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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
今日は日曜なんですが、もうちょっとですね、ちゃんとスケジューリングするというのを極力やめようという、これは僕のチャレンジの一環ですね。
平日毎日みたいなのを崩すというやつです。
別に崩そうというわけではなくて、思い立った時はやろうみたいな、そういう感じですね。
ちょっとだけですね、名前がグッドモーニングバイブスなんで、グッドバイブスからあまりかけ離れたくはない店を、ちょっとこのグッドモーニングバイブスもブログ的なものにしていこうかなと。
単純にこの流れでいくと、やっぱりいつか尽きて、もうすでに尽きているなわけですが、同じ話を繰り返さざるを得なくなるなというのがありまして、まだまだ精神分析なんていっぱいあるんで話はできるんですが、
一方でですね、やっぱりこれはやっててなんぼなんですよ。最近そのことをドイタケオさんの甘えの甲像じゃなくて、甘えの甲像を書いたドイタケオさんの小霊集みたいなのがすごい面白いんですけど、これの話を随時また追ってやっていこうと思いつつ、
特にですね、土日とか祭日にやるときはグッドバイブスとか精神分析から、特に精神分析からは離れてしゃべりたいなと思うようになったりして、そのまんまいくかわかりませんが、適当な番組なんで随時そういうふうに書き乱していこうと思っています。
このことはですね、今日をテーマにしたいんですけれども、
昨日ですね、タスクシュートオンライン、月に1回ですね、タスク管理トレーニングセンターというところの、タスクシュート中心とした私と大橋江藤さんと他、J松崎株式会社のメンメンの方とかゲストの方とか招いてオンラインでセミナーやってるんですね。
これ多分誰でもご参加いただけたと思います。
オンラインコミュニティの方は随時無料でね、多分募集されているんで、このオンラインコミュニティに入ってさえいただければこれを見逃すということはないんですけれども、
外にも一般にも今は確か参加募集かけていると思うので、よろしければご参加検討していただければ、
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これ聞いている方はですね、ちょっと毛色が違うかもわからないんですけど、興味があるという方はそんなにバカ高くあるもんじゃないんで検討していただくといいかなと思うんですが、
昨日やったんですよ。そこでいろいろな方のご質問なり参加動機などを伺っていて、
昨日は私は控えめにしているつもりだったんですね。
というのは、昨日ゲストの方がメイン講師だったので、あまり違う話をしても、聞いている人に混乱を与えても良くないなと思ったのと、
全然違う話をして混乱の渦の中でやるというのも悪くないと僕は思うんだけれども、結局僕はよく言う話ですが、入り口がどうであれやることは変わらないはずだというのが一つあるんですよ。
ある意味そのことを納得するのがタスクシュートだと思っているので、よくある話としては、
例えばどんな見積もり時間にタスクごとの、自分の行動の見積もり時間をどういう風に決めておこうと、
結局は記録を強さにとっていくと落ち着くべきところに落ち着かざるを得ないんですね。
いくら食事は30分で切り上げるとか、YouTubeは1日30分までとか決めてみても、
そのようにはいかないし、またそのようにはいかないというのがですね、長い目で見るといくようにいくことになるんですよ。
それでは理想はどうなるんだという話になると、この番組のテーマでもあるんですけど、
その理想というのが私たちの中には人格が少なくとも絶対1個ではないんですよ。
これは分析の常識だと思うんですけど、1個じゃないことだけは確実なんですよ。
1つの人格が掲げる理想というものに他の人格が乗ってこないというのがまた1つの問題でして、
理想はどうなるって言った時の理想は誰の理想だっていう問いが必ずなきゃいけないんですね。
YouTube30分というのが理想だというのは誰の理想なのかってことなんですね。
もしかすると自分の親の理想かもしれませんよ。
私は今親の言うことを聞くような年齢でもそういう精神でもないからって言われるかもしれませんが、
その親っていうのはどこにいるのかっていう問題もあるんですよ。
自分の外にいるとは限らないわけですよね。
自分の中にいる親なのかもしれないと。
自分の中にいる親が理想というものを持っているのかもしれないし、
その理想は自分自身の理想とはまた違うのかもしれないし、
自分の奥さんの理想とも違うのかもしれないし、
自分の心の中の奥さん、これはまた実在する奥さんとは別にね、の理想とも違うのかもしれないんですよ。
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だから理想というものを掲げてその理想が実現できないということが問題だとしても、
それは誰の理想なのかと。
その理想を実現することが誰にとって一番望ましいのかっていう話を置いてけぼりにできないんですよね。
できないからこそ理想が実現簡単にはされないわけで。
そうするとタスクシュート長らくやっているといろんな理想が入り乱れてくるのが見えるはずなんですよ。
だから落ち着くべきところに落ち着くんですね。
誰かの理想を実現そのままの形では絶対実現されないんですけれども、
でも理想が実現されていくのかもしれないんですよ。
その辺の話でもうちょっと違う話をしたいんですけれどもね。
国書法的に言ってもこういう問題があって、
だから自分が思い描いた通りの結果にはならないんだけれども、
むしろならないことがいいっていうことがだんだんわかってくるのがタスクシュートでもあるわけですね。
で、このかき乱したいという話をしているのはですね、
昨日これが思ったことの究極的にというのか、
いろんな方の話をとにかく聞きまくり、なるべく自分喋らないようにして聞いていて、
昨日は逆の話を、逆だというわけじゃなくても、
少なくとも逆に聞こえる話をいきなりしだすと、
最初に初めて聞きに来ましたみたいな方には良くないかもしれないと思ったっていうのがあったんですけど、
それもあるさることながら、もうちょっとちゃんと聞こうと。
で、ちゃんと聞く中でですね、特に参加者の参加動機とかご質問ですね、
答えようと言うんではなくてちゃんと聞こうというふうにずっと思っていたんですけど、
ちゃんと聞くうちに、つまりこれはいくつかあるんだけれども、
一つは、何て言うんですかね、状態というやつなんだと。
倉園さんがグッドバイブスで言う言い方をするならば、
幸せというのは状態ではないというあれですね。
幸せな何て言うんですかね、達成する状態。
こういう条件を達成し継続していけば、一生幸せや安泰が得られるというようなものではないという話を時にされるんですが、
それも結構されるんですけど、あれなんですよね。
僕らは状態というやつに騙されている感じがするんですよ。
かき乱したいというのは、つまり状態というものは実在していないということを、
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僕らはやっぱり絶え間なく意識しておいたほうがいいぐらい状態というものがある感じを持ってしまうんですね。
タスクシュートなんて、タスクシュートというのはつまりタスク管理兼時間管理なので、
毎日とか、場合によってはある種の時間帯になるものを意識しがちなんですね。
時間帯の帯は帯ですね。
この帯状の状態があるような感じがしちゃうんですよ。
いろんなここにはイリュージョンがあるんだけど、錯覚ですね。
ある時間の過ごし方をしないと私たちは幸福ではないとか、
ある時間の使い方をここでして、次にこういう時間の使い方をするということがあたかもできていて、
そういうことは事実としてあり得るんだという感じを抱いちゃってるんですよ。
事実としては僕はあり得ないと思うんですね、そのようなことは。
それは認識であって事実じゃないと思うんですよ。
だけれども、今ではそれが世の中でも一応の事実みたいに言われるし、
そこをさらにタスクシュートのようなもので記録に残していくと、事実のように見えるっていう影響を及ぼすんですね。
例えば集中した状態という表現があるんですよ。
私はそのようなものはあり得ないというのは、
グッドバイオスじゃなくて心理学がすでに、最近皆さんが大好きな言葉で言うとエビデンスとして持ってるんですよ。
集中した状態などというものはないんですよ。
だけれども、こういうののエビデンスとかいうのは、反証のエビデンスもいくらでも挙げられるんで、
だから私、あれをみんなが好んで持ち込むのがちょっとよくわかんないですよね。
あれは学級界の賛成反対みたいなもんで、いくらでもひっくり返せるんですよ。
大概のことは。よっぽどこれは確実だろうというのだってひっくり返す証拠を出してくるなんて容易なことで、
よくあのようなものがサイエンスみたいな顔をしていられるものだと正直ツクツク思うんだけれども、
まあいいですが、これを多分ツイッターとかテレビでは僕はしゃべる機会は今後も持ち得ないでしょうが、
しゃべったら袋叩きだろうなと思うんですけどね、こんな情勢では。
でもこれほどインチキ臭いものも珍しい。
このエビデンスでいいならば、ウッドファイブスとか圧勝な感じがするんですよ。
毎回しゃべってて聞いててもそう思います。
もうエビデンスいくらでも集められるなっていう感じがしますね。
エビデンスってほんといくらでも集められますからね。
私もこれがアメリカの大学でやっていく重要なポイントだって思ったことの一つに、
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エビデンスをいかにうまく作り出すかだっていう。
このエビデンスをいかにうまく作り出すかということは、
エビデンスをみんなが信じられるストーリーを描けるっていう意味なんですね。
だけどこれは文章で描いたら絶対ダメなんですよ。
これを巧みな文章で描こうとするとハマるんですよね。
だいたい日本人って巧みな英語でエビデンスを信じさせるストーリーを作るとかってのは、
かなりそれだけで難しいし、そんなことやる必要がそもそも全くないんですが、
これは余談なんで戻しますけれども、
とにかくエビデンスがみなさん好きなんですけれども、
集中した状態を持続するエビデンスとかってそういうものはないし、
たぶん誰かが作り出そうと思えばすぐできちゃうからあるかもしれませんけどね。
逆はあるんですよ、間違いなく。
集中した状態というものが実在するわけじゃないという。
それよりも何よりもですね、
集中した状態というものがどうしているんだっていうのがなくなってしまうんですね。
例えば集中が途切れるという、
集中が途切れるのを何とかしたいというご要望がきのう上がっていて、
集中が途切れるという、
その場でもすでにそれが問題なんだろうかという議論があったんだけれども、
それよりもそのような状態はないから、
当然集中が途切れるとか途切れないとかいう議論自体がないわけです。
集中した状態というものはないので、
集中した状態が途切れるということももちろんないわけです。
だってその状態がないわけですからね。
例えばタスクシュートをやっていて、
30分仕事に集中しましょうというのに、
途中YouTubeによろめいちゃいましたと。
だからその記録を残しましょうというのがタスクシュート的には王道です。
自分の集中がいつ途切れたかって話をするためにですね。
王道ですが、実は自分が例えば原稿執筆をしているならしているなり、
30分の集中した状態というものを記述するのはダメなんですよ。
僕はそのようなことはタスクシュートでも何でもないと思うんですね。
タスクシュートは原稿執筆30分というのしか記載しちゃダメで、
こういう話を始めると、
昨日のような場ではやっぱり混乱を巻き起こすだけだなとは思いますけど、
今しゃべってても。
要は行為を記録するものであり、
心理状態を記録するものじゃないんですよ。
そんなものは記録できないですから。
EEGとかFMRIとかを使って、
これは原稿に集中している状態が持続してますねっていうことが見える場合はありです。
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それは一つの電気信号として、
この電気信号の持続30分というのを記録するのはありです。
でも自分が集中しているなという状態を記録するとかはない。
だから当然それが途切れたかどうかを思って、
タスクの切り替えを行ったらダメなんですね。
あくまでもやっていいのは行動の記録だけなんですよ。
そう考えてみるとすごい簡単なはずなんですよね。
集中が途切れるのをどうしましょうという議論は成り立たないということです。
執筆が途切れるのをどうしましょうならば成り立ちます。
この時に執筆が途切れたら途切れたということを記録すればいいだけなんですけれども、
他これはですね、
昨日内的中断?なんか不思議な話も出てきたんですけど、
それは認められないんですよ。
内的中断とか外的中断とか、中断は中断であって、
依頼が来たから中断するというのは中断ですけれども、
辞めてしまったらそれはもう中断なんですね。
中断じゃないというふうに考える必要が一つまずあります。
これはそこでもう辞めたんです。
辞めた以上それを中断扱いしちゃダメだと思うんですね。
これは変にストイックに聞こえるのは嫌だったからむしろ言わなかったんで、
私は絶対そうするんですね。
例えば30分ってこの見積もりはどうでもいいんですよ。
30分が80分になろうと40分だろうと15分だろうとそんなことは関係ないんです。
見積もりというのは事実じゃないんで、
ただの言ってみれば新記録なんで、
そこに置いときゃいい数字であって、
その通りになるかどうかというのは問題外なんですね、僕の考えでは。
それよりも大事なのは一旦始めてしまったものが終わったら、
そこでもう終わりなんですよ。
これは僕はタスクシュート的だという風にギリギリ言えるかなと思っているんだけど、
難しいかなとも思いますけど、
とにかくダラダラやるとかそういう話ではないということです。
ある行為がスタートして終わったところが終わったところです。
だってタスクシュートって原理的にそうなんですよ。
行為の記述以外は許されないはずなんだから、
終わったにもかかわらずそれを終わってないと心理的に定義するというのは、
それを持ち込んでしまったらもうアウトだと思うんですね。
実行しましたと、中断なりなるものをして違う行為を始めました。
そこは終了ですよ。
開始時刻と終了時刻を打てばいいんです。
例えば3分でも。
だからやる前にそういう風に思っておかないとダメだということですね。
やり始めるんだけれども、
どこかで中断するかもしれないなと思って始めちゃダメだということです。
始めてしまった以上は終わったところがストップなわけです。
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そこに中断もヘッダクレもないんですよ。
ましてこの心理的に途切れたとか
集中した状態がどうのこうのっていう話は一切認められないんです。
それは記述の対象ではないんですね。
これは私はストイックとかそういうことではないと思うんですよ。
タスクシュートの原理だと思ってるんです。
タスクシュートというのは外的に見ても
その行為を取りましたねということが記載されてなければダメで
内面を記録しているものでは断じでないと思うんですね。
そんなことはできませんから。
内面を記録。
今さっき原稿のことを書いてたけど
次になんかエッチなことを考えちゃいましたみたいな。
そういう記録ではないし、そういう記録はできないわけですよ。
そんなことを記録しようとしたら
全く違うものになってしまう。
だから両方混ぜちゃいけないんですよね。
家計簿にこのお金は使っちゃいましたけど
節約しようと思ってたんで
3万円のものを買ったけど
実は気持ちの上では2万8千円しか使ってませんとか
いう記録って残んないじゃないですか。
し、残せないじゃないですか。
それと全く同じことで
タスクシュートで使っている時間、使っていない時間
というのをはっきりさせるためには
行為で切っていくしかないんですね。
で、行為で切る以上中断もヘッタクレもないんですよ。
そんなことを言い出したら
例えば1日というものは全て食事ですと
ただここの朝のところの一旦中断し
昼にまた再開し
夜にまた再開したんですっていう話にもなっちゃうじゃないですか。
そんなことを言ってたら
何にもならなくなってしまいます。
実は毎日というのは寝てるんだけれども
朝になったら中断し
夜に再開するんですでもいいわけじゃないですか。
何でもありになってしまうというか
一つ一つの行為が始まって終わったことを
意味しなくなってしまいますよね。
だから私は中断という風言は一切認めないことにして
終了なんですよ。
どっかで目を上げて
昨日そういう話が出たんですけど
ふと目を上げて面白そうな本があって読んじゃいました。
もうそれは終了です。
それを終了としないから
中断とか集中状態が途切れたとかいう
変な表現になってしまうんですね。
そういうことはあり得ない。
事実として存在しない。
あるのはただそこで終わったと。
代わりにまた違うことが始まった
というだけのことなんですね。
こういう風に捉えていかないと
多分ですね、僕は
記録をつけるのが非常に困難になっていくんじゃないかなと
だから記録が途切れるという話になってしまうんだと
一つは思うんですね。
で、こう考えていくとですね
つまり今ここだけなんですよ。
これがやっぱり大事だと思うんですね。
その行為をしているというのは現在だけなんですよ。
過去にしましたとか
するつもりでしたとか
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そういうことは関係ないということですね。
だからまたもっと大事だと思うのは
これからしようと思っているんですということが
できた方が理想的だという
最初の話に戻るんですが
できた方が理想的だという話には
全くならないということです。
そういうことでは全然なくて
今何をしてますかということなんですよ。
それだけなんです。
それ以外のあらゆる質問は
基本タスクシュートでは
イリュージョンだと思う必要があります。
ここは30分でやったほうがよかったんだけど
30分はやるべきだったんだけど
7分しかやってないだとか
それは完全にイリュージョンです。
30分やるべきだったと
相当に戻るんですけど
誰が言ったのかということなんですよ。
なんとなく30分がいいような気がしたから
30って書いてあるだけじゃないですか。
だからそんなものはどうでもいいじゃないですか。
執筆さえしなくたっていいんですよ。
執筆したほうがいいというのは
誰が言ったのかということなんですよ。
自分が言ったんなら
本当に100%間違いなく
自分としては30分執筆
これをしないと
してしまって
書いてその本が全く売れず
本がそもそも出もしなくても
やっぱり30分書いたほうがよかったんだ
ってぐらい言えるならば
そうかもしれない。
でも大体そうじゃないから。
結果がいいかどうかに
左右されるわけですよね。
その行為の良し悪しって。
その結果がいいかどうかって
どうなっても確定はしないはずなんで
そういうものに
囚われる理由が全くないわけです。
これはもう何度も何度も
繰り返し言ってるような話なんで
あんまり言いたくもないですけれども
いずれにしても
これからやることを書いといたって
それは理想でも何でもないわけですよ。
全くそうじゃないと思うんですよね。
書けば理想だって言うんだったら
本当に何だっていいじゃないですか。
好きなことを書いておけば
いいことになってしまう。
そうじゃないからタスクシュートなわけで
そこに30って書いてある数字には
別に根拠はないわけですよ。
だからそんなものは
とりあえずの過程の計算のために
そこにあるものだからどうでもよくて
その部分、その時間帯が
持続するかどうかということも
関係なくて
持続とかはしないわけですから。
文章を書くというのは
例えば文章を書くという意味で
ことを言えばですね
そういうことではないですから。
その現在に言いたいことを書くっていう
ただそれだけですから
その時に集中が持続した状態かどうかとか
何分経っているかとか
そういうことは計測したとしても
計測できたとしても
意味はありません。
計測はできないです、本当は。
だからこだわらないことですよ。
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それと比較して
現在、実際に使った時間が7分だったから
価値があるとかないとかいうことが
言えるはずがないです。
そんなことを言えるはず
絶対ないじゃないですか。
アインシュタインが
よく僕この例出しちゃいますけどね
相対論を導き出した時に
導き出したということに価値があるのであって
導き出したのが7分だった場合
導き出せずに苦労した300分の方が
長いからいいとかって誰もそういう風には
全く考えませんよね。
文章だって全く同じだと思うんですよ。
いいものを書けるかどうかが全部であって
それに携わっている時間の長さが
ちょうど良かったのか長かったのか
短かったのかを喋っていても
しょうがないと思うんですね。
僕よく冗談で言うんですけど
長い文字数が良くて
原稿出筆している時間が長いほど良いんだったら
ずっとあって打っていればいいじゃないですか。
ずっと打っていればいいと思うんですよ。
いくらでも文字数稼げるし
時間もずっと長く取ることがいくらでもできます。
誰もこれだといいとは思わないんですよね。
つまり意味あるものを書くってことですよね。
意味あるものを書けるのは現在だけなんですよ。
今ここだけなんですね。
過去どういうイキサスであったかとか
未来の計画がどうなっているかとは関係ないわけで
そこを無理やり関係づけるのは
やめとこうがいいですね。
それをやったからといって
現在何かができるようにならないと思うんですね。
これが書き乱したいというのは
書き乱さないでいると
毎週間がものを書かせてくれるとか
毎日書いているからブログを書けるとか
毎日やっているからポッドキャストができるとか
平日日間だからポッドキャストが続くとか
そういう辛気狼な法則を
エミデンスとともに用意しちゃうんですよ。
ないわけです。そんなものは。
ないってことは今僕は日曜の朝にも関わらず
大型の予測とは多分関係のない形で
つまり予測というものは僕の意思とは関係ないし
これは意思の問題ですね。
やりたいと思ったからやるってことですね。
ブログのようにするっていうのも
つまり定義を持たない方がいいだろうと思うんですね。
ブログとはこういうものを書くものですって
定義をすると書きやすいような気がしてくるんですよね。
例えばブログはライフログをつけるものですとか
ブログは役に立つ情報を発信するものですとか
いうことを考えておくと
役に立つ情報みたいなものに意識が向いて
ブログで書けるって思っちゃうんですが
不自由になりますよね。
平日日刊とかにすると不自由になりますよね。
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だからこういうものは自由であればあるほど
やっぱりいいと思うんですよ。なぜならば今ここでやることだからですよ。
今ここでやるときに僕らはやっぱり
自由にやってると思うんですよね。
歯を磨くかどうかは
習慣の力によって
トイレに行きたくて奥さんと喋ってたんだけど
9時30分になると習慣の力みたいなものが
僕を無理矢理立たせて歯を磨かせるってことは
起こったほどがないですよ。
やっぱり意識してやってますよね。
その時には。その瞬間には。
これしかやったことがないはずだと思うんですね。
よく話題になる
車のシートベルトも
車に乗ったとたん手がスーッと勝手に動き出すってことは
僕は一回も経験としてはないです。
やっぱり車に乗って
今ここというか現在と現実の中で
シートベルトを締めようと微かには思うんですよ。
だから自由意志なんですよ。
そうじゃないという脳科学もあるんだけれども
やっぱり僕の実感としては
どうしてもあれは自由意志だと思えるんです。
習慣の力で何か不全ルールみたいなもので
自動でやってないんですよ。
何となくであっても
自由意志なんですね。
ましてシートベルトぐらい簡単にできるものならば
ともかくとして原稿書くなどとなったら
それはもう習慣の力じゃ無理です。
全然全く少しもない。
これも全く同じで
全然全く少しもないですよ。平日の朝だから
習慣の力で8時台で今10時の日曜日ですから
関係ないですよ。そのようなことは。
関係あるはずがないです。
そのようなものによる強制力というようなものを
期待して集中状態が
継続するからやれる
なんていうようなものではないと思うんですね。
そしてそんなものいらないということです。
すごく簡単にやれます。
開始時刻とともに開始して終わった時が終了です。
だってまさにそうじゃないですか。
私これ喋っている最中に集中が途切れたから
一旦ちょっと伊先生の本を読みに
中断しましてまた再開します。
そういう感覚には全くなれないですね。
終わる時が終わる時です。
まもなく30分になるし、そろそろいいかなと思うので
終わる時が終わる時なんですよ。
この時刻に終了という風にやったら
次は再開ではないですよね。開始です。