1. グッドモーニングボイス
  2. 【GMV 542】怖いから、分ける
2022-01-25 39:52

【GMV 542】怖いから、分ける

問題なのは恐怖
00:05
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
最近、ずっと寒いです。
寒いことが問題ではなく、今も迫りくる2月が問題です。
あっという間に言い過ぎちゃうし、私自身が受験するとは言わないですからね。
結局、究極的には自分事ではない気もしなくはないです。
こういうのって、大変微妙ですね。
今回は、私はかなり安心しきっているからいいんですが、
以前、娘がバイオリンのコンクールに出たことがあって、
あの時は気をもみましたね。
はっきり言って、私はバイオリンなんか弾けやしないので、
娘のほうが断然上手いから、僕が気をもんだところでどうしようもないんですけど、
自分が演奏するよりきついなという感じでしたね。
あの完全な同一化って不思議だなと思います。
自分が明らかに演奏している側に立っているんですよ。
野球とかで、私は経験があります。
つまり、応援しているチームにかなり同一化してしまうという傾向が
千葉ロッテだけどあるので、ピンチとかになると苦しいんですよね。
やっている人よりこっちのほうが苦しいんじゃないかくらい苦しいんだけど、
それくらい同一化して、それよりもはるかに緊張しましたね。
僕が緊張してもしょうがないんですけどね。
そういうことはあったから、今も初めてそういう経験をするわけではないし、
しかもコンクールよりはだいぶ楽だと思うんですよ。
結局、一人だけでみんなの前で演奏するというわけではないですからね。
これは、受験というやつはね。
私自身経験があるんですけど、正直、私昔ピアノを習っていたときに
発表会ってやるじゃないですか。
明らかに受験より緊張しましたね。記憶している限り。
小学校2年だったということもありますけどね。
なんだかんだ、しょうがないんで。
しょうがないというか、そういうことがあるので、
あとはコロナ騒動に巻き込まれないということしかない。
これはですね、コロナが怖いとか重症化するとかしないとか関係ないんですよね。
もう陽性だったら受けさせてくれないという学校が事実あるんで。
もうなんかこう、これって受験生の責任なのかどうか、
大いに疑わしいんですけど、一方で向こうも民間企業ですから、
私立学校などというのはね。
だからどうにもならないんだな、こうなってしまったらという。
もう濃厚接触しただけでも受験資格には非常に微妙なものになるというケースすらあるんで。
濃厚接触ってかかったことにはならないだろうと思うんだけれども、
もうその、なんていうんですかね。
03:00
低手余ったな学校からしてみれば、
別に優秀な生徒も全員取れなくても構わないということもあるのかなというふうに思うぐらいです。
というわけで、もう私なんかは、奥さんはもともとですけれども、
家から出ないで生活するみたいになっちゃってます。
それが苦になる方ではないんで、それはいいんですけれども。
今日はですね、すごい懐かしい本を読み返す機会があって、
江田さんという方がですね、これ岸田修さんの話なんですけど、
精神分析論を岸田さんは書かれていて、精神分析館なのかな、やっていたこともあるんだろうか。
もうそういうことって結構わかんないですからね。
そういう感じは私は受けなかったんだけれども、
そういうツイートで記載されていたんですけれども、
受けなかったんだけれども、そういうツイートで、
久しぶりにこの言葉を見たなという内的事故って言うんですよね。
内的事故なんて、僕すでに何度も喋ったような感じするじゃないですか。
僕一回も内的事故って言ったことはないはずですからね。
外的事故と内的事故、そういう言い方は精神分析ではまずありえない表現の仕方だと。
それをしている岸田修さんのあれほどの著名人で、
つまり独自なんですよ、表現技法がね。
そういう物書きの人っているし、すごいよなと毎回思うんです。
あの人がよく感じさせますね。吉本隆さんですね。
似てますもんね。岸田さんは唯言論でしたっけ。
吉本さんは共同幻想ですもんね。
こういうことを言うようになっていくんですよ。
なぜなら意味付けですから。意味付けって結局幻想ですし、
少なくともそうだな、狼とかに言わせれば絶対幻想ですよ。
人間が勝手に作り出してますよね。赤は止まれとか、ここは道路だとか。
だから狼は道路に行って跳ねられちゃうわけですから。
意味付けっていうのを、しかもそれを社会の共通認識の道具みたいにして使うっていうのは、
人間ですから、そういうすごいわけわかんないことをある意味やってるのはですね。
だから気が狂うとかっていうわけのわかんないことをまた言われちゃうわけですよね。
狂うっていうのは人が勝手に言うことですからね、ある意味。
正常とか異常とか言ってみたところで、
例えばここが道路なのは明らかなのに平気で渡っているから正気とは思えないとかって言うんだけど、
だってそんなことはないですよね、別に。それは意味付けですから。
便利ですよ。そうしないと死んじゃったりするわけだから絶対便利なんだけど、
だからといってそのやり方の方がよっぽど正気を変えたところはあるという話なんですよ、これ結局。
06:02
内的事故か。内的事故って何なんだろう。
本当の事故とはどう違うんですかね。
この辺でまず詰まるんですよ。
対照関係論的に言うと、私は内なる母というのはつまり自分のことだと思うんだけど、
そうとしか言いようがないんですよね。自分の心の中の母親的に動き出している、
というか影響を持っている私の心ですよ、あれは。
それは当然内だけど、それは内的なのか外的なのかっていうと、
そもそも外的事故っていうのは自分なのか自分じゃないのかっていう問題が直ちに出てくると思うんですよね。
この辺の微妙さが問題になっているので、非常に岸田さんというのはこれをまたですね、
フェリー代行とかと引きつけて話されるので、書いているので非常に面白いんですけど、
なんだかよくわからなくなっていくという傾向もあるんです。
物書き特有のものですよね。上手いこと言うんですよ。
上手いこと言われているうちに、ロジックを追い切れていない感じがしていくんですね。
そこが気になるか気にならないかで、評価が一つ分かれるところでもあると思うし、
面白いかと言われれば面白いんですよ。読んでて面白いのは面白いんです。
ただ、この種の話ってなんて言うんですかね。
こじつけって言ったら流石にあれなんですけれども、
何でも一つの論法で押し進めていくときには必ずつきまとう、
こうだからこうだよねっていう話になるんですよ。
必ずその人の論法みたいなもので、何かわかるような気がするっていうところでね、
納得させられるっていうか、そこを納得できないと、
もう先へ読み進める気を失うという、そういう資金石みたいな、
試されてるみたいな感じがするんですよね。
俺のこの話についてこれるんなら読んでねみたいな、
そういうニュアンスを受けちゃうと面白いんですよ。
居酒屋ですげえ上手いことをずっと言われている感じを受ける感じ、
そういう読み物なんですね。
でもあれはすごい売れたから、
僕も読んだことは読んだんですけれども、
だからつまり気晴らしみたいにして読むと良いんですよ。
ガーッと読んで、ああ面白かったっていう感じの、まさにそういう感じだったんですね。
のっけからですね、すごい古ってるんですよ。
読み直して見て古ってるなと思ったのが、
フロイトは社会心理学者だっていう言い方をするんですよ。
この言い方からしてもギャグ割りを言ってるわけですよね。
09:02
フロイトは明らかに臨床ベースで、臨床臨床臨床ベースで、
臨床のことしか書いてない、だから分かりにくいんだけれども、
それは社会心理学だっていう話をするんですよ。
例えば夢の検閲みたいなのでも、
実際の検閲になぞられているんだというわけですよね。
そう言われてみると、なんかそういう気がしてくるじゃないですか。
論法がガンガン来るから、なんかそういう気がしちゃうっていうやつなんですよね。
で、長寿画というのは当時のドイツの皇帝でとか言われると、
なんかそういう感じがしてくるじゃないですか。
で、こういう例え話を使っているから、
つまり人の心の中における社会というものの比喩を使って説明しているから、
非常にこの論法は社会的に見ると分かりやすいっていう話をされるんですよ。
なんかへーって感じがしますよね。
トリビアの泉みたいな感じなんですよね。
88へーみたいな感じで論が進んでいく。
よーく考えるとおかしいんだけど、
よーく考える暇は与えないわけですね。
次から次へと話を面白く展開されるから。
だから、いちいち突っかかって読んでいると、
たぶん読んでいられなくなるから、
一気についていくっていうのが僕は正しい読み方なのかなと思うんですね、この種のものは。
そもそも社会心理学だって言ってみた上で、
いきなり言っていることが集団心理的な話になっているので、
それは集団心理学じゃないでしょうかとか、
そういう風に考えたらダメなんですよ。
集団心理も社会心理もこの場合は同じようなものと見なければいけない。
この場合は同じようなものと見なして、
先へ進んでいかないと、
そこでやっぱり突っかかってしまってはダメなんですね。
あと何だろうな、
そうそうそれで、
僭越しているそういうものが心の中にあるんだから、
これは要するに心の中の小人だみたいな話になって、
それはホムノクロスの話じゃんっていう、
脳科学みたいじゃんそれじゃっていうのも突っかかっちゃダメなんですよ。
その小人みたいだっていうのも、
社会性の比喩として受け入れて先へ進んでいくと。
こういうのでいちいち引っかかっていると、
読んでられなくなるんですね。
昔僕学生時代、
読んでられなくなったことがあって、
それ以来ご無沙汰していたんですよ。
だからエフトさんには感謝なんですけど、
この種の感謝ってどうやって表せばいいのかよく分からないので、
とりあえずいいねつけておいたんですが、
そういうことなんですね。
この内的事故と外的事故が、
多分これは偽りの事故と本当の事故に相当するものを、
そういう表現で説明されたんだろうなという、
こうして用語が増えて、
混乱が広がっていく感じもなくはないんですけどね。
要はそこで亀裂が入ると、
そこのところはウィニコットそっくりなんですよね。
亀裂が入るから分裂していると、
外裂が入るから分裂していると、
外裂が入るから分裂していると、
12:01
外的事故というものに外のことを任せて、
内的事故というものが潤化していくと、
それが戦前の日本の様子になぞらえられているわけです。
潤化ってのは何ですかね、
私だけの世界を追求みたいな、
そういう感じですかね。
僕はこういう感じを戦前の日本みたいなものには抱かないんですけれども、
分裂的だなというよりは、
集団ヒステリーみたいな感じの効果が強いなというふうに思うんですよ。
どっちかというとウィニコット的に説明するよりは、
私はこの社会の現象を精神分析で説明する。
これは流行ったんですよ、戦前に多分。
やりたくなりますよね、
特殊事情みたいなもので大きな犠牲が出たりすると、
いかに日本が正気を欠いていたかを、
社会真偽というものを個人真偽で説明するみたいな、
だからフロイトみたいな話ですごいウケるというのは分かる気がするんだけど、
私はこれはすごくごまかしが多くなる論法だから、
あんまり読んでいてもトリビアの泉みたいなもんだなと思うんですよね。
へーって言っておいて終わるみたいな、
これを使ってカウンセリングとかはとてもできないし、
この説明でいくよりは普通に社会的な話をした方がいいんじゃないかと思うんだけども、
そういうのがウケた時代もありました。
うちと外で別れるという時に、
よく分裂症の人というのは、僕もそういう風に言われることがあるんですけど、
分裂期死の人というのは、朝前として見えるみたいですね。
戦前の日本って少しも朝前として見えなかったような気がする。
分かんないですよね。
外国人になって戦前の日本を見てみないと、大日本帝国を見ないと。
分からないんだけど、
例えばナチスのドイツみたいなのと似ていたとしたら、
ナチスのドイツが朝前として見えたかというと、
多分外からはそうは見えなかったと思うんですよね。
やっぱり国とか組織というのは、
なかなか分裂期死っぽく映るということは少ないんじゃないかなと。
大体そこまで興味持たないじゃないですか、外国のことって。
だから外国が目についてしまう時は、
ヒステリーに見えているケースばっかりなんじゃないかと思うんですよ。
そっちの方がまだ説明としては、
メラニー・クライン側で説明する方がまだだいぶ分かりやすいかなと思って。
どっちにしても、やっぱり大元に来るのは恐れと不安なんですよ。
いきなりグッドバイブスですって恐縮なんですが、恐れと不安なんですよ。
恐れと不安というのは、言ってみると何も言ってないとも言えなくはないから、
15:05
恐れと不安を持つよねっていう話だし、トラウマだから話の元がですね。
私は親衆という表現の方が正確だなと思うんで、
親衆という表現の方がいいと思うんだけど、トラウマですよね。
引き座さんは、ペリー・ライコウトラウマとみなしてるし、
まあまあそういうことは言えるとは思うんですよ。
それを言ったら、アジアとかひどい目にいろんな国がすでに会ってるわけだから、
みんなトラウマを抱えてるわけだから、
トラウマを抱えてない国なんてないわけですけれども、
それまで日本はすごく庵野んとやってきたから、
それをナルシズムって呼ぶんだけど、
それはまあどうかなという、そうとも言えなくもない。
だからやっぱりこの辺がうまいんですよね。
うまく切り抜けられてしまうという感じがするわけです。
で、トラウマというのはつまり怖いってことじゃないですか。
で、怖い目には合うんですよ。
それは庵野んとして来ようと何であろうと、合うに決まっているんですね。
この合う人と合わない人が分かれているみたいなものを、
まずウィニコットは否定しつつあったような気がするんです。
トラウマに合うから病気になるという、
この論法はすでに古典と言われていて、
フロイトも辞めたんですよね。
途中から辞めてると僕は思うんですね。
それを心的現実って言うんだと思うんですよ。
昔一番最初本当にトラウマにあったよっていうことだったんです。
ウィニコットがそもそも一人歩きしちゃってる気がするんですよ。
精神分析の古典的な話をする人の中には、
三つ子の魂100までで全部の説明をしようとしてますから、
必ずトラウマというものがあり、
そのトラウマのことを思い出して解消していけば治る。
それをやるのがカウンセリングなんだっていう話。
これはものすごく古典的ですから。
一番最初にフロイトが考えた話ですよね。
それでは全然説明がつかない。
誰から見てもそれほどひどい目にあってないというケースも多々あるわけです。
私なんかがそうですよ。
うちなる母とか、
三母親にひどい目に合わされた期待のことを言ってますけど、
そんなことはないですからね。
殴られたことすらほぼ記憶している限りではないんですから。
ニグレフトとかも全然ないし、だからないんですよ。
でもトラウマみたいなものがないってわけにはいかないじゃないですか。
そこをだからウィニコットがグッドイナフマザーって言ったのはそういうことで、
パーフェクトってことはないわけですよ。
絶対グッドイナフにとどまる。
ある種の人はそれをグッド、
たとえイナフという表現をとったとしても
グッドと言っていいのかっていうのはありますよ。
もっともっと私はものすごいひどい目に合いましたという話をされると、
だから精神分裂になるんだけれども、
そういう話もあり得ますが、逆もあるんですよ。
18:03
いやいや全然よく育てられたじゃないですかと。
そんなによく育てられてトラウマもないもんじゃないですかと。
でもそうじゃないんですよ。
どんなによく育てられてもパーフェクトってわけにはいかないから、
やっぱりグッドイナフなんですよ。
このグッドイナフはものすごく肌が広いわけですね。
別にペリーが外行しなくてもいいわけです。
なんか起こるんですよ。
集団はともかくとして、個人はなんか起こると。
なんか起こった時に、
やっぱりですね、
なんていうのかな、
必ずしも、
ここはちょっとだから、
本当は議論の余地ではなくて、
いろいろ考えるべきところだと思うんだけれども、
赤ちゃんにもですね、
生まれながらの気質みたいなものがありまして、
いいおっぱい、悪いおっぱいの話なんだけど、
悪いおっぱいが出てきましたと。
ここが問題なんですよ。
悪いおっぱいが出たというのも、
こういう表現を取るから、
社会的な問題にされちゃうんですけど、
母乳が出ないのはいけないんですかと、
そういうことではないんです。
例えば悪いおっぱいというのは、
寝かしつけるべき時間帯になっても、
寝させようとしないとか、
そういうことが悪いおっぱいなわけですよ。
これは別に、
母親がやってるとは限りません。
父親かもしれないし、
よく言われる言葉で言えば、
ヤングケアラーなのかもしれないです。
いろんな事情があるわけですよ、
各家庭ごとに。
とにかく赤ちゃんにとっては、
不愉快なことが起きましたと。
もちろん我々はそんなことを覚えてませんけど、
起きましたと。
起きたときにですね、
そのおっぱいを噛みつく、
これがヒステリーというものの原型だし、
そうじゃなくて、
偽りの事故でしのいじゃん、
こっちが分裂消失というものの原型だし、
で、がっきり言ってこの2つの戦略を、
両方とると思うんですね。
例えば嫌な上司が来てますと、
私だってですね、
いやもうここは、
うまく取り繕った笑顔で済まそうと、
そしたら分裂消失ですよ。
でもちょっと嫌味の一つも言って、
虫の居所が悪いから喧嘩みたいなのを売ってやろうと、
これだったらヒステリーですよ。
こういう戦略は、
両方とるに決まっていて、
どんな人だってやりますよね。
で、混ぜこぜにしたような戦略で行くんだけれども、
赤ちゃんには確かに気質があって、
ヒステリックに見えるやり方を多く取る赤ちゃんもいれば、
明らかに内と外が分かれていくような方法に、
比較的主としてそっちを扱う赤ちゃんもいるんですよ、
見てると確かに。
感が強いとか何とか言いますよね。
で、大体両方混ぜますよね。
うちの子なんかを見てても両方混ざっている。
2、3歳の頃になってくると明らかに両方混ざるんですよね。
親に対して攻撃的である時と、
親に対して強調外交的である時とはあるんですよ。
21:04
そんな年でもちゃんと。
で、あからさまにやるから、
こっちから見ればバレバレですけど、
ヒステリックな方は泣き喚くんだからすぐ分かりますけれども、
とにかくこの良いと悪いを分ける大事な点はそこにあるのであって、
必ずしも内的事故と外的事故だけで説明がつくかというと、
そういうもんではないんですね。
4、どっちのやり方で出られるかによって
親の態度も変わっちゃうじゃないですか。
対抗転移って竹尾さんは逆転移のことを対抗転移と書かれてるんですよ。
つまり親は中立でニュートラルなわけじゃないんですよ。
相手次第で子供の態度次第で親の態度も必ず動かされるから、
だから力度なんですよ。
ペリーが来航したから内的と外的に分かれたってだけじゃ済まないじゃないですか。
日本がどう出てくるかによって、
外国は日本に対して考えることも感じることもインパクトが変わってきますよね。
相手も相手あっての話だからお互い対抗転移ができるわけじゃないですか。
相手も相手あっての話だからお互いに必ず相手も動くんですよ。
ここを含み込むっていう話があんまり出てこなくなるんですよね。
なんかこう日本しか登場しないなこの話っていう、
それがすごくある意味では個人心理学的ですよね。
そういう言い方をするならば社会心理学だというよりはですね、
本当はインタラクティブな問題なんでこの問題は。
絶対にどんな人だって内的事故をどれほどうまく隠したって、
その人の内的事故は相当見抜かれてるっていう部分を忘れちゃいけないと思うんですよ。
どんなにおべんちゃらがうまく、
本当に嫌いな人の前でもニコニコしていたって分かるんですよ、相手にはね。
はっきり言って。
この辺はやっぱりグッドワイブスだなみたいな感じもするんですけれども、
でもその辺の話っていうのが精神分析の一番私は読みどころだと思うんですよね。
難しいと言われるところもそこかなと思うんですけれどもね。
だからこの比喩は大事なんですよ。
例えば態度で一つとっても、もう態度が違う。
作り笑いは作り笑いでも、
ある意味そういう人ばかり見ている専門家が見るわけですからね。
だから代弁を投げつけるとかっていう言い方をするんですよ。
不愉快になるじゃないですか。
代弁を投げつけられればね。
でも親の立場ですからね、精神分析が。
不愉快になっただけでは終わらないわけですよ。
なんでこうするんだろうって考えますよね。
この番組でも前にちょっと言いましたけれども、
例えば肛門サディズムってあるわけですよね。
あるのかないのか分からないですけどね。
でもあるかもしれないなって思うんですよ。
親はしてほしいわけですよ。
面白いのはこの辺なんですよね。
投げつけられれば不愉快になったけれども、
24:00
でもしてほしいわけですよ。
出ませんっていう状態がずっと続くと、
病院に連れていかなきゃならないですからね。
出してっていう風に言うことだってありますよ。
相手が1歳くらいの時は。
で、赤ちゃんが親に対してちょっとリベンジしてやろうと思って、
出さないでやるっていう戦略を取ることは、
僕は2歳児で頭が良ければあり得ると思うんですよね。
これが肛門サディズムなんだけど、
つまりケチなんですよ。
そしてそのケチが自分を痛めつけるケチであるっていうことに気づいていない。
そういう意味では甘えですよね。
甘え以外の何者でもないですけどね。
で、こういうことをしているんですよ。
分裂、消失の人というのは。
だって内的事項出さないわけじゃないですか。
自分の内側というものは出さないよと。
あなたそれが欲しいのが分かってるけど出さないよと。
自分の意識が分かってるけど出さないよと。
実に持って回ったようなサディズムですよね。
痛めつけるわけではないし、
何なら何にもしてこない。
この何にもしないということが相手にとっては苦しみになるということを意識してやる。
そういうやり方もあるわけですよね。
必ずしも内的事項とか外的事項に分けることが、
ヒステリーばっかりを生むわけじゃない。
本音ってのは非常に微妙な形を取りますから。
みんながみんな本音の時にナチスの集会みたいに
ものすごい感じになるとは限らない。
全く素知らぬ顔をして人に復讐を果たしていくというやり方を
好むことは結構あるわけです。
猿の集団で自分だけがバナナの在りかを知っている。
そしてそういうバナナを取ろうとして一生懸命争っている仲も
やや冷ややかに見る猿がいるという話があるんですよ。
冷ややかは分からないですけど、そう書いてあったんですよ。
非常にそういう心理ってすでに猿であるんだから
人でないわけがないんですよ。
しかもそういうのを見抜く能力が私たちにはないわけじゃない。
ここが分裂焼失の人の少し、それこそナルシシズムなんですよ。
侮りすぎていると思うんですよ。
内面を隠しておけば、オープンマインドでなければ
相手には分からないだろう。相手には分からなくて
俺の外面の良さを相手は信じているんだろう。
思い込みすぎているケースが多々あるんですよね。
だから徴然としているなんて言われちゃうんですよ。
内面で平然として見下しているんだろうということがバレてるんですよ。
これがバレてないという前提で話を進めているようなところがあるんだけど
この内敵と外敵という話は
この内敵が相手にすでにバレているということを
含み込んで考えていくとですね
もう少しこの人の立場は厳しいものがあるわけですよ。
自分隠しているつもりでいるわけですから
上手く外面やってるから上手くできてるよねって
27:02
思っているかもしれないけど
イオング派が言うところのペルソナですけれども
これが実は結構バレてるということを
前提として考えていくとですね
その人は結構いろんなところで
いろんな逆襲を細かくされているという風に考えても
不思議はないんですよね。
例えばある種の大事な情報とかは回してもらえないとかね
そういうことが起こってくるわけですよね。
これをグッドワイブスではバラバラ意識というわけじゃないですか。
はっきりそうですよね。
自分の内界もバラバラだし外界もバラバラになっていく。
だからチグハグになっていっちゃうんですよ。
どうしてもちょっとは。
外と内を分けるというのはつまり
いろんな理由がありますが確かに怖いからなんですよ。
フェリーが来航したからでも別にいいんですよ。
何かよからぬことがあったから
それはグッドイナフの範疇なんですけれどもね
攻撃とは言えないケースが多いですから。
人間関係の中では。
あるいはもうそもそもちゃんとおっぱいくれているのに
勝手に怒りだしているということだって赤ちゃんの場合は当然あります。
そうするとお母さんの態度も自然厳しくなってしまうというケースも
ものすごく普通にあるでしょう。
だからヒステリーという問題は
大好きな時は大好きで大嫌いな時は大嫌いで
この両者を分けようとするんだけど
その両者は同じものだから分けようがなくて
ここで行き詰まってしまうわけですよね。
僕が一番よくこれを感じるのは
毎回同じような話で恐縮っちゃ恐縮ですが
良い上司は悪い上司かなと思うんですよね。
前に藤子藤男Aさんの漫画道で会ったんですけれども
いつもやたらと威張ったり主人公に嫌がらせしてくる
藤子藤男Aに嫌がらせするんだけど
ひがみ君という名前をひがみ君にされちゃってますからね。
意地悪にしたスネ夫みたいなやつなんだけど
ある日行ってみたらものすごい機嫌が良かったと。
何かあったんだろうかと思ったら給料日なんですよね。
これが良い会社は悪い会社ですよね。
その人は人が違ったようになるんですよ。
実はその日はいつも親切な人が一層親切で
馬賀くんはすごいびっくりするんですけれども
そういうことになるわけですよ私たちって。
知らず知らずのうちに普段意地悪な人まで親切になる。
それはその日に給料がもらえるからですね。
だから良い会社だからなんですよその日は。
でも会社は会社じゃないですか。
良いも悪いもないですよね。
人だけが変わっていくんですよ本当は。
ところが僕らはそうは考えないんですよ。
外側からそれを見ると。
良いお母さんと悪いお母さんがいるから
自分は良くなったり悪くなったりするんだ。
30:00
そんなことはないんだけど。
そういうふうにしか思えない。
だから結局自分が良くなったり悪くなったりすると。
それがあまりにも甚だしい人は
悪くなった時の自分のことが全部記憶から飛ぶから
乖離が起こるんですよ。
そんなケースは本当少ないですけどね。
どちらかというと自分はいつも同じ状態である
というつもりでいるんですよね。
で、これはヒステリーなんだけど
僕はこの説明の方が戦前の日本との
あえて無理やりに精神分析を投入するならば
そっちの方が良いんじゃないかなと
分かりやすいんじゃないかなと
いう気がするんですよ。
いう気がするんですけど
どっちもそれはやめておいた方がいいだろうなと
いう気の方がしますね。
内的・外的に分けるじゃないですか。
内的事故と外的事故と言っちゃったら
つまりその種の表現の難しさですね。
結局これは臨床が問題になっている
という話なんですよ。
臨床が上手に説明できればいい
ということにはならないって
臨床にする時どうやるんだろうって
思っちゃうんですよね。
どっちにすればいいのかと。
要はあんまり分裂するのが良くない
って話をしているわけじゃないですか。
なぜか辛くなるからですよ。
そんなことをやっていると。
良い会社と悪い会社に分けて
それは悪い会社の日の方がほとんどですからね。
給料費は1日しか月にないんですから。
そんなことをやっていれば
会社に行くのが嫌になるに
決まっているじゃないですか。
この話は一番大元に行くと
グッドバイブスに行くんですよ。
なぜか怖いからじゃないですか。
怖いから分けたわけですよね。
この怖いから分けるというのを
赤ちゃんはやるんです。
自分を二つに分けるというのだって
結局は怖いからやっているわけで
その怖さをどうしようかっていう話で
内的事故に自分をフォーカスするのか
外的事故に自分をフォーカスするのか
結局外的事故にフォーカスしちゃったら
自分の内面を無視することになるから
無理なんだけど
明らかにひたすら戦争を突入するのが
内的ってはいかないじゃないですか。
つまり内的っていう話に
フォーカスしていくと
自分の内面を無視して
自分の内面を無視する話に
フォーカスしていくと
自然と本当の自分って話になっていくしかないだろう
なんて私は思うんですよね。
本当の自分と
要するに本当の自分で
い続けるのが恐ろしいわけですね。
あるいは悪いお母さんに
対抗する自分というものを持っていないと
あるいは悪いお母さんというものを
想定しないということが恐ろしいわけですよね。
脳内シュミレーションしたくなるわけですよね。
悪いお母さん
いいお母さんが出てきたときはいいんだと
悪いお母さんが出てきたらどうしようと
いうわけで顔色を伺うし
ご機嫌が気になるわけですよね。
33:00
これは怖いってことですよ。
問題はどうして怖いのかってことじゃないですか。
怖がらなくなるにはどうしたらいいんだろうってことです。
怖がらなくなったら
内的だは要らないし
本当だ、偽りだも要らなくなるわけですよね。
そうは言っても
偽りの自分というのは
いなくはならないんですけれども
そういうふうに考えたときに
外的・内的っていう話を
どうやって解決しようかっていう問題になっちゃうと思うんですよね。
そうするには
この減少説明が
いかにも面白くて
しかも長い
結局のところ問題にしたいのは
そっちの方ではないわけです。
そっちの方ではなくて
どうして分けたのか
そして分けた対象は同じものなのに
事故なんだから
内的と外的は結局同じものなのに
いいおっぱいも悪いおっぱいも同じなのに
つまり
全部一つなのに
二つにして扱っている
それは怖いからなんだけど
その怖さというものを問題にしたいわけだし
どうして一つにできるのかというのが問題にしたいところなわけですよね。
ここのところが
この種の減少説明を
どんどんしていく
そして壮大にしていくと
どんどんどんどん離れていくんですよ。
この傾向が必ずあると思うんですね。
吉本孝明さんの集団幻想は大変面白いですけど
さて、じゃあ集団幻想の分厚いの読み終わりましたっていう後に
次のタスクをやるのが大変辛いんだけど
あるいは
身近な人がちょっと怒っていて怖いんだけど
どうしようって時に困ると思うんですよね。
困るというか
話が枕すぎて持ってこれなくなる感じがするんですよ。
集団で幻想見てるからしょうがないよねでは
済まされないんですよ。
困ってる人にしてみると
めちゃくちゃ困ってるケースもあるわけですから
もう上司が怖くてここ40日間会社に行ってなくて
今日はもう絶対行かなきゃいけないんだけど
布団から出られないっていう場合があるわけじゃないですか。
集団幻想なんだというのは本当かもしれないし
話としては面白いかもしれないけれども
多分それだけでは
そこから出られない気がするんですよ。
って時に私はライフハックだから
まだそこまでは行かないんですけれども
それでも有意言論とか集団幻想を読んだ時には
でもやっぱりこれは面白いんだけれども
ここから先に行くにはどうしたらいいんだろうっていう話が
なんて言うんですかね
私では適応できないというか
私では結局それでは奥さんの怖さ一つ
対応できなかったという問題が残るんですよ。
36:01
それは奥さんはイリュージョン
意味付けもしているし
明らかにファルスに囚われている
超自我ですけどね。
そして私はなんだかんだ言って
長らく総的防衛と分裂消失で問題を誤魔化してきたから
この種の怖さに直面してしまうと
まず身体反応の処理に時間がかまけすぎて
相手への対応がおろそかになってますます相手を怒らせる
こういう時に集団幻想か
私の外的な事故が問題なのかっていう話を持ってきてみても
だいたいダメなんですよね。
そうであるということはなんとなく言える。
だけれどもどうすればいいかが出てこない。
臨床なんだと思うんですよ。やっぱりライフハックだとしても。
問題はミクロであってマクロじゃないと思うんですね。
話をマクロにしてしまうということは
ミクロの問題にはまた別の考え方が必要じゃないですか。
やっぱり私としては一番これが非常に意外な感じはしたんだけれども
怖がらないということが非常に大事なんだと。
相手は怖がってるんだから恐怖心を取り去ってあげれば解決するんだ。
これが全くそうは感じられないんですよ。多くの場合。
いつまで経ってもこれをやらされるんじゃないかと。
このいつまで経ってももう一つの幻想なんだけど
まあそうみんなおっしゃいますよね。
いつまで経っても相手が甘えてくるんじゃないか。
つけあがるんじゃないか。
とにかく怖いという状態で相手が怒ってると。
なんなら皿を割っちゃって相手が怒ってる。
どうしてくれるんだって向こうは言ってるけど皿は元には戻んない。
このままの状態がずっと続いて
そして自分はストレスでおかしくなっちゃうんじゃないかみたいな
そうは考えないんだけどね。
とにかくそういう感じに埋没した時に
幻想なんだという話だけでは持っていけないんですよね。
これが私の話が
事態が起きてから甘えさせればいいと
相手の甘えを受け止めればいいと言っても
やっぱりダメな感じがするんですけど
僕がやった中ではこの種のやり方しか
うまくいかなかったのも事実なんですよ。
でもって言われますよ。
昨日も言われました。
そういう事態を未然に防ぐために
シミュレーションしておく方法を捨てられないと。
捨てられないというのはつまり怖いってことなんですよね。
この起きてもいないことが起きる。
起きますよ結局。毎日起きるレベルで起きますが
起きてもいないということを恐怖している
この真理そのものが問題なのであって
起きたことに対処できない方は
それに比べりゃ二義的な問題なんですよ。やっぱり。
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だからある意味では内的と外的と
作っちゃダメなんですよ。最初っから。
でも作りたくなるって話をしてるんですよ。
どうしても作るのやめられませんと。怖いから。
その怖いから作るっていうやり方で
怖さを取れるはずがないんだけれども
やめられないですっていうのが
ここでぐるぐる回り出しているわけですよね。
だから精神分析というのは結局そこで
インテンシブにやってくるんですよ。
なんなら週に5回やるんですよ。
毎日毎日1時間。
それほどこれを取り去るのに
私たちはある意味では苦労してきた歴史があるんですよ。
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