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2022-11-16 23:30

ep3 日米の台本のト書きの違いにびっくり - 言語と非言語コミュニケーション

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違う言語や文化を持つグローバルチーム内での言葉での伝達の難しさや、日本とアメリカの舞台や映画の脚本の書き方の違いにびっくりしたという話などから、言語と非言語コミュニケーションについて話しました。

  • 文化も言語も違うグローバルなチームメンバーに伝えるときの難しさ
  • 日本はあうんの呼吸でできると言われるが実際はそうなっていない(伝わっていない)
  • 英語も日本語もロジカルな言語だが、日本語のほうがあいまいな形で文章や会話を成立できてしまう
  • (演劇や映画の)日本語の台本と英語の台本ではト書きの扱いが全然違う
  • 役者ごとの表現や解釈を尊重している
  • ウォーターフォール開発がなくなってきた理由
  • 日本人と非言語コミュニケーション:あいまい性を許容して活用する方向に
  • セリフの「・・・」
  • 曖昧性を埋めることによって新たな創造が生まれる可能性
  • 世界一短い手紙とその返事
  • 英語話者でも違う国にいくとユーモアも理解しにくくなる
  • 攻殻機動隊の個が消失するというのはハイコンテキスト文化が目指すものなのか
  • アメリカ人も若い人はハイコンテキストなしゃべり方をする人もいる
  • ネットによって同質なコミュニティが形成されやすくなっている

リンク:
トーク中で取り上げた記事や情報へのリンクです。

プロダクトマネジメントとプロダクト開発組織づくりを専門とする及川卓也。アメリカ・ニューヨークでスタートアップ投資する関信浩。マーケティング・広報・プロダクトマネジメントを幅広く手掛ける上野美香。テクノロジー業界で働く3人が、気になる話題を毎回、異なった視点で語り合います。

XCrossing website https://x-crossing.com/

XCrossing Official Twitter @x_crossing_
及川卓也 @takoratta
関信浩 @NobuhiroSeki
上野美香 @mikamika59

00:00
Mika Ueno
Xクロッシング 英語でスクランブル交差点を意味します
趣味も世代も住んできた街も違う3人がスクランブル交差点で出会うように
様々な話題を聞かせるおしゃべりの交差点です
今日のXクロッシングであなたが出会うのはどんな話題でしょう
Takuya Oikawa
プロダクトマネジメントとプロダクト開発組織づくりを専門とする及川です
Nobuhiro Seki
アメリカ ニューヨークでスタートアップ投資をしている関信宏です
Mika Ueno
マーケティング広報 プロダクトマネジメントをやっている植野美香です
今回のXクロッシングはグローバルチームでの言葉の伝達の難しさ
また日本とアメリカにおける舞台や映画の脚本の書き方の違いなどを例にしながら
言語と非言語コミュニケーションについて話しています
Nobuhiro Seki
僕らの共通の感じだとアプリとかのUIとかUXとかっていうのもありそうなんですけど
僕はあんまりその分野で仕事してないんですけど
例えば及川さんとかGoogleとかMSの時もそうだと思うんですけど
グローバルのチームと説明してこんな感じとかっていうような
よく使うけど普段の生活で使わないような単語とかって結構あります?
文化が違うと結構説明しづらいんじゃないかなとかって思ったりするんですけど
Takuya Oikawa
そうですね 関さんが前回言ってた形容詞の話と同じで
例えばクールっていう言葉に込められている英語の意味と日本でいう近い訳語は何なんでしょうか
かっこいいとかなのかな?でもかっこいいとクールはやっぱり違うじゃないですか
そういうようなものもあるし
これも前回と重なるんですけどそもそも日本語って言ったら何て言ってるか分からないようなものってあると思うんですよね
だからリモートで違う言語で違う文化の人にそういった感覚的なものを伝える時っていうのはすごい難しいっていうのは
確かに言われる通りリモートとチームとやり取りしている時には感じますね
Mika Ueno
文化とか環境が違うとまたさらに違いますもんね
Takuya Oikawa
そうですね
Mika Ueno
国とか言語によってもなんか違いそうだし
Takuya Oikawa
でも私が英語圏の会社、米国の会社にいて日本の会社の方にもアドバイスしたりするのは
いわゆる日本って日本語が全員理解できているし国が一緒で
単一民族っていうと怒られちゃうわけだけれども
単一民族っていうのは言い過ぎにしても極めて近しい関係性を持っている
いわゆるハイコンテキスト文化だって言われるじゃないですか
03:03
Takuya Oikawa
だからなんか阿吽の呼吸でいろいろできるっていうふうに言われるんだけれども
実際にはそう動いてないんだと思うんですよ
いわゆる英語がネイティブランゲージじゃない人も集まっているような米国の会社に勤めていると
その唯一のコミュニケーション次第になるかもしれない慣れない英語であったとしても
こと細かに説明しようとするいわゆるローコンテキストな上でのコミュニケーションをやるんだけれども
実はハイコンテキストと言われているところでも実はちゃんと意図が伝わってなかったり
今回とか前回の話で言うと感覚が伝わってないときにこと細かに日本語であっても説明した方がいいんだけれども
何かその阿吽と言われているところでお互い分かったように伝える側は伝えた気になり
伝わった方は伝わった気になってしまうんだけれどもいざ蓋を開けてみると全然伝わってなかったわって
みたいなことがあるっていうのが起きているように思うので実は何か例えば極端な話
日本人同士でも慣れない英語でコミュニケーションした方が意図はきちっと伝わるんじゃないかっていう風に思うこともあったりしましたね
Mika Ueno
確かに英語で話すときと日本語で話すときって確かに前次がもともと母語じゃないっていうのもあるから
できるだけ言い換えをするじゃないですかシンプルな言葉にしないと自分で話さないもあるんですけど
よりストレートストレートなりますよね英語で話そうとすると
Nobuhiro Seki
英語の多分ねその構造自身がダイレクトにダイレクトに話そうっていう傾向もあるじゃないですか
なんか余計分かりやすくなるっていうのは多分あって僕もなんか説明するときに英語の方が理論整然と説明できることが多いんですよね
日本語だと頑張って理論整然と話してるつもりなんだけど割と終わってみるとまだこう
しっかり伝わってないしっかり伝えきれてないなみたいな
実際に聞いてみると伝わってないみたいなことがあるんだけど英語で話す方がさっきの英語の方が母語じゃないっていうのもあるけれどもそれ以外でもやっぱりその
構造的にこう説明するっていうスタイルに僕自身はそういう教育を受けたので余計なのかもしれないですけど
より説明するっていうことを特化してその言語を学んだんで説明しやすいというのは正直あります
Takuya Oikawa
英語の方がロジカルなランゲージだっていう風に言われることは多いんですよね
でも実際にはそんなことはなく日本語だって十分ロジカルなんだけれども実は日本語の方が曖昧な形で文章や会話を成立できてしまうっていう特徴があるというのを昔読んだ気がします
簡単なところで言うとやっぱり主語を省略できちゃったりするんですよね
06:01
Takuya Oikawa
もちろん英語でもできるんだけど英語の場合ってやっぱりかなりそこにどういう主語が入るかっていうものを間違いなく推測できるような時の方が多いけれども
日本語の場合よくわからないまま主語がない文章っていうのが乱立していて
コミュニケーションが成り立つっていうところから曖昧性をかなり含んでいるコミュニケーションになりがちなところがあるんじゃないかなと思いますね
Mika Ueno
それで成り立ってるんですよね その話にも思い出したのがあって
演劇とか映画の脚本の話なんですけど
この間声優さんがすごい好きなので声優さんが舞台で音楽労働劇というのをやるんですね
いわゆる公開アフレコみたいなものなんですけど
衣装を着て台本を手に持って声だけで演技をするっていうそういうやつなんですよ
見てる観客は自分の頭の中にその情景を描きながら見るっていうスタイルなんですけど
その労働劇の台本のレプリカ売ってたんでそれを買ったんですね
キャストが使ってるものと同じ台本だっていうので
この人たちはどういう情景と人物の設定とか心情設定を見ながら演技をしてるんだろうっていうのが裏側を知りたくて買ったんですよ
その台本見たらもうびっくりしてとがきがほぼないんですね
役とセリフしかなくて
例えばこの場面はこういう夜の京都でとかここに鬼が出てきてみたいなそういうのが書いてあるのかなと思ったら
ほとんど本当に何もなくてセリフだけだったんですね
一方でnetflixの映画でマリッジストーリーっていうのがあって
今メッセージ送りましたけどマリッジストーリーっていうショーも撮った映画?2時間ものがあるんですけど
これの台本がpdfで公開されてるんですけど
こういうのとか見るとこの場面はどういう場面で移り変わっていて
このキャラクターは今何を見ていてとかどういう心情でっていうのがとがきがめちゃくちゃあるんですよね
その間にセリフが入っているんですよ
それを見ながら役者さんとか演出家と脚本家の意図っていうのはちゃんとそこに明確に書かれていて
こんな場面なんだこんな心情なんだっていうのを理解しながらその中で役者さんが表現していくってことらしいんですよね
前twitterでこの台本私が自分で日本の台本を買う前に
ハリウッドとかでアメリカで日系のとか日本人の役者さんがツイートで
日本の台本とか演出はとにかく本当に説明がないと間を読ませるのがすごく多いっていうのを言ってたことがあって
そんなもんなんだなーなんてちょっとこうふと思ってたんですけど
実際にその台本を見てみるとこのマイチストーリーとその音楽労働劇の見比べた時に本当にその通りだと思ってびっくりしたんですよ
09:01
Mika Ueno
でもそれだけかなと思ったら友達経由で聞いたら日本の映画最近公開された映画でも台本見る気がする人があって
私がこの話したら同じだって言っててほぼと書きがあんまりなくてっていうのは言ってたんですよ
だからその合間とか演出家の意図とかそれをクリエイターの演出とかが役者さんがそれを汲み取って
現場できっと擦り合わせてやってるんだと思うんですけどね
そこにその言葉の使い方というか説明の使い方が全然違うなって最近ちょっと感じた例がありました
Nobuhiro Seki
これってある意味言い方を変えるともしかしたら日本の方はその役者役者ごとの作る世界みたいなものを尊重しているというふうにも取れるんだけど
そうじゃないんですかね
監督とかはこういう情景を思ってるんだけどそれは書いてなくてそれを監督から汲み取るのがいい役者なのか
それとも役者ごとにやっぱり違うじゃないですか
その持ってる世界観が
それっていうのがそれを損なわないようにやってるのかどっちなんですかね
なんかちょっと
Mika Ueno
クリエイティビティをぶつけてるってのもあるのかもしれないですよね
声優さんの方は脚本を書いた方がついてかなんかで言ってたんですけど
できるだけそれを演じてくれる役者さん日によって演じる方が違う場合もあるので
その方の解釈とその人の表現をできるだけ尊重したいということをやりたいって言ってたので
これは意図的なのかなというのは思いましたよね
Nobuhiro Seki
もしかしたら芸術の世界にそういうことによって新しいものが生まれるのかなと思うし
でも一方でこれ逆に大岡さんにまさにその時代を生きた後なんで聞きたいんですけど
昔ってそのプログラミングの開発でウォーターホールとかやっぱり設計図をすごいこと細かに書いてっていうようなことを言ってたと思うんですけど
今ってそういうのがすごい減ってきていて
開発であるとずいぶんこうもしかして一人一人のソフトウェアエンジニアの解釈とかそういう能力にも結構依存してきたりするのかなと思うんですけど
そのあたりって今の話と通じるとこってありますかね
Takuya Oikawa
それはどうだろうかな
なんかウォーターホールじゃなくなった理由というのは
人の能力云々の話もしかしたらウォーターホールの対比がいわゆるアジャイルであり
アジャイルの典型例であるスクラム開発スクラムとするならば
スクラムって基本的にはやっぱりトヨタの工場の生産手法みたいなやつをソフトウェア開発に取り入れたっていうのが由来なわけですけれども
12:02
Takuya Oikawa
その工場って考えてみるとできるだけ俗人性を排除し
全員がほぼ同じクオリティでパフォーマンスの仕事をするいわゆる多能工であるということを前提にした上で
極めてそのレベルの高い多能工の人たちができるタスクに分割しそれを組み上げていくってやり方なんですよね
そう考えるとむしろ今の関さんの質問からするとどう解釈された?
人の創造性がより発揮されるようになったのが今じゃないかっていう話だったっけ?今の関さんの話は
そうなんですよ
むしろウォーターホールの対比の話でいったならば必ずしもそうではないというふうに思います
Nobuhiro Seki
でも混ぜ合わせてより良いものを目指しているっていうことなんですね
Takuya Oikawa
そうですね
それよりちょっと三河さんの話に戻って考えた時とかそれまでの話の流れで見た時に
もしかしたら日本人っていうのは文化として非言語コミュニケーションの方にかなり重きを置いているところがあるのかもしれないと
さっき言った日本語の曖昧性みたいなところを日本語自身は言語としては必ずしも曖昧性を多く許容しているわけではないんだけれども
その曖昧性を許容し得るような余地があるところを活用してしまっているのは日本人じゃないかっていうものですね
それが阿吽の呼吸みたいなところになると
これちょっと本当かどうかわからないところがあるんで
関さん今米国住んでるんで長くいますから過去のこととか思い出してほしいんですけれど
アメリカって道順を示す時にテキストで示すことが多かったと思うんですよ
今だったらGoogleマップみたいなインタラクティブなスマホとか地図があるんでそれを使うことが多いと思うんですけれど
昔なんか地図を書こうとしたらなんかその道路の名前があって何ブロック行ってそこを右に曲がって何とかストリートに入ってみたいな感じで
テキストで箇条書きみたいな形でなんか10ステップぐらいあって
そしたらここ来るからみたいな感じで案内を渡されることが多い
Nobuhiro Seki
それ本とかもそうですよね
Takuya Oikawa
そうですよね
Nobuhiro Seki
全部文字しかなくて写真とか図がないんですよね
Mika Ueno
統計とかなんかああいう調査とかもそうですよね何%が全部テキストになってて
日本人的には図で見たいんだけどみたいなのあったりはしますよね
Takuya Oikawa
だから日本はどっちが優れてるとかではなく非言語でのその情報の取得とかっていうのをすごい好むところがある
だから図解とかがすごい好きなところがあるし
そこがやっぱりコミュニケーションスタイルにも大きく現れてるところがあるんじゃないかなという
Nobuhiro Seki
それはね例えば漫画とか漫画で何かこう説明する教則本とかすごい多いじゃないですか
15:00
Nobuhiro Seki
だからやっぱりテキストで読んでもなんかピンとこないけど漫画でも分かるみたいな
確かにそういうのって僕らはそう思うし
漫画だったらさーっと読んで本だったら1時間かかるやつを20ポイントくらいで読めたりするとか実は思うし
だからそれは確かにいいなっていうふうに思うんですけど
それはどうでしょうかね
そういう文化の中で文字でちゃんとロジカルに説明するっていうのにある意味慣れてるから
それ以外の説明の仕方が逆に分かんないとかなんか違和感があるとかかもしれないですね
僕も逆にこっち来た時に違和感があったんでやっぱりなんでこんなに文字で説明したかんだろう
これ図一発じゃんと思うようなこともやっぱり細かに説明するってのは確かにあって
この今見せてもらってると書きとかは完全にそうですよね英語のやつもね
Mika Ueno
そうですよねさっき関さんが漫画って言いましたけど漫画のあの点々ってあるじゃないですか
喋らないんだけど言葉がないけど点々ってあれも台本とかによく出てくるらしいんですけど
表情とか空気を読むとかそれで伝わってくるものがあって
なんでしょうね目とか耳とかの肌全部で感じるみたいな感覚を受けますよね
そういうノンバーバルなところ空気も含めてを感じるみたいな
特徴的なのがあったかもしれないですね
Takuya Oikawa
でもそれさっき関さんが言われたところに通じるところはやっぱりあるかもしれないと思いました
つまりその曖昧性を残した上でその曖昧性のところを排除って言い方すると極めて光学的な感じかもしれないんだけれども
排除もしくはその曖昧性のところを埋めることによって新たな創造がそこに生じる創造というのはクリエーションの創造ですね
それが生じるって言うようなことを日本はやっているので
例えばやはりと書きがほとんどないっていうところを埋めなきゃいけないのは
それは脚本だとかそういった人と演者との間のでその曖昧性を埋めようとする中で
想像以上のものが生まれるっていうものがあるのかもしれないというふうに思いましたね
Mika Ueno
そうですねお互いの共通の認識とお互いの見ている景色をまずここで合わせてっていうのもこのトガキとかそうですよね
Takuya Oikawa
そこからどういうふうにきっと練っていくんでしょうねこれ
Nobuhiro Seki
でもこれって別に今英語の話してますけど
欧米全部じゃないんですねきっと
これちょっと僕はあんまりフランスとかに詳しくないんだけど
フランスの文化って結構日本の方が英語よりも日本の方に近いみたいなこと言って
で今ふっと思ってその点々の話を聞いて思ったのが
世界一短い手紙っていうのがあって
確かに世界一短い手紙って
はてなマーク1個っていうのがあってこれが確か一番短い
レターとかって言われてるんですけど
18:01
Nobuhiro Seki
要するに完全にもうその
クエスチョンだけで全部のコンテキストを読み切るってことじゃないですか
手紙を見たらはてなしか書いてないっていう
だからなんかそういう感覚って別にその日本だけは特別じゃなくてきっと
その時とその場所によってやっぱりそういうのがいっぱいあるんだろうなっていうのはちょっと
思ったっていうか
それの対する返事がびっくりマーク1個だったとか
そういう話もちょっとこれちょっと後半ちょっと引用元不明なんですけど
なんかはてなびっくりマークで
コンテキストがよく分かっている人と通じ合えるみたいな
なんかそういうようなものってスーパーハイコンテキストな環境
そういうのが別に欧米全部で嫌われてるって言うかそういうわけでもないんだな
きっと英語とかの特徴なんだろうな
Takuya Oikawa
もしかしたら言語の特徴か
僕ら今話してるのはアメリカでの英語の使われ方っていうところにかなり
バイアスかかってる偏ってる可能性あると思うんですね
ちょっとイギリスの英語ってなんかやたら悪い方するとひねってて
いい方するとウィットに飛んでいてみたいな感じで
英語ネイティブな人じゃない人に対しては
ボソボソボソってなんか喋られてなんか面白いこと言ってそうで周り笑ってるんだけど
聞き取れたいような気はするけど何言ってるのか全然分かんねーみたいなのは
Nobuhiro Seki
イギリスの方が多い気がするんですよね
アメリカ人の友達がイギリスに10年以上住んでるけど
全く分かんないって言ってましたね
20年くらい前に僕なんか英語分かんないんで
ロンドンにちょっと住んでた時あって
何言ってるか全然分かんない何が面白いんですかって言ったら
私も15年くらい住んでるんだけど全く分かりませんって
アメリカ人が笑って言ってました
やっぱり同室の環境にいるとやっぱりハイコンテキストを求めていくっていうのは
人間の習性だったかもしれないですよね
Takuya Oikawa
そうですね
Mika Ueno
ハイコンテキストそうですね
Nobuhiro Seki
ちょっと今頭の中にすごいくだらないこと浮かんじゃって申し訳ないんですけど
美香さんよく知ってる
広角軌道帯の中でだんだん個が消失していくみたいなことがあるじゃないですか
脳が繋がっていく
あれって要はもういちいち説明しなくてもいい世界に向かっていくってことじゃないですか
要するに個があるってことは自分は外の外界とは何か薄い膜みたいなのがあって
だから中も守られてるけど自分の思ってることはわざわざ言語化しないと伝わらないっていう状況だと思うんですけど
個が消失していくって全部共有されるってことだから
別にそういうこと説明しなくていい楽チンっていう
そういうようなものもあって極めて
ハイコンテクスト文化の人が目指してるゴールがそこにあるんじゃないかなみたいなことを話を聞いて一瞬思いました
21:07
Mika Ueno
あれはそうですね
より高みへっていうところ
本当にハイコンテクストですね
Nobuhiro Seki
でも高みかどうかわかんないよね
もしローコンテクストでちゃんと説明するのがいいっていう文化だったら
むしろ堕落というか
むしろだんだんちゃんとみんなが自分の言ってること喋んなくなるから
よくないみたいな感じもする可能性もあるなみたいなことを今ちょっと聞いてた
Mika Ueno
お互い対話するとかコミュニケーションするっていうのは
言葉にしなければ理解できないじゃないっていうベースに立っているとありえないですよね
ハイコンテクストみたいなやつはね
Nobuhiro Seki
個がなくなっちゃうっていうのはやっぱりちょっと
信じられないとかって思うんじゃないかなって思いつつも
アニメとかの文化的な影響力っていうのがあると思うんですけど
どんどんアイノアメリカとかでも見てるから
きっと若い層の人たちが逆にアイノに対して抵抗なくなってくると
個はだんだん薄くなってくるのかしらとかちょっと思ったりしますよね
Mika Ueno
そういうふうに動いたらそれそれで面白そうだけど
Nobuhiro Seki
確かに若い人の方がハイコンテクストで喋れますよねアメリカ人とかで
Mika Ueno
そうなんですか?
Nobuhiro Seki
うんやっぱり説明があんま上手くないみたいな感じも
それは年の背なのか分かんないんですけど
若い人の方もやっぱりそういう感じは若干する
分かんないですけど
若い人ってもう割と同室の環境の中で住んでいやすいからっていうのがあるのかもしれないけど
なんかそういうような話っていうのは聞いて
たぶんアメリカ人のアメリカで学校に通ってる若い子どもいるような人とかに
ちょっと聞いてみようかなと思いますけど
たぶんそういう空気で伝えるみたいなことは
Takuya Oikawa
なんかちょっとしてるっぽいなって思う時ありますね若い人と話
ウェブとかインターネットでいわゆるニッチな趣味思考であったとしても
その同じ思考を持った人が集まりやすくなっていることによって
アクセス性が非常に高いコミュニティ形成がしやすくなっているっていうところが背景にもあるかもしれないですね
Nobuhiro Seki
確かにそうかもしれないですね
Takuya Oikawa
♪~
♪動画をご視聴頂きましてありがとうございました☆ チャンネル登録を是非お願いします♪
23:30

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