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2023-12-01 35:30

つげ義春『夜が掴む』を分析的に考えてみたら【GMV894】

いつも邪魔されて迫害されている人から見えている世界。

サマリー

彼らは3ヶ月間、精神分析について話し合い、無意識に気づき合うことを目標にしています。これにより、お互いのケアを維持し、現代社会でのケアの一部としています。また、つげ義春の漫画『夜が掴む』を分析すると、主人公の苦しみによって彼の行動がさらなる苦しみに進んでいく様子が描かれています。夜は彼女にとって迫害妄想となり、自己責任という概念が幼児レベルの人に適用できるかについて考えさせられます。私は結局、知識を振りかざす傲慢な態度を持つクライアントについて話しています。その中で、心理分析は上下関係を作らず、優しい考え方をすることだと主張しています。また、つげ義春の小説『夜が掴む』では、無意識の行動やトラウマの積み重ねが描かれ、夜が苦しみを表現しています。脳のバグというテーマについては、イナダとカンパチとブリの見分けの重要性や知覚の機能などを通じて考察していきます。

3ヶ月チャレンジの内容
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
11月30日木曜日、今日2本目になりますね。夜21時3分です。
これは、明日の朝の、久しぶりにこのパターンが撮れるわけですが、金曜日の朝に出したいと思っています。
なかなかですね、Jさんとの協調が登録されないと。
これはブラックフライデー絡みで、今ちょっと出遅れているのかなぐらいに思っておりますけれども、
まあそれは適当な推理なんで、どうなるか分かりませんけど、
なかなか昨日上がる予定だったのに、なんか今日2日目になってるけれども、
まあこれ予定通りにならないケースは多々あるんで、しょうがないかなとは思っているんですけど、
あとですね、3ヶ月チャレンジというのがやっているんですよ。
現在第4期に差し掛かっておりまして、つまり3ヶ月で4期だから1年丸々経とうとしておりまして、
今まだ第5期の募集はかけておりませんけれども、こういうのをやってもいます。
これ結局何をやっているのかというとですね、
これ大変奇妙に思われるかもしれないし、納得いかないかもなんですけれども、
要するにこの番組ではおなじみのですね、精神分析の話って結局何だかんだと言っても、
その人の無意識ってものに、当人にどう気づいてもらうかって話なんですね、結局。
でも無意識に当人に気づいてもらうのは難しいわけですよ。
というか当人は自分の無意識には原理的に無意識だから気づけないはずじゃないですか。
でもそこで、他人はこれに気づきやすいという側面があって、
特に訓練をしている、精神分析の訓練を受けているような人は、人の無意識に気づきやすいと。
ただここが難しいんだけど、直接当てると結構トラウマになっちゃったりするわけですね。
嫌なことなんで、無意識にあなたこういうことやってるんですよ、みたいなのって言われるの嫌じゃないですか。
だから気づくようにある意味誘導していく、しかもそれは善意で誘導していかなきゃいけないわけですよ。
でもここでまた厄介なことがいろいろあって、所詮人の無意識の当て推量なので、
正しいかどうかなんて誰にも分かんないわけ、というか実際に間違いも含まれるわけですよ。
そうすると、誘導しておいて、気づかせておいて、しかも間違ってるっていうのも問題があるじゃないですか。
このあてっこには非常にややこしいところがあるんですけど、
実は精神分析科が無意識に気づく相手の無意識ってあるわけですよ。
でもそれはどっちにも分からないわけじゃないですか。
これをどう扱うかが、この精神分析という独特のカウンセリングの、
多分私は実体なんじゃないかなって思っているわけですね。
で、このようなことを私は3ヶ月チャレンジではできるはずもないし、やる気もないわけですね。
私たちが3ヶ月チャレンジでやってるのはどういうことかというと、
精神分析というものについて、2人で話し合うっていう場を設けるとともに、
みんなで話し合うという場を設ける。
こうすることで私たちが無意識にやってそうなことを、
それぞれ命名がなんとなく理解していくこと自体を私たちのケアにしていくっていうのが、
今私たちが3ヶ月でチャレンジしている内容なんだと思っているんですね。
これを事前の告知でPRするのは実に難しくて、私も四苦八苦してるんだけど、
やりがいはあるんですよね。
やっててある種の手応えも感じているんで、やってるわけですよ。
これを精神分析並みのお値段をいただくわけにはいかないので、
そこから比較すればだいぶ安いかなと。
私が相場として考えているのは、結局1年間通してやると、それでも20万ぐらいにはなるんですね。
これは高いと見るか安いと見るかなんですけど、
フルコースのフィットネスクラブに近い、
これもクラブ次第でだいぶ値段違いますけれども、
例えばフィットネスクラブに行ってかつテニスも習ったりすると、
この値段を遥かに超えていくんですね。
スイミング付きなのかどうかとか空調付きなのかどうかとかで値段大きく変わってくるんだけど、
でもフィットネスクラブに年間通い詰めれば、
20万ぐらい都内とかだったら、おかしくは全然ないと思うんですよね。
20万12で割ると、2万にはならないじゃないですか。
2万だと24万になっちゃうから、2万にはならないぐらい。
これぐらいがそんなに高くはないんじゃないかなと、
週1でお話を必ずして、週1で1対1でお話を必ずして、
かつその他にグループのタイムもあるという状態で、
この内容であれば、そのご質問をフェイスブックですけれども、
クローズのところで受け付けて、
今心理師の方を3ヶ月に1回は無料でイベントで行うみたいなのも提供させてもらうと。
なるべくこれを人が見てもそこで問題が起きてないような内容にしておきたいっていうのがあって、
外から心理師の方をゲストでお招きするっていう形を取らせてもらいたいなと思っているわけですね。
オープンにすることはできないけれども、
オープンにしても問題はないっていう状態を維持したい。
というか維持しないとまずいですもんね。
だからグループであるっていうのもそういうものの一環なんですけど、
精神分析についての語り合い
そういう内容にしておきたいんですね。
それが3ヶ月チャレンジでやってることなんですよ。
これを一言でまとめてしまうと、こう僕はなるんですよね。
3ヶ月間は正規でお互いケアしながら働く。
お互いをケアするというよりは、自分で自分のケアができればできるようになり、
可能な余裕の範囲内で人のケアもできるようになり、正規を維持して3ヶ月は働く。
これに卒業とかはないんですよね。
3ヶ月で辞めていただいてもいいし、また入ってきていただいてもいいんですけど、
この3ヶ月間は自他のケアができる状態を維持したいっていうのを目標に僕はしているつもりでおります。
当然この中で自分自身もケアされていくっていうのを含み込みたいなとは思ってるんですね。
それを僕は座学で、僕が座学でやってるんだけど、
座学で学んだ精神分析について語り合うという中でできるんじゃないかっていうふうに思ってるんですよ。
お互いの解釈をしたり、まして介入はなるべくせずに、
しちゃうケースもあるかもしれないけど、なるべくそこは慎重にやって、
なるべくお互いが意識の上で精神分析について学んだり考えたことを語り合うという内容にする。
そうすることが実際ケアになる。
これによって我々は相互の無意識というものに気づき合うことができ、
かつその場合気づかれるということが傷に気づってたトラウマにならないようにするっていう気をつけ方をすることが、
すなわち現代社会ではそのままケアを意味するからっていうふうに考えております。
だからその1対1でセッションを持てる相談相手を持ちましょうみたいなことをこの番組でも言ってますが、
それを具体的な場として作り上げてサービスとして提供しているのが3カ月チャレンジ。
今そういう認識なんですね。
私はこれをずっとやっていきたいと思っているんですよ。
リキドーが絶滅危惧種であろうとなかろうと、何なら絶滅してしまったとしても日本でそんなことは起きないと思ってるんですけど絶対に。
なんであれ認知行動療法ではいけないのかというと、認知行動療法だって構わないと全然思うんだけど、
僕がどっちの方が好きかっていうこれはもうディレクターディストの私としては趣味で決めるみたいなところがあります。
もう1つは認知行動療法だったらもっとわかりやすい本もいっぱい出てるし、一生懸命僕がここで喋るということもないかなと。
いろんな意味で精神分析はわかりにくい。
とにかくわかりにくい理由もあるってわかりにくい。
さっき言ったようにお互いの無意識を使って盲点に自分で気づいてもらうなんて難しいじゃないですか。
これを言語で説明するのも困難だと思うんですよね。
そういうわけあってこれを一生懸命言語化していくっていうのかな結局。
あんまり言語化っていうのも僕はあんまりいい言葉じゃ三次熟語だし、
倉園さんが竹上塾で言ってるところの性感的化の化に思いっきり当てはまるんで、
言葉に直すでいいだろうって思うんだけれども、言語化って言うんですよね。
この2つはニュアンスがしかも違う感じがしますんで、言葉に直すんですけど。
これは結局言葉に直せないものを言葉に直そうとしているから、
そういうところが強調ポイントになるんだとは思うんですけどね。
そんなことをやっております。
簡単に相談できる相手が見つからず、しかも不眠に悩んだり悪夢に悩んだりするって方は、
一つ検討材料にしていただいてもいいかなというふうに思っております。
価値観とケアの意識
高いと見るか安いと見るかは、3ヶ月間フィットネスクラブに通うと5万ぐらいはかかっちゃうというのを、
高いと見るか安いと見るか、結局これは価値観の問題だなというふうに思うんですよ。
私は昔テニスバンバンやってて、これよりはお金使ってたんだけど、
あれは高いとは思わない。
でもテニスでは解決できない問題もありますよね。
面白いけどテニスは、爽快ですしね。
でも増やす悩みもありますし、体痛めますしね、あれはね。
スキーなんかよりも怪我する率が高いような気が私なんかしました。
割と無気になるから、あれは競技系のスポーツなんで、スキーってのは無気にはならないんでね。
自分だけが降りてるだけなんで。
一見怖そうに見えても、怖いと思う分余計ですね。
意外と安全なんですよ。また関係ない話に飛んじゃっておりますが。
スキーとか一回行くと高いですからね。
3ヶ月なんか山にこもったら20万じゃ効かないですから。
そういう話をしててもしょうがないんで、本題に入ろうと思います。
そういうわけで、相変わらずこの分析系の話を続けるんですけれども。
今日はこの話もどこかノートで書いたりした方がいいのかなと思いながら、
また今日喋っちゃうんですけれども、
辻吉春さん。
この人の話って本当に漫画が精神分析だなって、
やたらこう意味もなくいきなりセクシャルなシーンが出てきてるし、
しかもそれがいかにも夢っぽくて脈絡を描いてるんですよ。
別に性的な攻防をするんではなくて、
ただなんとなくセクシャルなシーンが唐突に入ってくるっていう意味で、
もう精神分析的だなって思うんですけれども。
この中にですね、原先漢主人もものすごく僕は大好きなんですけど、
何度も読んじゃうんですけどね。
『夜が掴む』の夜のシーン
夜がつかむっていう作品があるんですよね。
これはなんで僕がノートで書きたいと思ってるかというとですね、
コマを引用しないと始まらないシーンなんですね。
この夜がつかむシーン。
夜が足をつかむ、足だったよな。今ちょっと手元で確認してるんですけど。
夜、これはやっぱり漫画でしか描けないですよね。
夜が足つかむんですよね。
これこそ僕はやっぱり機械な対象ってものだと思うんですよ。
対象なんですよ。
で、さっき言いましたが、無意識がその人に悪さをしているというか、
その人の無意識がその人にとって都合が悪くなってきているっていうのって、
無意識なんで分かんないわけですよ。
だからこの夜がつかむ人は明らかにですね、
この人自身におそらく相当ややこしい問題があって、
どんな人なのかも全然説明がないし、
ただどんなに暑くても窓閉めきりにする。
こういう人ってこの種の話には必ず出てくるんですよ。
どんなに暑くても窓閉めきりにする。
で、なぜかというと夜が入ってくるからなんですよ。
この辺でもですね、
意外の人は話聞いてくれないですね。
でもこの人ね、なぜか彼女がいて、
その彼女も何とかこの彼氏に付いて付き合ってるんですけど、
しっぱなかになって寝てるんですよね。
だって暑いからね。
どう考えても真夏で、今だったらもう熱中症でダメですけど、
暑いじゃないですか。
で、窓閉めきりにして、
苦情もかけずに、
ただ夜が入ってこないようにしているという、
この意味不明の言葉を喋っているわけですね。
で、対外の人はこれが意味がわかんないと。
主人公の苦しみと迫害妄想
でも思い出していただきたいんですけど、
これを聞くのが初めてでない人は思い出していただきたいんですけど、
赤ちゃんはミルクがもらえなくてお腹が空いてくると、
さっぱり理解できないので苦しんで、
何かしらの空想を始めるというのが、
新聞籍的な発想の大元にあったわけですね。
あるわけですね。
で、悪いおっぱいが僕を苦しめるという妄想を始めるというのと、
つまりまず苦しみがあり、
それにこの苦しみに説明するような、
何でもいいからでっち上げちゃうと。
でっち上げるだけの能力を持っているのが、
こうなわけですよ、ある意味。
だからでっち上げてしまうわけですね。
悪いおっぱいというもの。
これが夜というものだと思うんですよね。
私を襲ってくる夜という人格を持った化け物のような夜ですよね。
苦しみがまずあり、その苦しみの説明をするために説明がつかないんですよ。
本人は無意識に近い水準で苦しんでいるために、
苦しいんだけれども、なぜ苦しいのかがわからないわけですね。
だけど苦しいと。
で、その苦しみというものに対する説明が夜なわけですよ。
こう考えると、わからなくはない。
この僕の発見がフロイトの発見のひとつとして、
すごくポイント高いと思うんですよね。
この説明の方が僕はしっくりくるんですよ。
いろんな説明されるより、
ご視聴者の方はこういうものですとか、
なんかわからないことを言いますみたいな説明ではわからないわけですよ。
この説明はわからないことを言ってはいるんだけど、
なぜわからないことを言っているのかはわかる気がするんですね。
やっぱり苦しいというのがまずありまして、
でもその苦しみを意識水準で捉えきれていないために、
心のどこかにある感じがする苦しみになっちゃっていて、
その苦しみに対する合理的な説明はつかないものだから、
夜が襲ってくるみたいな、
夜が入ってくるみたいな感じになってしまうわけですね。
その苦しみがあるがゆえに、
その人の行動は非常に苦しみを沈めるという意味では好ましくない。
自己責任と赤ちゃん水準の人
つまり社会的な意味ではなく、
その人の苦しみを減らすという意味で好ましくない方向、
つまり自分の苦しみを増やしちゃうんですよ。
この辺もツゲさんの漫画はすごくよく描けてるなって感じがするんですね。
せっかくそんな意味不明なことを口走る人の話を聞いてくれる彼女がそこにいるのに、
その彼女に対する行動も、
自分の苦しみをわざわざ追加していくようなことになってしまうんですよ。
でもその女の人はそれでもまだいてくれるわけですね。
具体的には話しませんけれども、
セクシャルで非常に問題のある行動をとるわけです。
でもその人は苦しいんでね、
どうしても逆にとられてしまうわけですよ。
夜までが自分を襲ってくる、つまり白外妄想ですよね。
これはもう完全に白外妄想ですよね。
悪いおっぱいが自分を苦しめるというのと全く同じ水準ですよね。
頭が悪いわけではないんですよ、これは。
情緒的な何らかの賢明さが欠けているのしか表現のしようがない何かなんですよね。
だから同じようにその女の人とセクシャルなことをすれば良さそうなものなのに、
そうではなくセクシャルに苦しめるようなことをする。
でもなんとなくここを説明するために、
これが非常に性的で古いとは気持ちが悪いぐらいになっちゃいやすいんですけど、
そうじゃないと思うんですよね、僕はね。
これが赤ちゃんがお母さんのおっぱいに対して復讐をするって時、
なんかセクシャルになりそうじゃないですか。
それが成人がやってる行為ならばですよ。
だけど赤ちゃんはそういうわけじゃないですよね。
それしか考えつかないんだと思うんですよ。
やっぱり苦しめるとなるとものすごく即物的になってしまうから。
だって物と精神の区別がついていない段階の人は、
物に当たり散らすみたいな。
その物に当たり散らすのも自分が素っ裸であるような赤ちゃん状態の場合、
物に当たり散らすっていうのは体に当たり散らすしかないじゃないですか。
自体愛の世界ってやつなんですけど、
おっぱいがないから代わりに自分の手をしゃぶるっていう、
おっぱいと自分の指の区別もはっきりつかないような状態では、
自体愛になるしかないですよ。
自分の体への愛です。
自己愛とかはまだないわけですよね。
自己がないから。
その水準の人がこの自体愛の逆、
なんかこう自体憎悪みたいに走った時、
なんかもうおっぱいつねるとかね、
そういうことになってしまうと思うんですよ。
これを大人がやると、つまりちょっとSMチックになって表現される。
ここの表現がまた杉さんは上手いんですよね。
なんでこの人がこんな風に表現できちゃうんだろうっていうぐらい、
知り滅裂なことをやって、
相手の彼女なのか奥さんなのか知らないけど、激怒する。
出て行ってしまう。
この出て行くという行為がその人にとっては、
これは畳から見れば客観的に漫画を読んでいる人は、
いや出て行ったら当たり前でしょうってなりますけれども、
出て行かれたその男の人にしてみれば、
僕を見捨てるのかこのお母さんはってことになりますよね。
つまりものすごくこれを迫害的に捉えると思うんですよ。
つまりこの種の病気を持っている人が迫害妄想を迫害妄想になるのは、
その人の自業自得だって周りは思ってしまうのかもしれない。
客観的にはここを自業自得で切り捨てると、
そう言うべきではないのかもしれないんですけど、
ものすごく新自由主義的な社会に見えるんですよね。
自己責任だと。
だけど相手が本当に赤ちゃん水準であることが分かっても、
自己責任とかいうものが成り立つのかなっていう感じを、
やっぱり僕は持ってしまうんですよね。
その人に自己があるのかそもそもっていう話。
だから自体愛水準の人に自己責任というものが取れるかっていう話なんですよ。
見た目が取れるからといって取れるかと。
こう思う人の方が少ないのかもしれないんですけど、
私なんかの場合はですね、
私だってある種の条件が揃うとああなるだろうなって気の方がむしろするんですよね。
このレベルと変わらないレベル。
つまり自体愛のレベルと変わらないレベル。
自分の体をさすって自分を慰めているというレベルと
何ら変わらないレベルのことしかしたくなくなる時がやってくるだろうと。
ひどく簡単に自己責任ということが言えるっていうのが僕には謎なんですよね。
もちろんこういう人を見て、
いやこういう人困るよねって思うのは僕だって思いますよ。
でもこういう人が困るということと
自己責任だからこういう人はどっかに切り捨てましょうとか
どっかに閉じ込めましょうとサラッと言ってしまうっていうのは
そうかなって感じがするんですよ。
赤ちゃんだったら多分そうはしないわけじゃないですか。
だから私たちは本人には若干失礼かもしれないけど
この人に赤ちゃんを見るべきだって思うんですよね。
その方が私も優しい気がする。
だから私はどちらかというと精神分析というのは
大変優しい考え方だなと思うんだけど
世の中的にはどうもそうは見えずあるいは権威主義的だって見えるらしいんですよね。
ここは難しいところだなと思うんですよ。
人の情緒を赤ちゃん呼ばわりするのは
決めつけるという意味でそういうことを決めつけるという意味では
権威主義的なのかもしれない。
だからある種の人はここですごく防衛的になってですね
例えば精神分析ではなくても心理カウンセリングとか受けるときにも
その辺の話っていうのは誰だっけな。
岩壁さんって読むのかな。
岩に壁ですからね、苗字がね。
わからないですけど、今後出版から出ている
心理療法失敗例の臨床研究
これ僕も大好きで何回も読んでるんですけれども
この中に出てくるんですよ。
知識を振りかざすクライアント
めちゃくちゃマウント取ってくるクライアントさんがいるんですね。
何かにつけてやたらと知識を振りかざす。
多分相当嫌がられると思うんですよね。
そうでなくても多分僕のように知りもしないことをベラベラ喋るって
疲れるとは思ってないんだけど。
でもわかるじゃないですか。
結局自分が赤ちゃん扱いされるのはこの年になれば嫌ですよね。
僕だってもう50ですから。
だからこう知識でやたらと自己武装していくわけですよ。
カウンセリングなんかを受けに行くときは
ある種の人はマウント取られるって意識になってしまうんですよね。
上下関係をそこに見るから。
ここら辺は本当難しいと思うんだけど
でも私は分析というのは
ここで頑張って上下関係を作らないように頑張るべきだっていう主張をするだけでも
優しい考え方だなってやっぱり思わなくはないんですけどね。
夜がつかむ話なんですけど
やってることを見ると
いやこの人孤立して当たり前でしょうと
この人とうとう出て行ってしまったとか言っていて
すっごいそのことを後悔しているわけですけど
この辺にもつまり
無意識ってものが
無意識でやってるわけじゃないですよ。
女の人いじめるみたいなのは
無意識にやるわけじゃないんだけど
無意識の行動とトラウマの描写
無意識に苦しんでることは確実なんですよ。
だからこう不意に挿入するシーンも
やっぱりびっくりで
本当に出て行くのかとか言って
追っかけていくわけですよ。その女の人。
ところがそこに邪魔が入る。
邪魔ってのはここでまたしても
迫害的じゃないですか。
どういう邪魔が入るかというと
お兄さんが不意に
野菜を売りに来てるんですよ。
スーツ着て野菜売ってるんですよ。
この辺がすっごい夢っぽいですよね。
ほとんど妄想の
感じなのかなと思うんだけど
でもスーツを着てるお兄さんが
野菜を屋台で売るってことは
現実に不可能なことではないですね。
完全にオカルトではない
っていうことですよね。
この辺は私は効果としては村上春樹さんの
小説に
かなり近いなと思っていて
実は村上春樹さんの小説よりも
あのなんて言うんですかね
えっと
夜が掴むという表現と苦しみの描写
すっごく書体地味で
ザラッと書く
それこそバサッと書いちゃう
菅さんのほうに
これはもう趣味ですね。個人的には
惹かれてしまう。村上春樹さんは
このほうが絶対いいとは思うんですよ。
いろんな意味でいいと思うんだけど
なんていうんですかね
こうすごくスマートなんですよね
これも趣味の問題だと思うんですよ
村上春樹さんが書くと
井戸の底に置き去りにされた
主人公が
女の子が
上から考えなさいと言って
はしごを外していくっていう
これはつまり
井戸というのは無意識の井戸ですね
フロイドの言った井戸ですよね
正道ですよね
正道の底に突き落とされたまんま
置き去りにされるクライアントみたいな
そしてカウンセラーは
すごい怖い存在なんですよね
はしごを外しちゃうわけだから
そして考えろと言っている
まさにカウンセリングの構図なんですけど
これはなんだねじ巻き鳥クロニクルに
出てくる1シーンですね
中でもこうスマートで
洗練されてるじゃないですか今のような
女の子だし
やっぱりスーツ着ている
生活にくたびれた感じの
おじさんがお兄さんで
妻がまさに出ていくというときに
野菜の屋台を引っ張ってくる
っていうのはですね
なんていうんだろうな
リアルだなって感じが
僕ならしちゃうんですよね
井戸の底に女の子が
はしご外すっていうのは
ちょっとロマンチックだなって感じが
してしまって正直ちょっと
好きになれないんですよね
村上春樹さんの小説は僕は苦手な
ところがあるのはそういうところで
これがまた面白いことに
完全に余談なんですけど
うちの娘が同じことを言うんですよね
女の子で
中学生ぐらいだとこういうほうが
いいんじゃないかと思うんだけどそうじゃないんだな
っていうのをやっぱり感じますね
娘のことは関係ないとして
私自身のことを言うと
こういうのがやっぱり
いまいち得意ではない
趣味の問題
その屋台の
野菜売ってるお兄さんが
野菜買ってくれないか
うちは貧乏でもどうしようもないから
お前野菜買ってくれと言って
奥さんが逃げていくのを
わいだに入ってくるわけですよ
これもまたものすごい像の
対象になってると思うんだけど
しょうがないからお兄さんだから
しょうがないから話し相手にはなると
で明らかに
このお兄さんはおかしいと
この主人公は見ているように見える
ここ自分のことが
完全に盲点になってますよね
自分がさっきまで
していたことのおかしさが
この人に自覚できないんです
でも他の人のおかしさには
気が付くことができると
こういう構図になってるわけですよね
無意識が無意識を
見るそういう見方なんだ
と思うんですよね
非常にこの辺も
すごいなって感じが僕なんかはしちゃうんですよね
僕はそういう見方をしすぎるのかもしれないけれども
やっぱりこの
こうやってやっぱり被害を
受けてるわけですこの人
こうして無意識にまた一つ
トラウマが蓄積されていく
この子に及んで
この身内は何をくだらないこと
スーツ着て野菜売って売れるわけがないと
そしてこの大事な
奥さんがいなくなるこの大事なポイントで
俺の邪魔をする
邪魔をするわけですよ
まさに被害に遭うわけですね
で身内だと
そして結局
一人になってビルつぶる
わけですよねガラーンとした感じの
部屋で何にもなくてお金もなくて
そして夜が来る
わけですよ
夜が戸を開けておくんですね
なぜかというと
ここにもまたありますよね
この彼女が戻ってくるかもしれない
非常にこれは
僕はですね
本当にこれが母親を待つ
赤ちゃんの審議なんじゃないかな
って思うんですよ
対象はいつ戻ってくるんだろう
って昔僕ですね
あの
これいろんな人に聞くんですけれども
私自身も一回だけ
遭遇したことがあるんですよね
あの
福祉の施設のところに行くと
もう僕が当時
いたのよりさらに20歳ぐらい
上ですかね完全にこう
中高年に近い
女性の方なんですけども
玄関のところに立っているんですね
で私をその案内
案内というか私が行ったところの
会員さんがですねどうしたの
案内さんだったら
お母さんが帰ってくるのを待ってるんです
待ってるんだって言うんですよね
4歳児ぐらいの感じなんですよね
なんかこう
考えさせられるというか
でもこういうことはどこにでもあることなんですよって
その人は説明してくれたし
そうなんだろうなと思うし
物の本にもそういうこと書いてあるんで
まさにそうなんだろうなと思うんですけど
いや人間ってのはお母さん
待ってるんだなっていうのはですね
本当に
私が正確には分かりませんでしたけれども
10代から
後半ぐらいだったかな
ぐらいに思うんですよね
その夜が怖いくせに
扉を開けて待ってしまうわけですよ
彼女が帰ってくるじゃないかと
そして夜が
帰ってくる夜がそこに入ってくる
っていう苦しいですよね
何が苦しいのかは全然
最後まで最後にこう夜が
入ってくるシーンで
その夜が掴むのは終わってるんですけれども
いやー
すごいなーって感じが僕は
したわけですね
これをノートにやっぱり書いておこうな
かなーって思うんですけど
これが彼の無意識ですよ
意識がはっきりしている人には夜は入ってこないんですよね
夜は手も持ってない
無意識が
そういう知覚を作り出す
わけですね
知覚というのは結局僕らそう思ってませんけれども
カメラと全然違うんですよ
外界を映してるわけではないんですね
外界の素材を利用して
我々に
クォリアと
言うべきものを作り出して
そういう意味では
同じじゃないですけど
映画マトリックスが描いた世界のほうが
実装に近いんですよね
世界というものは今僕らが目で見ているように
あるわけじゃないんですよ
何らかのものはあるんでしょうし
光があったり刺激が
あるものがあったりするんですよ
それらを目から取り込んで
その素材を使って脳の中で
作り込んでいるのが
世界の図ですよね
だから意味があるわけじゃないですか
何を見ても何かに意味がついている
色もついている
色ってものは外界にはないものですから
だから色もついている
意味もついている
社会の他の人がそれを見て何と呼ぶかも
僕らは知っている
この構成というものはかなり複雑なことを
やっているわけですから
当然かなり
ネタラメに
できている部分もあるわけですね
だからここに強い恐怖みたいな
あるいは強い苦痛みたいなものが
意味付けとして付与されていれば
我々多分何を見てもものすごい恐ろしくなって
全然不思議はないわけですよ
こういうのを
脳のバグと意味付け
僕は脳のバグって絶対呼べないと思うんですよ
そんなことを言ってしまったら
脳の機能なんてほぼ全部
バグになっちゃうと思うんですよ
よく言うじゃないですか
なんだっけ
レビストロースとかなのかな
日本人が例えば
ブリとハマチとイナダを
見分けられるようには
他の国の人は見分けられないわけですよ
なぜならば言葉がついていないから
これバグじゃないですよね
それ同じ魚じゃんっていう人
それがブリ
英語でなんていうか
僕は覚えてないんですが英語でブリっていうのは
多分イナダとカンパチと
は分けないと思うんですよ
で全部同じに見える
これはバグじゃないですよ
だからといって僕ら日本人が
イナダとカンパチとブリを見分ける
これもバグじゃないですよ
結局のところそれは
どの要素を取り込んで
どういう意味付けをするかによって
違って見えるようにするというのが
一つの能力になるわけじゃないですか
これはバグでもなんでもないと思うんですよ
それを言えば
とっても何かを恐れている人が
どういう意味付けをするのは
これは確かにバグに近いでしょうけれども
我々の文化が
これを正気狂気で
分けるからそうなのであって
決してそれを端的にバグだということは
できないと思うんですよ
これは知覚の機能なんですよ
ただそれに万能空想というものが
乗っかっちゃってる上に
現実原則にその人が生きる
水準なく
快楽原則に生きてしまうために
苦しいか気持ちいいかだけで
世の中を分けようとするから
この種の事態が起きるわけですね
苦しさと罪悪感
苦しみに対して
これは
何なんだろうと考えることができない
ただひたすら苦しいと
だからそれに対する意味を
考えてしまって
夜が自分を襲ってくるから
苦しいということにしてしまって以来
このような事態が発生している
ということがあると思うんですね
なぜあの女の人がいなくなったんだろう
これが要するに
不在の
苦しみですよね
行ってしまったと
行かないようにしろよって
話なのかもしれないけど
行ってしまった苦しみが圧倒してくるので
自分がその時何やったかと
どんなことをかつて
その女の人についさっきしたか
考えることすら困難なんですよ
考えてしまうとものすごく
自分を苦しめているのは
自分の責任なんだということに直面して
罪悪感で
死にたくなったりするので
心としてはそういうことを
自分自身に直面させるわけにはいかないんですよ
夜が自分をつかむ思考
だから
何でなのかが分からないけど
いなくなって苦しい
ということになるから
世の中の人が自分に対して
攻撃をしてきているような気がしてくる
こういう風にして
夜が自分をつかむっていう
思考にまで発展するっていうか
その発展ってのはやっぱり
情緒水準において
ある種の賢さが欠けている
ってことなんだろうとしか
言いようがないような気が私はするんですね
こういうことについて
一生懸命考えていくうちに
自分のケアというものが
できるようになったり
人に優しくするみたいなことの
意味ってものをつかんでいけるんじゃないかな
っていうのを
自分に期待して
この種の活動をやっています
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