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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
一旦なんですけど、ぶっちゃけ相談の方からTwitterで発表がありましたけれども、一旦終了となりました。
たぶん、新しい番組を何らかの形で、つまり質問を私がハガキで読み上げて、それに2人で答えていくという形式ではなくなると思うんですが、
何らかの形で、YouTubeからの発信はやめないと思いますので、今準備期間ということで、新しいのを、年度も変わりますし、たまたまですけどね、お楽しみにしていただければと思います。
ハガキというのか、ご相談はいくつかお寄せいただいているんですよ。これもたぶん、少なくとも全部かはわからないんですけど、全部やり切ったわけではないのもあるので、あるいはそれのあたりもまとめてお伝えする回とかもあるかもしれないです。
今日はですね、その中の一つに、このご質問はすごく、私向きっていうのではないんだけど、顔色をうかがう本にも書いたような内容と絡んでいるので、ちょっと私なりの方から、私だけの方から、少し考えを述べさせていただければと思ったんですけど、
要はですね、ご相談内容は、指摘されるのが間違いとか、指摘されるのがとても怖いというお話なんですね。だから私がちょうど本のテーマとして扱った内容で、しかも、すごい厳しく言われた経験はあまりないというんですね。
つまりこれは、そういうことを予想するだけでも怖いっていうお話ですよね。まさに私が本で取り上げたかったようなお話なんですけれども。
で、その中にですね、とても長い間落ち込むと。このとても長い間というのが、これは体感覚的なもので、主観的なものだと思うので、何日間と何時間ですというふうには言えないことだと思うんですけれども、とにかく長い間落ち込むんだっていうのがまず実感としてあるわけですね。
一つはですね、ここにアプローチのポイントがあると思ったんですね。指摘されると、ちょっとしたことの指摘、例えば、住所を書き損じるとかそういう時にちょっと言われたりするってことだと思うんですよ。するととても落ち込むと。
で、例えばずっとこの番組で取り上げていた精神分析の観点からすると、多分環境としての母親というものが、不意に本当の母親として登場してびっくりする、ギョッとする。それがまあ、大して説明もなくこの言葉を使ってるって指摘された言葉なんですけど、まあ、心臭になってしまうってやつですね。
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心臭、トラウマと言っておけばいいだろうって思われると思うんですよ。なんで心臭などという言葉を、現在クスチン大統領が侵略してますけれども、心臭、心臭の臭は襲うです。まあ、だから同じようなものなんですよ。
それは大げさじゃないかって思われるかもしれませんよね。これはこの環境としての母親、つまり手塚治虫さんの漫画にですね、宇宙に行くときにすっごい進んだ時代では、その乗り物が全てのケアをしてくれる乗り物、ああいうのSFでよく出てきますよね。
だから赤ちゃんが宇宙に行っても平気なんですよ。全部乗り物の方が世話をしてくれるんですよ。食事も、気温も、空気も、あんなこと実際はできないような気もするんだけど、そういう素晴らしい乗り物があるんですね。
あれが環境としての母親なんですね、私が思うに。私は具体的なイメージは常に持つだけじゃないですけど、あえて具体的なイメージを持つならばあんな感じなんですよね。そういうのをお母さんがしなければいけないのかという議論は大いにそうじゃなくて、赤ちゃんから見ると何がどういうからくりになって世話をしてくれるのかわからないんですよね。
ここはつまり私たちが漫画を読んだって、果たしてこの乗り物、ミルクどこで製造してるんだよとかわからないじゃないですか。哲川さんが勝手に書いてるわけですよね。そういうところブラックボックスであると。でも赤ちゃんはそこがブラックボックスであるということすら意識しないで済むというのが完全に甘えていられる状態なんですよ。
で、私たちも生きている限りにおいてこの赤ちゃんほどじゃないにしてもものすごく環境依存的に生きているはずなんですよ。たとえば黙ってても酸素が供給されるじゃないですか。このからくりも今や明らかになってますけど、そんなことを我々は意識してるわけじゃないですよね。
あと気圧がですね、今1気圧なわけですよね大体。これが常時半分とかになるとそんな星はいっぱいありますからね。半分もない星だっていっぱいありますよね。すぐ死んじゃうわけですよ。我々は病気になったりですね。気温も程よく設定されているわけです。
何より大事なのは例えば重力とかですよね。ちゃんと重力がちょうど良いことになっている。ちょうど良いから我々はここにこうしていられるんですけれども、とにかくちょうど良くなっているわけですよ。しかも人間というのは生まれつきずっとそうなんですけど、社会依存度が非常に強い生き物で、要は社会がなきゃ生きていけない生き物なんですよね。
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でも社会はちゃんとあるわけです。それがストレス源になるっていう話もあるんだけれども、つまりですね、もろもろこういうふうにまるでこう赤ちゃんが宇宙船に乗っても大丈夫なように環境がバッチリ整っていると。これが環境としての母親なんですね。ということはですね、このカラクリが分かるようであってはいけないんですよ。
どういうことかというと、すっかり安心しきっている赤ちゃんからしてみればですね、実はこのミルクを作っている人間がいて、その人間にはその人なりの事情もあって、最悪の場合そのミルクは実はですね、ただの水になってみたりしちゃダメなんですよ。
それは大変恐ろしいことじゃないですか。すっかり身を委ねているはずだったのに、実はすっかり身を委ねるようなことができない相手なんです。っていうのが侵襲になると。つまり私たちは環境にすっかり依存しきっているものだから、環境がガラッと変わったりすると、それがトラウマになるんですよね。
それは例えば大人にとっては地震がそうですよ。地面というのは揺れないものなんですよ。突然揺れるからびっくりするわけですよ。でも地面には地面の事情があってですね、プレートか海洋プレートがどうたらこうたら知りませんけれども、事情があって揺れざるを得ないこともあるわけですよね。
お母さんもいつもいつも赤ちゃんの面倒を見ているんだけれども、でも仕事に行かなければならないとか、実は外に行って事故に遭っちゃったとかあるわけですよ。でもそういう事実を、そういうことの真相を赤ちゃんは知ってはいけないんですよ。
そのようなことを知るだけでも赤ちゃんにとってはもう恐怖でいっぱいになりかねないと、私たちだっていつ地震が起きても不思議がないですっていうことを四六時中意識していたらそうなるわけですね。つまり環境としての母親というものは100%母親に依存しきっていて、しかももはや依存しているということを自覚できないレベルで依存するのが正常なんですよ。
自覚できるような事態に立ち入るということは何か異常事態が起きている。浸出に近い状態が起きているから恐ろしいわけですね。
で、ちょっと振り返ってほしいんですよ。最初の質問者のご相談の内容は、つまりかき存じをすると指摘されたと。この方は環境への依存度が低いんですよ。最初から。
だからかき存じをするという状態が起こらないときは依存しているんですね。環境としての母親がいる。そして自分を所定の欄に住所とかを書く。ところが指摘してきたということはこのお母さんは環境じゃないんですよってことが分かっちゃうんですね。
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子供心相は指摘し得る相手だと。環境というものは指摘してこないですよね。環境というものはすっかり身を委ねる相手であって、例えばベッドに寝る。これが環境ですよね。どんな寝方をしてもいいですよね。
ところがお前寝方悪いぞとかベッドに行ったらぎょっとするじゃないですか。このぎょっとするに相当することが起きるというのがとても怖いという人がいるんですよ。それは環境としての母親に対する信頼度が低いんですね。少なくとも従前じゃないという言い方をこういうときにはしたくなるんだけど。
100%依存しきれていないからちょっとした相手側の指摘が人格として登場してきてしまう。この見方を私たちがしているということを指摘しているのが精神分析であって、私はこれは100%正しいと思うんですね。
私たちはすっかりそういうものに慣れきっているはずなんですよ。いろんなことをしてね。私たちにとって環境というのは100%都合のいいものでは決して本当はないですが、例えば意味づけなり、例えばイリュージョンなりを駆使して、私たちは100%そこに依存できるようにしているわけです。
価値とかって別に悪い生き物じゃないですよね。でも我々はそれに悪いという意味をつける。こうすることで相手を環境にしちゃうわけですね。だから環境にしちゃうからこそいいだ悪いだを平気で言えるわけじゃないですか。
自覚がなくなればなくなるほど本当に悪いもの、本当にいいものみたいな言い方を平気でしますよね。うちの上司は本当に最悪だとか平気で言うじゃないですか。最悪なのは自分の都合にとって悪いという意味でしかないですよね。
というかそもそも上司に言わせれば、俺が環境なんじゃなくてお前が環境なんだって言いたいところじゃないですか。これがマウントの取り合いって話になっていくんでしょうけれども、後から会社にやってきておいて人を環境扱いするなって相手にしてみればそういうことになるじゃないですか。
でも僕らはどこまでも自己中心的だから環境にレッテルを張っていくわけですよ。自分にとって自分を快適にするものは良い環境であり、自分を不快にするものは悪い環境なんですね。
だってどこまでもレッテルを張るということはどこまでも依存していくということなんですよ。これで良いんですよ通常はね。だけれどもどうしてもどこかで相互ができる。つまりこれがウィニコットって人が言ったことですが、パーフェクトな環境というものは存在しない。
彼はもう少し独特の言い方を使うんで、パーフェクトな母親というものは存在しないと言うんだけど、同じ意味ですよ。パーフェクトな上司というものは存在しない。存在したらおかしいですよね。私にとって常に万全に都合の良い上司、常に私にとって一番良いことしか言ってこない上司、いるはずがないんですよね。原理的に無理なんですねそれはね。
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だから良い上司、悪い上司という問題が発生するわけです。普段は良い人なんだけどこういう時に良くないと。それは自分の都合について喋っているわけですよ。私たちはそれでも根本的には環境を信頼していていいわけです。
だって酸素はなくならないし、重力もなくならないし、水も供給されるし、非常にひどい状況になることはあるにせよ、99%以上、つまりパーフェクトじゃないけれども、概ね信頼していられると。この基本的な信頼が損なわれつつある人にとって、環境というものは十分そこに安らぎを得ることができないので怖いわけですね。
そこからちょっとした指摘が出てくる。住所書き損じてますよ、もうちょっと気を付けてくださいねって言われるとドモンと来るわけですね。お母さんが私の世話をしてくれて、必要な時呼べばいつでも来てくれて、ミルクにお酒とかを混ぜないはずのお母さんが男の人とどっかへ夜遊びをしていると。しょうがないじゃないですか。
それは人間だから当然ではないかもしれないけどしょうがないじゃないですか。パーフェクトな母親っていないわけですよ。でも赤ちゃんの言い分からすると、母親はパーフェクトでないと困ると。ここでトラウマというものに遭遇しなければいけないと。ミニコットは遭遇しなければいけないという言い方をするわけですね。
つまりグッドイナフなわけですよ。グッドイナフなんだけども100%信頼して受けるようになるのを自立って言うんですよ。彼に言わせるとね。
だけどもグッドイナフであってはダメだと。グッドイナフじゃなくてパーフェクトになりなさいということを一生懸命言おうとすると、それは甘えというものを通り越えてしまっていて。
ドイ・タケオさんの言い回しを使うと甘ったれになってしまうと。そうすると病気になってしまうんだよと。甘ったれが病気ってすごいと思うんですけれども。甘えというのは、つまりここに相互に好意があればですね、母親が少々グッドイナフでしかなくてもなんとか乗り切れるんだけど、ここに好意らしきものが感じ取れなくなる関係に入ってくると、無理矢理甘えをそこに成立させなければならない。
甘えというのは、好意がお互いにあったら自然成立するものなんですけれども、その好意が信頼できなくなってくると成立しないわけですね。そこに無理矢理甘えを成立させようとすると甘ったれになるわけです。
彼の言葉ではそういう風になっているので、甘ったれと甘えってめちゃくちゃ違う言葉なんですよ。彼からしてみるとですね。それは甘えの成立しない恐ろしい世界の出来事なわけです。
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このまさに世界がそう、このご質問に悩まれているという方のお話がそうなんです。僕らは基本的にはすっかり依存し甘えているから住所が指摘されたと。ふんふんなるほどね、間違っていたねって言って住んじゃうわけですよ。
なぜ住むかというと環境に扱いしているからなんですよ。母親だからなんですよ。甘えているんで、コンビニの店員さんなんだか上司なんだか知らないけど指摘されたらありがとうございますということで住むんですよ。指摘してもらって助かりましたで住むんですよ。
でも住まない、もっと過酷な世界に生きている人からするとこの一言の指摘によって私はもうこういうところで平気でミスするダメ人間なんだという落言を押されたかもしれない。つまりすぐ罪悪感の問題に入っていってしまうというのは世の中が環境扱いできていないということなんですね。
環境扱いできているということは赤ちゃんが宇宙船の中ですっかりやっていかれるということはある意味一つになっているということじゃないですか。赤ちゃんと宇宙船は一つですよね。赤ちゃんと宇宙船が別々であることを意識するというのはこれがウッドバイブスでいうバラバラ意識になるんだと思うんですけどとっても恐ろしいことですよね。すっかりそれに依存しきって生きていたい人としてみればです。
このとっても恐ろしい世界に足を踏み入れるとHSPになっていくわけですよ。世の中というものは私とは分離している環境という恐ろしいものでできているんで油断も隙もあったもんじゃないわけですよ。
相手はいつどんな形で手のひらを返してくるか分かったもんじゃないわけです。地面はすぐ地震になってしまうかもしれないし、降ってくる雨は全部酸性雨で毒たっぷりになっているのかもしれないし、重力も急になくなってしまって自分の血がどっか上の方に行っちゃったりするかもしれないし、とにかく大変なわけですよ。
基本的信頼が損なわれているというのはどんなに大変なことかと。これで私たちは病気になっていくわけですから。分析家の人たちに言わせると精神病というのは基本的にこれですから。世界に対するベーシックトラストみたいな言い方をするんですけど、とにかく基本的信頼というものが損なわれた状態。
規定的なんとかとか言うこともあるんですけど、とにかく一時なる地震の世界ですよね。私とお母さんは一体ですと。一体だとしか思えないんですから。本当にもともと一体だったわけですからね。これが損なわれると別人格であり、もしかすると都合によっては自分捨てられるかもしれない。あるいはご飯もう二度とくれないのかもしれない。大変なことなんですよ。
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という恐怖感がもしかすると住所の書き損じによって生じるかもしれないんですよ。二度と食事が出てこないような世界に追放されるかもしれないような恐怖が発生すると。これは情緒的な話ですよ。感情的にそういう恐怖感にとらわれるということになればですね、それは当然長い間落ち込みますよね。
どうしたら二度とこの種の間違いをすべて完全に防ぐことができるんだろう。できないんですよ。そんなことは。基本的な方針が基本的に間違っているわけです。
そういうふうに世界と自分というものがバラバラであっても生きていけるようには私たちは決してできていないということなんですね。何の根拠があるのかは知らないけど毎日酸素は供給されて地面は基本的には揺れないんですよ。
そういうふうなものだと、世界を基本的には信頼できるものだと信じて生きていなかったら私たちはもうそれだけでもダメなんですよ。だから時々その反対のことが普通のように言われてくるというのは実は簡単に受け入れてしまったらダメだということなんですね。
私たちは一個の独立した存在だとか、どんな環境でも生きていけるとか、一見なんてことない言葉なんですけど、自立した一戸人とかね、なんてことない、なんか耳に聞こえの悪くない言葉なんですけど、実はこれを受け入れたがためにですね、どうでもいいような恐怖感にとらわれていって自滅的なことになっていっちゃうんですね。
だから、親がパーフェクトではないんですけれども、パーフェクトでなくても私たちはそれを100%信頼して生きていくことは基本的にはできるはずだと。
で、そこで、いやいやでもこういう人もいるじゃないですか、ああいう人もいるじゃないですかっていう疑念が発せられるじゃないですか。そこを乗り越えるためにあるのがカウンセリングであり精神分析であり、プラザのさんのケッセッションであったりするわけです。
つまり、とはいえこういう事象はどうするんですかと。親はアル中でノンダクレで暴力的なんですと。つまり、グッドイナフというのはどこまでが許容できるんですかという問いが発生したときに、信頼できないと。
もしかしたらこのご相談者のように、いや親は殴りもしなかった、のなりもしなかった、アル中でもない、ちゃんとしていた、でも何か信頼できないということもあるんですよ。こっちの問題は実は結構難しい問題なんです。
例えばお母さんが情緒的には反対のことをやるとかね。例えばどういうことかというと、テストで100点取ってきましたと。お母さんとしてはすごい褒めたいんだけど、こういう時に限って妙に冷淡になっちゃうと。そういう人っているんですよ。
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こういうケースではグッドイナフというものに対する情緒的な信頼が実は欠落しやすくて殴ったり理不尽なことはされないんだけれども、何か不思議な対応に迫られてしまって難しいことになっていくんです。そういうことはあるんですね。
こういう時に神経症みたいなものというのは発症しやすくなるんだけど、こういった100%信頼するのが容易な環境であれば簡単なんだけど、それが少なくとも難しいように見える場合にはどうしたらいいんでしょうというのが精神分析だと私は思うんですね。
だからあそこではそういう信頼できない母親というものにぶつかった時にどう対処していけばいいのかということを言ってみれば、来た人と分析家の間で2人で考えるというか、あれです。
劇をしてシミュレーションをするような中で、こんなお母さんだったら自分がこういう気持ちになるのはしょうがないじゃないですか、誰だってそうなるでしょうって言った時に、いや私はそうはなりませんよっていうことを例えば、例えばですよ、精神分析の人が劇的に見せてあげるみたいな、そういう感じのものだと思うんですね。
カウンセラーでも同じなんですよ。劇的にというのはつまり、舞台の上のような感じで白身に迫った演技という形で示してくれると。要するに演技なんですよ。お母さんじゃない人がお母さん役をやるわけですからね。あるいは子どもじゃない人が子ども役をやると。
こういうことをやっているうちに、こういう風にしていけば、例えこういう問題のある親だったとしても、自分は100%じゃないかもしれないけど100%なんですよね、信頼だから。100%じゃない信頼って無理があるんで。
信頼してやっていくことができるんだという風になると、不思議とノイローゼの症状ってなくなっていくんですよね。
という話がですね、たぶんこの話としてはですね、話がこういういきさつが必要になってくるのかなと、このちょっとした間違いをするのが恐ろしいということと、指摘されたらもう長いことへこんでしまうと、へこんでしまうんですよ。
だってそれは油断がならない世の中の一つの証拠になっちゃうんで、やっぱり世の中というのは油断がならないんだと。こんなちょっとしたミスでも厳しく指摘されてしまうと。
だから大きなミスをしたら何が起きるんだろうと、国家被追放とかになるんじゃないだろうかとは思わないはずなんですけれども、情緒的にはそういう感じを抱くんだと思うんですよね。
だからそう考えてみると字の間違いなんていうのはですね、一画一画常に間違う可能性があるわけじゃないですか。これはもう完全に神経症的じゃないですか。一画一画全て間違う可能性がある。
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線なんて何千回何万回と書いて、ここ一回も間違えちゃダメだ。恐ろしいに決まっていますよね、そういう世界に生きているとすれば。
その間違いが累積で100回になればですね、よくわからないですけれども、何か目に見えない恐ろしいペナルティーが社会の方から課せられるという社会に生きているんだとするとですね、やっぱり怖いわけですよね。
これが怖いのは当たり前であって、別に特殊な精神状態にあるわけじゃないということです。
逆にこのようなことで悩まれている方には共通して多分あるのが、一体お前は何の根拠があって安心して生きているんだと私のような人間に、あるいはもっといえば蔵園さんのような人に問いただしたいということだと思うんですよね。
プーチンだっているし、地震もいつ来るかわかんないし、何回トラフだし、電車の中で急に火をつけ出したりするような人もいるしっていう、そういう証拠をいっぱい集めておいて、なぜそうのほほんと生きていられるんだと。
で、この問いは最初から実は矛盾しているんですね。
じゃあ蔵園さんがのほほんと生きるのはやめて、のほほんと生きているわけじゃないんだけど、すっかり安心して生きているのはやめて、HSPみたいにして、私のこともそうして、いろんな人もそうして、どうするんだってことになっちゃうじゃないですか。
どうしようもないですよね、みんながそうなったところで。
つまりこの話って最初から独特の矛盾を抱えているわけです。
精神分析科のところにやっていく人はみんな同じです。
あなただってこうなれば同じようになるでしょうと。
よく言うじゃないですか、人は誰だってあれだけ怒られれば黙ってはいられないと。
黙っていられる人がいた方がいいはずなんですよ。
でも逆になっちゃう。
全ての人を同じようにして、全ての人を悩みの底に突き落とすと、何かいいことはあるのかというと、何にもいいことはないんですよ。
ないんだけれども、そうせずにはいられない。
そうせずにはいられない。
実はこれはそういう業理なんだと僕は思うんですよね。
みんなを同じような弱い人、みんなを同じような困った人、みんなを同じようなノイローゼに悩む人にした方が、自分は安心できるような錯覚を覚えているわけです。
それは間違いなく錯覚ですよ。
みんながそれをやるようになるということは、多分世の中は極めて油断のならない、ただのやばいところになっちゃうはずなんですよね。
そうは実際ならないんですけどね。
ほとんどの人はグッドイナフマザー、グッドイナフであるということには納得するんですね、結局。
納得できないという問題が起こるのは、もちろんそれはある程度そういう良いくれきを背負ってきているからなんだけれども、でもやっぱりグッドイナフはグッドイナフなんですよ。
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ここでパーフェクトに近いものを目指してしまうから話がややこしくなるんだけど、
パーフェクトに近いものを目指す人ほど、実際の良いくれきは親はパーフェクトから程遠かったっていう、そういう矛盾もここにはやっぱりあるんですよね。
親がパーフェクトに近い人ほど、実はグッドイナフで済ませることができるんです。
この辺はとっても、それこそ個性という役割という話になっていっちゃうのかなと思うんだけれども、
そういうこの運の悪さという言い方をするのはどうかとは思うんですよね。
さっきも言いましたけれども、目に見えやすい問題と目に見えにくい問題というのもあるし、
目に見えにくい問題というのは一見したところすごい申し分のない家に育っているんだけど、
自分の病理はすごく申し分のある状態になっちゃっているというケースは多々ありますから、
そういうようなことを含めて考えてみるとですね、そんなに簡単な話にはならないんですけれども、
でもここに書かれているようなちょっとしたミスというものが気になるというのは、
実はちょっとしたミスということではむしろないと思うんですよね。
ちょっとしたミスというふうにおっしゃっているのは、結局それはミスの程度というものを測っているオフィシャルですから、自分で。
それはすごく気をつけているという話でもあると思うし、
ちょっとしたミスなんだから、レッテルを貼るのを遠慮してくださいみたいなところがあると思うんですね。
この段階ですでに相手は悪意を持っている感じがあるんですよ。
だからちょっとしたミスではないんですよね。
だって相手が悪意を持っているんだったら、はっきり言ってこっちはミスなんかしなくても攻撃の対象になるわけですよ。
悪意を持っているんだから。
この悪意を持っているという過程を持たないということなんですよ。
100%信頼するというのは。
悪意を持っているという過程をどうして持つ必要を感じたのかというか、持つことが必要だと思ったのかということですよね。
これはもう完全に相互の関係になっていますよね。
悪意を持つと想定しているから怖くなっているし、怖くなっているから悪意を持つと想定しなければ、
とてもじゃないけど怖くてやっていられないという、そういう相互の関係に入っているわけです。
そして明らかに破綻しているのが、つまり甘えの世界が破綻している。
お互い全く甘えを許さない世界というものに生きざるを得なくなっている。
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この世界に生きるということはおそらく不可能であるというふうに言ったのがタブット遺産だと私は認識していて、
これを自分の心の中で回復させない限り、
私は顔色を伺う問題というものはその人から消えることが決してないんじゃないかと書いたわけですね。