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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
今、8月30日の11時50分で撮って出しをするべく録画をしている、録画じゃない、収録しているわけですが、
あのー、テイク2なんですね。
というのはつまり、8時ぐらいに撮ってあったやつがリテイクしたくなりまして、
途中で中断させられてしまい、もはやその続きを収録するというのでは不十分な感じがして、
今テイク2なんですが、間が4時間以上空いてしまったので、
まあ、4時間はいってないか、3時間以上空いてしまったので、続きができないのでテイク2という状態なわけですね。
これが無事、これも中断が入りかねないというのもありまして、
急ぐってことはできないので、うまくいくといいなといった感じですね。
そろそろ夏休みも終わるので、いろいろと動きがまたあるわけですね。
ほとんど学校なんですよ。
学校に集中的に合わせて動かされているところがあるので、
うまくいくときはうまくいくし、
引き続き、9月の1対1対話のCMをさせていただいているわけですけれども、
9月30日まで、ほんと残り3、4枠だったと思いますので、
このCMの中については、
もしよろしければチェックしてみてください。
第2回の働く人のための新創新輪入門が無料で公開されますので、
ぜひご覧ください。
次回もお楽しみに!
対話にお申し込みいただいた場合は、
第2回は発達障害経営の話をすると。
経営とか言っているのは、何であっても別にカウンセリングなわけじゃないから、
そしてまた心理学が全てというわけでもないので、
ここのセミナーというかレクチャーというかイベントは、
新創、働く人の新創新輪入門みたいなタイトルで、
いろんな曖昧になっているわけですよ、ポイントポイントが。
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だからですね、何でも取り扱いますけれども、
今の仕事に関わりかつメンタルみたいな話になっているものは全部、
なるべく幅広く扱おうと思うけれども、
これが何だからこうみたいな、そういうものではないということですね。
発達障害だからこのようにしましょうみたいな、
そういう話には決してならないだろうなというふうに思います。
例えばこれが今日のテーマになりそうなんですけど、
経調ってあるじゃないですか。
話を聞かれて、話を聞くだけでなぜ相手が良くなるのかと。
あまりない分に過度にシンプルにしてしまうと、
確かに機能が全く損なわれると言いますか、
意味のないものになっちゃうんですよ。
話を聞くだけで病気が治るとか、
そうはいかないケースはもちろんありますよね。
それは当然なんですけれども、
クラザノケイドさんもGood Vibesで業種経調って話をされますが、
特に経調なんですね、カウンセリングって。
話を聞くわけですよ。
見るってこともするんだけど、
相手も自分も動かないですからね。
見てわかることもたくさんあると思うんだけど、
原則的には聞くなんですね。
なんで聞くのかっていう話なんですよ。
聞くことがどういう意味があるのかと。
よく言いますよね、話すとスッキリしたとか、
話して気が楽になったとか。
でも話すというからには聞き手が必要なわけですね。
多分話して本当にスッキリするということが全てであるならば、
今私がやってるみたいにマイクに向かって話せばいいわけじゃないですか。
実はこれスッキリする的な効果があるんだけど、
それは聞いてる人がいると僕が思ってるからですよね。
これで本当に聞いてる人が誰もいないとか、
聞いてる人が実は全部AIでしたという話になってくると、
多分これよりははるかに心理的には手応えのない状態が続いて、
やらなくなると思うんですよ。ほぼ確実に。
もともと収益化できていないわけだから、
話すということがビジネスになってるかどうかは、
CMしてるとはいえ疑わしいですよね。
これが聞いてるのが全部AIだったら、
これはもう絶対ビジネスにはならない。
そういうAIに音声を吹き込むみたいな話なら別ですけどね。
つまり聞き手ってのは必要なんですよね、私たちにとって。
これも業種ってのはあんまりないじゃないですか。
多分これを聞いてて、
Spotifyの画面に業種されてる方とかはほとんどいらっしゃらないと
思いたいというか思いますよね。
やっぱり聞いてるわけじゃないですよ。
リッスンなんですね。
なんでリッスン?
カウンセリングはね、
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心の声を聞けって言いますよね。
心の姿を見ろって言いませんよね。
心というのは見えないものなので、
心には実は声もないんじゃないかと思うんですけど、
私たちはそう考えてるところがあるんですね。
心の声というものを聞くことができると。
じゃないとあの表現、奇妙なんですよね。
心の姿を見ろとか、無理なんですよ。
心は形がないから。
人ってのはすごくビジュアルに依存していて、
情報の9割はビジュアルっていうような話も、
認知心理系ではありますよ。
認知科学の世界ではそういうのがあるんだけど、
一方でじゃあ見えないものに対してはですね、
もう聞くしかないんですよね。
見るの次は聞くなんですよ。
心の香りを影とかって言わないですよね。
物質じゃないからね、心は。
結局心は声なんですよね。
だから、
結論に一足飛びにいっちゃうと、
だからこそ形調ということが、
場合によってはそれ自体が治療の技法になるわけです。
このあたりはカール・ロジャーズという人が
一番言ったことだと思うんですよ。
形調、リッスンというところを強調したのは。
それだけではどうにもならない面もあるし、
明らかに彼がやってたのは彼の技法っていうのが
実際YouTubeとかで見ることができるんだけど、
実際っていうのをね、カウンセリングの実際を。
あれ見てもただ聞いてるとは言い難いなと思うんですけれども、
でもフロイトもそうでしたよね。
カール・ロジャーズはフロイトに比べても
非指示療法って言って、
要するに何のかのとアドバイスせずに
黙って聞いて共感するっていうのが何よりもいいんだって話を
極めて強調した方ですけど、ロジャーズという人は。
そうであろうと、そうでなかろうとですね、
聞くというのが基本なんですね。
で、聞いているというふうに、
この番組がそうなんだけど、
聞いているというふうに思われることが、思うことがですね、
大事なんですよ、心にとって。
心は声を聞くことになっている。
心の声を聞くことになっているので、
聞くことしかある意味できないんですね、多分。
だから、聞いてもらえないということになると、
ややこしい問題が発生するということなんだと思うんですね。
私の話を誰にも聞いてもらえないという話になってくると、
心はですね、それを聞いてもらえないということになって、
聞いてもらえないという話になってくると、
心はですね、それを無理やり表現しようとするんですよ。
聞いてくれないから。
逆に言うと、聞いてもらえていると思えれば、
いけるんですね、多分。
この辺のことは、最近このポッドキャストでは、
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ホットにしている北山治虫さんが、
あの人、歌う歌う方ですからね。
歌って聞くもんじゃないですか。
見る部分もあるかもしれないけど、圧倒的に聞くものですよね。
そういう点で、カンセリングしているところでも、
聞くって話にすごく集中されたんだろうと思うんですよ。
その重要性というものをよく認識されていると、
実感としてですね。
歌もそうじゃないですか。
誰も自分の歌聴いてくれませんという話になった時に、
AIに向かって歌うっていう人は、やっぱりあんまりいないと思うんですよ。
仮に何かのためにAIに聞かせるってことはあるにしても、
それはなんだかんだ最終的には、
人に聞いてもらうためだと思うんですよね。
聞いているといった状態を、またしてもカンセリングなんで、
擬似的に作り出すと、劇ですからね。
劇は見るもんですけれども、
劇中の人たちはお互いのセリフを聞くわけですよね、きっと。
ここを実体験してもらうために、
臨床という場所をわざわざ設定するんだと思うんですよ。
これもある意味そういう部分があるわけです。
私は今誰に向かって喋っているっていうのもないんですけど、
目の前にはマイクが見えているだけなんだけれども、
これがどこかに聞かれることになるという意識があるから、
こうやって話していられるわけですね。
これがないという人、非常に切実にこれがないという人の
気持ちをちょっと考えてみたいわけです。
誰も自分の話を聞いてくれない。誰もですよ。
おや、おそらくこの場合やっぱり親だと思うんですね。
親が私の話を全く聞いてくれない。
全然聞かれているという、聞いてもらっているという実感がない。
手応えがない。
そうなった時に何かが起こりそうじゃないですか。
一番簡単なところで身体症状を発生させる。
これがヒステリーというもの。
起こりそうですよね。
何らかの形で身体症状というものが発生する。
例えば喘息になるとかね。
つまり相手の耳に訴えることができないから目に訴えるんですよ。
発心ができるとか、私の場合はそうだったんだけど。
熱が出るというのもビジュアルには訴えられませんけれども、
でも訴え方が変わりますよね。間違いなく。
で、もう一つがいわゆるアクティングアウトみたいな表現を取る行動をするってことですよ。
例えばまんびきするとか。
これはビジュアルですよね。
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ビジュアルに訴える。
聞いてくれないからね、誰も話を。
そこで目で見てわかる行動に、こいつらは聞く耳を持ってないから目に物を見させてやるっていうわけですよね。
そういう意味で受信者がいる表現者っていうのは非常に恵まれているわけですよ。
例えば話題にずっとよくなってましたけど、一昔前のブロガーさんとか。
一日しょぼいんですよ。100ビューなんですよ。
でもそれが100人を意味しませんけれども、でも10人以上はいるってことじゃないですか。
それでは仕事にならないとかビジネスにならないっていうのはまた別ですよ。
それはそうだと思うんだけれども、聞く耳どころか読む目を持った人たちがいるっていうのはよっぽど目分かるんですよ。
読まれた状態で。なかなかやっぱり読んでなんてもらえないですよね。
聞いてすらもらえないのに読んでもらおうっていうのはある意味相当なもんですよ。
読んじゃくれないと思うんですよね。読むほうが聞くよりもめんどくさい感じがしますもん。
聞いてさえもらえないのが私たちのある意味精神の難しさを生み出すわけだから。
読んでもらおうなんていうのはよっぽど贅沢な悩みなんですよね。
例えばいるのはつらいよという戸畑海人さんの本がありますが、
いる、いられるようになるとか、環境としての母親が抱えてくれるとか、
これはカウンセリングの話ですけどね、カウンセラーのクライアントを抱える。
あるいはぐずる子供を親が抱え込む。抱え込むっても言いますもんね。
抱えるとか、いられるとか、それは聞いてもらえるっていう話ですよね。
この番組でもおなじみのニードってあるじゃないですか。赤ちゃんが泣くわけです。
自分はなんで泣いてるのか分かんない。この声を聞いてもらえて初めてそれを解釈してもらえるんですよ。
ニーズというものに変換してもらえる可能性が生まれるんですよね。
お腹が空いたと。お腹が空いたとは言えないし、そういうふうにも思えないんだけど、
お腹が空いたというニードを発すると、お腹が空いたのねと言ってもらえると。
非常に大事なポイント。結局僕らカウンセリングに通ったりするというのも、
人に悩みを相談するときもこれをやるわけですよね。
すっごい明確に分かっていると思えるときもありますよ。お金がないとかね。
でもこれカウンセリングのところに持ち込まないですよ。
お金がないんですって言うんだったら、銀行とか行ってくださいって話になるじゃないですか。
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あるいは親のところ行ってくださいとか、なんでもいいんだけど、
そこまで悩みの内容が明瞭であるならば、抱えてもらう必要はないわけですよね。
ニードを発してそれをニーズに変換してもらう必要はさらさらないわけですよ。
例えば、お腹が痛いんですね。それはカウンセリングに行ってもダメですよね。
医者行ってくださいってことになりますよね。
ポイントはそこじゃなくて、お腹が痛いんだけれども、お腹はなんともないと言われました。
これだったらニードになるわけですよ。ニーズがなんだか分からないですからね。
それはつまりお腹を治せってことなのか、痛みを取れということなのか、
家族関係に問題があるって話なのか、じわっと変わってくるじゃないですか。
こうなって初めて聞く耳というものがすごく大事になってくると思うんです。
まずは話を聞いてもらわないと始まらない。
とにかくまず話を聞いてもらうところからすべてが始まるっていう状態。
つまり赤ちゃんが泣いている状態。
その時にお母さんが聞くと、ここが居場所なんですよね。
私たちの一番ベースとなる居場所。
その時に聞く耳が完璧であってはいけないっていう話が出てくるわけですね。
お腹が空いているとなるとすかさずおっぱいをあげて、眠いとなるとすかさずおっぱいをあげて、
眠いとなるとすかさずおっぱいをあげて、眠いとなるとすかさず寝させるっていうことをやれるというのは何かがおかしい。
何かが少し狂ってる。
この辺すごい論争になるんだけども、お悩み相談なところがよくわかると思うんですよね。
完璧な解釈を施されてしまってもどうしようもないことってあると思うんですよ。
あなたのそのお悩みは実はお母さんとの葛藤にあって、
こうこうこのように言ってこうこうこういうふうに振る舞うとお母さんの態度は変わるのであなたの悩みは解決されますなんて言われて、
それが完璧に正しかったら結構困るじゃないですか。むしろ。
そういうことってちょっと今の話はわかりにくいかもしれないけど、あるんですよ。
今適切な事例が思い浮かばないんですけれども、きっとあると思うんですね。
なんだろうな。ちょっとやっぱり今頭の中に浮かんでこないんで事例出せないんだけれども、
そのピタリと来る解釈をひたすら施せばいいってものではないんですよね。
伸びたきゃおさんが解釈しすぎてはいけない的なことをどっかに書いてたんですけれども、
そういうような含みがやっぱりあると思うんです。
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完全にそもそも問題が親によって、カウンセラーと、
あ、それ事例ありました。オグデンって人が書いている事例で、
あれは絶対ナンセンスだと思うんですけど、私はいろんなことができないんですみたいな訴えをされた時に、
あなたのできないことを言ってくださいって言って、
カウンセラーがそれを代わりに、市役所の手続きみたいなやつですね、代わりにしてあげちゃったと。
ある意味これは完璧ですよね。全然ダメですよね。
これによって何か病状が悪化したか暴れだしたか、そういう話がその後展開されるんだけれども、
その暴れるとか悪化するっていうのは、それはそれなりに意義があることって捉え方もあるんだけど、
少なくとも真っ当なやり方というのではないと思うんですよ。すごく変則的なやり方になってしまう。
その人にしてみると、行動力のなさみたいなのがニードだったりするわけじゃないですか。
解決したい問題はそこにあったりする。代わりに行動してもらって問題が解決しても、
根本的には何も解決していないか自体が一層悪化するっていう話になるんだろうと思う。
だからパーフェクトであってはいけないから、グッドイナフじゃないとダメっていうのがウィニゴットっていう人の言ったほどですよね。
このグッドイナフは翻訳しにくいんですよ。そうでなくてもこのイナフって英語は翻訳しにくいんだけど、
この場合のグッドイナフはすごく含みが多重で解釈しにくいんですよね。
そもそも言葉以前の問題を問題にしてるから、本人は何をしてほしいのかわからないっていう問題、
これ言葉になってないですよね。そこを聞きましょうって話をするんですよ、精神分析は。
その悩みが何だかを聞きましょうと。その態度っていうのは母親の態度そっくりだと。
赤ちゃんを抱えている母親、お母さんもですね。赤ちゃんが何を本当に望んでいるのかわからない。
大事なのは分かろうとすることと、ある程度外すことだということなんですよ。
外すんだけれど当たらずといえども遠からずっていう答えを出すことだと。
そういうことを繰り返しているうちに赤ちゃんの方が成長していくっていうその流れを言ってみれば、
クライアントさんに期待している部分があるわけですよね。
会社化だから100%当たることはない。そういう意味でカウンセラーはいつもグッドイナフなレベルに留まるべきだし、
実際留まっちゃうんだと思うんですよ。これは私が全然悪い意味じゃなくてね。
ウッドバリブスファクトリーというコミュニティで、クラドノ啓動さんの答えを読んでいるとき思う。
あるいは私がクラドノさんに何か相談して、公開的な話ですけどね。
公開で相談してそれに対する答えが返ってきたときに思うことなんですよ。
完全に当たるってことはないんですよね。完全に当たるっていうのはキーな感じがするんですよ、やっぱり。
完全な解釈というものは誰にもできないんじゃないかと思います。
本人ができないんだから本当に当たってるかどうかってわからないじゃないですか。
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この悩みの本当の要因は何なんだろうっていうのが僕がわかってないのに正解も不正解も出せない意味ですよね。
だからパーフェクトというのは概念上のものであって実在はしないんだけど、あんまりパーフェクトを目指すとか、
近づくというのは良いことじゃないと。
で、この話をなぜクドクド言ってるかというと北山さんはそこをうまく捉えてですね、
グッドイナフに普通ということ、ヤフー語を当ててるんですよね。
普通のっていう評判の悪いやつですよ。
普通の何が普通なんだとかってよく言われる。
その何が普通なんだってよく言われてしまうところが、
この言葉はすごいややこしいんですよね。
日本語の普通もすごくややこしいじゃないですか。
何が普通だってすぐ言われてしまう。
で、普通のお母さん。
この言葉は実はウィニコット使ってるんですね。
オーディナリーなお母さんっていう。
でも全然やることを出すこと普通じゃなくなっていくんです。
例えば赤ちゃんのお母さん。
赤ちゃんのお母さん。
赤ちゃんのお母さん。
赤ちゃんのお母さん。
例えば赤ちゃんの最早期っていう言い方をするんですけどね。
中は気が狂ったお母さんっていう言い方をするんですよ。
どうして気が狂ったっていう言い方をするかというと、
この辺すごくジェンダー論的に非常にウィニコットが批判されている部分でもあるんだけど、
でも生まれて初日のうちの奥さんとかを見ていても、
確かにそういう部分は多々あったなって思わざるを得ないんですよね。
あの立場に私やっぱ入れないですもん、どう考えても。
完全に母子がほぼ一体になっている状態で、
確かに胎外に出てきたけど、依然として一体も能然の状態に
あそこ父親が代理でやることはできなくはないんでしょうけれども、
本能的にっていう言い方もあれなんですが、難しいですよね。
普通のお母さんが発狂した状態になるみたいな、
そういう非常に独特の表現をとるんだけど、
どこが普通じゃないのかと言いますと、
ほとんど赤ちゃんになっちゃってる部分があるってことなんですよ。
一体ですから。ほとんど我が子になってる。
自分自身がほとんど我が子になってる。
つまりすっごく濃く投影してるって言ってもいいんですけど、
これはある種の人が、コンピューターマニアの人が、
パソコンとかの初期設定にすっごいのめり込んでる時に、
たぶん起きている心理状態だと僕は思います。
ほとんどその人はパソコンと一心同体化してるので、
パソコンがきちっと設定されてないと気持ち悪くなるんですよ、自分が。
パソコンは気持ち悪くならないじゃないですか。
これニードとニーズの話にすごいよく似ていると思うんですね。
これを心理学とかカウンセリングの、特に精神分析の世界では、
やや気が狂っているっていう言い方をするんです。
なぜなら自分が自分じゃなくなってますから。
私はそんなに車マニアじゃないんだけど、
なんとなくこれ車でわかる気がするんですよ。
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壁にガリガリってなるとうわーってなるんですよね。
自分の体がうわーってなった感じがするんですよ。
じゃあお前そんなに車大好きなのって言われるとそんなことはないんですけどね。
これがつまり一心同体化した時の状態なんですね。
で、普通の人もなるじゃないですか。
ここで普通の人を持っていって、今おかしくなかったですよね。
でも明らかに普通じゃない心理状態じゃないですか。
つまり世の全てのお母さんは、全てじゃないにせよ、
ほとんどのお母さんは、普通のお母さんは、
普通じゃない心理状態に赤ちゃんと一体化した時に入ることができて、
ここで面白いことを言うんですよ。
そのためにいかなる知識も学歴も必要としないんだって言うんですよ、ユニコットは。
非常に教養豊かであるとか、そういうことは全く必要なく、
こういう全く普通じゃないことを全く普通の人ができるようになる。
とても不思議なことだと。
この種の言い回しが本当、あの人は多い。
長くて短い鉛筆みたいな言い方をやたらするんですね。
だからこのgoodとenoughっていうのも、明らかにその反対側にbadとgoodとあるんですよ。
本当にこの辺の、何て言うんですかね、言葉の使い方っていうのかな。
上手いもんだとも思うし、ことをいよいよややこしくしてるとも思うんだけど、
実態がそういうところにはあるから、しょうがないのかもしれないと思うんですね。
北山先生がそれをgoodとenoughをオーディナリー、普通のって訳したのは上手いなって思うんですよね。
こういう含みってあるじゃないですか。
例えば普通の生徒っていう話、一番敏感に反応しちゃうのは普通じゃないって言われていた人たちじゃないですか。
例えば不良みたいに言われている人たちは何が普通なんだよって言うじゃないですか。
つまり普通ってそういう時に出てくる言葉なんですよね。
何の普通かは定義できないんですよ。
いつも決まって普通じゃないって側から普通を定義することになるんですよね。
あまりにもありきたりすぎて、good enoughも完全にそうなんですよ。
普通にやるとそうなっちゃうのがgood enoughなんですね。
そうすると、それができないっていう人のことこそがカウンセリングで問題になるわけじゃないですか。
学校でも同じですよね。
普通にしなさいって言われて一番反発する人が、つまりケアを必要としているわけですよ。
普通のお母さんって言って何が普通なんですかっていう人は、ある意味要注目だってことになるわけですね。
それって習うことができないので、学歴が必要ないってミニゴッドが言ったらそういう意味なので、
どんなに高等学校で学んでもそれを教えてはくれない。
むしろそういう高等学校ほど教えてはくれない。
というか、はっきり言えば誰も教えてはくれなかったし、教えてもらった人はいない。
でも相当高等なことができちゃう。
それが普通だということだと。
そうすると普通ってのはものすごく異常だってことになりますよね。
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すごく専門知識を持っていたり、それこそちょっと前に話題になった、何者かになったからといってそれができるっていうわけではない。
だけれども何者でもなくて、専門知識が全くない人でもそれはできる。
善の世界なんかでは呼吸とかがよくそれに取り上げられるわけですよ。
普通の人はみんな普通に呼吸できる。
呼吸の仕方ってものを習うって人はいないわけですよね。
習わなきゃ呼吸できないようでは生きてないですよね。
でもそれが簡単なことかと、どうやったら普通の呼吸ができるんですかなんていう人は危うしいというか危ういわけですよ。
これはね、オランダにもそういうことわざがあるんだそうです。
普通というものを目指すという人は常に普通ではないみたいな、そういうことわざがあるみたいなんですけれども、という話ですよね。
で、この普通性みたいなものを育むためにカウンセラーがやることが、つまり効くってことなんですよ。
効くっていうことによって、聞いてもらうのは普通なんだって思えるのが大事なんですよ。
そこが居場所になるわけで、普通にしていられるっていうのはすごいことなんですよ。
だけれども普通にしていられないっていうのはやっぱりすごいことじゃないですか。
すごい異常なことですよね。
普通にしていられない、家で普通にしていられない、どこにいても普通にしていられない、自分の居場所がない感じがする。
大変なことになってしまう。
それは簡単なことなんだけれども、でもやり方がこうと決まっているものがなくて、そこに技法としてそれを再構成するというのかな。
普通にいられるようになる心理状態というものは、本当は人を備えているはずだから、それを正常化するというのか、
構築するために話をとことん聞いてあげるという場を設定するんですよ。
ただしそれは、これはでも疑似の状態だからねということを伝えるために料金を取るんですよ。
そして時間も区切るんですね。
いつまでもやったりはしない。
いつまでもやっているとそこが居場所になっちゃうから、それでは困りますよね。
カウンセリングの場が居場所、そこしか居場所がありませんというのは困るんで、
ここは一時的な場だからねということを強調するためにお金を取って時間を区切ると。
そうすると別れの時に多分患者さんはまた取り乱すことになる。
自分はまだ普通にしていられる方法というものをなぜか知らないということに気が付くからですよね、きっと。