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2022-02-17 42:08

【GMV 555】些細なことに傷つかなくなる発想

甘えさせても相手はなだめられないとしても
00:05
おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
3月に、グッドバイブスごきげんな子育てライフというセミナーをやります。
これ、いわゆるオンラインセミナーなんですけれども、
一番ターゲットといいますか、来ていただくといいかなと思っているのは私はですね、
まさにそれの真っ最中で苦しんでいるというか、
つらいですといった方に来ていただくと、
だいぶつらさがなくなるとか、
子育てが一気に、
この言葉がいけないんだけど、パーフェクトになるとか、
言ったことはないと思うんですけれども、
でも非常に安心して育児できるようになるんじゃないかなと、
今思うとですね、私がつらくなかったのは、
夜寝れなくなって寝不足にならないとか、そういうことではなしに、
例えば幼稚園の草芸というのがあって、
これが結構様々なところで厄介だったんですね。
時間もわりとかかるし、ちょっと遠いんですよ。
幼稚園って数が多くないから、地方では遠くなっちゃうんですよね。
遠いし、わりと幼稚園ってすぐ終わるから、
草芸両方やるとなると大変なわけですよ。
そして草芸している車が自分だけじゃないから、
到着時刻付近ではえらい混むということもあるんですね。
一番最初の頃は4歳とかじゃないですか。
だからお漏らしとかもするしね。
しないんだけど、しなかったんだけどほとんど。
しかも行く時に泣くみたいなこともほぼなかったんで、
そういう意味で楽だったんですけど、何よりも大事だと思うのはですね、
私は育児をするのによって不安というものを持ったことが思えばないんですよね。
これはですね、こうすると子供がこうなるんじゃないかっていうところから来る不安だと思うんです。
他の方の話を聞いていると。
私はそれはないんですよ。
これは思えばなんだけど、
グッドワイブスっていうものを知る前から、
一番私がグッドワイブスでやっていたのは育児だったことは確かだと思うんですね。
不安ってのは結局、未来と関係がないわけにはいかないということなんですよね。
未来と関係がないわけにはいかないってやつで、
未来と関係のない不安ってないんですよね。
もちろん、例えばお金の不安とかね、私はあるんですよ。
03:01
未だに強い。
あるいは、
ある種の病気の、病気全面ってことはないんですが、
不安とかはやっぱり私は拭いきれないんですよ。
あんまり強くなかったですから、健康面という方でね。
そしてその前に、グッドワイブスを知る前で言うと、
人間関係、主にやっぱり深く関わっている人との関係ほど不安ってのがあったわけですね。
実家の親とか、実家とかの関係は、ある意味、すこぼる不安だったわけですよ。
しょうがないなっていうのも、実家の方になってくるとね、
諦めムードみたいなものも猛烈に漂ってた。
今はまだ漂ってますけどね。
あるわけです。
全部未来と関係があるんですよ。
少なくとも現状そこまでの、現状いきなり大爆発するっていう不安はないんで、
お金もそうなんだけど、
たちまち明日そこをつくっていうほどのことは考えてないから、
そういうのではないんですけど、
不安は不安なわけですが、育児はないんですね。
なぜなら私はたぶん娘の将来を心配したことがないからなんですね。
これはもう感覚的なものもあって、
どうこう言えばどうこうなるっていう、つまり言葉で伝えれば、
たちまち不安が払拭されるという話とは違うし、
各家庭で置かれている条件も異なりますし、
何を望むかというのもあるんですが、
この最後のやつ、私は何を望むかがほぼほぼないんですね。
全然ないに等しいと言っても、言い過ぎではない気がします。
この状態に入れば不安はなくなるんですが、
これだけではたぶん心もとなく聞こえると思うので、
この辺から入っていければいいかなと思うんですね。
不安になる要素は山のようにありますね。
私も子どもをこう育てるという話をブログで書こうものなら、
反論が来ない日は決してないと言ってたぶんなかったと思います。
必ず反論が来る。
反論が来る子育てに関することというのは、
たぶん人のこういう言い方をするとあれなんでしょうけど、
エリプスなんだって思いますね。
あらゆる人のコンプレックスを何らかの形で刺激してしまうので、
子育てが自分の方針と合ってないという場合、
ただでは置かれないと言いますか、
必ず何か意見が来るんですよ。
これを全部真に受けていて不安にならない人はむしろ一人もいないと思います。
だから不安神経症の一つの大きな要素として、
やっぱり自分が間違ったことをしているという不安なんですね。
でも間違ったことというものが逆に言うと、
なくなれば不安はなくなるはずなんですよ。
これはなんかちょっと全問答みたいになっちゃうんですけど、
あらゆる意見があるということは、そこに正解はないということ。
特にやっぱり一番恐ろしいと思われているのが、
06:02
一番恐ろしくないんですけどね、実はね。
医者と教育者の意見だと思うんですよ。
ところがこれが一番怖くないんですけどね、本当は。
酔っ払うことがない限り、これが恐怖になるということは。
だってあれじゃないですか、皆さんお医者さんの意見というものを大変恐れている一方で、
お医者さんの話って聞いてないじゃないですか。
例えばお酒を控えなさいってお医者さんがおそらく正しいだろうって
みんな思っているわけですよね、お酒を飲みまくっている人は。
そうするべきなんだろうと。
でも3日ぐらいで平気でまた全く元に戻るじゃないですか。
お医者さんがうるさく言うのには訳がありますよね。
つまり、この戦略がうまくいくとは僕は信じないんですけど、
お医者さんがうるさく言うのは、つまりこれぐらい言っておいて
1%ぐらいしか聞いてもらえないだろうと思っているから
ああいうふうに言うんだと思うんですよ。
で、私も何とかコレステロール値みたいなのが高いんですよ。
で、いろんなことを言われるわけですね、お医者さんに。
だけれども1つとして守っている気がしないんですよ、自分では。
で、何とかコレステロール値っていうのは体重とか関係ない。
私、今56ぐらいしかないんですよね。
だから体重とか関係ないし、血圧とも全然関係なかったりするし、
私低血圧なんですよ。
しかも下はえらい低いんですよね。48とか7とかその辺しかないんですよ。
で、上も100超えることは滅多になくて、
そういうこととはあんま関係なくコレステロール値だけやたら高いということがあるらしいんですね。
で、結局それはこの辺で一番そういうのに詳しいっていうところに生かされていって
わかったことはつまり遺伝だってことなんですよ。
いや、それじゃあどうにもならないじゃんっていう話をした記憶があるんですね。
キノコ食べてても下がらないじゃないですか遺伝だったらっていう話をしたことがあって、
キノコを食べてたからといって下がりはしないでしょうねってさらっと女の先生なんですけど、
でもその時の検査とかすごい大変で注射5本ぐらい取られましたから、
もうなんかこう全身から血を抜かれている感がありましたからね。
そういう感じでやってもわかったことというのはつまり遺伝ですっていう、
そういう程度の話だったりもするんだけれども、
つまりここまで話をされて初めてじゃあキノコ食べようかなって思ったとしても、
あんま食べないんですよね。100日も200日もキノコばっかり食べるとかできないですよそういうことは。
だから専門家のお話というのはみんな聞いているようで別にそんなに真剣に聞いているわけじゃないということを
専門家の人はよく知っているのであれなんだと思うんですよ。
そういう話ではなくて、要は子育てというのは一つは不安要素というものが
やっている最中の辛さを倍増しにしていて、この倍増しを半分にはできなくても
09:05
不安要素がどうからくるのかをよくよく検討すれば正解を追い求めないと不安だという
その真理からは解放される原理があるはずなんですね。
じゃなければ私はだって不安になるはずなんですよ。
ありとあらゆることは言われているわけでしかも私は正解を知らないわけですから。
だから知らないのに安心してやるためには知っている人がいるはずがないということが
わかんないといけないと思うので、そういうことも今回のセミナーでは
これをダイレクトにお伝えするわけではないですけれども
お話をしていければいいかなと思います。
それとはあまり関係あるようなないような話になっていますが
直接関係ありそうなキーワードなんですけどね、母親というのは
昨日母親という言葉が出たんですよ。
倉園さんと収録中に。
母親という言葉というのは普通の言葉ですよね。
普通の言葉なんだけど精神分析では極めて特別な意味を持っているなと思ったんですよ。
もともとそうですけれども。
どうしてわかりにくい、例えば内的対象としての母親とかっていう
狂ったような言葉を使うのかと思って倉園さんと喋っていて
倉園さんはホワイトボードの図を描かれるので
一つ思ったことがあったんですよ。
この図に近い感覚でフロイトも図を用いていたに違いないような気がしたんですね。
わかんないですよ、これも。
ただ、今の心理学の考え方とは全然違うはずなんです。
なぜならば心理学って基本20世紀後半、21世紀にかけてのものなんですね。
なかなか勢いがあると。
フロイトは19世紀の人ですよね。
20世紀だけれども20世紀でも相当前半の人ですよね。
相当前半の人ですよね。
1900年とかその辺から裁判年でも内地に対戦頃だから1930何年とかその辺りなわけですよ。
なので、まだ万有引力の法則ぐらいになってくるとすごいんですけれども
そんなに科学できているわけではないということですね。
よく人間の心とはこういう風になっているぞと言わばかりの超自画とか自画とかの図もあるんですけど
あれはですね、僕は倉園さんがホワイトボードに描いたぐらいの感覚で
フロイトはそれよりはきちんとしたものとして出してたのかもしれないんですけど
12:01
要は何が言いたいかというとですね
こんな感じに思ってみるとわかりやすくなるんですけどねというような感じの図なんですよ。
なんかあれが超自画というものがあってみたいな話になると
そういう風に精神分析でも言われることもあるんで
僕が横から口を出すというのが素人が適当なことを言うのは申し訳ないんだけど
ここは素人が適当なことを言っている番組なのでしょうがないんですよ。
ただ漢字として超自画というものが辞書でこうですみたいに書いてあるのを見ると
なんかこうですね、すっごい違和感があるのは間違いないですよね。
昔アメリカで習った時にスーパーエゴ、エゴ、イドみたいに書いているのを見て
見た時はああなるほどこういう風にこういうデタラメを考えちゃったのねと思ったんだけど
今から思うとああいう教え方をするのはすごくおかしくてですね
この番組を聞いている人ならお分かりいただけると思うんですけど
GTDのチャートの図みたいなものってGTDの本の冒頭に来るじゃないですか
こうするんだよみたいな感じで
あれが現代のアメリカ的ってことだと思うんですよ。
そして現代的もはやアメリカ的であれば世界的にそうだから
現代的ってああいうもんだと思うんですよ。
だから本当になんかああいう風な
僕はやっぱり年齢がちょっとずれているからだと思うんですけど
若い方ってああいう風に本当にそのまんま受け止められる方っていうのが
そこそこいらっしゃるんで私なんかこう
申し訳ない気になってくるんですよ。
ああいう図って書くんですよビジネス書とかでは。
もうその編集さんによっては
佐々木さんが書かれている図にまとめておいても
編集さんによっては佐々木さんが書かれていることを図にまとめておきました
くらいの人もいらっしゃるんですよ。
その場合の図にまとめておくというのは
つまりこうやったらうまくいくんじゃないかなみたいな図なはずなんですよ。
ところがそういうのを例えば20代くらいの方の読者さんになってくると
この場合のこれはこれに当てはまりますかどうですかっていう
なんていうんですかね
化学の記号みたいに見えてしまっているんでしょうね。
こういう構造に
亀の子って言うんですけど
分子構造とはこうなっていますみたいな
あれは多分そうなっているんでしょうね。
だけれどもフロイトが言うところの超自我と自我みたいなのは
そうはなってないんですよ別に彼の頭の中でも。
その論文を書いていた時には
こんな感じに考えておいたら
だいぶカウンセリングってうまくいくんだよねみたいな
ノリで買っているんですよ。
読んでみると間違いなくそうなんです。
でもほとんど今フロイトって自家には読まれないときているんで
あれですよ専門家の人たちは当然みんな読んでるけど
学生さんとかはほぼ確実に字の文は読まないはずなんですね。
15:03
例えば翻訳されたものでも翻訳しかも間違ってるんだけれども
でも間違ってるの分かってたって僕だってドイツ語で読んでないですから
とにかく字の文は読まれてないわけですね。
でも図だけは今もフロイトの井戸とかって
画像検索すれば膨大に出てきて
しかも物によってはすっごいデザインされていて
もう間違いなくフロイトの頭にはこういうのはなかったはずだっていう感じが
あったんだけどこんなに
厳密で間違ってもこう書いてはいけないみたいな
そういうレベルのものにはなってないと思うんですよ私は。
どう読んでもそうはなってないなと。
多分なんですが倉園さんが肉体としての私と
意識としての私とか
MEとかってMEっていう風に図解されてるんですけど
この図がですね
世界原始記号なんとか図解みたいな形で載ってて
教科書の冒頭にMEというのはこういう位置づけで
こういうものがみんなの中にあるんですっていう話になったら
本人はちょっと陶悪されるんじゃないかって私は思うんですね。
そういうつもりでああいう図解をしているわけではない気がするんです。
図っていうものが今の時代のようにですね
このように図に表せないものはないぐらいのノリになってきてしまうと
ああいうものではなくなっていくんですよね。
なんとなくイメージしてみましたっていうようなものでは
認められてなくて
厳密な構造図式みたいになってしまうんですね。
だからすっごい不思議なものに見えてくるんですよ。
これはタスクシュートみたいな話でもあることではあるんですよね。
ここで洗い出したタスクとはこういう位置づけに入ってみたいな
抽象度が過剰にこう
なんて言えばいいんですかねこれはね。
抽象度が過度に牽引づけされるっていうのかな。
しかもデザインされていってしまうと。
デザインされて美しくなるのはパッと見いいんだけど
商業的な効果もいいと思うんですけど
私はいつもこれを見るたびに
何かこう
違うものになっているような気がして仕方がないと思うんですね。
一番言いたいことは要は
フロイトは臨床ベースだったってことなんですよ。
これが非常に大事なんです。
臨床ベースだったと。
観察ベースじゃないっていうか
あれは自動心理学じゃないと。
赤ちゃんと母親が出てくるのに自動心理学じゃない
どういうことなんだって思われるかもしれないんだけど
比喩だってことなんですよね。
昨日、つまり母親。
私がよく母親というキーワードで出しているものと
18:00
裏園さんが身というか
一つ意識というか意識と
自分の本体というのかな。
あるいは世界と一つになるところの世界が
自分の中に内在しているみたいな話なんですが
こういうふわっとした感じなんですよね。
あくまでその身が
ここにいるはずだとか
脳とこうアクセスしているということが
実証されたとか
そういう話ではなしに
そういうふわっとした
私がこの体内にも体外にもあるような感じがする
私っていうものが
今の人は体外にあるって感じは一切しないかもしれませんが
とにかく身体とはまた別のっていう
これもデカルトっぽくなるんですよ。
心身に言論っぽく聞こえる人にとっては
そうだろうと思うんですが
そういうようなものとして
いただいてもいいんですけど
そんなに心身に言論みたいな
はっきりした元素が二つあって
そのうちの一つみたいな
そういうものとイコールじゃないんですよね。
二つあるっていうことに
確かに違いはないんだけれども
それは二つ意識してあるから
しょうがないよねぐらいな感じで
長寿がにしてもそうだと思うんですよ。
長寿がとはお父さんのことですかって言われると
そういうことでは一切ない。
そんなことを言ったら
お父さんが生まれた時にいなかった人には
長寿ががないことになっちゃうじゃないですか。
それは全くそうではないんですよ。
臨床というものをやっていると
繰り返し出てくる、訴えられてくる
パターンみたいなものが
グッドバイブスではパターンはないことになっているんだけど
でもやっぱり職業っていうのをやっていると
パターンみたいなものって出てきますよね。
将棋やってても
試験美者とか中美者とかあるじゃないですか。
普通の強い人たちが
ちょっとでも将棋をかじったことのある人なら
こういう形にだんだんなっていく形っていうのがあって
全くそれとは似ても似つかない形っていうのは
見かけないわけですよ。
プロであろうとアマであろうと
形としては大体こういう感じになるよねっていう形が
あるわけですよね。
それと似てて
カウンセリングも
訴えてくる人、こういう人が
こういうようなことを訴えてきて
それには大体こういうような原因というか
いきさつがあって
っていうふうに解釈していると
分かりよくなるというものの
集合体なんだと思うんです。
その中に
一つにはヒステリーっていう形
要するに言ってみれば
強大観覧的な
要するに言ってみれば
強大観の争いみたいなものかな
嫉妬の病気みたいなものですかね。
そういうもの。
そしてそこの根深いところに
近親相関がタブーになっている
ってこととの関わり
こういう言い方をしていくうちに
いやいやそんな気色の悪いことは
考えたこともないって言われるかもしれないんですが
そういうことではなしに
ただただ幼い頃にですね
21:01
誰でも思うことがあるんですよ
っていうことと
誰でも思うことが
家庭環境がちょっと
こじれている場合は
どうしてもこじらせてしまうわけですよね
風邪みたいに
慢性の風邪をずっと
あんまりケアもせずに
ほっぽとからこういう感じで
調子がずっと崩れていくみたいなのの
心理バージョンですよね。
それは大体の場合
家庭環境の中に
何かそれらしきことがあるのと
あんまりにもその人が
自分はこうやれば
うまくいくんだっていうものに
こうすがりつくような
生き方をしてきた結果
みたいな
例えば男の人をずっと遠ざけておけば
自分はうまくいくみたいな
そういう何て言うんですかね
こう
眼かけみたいなものに
すっかりハマり込むケースってあるんですよね
そしてその眼かけが
意外と多くの人が
やっちゃってるということがあるわけですよ
みんなも同じような症状
一人一人の
背景が同じことはないから
違うんですけど
究極的に言うとやっぱり
父親が出てきたり
母親が出てきたりするのが
普通なので
そういうところから
いろんな臨床のパターンを
ずっと臨床にあだらっこを見て
しかもその人たちが
夢の報告をするのも
全部聞いてっていうことをやっていくと
必ずそこに出てくる
いくつかのパターンみたいなものが
出てくるのか
例えば母親みたいな
そういうキーワードが上がってきて
それとの関係を
都度都度図式化すると
だから一つ一つの図が
常に整合性が取れているわけでは
決してないんですよ
それぞれの図がですね
急に無意識と自意識と
みたいになってみたり
急に長自我と衝動になってみたり
リビドになってみたり
その都度その都度
このキーワードとこの概念を
うまく説明できそうだなという
方向に揺れるんですね
あの揺れが大事なんですよ
そういう話を聞いていくうちに
私はただそれを趣味で
読んでただけなんだけど
アメリカで習ったということもありますよね
そしてそういうのを
日本人が
それこそドイタケオさんとか
カワイハヨウさんとか
オコノニケゴさんとかが
その他様々な方がいらっしゃるんですけど
書いていることを読んでいくと
書いているとも言えるんですよね
ただそれが
この人たちは
特に病気の臨床を
ずっと追ってきてるから
僕らよりもはるかに
だからそこが将棋の名人みたいなもんで
僕らよりもはるかに
普通の人よりもはるかに
そういう一人一人の
心の生々しい
性的なものとか
情緒的なものとか
24:00
感傷的なものとか
嫉妬とか
そういうものを
色濃く含んだ
人の心の
心理での考え方の
癖みたいなものを
実感としていっぱい持っているから
どうなんて言うんですかね
面白いと
言えば面白いし
つまりそれを薄めたような
悩みとか
人生上の
人間関係の深みに
はまった感じになったときに
現れるものは似てくるんですね
そしてそれが
僕なんかにとっては
すごい興味深いことに
ライフハックみたいなところにまで
現れてきているんですよ
間違いなく現れてくるんですよ
長寿がみたいなものに
支配されている
ライフハックのやり方
みたいなのは
何と言われようとあるんですよ
どう考えてもこれは
僕この人は
片付けというものを
捉えているというのは
はっきりあるわけですね
だけれども別に
精神分析で解き明かす
ということをする必要は
ないんですけれども
その捉われと
ある程度自分で
その捉われから
解放していかないと
片付けひとつうまくいかない
という話になることは
そういうようなことは
ないんですよね
だから無関係じゃない
ということもあるし
そのまんま図式を取り込んだって
ちっとも分かるはずは
ないんだということなんです
片付けひとつとってもですね
お母さんがやかましく言いました
というお母さんに
やかましく言われましたと
その人にとって片付けというものが
実は全然大事なわけじゃなくて
例えば何かの書類を
無くしたというようなことが
すごくそれで
自分の仲のいい後輩とかに
迷惑をかけて
いたたまれない気持ちになるみたいな
こういう話なんですね
だから片付けたい
という話になるんだけど
そして生理術
それはそれでもいいと思うんですよ
ただその時の
いたたまれない気持ちになるということは
つまり罪悪感を持つということなんだけど
その罪悪感を持たせたのは
誰でしょうという話になると
母ですというふうに
さらっと出てくるようなケースも
少なくないわけですよね
そのお母さんは今どうしてますかというと
もう亡くなりましたみたいな
じゃあどこにもいないじゃん
という話になっているわけですよ
だからそういうところに
本人の中では
いるわけですよね
いるどころか力を持っている
そのお母さんの
人に迷惑をかけるくらいなら
死んだほうがいいんです
死ななければ
もっとずっと楽だったのかもしれない
じゃないですか
27:01
あるいはこれはアフロイトだったら
アフロイトなのかわからないですけど
あり得ることだと思うんですけど
そういう教えがなかったら
ここからオカルトっぽく聞こえると思うんですけど
処理なんかなくさないかもしれないんですよ
十分あり得ることなんですよ
そういうことって
つまり私たちは
自分が思っている通りに
自分をコントロールしているという
強い間違った思い
19世紀の頃に
アフロイトがあれほどそうじゃない
ということを
1000個くらい証拠を立ててきて
その後心理学でも
私たちは自分が思っているように
コントロールできているわけじゃない
10万個くらい用意してきたんだけど
無視して
私たちは自分をちゃんとコントロールできて
セルフコントロールって今でも言いますよね
できていて
できているのが常識的な人間で
できていないのはダメな人間で
そういうものが
自分の中で
いたたまれない気持ちになったりするんだけど
いっぱい言ったじゃないですか
内的対象としての母親とか
無意識とか
アダルト・チルドレンとか
いっぱい出てきていますよね
なんとかバイアスとか
人は見たものしか見えていないとか
いろんなことを言っているにもかかわらず
自分の外側で
自分が暗虐しているということを
好んで無視したがる
あるいはそんなことがあってはいけないと
心の底から思い込む
思おうと頑張っているわけですね
この自分の外側で
暗虐している自分というのが
実は
グッドバイブス的な言い方をするならば
実は自分を助けてくれているのかもしれない
というような話を
例えばライフハックでは
意外と好まないわけですよ
そういうのは許せないわけですね
自分をサポートするなら
暗虐するのやめろってことなんですよ
もっと前面に出てきて
俺に協力しろという
つまりそこにナルシシズムがある
私は王様なんだから
この王様の言う通りに
隠れてコソコソ動いたりするのは
やめてくださいという話ですよね
だから
そういう王国を築こうとして
この辺になってくると
可愛原さんに近いんですけれども
王国を築こうとして
やたらと明るくするわけですよ
暗虐されないために
心の闇を徹底的に減らすと
そうすると何が起こるかというと
起こりやすいかというと
闇が濃くなるわけですね
暗虐するグループは
もっと遥かに地下の活動に
勤しみ始めるわけです
そして例えば
閉じまりをしたかどうかが
ものすごく気になるとか
自分の書いたものについての悪口が
二ちゃんのどこかで言われているかどうかを
ものすごく気にするとか
あるいは
次のセミナーの時の
雇用としている人が
金曜日にだったらできたのに
これが土曜日になっているから
いけなくて
30:01
この分損をしているということが
ものすごく気になるとか
いうことが起こり始めるわけですね
心の中では
どうしたって自分の意識が
完全にコントロールしきれるものだけで
形成されているはずがないので
だって心臓は今
どのように動いているかを
これからコントロールして
やることにしようとしても
できないようになっていますからね
そういうことを言い出すのは
コントロールできている部分のほうは
よっぽど少ないんだけど
これがセルフコントロールという概念と
全く相入れないんですよね
セルフコントロールというのは
100%自分でコントロールしたい
ということですからね
本人はそういうつもりはないですと
言うかもしれないけど
セルフコントロールというのは
そういう意味になってしまう
1%もコントロールできていないと思うほうの
認められないことになると
無意識などというものは
やばいものになってしまう
その無意識の中にでも
超自我があったり
超自我みたいな話もそうですけど
仮定しておくと便利だというか
仮定しないと
物事がすごく見えにくくなる
人間にとっては
人間にとっては見えにくくなる
みたいなものがあって
そういうものが
倉園さんの言うところの
ミみたいなものなんですね
仮定しない限りは
そういうふうには見えてこない
という世界なんです
世界と一体になっている
感じがするときに
なんていうんですかね
感じがするところの自分
っていうのかな
バッグには銀河がついている
みたいな感じですかね
考えようによってはなんですけれども
あるいは遺伝子に
刻印されているみたいな
こういう言い方をすると
人間になるんだけれども
でもみんなが人間的遺伝子を
持っていることは
違いはないですよね
そして考えようにもよるけれど
バッグに宇宙がついているのも
間違いはないですよね
宇宙が全力を尽くして
私を追放しにかかっていれば
僕はもうとっくに死んでいるはずですから
あんなものと戦えないじゃないですか
宇宙どころか
太陽だって無理ですよね
あそこに投げ込まれたら
すぐ死んじゃいますよね
無理はないと思うんですよ
これもそんなはずはないとか
という話にすぐなるんですけど
ある程度うまくいっていなければ
例えば酸素呼吸とかしているのは
おかしいと思うんですよね
魚に組み上げたらすぐ死んじゃいますもんね
だからある程度うまくいくようには
できているはずなんだけれども
ここからさっきの
セルフコントロールみたいな話になるんですよね
ある程度では嫌で
もう一生安泰であることを
確実にする方法を教えてくれ
みたいな話になると
非常に複雑なものを
とっても無理やり
単純化しなければならなくなるから
多分うまくいかなくなると思うんですよ
例えば直ちに10億円稼げば
33:00
一生安泰だみたいな
ものすごく過度にシンプルすぎて
全然現実感がなくなる
という話になるんですよ
でもそういうのが好きというより
多分そうじゃないと
怖いってことなんだとは思うんですけど
それと似てます
それと似た話で超自我というものを
仮定してみると
だいぶ前ですけど
ちょっと前にポッドキャストで
よちせみの家っていう
NHKの特集の話をしましたね
ああいう独特の超自我に
捉えられてしまう
もちろんお父さんご本人もそうだし
そこからそんな支配だけで
家やっていけるはずないじゃん
ということで息子が抵抗する
その息子に異性愛的な
ここに謹慎相関的なものが
加わるんですが
異性愛的に
母親の息子が結託して
お父さんにささやかな
抵抗を始めると
こうしてうちせみの家になっていくんですよ
だから全然うちせみの家じゃ
ないんですよ
これはお父さんから見ると
うちせみに見えるっていう話なんですよね
ここはもう間違いなく超自我を
だから急に超自我出てきちゃうんですよ
ある意味では
心にはこういう超自我があるんですとか
人間文化にはこういう超自我みたいなもの
あるんですと
GTディトンズみたいにして
これはなんか超自我が
活躍しすぎてるっぽいぞみたいな
当たりをつけるときに
出してくると
非常に使い勝手のいい概念で
他のときはいらないんですよ
うちなる内的対象としての
母とか
甘えみたいな話だけをしていて
その問題だけが問題になっているときは
超自我とか全然出てこなくても
いいわけです
さっきまで心の中にいたはずの超自我が
どこ行ったんですかとかいう話は
ないんですよ
これが原理に出てくる概念
だから何でもありになってしまうっていうのが
よく精神分析とかでは
言われる批判なんですけれども
何でもありになっちゃうからこそ
臨床ベースじゃないとダメなんですね
でもこれは
事実こういう話がいくつかあるんです
事実をベースにすれば
何でもありにはならないわけです
その都度その都度の
ただの思いつきを言ってるだけではないので
必ずまず見て
患者さんをね
見て何とかしたいと思って
だから時間を区切る
お金を取る
同じ場所でやるみたいなのが
最中の法則みたいなのが大事になるんですよね
とにかくこうやってうまくいかそうと
全力を尽くしていると
出てくる概念がいくつかあって
それはやっぱり
何でもありではなくて
一定の何か法則っぽいものに
のっとってるんだけど
その法則だけを取り出して
モデル化することができるって
程のものではないかもしれない
そのレベルのものなんですよね
その時に
のっとってくる長寿がぐらいな
勢いのあるもの
つまりある意味では
その人のものになりきってないもの
お父さんの信念みたいなレベルでは
36:00
済まされないもの
こうでないと
これにすがりつかないと
生きていけないという風に
思ってるようなもの
じゃなかったらですね
多分僕が見た感じでは
NHK特集で見た感じでは
70で間もなくお亡くなりになる頃
もうすぐ80くらいの時に
5、60か何かの息子を殴る
っていう話が出てくるんですけど
殴れないですよね
よくあるじゃないですか
逆に殴り殺されちゃうみたいな
普通そうなっちゃいますよね
中年対高期高齢者みたいな
構図だったら
でもお父さんは殴ったみたいな話を
してたんですよね
つまりどんだけ長寿が
この家では強いかっていう時に
ああいう概念っていうのは
浮かび上がってくるものであって
その時に
いろんなことが起こるわけですけど
人間ドラマが
その時にやっぱり母親っていうか
母と息子みたいな
結びつきっていう方向に
逃れようとするみたいな
そういう力が働いたりして
家から出られなくなるとか
でもあの息子さんは偉いんですよ
そういう長寿が的な価値観が
っていうこともあるんだけれども
最後は英語の勉強とかを
してるんですよね
そしてこう
自分は物を食べる資格もないから
というような感じで
つまり栄養不良ではなくなってしまうという
そういう感じなんですよ
食べる物がないわけじゃないんですよね
ただ送られてきた物とかも
なるべく手をつけないとか
そういう感じになるんですよ
そういうのが全部
何て言うんですかね
つまり自分の物になっていない
お父さんなんですよね
お父さんの中にいる
自分の物になりきれていない
お父さんみたいなものが
言ってしまえばこう
過酷な物を押し付けていくっていう
そういうあれは話だと思うんです
だから僕らはなるべく
概念的なもので生きない方がいい
というふうに思います
概念的なもので生きない方がいい
と思いますよね
内的対象としての母親とかに
なりきっちゃうとか
父親になりきっちゃうとかが
まずくて
そういうことがある
ただまずくて
もうやっちゃうから
やっちゃうからこそ
カウンセリングを受けるわけですよ
精神分析みたいな極端な
週に5回も受けに行くような
そこまですれば
出てきちゃうじゃないですか
私はもうお母さん
べったりだったんですみたいな
それは外見的にそうかどうか
別の問題なんですよ
べったりだったかどうかなんて
分かんないんですよね本人にも
べったりじゃなかったかもしれない
ただべったりだという状態でなければ
生きていけないんだという
39:01
思い込みを持ってたりするものは
隠していたとしても
週に5回もカウンセラーに会って
出てきちゃうわけですよね
出てきちゃってそのカウンセラーさんが
もう母親だということにしてしまって
べったりになろうとする
こういうところから
いろんなものが見えてくる
その時に使う概念というものは
ホワイトボードに書くような
図みたいなものがですね
教科書に飾られるのは
おかしいんじゃないかっていうのが
この話の出たところ
出どころなんですね
自分もそういう
だから自分の中に
ミーがいるかどうかみたいなことを
問題にしているわけではなくて
ただ私の感じとしてはですね
環境としての母親に
私がなると
私は男ですよ
だけれども環境としての母親に
なるということにしてみると
傷つかないじゃないですか
だって環境ですから
太陽が傷つくとか
空が傷つくとか
そんなことはないじゃないですか
環境問題とはまたちょっと別にですね
星空が傷つくとか
星空をけなしたから
星空は傷つきますとか
環境としての母親というものに
なりきれてしまえば
心が傷ついたのが
めったにしなくなる
そういう風な観点を得るために
ミーみたいな概念が
有効に使えるっていう話なんです
そして私は一番冒頭で言った通り
娘との関係でも
自分が環境としての母親になることには
何の依存もなかったんですね
もう常時環境でも
全然OKという感じがあったんですよ
あの時に娘が教えてくれたこととして
教えてくれたわけじゃないけど
娘が教えてくれたこととして
環境としての母親には
なれるんだってこと
私はそれを求めてたんですが
特に学生時代に
そうじゃなくて
なることができる
なることができてしまえば
自分はそれなんだから
そこから得るものは
いくらでも得られるわけですよ
そういうことがあれば
そういう観点を手に入れることができれば
心が傷つくとか
あるいは甘えられる母がいないとか
そういう問題は一切なくなる
だから顔色を伺うの話の中では
甘えさせるというのを
一つのキーワードに立てたんですね
そんなことをしたって
心が解けない人は
大勢いるんですというのは
そうです
そうだと思います
めちゃくちゃ荒んだ人とか
そういう話ですよね
私も実家にも肉親として
そういう人がいますが
そうだとしても
振る舞うことができて
そうすると自分は
それなんていうんですかね
そういう感じを持つわけではないんですけど
自分は自分自身がなったところの環境に
甘えるということができるんです
そうすれば
そういう荒んだ人がいて
少々厄介だなと思うことがあっても
ズタズタに傷つけられて
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夜も眠れない
なんてことには私はならないんですね
42:08

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