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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
えーと、6月5日水曜日、朝4時26分です。
お、なんか修練してきていますね。
今日はかなり疲れています。と言いますのも、昨日ね、
ロッテと巨人の試合が東京ドームだったんで、普通に放映されていて、実に酷い試合だったわけですね。
なんかもう18対2とか、ラクビーみたいな試合になってしまっていて、疲れたわけです。
あまり直接の関係はないんですが、あれを見ると疲れるなというぐらいな内容ではありました。
ずっと見てたわけじゃないですけどね、途中で嫌になっちゃったんで。
お知らせです。6月の22日土曜日の19時からですね、
シロウズさんというかですね、
セミナーやります。
オンラインですね。タスク管理がうまくいく方法を僕たちが考えてみたという、シロウズじゅんさん。
だと思うんですけどね、ちょっとまた正確じゃない名前かもしれないけど、シロウズじゅんとは読めると。
このシロウズさんという方はタスクシュードの認定トレーナーの方なんですが、私より年上でして非常にですね、話が面白いんですよ。
聞いていると、私ではまず出てこない話が多くてですね、
大変参考になると言いますか、何かの参考にはしていないんですけれども、大変勉強になるんですね。
多分シロウズさんはタスクシュードを行動科学的に説明されるんだと思うし、その説明の仕方は大変ですね。
何て言うんですかね、やりやすいんですね。
しかもシロウズさんなので、多分かなり面白そうな話だと思うので、
ぜひですね、ちょっと聞いてみたいと言った方が、このサンチャンチャレじゃなかった、
グッドモーニングボイスお聞きの方でいらっしゃったら、土曜日、22日土曜日の19時からオンラインなんでですね、
しかもアーカイブもありますんで、お申し込みいただければと思います。
私はですね、もうこう、極力行動科学では説明しません。
行動科学と接続するようには話すものの、やっぱり精神力道でいきます。
もうこれはですね、決めていると言っても、現在はね、これも996回ですが、
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このポッドキャストを聞いてくださっている方であればですね、なぜこの力道に流れてきているのかというのは私がですよ。
世の中の流れはそうは全然なっていませんけれども、
私がそうなっているのはなんとなくはつかめていただけるのではないかと、
まだバッチリ説明ができるよっていうところまでは程遠いんですけれども、
私はもう力道以外の説明を別にするモチベーションがやっぱないんです。
モチベーションのないことは原則一切やらないとしておりますんで、
意識の上ではね、そんな感じでぜひ聞いていただければと嬉しいです。
で、今日はまあその話をついでに、あんまり今日は長く話さずにですね、
短くサラッとまとめてしまいたいと思っているんですが、
なぜシローズさんとやることにしたかというよりは、
行動科学で説明する、精神力道で説明する、まあ何で説明しようといいんですよ。
タスクシュートはタスクシュートなんでね。
別に説明によってそのメソッドなりツールなりの価値が実際定まるわけでもなんでもありませんから、
私は力道を使わないと自分が納得できない。たったそれだけです。
他の人は、別に説明なんかなくたって、基本的には仕事術のメソッドなわけですから、
仕事がはかどればそれで納得がいくわけですよ。
で、はかどるはかどらないというのも感覚的なものです。主観的なものですよね。
だからそれについて濃厚考える必要が、まあ僕はあるタイプなんだけど、
なければないで全然ないほうがいいぐらいに思うんですね。
仕事やってるわけですからね。家事だってそうじゃないですか。料理を作る上で、料理がうまく作れれば、そしてうまくとは自分で判断するしかなくて、
こうすればうまくいくというのの功ってのだって、自分で納得ができるかどうかがほぼ全てだと思うんですね。
あのそれこそ、料理研究家のなんとかさんがやっていたから、そしてあの人がやってる通りにやって、美味しくない料理はないっていうのは、
自分に対する、まあこれはナラティブって言うんだけど、語りですよね。この語りの納得によって人は多分動くんですよ。
多分にそういうところがあると思うんですね。ちなみにナラティブというのは精神分析でも扱わないわけではありません。
ビオンはグリッドの中に確か、グリッドってのは表みたいな独特のね、一般の人があの表を目にすることは多分
滅多なことではないと思うし、見たところで大して意味がわかるわけでもなく、しかもあの表、ある程度私は少しは見方がわかってきたんですけど、何の役に立つのかよくわからない表なんですね。
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ただ、すごく精神分析のカウンセリングの、例えば考察とかを読んだ時に、あのグリッドを見ながら読んでいくとわかりやすくなるっていう意味ではすごいなって思うんですよね。
ビオンって人は本当にこう、体型というものを、あんなにわかりにくい世界の体型をですね、一歩間違えたらあれだからマンダラですね、ビオンマンダラみたいに見えてしまう可能性も否定はできないと思います。
でもそれよりは合理的な、まあマンダラが不合理だっていうことにこれじゃなっちゃうんですが、まあそういう僕にはマンダラはわからない。
ユングのマンダラとかもよくわからないですが、しかしビオンのマンダラではないな、ビオンのグリッドはわからなくもないような気がしてきたんですね。
ここにナラティブみたいなの出てきます。つまりこういうことなんですよね。
まあ散々昨日からやっている話ですし、少し複雑になったから今日はさらっと行きたかったんですが、つまり感覚印象というものは、
まず心の中で物それ自体みたいな入り方を、物それ自体は変だが、とにかく心の中の断片みたいなものとして収まってくる。これがアルファ要素って言うんですけれども、
ベータがアルファになるのがもう一番一番元素のところなんですよ。ベータがアルファになるわけじゃないんだよな。感覚印象がまとまるとアルファ要素になるはず。
このアルファ要素がちゃんと心の中に収納されないとベータ要素化してしまうというような話だ。だからベータ要素化しちゃいけないんですよ。
これはベータ要素がいいとかアルファ要素がいいって話ではないんですよ。アルファ要素も多分僕は、なんていうのかな、神経症のもとになり得ると思うんですけど、大事なのは方向性なんですね。
感覚印象はアルファになるべきであって、アルファからベータになっちゃいけない。アルファも方向を持ってなければいけないんですよ。
アルファ要素は多分思考水準みたいな、思考水準の話だけをしてるんですけれどもね、夢になる。だからアルファ要素が集まると夢になる。
感覚がまつまってくるとアルファになり、アルファが集まってくると夢になる。ここにナラティブみたいなものが出てくるんですね。
夢とか神話とか物語というのは何かを意味している。めちゃくちゃわかりやすいところで言うと、ヤマトタケルの見事の、例えばヤマタのオロチ退治みたいなのは、国という概念を示唆している。暗示してるっていうのかな。
だからナラティブなんです。物語ですよね。つまりさっき言ったような、タスクシュートを行動科学で説明するときにはナラティブが必要ですよね。今のはコンセプトに近い概念ですけれども、前概念とか言ったりするのかな。
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夢みたいなものが膨らんで大きくなって、物語が大体のところがまとまってくると、今度は概念、つまりそれを一言でどんな意味なのっていうのを表すことができる、象徴みたいな話になってくるわけですね。
象徴が集まると概念になるのかもしれないんですけどね。いずれにしても、象徴とか概念とかも方向性を持ってるってことなんですよ。だんだん中小度が上がっていくわけです。
前概念、夢みたいなもの、ナラティブみたいなものが概念になっていき、概念がさらにその上のですね、だんだんこうなんとか理論とか、代数なんとかとか、そういう言葉が出てくるんですけど、そっちの方はもう僕はグリッドで覆ってないですね。僕にとってやっぱりグリッドで大事なのは、ベータ要素、アルファ要素、夢なんですよ。
なぜかというと、そこら辺のところで僕らはやっぱりつまずくからなんですね。概念になっちゃったやつは扱いやすいじゃないですか、思考では。物語っていうのは思考では長いから、やっぱり扱いにくいですよね。途中なんか、シンデレラってそういえば馬車出てくるんだっけ、それとも馬女が出てくるんだっけみたいな、そういうストーリーが解けやすい。
だから解けてしまうと、魔女だけが出てきてみたり、毒リンゴだけが出てくるということになってくると、こうだんだんアルファ要素化していくわけですよ。スナップショットみたいになっていくんですね。
で、さらにそれが解けてしまうと、もうなんだかよくわからないものになって、それが頭の中に滞っていて苦しいみたいな、もはやなんで自分が苦しいのかもわかんないみたいな、そういうふうにだから集まってはコンパクトになり、集まってはコンパクトになりっていう方向がいい方向なわけですね。
逆になればなるほど現実化していってしまって、心の中に現実そのものは置けませんので、そうですよね。心の中に置けるのは例えば木とか、宇宙とか、そういう概念であり、風景であり、イメージであり、物語でありなんですよ。心の中に現実そのものは置けないわけですね。
宇宙空間とここは繋がってますけど、両方のものを同時に心に収納するってわけにはいかないですよ。ましてそれは四次元的に、全歴史を心の中に収納する、そんなことはできないです。だから歴史っていう言葉にまとめて、概念にまとめて、心に収納するわけですよ。心が溢れてしまいますよね。
このように、収納しきれない出来事に遭遇するのをトラウマと言って、トラウマっていうのは心が溢れるっていう、こういう場合には解釈するんですね。こういうふうにBEYONDのグリッドって出てくるわけですよ。それはいいんだけど、つまりですね、タスクシュートっていうのも7連の説明を全部するとなると大変ですよね。
ログを取り、そのログが、まあやってるんですけどね、これをJ松崎さんは偉いことに毎週日曜日認定トレーナーさんのマスター講座という講座の中でやってるわけですよ。プランログルーチンがありますと。
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そのルーチンというものはログをベースにして、ある一定の頻度で繰り返しリストに登場するものはうんどんとか、開始と終了時刻を入れてとか、だからといってそれをやたらガチガチに守ろうとしたいけないとか、使用上の注意まであるわけですよ。
それを全部合わせて、今のがナラティブですよね。語りがあった。タスクシュートのマスター講座という概念に直すわけですね。一言で済みますから。
ばらける方向へ行けば行くほど心にとっての負担は重くなっていくわけです。
タスクシュートのメソッドの方法論、まあメソッドの方法論はおかしいな。タスクシュートの方法論などというのは、ばらけてしまえばですね、あの途中にスライドに出てくる図みたいな、金魚橋とか出てくるんだけど、そういった図みたいなものの集まりになっていく。これが夢思考ですよね。
夢というのはこういうふうに、もう講座のようには決してなってない。何がどこで出てくるかわかったものではないのが夢ですよね。
この辺でもう心はいっぱいいっぱいですよね。このさらに前、じゃあ水槽というものは自体がどういうものがあるかとか、大きな金魚が泳いでいる姿みたいなのが心の中にドーンと入ってくる。こうなってくるとアルファ要素に近くなってきますよ。
悪いおっぱいとかありもしないものも出てくるわけですね。自分を迫害する何かみたいなね。でもそれはもの自体。ベータ要素というのはもっと現実に近い段階で、もはや感覚そのものなんです。感覚印象の断片とか、そういった言い方をするんだけど、それを何だと説明するのはもう無理です。何だと説明できてしまったらそれは概念だって。概念では全くないわけですから、ベータ要素っていうのはね。
そういうものがですね、私たちを、つまりばらけたものを適当に寄せ木細工みたいにして組み合わせて作った現実は現実にならないってことなんですよ。それはただ自分を苦しめる機械な対象にしかならないと。そういった話を昨日散々してきて、やっぱりそっちの話に流れてしまう。
私はタスクシュートをどうやってこれで説明しようとしているのかと言いますと、タスクシュートでもタスクリストでも何でもいいんだけど、タスクシュートっていうのは直面化しやすいところがあるんです。どういうことかというと、いやもう間違いなくこれやるしかないでしょっていうふうに必ずそこにタスクシュートをですね、
原初っていうのかな、初期の大橋哲夫さんがExcelでこしらえていた頃のあの使い方をしている限り、必ずこのタイミングにいつか遭遇しなければならないんですよ。いやこのタイミングはもう絶対にタスクシュートの説明会のスライドを作るしかないでしょうと、他に何かをやる妥当性が一切見当たりませんっていう瞬間がいつかやってくるんですよ。
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いつかって言ってもそう遠くない将来やってくるはずなんですね。これに遭遇したとき、いやそれやりたくねえってことになったら、これは先送りのレベルではもはやないんですよ。これを先送りって言うんだけれども、私はこれはもう先送りのレベルではないと思っているんですね。
これほど自明である一つの概念ですよね。タスクシュートの説明会のスライド資料を用意するという概念です。ナラティブみたいになってますけど、でも実際にその作業を始めるとそっちこそナラティブですよね。
スライド作ろうとしたけれども、なかなか資料が集まらなくてみたいな完全に物語化してますね。語りになって。それよりはコンパクトにした概念がタスクリストの上には名刺、タスク名という形で、つまり名前ですよ。概念とは名前なので、名前として表現されている。
私時々タスクシュートについてリストを表現というものはこういう観点があるせいなんですよ。分かりにくいかなとは思うんだけど、あれは表現以外の何物でもないとは思うので、表現と言っているわけですね。
このタスク名に遭遇したときに、大概のタスクリストは、これは悪口みたいになってしまうんだけれども、大概のタスク名、リストは必然性を感じさせられないんですね。いろんなものを、例えば気になることだとか収集だとか、とにかくいろんなものを集めてしまうので、もちろんそれをクエリですよね。
データベースのクエリに相当することをやったり、スターをつけたり、フラグをつけてみたりして、優先順と何かをセットにして、一番これをやるのが妥当なんだというのを特定していくという作業はあるんだけど、タスクシューターは私はそこは一歩リードしていると思っていて、毎日使っているだけで、最もその場にふさわしいタスクは自然と上がってくるようになっているというところが、わざわざそこでクエリ操作をする必要が人間の側ですけど、ないんですよ、あれは。
やろうとしていることは同じなんですよ。その時その場で、つまり今ここで、最も適切でふさわしい、集中するべきタスクが上がってくるというのを目指しているわけです。それに没頭すればいいだけじゃないですか、あとはね。
それはどんなToDoリストでも、どんなそれこそGTDであろうと、マニアナであろうと、やろうとしていることは全部同じなんですよ。こいつが上がってくればいいわけです。そしたらそれをやればいいから。それに100%集中、書いてありますよ、GTDのホームページに、一つのタスクに100%の集中ができる、そういう状態を実現します。つまりそれを目指しているってことですよね。
で、もちろんタスクシュートも目指していて、私はタスクシュートはそれがかなり自然にできるようになっていると思うんですね。今朝もそうでした。起きてしばらくしてゴニャゴニャやっているうちに、娘を駅に送るというタスクが上がってくると。もうあのタイミングでそれ以外の選択肢は一切ありえないですよ。やらないとなったら、なんだそれってことに周りもなるし、自分もなりますね。そしてみんななるでしょ。
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そういうふうにして私たちの行動というのはある意味規定されていて、私はここで規定と言いたくなるんですけど、規則の木に定めるですね。規定されていて、その連続に近いところがあるんですよ。それはちょっと自由がなさすぎるっておっしゃる人はいて、ここでまだややこしい議論が始まりやすいんですけどね。
でも自由になった時にでも、それをやるんだったら、それが結局自由ってことではないでしょうかと言うような言い方しかできないんですよね。つまり自由であったって私は多分娘を車で送るよなと。それは自由とは言わないのかと。一択だったら自由とは言えないのかという議論は実はGTDにもちゃんと僕はあると思っているんですよね。自由と気まぐれは違うと思うんですよ。
まあ気まぐれを許す自由ってのはあるかもしれませんけれども、まあでもね、あそこでやっぱり、いやーもう今日は運転することはできるし、ここで運転するのがベストで、それ一択なのは分かってるけど、運転しないでテレビ見るわ、じゃあね。これはですね、精神病水準だなって思ってしまいますね、ある意味では。
まあもうそういうキャラクターの人もいますけど、だからこういう時にはキャラクターも関わってきますよね。ありとあらゆるものが一つの方向性を支持する瞬間が来るんですよ。来るという意味では必ずタスクシュート使ってると来るんだけど、この時やりたくないっていう日も来るんですよ。
この、送迎とかは僕はないけれども、あるんですよやっぱり。これか、でもこれしか絶対ないな、でもこれやりたくないなっていうね。じゃあ寝たいのかというと別に寝たいわけでもない。おなじみのファン座かというと別にファン座ってわけではさらさらない。ただこれをしたくはない、でもこれをやるしかない。このタイミングがやってきますよと。
これも遠からずやってきますよと。その時サンチャレを思い出してねっていうのが僕が言いたいことなんだけれども、サンチャレはダメです、嫌です、高いですっていうことであればですね、精神分析を思い出しましょうとしか言いようがない。ここで僕は行動科学を思い出しても多分、何らかの理由で人間はそれを拒否すると思っているんですね。自分の経験からね。
そこを拒否せずに無理やりやると精神分析のむしろお世話にならなければならなくなるんではないだろうかというのが最近の私が言っていることなんですね。すごくわかりやすいところで言うと、Sが抵抗しているってやつですよ。例えばトイレに行きたいとかね。だったらトイレに行けばいいんだけど、Sはそこまでわかりやすい表現をもう取れない時があるんですよ。
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僕はこれをヒステリーと言いたくなってくるんですけれども、用語的にあれだというのであればですね、でもこれ身体勢乖離って言ってしまったらなんだかもう本当にこうね、何かの述語みたいになってしまうじゃないですか。専門用語なんでしょうけれども、ヒステリーでいいんじゃないのっていうふうに特に男性には言いたいですね。男性のヒステリー。
なんならば人魔神と言ったらいいですよ。身体勢乖離っていうのは結局身体化ってことで行動化もあくむんじゃないかと僕は思うんだけれど、そこをスペクトラムをきっちり切り分けるっていうのは医者でなければあまり意味がないんじゃないかとは思うんですけど、何かくやりたくない。そのやりたくないという気持ちを誰かに訴えたいんですよ。
そこには様々な事情があるんですよ。ただこれを訴えられないなら私はそんなにもう今これをやってられないみたいなね、あるんですよ。そういう非常にその人にとって理不尽だと思っている何かってのがね、あります。私だってあるわけですよやっぱり。もうここで実家に帰らなければならないのはなんでだと。帰ったところで何一つ進展しないのにここで実家に帰って何になるんだ。
でもここは実家に帰る一択のようになってるんだよね現実は。そして私のキャラクターとも合っている。私は実家にいやもう二度と帰らないからっていうそういうキャラクターじゃない。そういう親子関係ではなかった。ただもうここは本当にないっていう感じがする。
現実に帰ってみてもやっぱり本当にないなって感じがする。そういう時に訴える席がないですよね。帰りたくないんだよねと誰かに言っても理解されない。さっきのあれですよ。ここで娘を送るのに嫌だわみたいなのを娘に言ってすらなんでも私の話は概ね納得してくれますが、あの瞬間にそれを言ったら理解されないでしょうね。こういうシチュエーションってあるんですよ世の中に。
ここでいや報酬がある行動を取りましょうって言ったって無駄だって僕は思うんですよね。むしろ逆ですよ。だから嫌なんだよって言いたくなるんですよね。そこには認知的不協和っていう言葉を使ってもいいような、なんかこう独特なものがあるんですよ。天の弱って言われればそうなんですけれども。違うな。天の弱っていうのはもっと僕には軽いマイルドなものだと思いますね。そうではないんですよやっぱり。
昨日たまたま出たからね、この言葉も僕もあんまりこの人も使いたくなさそうで僕も使いたくない言葉なんだけど、リスカってあるじゃないですか。こういう表現にしておきますね。あれなんですね。自称行為ってのはやっぱりコミュニケーションなんだと思うんですね。
これを見ろ。私はこれをしたくないんだっていうこの表現なんですよ。税務署の申告なんてしたくないんだとか。さまざまあります。その人その人の事情なんです。いや簡単じゃんとかそういう話ではないんですよ。私はこれをしたくないんです。ただそれを言っても伝わらないんですよ。なんでっていう話になって終わってしまう。
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現にそうやって終わらされてきたことも何度も何度もあるはずなんですね。だから伝えたく伝えるためにはもはや行動に出るしかない。これを行動化と言うんです。この場合の行動はあまり適切な行動ではない。何かやや突拍子もなく人はちょっとギョッとする。ギョッとさせるのが目的ですからね。
事象なんてまさにそうじゃないですか。なんで事象するっていう風になっちゃうじゃないですか。この問いが欲しいんですよむしろ。なぜあなたはそんなことをするのかと聞かれて初めて実はって言える。このきっかけになるようなものを何か作り出したいっていう時に私のような人間はなぜか皮膚病を作り出してしまう。この時ベータ要素は満載になっているっていう話になってくるわけですね。
これじゃあタスクシュートの説明としては花々不十分だとは思います。ただみんな心当たりはあるはずです。なぜこんなことがタスクでいつまでたっても進展しないんだろうみたいなね。あるいは間違いなく今これをやるべきなのに全然違うことをやっちゃってるとかそういった時に間違いなく私は無意識というところに何かがある。2つあると思うんですね。
1つはSが非常に強い抵抗を示している。それが発生するとほぼ同時にタスクシュートを使うような人は特に長寿が事故、自罰に走り始める。あるいは状況を罵し始める。つまりかなり原始的な長寿が、いややれよと。やらなくてどうするんだっていう当然出てきますよね。それはね。親のような態度で、うむを言わさずやれ。
それをうむを言わずにやり続けてきたから、今こうなってるんじゃないかっていう声がどこからかしてくるんですよ。それを自分の不条理な状態として誰かに伝えたい。おそらく伝える相手は誰もいないって時にポコッとね。私の場合はね。皮膚から特にこうえぐいところにポコッと現れる。これを見た自分というものがどうするんだっていう問いに突きつけられるわけですね。直面しなければ。
ならなくなる。タスクシュートから目がそれると言ってもいいのかもしれないんですけどね。そのリストを見るのはもうごめんだってことですよね。
自分はこう言ってもいいかもしれませんね。機械じゃないんだよってことですよね。
かわいはようさんが昔、兄弟の最終講義で言っていた。月までボタン一つでロケットを飛ばせるのに、なぜうちの子供は2キロ先の学校に行くことすら、ていうか、なぜうちの息子を私たちはこんなに一生懸命頑張ってわずか1キロ先の学校まで行かせることもできないんだって言ったわけですよね。
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かわいはようさんが、それはお子さんはミサイルじゃなくて生きているからですってこれですよ。この感じがあるんですよ。
あの力道の世界に。まあ力道だけではないと思うんですけど、ある種常識だとは思うんですけどね。だから不登校っていうのは周りから見ると、なんでって感じがするじゃないですか。
そして理由を大体聞くじゃないですか。にじめられてるの。勉強難しいの。いや勉強は簡単。こうして、いとも簡単に私たちは糸口を見失うんですよ。でもその子はいけないっていうことが起こってるわけですよ。
だからやっぱり何か訴えたいことがあるはずなんですよ。そして訴えたいことというのが意外とですね、訴えられる側の最も重要なウィークポイントみたいなやつだったりするわけですよね。
例えば非常に有名でわかりやすいところで言うと、僕が学校に行ってる間にお父さんとお母さん喧嘩して別れちゃうんじゃないっていうような話ですよね。
これはお父さんとお母さんの問題というものがその子の口を通じて出てきているっていう話ですよね。話はもっと複雑なケースの方が多いんで、そんなに簡単にシャロコームズみたいにですね、理由と原因が明快になったりはしないんですよ。
ましてやタスクシュートでのリストに上がってきているこの自明のものをやりたくないという気持ちはですね、一人一人全然全く違うんで、例えばですけれどもこのままタスクが全部順調に終わったら、
何でもいいですよ、J松崎かでもいいし佐々木翔はでもいいけど、喜ぶ、あいつら喜ぶよなと。だから終わらせたくないっていうような心理が働く人がこれぐらいタスクシュートユーザーが増えてくれば、いらっしゃってももう不思議だとは思わない。
あいつらがこれを羨望というんだと僕はもう嫉妬ではないかな。我々に嫉妬してるとかではないんですよ、これは。あいつらがしくじるか苦しむっていうのを見たいみたいな心理が働いたときに、このタスクを実行しないということが何よりも良いことのように思えてくるみたいなね、複雑じゃないですか、この辺になってくると。
本人のメリットはどこにもないので、行動科学的では全くないんですよ。我々がそれによって、知覚しなければ苦しむところまですら行かないです。だから、やらないということが相手の苦しみになるはずだっていうのは、実は心の機能の話に似てくる。心の内と外の瞬別が曖昧になってきているってことです。
私の心で起こっていることは、みんな現実として知るはずだ、いびつな一つ意識みたいな感じになるんですけれども、そういうような心理状態っていうのがあるわけですよ。クラインが羨望って言ったやつですね。嫉妬であれば、私の方が好きなんだから私の方を向いてよなんだけど、羨望の場合は、あなたは立派だから叩き壊してやりたいみたいな、これもある種の嫉妬なのかもしれないけれども、
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話が厄介になってきているっていうところありますよね。でもこれはよくある気持ちだと思うんですよ。他人の業績が妬ましいと言っておきながら、その業績を取った人がとにかく転落すれば嬉しいみたいな心理って人間には不思議とあるんですよね。
俺がノーベル賞を取るはずだったのに、あいつが取って村上が取って許せないんだったら、これはまだだいぶ健全なんですよ。一応健全な方向に向かっている感じがあるから。あのノーベル賞を取った村上がスキャンダルでまみれてしまえば俺はとても幸せだった。もうこれ全然健全性がないんですね。ただただ破壊衝動になっている。でも人にはこういうところもあるって。
それこそ分析の世界で、僕はこの言葉は使わないですけど、死衝動、タナトスみたいなやつですよね。とにかく破壊さえすればいいみたいな。そういう衝動って持っているところがありますんで、そうなってくるとそういうのがもう前面に出てくればですね、タスクリストなんて一個も進行しなくて何も不思議はないわけです。
で、私は、私が、でも一番タスクというものを前にした時に一番問題にしたいのはこういうことばかりなんですよ。本集があればタスクを実行できるっていうような話であれば別に全然それでいけばいいと全く思うんですよ。自然の話です。
この原稿を書き上がれば、週のオンラインの原稿とかで1本6000円もらえるんだよ。だから書くんです。いいじゃないですか。それでいいんですよ。何ら問題はない。そういうことではないんですよね。例えばお金に本当に困っていて、これをやるというのを引き受けてしまっていて、しかもその仕事は嫌じゃなくて。で、これをやれば20万手に入るんだけど一個にやる気が湧かないとかね。非常に抑圧的なものですよね。何かしら。
何か喪失している感じ、あるいは喪失することを予期して大変恐れている感じ。そういったものがなくはないですよね。多くの人に多分。私先日カウンセリングのところで言われたんですよ。
物を書くというのはリスクが大きいんじゃないのか。要するに私のようにリスクを回避型の人生を送ってきた人間が、よく物書きなんかになったよねっていう。これは窯をかけられたような問いだったんですけど、全くその通りだなと思ったんですよ。そこからの話の展開は面白かったんですけれども、今日は長くなるし、全部喋ってもあんまり面白い話ではない。
僕が喋っている区切りは自分は面白くても、聞いている人が面白いかどうかは何とも言えないような話だったんですけれども、非常に展開はしました。そういうところに起こるんですよね。物書きにはなりたかったわけだから、原稿を書くというタスクは一見非常によほど追い詰められてでもいない限り進みそうなもんですが、意外と全く進まないタイミングがかつてきたことが確かにあったっていうのをそういう時に思い出させられるわけです。
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そういうことです。