしょって言うっていうのが、
常におかしなことなんだろうか、
という問題が出てくるんですね。
で、ジゾイドの人は基本外のせいにしてるんですよ。
ただ、スキゾフェルニアまで行ってしまうと、
外のせいだから、
外とは何とか壁を築くなり、
具体的にその外との戦いを始めるんだけど、
ジゾイドパーソナリティの人は、
外のせいであるから私の部屋に行って、
っていう発想になるところが、
現実見当ができているわけです。
外のせいだから、
あんまりパーソナリティの、
ジゾイドの人格障害の人っていうのは、
社会運動にならないんですよ。
心理状態は社会運動の人と似てるんだけれども、
似たところがあるんですが、
社会運動に出ないんですよ。
社会のこと放っておこう。
どうせ社会は悪いから。
外のせいには一旦するんだけれども、
関わりを持たないんですね。
関わりを持たないという形において、
自分の心を安全なところに置いてから、
一時水準に走る。
だから、
開始生の人たちとかとは多分ですね、
一時水準になった後で、
やってることが違うんですよね。
開始生の人は多分うつうつとしている。
もっと勉強しなければいけないとか。
ある意味すごく、
だから真っ当なんですよ。
開始生の人格障害は、
本当に障害なのかっていうぐらい。
でも問題はいろいろあるんだけど、
少なくともジゾイドの人より、
ある意味真っ当なんです。
ジゾイドの人というのは、
多分私がそうであったように、
ファン座を見まくるとかね。
何やってもよくなっちゃうんですよ。
なぜならば、
問題は外にある。
中にはないことになっているから、
ただ問題が外にあると言っても、
関わらなければいいというか、
現実は現実をしておくことによって、
大丈夫にしようと。
つまり、
例えば外に問題があるからといって、
外に噛みつく、
外を攻撃するとかはしない。
ちゃんと外とは礼儀正しくやっておいて、
平穏にしておくっていうことを、
やることができるんですよね。
これが現実見当ができているか、
できていないかの差を生むんですよ。
でも心理状態は、
これは統合主張の人の心理状態に、
非常に近いところがあるんですね。
たった一つの、
ある種の大きな違いではあるけれども、
社会的な機能だけは、
ちゃんと維持することになって、
問題なのは見えるか見えないか、
ということにしてしまうんですね。
精神病水準による問題の深刻さ
精神病水準が厳しくなってくると、
全部バレてるみたいな、
心理状態に入ってくるので、
こういうこともできなくなってくるわけです。
これで伝わったかどうかわからないですけど、
この問題はなかなかシビアなわけですよ。
何がどうシビアかというと、
結局接点がないじゃないですか。
接点を持たないようにする、
ある意味の要理じゃないですか。
だから誰かが何かを言うということが、
非常に有効に作用しないんですね。
回避性の人と自治療法の人が、
同じような回避の行動を取ってたとしても、
すぐあいつ家に帰っちゃうねって、
飲み会とか付き合わないよねっていう場合でも、
回避性の人と自治療法の人では、
考えてることが全然違うでしょ。
回避性の人は、
いや、もっと飲み会とか参加しないとダメだよって言われると、
家に帰っちゃうと多分思うんだけども、
飲み会に参加しなかった私はダメだっていう風に思う。
話通ってるんですよ、ある意味。
だけど、私のような人間に、
飲み会参加しなきゃダメだよって、
そうですよねとか言いながら帰って、
あいつはアホだっていう風になるんですよ。
今みたいにはならないけど、
そんなに単純じゃないんだけど。
要は、話がある意味、
本当の意味ではつながらないってことが大事だ。
なぜならば、つながらないようにしてるから。
回避性の人と自治療法の人の違い
それは非常に迫害妄想があるからですね。
世の中に下手に出ていって、
めちゃくちゃ迫害されると、
もう酷い目に遭うので、
この酷い目っていうのも私は非常に深刻なんですよ。
多分回避性の人に比べて、
気情操に振る舞うから気情操に見えるんだけど、
回避性の人は、私は本当にダメだから勉強しようとか、
今度から飲み会に参加しようとかになっていて、
酷い目に遭うっていう風に思ってるというよりは、
自分は失敗するぐらいに思ってるんですね。
デロイドっていうのはどっちかというと、
本当に酷い目に遭うっていうのを非常に恐れてるんで、
それが具体的にどういう目かっていうよりは、
酷い目なんですね。
だからそれは深刻なんです。
赤ちゃんにとっては、
赤ちゃんがお父さんに原骨されるとかって深刻じゃないですか。
赤ちゃんにとっては。
こういう意味で酷い目に遭うっていうのが、
現実見当なく、
とにかく酷い目です。
どういう酷い目かということについて考える必要はありません。
酷い目ですか、みたいな。
そういう感じなので、実は深刻なんですよ。
この恐怖のほうがでかいんです。
畳から見ると奇妙な感じがするかもしれませんが、
さらにこの話の難しいところは、
二次水準、つまり頭ではわかってるから、
いや酷い目に遭うと言ってもそんなに酷い目に遭わないよね、
というのは頭ではわかってる。
情状がついていかないんですよ。
気持ちの上ではその酷い目はめちゃくちゃ酷い目だから、
絶対自分をそんな目に遭わせるわけにはいかないっていう、
その現実がわかっている私が、
心の中の行事みたいなものを守ってるっていう構図がありますので、
だから罪悪観点を一切引き受けないんです。
罪悪観を頭では引き受けることができても、
自分の何か失敗とかやらかしたことを引き受けることができても、
この用事がこれを引き受けろって言われると、
潰れちゃうからっていうことを恐れているので、
原因を常に外へ外へと徹底的に出していくことによって、
部屋の中は白くしておいて、
ここでファン座見てのんびりくつろぎましょうってことになってるわけですよ。
だから非常に接点というものがないので、
このビフォリティは進行していく傾向があるんですよね。
人格障害は進行していく傾向はあると言われることがよくありますけれども、
一点すごく整っておいているだけに、
入っていきにくいというのかな。
そして、私がアメリカの先生で見てもらったときのように、
入っていく必要ないでしょっていうそういう考えの方の場合は、
そうですよねってことで僕の方もなるじゃないですか。
だから何の問題もそこにはないんだが、それは症状なんだみたいな、
非常に奇妙な認識の中でやっていくことになるんですね。
この問題が孤独にあるっていう風にされるケースももちろんありますが、
概ね孤独には強いことになっているので、
ちょっとこれはニュアンスが違うんですけどね、孤独に強いというのは。
どっちかというとやっぱり迫害妄想が非常に強いから、
孤独に強くないわけにはいかないみたいな強さがあるわけですね。
それは強さではないんだけど、そこもやっぱり同じ構造なんですよ。
そういうシステムとして認識が進行しているといった感じなんです。
非常に長くなってきて驚いてるんですけど、自分でもね。
この話は根が深いんですよ、いろいろと。
まず、どうしてクラノノさんのセッションが響いたかという点に絞りますね。
ウェットバイオスの有効性運動とか考えると、
長くなるだけでなかなか本質にたどり着けない気がしてきたので、
彼に私が一番聞いて、なるほどなと思ったのは、
私、ペン字を習わせられそうになった話を彼に相談したことがあるんですね、クラノノさんに。
ペン字を言いそうになった話っていうのは少しちょっと思ってたんだけど、
とにかく習ったわけじゃないんですけどね、習わせられそうになったのは、
僕の字が汚いというのは妻が非常に言ってきたことがあるんですよ。
非常に腹立たしくなって非常に強い喧嘩になっている時に、
お前ペン字習えみたいな感じになって、離婚したくなったんですよ。
この辺が非常に僕のジゾイド的なところなんですけどね。
壮的防衛、これはね、でも防衛なんですよね。
壮的防衛は一見深刻な話になってるんだけど、
僕は今以前ほど、壮的防衛が深刻なんじゃないなって思うんですよね。
一番深刻なのは僕の迫害妄想にあるんですよ。
どうしてもそういう風になってくると、
僕は妻に意図というものをテレパスしちゃうんですね。
オカルトなんですよ。迫害妄想にはオカルトが付きもので、
政府が信号を赤くしてるってオカルトじゃないですか。
例えば、私なんかがよくなりがちな妄想として、
世の中の人の起源を損ねるとね、
僕がセミナーとかでくだらないことを口走ったために、
ファンザの履歴を晒されるとかツイッターで、
本当によぎるんですよ。
ファンザの履歴を晒す方法とかって、僕には全然わかんないから、
ITがオカルト化していくんですよね。
そういう恐怖が芽生えるんで、
だからやっぱりセミナーではみんなの起源をよくするようなことを
喋んなきゃなっていう発想になるんですよ。
でも言いたいこと喋ってるんですけど、
非常にジドイドらしいところではあるんだけれども、
とにかくそういうことを考えがちなんですね。
だったらば、その人の気分を害するようなことを
言わなきゃいいじゃんって話が、
受け入れないんですよ、なかなか。
これを罪悪感として、僕は、
これ、倉園さんが言ってる罪悪感の文明とすごく違うところがあって、
僕の一時水準における罪悪感未満の不快感っていうのは、
罪悪感に治すということができないというか、
それをしないまま外にパッと出すんですよ。
外に出せないときは身体に出すんですね。
だから罪悪感になってないものがあるんですよ、私の中に。
あったんですね、非常に多かったんです。
これがですね、アトピーという形で出てくるんですよ。
罪悪感未満、以前なんですよね。
罪悪感っぽさを持つんだけど、
罪悪感になる前の非常に具体的なんですよね。
目に見えてしまうんですよ。
目に見えるものとして出していくんですよ。
心の中には入れないで。
入れないってところが非常に大事で、
入れてしまうと迫害されることになってるから、
私が罪悪感を持つということはイコールも迫害されるので、
患者の履歴を晒されることになってるんで、
ここをどうしてそう結びつくんだって思われるかもしれないけど、
ここを空想で結びつけてしまうんですね。
ここが非常に頭がオカルトになってる部分なんです。
頭には僕の考えてることはそうは見えないと思うんですけど、
もっと合理的に思われてるかもしれませんが、
僕の一時水準はみんなそうだと思うんだけど、
一時水準なんてそんなもんですよ。
赤ん坊の情緒で考えそうなことを
頭が考え出してしまうんですね。
もちろん頭ではわかってますよ。
二次水準ではそんなことはありえないというのはわかってるんだけど、
一時水準はそれについてこられないんです。
だから外に出さなきゃならないんですよ。
罪悪感になりそうな罪悪感の種みたいなやつを
外へ外へと確実にしかも出していくんで、
そしてアトピーみたいな
自分の体に出してもいいと思っているので、
身体症状として出てくるんですね。
それが僕は耐えられなくなったのが2017、8年の頃なんですよ。
ジンマシンという形で猛烈に出てきたんですよ。
いいものとして出てこないじゃないですか。
罪悪感の種なんて最悪なものですよ。
とにかくこれを世の中なり政府なり自民党なり共産党なり
何でもいいんですよ。
要するにどこにでも賢にでも
その可能性を見入れることができるならば、
例えば私がお金が稼げないということに
罪悪感を持ちそうになったら
インボイスとかのせいにするんです。
これがものすごい速度でするんですね。
だから決して自分は罪悪感を持つことがなくっていうか
入れないんですよ、心の中に。
仮に身体の中に入れることがあり
脳の中に入れることがあっても
決して心の中に入れない。
だって心を無菌状態にしておくんですよ。
だから非常に強い妄想、迫害妄想がものすごく強くあって
世の中は真っ黒ですから。
世の中は銃がハトピーになっているようなもんですから
これを僕は夢に見るんですね。
それが悪夢だったわけですね。
さっきの倉園さんの話に戻すんだけど
ペン字を習わせられそうになったときに
その妻の心の中に強く黒黒しいものを見るわけです。
俺をいじめたいっていう意思をそこに見るわけですね。
これがオカルトなんだけど。
これを倉園さんに相談したときに
何が返ってきたかというと
本当にそうですか?
これが非常に大事なんですよ。
普通に、なぜなのかは分からないですけど
普通に世の中でこういう話をすると
もっと心を強くしましょうとか
夫婦生活っていうのは
そういう嫌なことがつきものです。
でもそのように弱いままでは
やっぱり生きていけないから
現実検討を避ける
もっと心を強くしましょうって話をされるわけですよ。
そして僕はその人に悪魔の印をつけて
引きこもるわけですね。
絶対そういう話は僕は受け入れないわけです。
それは私の心が弱いという罪悪感を
持たせようという意思を持っている
悪人という認定をすることによって
私の心の中には決して罪悪感を引き受けないことによって
罪悪感の種を入れないんですよ。
そういう心理的な基礎、システムを作り上げているわけです。
だから入ってこれない、入ってこられない。
話も一切絶対入ってくることができない。
で、私の心の中の情緒はそういう話を聞かない。
頭は聞きますけどね、そういうことができちゃうんですよ。
こういう分離が脳内に
脳内というのか心の中というのかシステムというのか分離があります。
この分裂を多分スキゾイドって言うんですね。分裂なんですね。
で、私はその倉園さんが多分初めだったんですよね。
本当にそういう意図を奥さんは持っているのか。
奥さんはただ娘さんのことが大好きだから
娘さんのお父さんはきれいな字を書くお父さんであってほしいと
それはそれで大していい考えじゃないかもしれないけど
だからペン字を習えと。
つまりこれには生産的な意味があるんじゃないかってことなんですよね。
この場合の生産というのは非常に微妙な意味なんですけど
現実貢献的な意味っていうのかな。
現実協力的な意味。
つまりそれは稚拙な方針かもしれないけど
家族のためにやろうという意図ではないのかってことなんですよね。
そういう現実を検討しましたかっていう問いなんですよ。
で、私が最もやらないことが現実検討なんですよ。
精神病水準の最大の問題っていうのは
松木先生がそう言うんですよね。
人格障害の中でもスキゾイドは精神病水準として扱うべきだっていう風に書いてるんですよ。
どこかで書いてた。はっきりと書いてるんですよ。
非常に僕はびっくりしたんですよ。
え、俺って神経症水準?精神病水準なの?みたいな。
これは絶対議論されるところだと思うんだけど
でも他の人格障害と違って
だから今日いろんな改正の話特にしたんだけど
本当に考えていることが格外妄想であるならば
それはやっぱり神経症水準ではなく精神病水準だと。
多分今日この話は混乱されている方が多いと思うんですけど
ここで簡単に分けておきますね。
神経症水準の人は欲打つ不安を持ちます。
自分のせいかもしれないと思って不安になります。
精神病水準の人はこれをしません。
基本的にざっくりですよ。
お互いを行き来するんですよ。
ほとんど全ての人。
でもどっちが優勢かということです。
そして人のせいにするというのとは本当はちょっと違うんですけれども
格外妄想が圧倒的に優勢になってしまうと
精神病水準になってしまうというような話なんですよ。
全て人格障害は神経症水準とされているんだけど
特にジゾイドは例外的に精神病水準として扱うべきなのではないか
という意見があることです。
なぜなら格外妄想優勢のシーンが多いから。
私はまさにそうなんですよ。
私は欲打つ不安というものよりも
格外不安の方がちっとでかい人間なんですよ。
で、だったんですね。
だから、グラゾンさんが言った話になってくるわけですね。
現実をきちんと検討しましたかというのと
それは奥さんが白外しようとしているという認定は正しいのか
僕は絶対そうだとある面では思ってたんですね。
あとは夫さんの非常に稚拙な手段で
私の地をとにかくきれいにしたいという面もあるんだろうぐらいに思ってたわけです。
いずれにしてもそこに建設的なものは何も見られなかった。
非常にそこにあったのは白外ですよね。
格外的なものだったわけです。
この時に僕は考え方がぐるっと変わった感じを持ったわけですね。
そうなんだ。
自分は現実検討を一切してこなかったんだけども
ある面では、つまり情緒上の問題を引き起こしそうになったところの
現実検討は避けてきたんだけど
ここを現実を検討するところに希望が持てるんだ
ということを意識したんですよ。
以降、夫さんが中でも私が一番非常に困惑したのが
クラウドで仕事するやつね。
100問ぐらいやって1円くれるやつですよ。
あれを手伝わされている時も
どうしてもやっぱり白外妄想を持つから
絶対この女は俺に嫌がらせをしているに決まっている。
やったって30分で30円とかを設けるっていう仕事を
ここでやらされるっていうのは割に合わない。
割には合わないんですけど
でもそうじゃない可能性を常に検討していくことで
もっと現実っていうのが見えてくるんですよ。
そういうケースについてもね。
結局、奥さんは奥さんなりに
罪悪感を引き受ける
娘に何かちょっとしたものでも買ってやるお金っていうのを
自分で稼ぎたい。
それを僕に手伝わせてるんだけど
でも自分で稼ぎたいっていうのがあるんですね。
奥さんからもらったお金だけで
娘の面倒を見てるって思いを持ちたくないっていうのがあるんですよね。
そんなことは私には全く見えなかったわけです。
白外にされてるって意識がもう刺さってくるから。
これがですね、僕にとっての欠陥点で
パーソナリティリスオーダーというものから
なんとなく自分がその後僕はですね
さっきり変わったんだというのを感じたのが
罪悪感を持てるようになったということなんですよ。
それは2019年の頃だったんですけど
あ、罪悪感ってこういう感じなんだ
というのを持つようになったんですよ。
それまでのあのこう
あっちへんですかね。
うんぬとしか言いようがないですよね。
一通りに満ち満ちているあの感じ
体にすぐこう強烈な感じがこみ上げてくる
あの感じと全く違うんですよ。
これは感情なんだなと。
僕の持ってたそれまでのものは身体感というか
身体症状みたいなものでしかなかったんですよね。
そのようなものをほとんど入れなかったから
奥さんとか母親とか父親だけじゃないですか
そんなものを僕に入れることが本当の意味でできる。
ごく身近にいるからこそできるのであって
私のようにそもそも白外妄想に満ちて
警戒心丸出しの人はそこまで人と踏み込みませんからね。
これを突きつけられると相当な目にあってる感じがするわけですよ。
だから奥さんが多いんだけど身体症状になっちゃうんですね。
なんつえばいいのかよくわかんない。
なかなかこうならないんですよね。
そうじゃないとものすごくこう
情緒的な方がダメージを食らってしまうので
頭ではわかってるんですよ。何度も言いますけど
頭ではわかってるんですね。
これは大したこと言われてるわけではないとか
なんとでもなるみたいなのわかってるんだけど
もうこう情緒が全くついてこられなくなってしまって
もうあまりにもこう悲惨な感じになるって
なんて言えばいいんですかね。
栄養失調の赤ちゃんみたいになってっちゃうんですよね。
罪悪感みたいなものを入れると。
2019年の頃はだから大変でしたね。
罪悪感というものを引き受けるようになったために
そういうのが繰り返し繰り返し来るんだけど
少なくとも罪悪感未満なものが入ってしまったときよりは
なんて言えばいいんですかね。
はるかに真っ当なんですよね。
つらいんですけども
あれじゃない罪悪感未満なものが入ったときの
なんて言えばいいんですかね。
あぶられている感じみたいなのとは全然違って
罪悪感に切り替えているのは自分だというのが
はっきりわかるんですよね。
そうであれば自分なんてやめることはできるわけじゃないですか。
苦しむ罪悪感
入れるか入れないかの問題っていうのは
入れてきてるのは他人だと思ってる。
どうしようもないわけですよある意味。
完全に拒絶するかそのまま貫通っていい感じですね。
入れるんじゃないですか。
貫かれる感じになっちゃうんですよ。
だから罪悪感の場合は自分の中にある感じなんだけど
弾丸なんてことから僕をただ貫くだけになってしまうんですよ。
そこの転換がわずか1時間弱のやり取りでできるようになる方法が入ったっていうのが
僕のこういうGood VibesでPD、要するにパーソナルディスオーダー
いけるんではないんだろうかって思うようになった体験だったことですね。
まだこの結論があるわけじゃないし
それはクラゾの形像でなくても
Good Vibesの考え方で他の人が語ったとしてますよ。
例えばそれこそ最近私たちがやってる認定のGood Vibes認定トレーナーの人が
佐紀さん現実を検討しましたかって言っても
僕が同じようにできたかっていうのはまだ答えが出る話です。