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2022-02-21 44:34

【GMV 556】手を洗うのがやめられなくなる前に

気が済まない?
00:05
おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
来月3月5日の土曜日に、情報整理系のセミナーをやります。
これは、私が単独でやるオンラインのセミナーです。
情報整理大全の第4弾の本を、Kindleオンリーで出しています。
こちらの出版記念を兼ねて、詳しく書き切れていないところを詰めて書いてみて、
多分疑問点等があると思うので、詰めたいという方がいらっしゃいましたら、ご参加いただけるといいかなと思います。
一応、ライフワーク的なものとして、ライフハックをグッドバイブス的に広げていくということをやっているつもりです。
その一環でもあって、ライフハックをグッドバイブス的にやっていこうと思います。
そうすると変わるような日が基本方針としてするのですが、実際にやることはあまり変わらないのではないかと思います。
これはタスクシュートについてもう何度も言っていることですが、
タスクシュートもグッドバイブス的に使うというのも私は今やっていることですが、
昔に比べて大幅にタスクシュートの使い方が変わったかというと、全然なんですよ。
いくらかは変わりましたね。
たぶん最近は起きている時間がバリバリやっていた頃に比べれば、1時間弱遅くなっているという程度の違いはあります。
でもその程度なわけですよ。
その仕事量としてはほぼ変わらない。
結局自分がやりたくてやっているような活動についてもほぼ変わらないですね。
倉園さんと仕事をするようになったというのはあるにせよ、
それはタスクシュートの使い方云々ではなくて、
先にむしろ倉園さんと仕事をするようになったという感じですから、
これもタスクシュートの使い方とはほぼ何の関係もないので、
つまり何の関係も違いはあるんですけどね、意識の中では。
でも意識の中でしか違いがないから、それがあまり表には現れてこないと。
言ったところです。
昨日もグッドファイブスファクトリーというコミュニティのグループセッションがありまして、
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そこでも私は一生懸命、多分これが僕の中では一つのタスクシュートの僕のですよ。
一般のという意味では全くなく私のゴールだなと思っているんです。
禅に主人公という言葉があるんですよ。
主人公って禅の言葉なんですね、禅宗の禅ですね。
その主人公というのは不思議なんですけど、
自分の中で自分に問いかけるという、グッドファイブス的というよりは、
禅にはこういうのが多いですよね。
マインドフルネスもこれを要はアメリカ心理学的に取り入れたものなのかな。
あれはジョン・カワトジンのもはやオリジナルと言ってもいいぐらいのものだと思うんですけど、
要は自分で自分のやっていることを、これをメタ認知って言うんですけど、
私はどうもこの言葉は何かが違うような気がするんですよね。
でも別にメタ認知と言ったって構わないんですけれども、
あれなんですよ。
要は自分で自分のことをモニタリングしましょうっていう感じなんですかね。
自動的に行動をとってしまわないようにしましょうみたいな感じなんです。
主人公っていうのはつまり自分のことなんだけど、
その主人公に呼びかける自分っていうのがいるんですね、禅の考え方の中で。
主人公に向かっていちいち問い合わせるわけですよ。
タスクシュートと全く同じなんですよ。
これから食事の準備をしろとか、ちゃんと食事の準備をしているかとか、
いちいち呼びかけるわけです。
これが禅にある考え方なんですよ。
中国だったと思うんですけど、いずれにしてもこの人ってほとんどこれしか言ってないぐらい、
つまりこれと悟りが直結しているってその人は多分信じていたんだと思うんですね。
私はそれは分からないけれど、タスクシュートではこれが一番有効だ、有効だになっているって思っているんですよ。
これからこれをするのかと、それをしてどうだったかと、
これを繰り返し繰り返し自分に問うんですね。
で、問い損ねちゃいけない。
なぜ問い損ねちゃいけないのかというのはもはや問題にならないんですよ。
問い損ねちゃいけないんですね。
これを何かの役に立てるっていうのも、役に立つときはいいと思うんですけど、
立てようとするものでは僕はないと思うんですね。
これをただ繰り返していく、そして永遠に繰り返すっていうのが大事なところなんですね。
やめちゃいけないんですよ。
やめちゃいけないんですよ。
やめても別に何にも、おとがめも罰則も何もないから、
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しかもやめて失うものすらないから、そういう意味ではやめても全然構わないんですよ。
この条件下でやめないことなんですね。
ということがつまり、私は価値ってもんだと思うし、
そういう価値っていう、この場合の価値っていうのはつまり、
自分の行動というものを無意識的、ないし自動的に行わないようにするということに価値があるということを、
対原的に表明するみたいな感じで、表明し続けるという感じなんですね。
一生にわたってこれを表明し続けていくというか、
自分でやっていくということなんですよ。
それはつまり、自分でその行動をできれば多重的な観点から選び抜くという雰囲気が出てくるんですね。
この多重的っていうのはつまり二人なんですけど、
それをやっている人とそれを見ている人、それが両方とも自分の中にいて、
安心してそれを確信してっていうのかな、やっていくと。
だから急に違うことを始めるっていうことはないんですよ。
急に違うことを始めるのも必ずその主人公に対する問い合わせが入るはずだと思うんですね。
例えばテレビが気になるならテレビを見るんだけど、
その場合は必ず私が主人公であり、テレビを見ることに切り替えますと。
それをしてはいけないとかいいとかいう判断は多分しないと思うんですね。
そこら辺全部含めてタスクシュートでやれるっていうか、タスクシュートでやってるんですね。
これが私が昨日しゃべったことなんですけど、最終的なタスクシュートのゴールだと思っているんですが、
別にそんなことはどうでもいいことだと思うんです。
タスクシュートをやってる上で未来計画を立てて逆算して落とし込んで毎日のことをやるとか、
目的を叶えるためにやるとか、時間をシミュレーションしてやるとかで全然いいと思うんですよ。
究極のゴールとかなんとかそんなことはどうだっていいことだと思うんですね、ライフハック的には。
私はただそのライフハックの中に、それだと辛くなることがあるので、
最近FMFMって呼んでるんですけど、つまりFrom Me For Meなんですが、
私のために私から出てきたことをやるっていうのは一番いいようで一番辛くなると僕は思うので、
そこに行き着き、かつそこで全然辛くないって言うんだったら、
全然そういう方がこういう話に興味を持つとは思わないので、そこはよしとして、
これをやっていてなぜなのか分からないが辛くなりましたという場合は、
ライフハックにGood Vibesを当て込むみたいな感じなんですが、
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僕の感じでは、と、いい、と思われますって感じ。
これを今私は一生懸命ありとあらゆるメディアを通じて、
メディアの使い分けってよく言うじゃないですか、
ポッドキャストはこういう役割とか、仕事はこういうことを書き、チェンジ図はこれを書く、
私はそれは嫌なので全部同じことをやるんです。
ただメディアごとの特性というようなものはそれも変わりますけどあるので、
メディアごとの特性に応じて自分の伝えたいことを、
つまりプリズムみたいなものですね。
同じことを発信していくんだけど、
違った雰囲気を持っていくっていうのが僕は理想的かなと思っていて、
思ってるんですね、勝手に。
だからノートも書くけど、書くこともありますが、
全部同じことを言うんですよ。
つまりライフハックをGood Vibes的に言うと。
それが必要だと思える人はいるからそこに向かって出すけれども、
そのメディアの特性に応じて有料になったり無料になったり、
仕事の僕だったりGood Vibesっぽくなるけれども、
そこには本質的な違いはないはずだというのが自分の思うところなわけですね。
これが以上前置きで、つまり情報整理大全のセミナーをしますから、
3月5日よかったら来てくださいということです。
で、違う話なんですが、何の話をするべきなのかをこの辺で見失うんですよね。
一旦話題を切り替えようとするからそういうことが起こるんだと思うんですが、
思い出しているということもあれば、そもそもこの話でいいのかっていう悩みもあるんですが、
つまり昨日、なぜ昨日これを考えたのかが思い出せないんですけど、
脅迫神経症について、昨日Good Vibesファクトリーのグループセッションの中で、
僕は盛んに脅迫神経症っていう言葉が頭の中を巡ったんですよ。
しょっちゅう巡る言葉ではありますけど、要するにオカルトなんですよ、あれは。
オカルトが出てきたらまずいと思いたいところなんですね、私たちは。
それは科学の世の中だからとかではないんですよ。
オカルトの嫌なところはですね、勝手な因果関係というべきで、勝手な因果関係というのはつまり心の中の因果関係というべきで、
それはすなわちイリュージョンということになるんだけど、
例えばですよね、世の中に炎上し、このサービスについて悪い噂が広まったから、
このサービスについて私はやっていけなくなって路頭に迷うみたいな、こういうオカルト、これオカルトですからね。
脳内の因果率は現実に適応できないんですよ、当然ですよね。
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そんなことができてしまったら万有引力の法則とかどっかすっとくじゃないですか。
空に向かってボールを投げたら月に行っちゃいました、これがオカルトですからね。
それ脳内ではできますよ、すごい球を投げれば月にも行くぞみたいな。
もうたに翔平が投げたって下に絶対落ちてくるはずです。
つまりオカルトなんですよ、脳内の因果率というのは。
その通りになるようにどれだけ思えるかという問題ではなく、
その通りには絶対なってないという、つまり脳内と現実は別物だってことが大事なんですね。
脳内と現実が一致してしまったらオカルトなんですよ。
それは絶対そういうことは本当は起きてないはずですから。
だいぶ昔に、だいぶ昔でもないね、しょっちゅう言ってますね。
平気で嘘をつく人たちって今の紹介をしょっちゅうしてます。
冒頭の話です、脅迫神経症の男が出てきますね、男性が。
最初は、なんかどっかで人を引いちゃったんじゃないかという、
これは車の運転をしてる人は人を引くはないにせよ、
どっかにぶつけちゃったんじゃないかなって思うことは、
特に初心ドライバーの時はしょっちゅうありますよね、ぶつけてもないのに。
常に同じ現象が起きているということです。
脳内で立ち上げた出来事が現実にあったんじゃないかと思い始めるというのは、
神経症を患い始めている兆候なんですよ。
だから僕は、僕はですよ、気をつけています。
そういうどっかで僕の話をツイッターで書かれているとこうなるとか、
ツイッターで書かれているところまでなんですよ。
そこまで現実として一応、でもツイッターって相当オーカルドですからね。
どういう意味かというと、すみません、この言い方は誤解を招きますね。
つまり脳内の出来事にすっごく近似していて、
現実の出来事からは遠いんですよ、ああいうものって。
今の話もそうなんだけど、
脳内で勝手に出来上がっていく出来事を現実にできているものと
区別がつかなくなるところが怖いんです。
つまり神経症というのは要はそういうことだと思うんですね。
どっかで人にぶつかったのではないかと思うことはあるにしても、
そこに戻っていって、これが平気で嘘をつく人たちの最初の主想って言うんですけども、
クライアントさんがカウンセラーに訴えること。
これ2キロくらい戻って確かめないと気が済まない、気が済まないってことは
日本語で言えば出てくるべきポイントですよね。
出てくるべきシチュエーション。
この気が済まないが出てきたらつまり脅迫神経症気味だぞっていうことです。
気が済まないんですよと言って2キロも戻ってきて、
だって明日も朝早いのに夜車をすっと押していて引いてなかったよかった。
で、やると。
犯人を犯行現場に戻るみたいな話あるじゃないですか。
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あれは愚かなことですよね。
愚かなことですよね。
でもこれをやらずには気が済まなくなることが、つまり脅迫症気味だっていうことなんですよ。
現実と脳内、ないしは現実とバーチャルが。
バーチャルってのは例えば家計語とかね。
最初に冒頭に出したタスク集とも同じです。
現実なんじゃないんだから。
私が時間をどう記録しようと現実は動きませんから。
ここ大事なんですよ。
バーチャルと現実が一致するというか、バーチャルと現実は無関係なんですね。
そこを無理やり関係づけていくのがこの病のポイントです。
で、なぜそんなことが起こるかというと、現実に対する不信感が強まっているからですね。
もう一つ、自分の感覚に対する不信感が強まっていくからですね、当然。
そうしてオカルトが進行していくんですよ。
非常に典型的なパターンだったんです。
平気で嘘をつく人たちの男性は。
最初はここから始まって、やがてどこに行き着くかというと、
橋とかを渡るときに、渡っている最中に崩落するという脅迫症に取り付かれるんです。
そうすると橋は渡れなくなりますね。
どのような橋も渡れなくなります。
こうなったら相当きついじゃないですか。
だからこうなる前に何とかしたいわけですよ。
ということはつまり、炎上とか噂話とかに意識を傾けている場合ではないんですね。
噂話、こうなってくると格外妄想的になっていきますけど、噂話というものを気にするというのも全く同じです。
つまり自分の脳内で起きているということを、現実に起きているということと区別ができなくなっていく。
区別ができなくなっていくのが病気だということは、区別する能力が私たちには備わっているという意味です。
実際に備わっているはずなんですよ。
これはバーチャルである、こっちは現実であると。
こっちは現実であると。
この3人に向かって一生懸命、しかし私の書いたことが、例えばAmazonで星が1がついてこれで売れなくなったら私は物書きとしてやっていけなくなるじゃないですかって
真剣に語り始めたら鬼信号なんですよ。
そういうふうに捉えてあげるのがいいと思うんです。
いやいやそんなことはないですよと言うんでもなんでもいいんですけど、とにかく大事なのはこれを言い出しているということは
この区別をつける能力が怪しくなってきているぞっていう意味で鬼信号なんですよ。
で私は捉えるんですね。
だからしょっちゅうありますよこういうことは。
人はフロイドに言わせるとみんな神経症だから。
つまり脳内というものが現実というものに対して上から投影ですよね。
投影し意味づけしイリュージョンを蓄えるというか、たくましくするというのが人間の一つの重大な能力になっている関係上
しょうがないんですねこういうことが起こるのは。
ただしこれが進むに任せてはいけませんというのが精神分析では基本路線としているんじゃないかなと自分は思っているし
私は絶対にこれが進行するにのさばらせるには任せたくないと。
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現実というものと一緒にいたいと最近は強く思うように
ウッドバイムスで現実といたほうがいいんだという確信を得たという感じなんですよ。
私自身はイリュージョンと一緒にいてもログなことにならないという風に考えるようになれたということですね。
もともと多分そうなんじゃないかなとは思ってました。
家、寺ですしね。
仏教というのはよく誤解されているかもしれませんけれども、とことん現実的になりましょうという宗教であって
オカルトを一緒に見ましょうという宗教ではさらさらないわけです。
その解釈が様々になっていくというのはどの宗教も同じですけれども
とにかくイリュージョンをのさばらせていきましょうという宗教は多分ないと思うんです。
これは心理療法でも全くないと思いますね。
強迫症が進行していくと、つまりさっきの橋が当たれないあたりでオカルト感満載になってきているじゃないですか。
当たる橋は必ず崩落するみたいなね。
家に帰ることもできなくなるし、会社に住みに行くこともできなくなるわけです。
遠回りしてなるべく橋を渡らないで済むようにするとか、ダメなんですけどね。
なぜダメかというと脳内の妄想が現実を覆い隠し、しかも自分の感覚判断を信頼できなくなるということは
人間はそれで生きているわけだから、そこにそういう強い不審感を抱くようになれば、何をどうしたって無駄なんですよ。
この現象はエスカレートする一方なんですね。
やがて橋を渡るにあたって、その人は最愛の息子を悪魔に差し出すというよくわからない契約を結ぶ、完璧にオカルトになりましたよね。
だから最初からオカルトの要素があったということですね。
車で人を引くんじゃないかという恐怖心から始まって、最後は悪魔と契約をすると。
ここで強い介入、私は心理学用語で言う、心理学用語じゃないのかもしれませんが、時々本で出てくる強い介入をアメリカだなって思ったんですよ。
あなたは卑怯者ですとかって言うんですよ。ちょっと信じられないんですよね。
普通カウンセリングというのは直感的なんですけど、そんなことは言わないと思うんだけど、強めの介入が入って、そこを転機にするという物語になっています。
物語ですけどね、あれはね。実話だと思いますが、でもやっぱり物語に違いはないと思うんですよ。
ここで悪魔と契約を結ぶという、つまりここにこの病気の脅迫神経症ですけど、全てが現れていると思うんです。
つまり、全能なんですよ。思考全能って言うんですけど、そういう言い方をすると、あるいは万能思考っていうのかもしれませんが、
つまり子供ってそういうことを時々やっちゃうじゃないですか。悪魔のことを考えてしまったら悪魔が出てくる。
これだとみんな笑うんだけども、ではなぜツイッターで悪口を言われていると自分が路頭に迷うはOKなのか。
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ダメですよね、どっちも。何がダメか、現実じゃないのを現実だとみなそうとしているのが同じだってことですね。
人間は思考でこれほど突っ走るようになるのはどうしてなのかとフロイトは考えたわけですね。
そこで彼は心のエネルギーというものをリビドウって呼ぶんだけど、リビドウが思考に供給されすぎるからっていう答えを出すんですね。
本来現実に向かうべきリビドウが、リビドウ性欲だって訳してる人がいるんだけど、それでもいいかもしれませんけど、
リビドウっていうのは心のエネルギーくらいに留めておかないとわけわかんなくなっちゃう気がします。
心のエネルギーは本来現実に向かうべきなんですが、その人は現実が嫌になってきてるというか、現実に不安いっぱいなので、
やっぱり平気で嘘をつく男の人もそうなんですよ。奥さんとは上手くいっていない。息子とも上手くいっていない。仕事も上手くいっていない。
本人は全部上手くいってることにしてるんですけどね。よくそういうこともあるんですよ。
現実に向かうべきエネルギーが思考に向かってしまうんですね。思考ではエネルギーが過剰になるので、
ろくでもないイリュージョンでいっぱいになる。橋が崩落するなど、人を引いてしまったかもしれない。
考えごとに集中するとよくそういうことって起きるじゃないですか。あれ、ちゃんと頭を閉めたっけって。
考えるからいけないんですよね。頭を閉めてないならこの考えはいいですよ。ここは難しいかもしれませんが、
頭を閉めたにもかかわらずこの考えが浮かぶのは余計ですよね。余剰エネルギーなわけですよ。
そして戻る。戻るにはエネルギーが要りますよね。その人を、ある程度駅まで向かった人を戻すほどのエネルギーが
意識の方に流れ込んでいるってことがおかしいんですね。
現実に、駅に行って用事を済ませるエネルギーを全部思考に投入すると、そういうろくでもないことが起きるわけです。
この時にさっきの悪魔と同じで、自分の考えが現実を歪め始めているわけです。
頭を閉めてなかったかもしれないという考えが、頭が開きっぱなしになっているという現実を作り出すわけですよ。
これは考えることをすることで頭を開けるって意味ではもちろんないですよ。問題になっているのはその人の行動です。
その人の行動は現実じゃないですか。現実としてのその人の行動が、その人の思考のせいで歪んでいるわけですね。
つまり現実を変えちゃっているわけですよ。
そういうエネルギーの使い方をし始めるということは、思考が現実に勝ち始めているという意味なんです。
これを強く忌ましめていると、私は思うんです。フロイトの考えというのはですね。
一つはヒステリーというのがそういうものだと。もう一つは神経症、ノイローゼ一般はやはりそういうものだと。
特に中でもわかりやすいのが強迫神経症というのはそういうもので。
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油断するとすぐに人間はこっちに走り始めるというのを、強くやめるように促しているのが私はあれだと思うんですね。
もう一つがメランコリーですよね。欲打つ。
これらは併発することも多々ありますけれども、いずれにしてもそういうことが起き得るということがですね。
昨日の話を私も話したんだけど、いろいろセッションを聞いているうちにいっぱい巡ってたんですよ。
だからやっぱり私はグッドバイブスを聞いたときにすごく精神分析を連想したのはそういうところなんですね。
よく似た話が出てくる。イリュージョンというかそれともリビドウというかの違いがありますが。
あるいはフロイトがどちらかというとよく言うのは投影の方だけど、でも倉園さんが言う意味付けと投影というのはやっぱり告示してますから。文脈によっては特にですね。
そしてどちらも感覚的判断に対する不信というものを強くできればやめておこうという話になっているんですね。
感覚的な判断が思考にとって変わられるわけです。感覚的には締めたはずだというのがあるわけですよ。
それに対してでも締めてなかったかもしれないという思考が走るわけですね。
そうするとその思考の方にどんどんエネルギーが送り込まれていくうちに感覚的判断の方は全く信用にならなくなっていくと。
これをフロイトが一番最初、特に初期のうちは肛門期という風に定めたんですよ。
ここでみんな訳がわからん気持ちになるわけですね。トイレットトレーニングです。
でもこれはおかしくないと僕は思うんですよね。
今やもうそういう話はほとんど出てこないから安心して読んでいただくといいんですけど、
古典的に1960年代の本を読むとバンバン出てきますが、
あそこをこういう文脈含みで読み直してみるとスーッとわかると思うんですね。
肛門期という言葉が出てくるわけです。
なんで肛門期なのって思うじゃないですか。トイレットトレーニングなのと。
例えばトイレ流し損ねているとか子供が思うときはこの心理に支配されていると。
そういう風に彼は考えたわけですね。
トイレトレーニングまでいかないにしても、さっきも言いましたが、
例えばお化けのことを考えると怖くなるというのが、
脅迫神経症とほとんど同じ心理状態がある。
つまり脅迫神経症というのは子供返りなんですね。
対抗と言いますが赤ちゃん返りなわけです。
それは多分間違いないところなんですよ。
大人はもっと普通に健全に感覚的判断をしていればいいわけです。
自分の噂話とかくだらないよねっていうことでスパッと終わらせればいいのに、
そこについて考え込み始める。
既読するをされていることについて考え込み始める。
これは子供っぽいんですよね。
その人は十分な人生経験もあるし、
十分な思考力もあるにも関わらず、
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感覚的判断について酷く対抗していくようなことが何か起きて、
子供っぽくなっちゃったと。
その時に思考に向かって無駄にエネルギーが流れることで、
この対抗が進むんですよむしろ。
だって最後に悪魔と契約するって、
それは子供がやりそうなことじゃないですか。
悪魔と契約とかね。
好きですよねそういうのは。
漫画のネタとしてはぴったりです。
つまりオカルトに突っ走るということですね。
つまりオカルトに突っ走るということは、
やっぱり子供っぽいわけですよ。
だからこれが対抗なんですね。
そのギリギリのラインまで行くと、
どこまでたどれるかというか、
遡れるかというと、
トイレトレーニングまで遡れるだろうと。
その前まで対抗しちゃうと、
脅迫神経症では済まなくなってくる。
もっと厳しい病気になる。
相鬱とか統合失調ですよね。
そこまで行ってしまうと。
そうするとトイレトレーニング以下ですから、
未満ですから、1歳児とか0歳児と。
やっぱり何度も言いますが、
そのように子供は発達していくというのを観察して、
フロイトがこういう概念を考え出したというわけではないんです。
あくまでもこれは大人だけを見た結果として、
こういうモデルをアナロジーですね。
比喩的に考え出したのであって、
トイレトレーニングが失敗したから脅迫神経症になるとか、
そういう話にしちゃダメだと僕は思うんですね。
だってフロイトはそういうふうに考えたわけではないから。
アナロジーとしてあくまでもこれを考えただけだから。
別にいいんですよ、トイレトレーニングがどうであろうと。
ただトイレトレーニングってものが最初にあった、
それと脅迫神経症は実によく似ていると考えてみると、
かなり多くのことが見えやすくなってくるというぐらいに
とどめておいてもいいと思うんです。
いずれにしても、
この脳内で現実というものをですね、
覆いかぶせていくというか、
全脳的に考え始めていくというのが、
いろんな問題を引き起こすんだけど、
一つはかなり初期の、
昨日なぜそれを思い出したかというと、
可視化理の問題が出てきたからなんですね。
可視化理というのは、
ある種の人の頭の中では、
可視で仮を作り、それを戻してイーブンになる
という考え方なんですね。
ここに思考というものが現実というものに対して
有意に働き始めている。
実際には、仮を作ったとか、
そこでマイナスが発生したとか、
ゼロに戻すという、そういう数字は
所詮架空のものでしかないわけですが、
ここにどうしてもオカルトが働く、
オカルトめいたものが働いてしまう。
マイナス1、1を戻す、ゼロになる。
これはオカルトですよね。
脳内にしかないものだから。
しかもその他の人たちがこれを認めているかどうかも
疑わしい面があるわけです。
日本ではこれを文化全域でやっているということを
フランスの精神分析家が指摘していて、
日本の文化というのはかなり脅迫症的なところがあると。
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その中でも例えば目録ですよね。
公伝のときは何万円とかきちっと決められている。
どういう袋に包んでどうやって渡すかまで決まっている。
これは脅迫的だという、あれはおそらくそうでしょうね。
つまり現実にはそこは、現実が先じゃないですか。
気持ちって言うじゃないですか。
うちもそうでした。寺だからね。
極陽の額はいくらにするべきなんでしょうか。
これが脅迫症的なんですよ。
いくらにするべきとかがあるはずがないわけですね。
ゼロでもいいわけですよ。
ゼロっていうわけにはいきませんけどね、なかなか。
でもゼロでもいいと言えばいいわけですよ。
気持ちですからとしか。
絶対これ以外の答えは僕は父や母して聞いたことがないです。
じゃあ1万円にしてください。
食い下がる方もいらっしゃるんですよ。
長い時間。
いやでも正確なところとか、
それでは不安だとか、
もうだからナルシズムが入るわけですよ。
不安というのはどういうことなのかと。
例えば結婚式で包むのでも葬式で包むのでもいいんだけど、
出したいから出すわけじゃないですか。
建前はですよ、あえて言うならば。
建前は出したいから出すわけですよね。
それがいくらであるか、
他の人と比較して少ないという風に嘲笑われるのは、
不安だから出すっていうのはおかしいんだけれども、
そうなっていっちゃうわけですよね。
つまり頭の中で考えていることが、
現実に対して優勢に出始めるわけです。
でも絶対に母も父も、
じゃあ3万円にしておいてくださいとかは言わないわけですよ。
気持ちですから。
僕好きなようにって必ずそう言う。
それも一つの建前ですけどね。
つまりそういうことなわけです。
でもそれを日本ではカチッと決めないと、
みんなが不安になるという非常に面白いというか、
脅迫症的なところがあるわけですよね。
これが貸し借りというものを
イーブンにしたいという考え方なわけです。
つまりここにはバランスがあると、
当然ないわけです。
バランスはないんですよ。
借りたものを返さないとバランスが崩れるっていうのは、
一つの脳内で起こっている現象であって、
現実にそのようなことは起きてない。
買いっぱなしになっているからといって、
少しずつ世界が崩壊していって、
最後はそれが原因でめちゃくちゃになるということは
起こらないわけなんだけど、
にもかかわらずとっても気になる。
つまり気が済まないという。
日本人だったら言うと思います。
それでは気が済みませんとか、
それでは気が済まないですからって言いますよね。
つまりこれは、
気が済まないような心理状態を作り出す、
そういうイリュージョンをみんなで共有する文化が
ある程度出来上がっているということですよね。
おそらくそれはイギリスとかでもそうなんでしょう。
アメリカはなんとなく違う気がしました。
いずれにしても、
カチッと決まっていた方が安全だというのは、
33:00
つまり気だけの問題ですよね。
気だけの問題なのに、
私たちは気が済まなくなると
何でもし始めるところがありますから、
それこそ悪魔と契約立ってしちゃうところがありますから、
要注意だということです。
つまり頭の中が優勢になって、
頭の中のイリュージョンが
明らかに他の人には見えていないもののせいで、
自分の行動という現実が動かせられるようになってきたら、
本当は起きてほしくないことが起き始めていて、
例えば脱線というのも、
昨日少し話題になったんですよ。
何かしている最中に、
これじゃないことがしたいと。
一番エグい感じですけど、
フロイトは書いているんですよね。
多分フロイトだったと思います。
脅迫心継承的なリビドウが思考にどんどん流れる。
一番エグい感じですけど、
脅迫心継承的なリビドウが思考にどんどん流れるうちに、
その人はだんだん自体愛的な行動に逸脱し始める。
自体愛というのはつまり自意ということですね。
何でかというと、
自分の体というものを、
自分の体というのかな、
何て言えばいいんですかね、これは。
つまり現実に向かいたくないという気持ちがどこかにあるので、
この持て余しているエネルギーを何かに振り向けたくなるわけですけれども、
現実には極力振り向けたくないわけですね。
なぜなら感覚的判断が不審になっているので、
感覚的判断が不審になっているというのは大変な問題でして、
実に簡単なところで言うと、
例えばどこか家電量販店にでも行って、
この冷蔵庫はでかいな、
何かもっとしょうもないものでもいいんですよね。
この充電器いいなと、見た目いいし触り心地もいいと、
でもスペックを確認しないと買えないなと、
これが感覚的判断に対する不審ですよね。
ということはつまり、私たちは感覚的に現実を捉えるので、
現実に対する不審がそこにあるはずなんです。
そうすると二つのことが起こるはずです。
まずスペックを確認するということは、
測定可能な数字というもの、つまりここがバーチャルなんだけど、
バーチャルなものに頼りたくなる。
三つのことが起こるのか。
一つはバーチャルなものに頼りたくなる。
だからこれがオカルトだということがだんだん忘れていくんですね。
バーチャルなものに頼るということはつまりオカルトですからね。
本来ないものにそこに依拠しているわけですから。
2番目には言葉が出てこなくなりましたね。
習慣的行動に頼るようになると。
儀式的とも言いますね。
だから日本文化脅迫的だと言われたわけですよ。
36:00
日本文化の特定の場面ってものすごく前例踏襲主義じゃないですか。
まったく同じように前とまったく同じようにやるのを好む。
なぜかというと新しいことをやることに対しては、
感覚的にしか判断のしようがないからですね。
前にやったことを前にやったとおりにやる限りは、
脳内が現実に対して優先になっても大丈夫なわけです。
脳内にある通りに動けば現実もその通りになってくれるだろうという見通しがつきやすいので、
だから非常に習慣的、慣習的、儀式的になっていくと。
つまり同じことを繰り返すようになっていくわけですね。
これが2つ目です。
これも非常にオカルト的な雰囲気を帯びてくるから面白いと思うんですよね。
体操の例とかね。
そういう風になるじゃないですか。
間違いがないようにしたいと思えば思うほど、
宗教儀式的になっていくんですよね。
これは自閉症の儀式とは僕は違うと思うんですけれども。
3つ目がオカルト的になっていき、
つまり数値測定というものにものすごく頼るようになる。
脳内にすごく頼るようになる。
思考に頼るようになるでしょう。
そして習慣的で繰り返しの行動にすごく走るようになるというのが2つ目で。
3つ目を忘れたんですけれども。
要は感覚的判断というものが恐ろしいわけなので、
基本的には現実に向かいたくはないわけですよ。
うちにこもるようになるという意味も強いんですけれども、
自体愛というのはもう少し僕は感じが違うと思っていて、
甘えというものが自分の肉体に向かっていくんですね。
強烈な対抗なんですけれども、これは。
身体感覚を伴う甘えというものに、
しかもそれが非常に安全なところで行いたいという話になっていくはずなんです。
Gですね。
これはGが全てというのではないんですよ。
自体愛に向かうというのが多分大事なんです。
自分の身体というもので、自分の身体を快適にするということに
全力を振り向けたいという感じになっていくと。
そういう話は平気で嘘をつく人たちには出てこなかったんですけれども、
私はこのリビドーが至高に走り、
最終的にはすごく逸脱ってフロイトは書きましたけど、
つまり脱線なんですよね。
儀式的じゃない行為をしているときは落ち着かなくなるんですよ。
だから脱線したくなっていく。
その脱線先はどうしても自体愛的な方向に向かう。
Gというものが嫌な人は、嫌な人はいっぱいいますよね。
食べるという方向に向かう。
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つまり身体刺激的な方向に向かう。
あるいは何か飲むわけですね。
お酒というのはこの場合非常に分かりやすいやつです。
いずれにしても身体に刺激を与えるようなものにいないと、
余ってしまっているのでエネルギーがですね。
エネルギーが余るというのは、つまり現実に向かいたいというエネルギーがないので、
でもエネルギー自体はあるので、
自分の体というところに向かうのがやっぱり一番いい技です。
思考に向かうのと自分の体、つまり全部自分なんですけれども、
そこに向かうのが一番本人としてしっくりくる。
そういうところがあるので、
オカルト、つまりバーチャルですね。
あるいは数字、思考、常習的な行動のリピート。
もう一つが自体愛という三つですね。
この三つが全部バッチリ揃うということはあまりないですね。
そこに至る前にいろんなことが現実に起きますから。
ただ面白いと思うのは、
これはとても現代的な雰囲気が少しあると僕は思うんですよ。
現代社会というのはなぜかこれがいいという気配があるんですよね。
スペック重視であり、つまり感覚的判断など信用せず、
なるべく毎日を、これはちょっと日本文化も入ってきてますけど、
同じような繰り返しに修練させて、
最終的には身体的快楽が人間の幸せであるみたいなのって、
なんとなくそういう生活を実現しようというのが一方向にはあると思うんですよね。
こうじゃない話をするとウケないなというのがそもそもあるし、
この話を小儀礼にすることは非常に簡単にできるんですよ。
私も長らくライフハック系で、
そこには悪魔の囁き的な、それはちょっと言い過ぎかもしれないけど、
ちょっとやっぱり後ろめたさがあります。
なぜならばこれを進めるというのは、
すごく人を不安にさせた上に、孤立にさせた上にそれを使って金を儲けたいという、
よく批判されている情報商材系のなんとかというのは、
これを露骨にやるに過ぎなくて、
これをマイルドにやるとあまり痛くないんですけど、
ガーファ的になる気が僕はするんですよね。
なんとなくそういうところからの脱出口として、
SNSというものがやけに商用されるのかなと思わないでもなくて、
そうなってくると一層この世界というのは、
ただそれこそバランスという言い方もできて、
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なんとかこれでやっていけるというのもあるんだけど、
なんとかこれでやっていくというのと、
これを全面的に称賛するというのはずいぶん違うとは思います。
ある程度これが快適だというのはわからなくもないけれども、
これは非常に一方でつらいところもあるんですよ。
単に孤立するというだけではなく、
自体愛的、そしてその、
思考に向かう、それとオカルトというのはこの3つ揃って、
現実に対する強い不信感と不安感というものを、
不信感と不安ですね、これを反映しての話だから、
そもそも脅迫神経症というのは根本には恐怖があるわけです。
私が感覚判断を当てにして生きていたら、
人どこかで引いても気づかないのではないか、
いきなり夜警察に踏み込まれて逮捕されるのではないか、
そういう何かありもしない恐怖に苛まれているということは、
つまりその人は何かとても怖いものがあるわけですよね。
言ってました、平気で嘘をつく人たちの男性も。
これがどんなにつらいことか先生はわかっていないと。
先生は強めの解釈をしましたから、それに対する反論をしたわけですよ。
本当にこれはつらいんですからと。
つらいから最愛の息子を生贄にする悪魔との契約とかも結んじゃうんですよと。
結局言い訳しているんだけど、つらいんですよ、そのぐらいに。
だからこれをあんまり前面に持っていって、
やろうと思えばできるわけじゃないですか。
大人のおもちゃを使ってバーチャルで毎日同じようにして、
自対愛で生きていく。
不可能では今はないし、むしろなんだかんだと
知らないけれども、いいことのようになっているわけですよ。
感覚的判断なんて信用せずに、
なるべくQOLにしても、平均寿命にしても、何でもそうですけれども、
数値化して安心した人生を送りましょうということは、
現実は不安だってことになるわけです。
そしてこの現実の不安というものは、
そういう数値化したものによって払拭し切れないからこそ、
皆さんお金を払う気にもなるし、
払拭し切れないからこそ、ある意味神経症の時代とか言われるわけですよね。
神経症はつまりノイルローゼって意味です。
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