2023-09-29 42:37

精神分析と行動療法【GMV852】

相入れないけど目標は同じ。

サマリー

二宮さんが30度というのは、まあ暑い日ですね。昔、私は朝霞の小学校に通っていて、その時の運動会はかなり大規模でした。とても盛り上がっていて、半袖の体操着を着ていると肌寒く感じていました。それが10月の多分初旬のことでした。今はもう長袖を着るなんてナンセンスですね。 精神分析と行動療法について、詳しく話し合われています。精神分析の特徴や目標についても言及しています。 精神分析と行動療法を通じて、上司との関係や会社への不登校など、問題解決を図る方法について考察しています。 過去にとらわれすぎることに関しては、精神分析と行動療法は同じ意見であると考えられます。

現在の気温
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
9月29日の金曜日、朝8時13分ですね。
やっとこの日が来たというか、それにしても9月終わろうというのに、まだ今日の最高気温30度、二宮が30度というのは、まあ暑い日ですよ。
二宮ってだいたい、引っ越してきた頃は8月の真ん中で31、2度っていう地域で、東京より3度低いぐらいな感じだったんですよね。
二宮が30度ってことは東京33度ぐらいまで行く日が多くて、これが10月に入ろうとしているのに東京33度ってのはやっぱり…
昔私、朝霞の小学校にいて、あの時の運動会っていうのがなかなか大きくやるやつでしてね、盛り上がってたんですけど、半袖の体操着着てると肌寒いなっていう感じがいつもしてたんですよね。
それが10月の多分初旬の話なんですよ。今はもう長袖着るとかナンセンスですね。
外を歩いてたら熱中症になるだろうっていうぐらいまだ暑いですもんね。これは驚きですよね。すごい違う感じがします。その頃と比べればね。
その頃って僕が小学生なんで、40年ぐらい前ってことになっちゃうんですけど、この40年で気候は明らかに変わったなとは思いますね。
半袖でしたよ、運動会は。運動会ですからね。私はいわゆるちょっとムカ古い言葉で言うとティーチャーズペットっぽいところになった小学生なんで、それはちょっと言い過ぎか。
でも当然運動会とかでも運動大会実行委員とかやってるから寒いんですよ。事務仕事やっちゃってるからね、完全に。運動会なのに。
だから半袖だとちょっと寒いなっていうのをずっと感じてた記憶があるんですけど、これはもう全然違いますよね。
まあでも元気にいきましょうと。別にこのぐらいなら過ごせるじゃないですか。これ以上暑くなるのちょっと本当に世界的に考えましょうみたいに思うけど、ここまでならなんとかね、なんとか頑張れる感じもしなくはない。
真夏だと思えばこのぐらいにはなりますからね。季節感が狂ってるだけで。
今日ですね、さっきも言いましたけど上板橋でセミナーやります。上板橋でですね、今日の19時からですね、オンラインも受け付けていて、オンラインでお申し込みいただいておけば後日参加でも動画は見られます。
ご質問いただけなくなりますけどね、その場合は。
今日のお昼まで受け付けます。お昼までというのは午前中ということです。
厳密にはPTXというところでね、どこで正確な時間通りにはならないですみたいなのが書いてあったりするんで、前後5分ぐらいはもうちょっと勘弁してください。
とりあえずPTXで午前中受け付けております。
あとはもう機会任せなんで、もし急に行きたくなったとか、今日都合が良ければ行くつもりだったといった方はですね、なるべく早い段階で、現在が8時ですから、あと4時間ぐらいでね。
オフラインのリアル参加もあと1名で締め切らせていただくことにしておりますので、今日はですね。
なるべくそっちも含めてですね、夕方とかになっても、もう私移動中とかになっちゃうんで、ちょっと対応しかねる可能性がありますので、
それでも来たいという方はですね、連絡いただければできるだけ対応しますけど、午前中の方が確実です。
オンラインはあとまだ多分5、6枠はあったと思うので、オンラインに枠付けるなよって話もなくもないかもしれませんが、
一応これ動画配信じゃない形になるので、ご質問は参加した方には是非、ご希望であればですけど、していただければと思っているので、
ちょっと人数も100とかそういう感じでやるものではないと思いますので、
今日は東羅県のベックさんという方と、あと今日の会場を貸していただく方の関係者でエフタさんという方も、
参加者側という感じでエフタさんは参加してくださるようですけれども、そういった流れになっております。
親子関係と経済的自立
精神分析的心理療法科の山崎隆さんをお招きします。
ということで、それなりに来ていただくことになり、
かろうじて数円の黒字かぐらいな感じの黒字に計算上はなりつつあって、大変ありがたいんですけど、
数円の黒字だろうな、僕の食事代は出ないかもなぐらいな勢いですけれども、
別に僕の食事代とか、自腹で飯食いに行ったと思えば全然いいんで、
本当に10円の黒字になっている計算じゃない気がするんですよね。
7円ぐらいだったような気がするんですけど、
この状況でも黒になったということがめでたいと。
本当はもうちょっと形にならないと格好をつかないだろうって思わなくはないんですけどね、
そういうのもなくはないんですよ。グッドワイブス的ではないですけどね。
格好をつかないみたいなのは全く考えないわけじゃないんですけどね、私でも。
でも、性分もありますからね、赤じゃなきゃいいやって言うと。
これ面白いことに、ここで名前出してはいけないのかもしれないけど、
一般公演で聞いた話ですから、私時々ご一緒させていただく仕事でね、
三崎栄一郎さんという割と有名な、昔はスーパーサラリーマンみたいな顔で、
いっぱい洗剤売れましたみたいな、そういう話を伺ったことがある方で働いてたんですけど、
いや私はイベントとか大きめの仕事では黒なら全部やるっていう感覚ですみたいな、
赤か黒かしか考えません。で、赤だったらやっぱり考えなきゃまずいだろうと思うけど、
黒ならそれでいいと思っているっていう話を伺っていて、
僕なんかよりは全然ビジネスセンスとかはカチッとされた方なんですけれども、
でもやっぱり割とそういうもんだんだなっていうのを聞いて安心した。
それはもう数年前なんで、今も同じか知りませんが、
九州で一緒に講演させていただいた時に、
彼がそうおっしゃってるのを九州で言ってるのを聞いて、
福岡かな、そういうもんなんだなって僕は思ってですね、
割と僕は赤でもやっちゃってることが多々あるものの、
黒ならやるっていうぐらいでもいいんだなっていうのをすごく感じたんですよね。
僕はもっと彼は、やっぱり少なくとも二桁万円ぐらいに行かないとダメだよって思っていらっしゃって、
内視はそうかもしれないですけどね。
でも福岡の300人ぐらい聞いてる中でそういう話があったから、
割と僕はそれ以来すっかりその考え方に甘えるようになったわけですよ。
黒ならいいだろうと、数円とかでもね。
そういう発想に、当時からそうだったんだけど、
つまり黒にできない時の言い訳に使う格好にも多々なってきているわけですけれども、
まあまあ赤じゃなきゃいいんだっていうね。
それで信長だったら亡くなっているような年齢まで来たから、
それでいいんじゃないかぐらいに、最近は思うようになってきました。
僕はスコープルスの辺が雑っちゃ雑なんですよ。
昔半ば実家で仕事をしてた頃なんで、
実家にいて親が文句言わない程度に稼いでりゃいいだろうぐらいな感じで、
それ30歳過ぎてからの話ですからね、思ってましたし。
それである方、ブログでですね、割とよく知っている方がですね、
親に金借りることもできるが、あえてはダメだみたいなのを書いていて、
そういう風に考えたらダメかなと思ってたんだけど、と言いつつ僕は全然、
実家にべったりで娘に買うものとかをですね、
親が買ってくれる限りはすごいラッキーだぐらいに思っていたんで、
金をダイレクトで借りるっていうことはあんまなかったんですけど、
それにしてもですね、ほとんど生活の面倒は見てもらっているぐらいの勢いであったわけですね。
本書いていてですからね、これね。
だからお金に関しては非常にダメなんですよね、はっきり言って。
ようやく少なくとも親に借りなくても、
とはいえ、家買うときはすっごい手伝ってもらったりもしてますからね、
金銭的な意味では。事務的な意味では別に手伝ってもらってないけど。
ようやくちゃんと自分だけで一応生計を立てられるかなっていう感じになってきたのは、
40歳過ぎてからですね。
なってから10年ぐらいしか、しかもそれがコロナの危機で超やばかったっていう時期もあって、
数年ですね、10年行ってないな。
経済的になんとなく自立できるみたいな。
僕はこの自立って言葉が大変うさぐさいって思うように最近やっぱりなったんですよね。
すごいお金の流れというものは、
20代の頃にイメージしていたものと全然違うんだなっていう感じがして、
ああいうのにこだわることも時には必要なんでしょうけれども、
お金、金銭的に自立しているから、
自分一人で生きているよっていう感じを感じるっていうのはやっぱり、
僕の感じですよ、これはね。
僕が自分について考えてたところで言うとすこぶる若かったなって感じがします。
今ならまずそういう発想を取ることはしないですね。
自分、娘持ちになってからつくづくそれを思ったんですよね。
この子が経済的にだけ独立するっていうことにどのくらい意味があるだろうって考えると、
全く親が考えることと子どもが考えることって違うだろうなと。
どっちが正しいってことはないですけどね。
違うってことだけは確実に違うなっていう感じがする。
実にありふれた、ありふれた言葉になっちゃいますけどね。
助け合うって大事だよねって感じですよね。
だってこれで親から自立していて、経済的に自立しているから、
もう実家のことは知りませんってわけにはいかないじゃないですか。
年々それもいかなくなってくるわけですよ。
これからの時代は親もすっごい長生きする可能性もあるわけだから、
もしかすると100とか100とかになってくると、
私だって70を大きく過ぎていくわけですから、
すごい考えなきゃいけないことがいっぱいあるわけですよね。
妻の実家も含めて、我々の世代はそうでなくて、
少子っていうだけあって、明らかに上の世代より、
親類とか含めると激減してるんで、本当に激減してるなと。
妻の親類数字って本当に多いんですよ。
親類でどっか仲いいみたいだから出かけるとなると、
今ではあんまできないですけど、
バス1台借りるとちょうどいいぐらいになっちゃうみたいな。
我々のいとことかの世代で含めると、
もうバスなんか論外ですよね。
そして私の子供の世代のいとことか親類数字って話になってくると、
もういるんだろうかみたいな。
一方違うと天外孤独みたいになりかねない。
すごい逆三角形が激しいなって感じがする。
これで経済的なことだけで自立されても、
結構あれじゃないですか。
残った老人どうすんだよみたいなね。
そういうのが自分のことではないですよ、これは。
自分の上の世代も含めて、まだなくなってないわけですからね。
こういう言い方はしちゃうとあれですけれども、
やっぱ考えてかなきゃならないわけですよね。
その人たちが稼げるかっていうと、
稼げないからっていう話になっちゃうじゃないですか。
そういうの考えていくと、
でもこの経済の自立だけで物事を考えるというのは、
早茂だなって感じがしますよね。
この話多分ね、なぜ今こんな話をしてるかというと、
最近奈良山節校という本を繰り返し読んでですね、
あれウバステ山の話なんですよね。
実に小説家っていうのは上手いなって、
掛け上げ軸というものを倉園さんと9期もやるようになって、
作家の文章の上手さっていうのを
つくづく感じさせられるようになって、
何度も読んでいてすっごい怖い話なんですよ、本当に。
もう全然グッドファイブスが頭から飛んじゃうような。
でもこれフィクションなんですけどね。
しかもこれは意外にこうとかつけているけれども、
いわゆるこう、何ていうのかな、
事実交渉的なものではないみたいなことがどっかに書かれていて、
やっぱりそういうものなんだなと思うんですけど。
それでもウバステ山の話ですからね。
実に過酷な話なわけですよ。
ここでもですね、また割と感じさせられるのは、
でもこの話って一番何が大事って話をしているかというと、
グッドファイブスなんですよね。
精神分析と行動療法の違い
甘えと言ってもいいんだけど、日本的だから。
甘えは大事だよねって話なんですよ、これはね。
で、僕後から後書きで読んでかなり驚いたんですけど、
著者はですね、捨てられるのはおばあさんなんですけど、
このおばあさんはキリストでもあり釈迦でもあるって言うんですよね。
すごいなって思ったんですよね。
僕はこれは、言うならば甘えが宗教的な意味を持ち始めるところの話だって思って読んだんだけど、
そうなんですけども、それでもキリストだ、釈迦だみたいになっちゃう。
しかもキリスト見釈迦って何よっていうぐらいの話なんですけど、
だからそうか、最後はこういう締めになってんだみたいな感じを読んでですね。
やっぱりなんだかんだこれは甘えでありグッドファイブスなんですよね。
まあそこまでいけないですけどね、甘えと言っても。
そうなんだろうな、自己犠牲の極致みたいな話なんですよ。
自分が捨てられる側のおばあさん、おりんっていうおばあさんなんですけど、
この話するつもりなかったんだけど、おりんっておばあさんなんですけど、
捨てられるんだけど、早く捨てればいいのにって感じなんですよね、このおばあさんは。
息子は本当に気が優しすぎて困ったもんだって思ってるわけですよ。
私を早く捨てないとこれからの先の人たち困るだろうにっていうことで、
イライラしてるっていう雰囲気から始まる話なんです。
それでいよいよ捨てられる時っていうのに非常に宗教的な雰囲気がまとわれていくと。
それでなんとか捨てた、捨てた側の息子はものすごい罪悪感があるんだけど、
なんとかそのおばあさんがまとった宗教的な雰囲気に救われた感じがするっていうのと、
全くそれと同時に捨てた一家がいるんだけど、そっちは全く救われてない感じがして、
この対比でなんとか保ったって感じがする話なんですよね。
うちの娘も読んだんだけど、うちの娘に言わせると、
怖すぎて全く救いようがないっていうことになっちゃうんですけど、
それも妥当な感じはするんですけど、
宗教的には救われてるかな、義理な感じ。義理な感じを狙うから小説なんですけどね。
それにしても文章うまいなって思いましたね。
こういう話って普通に書いたら本当にいろんな意味で救いようのない感じになっちゃうと思うんですけど、
ちゃんとそういう狙った効果が出てるんで、びっくりでした。
だからといっておすすめだって本じゃないですけどね。
七山武士校という。どうしても気になったら読んでみてもいいかも、ぐらいな感じですね。
あそこまでは今のところ何かで喋ろうという気にはなかなかならない。
喋っちゃいましたけどね今日ね、たまたま。
今日はこれから山崎さんともお話しするから、
今考えてるあたりを喋りたいわけだったんですけどね。
昨日もちょっと打ち合わせで割とこう説明したんですけど、
なんで精神分析的心理療法なんて言わなきゃならないのかっていうと、
やっぱりこれは一言で言うと精神分析というものに対する遠慮があるんだと思うんですね。
精神分析的心理療法を山崎さんはPOSTとPはアナライティックだと思うんでね。
Oはオリジネイティックですね。精神分析に寄層をいくサポーティブな心理療法。
サポーティブセラピーでPOST。
で、やってることはですね、僕の目から見てしまうと、
いやそれは精神分析でしょう?になるんだけど、精神分析の定義に反れてしまって、
つまり週4できてない。
なんでそもそも週4もやらなきゃいけないのかということになるわけですよね。
週1でいいじゃん。週1だって多いくらいですよね。
でもまあ週1でもいいじゃんと考えるんですよ、普通はね。
ちょっと本の中で遠畑さんが最後に少し後書きだかエッセイだかよくわかんないようなものをつけてるんですけど、
その中で精神分析でよくないみたいな言葉がチラッと書かれていて、やっぱり言っちゃうなーみたいに思うんですけど、
精神分析ってわかりにくいんですが、何から将棋とか寿司とかに例えられるんですけど、
特に寿司がいいかな。
でもまあ何が言いたいかというと、何て言うんですかね、舞台が失礼られてるわけです。
寿司ってそうじゃないですか。お寿司屋さんって高いところ行くとね、行ったこと僕ないですけど、
高いところ、銀座の寿司屋とか行くと、雰囲気ってありますよね。
その入った瞬間にこういう風になって、こう座って、こう食べなきゃいけないみたいな。
あのカタックルしいやつね。あれが必須だって考え方が多分精神分析にはあるわけです。
構造って言い方するんです。脳とかもそうじゃないですか。なんかあるわけですよね。
僕全然詳しくないからあれですけど、真四角で、端っこはここで、みたいな。
そういう舞台の形みたいな。茶室とかもそうですよね。
日本人こういうの好きですよね、結構ね。
精神分析もそういうものなんですよ。
ちょっとした構造がある。何でかっていうと、意外とこれがね、脳と近いんですよね。
あれは舞台だからなんですね。
舞台だからっていうのは何をするところかっていうと、演じをするところです。
演劇するところ。つまり精神分析っていうのは、演劇と見立てている部分があるわけです。
演劇とイコールではないですけどね。
だから、これも非常に誤解されてるんですけど、精神分析科っていうのはですね、
自己開示をしちゃいけないんですよ、あんまり。
自己開示って何かっていうと、私はこういう生まれで、こういう育ち方をして、
こういう幼少期を過ごしてみたいなことをあんまり言っちゃいけないんですよ、冒頭の段階から患者さんに。
最後まで言っちゃいけないのかもしれないですね。
何でか、公演しにくくなるからですね。
演劇するということは、その人が何者であるかは邪魔なんですよ。
そうですよね。
すごいドラマの中で、清純で、古いですけど、古い感じの、いわゆる人妻なんだけれども、絶対言い訳はしないみたいな、
そういう役柄の人が、でもだんだん夏目漱石のそれからみたいなもんで、
だんだんどうしてもそれが、だんだん裏切らなきゃいけないみたいな葛藤をドラマで演じるみたいになったときに、
精神分析の特徴と目標
いや、実はあの女優さんはめちゃくちゃプリンばっかしてるんで、いつも文春とか書いてるよねみたいな、邪魔じゃないですか。
そんなことはよくあって、しかもそんなことは忘れられるんですけどね、見てる方は。
私はそういうのに詳しくもないし。
けど、ない方がいいですよね。
つまり、演技する人ってのは、見ている側にしてみれば空っぽの方がいいわけですよ。
そこに自分が見たいものを見られる。見やすいから。
放映しやすいから。
これを精神分析はほぼ同じことを言ってるわけですよね。
生きた患者さんが、自分の見たい人をそこに見る。
作りたい関係をそこに作り出す。
持ち込みたい悩みをここに持ち込む。
全部投影なわけですよ。
ここに投影というもの、関係そのもの。
むしろ、もう言ってしまうと、部屋そのものに投影を持ち込んでくるわけですよ。
そういうふうに見ると、あれでやってることの意味っていうのは実によくわかってくるんですよね。
本当にその人が、例えば上司にセクハラされている。
っていうかセクハラされたっていうことがあって、
人にそれも言えないと思うほどの悩みがあって。
これは別に女性とは限りませんもんね。
男性でも今は全然普通にあることだってことが明るみに出てきたわけじゃないですか。
それを伝えるとなったときに、もちろん相談だから言葉で伝えりゃいいんだけども、
そのことが大変辛くて口にも出せない。
あるいは記憶もおぼろげになってしまっているっていうこともあるわけで、
そのときにですね、その場を会社だと見立ててみる。
あなたちょっと上司役やってくださいよと、そういうこと言わないんですよね。
でもそういうふうにやってみる。
上司にこういうことをされて、ああいうことをされたというのを口では言えないが、
この場を借りて伝えていきたいと。
2人で共有していきたい。
そうすればあなたにも私がどんな目にあったのか、
地面だけじゃなくて、深いところで納得してもらえるでしょうと。
よく言うじゃないですか。
真のトラウマ体験みたいなのは言葉では語れないみたいに。
これも割とよく、本当にありふれた表現ですけど、
津波とかね、あるいは震災とか、それこそ戦争とか、
伝えられない。
でもこれを何としても伝えないと。
共有されないと。
共有されないということが私の辛さだということになってきたときに、
この週に4回も会う。
でも相手のことは何も知らない。
同じ場所で何度も会う。
同じ時間に何度も来るっていうような構造が非常に意味を持ってくるわけだと。
そういう考え方なんですね、きっと。
最終的に見るとプロイトが発明したこと。
だから手間暇かねかかるわけですよ。
だから残念ながら、なかなか開かれたものになる。
そもそも開いてないもんね。
この場所どこにあるのかも、なるべく秘密にしておいたほうがいい。
プライバシー大事ですから、こういう話になってくると。
そしてその精神分析の先生が何者であるかも知らないほうがいい。
ある意味めちゃくちゃ怪しい話になってくるじゃないですか。
一歩間違うと。
非常にやってる人の良心が問われるみたいな。
だから非常に閉じた世界で、
密執的なんですよね、ある意味では。
自分がどんな目にあったかも言いたくないと。
今やってますよね、そういう大物事務所で問題になってる話。
ずっと長らく密執だったわけじゃないですか。
精神分析の実践方法
ああいう話は他に相談するときも密執感が出るわけですよ。
みんな知ってたはずなのに、なぜ言わなかったみたいなこと。
今は問題になってますけど、言えないんですよね、やっぱりね。
いろんな事情が人はありますから。
社会生きだけのためには動いてないですからね。
やっぱりそういうふうにプライバシーも大事です。
しかも投影しなければなりません。
投影するという以上はですね、やっぱりその空間のもともと持ってる意味とかは
少しでも少ない方がいいわけですよ。
一条に極端なことを言うと、
名古屋城天守閣で精神分析はやりにくいってことですよ。
この場はどういう場であるかというのがあまりにも忌みづいてしまってるところに
投影はやりにくい。
不可能じゃないと思うんだけど、人間の想像力ってそういうところはありますからね。
でもやっぱりやりにくいわけですよ。
同じ相手に投影するのであれば、
無名の人の方が当然いいですよ。
目の前に大谷翔平さんがいます。
この人は私の奥さんであると投影しにくい。
しにくいですよ、明らかに。
どう考えたって。
やっぱり。
だから目の前の人は何者であるかを知らないと。
その場所がどこであるかもわからないと。
ここに怪しさがあるんだけどね。
ここが非常に難しいところですよね。
ここはどこだかわからない。
相手が誰だかもわからない。
よく考えてみると自分って何者かもわからない。
っていうところに入ってって、
しかも相手と顔を合わせず、目も合わせず、
自分一人だけがいるような空間に感じられる中で、
分析家の声だけがして、
しかもその分析家はアドバイスはしない。
介入も極力してこない。
あなたどうした方がいいですとかは言わない。
この時あなたはどうやらこう思ってるようですっていう
妙な解釈しかしてこない。
これをずっと週に4度もやって、
1年2年とやっていくと、
精神分析における再演
絶対微妙にすごい不思議な気分に
トランスって言えばいいのかな。
どんなにお芝居が下手で
自分の自我に固執してる人でも
解けてきちゃいますよね。
混乱では。
昔の上司との関係がそこにほぼ再現されますよね。
それにこだわってる。
まるでそこは会社にいるような気がしてきて、
会社の上司にこういうふうなことを言われたな
みたいなことが
有名だか現実だか分からないような中で
そこに持ち込まれてくるわけですよね。
そうすると分析家の人は
そんなことしたいとは思わないでしょうけど
いつしかあまりにそういう話を続けられているうちに
まるでババファハラス上司そのものになったような気になって
本当にそれっぽいことを言っちゃう。
もちろんこれは
基本的にはカウンセラーの立場としてはダメですよ。
ここに葛藤があるはずです。
でも上司だってダメですよね。
そこに葛藤はあったはずです。
こういうふうに葛藤まで含めて再演って言うんですかね。
エナクトメントって言葉まで出てくるんですけどもね。
精神分析では。
再演ってものが行われて
こんなことがあった。
まずここで一息つけますよね。
うまくいけばですけど。
うまく本当にいけばね。
一息つける可能性があると。
そしたら私は急にその人が泣いたり
すごい恥ずかしい気持ちになったりするってことも起こり得ますよね。
こうして少しずつ癒していくっていうのかな。
そういう発想なんですよ。
そしてこれは確かに取り扱いが難しいし
正直問題なのは
相談する側の立場に立つと
お金はかかるわ。時間はかかるわ。
仕事できないですよね。
週に4回もそんなことやってたら。
お金はかかる。時間もかかる。
やってることも怪しさいっぱいだ。
本当にそこで相手がセクハラしてきたらどうするんだと。
どうしようもない。そこがどこだ。
そこに通ってるってことも他の人は知らないだけで。
大変なことなんですよ。これは。
認知行動療法と行動療法の出現
だから難しい。そういう難しさが構造的に、原理的に持っちゃってるっていう
そういう糸並みっていうんですかね。話なわけです。
だから当然批判が出ます。
これをアメリカで流行ってたなんて気になる気がするじゃないですか。
どちらかというと物事はオープンで。
言うほどその通りではないにせよですね。
明るみに出し、民主的にやり。
エビデンス大事。そしてアセスメントも大事。
こういう世界の中で、全部反してますよね。
明るくない。密室である。
アセスメントもあるんだかないんだかよくわからないようなアセスメントで
診断基準とかね。どういう病気でとか。
関係あんまりないじゃないですか。
だいたい人の悩みに、いちいち全部病名が付くものなのかっていう話もありますからね。
そして何者かであるかも、自分の身分とかも明らかにして
どういう経過で治療を行っていくのかも、インフォームドコンセントですよね。
いつごろ、どのようにして、どんな根拠から治るのかも明らかにする。
どれ一つとして成立しないような世界。
当然、うまくいってる間はいいんですけど、精神分析は、やっぱり精神分析に借りませんが
アドバイスとか、アドバイスでもなんでもないですけど、今話した通りで。
でもこういうお悩み相談は、とちるわけですよね。
全部が全部うまくいくはずがないですよね。
とちると批判されるわけです。
その批判の旧戦法としていうのかな。
結果として一番その批判が、また同性を帯びていると多くの人に認識された結果、
今残ったというか、今主流になっているカウンセリングの技法は、認知行動療法ということになる。
これは当然、精神分析的心理療法とは、本来は今言ったような事情で、なかなか相性がよろしくないわけですね。
特にどこかというと、認知行動療法、今ではもう一つの単語になっちゃってますけど、
これは認知療法と行動療法の合体なんですね。
行動療法の方がやっぱり相性よくないですよね。
行動療法というのは、行動だけを見ましょうという考え方なわけです。
行動だけを見ましょうというのは、今言ったような悩みで、言葉で伝えられないものを、
ここの場を借りて共有していく、この場を借りて再現していく、再念していく、再演していく、
みたいな考え方とは全く違うわけですよね。
その結果としてその人に非社会的な行動が現れたら、それを言ってみれば修正していきましょうという考え方、
行動原理から、行動修正からですね、全てを捉えるわけですね。
だから会社に行けなくなりました。
どうも夜寝られない。朝だから起きられない。
会社に行けなくなっている。
どうもそれはアワハラとセクハラを受けたというようなことがあってからなんですよね、みたいな話をしても、
そうではなくて、問題は何かというと、会社に行けないことであるならば、
会社に行くという行動を繰り返せるようになろう、というのが行動療法の基礎中の基礎です。
これほど乱暴でもなければ、一方的でもないんですけど、今は。
でもベーシックなものはそこから来たんですよ。
いわゆるスキナーですよ、BFスキナーが考え出した、ネズミのレバー倒し。
つまりある報酬を設定された場合、その行動を繰り返す。
ある行動が繰り返せないような、いわゆる悪習慣って言うんですけどね。
行動は減らせばいい。
それはネガティブリワード。
つまり負の報酬ないし、正の罰。
正の罰ってのはあまり用いられなくなりましたけどね。
ポジティブパニシュメントを用いれば、レスポンデント、反応ですよね。
反応を減らすことができる。
つまりレバーを倒すと、チーズがもらえるからレバーを倒すんであって、
レバーを倒した瞬間電気ショックを与えられるようになればレバーを倒さなくなります。
この単純な原理を用いて、夜更かしとすれば、嫌なことがあれば夜更かしをしなくなるし、
タバコ吸うと気持ちが悪くなるようなタバコにすればタバコ吸わなくなります。
悪いとされる行動習慣を減らし、良いとされる行動習慣を増やしましょう。
これが行動両方です。
これを用いることで、会社に行けなくなるような悪い行動習慣というものを減らし、
会社により多く行けるようになるような多くのリワードを用意する。
すいません。
これで何をするかというと、何をしないかというとですね、
なんで行けなくなったかは問わない。
本当に腹があったから行けなくなったかなってわかんないじゃないですか。
わかんないじゃないかっていう言い方に近いですよね。
好きながってことではない。
好きなはそれに近かったらブラックボックスみたいな言い方をされていた。
心の中でそれがどう作用しているかが本当のことはわからないと。
それはそれでグッドワイブスみたいな言い方になりましたけど、だいぶ違うんでね。
フロイトがわかるかのように明らかにした無意識とかトラウマとか生じがとか、
そんなのがどこにあると言えるんでしょうかって感じなんですね。
これはこれで一理あるわけですよ。
それをエビデンス出しなさいと言われると困っちゃいますからね。
やっぱりね。
自我は意識上で働き、Sと長時間は無意識に近いところで働いているとか言って、
もうわけわかんない。
じゃあわけわかんないわけですよね。
長時間前頭炎にありますみたいなことを言い出した時代もあったんだけど、
それはナンセンスに近いと思うんですよね。
脳のどこに長時間があるとかはないわけですよ、そんなもの。
だからそんなあやふやなものに頼るのやめて、
明らかに目に見えている行動というものを見ていこうよってことですよね。
行動療法のベースは。
だから週に何回とかはあまり関係ないわけですね。
もちろんそのカウンセリングもするんだけど、
習慣の重要性と変化
ここで認知療法と行動療法が合流してくるポイントが出てくるんですけどね。
行動としてまず会社に行けるようになりましたか。
回数を数えましょうってことですね。
1日7日間、5日のうち、今回は1日行けたんですね。
1日行けた分だけ自分にご褒美をあげようと。
これを2日にしましょうと。
そこで何があったかとか、どういう心理状態になったせいでとか、
子供の頃何があったのか、そんなことは問わないということですね。
ただこれだけだとカウンセリングにはならないので、
とにかくある意味、覚悟と精神力みたいになっちゃいますね。
意志力と覚悟みたいな。
体育会系丸出しになっちゃう。
あれじゃないですか、結果を出せみたいなやつですよね。
とにかく言い訳はいいから、
3点シュート何回も出たかを数えろっていう話になっちゃうんで、
全然カウンセリングでもなんでもないし、
当然脱落していくんでこれだと。
ここに認知療法というものを入れるわけです。
ただこの認知療法というのは決してやっぱりですね、
トラウマが生んぬって話では全くないわけですよ。
認知療法というのは、ちょっとこれはですね、
でも行動療法よりはるかに心よりにはなるんだけれども、
僕は感じるんですけどね。
あなたの考え方の中に、
もうちょっと言うと考え方や口癖という習慣の中に、
会社から遠ざかっている要因があるんですと。
その認識の仕方を変えていきましょうと。
だからすごくですね、見ようによっては、
見ようによっては精神分析的診療法と確かに近くなっていくんですね。
ただ僕は決定的に違うことがいくつかあるなって思うんですけど、
今日はそういう話をするよりも、
ベースに行動療法、つまり習慣という考え方が根強くあるってことですね。
つまり習慣によって人は会社に行けたり行けなかったりするんだと。
これは確かにある程度そうなんだけれども、
私がすごく感じるのはですね、
会社に行くってことの方が大事かってことなんですよね、この場合。
どうしても認知行動療法にせよ何にせよ、
だからPOSTでも今回すごく話題の重点になったし、
確かに現実に人が相談をしてアドバイスなり何なりをするときは、
そこに焦点付けるしかほか、仕方ないんですよ。
例えば不登校であれば学校に行けるようになればいいってことなんだけど、
療科グッドバイブスでもそうは言わないだろうし、
精神分析でもそうは言わないし、
やっぱり意外とPOSTとかでもそうは言わないんじゃないかなっていう風に考えるように、
これ時代の変遷もあるんですけどね、なってきたんですよ。
学校に行く習慣をつけるっていうのは、確かにそれはいいんでしょうけれども、
それで行けるようになるかもしれないし、
相変わらず行けるようにならないかもしれないんだけど、
つまり僕はそう思うんですよね。
行けるようになるかならないかっていうのは、
そこまで大事なんだろうなって気がするんですよ。
認知行動療法もすごくやっぱり少しずつ少しずつ変化を遂げていって、
どんどんどんどん行動療法的ではなくなっているように僕には見えるんです。
特にCBTっていう風に頭文字を取るようになってからはですね、
まだまだ相変わらずベースは習慣においてますから。
だけど習慣ってものが、さっきも言いましたけれども、
リワードとパニシメントによって確かにコントロールされるでしょうけれども、
行けばいいことがあり、行かないと嫌なことがあれば
行くようになる人が多いでしょうけれども、
私にはですね、やっぱりそれは、
過去にとらわれすぎること
これも確かに認知期の問題なんだけれども、
トラウマの方が大事だろうって感じがしちゃうんですよ。
それがですね、要するに非常に俗っぽく言うと、
認知行動療法的に言うとですね、
過去にとらわれすぎているってことになるし、
そうなんですよ。ある面ではそれは精神分析の言い方としてもそうなんですよ。
究極的にここの点では両者の言い分一致しているなって僕もよく思うんです。
過去にとらわれすぎ。
だけれども、その過去の扱い方とすると、
精神分析というのは非常に丁寧であったなって思うんですよ。
このトラウマの状態がどういうもので、
どれぐらい共感できるものであるのかを、
何年もかけて、何日もかけて検討していくわけじゃないですか。
それが明らかにユーザーのニーズに合ってないということで、
合ってなければそれでいいと思うんですよね、私もね。
合ってないんだから。
問題は、合ってるケースもあるだろうということ。
そして、それは言うほど少ないと言えるか、
結局最後はそこに行きつくのかなって今しゃべってて思いました。
アドバイスして、そんな過去にとらわれなくてもいいじゃんっていう雰囲気の中で、
行動療法の薬物ケースによっては、
認知を変化させるということをうまいことやれるって話であればそれでいいんでしょう。
そのほうがいいんだっていう話が最近よく出てます。
けれども、意外に過去にこだわってるって人はいるわけで、
ここなんだと思うんですよね、やっぱりね。
これは意外に病理が重いとか軽いとは関係なく、
トラウマが厳しいとかそれほどでもないというのとは関係なく、
こだわるっていうことは起こるわけですよ。
私の感覚なんですよね、これはね。
どっちのほうがしっくりくるかなっていうと、
行動療法のほうはどうしてもしっくりこなかったんですよ。
行動を変えるっていうのはできるんですけれども、
そうするとなんかですね、自分の心身というのかな、
心と体の中で何かが断裂するというのか分裂するというのか、
行動をしている上では、
例えば私がやってる上ではか、こう言ってるんだけど、
全く行きたいと思ってないとかね。
で、これもどう捉えるかがやっぱり性格によってしまうと思うんですよ。
本当に行きたくないと思ってて、
割と元気よく言っちゃってる。
それは、いいじゃん、それでっていう人から、
すっごい問題でしょ、それっていう人まで、
見方にもよるし、その時々の状況にもよってですね、
違うと思うんですよね。
で、すっごい問題でしょって思うと、やっぱり精神分析によっていくなって感じがするし、
いいじゃん、それでって言えば言うほど、行動療法によっていくなって感じがする。
どっちもありって言えばありなんですよ。
精神分析と行動療法の比較
ただどっちもありって言っとけば済むって言うほど、
簡単な話ではないんですね。
いいじゃん、いいところを取っていけばっていう風に、
最後落ち着きますよ、確かにね。
でもそれがまだまだできずにいる中で、
ポストって本が出てきたんだろうという風に私は思っているんですね。
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